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一年を振り返って

 今年も暮れようとしている。このところ、主に一年間の読書を振り返ることで、今年考えたことなどをまとめている。ところが今年は系統だった読書どころか、読みかけになった本も続出で、到達点はもちろん現在地点でさえ見失いがちである。
 退職したての頃、確かにある種の期待感があった。時間的にも人間関係上でもフリーになることで、ものごとを自由に考えることが出来そうに思えたのである。だが、まる7年もたつと次第に自分の中でチリのように積もってくるものもある。7年前はすでに自分にとって過去になりつつあるのである。
 また、体調に不安があるときなど、じっと自分の身体と相談しているなどという時間も増えてきた。容易に前に進めないぞ、という感じがあるのである。
 それでも、停滞と充電との区別くらいはつくつもりでいるが、どこかで流れが滞っているとしたらそれがどこかを突き止めることは出来るかも知れないと、何冊かだけでもメモに止めておきたい。

 木村敏『自己・あいだ・時間』ちくま学術文庫(2006)
 木村敏『自覚の精神病理学』紀伊國屋書店(1978)

 木村敏は精神科医にして精神病理学者。本を読むきっかけになったのは志木高時代の知人であるTさんの推薦による。Tさんらと3月に1回程度のローテーションで読書会を開いていることは以前にも紹介した。Tさんは今も大学でカウンセリングの講座を持ち、またカウンセラーとして活動されている。現役時代からの研鑽のたまものだと思う。そのTさんから読書会のテキストにどうかと提案があったのだ。
 木村敏の方法はフッサールやハイデガーといった現象学や実存主義、ときには西田哲学を援用しながら、精神疾患を人間学的に理解していこうとするところにある。さらにいえば、精神医学史を再検証し、西洋的二元論を克服するための理論構築をめざして行こうとしている。
 今回は分裂病(※)理解を中心とした。分裂病については高校時代に宮城音弥の書物で初めて知った。以来、とくに芸術と狂気の関連についての関心から、折に触れて本を読んだりした。30代のころだったか、荻野恒一の「現存在分析」理論に強く引かれ、何冊も本を読んだ記憶がある。
 とはいえ、継続的に研究を深めてきたわけでもなく、Tさんのようにカウンセラーとして疾患に直面してきたわけでもない。木村はノエマ・ノエシス(ただし、木村はフッサールの用語とは異なるとしている)、間主観性、「あいだ」、「共同世界」、habenとSein、アンテ・フェストウムとポスト・フェストウム(時間性)などの用語を駆使して理論を構築していく。たいへん刺激的で興味深い論考であると思ったが、その正しさがどの程度担保されるのかについては私には断言できない。
 木村は、分裂病は「対人関係の困難」ではなく「自己の個別化」の失敗が原因であるという。説得力に富んでいるが、木村自身も述べているように、完全な達成か挫折かを相互排除的に分けることは困難であろうし、他の精神病においても大きな意義を持つとすれば分裂病に固有の病因であるかどうかも断言できない。分裂病の中心的症状が「自閉性」にあるのか「妄想性」にあるのか、固有文化や時代背景は発病や病像に影響を与えるのかどうかも私は確たる認識にはいたっていない。
※病名としての「分裂病」は現在「統合失調症」に変更されている。ここで「分裂病」の用語を使ったのは書物で使用されたままを使ったということである。なお、森山公夫の書物で知ったのだが、「分裂病」の名の起こりは「連想心理学」が主流であった時代に、正常な「連想」の働きが断ち切られているという認識からであった、ということだ。とすれば、語感の違いはあるものの、「統合失調」と言い換えても病像の捉え方までもが変わった、ということではないような気がする。
 なお、これは木村の著作のみからの知識ではないのだが、分裂病を「疾患単位」としたクレペリン・ブロイラーの流れに対し、「汎精神疾患論」・「単一疾患説」を提唱する人々も存在する。精神疾患を広く「共同性の危機」と捉え、その現れ方によって多様な症状が顕れるという説などである。

 塩川伸明『民族とネイション』岩波新書(2008)
 井上寛司『「神道」の虚像と実像』講談社現代新書(2011)

 『民族とネイション』は上記の次の読書会で私からテキストとして取り上げてもらった。レポーターはもちろん私がつとめた。
 日本ばかりか、世界中に蔓延しようとしている自国中心主義・排外主義の根底にはナショナリズムがある。たとえば民族解放をかかげて戦われたベトナム戦争時、ナショナリズムは善であった。塩川もナショナリズムはさまざまなイデオロギーと結合すると述べているのだが、今日の反知性主義・歴史修正主義と結びついたナショナリズムはいかにも気味が悪く、かつ危険である。
 そのようなナショナリズムと対抗するために、まず学問的な基礎知識を得たいと思ってテキストにした。塩川のいうとおり、当初は何らかの政治的意図をもって「作られた」としても、大衆化したナショナリズムはときとして制御不能になり、暴発する危険性を秘めている。ナショナリズムに対抗、あるいは制御のためには、その正体を知ろうとすることが大切だと考える。
 次の『「神道」の虚像と実像』もその関連で読んだ。古代において日本では「神」は依り代にそのつど降りてきてもらうものであって、「神社」に常駐するものではなかった、「神社」の建設は仏教の影響とそれへの対抗によるものである、というところからはじまる。「神社」神道もナショナリズムと同じように、他の国家への対抗として歴史的に作られて来たのである。
 関連本ということでは、読みかけではあるが、

 立花隆『天皇と東大』文春文庫

 がある。明治国家建設のために近代天皇制が「作られた」ように、東大も日本の近代化をすすめるための装置であった。「天皇機関説」問題にみられるように、学問の世界でも国粋主義の嵐は吹き荒れていたのである。

 真継伸彦『鮫』河出文庫
 真継伸彦『無明』河出文庫
 真継伸彦『光る声』新潮文庫

 今さらながらこの夏には真継伸彦の小説をいくつか読んだ。書店では手に入らなかったので、Amazonを通して古書を取りよせた。前三作では主として浄土真宗をめぐっての信仰の問題、『光る声』では政治と党派の問題が掘り下げられていると思った。

 真継伸彦『心の三つの源泉』河出書房新社(1989)
 
 なども読んだし、つぎの本も同書に紹介されていたことから読んだ。

 胡桃沢耕史『黒パン俘虜記』文春文庫

 他に小説では帚木蓬生が筆力も確かであり、ミステリー仕立てではあるが、取り上げられている題材も興味深いものであった。薦めてくれる人があったからだが感謝している。

 帚木蓬生『聖灰の暗号上下』新潮文庫
 帚木蓬生『白い夏の墓標』新潮文庫

 平野啓一郎『透明な迷宮』新潮文庫

 平野啓一郎にはなかなか手が出なかったのだが、この本を読んで若手の中では筆力に確かなものがあると感じた。
  ※
 来年は柄谷行人『世界共和国へ』で得た見地をもう少し深めてみたいことと、原点に返って日本近代文学の見直しを再開したいと今は思っている。


by yassall | 2017-12-31 16:45 | 雑感 | Comments(0)

白山神社の紫陽花

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 20日、紫陽花を撮りに白山神社へ出かけて来た。紫陽花は開花期間の長い花だが、やはり季節が深まると枯れた花が多くなる。はじまりの頃が撮りごろだと思うのだ。
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 白山神社が紫陽花の名所だと知った。はて、どうやって行けばいいのだろうと調べてみると、何のことはない、三田線の白山で降りてすぐが参道なのである。昔、東洋大の司書講習に1年通ったのに、こんな場所があるとは気がつかなかった。まあ、夜間講習だったから行って帰るだけだったが。
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 この季節、紫陽花はどこでも咲いている。ロケーションを選択することでモチベーションを上げようというのである。
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 この日はGM5を持ち出した。町場の散策なので軽快さを求めてだ。小石川植物園でも使用したばかりだったのに、なぜか半押しシャッターが利かなくなった。
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 アイセンサーAFをoffにしてみたり、電池を一度抜いて電源を入れ直してみたりしたが、復旧しない。モニターでみるとピントは合っているようなのでそのまま撮影を続けていると、何かの拍子にリセットされたのか、突然復活した。
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 修理への持ち込みを覚悟していたのに、原因不明のまま復旧されてもかえって不安である。修理を依頼しても症状がなければそのまま返って来るだけだからだ。
 家に帰ってからも、同様の症状が出ないか身近において試してみるが、その後は平気なようだ。デジタル化して精密機械という度合が高まっていることを実感する。
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 白山神社はこじんまりとしているが気持ちの良い場所だった。孫文の碑が建っていたので何事かと説明板を読むと、孫文が日本に亡命中、宮崎滔天にかくまわれていた時期があり、その滔天の家が近所であったという縁らしい。二人してこの神社へやってきて石に腰かけ、中国と日本の未来について語り合ったというようなエピソードがあったのだそうだ。
 つい最近、ジュンク堂で浦辺登の『玄洋社とは何か』(弦書房)をみつけ、読んでいる最中である。玄洋社のルーツである筑前勤王党のことなども書かれていて、なかなか興味深い。滔天は玄洋社と関わりが深かったからこの本にも名前が出てくる。

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by yassall | 2017-06-25 17:32 | 散歩 | Comments(2)

木下通子『読みたい心に火をつけろ! 学校図書館大活用術』岩波ジュニア新書

 木下通子さんは埼玉県の高校図書館の司書である。この6月、岩波ジュニア新書から本を出された。これまでも共著では何冊か学校図書館に関する本を世に出しているが、今回は岩波の編集部から「今までの実践を、まとめてみませんか?」と声がかかり、上梓にいたったとのことである。
 木下さんとは新任司書として岩槻商業高校へ赴任したころからの知り合いである。以来、何校かを異動して現在は春日部女子高校で主任司書をつとめている。新任のころからエネルギッシュで、学校ばかりでなく、各種の研究会や地域にも飛び込んで精力的に活動してきた。私とはいっしょに高校図書館研究会の副会長をつとめたこともある。いまや高校図書館研究会でも、学校図書館問題研究会でもリーダー的な存在である。
 そんなご縁で、本書でも紹介されている埼玉県高校図書館フェスティバルの企画にさそわれ、お手伝いしたことなどは記憶に新しい。私の定年退職後はめったにお会いすることもなくなったが、facebookではつながっているので、近況についてはよく存じ上げていた。
 この本の出版にいたるヒストリーも承知していたので、書店に出たらすぐにでも駆けつけようと思っていたのだが、昨日、岩波の封筒に入った本書が送られてきた。さっそく御礼のメールを差し上げたところ、「埼玉から全国に、学校図書館の輪を広げていきたいです!」という返信が返ってきた。その返信の素早さもなのだが、いかにも木下さんらしい文面だな、と感じた。
 埼玉県の司書採用試験の再開のために高校図書館フェスティバルを企画し、各方面に働きかけ、国会議員へのロビー活動もおこない、実現にこぎつけた。この本の執筆を引き受けたのも自分の司書としての生き方をふりかえるためだけではなく、全国的にはまだまだ司書も不在の学校図書館の現状を打開したいとの願いからだろう。
 そんなわけで、私も私のためだけに贈られた本だと思わず、一人でも多くの人たちに手にとってもらいたい、読んでもらいたいとの願いをこめて紹介する。

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by yassall | 2017-06-24 18:54 | | Comments(0)

大岡信「青春」

 あてどない夢の過剰が、ひとつの愛から夢をうばった。おごる心の片隅に、少女の額の傷のような裂目がある。突堤の下に投げ捨てられたまぐろの首から吹いている血煙のように、気遠くそしてなまなましく、悲しみがそこから吹きでる。

  ゆすれて見える街景に、いくたりか幼いころの顔が通った。まばたきもせず、いずれは壁に入っていく、かれらはすでに足音を持たぬ。耳ばかりが大きく育って、風の中でそれだけが揺れているのだ。

  街のしめりが、人の心に向日葵でなく、苔を育てた。苔の上にガラスが散る。血が流れる。静寂な夜、フラスコから水が溢れて苔を濡らす。苔を育てる。それは血の上澄みなのだ。

  ふくれていく空。ふくれていく水。ふくれていく樹。ふくれる腹。ふくれる眼蓋。ふくれる唇。やせる手。やせる牛。やせる空。やせる水。やせる土地。ふとる壁。ふとる鎖。だれがふとる。だれが。だれがやせる。血がやせる。空が救い。空は罰。それは血の上澄み。空は血の上澄み。

  あてどない夢の過剰に、ぼくは愛から夢をなくした。 (「青春」

 「青春」は大岡信の第一詩集『記憶と現在』(1956)の巻頭におかれた作品である。1969年、高田馬場の古書店でばら売りしていた思潮社の『現代詩体系』で私は出会った。全7巻のうち2冊しか手に入らなかったが、この詩集によって飯島耕一、長谷川龍生、吉岡実といった現代詩人たちの世界が私の前に開かれたのである。
 そうした中でも、大岡信の「青春」はひときわ私の心をとらえた。思潮社が現代詩文庫の刊行を始めたころで、『大岡信詩集』は24冊目、1969年が初版である。本棚から探し出してみたら出版されてすぐ買っていたことが分かった。
 大岡信は飯島耕一と「シュルレアリスム研究会」を開いていたことがある。オートマチズムによったともみえる散文体の詩に新しい才能による新しい表現の可能性を感じたのだった。

 「地名論」はその少し前に『現代詩手帖』で発表されたと記憶している。現代詩文庫版『大岡信詩集』の最後に収録されている。たいへん高く評価されていたのをおぼえているが、次のように書かれてもこちらの方はどうもピンと来なかった。

 水道管はうたえよ
 お茶の水は流れて
 鵠沼に溜り
 荻窪に落ち
 奥入瀬で輝け  (「地
名論」冒頭)

 思うに『記憶と現在』はモダンな装いをまとってはいるが、その詩精神の向くところは抒情である。きっと自らの内からわき起こってくる感情の正体をつかめず、ただもてあましていた10代の私は、「夢の過剰」という言葉に反応し、過剰ゆえに血しぶきをあげて傷つくすがたに共感したのだろう。抒情といえば最初期の「木馬」という作品にも私は鉛筆で小さな丸印をつけている。
 
 日の落ちかかる空の彼方
 私はさびしい木馬を見た
 幻のように浮かびながら
 木馬は空を渡っていった

 やさしい人よ 窓をしめて
 私の髪を撫でておくれ
 木馬のような私の心を
 その金の輪のてのひらに
 つないでおくれ
 手錠のように   (「木馬」)


 大岡信は評論家としても高い評価を受けている。『超現実と抒情 昭和十年代の詩精神』(1965)は卒論で昭和10年代文学と格闘していた学生時代の私に大きな示唆を与えてくれた。どうも昭和10年代を論じると、誰もが一方的な断罪を下そうとするか、やたらねじくれた情念の表白者になってしまいがちな中で、明晰な分析と批評によって際立っていた。
 近年では「マスコミ九条の会」の呼びかけ人になるなどの活動にもかかわっていたという。茨木のり子、吉野弘のときにも書いたが、「櫂」の世代の詩人たちは政治性とは無縁のようにみえて、決してそうではない。戦中世代として社会の中で果たさなければならない役割に自覚的だったということだろう。
 しばらく大岡信の詩からは遠ざかっていたが、訃報に接して思い出のようなことを書いた。

(おおおかまこと,1931-2017)


by yassall | 2017-04-08 00:22 | 詩・詩人 | Comments(0)

又吉直樹「劇場」

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 通常1万部のところ4万部印刷したが、たちどころに完売したらしい。近所の本屋へ行ったときには売り切れだった。その後にもう1万部増刷したと聞いた。今度は買いそびれないように急いで本屋へ行った。

 瞼を閉じても瞼の裏側の皮膚は見えない。これは嘘だと分かるから作り物感は残る。だが、作品全体を予感させるような巧みな書き出しだと思った。終いまで読み終わって、この感慨はいつの時点のものだろう、とまた考えこんだ。

 青山という「僕」とは異質な存在を挿入したことで小説として成功した、と思った。青山の書いた小説を「嫉妬で感情的に読んでもうたかも知らん」から「もう一度読んでみる」という「僕」に、青山は「永田さんが自分で思っているほど私にとって永田さんの評価って重要じゃないから」と、多分に棘を含んだ言い方ではあるものの、過去にわだかまりのないことを伝える。それでも「僕」は「いや、絶対読む」と答えさせているところで、「僕」は変わったと思った。その前のメールのやりとりでは、「お前の思考には人間が変化するという当然の節理が抜け落ちている」といっている。本当は、これは「僕」が自分に対して突きつけた言葉ではないのか? つまりは「他者」ときちんと向き合えるかどうかであり、はね返ってそれは「自己」とどう向き合うかという問題であろう。

 もう一度、書き出しにこだわってみる。「僕」が見ようとしているのは「風景」=世界なのか、「瞼」の裏側=自己の内面なのか?
 「変化」という言葉は冒頭部分にも出てくる。高校時代、心斎橋の小劇場ではじめて小劇団の芝居に触れたとき、「客席で観ている自分自身の内部にまで変化をもたらすことが面白くてしかたなかった」という。だが、この時点で「僕」に自分がつかめていたとは思えない。沙希と出会うころの「僕」の自己認識は「肉体を使いこなせていない虚弱な幽体」であり、「知らん人と話す」のが苦手で、「頭の中で言葉はぐるぐる渦巻いてんねん。捕まえられへんだけ」と告白する。自分の尾を追いかけて同一箇所を回り続ける子犬を想起させる。あるいは自分の尾を飲み込もうとする蛇のようとでもいうのか。未熟さ、またはグロテスクさを感じる。
 決して否定的に述べているのではない。言葉にならないものを言葉にしてみようとすること、見えないものに輪郭を与え可視化していくことを避けたら文学ではない。又吉は文学に挑んでいるのだと思った。ありきたりの表現を剥ぎ取って、どれだけ根源に迫ることが出来るのか、読者として見届けてやろう。グロテスクであるのは当然である。

 言葉にならないものを言葉にしよう、見えないものをみよう、というのだから、最初はつきあうのもつらかった。なかなかストンと落ちてこないから、読むスピードも上がらなかった。新しい表現は作り物と紙一重である。
 恋愛小説を書こうとした、というが、これは恋愛小説といえないという気がした。「僕」は沙希を「支配」しようとし過ぎたというが、「支配」というより「独占」であり、独占し得ていないという焦燥が「嫉妬」となって噴きだしている、という感じである。つまり、相手には常に自分の方のみを向いていて欲しいという承認願望ではないのか? しかし、恋愛とは相手を「支配」するというより、相手に「支配される」という感情に近いはずだ。これを「純粋」とはいわない。目の前にこのようなカップルがいたら、青山と同じように私もすぐさま別れることをすすめる。
 自己愛の投影、しかも相手に映し出されることによって、かろうじて自己を保持できるという構造。「僕」自身がもてあまし、振り回されている。

 NHKスペシャル「又吉直樹 第二作への苦闘」を私も見た。又吉が「人物たちが作家の手を離れて勝手に動き出すのを待っている」というような意味のことを語っていた。「動き出した」という言葉はなかったが、後半に入ると明らかに文章の速度感が変わってきた。
 「火花」を読んだとき、この作家は文章は書けるが「物語」は書けない、という印象を持った。大きな「物語」は書けていないが、今回は小さな「物語」は書けていると思ったし、さきほどの恋愛小説の問題にもどれば、もしかするといたるところで孤立化を深める現代青年をめぐる事情からすると、けっこう核心に迫っているのかも知れないと思い直した。
 それはむしろ沙希が動き出すことによってはじまった。沙希は「永くん一人で大丈夫?」と東京を去る直前に「僕」にたずねる。客観的には「従属」でありながら、その自分がいなければ相手はダメになってしまうのではないか、と考えるのは、自分の存在意義=居場所を相手の内側に見いだしているということだろう。少し健康を回復し、部屋の撤収のために上京した沙希は「私ね、東京来てすぐにこれは全然叶わないな。なにもできないなって思ってたから、永くんと会えて本当に嬉しかった」と語る。だが、沙希はそれを「何か吹っ切れたように」言ったのであり、沙希は変わったのである。
 沙希が「私の宝物」という昔の脚本を読み合わせるところからはじまったアドリブで、沙希は「あんたなんかと一緒にいられないよ」というセリフを発する。「僕」は「何かを消すためではなく、背負うところから沙希の言葉を聞きたいと思っていた」と書く。沙希と「僕」とは切り離され、ようやくにして対の関係が生まれる。「僕」も変わったのである。
 ラストまで読んでも、それが出口となったかどうかは分からない。「日常が残酷だから小説を読んでる時間くらいは読者に嫌なことを忘れてもらいたかったんだ」は青山の言葉である。「僕」は実は「ハッとした」という。だが、同調したわけではあるまい。そのギリギリのところで又吉はこれを書いたのだなと思った。

 「劇作家」という設定には苦しいものがある、と思っていた。だが、随所にあらわれる演劇論はけっこう面白かった。「自分のなかのどうしようもない感覚や摑み切れない感情に無理やり形式を与えたりせず、その奇妙は形のまま表出してみる」などという箇所と出会うと、自分で脚本を書いたことがあるかどうかはともかく、少なくともいろいろな芝居を観ているのは確かだろうと思った。かといって、そのような演劇がメジャーになっていくとは思えないが。


 又吉は大阪出身であるが、出自は沖縄であるらしい。彼の持つ疎外感や孤立感は思いの外、複雑であるのかも知れない。これは又吉の「東京物語」ではないか、という勘も働いたが、もうここでは触れない。


by yassall | 2017-04-03 19:42 | | Comments(0)

佐藤洋一郎『食の人類史』中公新書

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 人間は生きるために食う。ところがしばしば目的と手段が逆転し、まるで食うために生きている、という実態にあることを自覚せざるを得ないことがある。人はなぜ職業に就くか? いきがいを求めて? 自己実現のため? 社会参加をめざして? それらを否定しはしない。だが、それらをはぎ取った究極のところをつきつめてみれば、生活の糧を得るため、つまりは食うためではないか?
 だとすれば、人間は何を、どのように食べ、それを得てきたかは、人間とは何かを考えるときの基本ではないだろうか? それがこの本を読んでみたい、読んでおこうと考えた動機である。
  ※
 狩猟・採集、農耕、遊牧の三つが食を得るための人類の生業であったというところから論考がはじまる。遊牧は農業と一体となった牧畜とは区別される。それは農耕から派生していったという要素もあり、また狩猟・採集の知識や技術が生かされていったという側面もある。
 「日本人は農耕民族である」というような言い方がある。だが、糖質とタンパク質をセットで確保しようとするとき、農耕だけに頼ることは出来ない。日本ではタンパク質の多くを漁労から得てきたという歴史がある。このあたりは民俗学と共通する問題関心があって面白い。
 三つの生業はそれぞれに対立しあったり、補完し合ったりしてきた。農耕民は土地を囲い込もうとすることで狩猟・採集民、遊牧民と対立する。反面、定住を強いられる農耕民は他の生産者との交易が必要となる。その仲介者となり、さまざまな物資をもたらしたのは遊牧民あるいはそこから生まれた商人だったのではないか、というのである。
 人類の起源はアフリカにあり、コウリャンなどアフリカ原産の雑穀がある。トウモロコシや北欧の食生活を激変させたジャガイモは中南米が原産である。それらを視野におさめつつも、本書ではユーラシア全体を眺めつつ、比較対照し、またその交流の歴史を探っていく。
 ユーラシアの東側つまりアジアは夏に雨が多い夏穀物ゾーンだという。イネ、キビ、アワ、ヒエはアジア原産である。アジアの自然は多様であり、針葉樹林、落葉広葉樹林、照葉樹林、熱帯雨林それぞれに独自の生態系が存在する。西ユーラシアは冬に雨が降ることから冬穀物ゾーンとなる。コムギ、エンマーコムギ、オオムギ、ライムギ、エンバクは西アジア原産である。
 コムギが黄河下流域にもたらされたのは4~4500年前だという。『礼記・月令』にはコムギの栽培を国が義務として定め、違反する者は処罰された、という記載があるそうだ。コムギの導入には相当の抵抗があったようだという。イネもまた紀元前後ころには欧州に到達した。ミルクと出会ったのがリゾットということになる。面白いのはコムギは東進しても粉食され、イネは西進しても粒食された。
 コムギとイネを例にしたが、それぞれの伝播にあたっては中央アジアの遊牧民のネットワークがあったから、というのが筆者の仮説である。西にはメソポタミアやペルシャ、下っては古代ローマ帝国があり、東には古代中国文明、パミルの山々の南にインダス文明があるのを知っていたのは彼らをおいていないというのである。
  ※
 食と宗教との関連についても独特の見方が披露される。ユーラシアの東側では多様な動植物にめぐまれ、食は「自然」によってもたらされたという意識が高く、多神教を生んだ。
 東側に比べ、降雨量も少ない西側では「文明」によって「作物・家畜」を作り出さなくてはならず、「神が人のために作りたもうた(もたらした)」ものという意識が生まれ、一神教の土台となった。食にあたっても序列化が生まれ、野生は低位におかれた。ときによって人工の及ばない「自然」は脅威であった。
  ※
 農耕と農業とはどう区別されるか? 自らが生きるために植物性の食材を生産する営みが農耕であり、他人それも不特定多数の他者のために食材および衣食住にかかわる資材を生産する産業を農業という、というのが筆者の定義である。
 農耕が農業となるためには生産力増大のための技術革新が必要となる。ここでも考えさせられる問題がある。焼畑と灌漑を比較してみる。焼畑耕作が自然を破壊したと考えられているが、それは偏見だという。むしろ不適切な灌漑は土壌に塩害をもたらしたというのである。内陸に塩を持たない日本では想像できなかったことが世界では起きているのである。
 農業はまた都市を生んだ。都市が生まれれば商業活動も盛んになる。商品経済が発達すれば資本の蓄積が自己目的化されていくのは自然だろう。
  ※
 2011年現在、世界の人口71億人に対して穀物の生産高は24億トン、一人あたり年間330kgで一日あたり3000kclになる計算だという。1年に1億人という勢いで人口は増加しているというが、現在のところ穀物は生産過剰という状態にある。それにも関わらず、約10%の人々が飢餓に苦しんでいる。生産されるトウモロコシ26%のうち16%が家畜の飼料となっている。トウモロコシはバイオ燃料の原料にもされようとしている。つまり、食の偏在が重大な危機をもたらしているのである。
  ※
 漁労は狩猟・採集の生業に含まれるとあったが、養殖の普及によって農業がもたらしたのと同様の問題、具体的には沿岸域の環境破壊が生じている。大量の播き餌によって富栄養化が進んでいること、農業において作物として無価値な植物が雑草とされたように、売り物にならない魚は雑魚として駆逐されること、1匹のマグロを養殖するためには10倍のイワシが消費されてしまうことなどである。海における養殖は農業でいえばいまだ初期段階にある。
  ※
 狩猟・採集民、遊牧民とは異なるが、白拍子、木地師などは日本のノマドである。民俗学が非定住民の文化に注目したことがもっと見直されてもいいと思った。
  ※
 筆者は農学博士で、総合地球環境研究所副所長をへて、人間文化研究機構の理事をつとめている。もちろん、本書は専門書ではないから必要最低限の理系の知識(それでも私に十分理解できたとはいえないが)は押さえているものの、人文知に対する要求にも十分応える内容になっている。というか、その分野の専門家にとっては常識に属するようなことが、一つ一つ自分の中の既成概念を打ち破っていく。
 昨年、書評を読んで興味を持ち、浦和の須原屋に立ち寄ったときに入手しておいた。そのままになっていたのをようやく読んだ。積ん読のクセが治らない。読みたい本があとからあとから現れるのに読書力が追いつかない。

佐藤洋一郎『食の人類史』中公新書(2016)


by yassall | 2017-03-31 17:15 | | Comments(0)

今年の読書から

小熊英二『社会を変えるには』講談社現代新書(2012)
柄谷行人『世界共和国へ』岩波新書(2006)

 ここ数年、志木高校時代の知人たちと読書会を開いていることを以前にも報告した。2冊ともその読書会のテキストとして私が推薦した。とくに柄谷の『世界共和国へ』は私にレポーターの順番が回ってきたとき、「思考実験的な要素があるので、分担はせず、1回切りで」という条件でテキストにしてもらった本である。
 この2冊について語るためには、私の現在の関心事がどこにあるかを明示しておかなければならない。いずれも難問で、答えに到達することが私に出来るとは思えない。「だが、その答を得るまでは一歩たりとも先へは進めないのだ」などと大見得を切ったところで、たちまち腰砕けになることは目に見えている。
 それでも、「人生の生き直し中」という限り、私がこれらの問いを意識し続けることはその証立てであろうし、今度こそ安直な楽観も悲観も拒否しつつ、問い直し、問い続けていかなければならないと思っているのだ。
 本来なら、それらがなぜ私にとっての関心事なのかを書かなくてはならないのだが、煩雑を避け、箇条書きにしてみる。

 ①成長なき資本主義は可能か
 ②「国家の死滅」のときは来るのか
 ③私が生きてきた(生きている)時代はどんな時代か
 ④「日本的なるもの」は存在するか
 ⑤「個」と「全体」の問題は解決されるか
 ※③からはさらに「戦後民主主義」とは何か、「代表制」は民主主義であり得るか、あり続けられるかといった枝番としての問いが生まれる。枝番は他の問いからも発生する。


 上記の2冊はこれらの問いに、大いなる示唆を与えてくれたと言ってよいと思う。
 小熊英二『社会を変えるには』は、戦後日本の社会運動の歴史と現段階の状況と課題の分析、社会学的な知見に裏づけられた原理論としての「民主主義」論、「近代自由民主主義」の理論的背景について述べた書物である。書きぶりこそ平易で、アクロバット的な思考実験とは無縁ながら、新しい視点をいくつも提示してくれ、思考の変革をもたらしてくれる。
 
 柄谷行人『世界共和国へ』は、著者自身が「自分の考えの核心を、普通の読者が読んで理解できるようなものにしたい」とあとがきで述べているように、2000年以降の著者の思考の現段階でのまとめとして書かれ、しかも「普通の読者」に読まれることを強く意図して世に出された書物である。そこには著者なりの危機意識と使命感が存在する。
 柄谷はまず、現代が「理念と想像力なき時代」であると指摘する。1990年代以降の資本主義のグローバリゼーションの進行の中で、「世界市場」が形成され、国民国家の輪郭が揺らいでいる。新自由主義が世界を席巻する中で、これに対抗しながら広域国家づくりがすすんだり、「旧世界帝国」が再登場しようとしたり、途上国の両極分解が起こったりしている。しかしながら、新自由主義への対抗はしばしば排外的ナショナリズム、文化的・宗教的原理主義にとどまっている現状がある。
 そして、現代において人類が直面する課題は、ずばり戦争、環境破壊(原発問題を含む)、経済的格差であるというのである。これらの課題の解決のためには「国家と資本の統御が必要」であるとする。

 柄谷は考察の枠組みとして、マルクスに多くを依拠しながら、生産様式からではなく交換様式およびその変容と接合から歴史・社会を考察しようとする。
 そこで考察される交換様式とは、A互酬、B略取ー再分配、C商品交換、D(X)である。歴史の発展過程としては、Aは原始社会・共同体に対応し、Bはアジア的生産様式=賦役貢納制、古典古代的奴隷制、封建制に対応し、Cは資本制に対応する。
 ただし、共同体は原始社会以後も社会構成体の基礎として残る。共同体が本格的に解体を始めるのは国民国家の形成および商品交換の普遍化によってである。Bは国家の誕生とともにあらわれ、官僚制と常備軍からなる構成は近代国家においても変わらない。Cは萌芽的には各社会構成体に存在したが、絶対主義と資本制が結合していく中で商品交換の原理は国家の支配を抜け出ていく。
 Dは(X)として表現されるが、「自由の互酬制」であり、商品交換という位相において開かれた自由な個人の上に互酬的交換を回復しようとする運動として「想像的な存在」であり、歴史的には「普遍宗教が説く倫理」あるいは「社会主義運動」としてあらわれた。ただし、「想像的な存在」であるとしながら、柄谷は「社会構成体に内属」しているとも書くのである。

 つぎに、柄谷は歴史の現段階としての「資本主義的社会構成体」は、資本[商品交換]=国家[略取ー再分配]=ネーション[想像された共同体(互酬)]が接合した「ボロメオの環」であるという。
 先に述べたように資本と国家が結合して急速に商品経済が普及していく過程で共同体は破壊されていった。ネーションとはその共同体的な人間の紐帯を「想像的」に回復しようとしたのだというのである。
 私には、これは非常に説得力に富んでいるように思われた。実際には様々な階級・階層に分断されているのに、「国民」として「国家」に統合されることを可能にする原理こそ、「国民国家」(国家=ネーション)という幻想なのである。柄谷はフランス革命の標語、「自由」は商品交換に、「平等」は(略取-)再分配に、「友愛」はネーションに対応しているという。
 問題の焦点はこの3つの原理を混同、あるいは結合が必然的で堅固であると錯覚してしまうところにある。(「ボロメオの環」は想像上の環であり、三つの輪は互いにしっかりと連結しているが、二つの輪同士は互いに連結していないから、一つの輪でも欠けるとたちまちバラバラになってしまうというしろものなのである。)

 価値形態論からみる貨幣の性格として最も重要なのは「貨幣と商品の非対称性」であり、貨幣は社会的質権として、人間の意志を超えた客観性と社会的な強制力を発揮する。
 資本と国家は異なる原理によっている。国家はそれ自身のために存続しようとしている。また、国家は他の国家に対して存在している。したがって、国家を表層的な上部構造であるとし、深層にある市民社会=真実社会の自己疎外態であるから、経済的な変革によって資本制を終わらせれば国家は消滅すると考えるのは間違いである。同様に、国家の消滅の「手段」としての「プロレタリア独裁」(共産党一党独裁)も誤りである。「他の国家」からの「革命の防衛」のためには国家権力は強化されなければならず、国家社会主義(一国社会主義)に陥る。

 では、どのようにして資本と国家を「統御」していくのか? 柄谷が提起するのは「自由の互酬性」にもとづく「アソシエーション」と、カントが「永遠平和のために」で問うた「世界共和国」の実現である。
 国家と資本を揚棄していく主体は「プロレタリア」である。ただし、生産過程におけるそれは資本に従属的であるしかない。プロレタリアは生産点において搾取される存在であると同時に、流通過程においては「生産物を買い戻す消費者」であり、「売れる」ことによって「利潤」が完結する資本に対して、ボイコット(等)の手段によって対抗することが出来るのである。
 資本は自己増殖的で、資本が資本である限り、その運動を(自ら)止めることはできない。資本主義は差異化が不可能となる時点で終わるということはできるが、その運動を放置する限り、それが終わる前に人間と自然の大半が未曾有の破壊に直面する、というのが柄谷の発する警告である。

 読書会でのレポートの最後に、私が感想として配布したメモは以下のようなものである。

 ・「マルクス」と「マルクス主義」を区別。マルクスの新しい可能性を追求しているようにもみえる。
 ・生産様式からではなく交換様式から歴史・社会をみるという方法は人類学の知見に負うようにみえる。「史的唯物論」に対する疑問を投げかけているようにみえる。ヘーゲル的な「理性」の発展としての世界史に対しても同様である。
 ・ただし、「古典古代的奴隷制」と資本主義社会において出現する「奴隷・農奴」状態を区別しているところから、経済的な下部構造がその土台にふさわしい「社会構成体」を形成することは否定していない。
 ・人間性としての「互酬的交換様式」は現代人にも認められる。原始共同体とは異なる社会において「相互性」を取り戻そうという思想には魅力を感じる。
 ・「空想的社会主義」と断ずることは容易である。だが、かつての「プロレタリア独裁」もまた「空想的」であったとはいえないだろうか? もっとも、資本主義肯定論者の例えば「トリクルダウン」も幻想であることはもはや明らかだが。
 ・『世界共和国』の思想はカントに依拠している。カントに社会主義的な傾向が見られることは正しいようである。
 ・プルードンとマルクスの親和性には慎重である必要がある。ただし、マルクス主義の「三つの源泉」のひとつにフランス社会主義があることはレーニンも認めているところである。(プルードンは結社という意味でのアソシエーションには否定的だったようである。ただ、「連合」の重要性は認めていたようである。)
 ・「大衆的」かつ「前衛的」な「党」が「代表」として選ばれ、長期的な視野に立って「自由」「公平」「公正」な社会を展望していくという道を(筆者は)肯定するか?
 ・「アソシエーション」=生産・生活協同体は「地方再生」の課題として一定程度実現可能ではないだろうか? それが「国家」を造りかえていく力になるかまでは不明。ただ、ヨーロッパでは「シェア」の実践はかなりすすんでいるようである。新しい社会のシステムやルールの広がりは期待したい。
 ・現代の課題に応える新しい「理念と想像力」を、という思想態度には強い共感をおぼえる。キング牧師の演説やジョン・レノンの「イマジン」を想起する。

佐和隆光『経済学のすすめ』岩波新書(2016)
船戸与一『満州国演義一~九』新潮文庫(2007~2015、文庫版は2015~2016)

 もう2冊あげる。
 佐和隆光『経済学のすすめ』には「人文知と批判精神の復権」というサブタイトルがつけられている。ここから察せられる通り、前半は国立大学において「人文社会系学部や大学院は組織を廃止ないし再編」し、「社会的要請の高い分野への転換」を図るべきだとした昨年の「文科大臣通知」批判である。日本の大学のランキングが低い原因は、論文を英文で書かないため、他の研究者から引用される回数が極端に少ないからだ、というような現場感覚からの指摘からはじまって、欧米の学問体系および教育課程における人文科学の位置づけを論じ、真に創造的な学問探究におけるリベラルアーツの重要性を説いて、批判は精緻かつ鋭利である。
 戦後日本の経済学を論じた件では、アベノミクスは新古典派(新自由主義)でもケインズ派でもなく、あえて分類すれば「国家資本主義」にほかならないと喝破する。アマルティア・セン(インドのノーベル経済学賞受賞者)は新古典派が前提にすえる「経済人」を「合理的な愚か者」と決めつけ、「効用最大化」以外に、あるいはそれ以上にシンパシーとコミットメントを人間の選好順序の要因としてあげたという。その意味からすれば、日銀がマネタリーベースを上げさえすれば消費が上向くとするアベノミクスは、市場原理にもとづく新古典派というより、上意下達による愚民政策に他ならないと批判する。
 後半は経済学の教科書化=「制度化」に対する批判である。それはアメリカからはじまったが、とくに日本における経済学の「制度化」は政府のすすめる経済政策に「理論的」あるいは「統計的」な裏づけを付与しようとするものでしかない。「数字」のとり方によって、それはいかなる政策にも対応してしまうのである。筆者によれば、経済学は本来モラル・サイエンスであり、「人文知と批判精神という鎧」を纏ってはじめて「希有なる威力」を発揮するのだというのである。
 ノーベル医学生理学賞を受賞した大隅さんの「役に立つという言葉が、とても社会を駄目にしている」というスピーチとも通底する、もうけとしての「経済」優先の歪みを正そうとするアクションは頼もしいと思った。自分にも理解できそうなところだけ拾い読みするつもりでいたが、最後まで読み通してしまった。

 さて、船戸与一『満州国演義』こそ、私がこの1年間をかけて読み続けた書物に他ならない。張作霖謀殺にはじまる第1巻を手にしたのが3月、「満州国」の瓦解から通化事件・シベリア抑留を描いた第9巻を読み終わったのが12月。もちろん全9巻400字詰原稿用紙7500枚超の大著とはいえ、ただひたすら毎日を費やしてここに到ったのではない。続刊の発売を待つ期間もあったが、しだいに重苦しさを増していく内容が次の巻に向かうのをためらわせること度々だったのだ。著者自身が「小説の進行とともに諸資料のなかから牧歌性が次々と消滅していく」ことを痛感させられた、と書いている。
 同じあとがきで、「小説は歴史の奴隷ではないが、歴史もまた小説の玩具ではない」と書くように、ベースには「膨大な量の文献との格闘」がある。巻末に掲げられた参考文献リストをみても、それが少しも誇張でないことが理解できるし、「資料を読んでいるうちに客観的と認定された事実にも疑義を挟まざるをえないものがあちこちに出て来るようになった」ということばに、その「格闘」ぶりが証明されている。
 もともと「小説として成功したか否か」を問うような作品ではないのかも知れない。敷島4兄弟と陰の主役ともいうべき関東軍特務員の間垣徳蔵を登場させ、これらの人物を中心に小説は進行していくが、それぞれの個性をもって時代と激突し、主体的に生き抜いて行くというより、時代の目撃者あるいは伝聞預かり人として配されているというところだろう。敷島という姓も「大和」のとか「日本」のという意味でしかなく、さまざまな階層に散りばめられながら、時代に翻弄されるしかなかった日本人一般を表象しているのだと思われる。
 ただ、時代の大きなうねりは押さえながら、たとえば「満州」には日本に併合された朝鮮半島からも移植しており、それらの朝鮮人が襲撃にあったときの関東軍の対応、電力の確保のために建設されたダム工事の現場での現地工人たちの境遇など、通史では取り上げられることのないような出来事も丹念に描写されていく。明確な批判精神といったものが介在しているのでもなく、特定の歴史観による取捨選択がなされてもいない分、その愚劣さや非情さ、もはや戦争継続の能力も大義も失われていることが明らかなのに、ひたすら破滅へと突きすすむしかない歴史の大渦、その抗いがたさ、解体されていく国家と人間をこれでもかといわんばかりに描いて、読む者を突き落としていく。
 『満州国演義』は船戸与一の遺作である。執筆途中の2012年頃には胸腺癌を患っていることが公表され、最終巻の9巻の刊行から2か月後に71歳で没した。余命1年弱という宣告からなお3年余りを生ききって完結させた。
 この執念は何だろう。この稿の冒頭で、私は「私が生きてきた(生きている)時代はどんな時代か」などという問いを発しながら、私がその「答」に到達できるとは思えない、などという軟弱なことを書いた。
 1944年生まれの船戸にとって、『満州国演義』に描かれた時代は本人が生きた時代とはいえないものの、そのベースを形づくった時代である。私は船戸にもまた、「自分の起源となった時代」「自分の拠って立つ時代」を明らかにしなくては死んでも死にきれないという決意があったのではないかと思っているのである。
 司馬遼太郎が書こうとして書けなかったというノモンハンを船戸は書いている。先ほど、「明確な批判精神」は介在させずと書いたが、そのノモンハン事件やインパール作戦に参謀としてかかわった辻政信や瀬島龍三等に対しては、そのエリート意識と立身出世主義(功名主義)を容赦なく批判している。作品には船戸の遺言がこめられているのである。
 読み通すのは苦しい。だが、読むべきだ。船戸の執念に応えなくてはならないのだ、と思ったのだった。

 村上もとかの漫画『フイチン再見!』は単行本で8巻まで刊行されている。上田としこの『フイチンさん』は私たちが子どものころ、少女雑誌に連載されていた漫画である。「ああ、こんな絵の漫画があったなあ」というのが最初だったが、村上のオマージュともいうべきこの作品によって上田としこが満州からの引揚者であり、父親は帰日直前に捕らえられ処刑されていたこと、『フイチンさん』はその体験を元にしていることなどを初めて知った。
 鳥居の歌集『キリンの子』は版を重ね、歌集として成功をおさめた様子でなによりだった。有名になったせいか、彼女のブログを閲覧すると、共感や感動を伝える声に混じって、心ないコメントや匿名のコメントが多数書き込まれているようだ。まったく不届きだと憤慨するしかないが、そんなことで心折れる鳥居ではないと信じている。
 雨宮まみの急死は惜しんでもあまりある。山折哲雄は来年も読んでいくつもりである。以上


by yassall | 2016-12-31 14:47 | | Comments(0)

詩とは何か  「鳥居歌集」から

 「鳥居歌集 キリンの子」を読みながら、詩とは何かについて考えた。それは、詩において「言葉」が先か、「心」が先か、という問題である。まだまだ雑感の段階であるが、少しく文章にしてみたい。
 よく引き合いに出されるのは、「太初に言あり」(「ヨハネ伝」)と「やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」(『古今和歌集』仮名序)の対比である。しかし、キリスト教文化圏であれ、日本語文化圏であれ、「言葉」が人間の思考、あるいは感情までも決定していくことは確かである。
 「言葉」は言葉の法則にしたがうから、主語は述語を求め、修飾語と被修飾語は相互に探究しあう。鳥居の次の歌をみてみよう。

  目を伏せて空へのびゆくキリンの子 月の光はかあさんのいろ

 この一首は「キリン」という言葉との出会いから始まっているのではないか? それは、「墓参り供えるものがないからとあなたが好きな黄色を着て行く」にある「黄色」が連想させたのかも知れない。そこから「キリンの子」という修飾・被修飾が導き出されることで、母の子という母子関係と自己認識が生まれる。
 さらに、キリンのイメージは「空へのびゆく」という修飾語の広がりを生み出す。変形生成文法の考え方にしたがえば、初発においては「キリンの子」が「空へのびゆく」という主語・述語の関係であったとみることも出来る。そうすると、それは「子」としての成長と自立を確認する言葉となり、距離をおいた地点からもう一度母と出会うことを可能にする。今、「キリンの子」をつつんでいる「月の光」を「かあさんのいろ」と認識したとき、母子の間に和解が成立し、交流し合う愛情を感じ取ることが出来る。

  虐げる人が居る家ならいっそ草原へ行こうキリンの背に乗り

 鳥居には別に上のような歌もある。鳥居にとって「キリン」はもともと開かれた「草原」へと自分を解放してくれるイメージとしてあったのかも知れない。地上からはるかに離脱した位置に頭をおき、「草原」にあって孤高を保てる存在として。したがって、先に述べたような「和解」もつかのまに訪れた一瞬の感情であったのかも知れない。それでも、そう歌ったとき、鳥居は一歩本来の自分に近づいたはずだと思うのである。次のような一首と出合うと本当にそう思う。

 お月さま少し食べたという母と三日月の夜の坂みちのぼる

 最初の問題にもどろう。「言葉」に捕らわれることで詩(歌)が生まれるのか、「心」がその現れ出る出口を求めて「言葉」を捕らえるのか?
 どちらが先かは別として、「言葉」との出会いによって激しく「心」が動かされるということなしに詩(歌)は生まれないと思うのである。
 先に、「言葉」はその法則にしたがう、と書いた。しかし、「キリン」の修飾語となり得る言葉、述語となり得る言葉は無数に存在する。「言葉に導かれる」といっても、無数の選択肢から選び取る力の源泉があるはずである。「言葉」が思考・感情を決定する、といっても、「心」を捕らえていない言葉は破棄されていった過程があるはずである。

 オレンジの皮に塗られた農薬のような言葉をひとつ飲みこむ

 上にあげた一首の「農薬のような言葉」とはどのような言葉であるのか? 自分に向けられた悪罵であるのか、あるいは一見は耳に心地よい偽善の言葉であるのか? いずれにしても、深く自分を傷つける予感に満ちた言葉であるに違いない。「飲み込む」とあるのは、表出されないという意味だろう。深く心に抱え込んだ言葉に苦しみながら、これを異物として拒否し、排除していく。
 最近、「自分をしっかり語る」というようなことを考えている。「自分をしっかり語る」ことは、「自分をとりもどす」「自分の居場所を発見する」ことであるに違いない。そして、矛盾するようだが、そのような「言葉」を捕らえることで、人は今ある自分を脱けだして(脱自)していくのである。

  心とはどこにあるかも知らぬまま名前をもらう「心的外傷」
  名づけられる「心的外傷」心ってどこにあるかもわからぬままで

 最後に定型という問題について考えてみる。これも「言葉」と「心」の関係に似た問題がひそんでいるように思うのである。
 寺山修司の創作活動が短歌、それより以前には俳句から始まったことを不思議に思ったことがある。希代の天才といってよい寺山が、なぜ短歌・俳句といった古典的様式を借りなければならなかったのか、という不思議である。
 私の出した回答は、言葉以前の「心」(本当にそのような「心」があると断言してよいのか、まだ自信はないのだが)があったとして、その混沌が「形」を有するものとして表出するためには、定型という通路を必要としたのではないか、というものである。
 鳥居の場合にもそれがいえると思う。定型との出会いによって、「形」あるものとして自分を見つめ直すことが出来た、そのことで「自分をとりもどす」「自分の居場所を発見する」ことが出来た、その証が「鳥居歌集」であると思うのである。
 ただ、定型は定型としての様式にしたがうという法則がある。それはときとして危ういものである、と思うのだ。
 上にあげた二首について述べる。上の一首は昨年の東京新聞に連載された「鳥居 セーラー服の歌人」でとりあげられた作品である。だが、この作品は歌集には収録されなかった。歌集に収録されたのは下の一首である。
 これは私の私見であるから間違っているかも知れないが、下の一首は上の一首を改作したもの、あるいはもともと同じ趣意の作品が何作かあって、歌集の編集にあたって選び直したものということだと思われる。
 そこで二首を比較してみる。上の一首の方が表現が直接的で、下の一首の方が技巧的であるように感じられる。もし、様式美という観点から下を選んだ(あるいは改作した)としたら、それは間違いではないかと私は思うのである。たとえ完成度で劣ることがあったとしても、固い土を破って表れ出る「言葉」の力、歌の発生に立ち会っているかのような臨場感は上の一首の方がまさり、また深い心の痛みや、「心的外傷」と呼ばれて済まされてしまうことへの鋭い拒否の姿勢、さらにはその反発が心のあり処への探究に向かう動きまでもが正しく伝わってくるように思うのである。



by yassall | 2016-05-13 16:58 | 詩・詩人 | Comments(2)

『キリンの子』が届いた

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 1月20日の投稿で紹介した鳥居の初歌集『キリンの子』が届いた。新聞によると発売日は明日の10日であるらしいのだが、amazonに予約注文しておいたので1日前に配送されたのである。
 届いたばかりだから、まだパラパラ頁をめくっている段階である。
それでもブログに「クリスマスも お正月も返上で 良い本にするために頑張ってました。 今も 試行錯誤しながら めっちゃ 頑張ってます。」とあったとおり、とても大切に、愛しみを込めて作られた本だと言うことは伝わって来る。たくさんの人に読まれるといいと思う。この本を必要としていた人がたくさんいるような気がする。

  私ではない女の子がふいに来て同じ体の中に居座る

 ときに自分を切り裂いていく目、そこに見たものをことばにする力は並大抵ではない。

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 岩岡千景の『セーラー服の歌人 鳥居』もいっしょに届いた。「東京新聞」での連載を大幅に増補改訂したとあったが、連載とはずいぶん組み立てから変えたようだ。読むのはこれからだが、鳥居を人物として追うだけでなく、作歌に寄り添っていこうという姿勢に好感が持てそうな気がする。

by yassall | 2016-02-09 20:16 | | Comments(1)

三浦英之『五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後』集英社

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1 窓は夜露に濡れて
  都すでに遠のく
  北へ帰る旅人ひとり
  涙流れてやまず

 という1番からはじまる「北帰行」は小林旭の持ち歌である。昭和30年代に歌声喫茶で歌われていた曲を採譜・アレンジしたものだという。小林旭版で割愛された2、4番の歌詞は以下のようになっている。(その他、2、3番にも微妙な相異がある。)

2 建大 一高 旅高
  追われ闇を旅ゆく
  汲めど酔わぬ恨みの苦杯
  嗟嘆(ああ) 干すに由なし

4 我が身容るるに狭き
  国を去らむとすれば
  せめて名残りの花の小枝
  尽きぬ未練の色か

 中学生のころ、たしか「中二時代」(あるいは「中三時代」)の付録についてきた歌集で、私は原曲の歌詞を知った。(たぶん歌集を編集した人は歌声喫茶版によったのだろう。)
 2番の1行目に「旅高」とあるのは「旅順高校」の略だろうと察しがついた。日露戦争のことを聞いたり、父が兵隊時代に満州にいたことから、旅順という地名は知っていた。だとすれば小林旭の無国籍的な歌とは違って、「さらば祖国/わがふるさとよ」という歌詞にも真実味があると感じたことを記憶している。
 では、その前の「建大」とはどこか? なぜかは分からないが、きっとこれは「建国大学」という大学が、満州国のどこかに国策によって創設された歴史があったに違いない、との「勘」が働いたのである。その勘は正しかったわけだが、私が最初に「建大」の名を知ったのはこのときである。

(「北帰行」の作詞・作曲は宇田博であるということが判明したのは、歌が流行るようになってからずいぶん後になってのことらしい。旧制一高の受験に失敗した後、満州の親元に帰り、建国大学前期(予科)に入学するも校則違反で放校、次いで旅順高校に入学したが、ここも校則違反で退学になった。まさに歌詞そのままである。
 ※宇田はその後旧制一高を再受験、東大卒業後、戦後はTBSに入社した。
 ※「北帰行」の原曲は現在「旅順高等学校寮歌」となっているが、宇田は退学が決まった直後にこの歌を作詞し、寮の友人たちに残していったという。その後、寮生たちが歌い継いでいったということであって、最初から「寮歌」として作られたものではない。
 ※また、「寮歌」として歌い継がれたと書いたが、旅順高校は日本の敗戦と同時に5年で廃校となっている。)

 次に私が「建国大学」の名を意識するようになったのは安彦良和の『虹色のトロツキー』によってである。50歳のころ、ちょうど家の建て替えで3ヶ月ほどマンション住まいをしていた折、近所の本屋でたまたま手に取った。私が購入したのは中公文庫コミック版だが、元々は1990年から1996年にかけて他誌で連載されたものらしい。中公文庫からは刊行中だったが、すっかり夢中になってしまい、ついに8巻を揃えることになった。
 物語は日本人の父とモンゴル人の母の間に生まれたウンボルトが「建国大学」に特別研修生として入学してくるところから始まる。関東軍参謀にして建国大学創設主任であった辻政信が連れてくることになっているのだが、この部分はもちろんフィクションである。ではあるが、石原莞爾、甘粕正彦、川島芳子、李香蘭、はては大本教の出口王仁三郎、合気道の創始者である植芝盛平まで登場する、ロマンあり、活劇ありの一大歴史絵巻は、綿密な調査に裏づけられた昭和裏面史たり得ていて、ノモンハン事件までを描く。
 ここで『虹色のトロッキー』にまで深入りするととりとめもなくなってしまうので、早々に切り上げることにするが、ただなぜ「トロツキー」なのかというと、ソ連を追放されたトロツキーを「建国大学」の講師に招聘しようという構想があったのは本当らしいということだけ言い添えておこう。

 さて、ようやく本題に入る。『五色の虹』の筆者三浦英之は朝日新聞記者。2010年から翌年にかけて「建国大学」に関する取材にとりくみ、一部は夕刊紙に連載されたとのことである。
 2011年の東日本大震災の取材、その後の米国留学などの間に原稿をまとめ、建国大学同窓会の人々の協力による裏づけを得たのち、出版を決意したという。インタビューに応じてくれた人々が高齢であることからの「曖昧さ」、あるいはその人が暮らす国の政治状況に対する配慮から、一時は本にすることを断念しようとも考えたとのことだが、かえって建国大学卒業生の人々から背中を押してもらったという。開高健ノンフィクション賞に応募し、受賞したことで書籍化への道が開けたという。
 出版は昨年の12月。私は東京新聞の書評で知り、5日に外出した際にジュンク堂で購入した。上記のことから、いつかもっと詳しいことを知りたいと思っていたのだった。
 本を買って帰ると、まずパラパラと拾い読みをしてみる。そうして読む順番を決める。今すぐに必要な情報が得られそうか、少し腰を落ち着けて読んだ方がよさそうか、などのあたりを付けるのである。
 読み出したら止まらなくなる本というものがある。他に読みかけの本もあったのだが、こちらを優先させることにした。7日には読み終わった。力作だと思った。よくぞ書いたと思った。

 「建国大学」は満州国の崩壊とともに歴史の闇へと姿を消した。開校して8年弱という歴史の乏しさもあり、大学の資料はほとんど残っていないという。というより、敗戦と同時に焼却されてしまった資料も多いことだろう。
 戦後に卒業生たちがたどった運命もまちまちである。「建国大学」の卒業生・在学生であったことを伏せなければ生き延びられなかった時代を過ごした人も多いようだ。だが、卒業生同士の連帯感は強く、お互いに連絡を取り合いながら名簿などは整理されてきたらしい。「満州建国大学卒業生たちの戦後」というサブタイトルのとおり、各国に散らばった卒業生を訪ね歩いてのインタビューを骨格にしている。卒業生の人々にしてみれば、「今、話しておかなければ」という気持ちがあったのではないか? その語り口をみると「これが最後になるかも知れない」という心情がひしひしと伝わって来る。

 三浦が書く通り、建国大学は「日本の帝国主義が生み出した未熟で未完成な教育機関」であったことは間違いないだろう。当初に掲げた「五族協和」の理念も開校数年後には神道や天皇崇拝の強制がはじまり、植民地下における支配と被支配という、そもそもの矛盾を覆い隠せるものであり得るはずもなかった。
 それでも、学費・学寮生活費は免除、他に官費で月5円を支給、言論の自由は完全に保障されるというばかりでなく、むしろ学生たちのみによる宿舎ごとの討論会が奨励される、図書館ではマルクス主義の文献や孫文の著作も自由に閲覧できるという、きわめて実験的な教育方針には興味をそそられる。貧家に育ったために進学を断念せざるを得なかった秀才たちが、その建学精神に呼応して(そうでなくともそれぞれの志を抱いて)きそって受験したため、「建国大学」は超難関校となったというのはあながち嘘ではないだろう。「建国大学」一期生は全部で150人、うち日本人65人、中国人59人、朝鮮人11人、ロシア人5人、台湾人3人であるという。受験生は約1万人であったとのことだ。(ついでにここで書いておくと、入学後は宿舎内も同一の民族ばかりにならないようにし、床をとる順番も互い違いになるよう規則が定められていたという。)

 「建国大学」の発案者は石原莞爾であるとのことだが、その石原はそのあり方について①建国精神、民族協和を中心とすること、②日本の既成の大学の真似をしないこと、の他に、③各民族の学生が共に学び、食事をし、各民族語でケンカができるようにすること、④学生は満州国内だけでなく、広く中国本土、インド、東南アジアからも募集すること、⑤思想を学び、批判し、克服すべき研究素材として、各地の先覚者、民族革命家を招聘すること、といった意見を述べたという。
 これらがその通りに実現されたわけではないが、⑤にしたがって先述のトロツキー招聘も構想されたし、実際に1919年に朝鮮で起こった「三・一独立運動」で「独立宣言書」を起草した崔南善が教授として採用された。その崔南善にひかれて「建国大学」に二期生として入学した姜英勲氏は後に韓国首相となり、南北初の首相会談を実現させた人物である。
 「建国大学」に通っていた非日系の学生の多くは、戦後「日本帝国主義への協力者」とみなされ、自国の政府・民間から厳しい糾弾や弾圧を受けた。
 ただ韓国のみが母国にもどった彼らを「スーパーエリート」として国家の中枢に組み込もうとした。それは語学力や国際感覚に優れていただけでなく、当時国家が最も欲していた軍事の知識を習得していたからだ、というのには考えさせられてしまうが、韓国が置かれた歴史的地位を思えば納得せざるを得ないのかも知れない。
 姜英勲氏は陸軍中将として士官学校校長にまで昇り詰めたが、その姜氏をもってして、朴正煕のクーデターを批判したために4ヶ月の投獄ののち、アメリカへの亡命同然の生活を送らざるを得ないほど、卒業生たちの人生は順調ではなかった。姜氏が首相として招聘されるのは士官学校時代の教え子である盧泰愚が大統領に就任したときである。

 大連で取材にのぞんだ一期生の楊増志氏は、在学中に反満抗日運動のリーダーとして地下活動中に検挙されたという人物であるが、中国当局からマークされていたらしく、インタビュー中に長春包囲戦に話題が及んだとき、突然取材が中止された。長春で取材の約束をとりつけていた七期生の谷学謙氏は幾多の変転の上、中国教育界の重鎮の地位を占めるにいたった人物であり、中国での取材ビザの申請にも尽力があったということだが、どのような力が働いたのか、直前になってキャンセルされた。
 三期生のモンゴル人学生であったダシニャム氏は満州国軍司令官であったウルジン将軍の息子である。そのウルジン将軍の名誉回復がなされたのは1992年になってのことだという。今はカザフスタンのアルマトイで暮らすスミルノフ氏もロシア革命から逃れてきた白系ロシア人の末裔として、他の人々とはまた違った苦難の人生を歩んできた人物である。

 こうして内容を紹介していると、とりとめもなくなってしまう。日本人卒業生については端折ってしまったが、収録されている在学中の日誌を読むと、政府が掲げる建学の理想と現実との矛盾に直面せざるを得なかった日本人学生の心の葛藤を知ることが出来る。また、卒業生のつながりが国境を越えたものであることも知ることが出来る。
 最後に台北に住む一期生の李水清氏のことを紹介して終わりにしよう。頭脳の明晰さから「台湾の怪物」と呼ばれたとのことだ。その李氏が三浦から楊増志氏のことを伝え聞いたとき、大声で笑い出し、次のように語ったというのである。

 「いや、なに、君はまったく心配しなくていいんだよ」(彼は)「格好いいところを見せたかったんだよ」「君だけにじゃない。君の背後にいるたくさんの同期生たちににね。俺は共産党政府なんぞには屈していないぞ、楊増志、未だ反骨精神ここにありってね。」「逮捕されては釈放され、釈放されてはまた逮捕される。その連続こそが彼の人生そのものだったんだ。でも誰も--少なくとも元建国大生は--彼を絶対に軽蔑しない。彼は凄い男なんだよ。」

 「建国大学」は日本の傀儡国家であった満州国の支配のために作られた国策大学であり、「当初の崇高な理念は物理的な閉学を待たずにすでに崩壊して」いたことには、いささかの留保を加える必要もないことは明らかだろう。しかし、そこで青春を過ごした者同士に生まれた絆と信頼が、地理的な壁、時間的な壁を越えて強固に結ばれていたことも信じていいように思ったのである。

三浦英之『五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後』集英社(2015.12)

※一度アップした後も書き足りない気持ちでいっぱいだ。それは一人一人の人生についての紹介はこんなものではとうてい足りないという思いに近い。「建国大学」はいうなれば負の遺産である。そうであるから、忘れたふりをしたり、否認したりもしたくなるだろう。しかし、そこにも否認し得ない人間の営みがあり、喜び悲しみの人生があった。そして、白系ロシア人スミルノフをして「古い友人がはるばる遠くの国から私を訪ねてきてくれた。…神よ、あなたは私に最高の人生を与えてくれた」といわしめている。それもこれも、今、書きとめておかなければ、いずれは消えてしまう。若きジャーナリストである三浦英之が一冊の書物としてこれらの一人一人の人生を書き残してくれたことに心から敬意を表したい。


※小木田順子さんの書評がありました。
http://webronza.asahi.com/culture/articles/2016010800002.html
 


by yassall | 2016-01-08 21:21 | | Comments(0)