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2018秋の高校演劇③ 大宮区地区発表会

 大宮地区は2年連続となった。組み合わせが変わったとはいえ、あまり望ましいことではないだろう。審査員の配置でやむにやまれぬ事情があったのだろうと察してもらうしかないが、私としては昨年からどんなふうに成長したかという楽しみがあったし、どちらかというと昨年は演劇部を楽しむというところに重点をおいた学校が多かった気がしたが、今年は渡された台本を読んだ段階から芝居づくりへの意気込みが違うぞ、という期待感が高まっていたのである。会場は西部文化センターである。

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 上尾高校『OUT OF CONTROL』大倉マヤ・作
 核戦争の危機に警鐘を鳴らすブラックコメディ。昔の映画だがキューブリックの『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』(1963)を思い出した。
 女子高校生に見立てられた核兵器たちを、明るく、パワフルに造形することで題名の持つ真の怖さが伝わってくる、と漠然と考えていた。ト書きにはセーラー服とあったが、そんなものは無視して、デザインだけ揃え、それぞれ色とりどりのスカートとスカーフにでもすればいいのに、と考えていたら、白のTシャツ状の上衣に自作のセーラーカラーをつけて制服に仕立てていた。ただし、襟と袖口のラインとリボンにはそれぞれの名前につながる色を選び、なかなか鮮やかに仕上がっていた。パフォーマンスもオーバーアクションを心がけているのが見て取れ、つい「いいぞいいぞ、それで合っているぞ」と心の中でつぶやいていた。
 「爆発するけどしない。核が平和を維持している。」という先生の論理は核抑止論である。それに対し、女子高校生たち(=実は核兵器)は「(私たちは)自分で生きていくってことを知ってしまった。」「私たちは爆発するために生まれてきた。」「爆発したい!」として、しだいに制御不能になっていく。
 北朝鮮で核弾頭の製造やミサイル実験に成功したりすると、唯一の被爆国である日本の政治家の中ですら核抑止論を唱える者が現れる。だが、本当に核兵器は抑止として機能するだけで使用されることはないのか、使用を前提としない兵器は兵器といえるのか?(だったら、何も北朝鮮の核だけを恐れる必然性はない。)
 現実には、核兵器は小型化や中性子爆弾の開発など、「使える」核兵器としての開発がすすめられてきた。この台本が書かれたレーガン米大統領の時代には迎撃態勢の体系化を前提に、核先制攻撃論まで吹聴された。過去の話ではない。今なおプーチンもトランプもことある毎に核の使用をほのめかしている。核抑止論・核均衡論は核戦争のしきいを限りなく下げているのである。
 台本が書かれたのは1990年。チェルノブイリの直後でもあるから、女子高校生たちの紹介の後、第二場は原発から漏れてくる放射能から逃れようとするゆりと和也が駆け込んでくるところからはじまる。ただし、核兵器との関連は必ずしも明確ではない。
 台本は生徒が選んで来たそうだ。内容をよく理解し、先に述べたように作戦も練りながら芝居づくりをしてきたことは伝わってくる。ただ、まだ行儀がよすぎたかも知れない。緊迫感にもうひとつ弱さがあったことや、核兵器としてではなく、女子高校生というところに感情移入してしまったらしきところがあり、その分、暴発にいたるまでのパワーが不足してしまった。
 そのあたりがもう一歩というところだったが、生徒が生き生きと、それでいてナイーブさを失わずにやっていたのが何よりではないのか? 顧問は(昨年も紹介したが)西部Aでご一緒したKさん。Kさんは生徒が自ら本来の力を伸ばしていくのを大切にする人なのである。
 演劇に時代性や政治性を持ち込むことを極端に避けようとする人々がいる。だが、時代に敏感に反応し、先んじてその本質を解き明かしていくのも演劇の大事な使命であると考えている。18歳選挙権の現代、高校生たちが社会問題にめざめ、考えを深めていこうとしているなら応援してやるのが大人の役目ではないか。台本の今日性は失われていない。何より掘り起こしを評価したい。

 上尾南高校『回転、または直進』福田成樹・作
 舞台はねじ商社「六甲鋲螺」の事務室。近所のネジ工場主を父に持つ女子高生チカにとって、そこは居心地のよい場所だった。中年の女性事務員オノはヌシ的存在。最近、営業部員として入社して来たサクラはまだ若いが転職組、新たに倉庫管理に採用されたサイトウも自衛隊にも在籍したことのある転職組である。2人とも新たな職場で生き甲斐を求めているようである。(以上、あらすじ)
 8月に台本を渡されたときから、よい台本だと思った。初見だったので調べてみると、初演は兵庫県立御影高校、2015年度近畿大会で創作脚本賞を受賞している。福田氏は兵庫高校時代にも創作脚本賞しているとのことだ。
 ドラマらしいことは何も起こらない。電話で注文を受け、営業から帰って在庫を確認する、苦情を受ければ延々と不良品を選別する。人々が生きる、働く、つながる世界なのである。チカは「ここ、うるさい親や兄弟がいっぱいおるみたいや。」という。「うっとうしい?」と聞かれ、チカは「ううん。わりと好き。」と答える。
 私の住んでいる地域は中小零細企業が立ち並ぶ工場地帯だった。町工場が何軒か残っていて、今もプレス機の音が聞こえてくる。私がよい台本だなあ、と感じたのは、どこか似たような環境が頭に思い描かれたせいかも知れない。しかし、それらの大小あった工場はほとんど撤退してしまった。大企業は生産拠点を海外に移してしまったし、国内に取り残された中小企業は外国製品の進出の煽りを受けて虫の息である。私が次に感じたのは、ユートピアのようだ、ということだった。関西弁とあいまって(兵庫の人にとっては日常語なのだろうが)日本のどこかに、今もこんな場所があるかも知れないと夢見させてくれているような気がした。バイト生活に明け暮れた若い人々に、安心して働ける場所を提供してくれるような。
 昨年も感じたが、きちんとした芝居づくりをする学校だと思った。様々な装置や効果、役づくりも正確で、作品世界を舞台化する力があった。内容やストーリー展開が地味なので、出だしからテンションを上げようとしたのか、ツカミのところで走ってしまい、科白が聞き取れなかったのが残念だった。
 チカ役の1年生は動きにキレがあった。オノ役の2年生には見覚えがあった。昨年の女子大生役から打って変わってベテラン事務員役についたが、雰囲気は作れていた。それだけに残念だという話なのだが、舞台上にそれぞれの立ち位置は見つけられたのではないだろうか?

 桶川高校『埼玉会館のはしの方』今井唯太・作(顧問創作)
 演劇部物。総会に出席して、改めて高校演劇に対する愛と意欲を再確認する。(以上、あらすじ)
 高演連総会をまるごと素材にしてしまえ、という人を食った台本。けっこう好きである。空間の移動、時間の経過とともに会話のあり方も変わって来るはず。そこをもっと丁寧に描いていけば各人の個性も生きて来ただろうし、心の変化にも説得力が生まれた。日常の一コマを切り取っただけのように見えて、再びは訪れないかけがえのない一日を描いた。

 岩槻高校『伝説の勇者の作りかた』八城悠・作
 コンピュータ・ゲームのキャラクターを登場させ、ストーリーとキャラクターを自ら作っていく。元の設定では迫力が足りなかったからだが、自分たちはヒーローを迎え撃つ〈悪〉の立場だから、完結することは自分たちが滅びることになるというアイロニーに脱力する。だが、ゲームが面白ければ繰り返して遊んでもらえることに気づき、またがんばろうと決意する。(以上、あらすじ)
 一幕ものにはなっているが、どうにも動きが作れない台本。あえて舞台化しようとするなら、世界観をどう構築するかだろうか。メイク、コスチューム、小道具・大道具、照明・音響を総動員する必要がある。努力は認めるが限界だった。各人なりの役づくりも認められるが、相互にかみ合うまでに至らなかった。最後に剣をふるって一人殺陣を繰り広げるところくらいはビシッと決めないとダメでしょう。

 大宮商業高校『水屑となる』春野片泰・作
 「もうこれからずっと一緒に帰れない。」「望ちゃん、私ね、考えるのやめたの!」と言い残して友達だった香澄は去って行った。(引っ越しだと理由を説明していたが、どうやらどこかへ収容されたらしいことが後から暗示される。)その香澄から渡された本を読むうちに、望の心にも変化が起こってくる。望が「何か、おかしくないですか?」の一言を発したとき、周囲の人間たちはみな驚愕する。(以上、あらすじ)
 「思想教育」が個を圧殺する、オーウェル『1984年』を彷彿させるような近未来物語。きちんと問題意識をもって取り組んでいることは理解出来る。ただ、台本に混乱や矛盾がある。一例として理生が殺人を犯すシーン。強烈な違和感があった。自らの意志を持つということと自らの欲望のままに生きるということとは違うはず。時間としては5分くらいだろうか、私だったらカットしてしまうだろう。オリジナリティの尊重はもっともだが、それだけの価値がある台本かどうか()、片言隻句も疎かにしないことが常に正しいかどうかの見極めも必要だと思うのである。まともにやってしまわない方が良かったのではないか。
 (潤色の場合には作者の許可がいる。上演許可を申請する際にお断りをして認めてもらったことが私にもある。部分のカットについては一切認めないという作家もいるが、そうでない場合にはテキストレジが行われるのは普通のことである。)
 (最初にアップしてから1日経ってしまったが、このままででは誤解を招きそうな表現だったので補足する。来年度から「道徳」が教科化されるという。人間が生きていく上で道徳が必要かどうかを問題にしているのではない。国家が人の心の中を支配しようとすることの是非を問うのである。そんな中で作者の「普通とは?常識とは?教育と洗脳の違いとは?をテーマに作りました」(ネットから)とする執筆意図、この台本を選んだ生徒たちの問題意識は大いに評価されるべきだと思っている。ただ、指摘した部分はそうした台本の意図そのものを壊してしまうのではないか、と(私は)考えたということだ。小森陽一他著『「ポスト真実」の世界をどう生きるか』を読んでいたら、歴史学的には史料的裏付けのない「江戸しぐさ」(傘をさして歩くときに、すれ違う人に当たらないように傾けた、等)がそのまま小学校高学年向けの「道徳」の教科書『私達の道徳』に載ってしまい、指摘を受けた文科省の担当官が「道徳の教科書は江戸しぐさの真偽を教えるものではない。…礼儀について考えてもらうのが趣旨だ」と回答したという記載があった。危機感を感じる。時代は動く。今、何が起ころうとしているのかに敏感であれ、と思う。)

 大宮高校『赤鬼』野田秀樹・作
 あらすじは紹介するまでもない。いろいろな劇団や演劇部が様々な工夫をしている。照明効果でスペースを切り取ったり、波を表現したり。舞台中央に2m四方ほどの山台(生だったが)をおき、小屋や洞窟、そして舟に見立てたのは成功していたのではないか。道具の出し入れで場面転換しようとするとスピード感は削がれてしまうし、煩雑な割に効果も上がらない。
 テキストレジは脚本解釈でもある。わりとすっきりとまとまっていたし、役者も熱演していたが、まだまだ絶望や祈り、狡猾さや愚劣さといった人間の根源に迫るには至らなかった。トンビは少しも「足りない」男のようには見えなかったし、「あの女」も村人から迫害され、世界に対する怒りや絶望を抱えているようには見えなかった。だが、壁に挑んでいった勇気は失って欲しくない。それだけの価値ある作品なのだから。

(私なりの「赤鬼」観は「2018年春季西部A地区演劇発表会」(2018.4)で述べた(赤鬼=まれびと説、あるいはアンパンマン説)。今回、その読み方についても紹介したが、絶対だとも思っていないし、押しつけることもしない。赤鬼の科白にI have a dreamというのがある。暗殺されたキング牧師が意識されているのは間違いないと思うのである。だからこそ、「あの女」は赤鬼の言葉が理解出来るようになったのである。つまり、「あの女」の絶望は赤鬼(人肉)を食ってしまったこと(のみ)にあるのではなく、人間が失ってはならないものを圧殺してしまったところにあるのだと思うのである。だが、そうしたものが一度でも存在したということは人間にとっての希望でもあると思うのだ。①で審査員も卒業と書いた。その気持ちには変化はないのだが、その分、今年は特に全霊をもって審査にあたったつもりである。このブログもそうした気持ちで書いた。この部分、後から。)


by yassall | 2018-10-11 15:32 | 高校演劇 | Comments(0)

2018秋の高校演劇② 東部南地区発表会

 10月6・7日に大宮地区発表会が開催され、今年のBブロックとしてのコンクールも終了した。2018秋の高校演劇①で予告したので、二つの地区発表会で上演された各校について感想をアップする。
 どういう順番にしたらよいか考えたが、それぞれの地区ごとに候補に上がった学校について最初に書き、その後、残りの各校について出演順に書くことにする。どうしても後者の方が簡単になってしまうかも知れないが、講評では均等を心がけたつもりでいるし、私が必要と考えた範囲での助言もしたつもりである。
 候補となったのは東部南地区では草加南、三郷北、獨協埼玉、草加、大宮地区では上尾、上尾南の各高校である。全部で6校になるが、6校中から2校を選ぶのではなく、東部南地区が終わった段階で暫定2校を選ばなくてはならない。
 今回は東部南地区でも、大宮地区に移ってからも、4校から2校に絞るのにかなり苦しんだ。それぞれに捨てがたいところがあり、それぞれに弱点があった。それらにも丁寧に触れなければならないと思い、このような順序になった。
  ※
 東部南地区発表会は9月15・16・17日の日程で開催された。会場は鷹野文化センターである。今年から春日部地区が分離し、3日間で14校の上演となった。

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 草加南高校『はなまぼろし』大谷駿雄・作
 1983年度の宇部大会に出場した山形・天童高校の出演作品。作者の後書きでは山形に伝わる昔話「六部の茶碗」に材を採ったとある。奇しくも顧問のお一人Oさんの出身県であるが、顧問から提示したのではなく、まったく無関係に生徒たちが選んだのだそうだ。
 脚本を舞台化しようとする熱意と力量には並々ならぬものを感じた。部として蓄積されたものがあるのだろう、衣装や舞台装置、照明・音響効果など、持てる力を総動員した。足し算だけでなく、引き算もよく心得ている。
 ただ、私に限ってのことかも知れないが、台本にはどうしても合点のいかないものが残った。あらすじは以下のようである。
   ※
 捨て子でありながら老夫婦に実の娘のように育てられた桜子は、桜の季節になると放浪癖が起こり、水子の霊と戯れる。死に場所を求めて山里にやってきた学生にも水子たちが見えたことに桜子は驚く。「暗くて底のない沼」をのぞきこんだ学生に桜子は強く引きつけられ、学生の残した茶を飲むと子を孕む。父親の知れない子を産んだことで老爺は桜子を責める。桜子と夫婦になると心に決めていた村の若者・作蔵は父親は自分だと名乗り出る。作蔵は桜子の心の闇を理解出来ないままに夫婦として一緒に子育てをする。季節がめぐり、再び村を訪れた学生と再会するが、死の誘惑を乗り越えた学生は明るい人格に変わってしまっていた。老爺は学生を見て再び桜子を責める。桜子は絶望し、あろうことか赤子は桜の花びらとなって散ってしまう。水子の霊たちが現れ、老爺と学生は逃げ出してしまう。作蔵は風たちを味方につけ、水子の霊たちとたたかう。
  ※
 孤児として生まれ、精霊たちの世界と親しむ桜子と、人生に絶望し死に場所を求めて山里に踏み迷った学生との悲恋の物語というような柱を立て、私なりに整理すると上記のようになる。
 だが、そこには収まりきれないものが残るのである。例えば桜子が自分の中の「淫らな女の血」について言及するのは、自らの運命に対する自覚の言葉なのか、自分のことを諦めさせるために言い放った言葉なのか。前者だとしても、それは否定的に述べられたのか、身を滅ぼすまでの熱情に生きるしかないという意志を示したのか。
 作者の後書きに「情念」という言葉が出てくるところからすれば後者のようにも思われるが(学生に心惹かれ、子を孕むという言い伝えを知りながら、学生の残した茶を飲んだことを「淫ら」というなら)、「私は幸せになってはならない」とする桜子の言葉からすると前者であるとしか考えられない。では、桜子はなぜそんなにも自己に否定的でなくてはならなかったのか。また、そうだとすれば桜子にはいつかの時点で救済の手が差しのべられなければならない。そうでなければ物語として完結しないと思うのである。
 「水子の呪い」というような言葉も出てくる。いっそ桜子は人外の存在、桜子が産み落とした赤子と同じように、桜の花の精霊であったとでも解釈するのが正解であったのかとさえ思えてくる。
 「捨て子」「父なし子」「水子」が故意に混同されているようにも思われる。ラストシーンでの水子の霊たちと風たちの戦いは何だったのか。「風」は何を象徴していたのだろうか。作蔵は「狂ったように殺戮」を続けたとあるが、「殺戮」というような言い方になったのはなぜか、作蔵に子供達が見えたということは作蔵もまた狂気に近づいてしまったのか。
 以上はただただ私の読解力の不足を露呈しただけなのかも知れない。先には舞台づくりについて述べたが、人物造形がおろそかであったというようなことは少しもない。庄屋級としても老婆の着物はもっと農婦らしい方がいいのではないか、というようなことも述べたが、桜子に無私の愛情を注ぐ姿など、人物理解は正しかったし、力も感じられた。他の登場人物についても工夫は認めるが、まだまだ曖昧さや漠然としたところが残っている。さらに掘り下げていって欲しい。「台本」の言葉ではなく、「役」(=そこに生きている人間)の言葉として発せられたら、私の抱いた疑問も氷解してしまうかも知れない。
 のっけから私の混乱につきあわせてしまった。この学校だけ長くなってしまうが、もう二つ補足的に述べたい。一つはこの脚本は人間の「罪と罰」の物語として書かれたのかも知れないということである。誰でもが罪人であった、その罪を白日の下に晒していく物語なのだ、と考えればよかったのかも知れない。もう一つは、一人の人間が生きている背景には無数の死者が存在する、ということである。普段は忘れていたその事実を思い起こさせる物語というならすべては落ち着く。

 三郷北高校『Merry mad dolls』杉浦舞香&MKDC・作(生徒創作)
 大きな括りにしてみると登場人物は「怪物たち」「自警団」「街の民たち」の3グループに分けられる。「怪物たち」と「自警団」に対立軸があり、実際に両者の間で戦闘が繰り広げられるのだが、本当の対立軸は「怪物たち」と「街の民たち」にあるようである。というのも、「自警団」はプログラムの配役表には「街の自警団側」とあるが実は住民たちからは余所者のように見られており、(であるから自警団というより用心棒あるいは傭兵というのに近い)、定住民の間で組織されたのではないようだ。配役表では「その他」となっているグループを「街の民たち」と括り直したが、OPでロキを追い詰め、メリーを死に至らしめ、「異形の者」の存在を許さず、「自警団」を「怪物たち」の掃討に向かわせたのは「民たち」なのである。
 荒削りで、多分に暴力的であるが、根底に流れている「怒り」には若者の可能性を感じた。近代「国民国家」は「自/他」を二分することで、すなわち異分子を排除することによって同質性と均質性を高めようとした。物語の世界は中世的だが、すでに「自/他」の峻別による統合に向かっているように見える。(実は「民たち」の背後にはすでに軍=国家の存在が垣間見えるのである。)
 「異分子の排除」は、子ども間のイジメにはじまって、今日の社会に横行するヘイトや排外主義、ネット社会での不謹慎狩り、LGBT、難民問題にまで及ぶ病理である。しかし、マイノリティの迫害や、異分子の排除によって自己のアイデンティティを確認しようとするのは、そのアイデンティティに重大な揺らぎが生じている証左ではないだろうか。
 ダンスあり、殺陣ありで、渾然としてはいるが、若さとエネルギーが伝わって来た。物語が複雑な分、場転も多い。整理が必要だが、エネルギーを削いでいくことになりはしないか、悩ましいところだろう。ビジュアル志向が先行していると思われる点も認められる。それらを否定したりはしない。ぜひ、自分たちのエネルギーを信じ、自分たちがつかみかけたものを掘り下げ、大化けして欲しい。

 獨協埼玉高校『あの日の不思議』吉田辰也・作(顧問創作)
 親友同士のゆきことみさき、天使と悪魔を交えたファンタジー。ゆきこは父権的で世間体を優先しがちな家庭に育った。成績優秀な妹といつも比較されている。自己肯定感を持てないゆきこは万引きに手を染めてしまうが、そのことを後悔し、自分の力で解決したいと望んでいる。悪魔と魂を引き替えにする取引を交わし、みさき、天使、悪魔に協力してもらいながら店の宣伝のためのボランティアをする。ボランティアは成功するが、思いがけない事故で傷を負った悪魔は魔界に戻され、ゆきことの契約の破棄を伝える。(以上、あらすじ)
 軽快なJazzからはじまる舞台は火入れのされた街灯も美しく視覚的にも成功していた。天使と悪魔も個性的かつビジュアルに造形されていた。ダンスも見事な出来栄え。伝えよう、表現しようが気持ちよく、脚本が整理されていけば、さらに完成度があがる。具体的には、ゆきこの抱えている問題は実は深刻であり、「お父さんお母さんも見に来ていたね。」というような科白も挿入されているが、ゆきこの表情がぱっと明るくなるなど、もっと明確に解決の方向が示されるとよかった気がする。

 草加高校『マリア』宮本浩司・作
 18歳を迎え、大学合格を機に一人住まいを始めたマリア。引っ越しの荷解きの最中に見知らぬ7人の人物たちの訪問を受ける。実は18年前に起きた飛行機事故で生後半年のマリアは一命をとりとめた。7人はそのときの乗客たちで、自分たちの命をマリアに託し、マリアに生きて欲しいと願った人々だった。彼女たちはマリアの18歳の誕生日に、マリアの命を見届けようと集まって来たのだった。(以上、あらすじ)
 これもよい台本を掘り起こした。前半の不条理劇風の幕開けには成功した。10人中7人が1年生という編成だったが、人物造形も的確になされていた。きちんと大人の女性たちに見えていた。丁寧な芝居づくりをした分、墜落を目前とした旅客機内の緊迫感、クライマックスに向けて畳みかけていくパワーが弱かった。これはアパートの一室から旅客機内への場面転換に手間取ったことも原因した。白ずくめの舞台装置はマリアの無垢なる心象風景、あるいはまだ何も書き込まれていない未来の象徴だったのか。工夫は認めるが、引っ越しの荷解きをするのに白のワンピースはどうだっただろうか。
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(ここまでが候補とした作品である。先に述べてしまえば東部南地区を抜け出したのは最初の草加南と三郷北の2校、大宮地区に移ってからもそのままこの2校が残ることになった。)
  
 越谷東高校『レンタルおじいちゃん』今野浩明・作
 8歳で交通事故にあった少女が22年ぶりに意識を取り戻す。医師団は精神障害を避けるため、父親を祖父にしたてて訓練を促す。だが、父も入院中で余命3ヶ月を宣告されていた。(以上、あらすじ)
 レンタル家族ものも、もう設定としては目新しさはなくなった。22年ぶりに意識を取り戻した少女の前に現れたのは亡くなった祖父とそっくりなアンドロイドだった。説明書と首っ引きでアンドロイドに対応する少女、しかし実は年老いて祖父に似てきた父親だった、というのが新しいところだっただろうか。
 何にしても設定に無理がありすぎるのだから、脚本選択の段階で退けるべきだったが、つかんでしまったら仕方がない。その台本のどこに自分たちは惹かれたのか、どの科白をしゃべって見たかったのか、どんな世界を築きたかったのかを思い起こし、やりきるしかない。
 (実は父)と孫、医師と看護師という二組の人間関係を交叉的に描けるかが鍵だったように思う。力演していたが、芝居の構造や心の動きをどうつかむかの詰めが不足していた。

 三郷高校『I Wish …』楽静・作
 忍び込んできた高校生たちとふれあうことで自由意志を持つようになったアンドロイドのマリィは女主人の妹の代替として完璧になろうとするのを止める。そのマリィが出した結論は妹ではなく、娘になることだった。(以上、あらすじ)
 根本に台本の問題があるとして、舞台上にひとつの時間を作りきれなかったのは、それぞれがまだ台本に納得せず、役づくりに悩んでいたからではないか。洋館内の閉ざされた人間関係に風穴をあけた高校生たち。人物たちの輪郭が明確になっていくか、変化は描けるか、あたりが見どころかと思っていたが、人物同士にコミュニケーションが成り立っていなかった。まず腕組みを止めよう、からはじまる(私も部員たちにそう言って来た)。

 松伏高校『ひまわり』五島ケンノ介・作(顧問創作)
 刑事の島は補佐官の玉置と平野を取り調べている。前半は平野がテロリスト役を演じたりしているが、これはお芝居らしい。まるで遊んでいるようだ。高木が蕎麦の出前持って来たりする。後半はシリアスになる。平野は自分の学生時代の思いを語る。ホストに貢ぐために5000万円を横領したが、それらは自分の意志であったと語る。(以上、あらすじ)
 『熱海殺人事件』と宮沢りえの『紙の月』のオマージュと看破したのは今回ご一緒したUさんだった。
 台本には不思議な魅力があり、幕が上がったときの取調室の雰囲気や刑事のラフさは作れていた。前半はナンセンスかつ軽妙、後半はシリアスでありながら愁嘆場にしない。前半と後半のコントラストをどう作るかが見どころかと思っていたが、芝居が沈んでしまい転がっていかなかった。前半のアクションシーンをもっと派手にやってしまった方が後が生きるのにと感じたが、身体にも心にも固さが残った。

 草加東高校『幻想列車』九国光・作
 現実の世界では事故や自殺によって死の瀬戸際にある者たちが乗り合わせる幻想列車。深い絶望にとらわれた美代子、社会への憎悪に満ちた竜太、大手術の最中の瑞穂、ただ一人心安らかで幻想列車の正体を知る老婆。乗客たちとの会話の中で、孤独や絶望から立ち直っていく翔太は一命を取り留め、瑞穂と再会する。(以上、あらすじ)
 科白にきちんと感情が乗っており芝居は作れていた。「止まらない列車」の不気味さ、閉塞感、非日常性を現出させられるか、が見どころだと思っていたが、少し演技エリアを広げすぎた。電車の疾走感も欲しかった。身体表現を磨こう。照明・音響プランは再考が必要である。具体的にいうと前灯りを落としすぎて、顔が見えなかった。観客は役者の顔が見たいもの、声が聞きたいものなのである。途中でパネルが1枚ずつ外されて行った。何かの意図があったらしいが伝わらなかった。何枚か残し、場面転換の後、病室の壁になったら面白いのにと思った。私だったらそんなことを考えただろう。

 越谷西高校『真夜中の紅茶』松岡美幸・作
 真夜中の雨に降り込められて、一人の男がある屋敷に雨宿りのために立ち寄る。そこで彼を出迎えたのは、一人の少女。彼女と話をするうち、男は夢とも現実ともつかない悲劇へと迷い込む。少女は先天的な障害で片足を引きずっていた。医者である少女の兄は、彼女の身体を満足なものにするため、移植手術の研究を続けていた。足の提供を断られた兄は、自らの母親を殺害して足を手に入れることをもくろむ。そのもくろみが少女にばれ、殺害は失敗に終わるかと思われるが、少女自身が母親を殺害して満足な身体を手に入れることに成功する。しかし、そのあとに残るのは紅茶と雨と虚無感だけだった。(以上、あらすじ)
 脚を移植することで走れるようになる? それも生体移植ではなく「死んでいる」ことが条件? 台本上のつじつまを合わせるための典型的なご都合主義である。もしあり得るとすれば、すべては屋敷に迷い込んできた男の悪夢だった、ということにするかだ。
 かなり無理のある台本だが思いの外、芝居になっていた。フロントライトだけで前灯りを作った照明や舞台美術が適切で、ゴシックロマン風の雰囲気を出せていた。科白も生きていたし、時間も流れていた。それでも世界を作り出すまでに至ったかは疑問。

 草加西高校『天使の声が聞こえたら』加藤のりや・作
 自分の声を人間に届けようと奮闘する天使をひねくれ者の悪魔がサポートする。手始めにCDショップで万引きしようとしていたマユを更正させようとするのだが。(以上、あらすじ)
 まだまだ脚本に振り回されている。脚本も舞台化しやすいようには出来ていない。もう少し作戦が必要だ。なかなか声も前に出ず、客席に届けようという意志と工夫が不足していると感じるのは、キャスト自身もまだ迷っているからではないか。台本選びは納得できるまで。

 越谷南高校『everywhere』鱶ヒレ夫・作(生徒創作)
 サーカス団を率いるレイガンは級友のスタンリーと協力して常小屋をめざしている。そんなときザイラーたちの乗っ取り計画にあう。ザイラーらはレイガン・スタンリーの隠された過去を暴く。スタンリーにあこがれているベンは、父を殺した犯人こそ軍人時代のスタンリーであったことを知る。(以上、あらすじ)
 サーカスを舞台に様々な人間模様を描こうとし、ドラマの中の対立軸も設定されようとしていた。だが、物語を広げすぎたのか、人物像に深みを欠いた。スタンリーの自裁も唐突だった。ジャグリングの稽古をしていたり、檻に入れられたライガーがいたり、側転するピエロがいたり、サーカス団の雰囲気を作ろうとしていた努力は認める。部活の持っているパワーのようなものは伝わって来た。
(一言。サーカス団の魅力って放浪にあるのではないだろうか? 一晩たったら跡形もなく消えていた、というような。題名だってeverywhereではないか?)

 八潮南高校『広くてすてきな宇宙じゃないか』成井豊・作
 アンドロイドによるファミリー・レンタル・サービス。アンドロイドを受け入れらず葛藤するクリコは同級生のカツラ、FRS職員のヒジカタとともに東京中を停電させるという大事件を引き起こす。(以上、あらすじ)
 真面目なとりくみには好感が持てる。その分、テンポが落ちてしまい、スピード感に欠けた。まず、不要な暗転をカットしていくことから始めたらどうか。正面の白パネルも本当に必要だったかどうか再考してみよう。

 越谷北高校『全校ワックス』中村勉・作
 転校生を含めた5人でワックスかけの作業がはじまる。やりとりの中で誤解もとけ、相互理解も進む。ワックスが乾くまでの間、段ボールの島に身を寄せ合って告白ごっこに興じたりする。「偶然、集まっただけ」と認識しつつ、心の通い合いを感じる。ワックスを塗ったばっかりの廊下を歩き出す様子は自らの殻からの解放のようにも見える。(以上、あらすじ)
 いまさらあらすじを紹介するまでもない台本。共同作業を通じて「親密圏」から脱していくというストーリーなのだから、冒頭こそ作りすぎたところがあったが、関係が深まるのに並行して各人の個性が立ち上がっていく様をよく描いた。この芝居に取り組むことで、きっと生徒たちの個性も立ち上がっていっただろうと思わせる。好演だった。
 ところで、劇中で上田にはない「悪気」が自分にはあるんだと大宅はいうが、もしかすると人間は誰しも少しずつ「悪気」を持っているものではないのだろうか? 「悪気」があると自覚していた方が、むしろ無意識のうちに毒をまき散らしたり、関係を破壊するに至るのを防止できるのではないのか? 今回、この劇を見ていて、そんなことを考えた。

 越ケ谷高校『部員ロボ2045』よしはらいさお・作(顧問創作)
 演劇部では部員が足らず、ロボットで補おうとしている。飯田は批判するが、とりあえず部長をロボット役にしてシーン練をしてみることになる。飯田はなお抵抗するが、実は部長はロボットであり、計画はすでに進行しているのであった。背景に2045年問題があり、ときは2055年、AIが人間を支配する時代を迎えているのであった。(以上、あらすじ)
 シンギュラリティを扱った創作。劇中劇をさらにコミカルに仕上げていけばラストにやってくる戦慄のシーンをより強く表現できただろう。Uさんも言っていたが、部長は段ボールロボのコスチュームを纏って劇中劇に臨めばよかったのにと思った。種明かしが説明的になってしまったところが残念。部員数が足りなかったのか、台本にはあった、ラストで続々とロボットが現れるシーンがカットされてしまったのも残念だった。


by yassall | 2018-10-10 15:19 | 高校演劇 | Comments(0)

2018秋の高校演劇① 西部A地区発表会

 9月22・23日、西部A地区秋季発表会が朝霞コミュニティセンターで開催された。今年になって、全出演校の芝居を見るという観劇スタイルにこだわらず、「通りすがりに一寸気になって」でもいいかな、と少しラフにかまえることにした。
 そんなわけで1日目は午後の朝霞高校と和光国際高校から見はじめ、2日目は朝から新座高校、新座総合技術高校、新座柳瀬高校の3校を見た。そうすると1日目の午前中の細田学園高校と朝霞西高校の芝居がどうだったのか、かえって気になってしまった。まあ、「ラフにかまえたい」とか「通りすがり」の視点とかいうのも、新しい距離感を持ってという程度の意味だから、あまり頑なになる必要もないのだろう。

 朝霞高校『蜉蝣の記』結城翼・作
 このところ朝霞は一定程度の部員数を確保できたという年と、少人数(それも1人か2人)に落ち込んでしまう年を繰り返している。音響や照明、衣装やメイクなど、各学年毎に担当者がいてノウハウを代々引き継いでいく、といった伝統が途絶えてしまうのはけっこう厳しい。やはり蓄積されたものの厚みというものがあるのだ。
 もちろん、生徒まかせにしておくと、誤りや不合理がそのまま伝統になってしまうことがあり、ただ効率が悪いだけでなく、危険をともなってしまうこともある。小さいことだが、照明担当の部員がナットの取り外しにペンチを使っていて、ナットを傷だらけにしているので、近隣のドイトでサイズに合うボックスレンチを探してやったことがある。後になって、照明担当の道具入れを開けてみたら、ちゃんと同サイズの古いレンチが入っていた。いつかの時点でナットの開け閉めにはレンチを使う、というノウハウが伝達されなかったのだろう。
 つまり、部員と顧問がうまくかみ合って、はじめて部活は円滑に回っていくということだと思う。顧問の側では、現在の部員たちの意欲や力量、ノウハウの蓄積をみきわめ、どの程度の緊急性で手を出したり、口を出したりしたらよいかに気を配っておかなくてはならない。
 さて、今年は2年生が2人きり。1年生1人を加えた3人芝居である。顧問のFさんから脚本選択の悩みについては聞いていたし、BOXの制作にあたってはサイズについての相談を受けていた。だが、私の方から口だしすることはなかったし、文化祭公演にもいかなかった。地区発表会がまったくの初見である。
 科白はしっかり出せていたのではないだろうか? ケンイチは声を作りすぎていたという印象を受けたが、フロアーで一言二言ことばを交わしてみると、どうも普段通りのしゃべり方らしい。natsuさんは「この役ではこれでいい」という評価だったが、飛行機を完成させようと決意するところ、飛び立った飛行機を目で追うところ、墜落してしまったとき、墜落現場を探しても葉月の影も形もみつからなかったとき、といった要所要所でもう少し心の動きが表現できてもよかったのではないかと思った(まあ、やり過ぎてあざとくなってしまって、自己満足で終わってもかえって重傷だが)。
 子にとって母は生まれたときから母である。だが、ふとした折に、母にも娘時代があり、若やいだ夢や輝きがあったことを思う。葉月は立ち姿がよく、もしかすると文学好きであったり、断崖から飛び降りるような向こう見ずなところがあったかも知れない、しかし子には知ることができない、若き母の幻といった雰囲気を出せていた。ただ、吉野弘の詩の朗読を始めるときの咳払いはいらなかったと思うし、これも要所要所での自分の見せ方を(わざとらしくなく)つかんでいったらもっと良かったのに、と思わないではなかった。カヲルは1年生とは思えない出来栄えだった。ただ、こちらも一本調子になりがちだったかも知れない。

 和光国際高校『ギフト』萩原康節・作
 親による虐待を題材にした作品。親に虐待され、あるいはネグレクトされた子が生育を歪められ、心身を傷つけられ、人生さえも奪われていく。家庭が子どもを守る場所ではなくなってしまえば子どもに居場所はなくなってしまう。
 近年、これほど心を痛める事件はない。演劇にとっても避けてはならない世界だろうし、いつか誰かによって書かれなくてはならない世界だっただろう。だが、扱いが適切だった、成功したとはいえないと思った。
 力が入っていたことは十分伝わってくる。螺旋状の階段を付した山台が上下に置かれ、対になっているなどの舞台美術も美しく、丁寧に作り込まれていたし、書き込みすぎとも思われる脚本も作者の熱い気持ちの表れととらえられなくもない。役者たちは皆、発声が確かで、練習量が並々でなかったことはすぐにそうと知れる。
 だが、なのである。劇は幼少期のマサムネとユキコが宮沢賢治『銀河鉄道の夜』のジョバンニとカンパネルラの科白を語るところからはじまる。ユキコにとってマサムネは唯一無二の存在であり、その死に重大な負い目と喪失感をいだいている。ユイコに二重の心の傷を設定したことでさらに劇を重層的にしたとはいえるだろう。問題は広中のサポートや庄野によるカウンセリングは複雑に絡み合ったユイコの心を解きほぐし、新しい命の鼓動を吹き込むだけの説得力があったといえるか、どうかである。
 ユイコがギフテッドとして超高度な知的能力の持ち主である、というような設定は、虐待死してしまった子らに無限の可能性があったかも知れない、ということであれば理解できなくはない。シリアルキラー云々については偏見に結び付かなければよいがという心配もさりながら、ユイコの示す暴力性とは異質なのではないかと思った。あれもある、これもある、とばかりに、次々に多様な知識が繰り出されるのであるが、設定が極端すぎるとリアリティが失われてしまう。
 それはともかく、きわめて複雑な心性の持ち主であるユイコが、同じヤクルトファンであることから庄野に心を許すようになった、などというところにまず嘘っぽさを読み取ってしまう。変化はユイコの側にも、庄野の側にも必要だったはずで、庄野の「人生にはすばらしい出会いが待っている」などということばも、自身の過去を讃えているだけだったら、そのことばがユキコの心を動かしたとは信じられない。
 結局、ユキコの夢に現れる子ども時代のマサムネとユキコが変化していくことでユキコが自身の底なし沼から脱していくのだが、その変化がどうして起こったのか、どうしても合点のいかないものが残るのである。
 科白量は膨大で、疾風のように1時間を駆け抜けたという気がする。心の変化が読み取れなかったというのは、そのせいであったのかも知れない。中には心に留めておきたいような、素敵な科白もあったような気がするのだが、噛みしめる間もなく通り過ぎてしまった。

 新座高校『お兄ちゃんとオネエさん』上田美和・作
 これもトランスジェンダーという今日的な題材を扱った作品。野球選手として嘱望されながら肩を壊し、進学した大学を続けられなくなった兄。学校に適応できず不登校となっている高校生の妹。妹にとっても、また両親にとっても、兄は希望の星であったが、その兄が水商売の女性を「友人」だと連れだって帰省する。しかし、あろうことかその「友人」は性同一障害者で実はオネエだった、ということからドラマは始まる。
 つまり、トランスジェンダーをかかえながら、自分のありのままに生きることを決意し、タイの孤児院を支援するなど、社会参加にも積極的であろうとするマリーからすれば、兄や妹のささいな挫折などは取るに足りないことだった、というのが結論だろうか。
 両親役の2人は3年生だけあってしっかり作り込まれていた。他はすべて1年生という配役だった。それにしてはけっこう熱演していたので先が楽しみだと思ったが、マリーはマリーの葛藤をかかえていたはず。その葛藤を表現したり、共感したりはまだ無理だったかも知れない。まあ、仕方のないことだが。

 新座総合技術高校『EMMA』NSG演劇部・作
 このところ新座総合の芝居は年によって大きな変化を見せている。かつてはファンタジー物が多かった気がするが、今回は刑事ドラマである。それをいったら昨年もそうだったではないか、ということだが、昨年は刑事物をビジュアルに描いてみせたというのに対し、今年はある意味で本格的、犯罪心理の深層に分け入っていくようなドラマであったように思う。ただ、そのところを科白で語り尽くそうとするから、ややもすると読み取れなくなってしまう。表現の意欲はあったのだろうが、観客にはどれだけ届いたことが。
 (一度アップしてから新座総合については書き足りないことがあるような気がしてきた。生徒創作こそ高校演劇のあるべき姿!という人がいる。だとすれば、新座総合こそ高校演劇の正道ということになる。数年前、新座総合が曾我部マコトを演ったとき、とても評価が高かったし、私も上出来だと思った。あのとき、『海がはじまる』をやりたいと言い出し、他の部員たちを説得したのは1人の生徒だったという。どこかでこの脚本のことを知り、高校生である自分を表現できると思ったのだろう。これから新座総合は変わるかも知れない、と考えたが、その後は生徒創作にもどっていった。しかし、創作か既成台本かの区別なく、高校生が自らの感性や日々の思いを表現したい、自分たちがドラマだと思ったことを舞台にしてみたい、というなら否定してはならないのだろう。演劇としては未熟で、コンクールを勝ち抜くというような結果が得られないとしても、このような部活の芝居と接することができるのも地区発表会ならではなのである。それに、何かのときに、いつ大化けするとも限らないのだから。)

 新座柳瀬高校『Ernest!』オスカー・ワイルド原作 稲葉智己・翻案
 新座柳瀬は3年前にもこの演目にとりくんでいる。そのときは春季地区発表会で前編を、コピスで開かれた高校演劇フェスタで後編(本編)をというように、2時間ドラマで仕立て上げている。今回は1時間に圧縮しようということだから、もちろんダイジェスト版にしようなどという愚を犯すことなく、全く別の作品として作り直している。であるので、全体にスピーディな運びになっているが、窮屈にしてしまうことなく、取り違え、すれ違い、繰り返しといった技も、ここぞというときは十分な間を持って、贅沢に投入されている。
 役者陣も達者だった。全国大会メンバーが卒業した後のことについては前にも書いたが、そこでも触れたとおり、セシリーを演じた今年の1年生もすでにして堂々たるものだった。
 さて、この作品については次の上演の機会の有無が不確定なので、これ以上は踏み込まないことにする。ただ、関心のある人は『コピスみよし第14回高校演劇フェステバル 勝手に名場面集!』(2015.6)を読んでみて欲しい。
    ※              ※           ※
 さて、さてがもうひとつ。今年こそは卒業の予定でしたが、またまた地区の審査員をつとめることになってしまいました。事務局長Mさんから電話があったとき、「今年は9月の土曜日は3日ふさがっているから無理だと思うよ」と(半分以上、これで今年は逃れられるとほくそ笑みながら)応対したのですが、何とたった1日空いていた15日はじまりの東部南地区を担当して欲しいという依頼だったのです。しかも、担当のもう1カ所は大宮地区で、開催期間は10月5・6日だというではありませんか! 
 まるで狙い澄ましたかのごとく、あまりに見事に隙間に当てはまったこと、東部南地区の会場は鷹野文化センターという会館で、公演を打つにあたっては申し分ないのですが、何といっても橋ひとつ東に越えたら千葉、南に越えたら東京という地の利の悪さ、ところが我が家からは環七を使うと1時間足らずで通えてしまう、つまりは他の人よりは私の方が交通に関しては適任で(らしく)ある、というようなことが脳裏をめぐり、ついウンといってしまったのです。
 東部南地区は3回目になります。大宮地区は2年連続。またあいつが来たのか、と思う人がいないわけではないと思います。引き受けたからには、過去にとらわれず、フレッシュな観点で、宝探しをするような気持ちで務めたいと思っています。
 東部南地区は先週終わりましたが、大宮地区が再来週になります。このブログへの報告は少し待って下さい。県中央発表会のパンフの原稿は私が書くことになっています。全部で21校分になりますが、字数制限のあるパンフよりは多少とも詳しく、各校毎の観劇記をアップする予定でいます。実は10月も少し立て込んでいて後半になってしまうかも知れませんが。


by yassall | 2018-09-25 19:29 | 高校演劇 | Comments(2)

コピスみよし2018第17回高校演劇フェスティバル 勝手に名場面集

(この投稿は二回に分けて発表しましたが、前半と後半を一本にまとめました。)

 6月17日、コピスみよし2018第17回高校演劇フェスティバルが開催された。幕開けからほぼ満席というここ数年と比較し、今年は空席が散見され、明らかに観客動員数では落ち込みがあった。それでも上演した6校はどれも熱の入った舞台で、お出でいただいたお客様には十分満足していただけたのではないかと思っている。
 今年も写真撮影を担当した。もともと舞台撮影を専門に学んだことはない。刻々と変化する光線条件の中で、芝居の流れを予想し、一瞬をとらえるというのは至難のわざである。それでも少しでもよい写真を、と毎年機材を入れ替えたりしながら工夫しているのだが、これというショットはなかなか得られない。撮影者の側にしてそうであるから、クリエーター側に納得してもらえる写真になったかどうかは覚束ないのだが、写真には記録という要素もあるので、各校にはそのままお渡しするつもりである。
 さて、各校にはお許しをいただいて、毎年「勝手に名場面集」と銘打って何枚かを紹介している。藪にらみながら簡単な観劇記を添えて今年もアップする。
  ※
 村上春樹は「人はなぜ物語を欲するのか?」という問いに対して次のように答えている。

 「僕らは何かに属していないと、うまく生きていくことができません。僕らはもちろん家族に属し、社会に属し、今という時代に属しているわけなんですが、それだけでは足りません。その「属し方」が大事なのです。その属し方を納得するために、物語が必要になってきます。」(『村上さんのところ』)

 誰にも真似することの出来ない、独創的な小説世界を作り出している村上春樹のことばとして、たいへん興味深い。人間は一人の人生を生きるにあたって物語を欲するばかりでなく、確かに物語を通して何かに「属して」いこうとしているのだろう。そして、その通路となるのは「共感」であるに違いない。
 さて、物語についてこのように言えるとすれば、それは演劇についても同じように当てはまるのではないだろうか? 最初に、これを切り口に6本の芝居を概観してみようと思うのである。
  ※
 松山女子高校『とおのもののけやしき』新座高校『トシドンの放課後』の背景にあるのはフォークロアの世界である。『とおのもののけやしき』では幼い兄妹が古い民具が収められた蔵の中で精霊たちと出会う。それらの精霊たちとの交流を通して子どもたちは遠い先祖たちと繋がっていくのである。『トシドンの放課後』では精霊たちは直接には登場しない。しかし、トシドンという島の伝承こそがあかねの心を立ち直らせ、さらには他者と結びつかせるのである。
 坂戸高校『鬼ぃさんといっしょ』もフォークロアの世界をバックグラウンドにしている。ただし、こちらは近代化によって伝承世界が解体の危機を迎えていることに表現の方向性がある。コンビニが人々の生活を変え、金太郎は熊と相撲をとると負けてしまう。人々をひとつに結びつけていた赤い糸は今やその力を急速に失おうとしている。
 川越高校『お言葉ですが、東条英機閣下』はその意味では少々異端である。むしろ「大和魂」とか「愛国心」という壮大な(嘘っぱちの?)物語(村上春樹いうところの「悪い物語」)には安易には与しないぞ、という批判精神が働いている。そこには作者の現代という時代に対する警戒心も加味されていると思われる。今でこそ「クールジャパン」というようなソフトな装いを凝らしているが、強制された「愛国心」は静かに我々を取り囲もうとしているのである。
 農大三高『バンク・バン・レッスン』はどこまで本気で観ていい芝居なのか計りかねるところがあるが、物語の在り処というような補助線を引いてみると、その破壊力は際立ってくる。「銀行強盗対策訓練」とある通り、すべて模擬的で虚構であることを前提として芝居は進行していくのである。観客は通常、舞台の上で展開されるのは虚構であるということを承知で観劇している。否、むしろ虚構を前提としているからこそ、どこかで安心していられるのだとも言える。とすれば、この芝居にはそうした観客のあり方を揶揄しているところがあるのかも知れない、と思ってしまう。
 新座柳瀬高校『Alice!~響け、ウエディング・マーチ!編~』では同じ物語でも寓話の可能性のようなことを考えた。国民を幸せにするといいながら無理難題をふっかける女王(=権力者)、イエスマンに徹することで点数を稼ごうとする側近(=官僚)、その無理難題を丸投げされて右往左往する家臣たち(あるいは下々としての国民)というふうに役どころを振ってみると、まるでどこかの国で起こっていることさながらではないか?
 作者としては、自分はエンタメに徹しようとしたのであり、そのような寓意を読み取られることは不本意である、ということになるかも知れない。だが人というもは、それぞれの人生に何らかの意義を見いだそうとするように、物語にも何らかの意味を読み取ってしまうものなのである。言わずもがなであるが、そうでなければ「共感」もまた存在しないのである。
  ※
松山女子高校『とおのもののけやしき』作・岩崎正裕

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 題名の「とおの」は柳田国男の『遠野物語』を意識しているのだろう。柳田国男は文化とは生活様式の総体であるという認識に立ち、民衆のあいだに伝わる民具などの生活用品、あるいは伝承や祭礼などに日本文化あるいは日本人の心を探ろうとした。それはまた明治以降にあって急速に失われていこうとする民俗を、少しでも残しおこうとする試みでもあった。
 そういうわけだから、唐箕や千歯扱きなどの農具から、代々伝わってきたらしい掛け軸や雛人形が所狭しと収められた「蔵」という存在は芝居を左右するような重要な装置であり、アイテムであった。リハーサルの時間の大半を費やして飾り込まれたそのセットは、よくぞこれだけものを集められたものだと感嘆に値するものだったし、作り手たちの執念を感じさせるものだった。
 ただ、「物の怪」を登場させるためだったとはいえ、具象で成り立っている蔵の中に舞台装置としての山台がむき出しのまま置かれてしまったのはつや消しだったし、これは脚本通りなら仕方がないが、その「物の怪」が登場するのが垂れ下がった掛け軸の裏側からというのも不自然だと思った。蔵の中に掛け軸を保管する際には共箱に入れられているのが普通であり、いくらなんでも壁掛けにはされていないはずである。
 さて柳田国男にいわせれば、日本の妖怪とは仏教の伝来とともに本来精霊であったものが「化け物」の地位におとしめられたものだという。それはともかく、絶対神たる一神教の「神」とは違い、日本の神々あるいは精霊たちは人間のすぐそばにいて、人にいたずらしたり、一緒に遊んだり、ときはだまされたりする存在であるという。ここに登場したのもみな愛嬌に充ちた精霊たちであった。
 そのような精霊たちを、けっこう意地悪そうなおひなさまや間抜けな鬼、親身な納戸婆と1年生ながらしっかり二人で演じわけていた。兄妹は2年生と1年生のコンビで、二人とも力があると思ったが、兄役の2年生がさすがの演技だった。今は不在らしい両親の存在がほの見えて来て、家族というサイドストーリーが立ち上がって来そうだったのだが、脚本がそこまで書き込まれていないのか、中途半端に終わってしまったのは残念だった。

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新座高校『トシドンの放課後』作・上田三和

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 『トシドンの放課後』については以前に論じたことがあるので同じことは繰り返さない(「2014秋の高校演劇を振り返って~『トシドンの放課後』と『ホットチョコレート』」2014.10)。
 ただ、よく出来た台本は素直に演じればそれだけで伝わって来るものがあるというのは本当だとして、やはり心の奥に触れてくるときとそうでないときがあり、今回の『トシドン』は後者であったということだけはいっておきたい。
 それは第一にはあかねの造形である。ありふれた言い方だが、あかねは本当はいい子なのである。離島からの進学であること、成績が振るわないこと、そのため将来に希望が持てないこと、最近になって父親を亡くしたことなどか相乗して、心の荒れと飢餓感に苦しんでいるのである。いい子すぎても、悪い子すぎても、あかねの人物造形としては失敗なのである。
 クライマックス近くなって、強が進級できなかったことを知ったあかねが校長室に怒鳴り込もうとし、あかねの暴発を心配した強が必死に止めるというシーンがある。ここにあかねの本質があり、あかねと強との人間関係が集約的に表現されているのである。今回、あかね役を演じた3年生はその役づくりに成功していた。
 強が女子による男役なのがどうかな、と思っていたが、眼に力があり、周囲と調子を合わせられずに不登校状態に置かれつつも、人間に対する深い洞察力を身につけた強という役を演じきった。
 『トシドン』をやるとつい先生役が弱くなりがちである。先生役も1年生とは思えない出来栄えだった。3人の中で一番年下であるはずなのに、きちんと大人の女性に見えた。パンフによると中学校でも演劇部に所属していたらしい。難をいえば、少し堂々とし過ぎていたといえるかも知れない。この先生は初めて担任を受け持ち、あかねに右往左往させられている。その感じがもっと冒頭で出ているとよかったと思ったし、それでもあかねを正面から受けとめようとし、裸の自分をぶつけようとしたから、「私だって楽して教師になったんじゃない」ということばも、押しつけとは違う説得力を持ってあかねを揺さぶるのだと思った。(このところは私にも新しい発見だった。)
 強もまた先生役の生徒も発声がしっかりしていた。まずは科白をきちんと客席に届けることが大切で、その積み重ねによって客の心は動いていくのである。

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川越高校『お言葉ですが、東条英機閣下』作・阿部哲也

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 作者である阿部さんは見せかけの権威や美辞麗句で飾られた大義に対し、「くそ喰らえ!」と言ってみせる反骨心の持ち主なのではないだろうか? 2014年の中央発表会で創作脚本賞を受賞した『いてふノ精蟲』でも植物学者平瀬作五郎から発せられたし、翌年関東大会に進出した『最貧前線』の船長もそれらしいことを口にしている。
 聞けば鴻上尚史の『不死身の特攻兵』(講談社現代新書2017)に題材を得ているとのことである。だが、同書が阿部さんにこの脚本を書かせたというより、この本に接して共感するものを阿部さんが予め持ち合わせており、これをきっかけに啓発されていったという方が正しいのではないかと思っている。
 講談社ブック倶楽部から同書の内容紹介を以下に引用する。

 「太平洋戦争の末期に実施された”特別攻撃隊”。戦死を前提とする攻撃によって、若者たちが命を落としていった。/だが、陸軍第一回の特攻から計9回の出撃をし、9回生還した特攻兵がいた。その特攻兵、佐々木友次氏は、戦後の日本を生き抜き2016年2月に亡くなった。/ 鴻上尚史氏が生前の佐々木氏本人へインタビュー。/ 飛行機がただ好きだった男が、なぜ、軍では絶対である上官の命令に背き、命の尊厳を守りぬけたのか。」


 一機の飛行機を完成させるための経費を考えれば、特攻がいかに採算に合わない(人命は計算外か!)作戦であるか、その立案中にも愚策であるとの意見があったらしい。この劇中でも、「鋼鉄製の軍艦にジュラルミン製の飛行機が体当たりしても沈没させることは出来ない」という科白がある。
 合理的にはまったく成り立たない特攻作戦に向かわせたのは「精神主義」というリクツである(思想とも論理ともいいがたいのでそう言っておく)。「死を恐れない突撃精神に直面して、敵は恐怖心からパニックにおちいるに違いない」、翻ってまた「国民はその犠牲的精神に感じ入って再び敢闘精神を奮い立たせるに違いない」、という。だが、それらは「ソウデアッタライイナ」という希望的観測の域を少しも出ない、まったくの主意主義でしかなく、今風にいえば反知性主義の産物である。
 だいたい、西洋文明=物質中心主義VS日本=精神主義という構図自体が作られたイデオロギーである。ヨーロッパやアメリカには精神文化がなく、日本にだけは物質にまさる精神の優位性があるなどというのは、冷静に考えればまったくのナンセンスである。
 特攻作戦において飛行機の故障など何らかの理由によって出撃途中で帰還した飛行士は何人もいたらしい。軍神として送り出し、戦死したはずの兵士が生きていたというでは具合が悪いと、終戦まで隔離されていた人々のルポルタージュを見たことがある。また、この劇のように再度の出撃を強制された事例もあったことだろう。(阿部さんも話題にしていたが、『総員玉砕せよ!』を描いた水木しげるも似たような経験を語っている。)特攻=軍神として奉るために死ね、というのはもはや精神主義ですらなく、国民向けの情報操作でしかない。
 以前、小野寺信について書いたことがある。1940年11月、小野寺はスウェーデン公使館附武官に任命され、諜報武官としての任についていた。大戦末期、ヤルタ会談でドイツが降伏した3ヶ月後にソ連が日本との戦闘に参戦するという密約が交わされたとの情報を得た。小野寺は直ちに本国にその情報を暗号電で送った。受け取った日本政府や大本営はどうしたか? あろうことか日ソ不可侵条約を頼みに、戦争終結のための仲介を要請しようとしていた日本政府はその情報を握りつぶしてしまったのである。
 小野寺信は筋金入りの日本帝国軍人であり、反共主義者であり、愛国者だった。だが、反知性主義者ではなかった。電報を受け取った日本の戦争指導者は「自分たちに不都合な真実」を否認してしまった。
 特攻に9回出撃したという佐々木知次氏(劇中では佐々木友介)は愛国心を持たない「非国民」ではなく、臆病者でもない。亡き戦友たちへの思いを失ったこともない。ただ、偽りの「精神主義」に同調することを拒み、自らの理性と付与された生命に誠実であろうとしただけなのである。
 芝居としては、何度も出撃しては戦果をあげながら生還を果たしたことが如何に奇跡的で、周囲に驚きをもって迎えられたかがもっと強調されてもいいとは思った。しかし、部隊長をはじめとしたややオーバーなアクションに比べ、淡泊に見える佐々木の演技が、かえって沈着冷静な人柄や判断力をにじみ出させていて、効果的であったとも考え直した。いつになく舞台装置は簡素だったが、どこで見つけたのか飛行服はよく揃えたし、三八歩兵銃は自慢するに値する出来栄えであった。衣装や小道具ひとつでリアルさが段違いなのである。

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東京農業大学第三高校『バンク・バン・レッスン』作・高橋いさを

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 全部で8人の役者が舞台に上る。部員数がいつもギリギリという部活からしたら羨ましいかぎりだが、大勢のキャストをバランスよく動かし、間延びのない芝居を作り上げるのは容易ではない。『もしイタ』や『ロボむつ』を手がけてきた農大三高ならではの演目だが、それでも10日前くらいではかなり苦心している様子だった。
 さて、どのような舞台になるかと案じながら幕開けを待ったが、まったくの杞憂だった。距離感の取り方もずいぶん良くなっていたし、いち早く客をつかんでからはどんどん芝居を追い込んでいけた。統制はとれたが逆に一人一人が集団の中に埋もれてしまうということもなく、芝居の進行とともに個々のキャストが立ち上がってくるという具合だった。
 前段で、「どこまで本気で観ていい芝居なのか」と書いたが、否定的な意味では決してない。むしろ虚構の中で繰り広げられる虚構の世界であるからこそ、虚実すれすれのところをどう追究していくかが問われるような芝居なのではないか? 実際、1回目のレッスンを終えた後の行員たちの不満は「迫真性が欠ける」というところにあったのである。ただ、その迫真性を求めようとした結果があたかもテレビドラマのようであったことから、話はまたおかしな方向に進んでしまうのである。
 虚実すれすれの最たる場面は支店長の「何を隠そう、あなたは私の娘よ!」と告知するところだろう。とってつけたような、あまりに無理筋な展開であるが、娘だといわれた行員も支店長も、そして二人のやりとりを見守る他の登場人物たちにも要求されるのは本気度である。そうであって初めて観客の笑いを誘い、さらに後に別の男(タケシ)に向けての「あなたは私の息子よ!」で観客の笑いを爆発させることが出来るのである(ついでにいうと、ここは繰り返しのおもしろさなのであるから「あなたは私の息子」で十分なのであって、これに続く説明科白は省略ないしは刈り込んでしまってかまわなかったのではないかと思っている)。
 欲を言えば、もう少していねいに作り込んでくれたらなあ、とか、場面の見せ方や伏線の張り方で計算が不足していたという箇所もあった。今回はスピード重視というところだったのかも知れないが、実はそのことでパワーが減衰してしまったこともあったのではないだろうか?
 敵味方入り乱れての後、全員が倒されてしまった中で、ただ一人生き残った男(タカシ)が死体の山を見渡しながら突然哄笑し始めるという光景はかなりシュールである。作り方によっては相当のインパクトを与えられたのではないか? もちろん、そうしたあざとさを嫌うという作り方もある。だが、どこか方向性を統一できないまま、漫然と舞台に上げてしまった感が残ったのが残念だった。
 (ホリが背景だとやはり露出がむずかしかったようで、つい補正でシャドー・ハイライトを多用してしまい、画像が荒れてしまったかも知れません。ブログ用にリサイズすると余計にその傾向が強調されてしまったようです。まあ、藤橋さんならご自分で加工できるだろうとoriginalはほぼそのまま残しました。)
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坂戸高校『鬼ぃさんといっしょ』作・豊嶋了子と丸高演劇部 潤色・坂戸高校演劇部

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 キャストは総勢19名ということになるのだろうか? 農大三高を上回る人数だが、各シーンは1対1、2対1、2対2というような組み合わせで来ているから(集団は集団として登場するから)、処理はしやすかったのではないだろうか? 
 桃太郎が象徴しているのは近代日本なのではないか? そのような仮説を立ててみると一応の解釈が成り立つような気がする。してみると桃太郎が退治しようとした鬼とは近代以前の土着の神々であり、退治=否定し乗り越えたつもりがついに否定し得ず、伏流水となってときおり地表に吹き出ようとする。赤頭巾=西洋に逃げられ、完全には同化し得ないまま、桃太郎が苦悶する様子は近代と前近代に引き裂かれた日本人の心そのものである。
 色とりどりのケープをまとっているのは島の精霊たちだろうか? 嵐を呼ぶその中心で見得を切る鬼はそれら精霊たちのパワーの中心に位置している。コンビニの店員になりすまして姿を現すのも、日常の生活世界にしぶとく生き残っている生命力の証であるように思われる。
 ただ、赤い糸に象徴されるような、人々の心の所属先となってきた求心力は急速に衰えようとしている。御神木が幻となって現れたことがまさにその神秘性が失われようとしているということではないのか?
 さて、そのような解釈を試みたところで、その当否にまったく自信が持てないのは、暗喩として読み取ることが可能であると考えられた表象と、そこで発せられた科白(=言葉)とが多くの場合一致しないことがあげられる。もっと端的にいえば、なにやら思わせぶりな科白と、意味ありげな所作が繰り返されるばかりで、すじ道を見いだそうとしても前後が呼応することもなく、肩すかしを喰らわされているとしか感じられないのだ。かといって、無限にメタモルフォーゼしていく自由さとも無縁だ。
 そうなると、描こうとしているのは神々の没落なのか、それとも地下水脈となって生き残る生命力なのか、失われていくものへの愛惜なのか、復活への願望なのか、それとも私の立てた仮説のような苦悶なのか、まるでつかみ所のない、包みを解いてみたら空っぽだった、ということになってしまうのだ。
 舞台の作り出している雰囲気は私が好きな世界だった。暗喩や象徴は想像力を刺激してくれる。白一色のコンビニのカウンターも出来がよく、セットとして節度があったし、金太郎のまさかりなどの小道具も手抜きがなかった。照明もきれいだった。ただ、役者たちの演技力の支えがあったからあやういところで免れたが、ややもすると学芸会におちいらないとも限らないとも感じた。
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新座柳瀬高校『Alice!~響け、ウエディング・マーチ!編~』原作・ルイス・キャロル 作・稲葉智己

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 また芝居の完成度が一段上がったという印象を持った。細かいことだが、以前は男役の衣装が大きめで、見るからにだぶついていたなどということもあったが、今回はあつらえたようにフィットしていたし、役者たちもきちんと着こなしていた。セットはシンメトリックで美しく、飾りすぎず、必要十分という感じだった。
 それ以上に感じたのは役者たちの進歩だった。これまで脇役に回っていた生徒たちが芝居の中心を担うようになった。表情が格段によくなり、姿勢もよく、力強さが感じられた。白ウサギや料理長に特にそれを感じたが、女王は魅力的になったし、これまでにも場数を踏んできた三月ウサギは力を増し、貫禄のようなものが感じられた。やはり、全国大会まで進出した学校としての責任感とでもいうのか、後を受け継いだ者たちにも、それ相当の覚悟が育まれているのだろうと感じた。
 顧問のtomoさんによると今年は部員獲得にかなり苦心しているらしい。natsuさんのいう通り、今回の芝居ももう数人使える役者が多ければずいぶん説得力が違って来ただろう。だが、それは嘆いても仕方がない。3年生まで引っ張れるのも柳瀬の強みである。1年生が一人きりらしいが、さっそく舞台を経験したことだし、大事に育てれば伸びていくだろう。役者たちの成長を信じて、またよい芝居を見せて欲しい。
 少しだけ注文をつけると、今回は手慣れた手法でそつなくまとめてしまった、という印象を持った。春の発表会が流れた後、新入生をまじえながら急ごしらえで完成させることを優先したという事情は察する。今後の課題でいいから、新しい柳瀬の芝居、稲葉智己の芝居を見せてもらいたい。
 あ、でももう一つだけ。山台に上らせて科白をしゃべらせる手法には異議はないのだが、出番のないときも女王が出ずっぱりというのはやはり辛いものがあったのではないか? かといって、その都度、階段を上り下りさせるのも他の役者との差別化からも望ましくない。ドンデンか何かで登退場させるなんてことは出来なかったのだろうか? まあ、いうだけなら易いものだけれど。
 《おまけ》女王の「ウエディングマーチを聞くと幸せな気持ちになる」というのは共感!メンデルスゾーンの『夏の夜の夢』からで、華やかにして壮大、人を夢心地にする。ブライダルコーラスはワーグナーの『ローエングリン』から。こちらは官能的にしてどこか悲劇的。
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星野高校『階段パフォーマンス』

 部員たちが出場に消極的だったと聞いて心配していましたが、なかなかどうしてユーモラスかつ明るい雰囲気を振りまいて楽しませてくれました。ダンスも上手でした。写真が上手く撮れなくてごめんなさい。


by yassall | 2018-07-04 16:26 | 高校演劇 | Comments(2)

コピスみよし2018第17回高校演劇フェスティバル始動です!

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 5月15日、三芳町文化会館コピスみよしにて、第17回高校演劇フェスティバル第1回実行委員会ならびに出演校打ち合わせ会・会場下見が行われました。今年の出演校と演目はつぎの通りです。松山女子高校と川越高校が初参加です。

 9:40       開場
 10:00~10:05 開会式
 10:10~11:10 松山女子高校『とおのもののけやしき』岩崎正裕(既成)
 11:30~12:30 新座高校『トシドンの放課後』上田美和(既成)
 12:30~13:30  昼休み
         (13:10~ 階段 星野高校)
 13:30~14:30 川越高校『お言葉ですが、東條英機閣下』阿部哲也(創作)
 14:50~15:50 東京農業大学第三高校『バンク・バン・レッスン』高橋いさを(既成)
 16:10~17:10 坂戸高校『鬼ぃさんといっしょ』
            作:豊嶋了子と丸高演劇部 潤色:坂戸高校演劇(既成)
 17:30~18:30 新座柳瀬高校『Alice! 〜パート3 響け、ウエディング・マーチ!編〜』
            原作:ルイス・キャロル 作:稲葉智己(創作)
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 実行委員会メンバー紹介、出演校紹介、大会運営協力校紹介、ホールスタッフ紹介、実施計画の説明の後、会場下見、学校別舞台上声出しタイムがありました。会場下見では会館スタッフの方から舞台、照明、音響など機構説明がありました。
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 2018年コピスみよし第17回高校演劇フェスティバルは

      6月17日(日)    です!

(チラシは来週できあがりの予定です。詳報が入ったらまたアップします!)


by yassall | 2018-05-16 16:04 | 高校演劇 | Comments(0)

2018年春季西部A地区演劇発表会

 4月29日、西部A地区春季演劇発表会の2日目に出かけてきた。28日の1日目には細田、新座、和国の3校の上演があったとのことだが、卒業生の公演と重なってしまい、行けなかった。2日目は朝霞、新座総合、朝霞西が上演した。新座柳瀬は急なことから上演を取りやめたとのことだ。どうしたことかと残念よりは心配が先にたったが、6月のコピスには出演できるとのことだった。

朝霞高校『赤鬼』野田秀樹・作
 「聖」と「俗」、あるいは「貴」と「賤」といったことを考えながら芝居を見ていた。
 『赤鬼』とは私が朝霞高校へ転勤となった年の3年生が卒業公演で演じていたのが最初の出会いである。3人しかいなかったし、中庭での道具もなしの上演だったが、いずれも力のある生徒たちで、1人で何役もこなしながら印象に残る芝居をしていた。台本も読んだ。「聖性」といった問題はかなり早いうちから考えにあったが、役づくりでも舞台づくりでもどうしてよいか検討もつかず、その後部員たちに提案することもなく終わった。どのように解釈し、どのように切り込んでいくかが課題だと思って来た。
 顧問のFさんは前からやりたがっていた。部員たちに提案したのは2度目だという。1度目はずいぶん前の代らしい。よくぞ部員たちが了承したものだと思う。このところ、朝霞はかなり難度の高い芝居に取り組んでいる。部員たちにしてみれば客席に受ける(=笑いがとれる)芝居をやりたがるところだろうが、たとえ高く固い壁に跳ね返されることがあったとしても、私はこうした芝居に真正面から取り組むことも高校演劇のひとつのあり方だと思っている。ああでもない、こうでもない、と思い悩む過程が貴重なのだ思っている。
 後で話す機会があったので、どのように脚本を理解し、解釈しようとしたのかをFさんに聞いてみた。Fさんの口からは「不寛容」ということばが発せられた。とんびとその妹の兄妹は村人たちからのけ者扱いにされている。そこへ異国の民らしき赤鬼(と呼ばれる男)が漂着する。兄妹(とくに妹)は赤鬼を村人たちからかばう。差別される者がさらに下位に位置する者を差別することで自らの境遇から抜けだそうとすることは通常にあり得ることだ。赤鬼が危害を及ぼす存在でないことを知ったことが大きいが、兄妹と赤鬼がなぜ接近できたのか、通じ合えたのかを考えることは大切な観点だ。「不寛容」を入り口とし、不寛容と必要以上の結束の強調(日本を批判する者は「反日」だ)が蔓延する現代を逆照射しようとすることはひとつの切り口である。
 『赤鬼』は人肉食を扱っている。極限的な飢餓にあって人肉食は許されるかどうか、人の肉を食って生き延びた者がその後どのようにして生きられるかは、重いが切実なテーマである。戦後文学の中でも武田泰淳の『ひかりごけ』や大岡昇平の『野火』がこの問題を扱っている。そうした飢餓状態の中での人肉食とは別に、古代や中世の戦闘集団の中で、敵の「力」を自分の内に取り入れることを目的とした人肉食がある。歴史の中では隠されているが、日本でも確かにあったという説を何かの本で読んだことがある。飢餓ではなく信仰(今日では迷信ということになるだろうが)が原因となる。野獣の世界でも共食いは見られるし、チンパンジーなどの類人猿の中には狩りを行うものもある。
 直接的な人肉食でなくとも、人間は他者の命(の全部あるいは一部)を奪いながら生きているというのが真実であるともいえる。自分一人の生のためである場合もあるだろうし、自分が所属する群れ(や国家)の存続や発展のためである場合もあるだろう。意識的な場合もあるし、無意識の場合もあるだろう。知っていて知らないふりをしている場合も多いことだろう。人間の業である。
 そこまで考えて『赤鬼』を振り返ってみる。赤鬼とされた男は確かによそ者であり、具体的には異国からの漂流民であるように見える。「でっかい船が見えた」という者がおり、水銀が兄妹と赤鬼を逃して小舟を出したのはその船に乗り込んで異国を見るためだという。
 実際に日本の海岸に自分たちと容姿が異なり、違う言葉をしゃべる異邦人が漂着したことはあるのだろう。だが、子細にみていくと、赤鬼はそうした漂着民とは異質であるように思われるのである。それは赤鬼の食べ物が花であることだ。赤鬼が花を食べて生きているとすれば、食料のことで人間と競合することはない。土地も資源も相互に争うことはあり得ないのだ。
 そればかりではない。赤鬼は自分を食って生きろ、と人間たちに言い放つのである。(この日の舞台では鬼の肉を食って長生きしたいという見物人に対しての科白になっているが、記憶では小舟の中で飢えに苦しむ同乗者に向かっても発言していたように覚えている。)私はそこに赤鬼の「聖性」をみるのである。野田は人間を超越した「聖性」の表象として赤鬼(まれびと)を描こうとしたのではないか、と考えるのである。
 赤鬼を食ったことを知った妹は村の岬から身を投げて自殺する。妹の自殺を重点に芝居づくりをしていけば人間に対する「絶望」がテーマになる。ところが芝居は兄のとんびのモノローグで終わる。「知恵」の足りないとんびは妹の「絶望」を理解できないというのである。とんびを重点にして芝居を解釈していったらどうなるのか?
 ドストエフスキーの『白痴』を想起している。[知恵」足らずのとんびは赤鬼とはまた違った意味で「聖性」の表象ではないのだろうか? そう考えると、そこには人間の「希望」が見えてくるような気がするのである。
 ※ブログを読んでくれたFさんから、小舟に乗り込んでからの赤鬼には自己犠牲にかかわるような科白はなかった、というメールがあった。私の記憶違いだったのだろう。ある思いが生まれると想念が勝手に膨らんでいくことがままある。いわゆる「深読み」のし過ぎには注意しなければならないが、テキストをきちんと読み込んだという前提のもとに、新しい解釈=切り口を発見していくことはあっていいと思っている。したがって自説を撤回することは今のところ必要ないと考えているが、この間のやりとりで水銀については新しい解釈が生まれてきた。ディスカッションの醍醐味である。テキストレジについての基本的な考え方についても教えてもらった。順当だったと思う。
  ※
 脚本解釈の問題から入ってしまった。3年生3人はよく演じていたと思う。(2年生1人もよくついていったが、まだまだ演技しようという意識が先にたって、役づくりまでには至っていない。上手くなっていくのはこの夏休みに苦しんでからだ。)3人とも1年生のときに招待してもらった試演会のときから見ていた。とんび役の生徒は早くに力をつけてきたが今回も難しい役をよくこなした。妹役の生徒は科白覚えが一番早いのだそうだ。そのせいかどうかは分からないが、これまでは一人芝居になってしまうことが多かった。今回はしっかり他の役者とからんでいた。一番の難役は「普通」のことばをしゃべれない赤鬼役だっただろう。科白を科白としてしゃべれないだけで相当の欲求不満があったはずである。よく耐え、演じきった。私が妹の「絶望」に重点があるのか、とんびの「希望」に重点があるのかに思い悩んだのは、皆それぞれが自分なりに役づくりにとりくみ、一定の到達点に達していたからだろうと言っておきたい。

新座総合技術高校『演劇部、始めました。』Kira・作
 部員が一人足らず、存続の危機に直面した演劇部が、内部分裂を乗り越えて文化祭公演を成功させ、新入部員を獲得するという演劇部物・学園物である。よくあるストーリーといってしまえばそれまでだが、練習をよくしてきたのは分かったし、間の作り方や、山場をどう作っていくかを会得すれば、もっと笑いもとれ、客を引き込んでいくことが出来るだろう。部員が大勢いて、楽しくやっているらしいのも見て取れた。
 感じたことを一ついえば、役の上の名前が分からなくなってしまったのだが、発声がまったく芝居がかっておらず(声が聞こえて来ない、という意味でなく)、なんだか普通の高校生が普通に教室でしゃべっていることばをそのまま舞台に乗せたような役者がいた。それがむしろ好ましく思えてきて面白くもあったし、新しい芝居のかたちの可能性を感じた。

朝霞西高校『朝日のような夕日をつれて 21世紀版』鴻上尚史・作
 朝霞西は何年か前にも『朝日のような夕日をつれて』を上演している。今回は21世紀バージョンであるという。以前の公演がなかなかよかったので、それが超えられるかどうかと思いながら見させてもらった。結論からいえば3年生男子5人の集大成ともいえる出来栄えに仕上がっていた。
 朝霞西の5人も1年生のうちからどこかで見覚えのある部員たちである。あのときのあの芝居に出ていた生徒だな、と思い出しながら見ていて、一人一人の成長ぶりを感じていた。あの頃はふとしたときに声が裏返りがちだったのに、今日はしっかり科白が出ているなとか、動きがとても自然になったなとかである。5人の息もしっかり合っていて、メリハリのある芝居運びが出来ていた。毎日の稽古を一緒に積み重ねていかなければこうは行かないものである。
 そういうわけでパフォーマンスはほぼ完成形といってよいと思ったし、鴻上の難解な科白もしっかり伝わって来た。ただ、芝居が胸に落ちてきたかというと、まだだった。まだだった、というのは、こちらの理解力の問題もあるから、回数を重ねて見れば分かるようになるかも知れないということもある。勢いで走りきってしまったことで、客の心に何かが引っかかる前に行きすぎてしまった、というようなこともあるかも知れない。だからといって、あまり思い入れたっぷりに科白を出されてもこの芝居は死んでしまうだろう。ここではパワーのようなものは確かに伝わって来たよ、とだけ言っておきたい。
   ※
 今回から打ち上げの宴席は遠慮するつもりでいたのだが、やさしいお誘いのことばをいただいて、つい出席してしまった。今年、定年を迎えたMさんの再任用先が地区外になってしまい、Sさんから「M先生も見えるというので」ということばを聞いて、席を共にしたいという気持ちがわき起こったことも理由のひとつである。(出席の理由を述べるのにSさんを引き合いに出したのはそういう経過からであって、自分の失敗や悪事の原因をなすりつけるためではない。むしろSさんの先輩愛をたたえたつもりだったので、その点悪しからず。)
 出席すればやはり楽しかったし、顧問の先生とつっこんだ話が出来たから朝霞の項ような長広舌をふるうことにもなったのである。だが、やはり今となると反省している。昔と比べると出席者が半減している。やはり打ち上げは現役顧問の方々が互いの労苦をねぎらったり、運営上の反省をしたり、各校の劇を批評し合ったりする場でなければならない。自分がそうした中で鍛えられてきたという意識があるから、やはりそうした場として復活させてもらいたいのである。
 もし、我々がいることでよけいな気遣いをさせてしまったり、気詰まりな思いをさせてしまったりしているとすれば、(きっとそんことを面と向かっていう人はいないだろうが)、自分から察して身を引かなくてはならなかったと思うのである。もし、その上で、たまには昔語りでも聞きたい、そのために別の席を設けてくれるとでもいうなら、ありがたく出席させてもらうということでいいではないか?  
 かつて「亡霊○号」を自称したのはKMさんだった。もちろん私たちは「亡霊」を歓待したが、自分もいつしか「亡霊」なりかかっているとしたら、そろそろ「通りすがり」の位置ぐらいまでポジションを移すべきときがきたのだと思うのである。さあ、宣言したぞ!



by yassall | 2018-04-30 20:20 | 高校演劇 | Comments(0)

東大附属中等教育学校『父と暮らせば』

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 顧問のKさんから久しぶりのメール、「4月3日に六本木の俳優座劇場で公演をうてることになりました」とのお誘いをいただいたのは3月4日のことだった。添付されていたチラシを見ると、催し物名は「第26回はいすくーるドラマスペシャル」とあり、4月2-4日の期間中に6校が上演するという。どのように選抜されたのかは知らないが、通常の部活動としての枠を超えたところで高校演劇の発表の場が開かれていることは貴重であるし、旧知のKさんからのお誘いとあれば出かけないわけにはいかない。
 『父と暮らせば』は井上ひさし作で1994年の初演、2004年に宮沢りえ・原田芳雄・浅野忠信出演で映画化された。もともとは二人芝居であったが、映画では浅野が木下役で登場する。また、調べてみるとこまつ座以外では語りであったり、一人芝居であったりする上演例があるとのことだ。
 東大附属も一人芝居であった。なぜ一人芝居という方法を選んだのか、詳しいことは知らない。何でも昨年も学校公演でとりあげた脚本であるという。同一人物が演じたとすれば、その時点では役者となれる生徒が一人しかおらず、その延長であったのかも知れない。そうだとすれば、想像するに演じた生徒にはかねてからの希望があり、一人芝居をうつしかないときに、その状況を逆手にとってこの脚本を選んだのではないだろうか? 同学年に複数の役者志望の生徒がいる中ではなかなか一人芝居を名乗り出るのは困難であろうから。そしてそれが確かだとすれば、演劇に対する向きあい方においても、脚本選択においても、真面目で一途なひとがらが浮かんで来るのである。
 芝居をみせてもらった感想としては、まさにそのような真剣さとさわやかさ、そしてこの脚本にひたむきに取り組んできた者のもつ確信というのか自信のようなものが伝わって来たとまず言いたい。一人芝居としてどこまで出来るか、というのが見どころの一つだったのだろうが、まったく心配御無用であった。嘆き伏している娘のときはまるめた背中からもその悲しみが伝わってきたし、父に変わったときは娘にあたたかい愛情をそそぐ存在に瞬時に変化できていた。声を聞いていて、本当に涙まじりになってしまったのではないかと心配していた次の場面では娘を見守るおおらかな父親の口調に変わっていたときには、ある種の「技」の域に達するものを感じた。娘のときと父のときの違いを声量の違いであらわそうとしたためか、最初のうちは娘の声が聞き取りにくかったが、それは広島弁を早口でまくし立てた結果でもあったのだろう。それはそれで、聞き取れないときがあるのも自然であるともいえる。
 テーマは広島の被爆体験の継承である。被爆者である美津江には忘れようにも忘れられないにもかかわらず、自分からは触れたくない(あるいは未だ言葉に出来ない)体験である。その美津江の前に、広島の記憶を残すために原爆瓦や遺留品を収集している青年木下があらわれる。木下は美津江を見そめ、美津江も木下に引かれていく。しかし、美津江は木下に心引かれていくことで、かえって自分一人が生き残った後ろめたさから「自分一人が幸せになることはできない」との思いに苦しめられていく。数日前から幽霊となってあらわれた父竹造はそんな美津江を慰め、励まし、ときに叱咤する。やがて美津江は木下と生きる決意を固め、父に感謝する。進駐軍の監視ということばが何度も出てくるような時代であり、美津江がただちに広島の語り部になったとか、原水禁運動に参加するようになったとかという話にはならないだろうが、美津江が被爆者である自分を引き受けていく覚悟を固めたことは確かであると思われる。
 政権党の一部から日本も核武装をすべきであるとか、核抑止力に実効性を持たせるために核兵器の持ち込みを許容すべきであるとかいう発言が飛び出す現代にあって、「キノコ雲の下」で何が起こったかに対する想像力を復活させるためにも今日的意義の高い作品である。だが、そのようなテーマ性あるいはメッセージ性を超えた人間愛を作品は持っている。「お前の切ないためいきから(幽霊である)儂の胴体が出来た」なとどいう科白が書ける井上ひさしは本当にすごい人間だと思った。そして、その脚本に取り組むことを決意した生徒の曇りない真っ直ぐな気持ちに心から敬意を表したいと思うのである。
 顧問のKさんがどこまでかかわっていたのかは聞いていない。帰り際にちらとロビーで見かけたのだが、natsuさんとは声をかけ合ったらしい様子があったものの、少し遅れて出た私とは目が合わなかった。終演後はすぐにバラシがあるので、といっていたから、すぐに舞台の方に引き返したのかも知れない。だから、もしかすると「一人芝居をやるならこんな台本もあるよ」と紹介したのはKさんだったのかも知れない。それは分からない。
 それでも、生徒が決意したとき、それを引き受けてやろうとしたのがKさんだったことには間違いないだろう。幕が上がったとき、装置が相当程度しっかり組まれていたことに、まず軽い感動を覚えた。一人芝居を支えていくには舞台装置の作り込みが大切だとの判断からではないか? 調度品などにはやや時代が若いと感じないでもなかったが、吊り物の電灯は視線を集中させる役割を果たしていたし、終盤になって運び込まれた原爆資料を詰めた茶箱も説得力があった。
   ※
 natsuさんとは事前に打ち合わせていたのだが会場に入るとKMさんも来ていた。思えばKさんとも同時代の人間なので何の不思議もないのだが、詳しく話を聞くと最近詩を書いている者同士のつながりで和国の1期生と知り合いとなり、その1期生を担任したのがKさんという巡り合わせがあったのだそうだ。KMさんは所用があるとのことで終演後はまたの再会を約束して別れたが、natsuさんとは新宿のわらび家で一献傾けた。シメに軽めのあがり蕎麦をいただいて9時前には別れたが、ちょうどよい関係ではないだろうか?

 

by yassall | 2018-04-05 00:41 | 日誌 | Comments(0)

精華高校・新座柳瀬高校演劇部東京合同公演「愛もない青春もない旅に出る」

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 14日、精華高校演劇・新座柳瀬高校演劇部合同東京公演「愛もない青春もない旅に出る」を見にシアター風姿花伝まで出かけてきた。公演日程のうち、13日は夜の部のみ、14日には昼の部があったのでそこに予約を入れたのだが、この回にはポストパフォーマンストークがあり、二つの高校が合同公演を打つにいたったいきさつや、「愛もない青春もない旅に出る」という不思議なタイトルが生まれるにいたった経過の説明を聞くことが出来た。詳しくは省略するが、精華高校が「旅する」演劇部であること、新座柳瀬のtomoさんがその精華高校の芝居に惚れ込み、合同公演を打つことを目標としたこと、という運びであるらしい。

 大阪 精華高校『大阪、ミナミの高校生2』作・オノマリコと精華高校演劇部
 tomoさんから噂を聞いていたので、どんな芝居をみせてくれるのだろうと楽しみに見た。最初に部員の一人がホワイトボードを使って「今日の芝居の主題は恋あるいは恋愛だ」と口上を述べる。ここからして、通常の芝居作りとは一線が画されようとしている。
 トークショーには作者のオノマリコ氏にも出席していて、劇の成り立ちについて解説してくれた。反省文の書き方をめぐって女子高校生と担任教師とが日を変えて断続的にやりとりする、冒頭にも、またその間隙を縫うようにして男女の部員たちによるモノローグが挿入されていく、というような構成なのだが、部員たちのセリフのほとんどは各人たちが日ごろの思いや体験にもとづいて自分たちで考えて持ち寄ったものだというのである。
 テーマとされた「恋あるいは恋愛」はあらかじめ設定されたものであるのだろう。恋愛を深めていけばどうしても性の問題に突き当たらざるを得ない。「痴漢も冤罪痴漢も女性専用列車もなくなればいい。男とか女とか(性差が)なくなればいい。…ずっとそう思ってきた。でも、恋をすると違った。」(不正確な箇所あり)というようなセリフと出会うとドキッとさせられる。「性」を否定してしまいたい気持ち」というのはむしろ自らの「性」と強く向き合わざるを得ない年代を迎えたということだろう。その痛々しいまでのとまどい、怒り、おののきが伝わってくる。
 だが、そんなふうに高校生たちの裸のすがたを描き出して見せたことより、ドラマの中にモノローグを差し挟んでいく、というよりモノローグそのもので芝居を構成していこうとする手法に感心させられた。
 しばしば芝居を中断させ、私的なモノローグやアジテーションを挿入していったのは寺山修司である。その寺山芝居について高取英は次のように書いている(『寺山修司』平凡社新書2006)。

 劇を中断し、現実的なセリフによって、「一千万のドラマ」に注意をうながすのは、虚構に耽溺し、物語が終われば拍手をし、現実に戻るような観客と舞台とのなれあいの境界に寺山修司が、がまんできなかったからである。

 そして、寺山がよく「俺は、劇場で行われたことを、拍手で終わりにするのではなく、観客それぞれの現実生活に持ち帰ってもらいたいのだよ」といっていたことを紹介している。
 その寺山とも共通するような演劇なるものへの挑戦、観客を虚構の世界にいざない、幕切れとともに完結させる、というのとはまったく異なった演劇への模索を読み取ったのだ。かといって差し挟まれたモノローグが本当に現実そのものであるのかどうか、虚実ないまぜ、あるいはすれすれのところで演劇空間を成立させようとのこころみであったとも思う。役者たちがときに滑舌が悪かったり、素に戻ったごとくに照れくさそうにしているのも、もしかしたらリアルさの演出であったかも知れないと、一度は引いてみざるを得ないような。つまり、観客もただ舞台に身をゆだねていればいいのではなく、投げつけられるセリフに緊張を強いられている、ということだ。
 校則には「学校内でSEXをしてはいけない」とは確かに書いていない。それは担任教師がいうように「常識」であるからというより、触れてはいけない禁制であるからなのだろう。おのれの「性」に直面し、身もだえしている高校生にとって、その禁制は(keepoutの規制線のように)スカスカの虚構である。あえてその禁制を破ってみることと、規制線の内側にとどまっていることと、どちらが高校生が演じる高校演劇といえるのだろうか? 
 精華高校がいつもこのような芝居作りをしているのかどうかは知らない。ともかくも、上記の問題も含めて、いわゆる高校演劇あるいは演劇そのものの枠を破ってみせようという実験作だったと思う。

 埼玉 新座柳瀬高校『Merry-Go-Round!』作・稲葉智己
 tomoさんとしては精華高校とがっぷり四つに組んでみたいというのが目標の第一だったのだろう。それに相応しく新作(だよね?)で臨んできたし、リーフにある通り、「何かを伝えたいとか、何かを訴えたいというよりも、『こんな面白いお話しがありますよ』と物語りたい」とのことば通りの芝居作りだったし、「新座柳瀬の芝居の『型』」ということばも出てきたが、今あるものをすべて出してしまおう、というところだったのではないか? たぶん部員総出演というところも含めて、その意気込みやよしとしたいが、率直にいえば脚本の面でも、芝居の面でも、少々作り込み不足のものを感じた。
 地中海のとある島に君臨する偽貴族がいて、その貴族を利用している全権総督がいる、しかし偽貴族は引退を希望しており、後継者を探そうとするところから騒動が持ち上がる…という設定なのだが、その設定がツカミのところでよく伝わって来ない。複雑な事柄を説明的に述べられても困るのだが、偽貴族がいることで全権総督にどのようなメリットがあるのか、偽貴族の側にはどのような見返りがあるのか、引退したがっている理由等々が謎のままなのである。たぶん、何か大事なセリフを聞き逃してしまったのだろうとは思うが、そもそものきっかけのところで躓いてしまった。ラストのどんでん返しもよく出来ているといえば出来ているのだが、まんまと3、40万ドルをせしめて島を逃亡したアンジーが後継者の席にすわるまでのルディーとレベッカの決断、アンジーが心を決めるまでの過程ももう一言か二言でいいから欲しいところだった。
 オスカーとエディーが最初は欲得づくでアンジーに近づきながら、いつしか虜にされていく(ですよね?)過程も、アンジー側が淡泊すぎたことばかりでなく、オスカーとエディーの側の心理変化も不足していたのではないか? マーガレットとエリーが大金持ちにありがちな傲慢さゆえのおしおきを受けるというのはお約束通りとして、確か二人とも最初はオスカーを追っていたはずなのに、エリーがいつのまにかエディーにぞっこんになってしまうのはどのようなきっかけからだったか、どうも印象に残っていない。
 さて、tomoさんとしてはもう一つのねらいがあったのではないだろうか? それは卒業生3人の集大成とともに、この芝居で主役を交代させようということではないかとにらんだ。ただ、素材感は私も認めるところだが、表情の豊かさとか、セリフの切れとか、まだまだ鍛えられていないと思った。さわやかさだけを頼りにしてはいつまでも持つものではない。他の役者たちも含め、これからどのように育てていくか、楽しみにしている。どうも身内意識があるせいか、今回は辛口に終始してしまったようだが、最後まで楽しく見られたことはいうまでもない。
  ☆
 往路は西武池袋線椎名町駅から歩き、帰路はnatsuさんといっしょに下落合駅まで歩き、西武新宿線で新宿へ出た。もちろん二人で一献傾けようという算段をしていたのだ。natsuさんの長旅の疲れが気になったが、二人だけということもあり、酒もすすみ、突っ込んだ話まですることが出来たので、楽しくも深いひとときだった。
 さて、この劇評はまたしてもnatsuさんに先を越されてしまった(「18→81」)。natsuさんには昨日の酒が残らなかったのだろうか? 本当はnatsuさんのブログでほぼ言い尽くされているようなものなのだが、昨夜の約束もあるので後出しながらアップする。


 



 

by yassall | 2018-03-15 20:06 | 高校演劇 | Comments(2)

2017年埼玉高校演劇中央発表会

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 11月18・19日、埼玉県高等学校演劇中央発表会が開催された。今年も写真記録の係を依頼された。今年はメインのIさんがフルタイムでいられるというので、半ば趣味の延長という気楽さで引き受けた。何にしても2人というのは何かのときにはカバーし合えるという点で心強い。Iさんもそう思ってくれたならうれしいことだ。
 趣味の延長というのは、具体的には新しい機材を試してみたかったということである。D750はフルサイズであることに加えてハイライト測光という測光方式が選択できる。AFも-3レベルの暗所に対応し、f8のレンズでも合焦可能なフォーカスポイントを備えている。購入の動機は35mmフイルム時代のレンズが使えるというのが最大の決め手であったが、舞台撮影に威力を発揮するかもというのも大きな要因であった。
 スポットライトに照らされた人物を撮るとき、もっとも懸念されるのは白飛びである。その点、ハイライト測光は確かに効果があると感じた。マイナス側よりプラス側に露出補正が必要なケースが多かったほどである。ただ、ミラーレスの場合は撮影前にモニターで補正の適不適をある程度まで確認することが可能だが、一眼レフの場合は勘に頼りながら、また撮影後の画像を確認しながら値を決めていかなくてはならない。どうしても試し撮りの枚数が増える。
 ファイルをパソコンに落とし、一度だけ画像チェックをした段階だからまだ何ともいえないが、ピントについてはm4/3のG8と比較して飛躍的に向上しているかどうかは微妙である。舞台の場合、サスにしろシーリングにしろ、トップからの光が多い。そのためか、どうしても顔や首回りに影が出てしまう。それを避けるためには露出を開けることになるから今度はまた白飛びが心配になる。最終的には枚数をかせいでおくしかなさそうだが、いずれにしてももっと使い込んでおくことが大事だろう。重たいカメラだから三脚の使い方あるいは選択も考え直さなくてはならないかも知れない。
   ※
 さて、カメラの話になると際限もなくなってしまうが、審査の結果は下記のようであった。

 最優秀賞   越谷南高校「宵待草」
 優秀賞一席  秩父農工科学高校「Solid Black Marigold」    (以上は関東大会に推薦)
 優秀賞二席  芸術総合高校「朝がある」
 創作脚本賞  越谷南高校「宵待草」斑鳩里志・作

 最優秀賞・優秀賞一席とも顧問創作である。今年は秩父農工科学高校の芝居に注目させられた。高校生が生徒会室に集まってきては生徒会活動にあたったり、文化祭準備のためにマリーゴールドの造花を作ったりしている。生徒会室を取り囲んでいるのは鉄筋がむき出しになったコンクリート建築の廃墟のようである。そこへ転入生がやってくるのだが、その転入生は生徒会メンバーの多くが卒業した小学校で、かつて皆がイジメの対象にした生徒だった、というのが物語の発端である。
 イジメを取り上げているとはいえ、その場でイジメが展開されるのではなく、過去のイジメや知らんぷりを反省して謝罪し合っていくという逆ベクトルになっている。暴力の連鎖をさかのぼっていくと「見ていたのに助けようとしなかった」から「知ろうとしなかった」ことの罪悪にまでたどりつく。
 「サイコパス」の問題が出てくるところが少しわかりにくかったが、「共感」の欠如というあたりが焦点になるのだろうか? そのあたりまで突き詰めたところで、一転してテロの問題が提起される。ここで舞台装置としての廃墟の意味も明らかにされる。具体的にはシリア空爆の光景である。カナトの妄想癖というのは言葉を変えれば想像力であるのだろう。カナトは想像力で世界とつながったのである。
 マリーゴールドの花言葉は「友愛」と「絶望」なのだそうである。ラストは爆撃機の飛来音らしき音響でしめくくりとなるが、「絶望」的な状況ばかりが提示されたのだとは思われない。「絶望」に突き当たったあと、なお「友愛」の道の探求を伝えようとしたドラマであるとみた。「絶望」の底まで落ち込むことで、はじめて「希望」を切実に希求することがあるように。
 今年夏の宮城大会を振り返った小池さんの文章に、「誰も掴みだしていないようなココロノカケラ」を舞台化していきたい、というような一節があった。昨年の芝居で秩父農工がめざしたものが何であったか少しばかり理解できたような気がしたが、私としては今年の方が作品として優れていると思われた。直前でひねりの入る変化球ではなく、ストレートにメッセージが伝わってきたように思えた。
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 越谷南高校の芝居は審査結果の発表の以前から周囲の人たちの間で評価が高かった。ただ、どうしてか私は芝居に入っていけなかった。理由としては幕開け早々にちょっとした撮影上のトラブルがあったことがあげられるかも知れない。ツカミのところをツカミ損なってしまった。
 だが、そればかりではないように思う。様々な人間模様が延々と繰り広げられていくのだが、いったい何を伝えようとし、どこへ向かって時間が進行しているのか、そのかけらさえも心に引っかかってこないのだ。
 大正という時代の雰囲気を表現してみたかった、というならそれでもいい。激動の昭和の前夜、日本の近代史の中でも特異な位置を占める大正に心引かれる気持ちも理解できないわけではない。だが、もともと「大正浪漫」などというのはあまり信用していないが、どこか頽廃的なまでの爛熟を表現するには役者があまりに若すぎる。フリーラブを唱えながら先へ進もうとするとたちまち封建的な家制度の壁に突き当たらざるを得なかった挫折が表現されているか、といえばそれは無理だっただろう。やがて日本を飛び出していった東郷青児、アナキスト大杉栄らが人物群像として配され、豆腐屋に「シベリヤ出兵以来、どうにも不景気で」というような台詞をしゃべらせることでもう一つの大正史が描かれそうにもなったが、芝居を立体的にするまでには至らなかったように思う。
 以上のようなものいいになってしまうのは目下のところ私が次のような「大正」観に大きく影響されているからかも知れない。実際、急速な資本主義の発達の中で労働問題は深刻化していったし、昭和の戦争の時代に兵士として動員されていった圧倒的多数は大正生まれであったのだろう。「大正浪漫」「大正デモクラシー」は歴史の一面でしかない。

「大正の文化を支配した普遍主義が、西洋市民社会の日本社会への内面化であるという幻想を知識階級に抱かせたときから、明治近代国家が帝国主義国家に変質し、まずアジアの中で急速に孤立の度を深めていったのは、皮肉な運命といわねばならない。」(桶谷秀昭『夏目漱石論』)
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 新座柳瀬高校の「Lonely My Sweet Rose」は選外となってしまったが、深い井戸から水を汲み上げてくるような、あの切ないまでのリリシズムは確かに会場に伝わったと思う。
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 所沢北高校の「のぞく・はいる・ほる」には、実は心配と期待とが相半ばしていた。心配というのは地区発表会で私たちが目の当たりにした通りの芝居が中央発表会で再現できるだろうかだった。(さらなるレベルアップを目標にしてもらいたかったのはもちろんだが。)どうしても守りに入ってしまうことで、台詞のやりとりでは微妙に間の狂いがあったとは思う。衣装を夏物から秋物(一部不統一)に変えてしまったから、何となく軽快さが失われてしまった(あわせてそれぞれが自分を守る鎧を持ってしまった)ようにも感じた。だが、総体としては上出来だったと思っている。
 地区発表会での劇評にも書いたが、この重いテーマを正面から受け止め、自分たちなりに脚本を読み込み、理解しようとし、舞台化しようとしていた。頭だけ(?)で演技しようとしているというような言われ方をするかも知れないが、それを言ったら頭を使わずに演技しようとしていた学校が他にあったのかと問いたいし、舞台化といったとき、彼らが身体表現の重要性に気づかず、おろそかにしていたとは思えないのである。(Eが声を張りすぎてしまったために怒りの中にある嘆きを表現しきれなかったというようなことは確かにある。頭ではEの心情を理解できていても、心が作れていなかったということかも知れない。それでもこの台本にとりくんだ意気込みは評価してやってよいと思うのである。)
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 こうして振り返ってみると、確かに私の芝居の見方はメッセージ性に偏重しているのかも知れない。(本当は耽美的な世界も好きだし、不条理や怪奇、純粋なアクションやコメディに対する評価がないわけではないのだが。ただ、それらを見せてくれるとしたらプロでしかないだろう。)その意味では私は観劇者としては初歩の初歩なのだと思う。だが、大多数の観客はその芝居が何を自分に伝えてくれるのか、どのように自分を変えてくれるのかを待っているのではないだろうか? であるなら私は玄人であろうとは思わない。





by yassall | 2017-11-21 01:32 | 高校演劇 | Comments(2)

2017秋の高校演劇④大宮地区発表会

 大宮地区の各校について感想を述べる。1年生が主体の若いチームが多かったので、これからの劇づくりに参考になりそうなことを話させてもらった。ベテランの人にはお耳汚しかも知れない。

上尾高校「ミス・ダンデライオン」成井豊・作
 2年生5人、1年生7人という安定した力を発揮できそうなチーム。顧問は西部A地区でもご一緒したKさんである。演目の選び方にしても、出演人数にしても、ともかく皆で演劇を楽しもうという姿勢がみえる。
 科白はしっかり伝わって来た。ことばを大切にしている姿勢がうかがえる。場面場面のやりとりもしっかりしており、感情も乗せられていた。
 芝居のテンポも作られていたが、芝居を進行させるためであることは理解できるものの、語気が強すぎるところが多かった。強い感情を強い声で表現しようとばかりすると芝居が薄っぺらになってしまうものだ。
 客は役者の顔をみたいもの、声を聞きたいものとはいえ、正面を向きっぱなしで会話として成立していないところもあった。くすぐりの呼吸なども覚えていって欲しいところだ。
 キャラメルボックスのクロノスもの(タイムマシンもの)では一番上出来の作品だと思う。みな好人物ばかりで、劇中に人間的な対立はない。最大の対立は人間対時間なのであろう。ハッピーエンドの向こうに、人間の根源的な悲しみを見るのは私だけだろうか?

桶川高校「ハッピーエンドには優しい嘘を添えて」ひよこ大福・作
 不思議な台本である。たった1人のテロリストによって壊滅した世界、人々は復讐の連鎖の中にあり、生きる目的を失っている。絶望の中で一筋の光明を見いだそうとしている。
 描き出したい世界があるのだろうが、描き切れなかった。まず、それらしい舞台美術を作り上げなければならなかったが、装置も衣装もきれい過ぎた。ドアなどはとてもしっかり作られており、室内の調度類もレイアウト良く並べられている。だが、犯罪者たちの町で身の置き所とする砦あるいは隠れ家というより、地方から進学してきたそれなりに裕福な大学生が借りたワンルームマンションという風情だった。
 昔、「身体が嘘をついている」というような批評のされ方をよくした。科白回し自体は男のニヒルさや、少女の世界に対する憎悪、運び屋の斜にかまえた感じは出ているのだが、身体に現れていないからよけいに嘘っぽく見えてしまうのである。眼をさましたとき、自分が睡眠薬を盛られたことに気づいたときの反応はそんなものだろうか? と例をあげたが、そこは理解してもらえたように思う。

大宮商業高校「犯人(ホシ)に願いを★」武庫次元・作
 警察署内に女性に対する犯罪を専門にあつかう浜崎レディースを創設するという物語。あれこれ難しいことを考えずに、いかに楽しみ、楽しませる芝居ではないかと思った。
 リアルさよりはオシャレ感を出した方がよいと漠然と考えていたが、慣れないヒールを履いて、それなりに頑張っていた。ただ統一感は今一つで、上司とされた石原こそスーツで決めて欲しかったし、他の署員たちはもっとカラフルでもよいと思った。
 芝居の方はまだまだ台本を追いかけている段階だと思った。客は芝居には台本があるのは知っている。だが、役者たちがただ順番通りに台本に書かれた科白をしゃべっているだけ、と見えた途端に引いてしまうものだ。
 舞台の上では一つの時間が流れていて欲しい。それは現実の(リアルな)時間と隔たったものではあるまい。例えばラストで、電話がかかってきて本格的な捜査が始まろうという場面で、事件の概要をつかむための時間はあんなに短くてよかったのか、というようなところを再点検してもらいたい。
 一人一人は熱演しているし、船越の飄々とした感じなどには惹かれるものがあるのだが、ライバル同士だという哀川と間などの対立軸なども生かされていない。そのあたりの勘所がつかめたらきっと伸びていくだろう。まずは芝居が好きになることだ。

伊奈学園総合高校「破稿 銀河鉄道の夜」水野陽子・作
 初見だがいい台本を選んだと思った。題名には「銀河鉄道」とあるが宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」をなぞったものではない。すでに3年生で演劇部を引退し、受験の準備をしなければならないカナエであるが、1・2年生が大会の打ち合わせで不在の部室で、今は亡き友であるトウコと会話をするという内容である。
 受け取った台本に、元々は関西弁で書かれていたが標準語に改めた、との断り書きがある。科白の端々や年月日などから背景には阪神淡路大震災があるようだ。トウコと二人で読み合わせをしている台本「想稿・銀河鉄道の夜」(北村想)は震災のために春の発表会が中止となり、上演されずじまいとなったときのものらしい。トウコの死が震災と関連があるのかどうかは不明だが、それ以上に深入りされていなのでそれ抜きでも成立可能な芝居であるかも知れない。
 ※実は最初のうち、私は背景として阪神淡路大震災があるのに気づかず、相方のFさんに指摘されてそれと知れた。それくらい前面に出されてはいないが、きっと関西の人々は「地震」という一言や年月日からすぐにピンと来るのだろう。
 3.11のあと、私たちは自分の生き方はこのままでいいのか、日本はこのままでいいのか、という深刻な問いを投げつけられた。震災のためか、友の死のためかは判然としないが、カナエも自分の生き方あり方はこのままでいいのか、という問いを突きつけられたようだ。単に受験勉強から逃げているのではなく、停滞していたり、ましてや逆行しているのでもないのだろう。
 そんなカナエにトウコは語りかけ、自分を取り戻すための手助けをし、やがて銀河鉄道に乗って去っていく。冒頭に述べたように宮沢賢治の作品をなぞったものではないが、一時を死者と共に過ごすという点で作品の核心をつかんでいると思った。
 芝居の方は演技エリアを広く取りすぎたためか、単調になるまいとの工夫からだとは思うが不自然な動きが目立ち、やはり科白と身体とがバラバラだった。距離感のとり方などをつかんでいくと芝居も向上していくだろう。台本に真摯にとりくんでいることは伝わってきたから。

上尾南高校「海がはじまる」曾我部マコト・作
 客電が落ちると同時に波音とウミネコの鳴き声が聞こえてくる。それだけで客の期待感を高めてくれる。なかなか力のある学校だと思った。
 目線・距離感・声量なども正確だ。遠く沖合を見つめている目と隣にいる級友を見つめる目とはきちんと区別がついたし、立ったまま話しかけているときと隣のイスに腰かけているときの声量も使い分けている。前の学校では演技エリアを広く取りすぎないようにとアドバイスしたばかりだが、4人で舞台いっぱいを使っても不自然でなく、3対1、2対2の関係をきちんと作り出している。無対象演技も出来ている。
 舞台装置(具体的には来賓用のイス)がもの足りなかったのと、受けの演技の崩れ、バランスの悪いところがあったことで点数を下げたが、稽古もしっかり積んで来たことは見てとれた。
 ラストは地明かりを消してホリのみとし、4人のシルエットを見せた。きれいだったし、この瞬間が記憶として心の中に長く残っていくことを暗示させたが、表情をみせたままのドン切りでも良かったのではないかと思った。

大宮開成高校「夏芙蓉」越智優・作
 パンフに学年が記載がなかったのであとで聞くと、2年生が1人いて今回はスタッフに回った、昨年は出場せず、今年は1年生のみのキャストで臨んだとのことである。いうなれば再スタートの開成高校が選んだ台本は夏芙蓉。しかも、4人のうち2人は男子というキャスティングである。
 しっかりした台本に取り組むのはいいとして、いったいどうなることかと心配だったが、男子の1人のキャラクターに助けられてあやうく成立したような、しないような……。
 だが、声量はバラバラだし、立ってはポケットに手を突っ込んだまま、坐っては中心となる千鶴と舞子が向かい合ったのはいいがずっと横向きのままという、たぶん本人たちとしてもほろ苦い出発だったのではないか。それでも、ともかくも一本の芝居を作り上げたという充実感、スポットライトを浴び、幕が降りるのと同時に起こる拍手につつまれた快感を味わったら、また次の芝居づくりに意欲を燃やしてくれるに違いない。
 その参考になれば、ということだが、私が生徒たちに言ってきたことは「台本が手から離れてからがはじまりだ」ということ。ややもすると、科白を覚えたときが稽古の終わりになりがちで、実際そこまでが苦労なのだが、芝居づくりもその面白さもそこからなのである。
 大事なことは相手の科白をよく聞くこと。そうすることで受けの演技が出来るというのはもちろんだが、その次の自分の科白がどうして出てくるのかは相手の科白を聞いて初めて理解できるのである。
 すぐに演技をしようと思うのではなく、最初のうちは棒立ち状態であったとしても、まずは科白のやりとりを何遍も繰り返すこと。いきなり味付けから入るのではなく、じっくり煮込んでいく時間が必要なのである。
 演技といえば、最初の明かりのスイッチを探す仕草がいただけないという話もした。場所は教室であることは分かっているのだから、少なくともスイッチがある高さに対する見当はつくはずである。やみくもに手を動かせば手探りしている演技になるというわけではない。これも良く言われたことだが、芝居という大嘘をつくためには小さな嘘をつぶしていかなくてはならないのである。

岩槻高校「前略 工藤俊作様」坂本鯉兼・作
 これも不思議な台本。「探偵物語」に憧れを持つらしい私立探偵須藤順作が繰り広げるアクションドラマというところだろうか? 
 オープニングは成功したといっていいのかも知れない。客電落ちと共に派手目の音楽が鳴り響き、緞帳が上がると探偵事務所らしいセットが浮かびあがる。上ソデから出前持ちの声がするどんぶりを捧げ持った順作があらわれ、真ん中のデスクでラーメンをすすり始める。そのいでたちは真紅のシャツに黒のスーツ、ネクタイは白という取り合わせである。
 だが、中途から失速してしまったのは、どのようなトーンで芝居づくりをしていくのか、共通意思の形成が不十分だったのではないか?
 台本選び、キャスト決め、読み合わせという初期段階で、キャスト・スタッフ全員で芝居のトーンをどうするか、その方向性について話合っておかなくてはならない。この芝居でいえば、リアルさやシリアスをめざす芝居ではなく、コメディタッチのアクション芝居であるというようなことになるのではないか? そうすれば、めざすところはスピード感に富んだオーバーアクション、多少の台本の矛盾や無理すじを突き抜けてしまう勢いが命になることが理解できるはずである。

大宮高校「憂鬱傀儡めらんこりっくまりおねっと」結城和奏・作(創作)
 不思議を超えて摩訶不思議ともいうべき台本。「不思議の国のアリス」をベースにしたファンタジーということになるだろう。舞台美術・衣装・メイク・小道具を動員して、いかにファンタジーの世界を作れるかが芝居に入ってもらうための入口かなあ、と考えながら幕開けを待った。
 舞台装置については会館の制約や予算の関係もあって、そう大がかりなものは作れないという場合もあるだろう。最低限必要なものを効果的に配置することで、あとは客の想像力に頼るという選択もある。その場合でも可能な限り質感の良いものを揃えたい。
 また、特にこの芝居のような場合には、衣装や小道具にはぜひこだわりを持ってもらいたい。大道具の方には疑問があったが、衣装の方はかなり作り込んで来たことが見て取れた。デザイン・素材・色彩もあれこれ吟味し、全体の取り合わせにも注意を払い、衣装合わせを繰り返しながら準備していったのだろう。意気込みが伝われば芝居の方にも集中力が向く。
 ファンタジーといってもほのぼのとしたところは全くない芝居だった。Fさんからダークサイドということばを教わったが、帽子屋が血染めの衣装であらわれたり、時計屋が後ろから首を絞められたり、殺伐といっていいような光景が繰り広げられる。ファンタジーは人間の深層心理に迫るものだから、ある種の残酷さを秘めているのはむしろ当然なのかも知れない。「アリス」にだって女王は年中「首をはねてしまえ!」と命令を発している。ただ、どうせならもっと人間の深いところに触ってくるようであって欲しかった。
 描きたい世界があるらしいのは理解できる。思いがけない黒幕がいたり、一度示された結末をもう一度ひっくり返してしまうようなどんでん返しがラストに準備されていたり、ドラマチックさも出したかったのだろう。だが、最後まで秘密にしておきたかったのは分かるとしても、それなりの伏線が用意されていないと突然芝居が飛んでしまったという印象しか持ち得ない。ドラマなくしてドラマチックはない。
   ※
 以上で劇評を終える。今年のCブロックは西部B地区と大宮地区との組み合わせである。Cブロックの中から2校を11月の県中央発表会に推薦するまでが私たちに委任されたお務めである。結論からいうと、芸術総合高校と所沢北高校を選ばせていただいた。
 選んだ理由についてはこれまでの文章を読んでもらいたい。
 西部B地区では他に所沢高校、飯能高校を候補にあげ、4校の中から選抜した。大宮地区では上尾南高校、上尾高校を評価したが西部B地区の2校には及ばないと判断した。
 西部B地区の発表会は約1月前であった。2校には結論が出るまでずいぶん長い期間をお待たせすることになった。もう一度モチベーションを引き上げてさらに芝居を作り込んでもらいたい。
  ※
 前回、審査員としてのあり方を考え直す時期が来たかも知れない、というようなことを書いた。あまり考えが深まってはいないのだが、定年後これだけの年月が経過すると、同じように学校現場で芝居づくりに関わってきた者の立場というには隔たりを感じるようになった。とすれば、まずは1人の観客として芝居をどのように見、どのように感じ、何を考えたかを根拠にするしかないのではないだろうか?
 キーワードは「変わる」ということではないかと漠然と考えている。高校生たちが演劇に関わることでどう変わったのか、人間理解は深まったのか、人と協力しながら何かを作り上げることを学んだのか、テーマの追求を通して何かを考えるようになったのか、創造のよろこびを感じ取ったのか?
 演劇には人を変える力がある。それは芝居を見た人の側も同じだろう。新しいものの見方を知って世界が変わって見えた、おなかの底から笑うことで心のこだわりが消えた、などなど。
 上手な芝居と下手な芝居とは確かにある。だが、上手な芝居であるから心に届いてくるとは限らない。舞台に立った高校生が、ああこの生徒は今、本当の自分と出会っているのだな、ということが確かに伝わってくる一瞬がある。そんな一瞬に立ち会えたらこの上ない喜びである。
 観客もまた、自分が変わることを期待して劇場に足を運ぶのだろう。演劇は人を変えるが、それは人に自分を変える力が秘められているからである。その変化が自分の深いところで起こったとしたら私はそれをすぐれた芝居であるというだろう。

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(写真は大宮地区の発表会場となった宮原コミュニティセンター。間口はそれなりにあるのだが奥行きが狭かったり、ソデ中にピアノが置かれていたり、バック幕が大黒ではなく赤幕であったり、条件として良かったとはいえない。いつもは西部文化センターを使っているのだが、今年は予約がとれなかったそうだ。もちろん、その辺は頭に入れながら芝居を見せてもらったが、やりたいと思っても出来なかったことがさぞ多かっただろう。)


by yassall | 2017-10-10 16:12 | 高校演劇 | Comments(0)