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ハプスブルグ展

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 23日、折悪しく雨となったが、ハプスブルグ展を見に上野まで出かけて来た。いつもながら開催期間も終了ぎりぎりだった。
 中野京子の『ハプスブルグ家12の物語』(光文社新書)によれば一族の源流はスイスにあり、この地に起こった豪族が建てたハービヒッブルグ城(Habicht「大鷹」Burg「城砦」)からハプスブルグを名乗るようになったらしい。一族の躍進は13世紀、ルドルフ一世が選帝侯らによって神聖ローマ皇帝に推挙されてからだ。ルドルフの戴冠に異議を唱えて以来、対立を続けてきたボヘミアをマルヒフェルトの戦いで打ち破り、やがてオーストリアに本拠を移していく。家訓「戦争は他の者にまかせておくがいい、幸いなるかなオーストリアよ、汝は結婚すべし」は有名であるが、ハプスブルグが戦争と無縁だったわけではない。後年、娘マリー・アントワネットをルイ一六世に嫁がせたマリア・テレジアにしても、王位継承にあたっては周辺国の干渉を受け、オーストリア継承戦争を戦っている。
 「汝は結婚すべし」=政略結婚の最たるものはマクシミリアン一世がしかけたスペイン王家との二重結婚だろう。二重というのは息子フィリップをスペイン王女ファナと、娘マルガレーテをスペイン王子ファンと、どちらかの家系が断然したときは残された方が領地を相続するとの約束の下に結ばせたことによる。結果、スペイン王子ファンは結婚式の半年後に突然死、フィリップとファナには二男四女が授かったことでスペインはハプスブルグに渡ることになった(フィリップも9年後に突然死)。ここからハプスブルグにはオーストリア・ハプスブルグとスペイン・ハプスブルグの2系統が誕生することになった。
 いつどこの世でも王族たち(近代になってからはブルジョワたち)は美術品や文化財のコレクションにいそしむらしい。ハプスブルグ家によるコレクションは現在ウィーン美術史美術館、プラド美術館を中心に収蔵されている。どちらかというとベラスケスを宮廷画家として抱えたスペイン・ハプスブルグの方が美術的な審美眼にすぐれ、ウィーンでは美術よりも音楽に秀でていたといわれる。今回はオーストリアと日本の国交樹立150周年を記念しての開催ということでウィーン美術史美術館の収蔵品が海を越えてきたらしい。とはいえ、両家には密接な交流があったわけで、一昨年のプラド美術館展より点数は少なかったが、肖像画の交換が盛んに行われたことからベラスケスはレベルの高いものが数点来ていたし、他にもティツィアーノ、デューラー、ブリューゲルが来ていた。
 いつかウィーン美術史美術館やプラド美術館に収蔵されているというボスやブリューゲルを見られたらと思っているが、たとえばボスの「快楽の園」などは板書きの三連祭壇画でおそらくは門外不出だろう。その意味では、今回の展覧会への期待は美術的価値よりはヨーロッパ史への関心であり、今まで図版でしか見たことのない歴代の皇帝や王妃たちの肖像画を見られただけで満足だった。コレクションの中ではオッターヴィオ・ヴァンイーニ「井戸端のレベカとエリエゼル」(1626)とヴェロネーゼ「ホロフェルネスの首を持つユディト」(1580)が美しいと思った。
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 展覧会会場へのアプローチ、SHARPS1で。p330が不調になってからs8200をメモ帳代わりにしていたが、もしかしてスマホのカメラで間に合うのではないかと思いついた。今まではバカにして使わないでいた。まだ慣れない。最近、HUAWEIP30liteを買った。その話はまた別の機会に。

 


by yassall | 2020-01-27 01:22 | 日誌 | Trackback | Comments(0)

中島敦展

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 23日、明日で開催期間も終了という日になって出かけて来た。連日の雨模様の中であったが、週明けでは間に合わないのだから仕方がない。なぜ神奈川でという疑問は展示を観覧しているうちに合点した。埼玉に勤めていたせいで、つい埼玉と中島敦の関係に関心が向いていたが、東大卒業後、敦が国語と英語の教師として赴任したのは横浜高女であった。そのためか、神奈川近代文学館は中島敦に関連した資料を多数所蔵しているらしく、展示会も4回目で、内容はたいへん充実していた。横浜高女時代の写真や校友誌なども展示されていた。
 中島敦は漢学者の家系に生まれた。その一族には以前から関心があった。叔父の比多吉は外語大で中国語を学び、幼帝溥儀につかえ、後に満州国創設にもかかわった人物であるとのことだ。他にも中国語・モンゴル語を学び、中国大陸に渡り、国士のような生活を送った人物もあるらしい。「斗南先生」のモデルである伯父の中島端(号が斗南)は癇癪持ちで「やかまの伯父」とよばれていたが、たいへんな秀才で漢詩漢文を能くしたという。残された色紙につぎのような一首が揮毫されている。
  「あがかばね野にな埋みそ黒潮のさかまく潮の底になげうて」
気性の荒々しさが伝わって来るような短歌である。端は政治に関心が深く、大陸問題に傾倒していたという。死したのち、遺骨は本当に熊野灘に散骨されたらしく、「斗南先生」には「大東亜戦争が始まり、ハワイ海戦や馬来マレー沖海戦の報を聞いた時も、三造の先づ思つたのは、此の伯父のことであつた。十余年前、鬼雄となつて我に寇あだなすものを禦ぐべく熊野灘の底深く沈んだ此の伯父の遺骨のことであつた。鯱さかまたか何かに成つて敵の軍艦を喰つてやるぞ、といつた意味の和歌が、確か、遺筆として与へられた」という一節がある。
 日本の統治下にあった朝鮮や南島での生活体験があり、支配される側の人々に接した敦には、こうした大アジア主義とも異なり、複雑な感情があったらしいことも分かった。「巡査の居る風景」などにみえる。今回の展示会で監修をつとめたのは池澤夏樹で、副題の「魅せられた旅人の短い生涯」は池澤の発案らしい。敦の人生と文学をよく言い当てていると思った。こうした文学展をみるともう一度勉強し直して見ようかと(このときばかりは)思ったりするのである。

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 神奈川近代文学館は港の見える丘公園を突っ切っていった場所にある。以前は何でもなかったのに、昨年だったか、寺山修司展に出かけたときはフランス山を上る階段をやけにつらく感じた。別ルートはないものかとHPを見たら、みなとみらい線の終点、元町・中華街駅の6番出口に向かうとエレベータでアメリカ山公園に出られることが分かった。地図上では少し遠回りになるが、外国人墓地のわき道を抜けていくと、海が見える丘公園の展望台の真向かいの入口に出られる。ロケーションもなかなかよい。夜にはアメリカ山公園はイルミネーションでライトアップされていた。


by yassall | 2019-11-24 17:51 | 日誌 | Trackback | Comments(0)

「ファシズム・戦争・飢餓に抗する美術」展

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 19日、「ファシズム・戦争・飢餓に抗する美術」展のことが「赤旗」の「きょうの潮流」に載っていたので出かけて来た。会場は代々木の「みずさわ画廊」とあったが、なかなか見つからない。googleで検索し直してようやくたどりついた。さまざまな店舗やらオフィスの入ったビルの4階だった。手狭といって良いほどのスペースしかなく、「画廊」とある通り、展示されている作品には価格が表示されている。しかし、商売っ気はまったくない様子で、その時間帯に客は私一人だったこともあり、茶など出してくれて親しくお話ししたりした。
 見たかったのはキルノアガの版画である。記事によると戦後のルーマニアで版画界を代表し、「われわれの心の内にある悪と世界にある悪を理解することが、私の作品の最も深い動機となっている」との言葉にあるように、束縛された社会で人びとの願いを描いた作品は当時の欧州で高く評価されたという。ミノタウロス神話に材をとったのだろう、受付におかれた案内ハガキに採用された「迷路Ⅱ」は力もあったし、心のどこかで目覚めをうながすものがあった。
 キルノアガの作品展は30年ぶりだそうで、本人が来日を強く希望し、日本側で有志にカンパをつのり、最初に展示会を実現させたのが1985年だという。1985年といえばルーマニアはまだチャウチェスク政権の時代である。表現の自由などはまったくない時代であったのだろう。キルノアガのこれらの作品にも巧みに隠された暗喩がたたえられているのだろう。当時は「みずさわ画廊」は別の場所にあり、スペースも広く、絵もたくさん売れたとのことだった。
 お名前を確認し損なったが、相手をして下さったのが水沢さんなのだろう。同会場に展示されていた松山文雄や中島保彦についても興味深いお話しを聞くことが出来た。風刺的な松山文雄も描線の鋭い中島保彦も画力を感じた。中島保彦は田辺茂一の親戚筋で、中島の大きな絵を買ってくれたとか、俳優の寺田農は板橋区の出身で、父親の寺田政明は画家、池袋モンパルナスの中心人物として日本のシュルレアリスム絵画を牽引したという。話題がつきそうもなかったが、時機をみて失礼した。

by yassall | 2019-09-20 15:10 | 日誌 | Trackback | Comments(0)

高畑勲展

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 昨年4月に亡くなってから高畑勲に対する再評価が高まっている。7月2日に始まったこの企画展は10月6日までの長丁場である。それだけ思い入れも深いものがあるのだろう。27日、このところまた閉じこもりがちになっていると反省し、国立近代美術館まで出かけて来た。
 展示には工夫が凝らされ、飽きさせなかった。「アルプスの少女ハイジ」のコーナーでは精巧なジオラマが設置されていて、おそらくは子ども向けなのだと思うが、大人が見ても十分に見応えのある出来栄えだった。
 宮崎駿とのコンビで作られた長編アニメは名作揃いだと思う。今回の企画展を通しての感想としては、この二人以外にも実に多くの才能が結集していたのだなあということがある。美術監督をつとめた一人に山本二三がおり、現在並行して富士美術館で展覧会が開かれているとのことだが、その背景画を見ていると描かれた世界に引き込まれていくような錯覚さえ覚える。それらの才能を引き寄せ、見いだし、さらなる高みへと引き上げていったのが高畑勲という人間であったということらしい。
 NHK朝ドラで放映中の『なつぞら』に登場する坂場一久は高畑勲がモデルであるとのことだ。ネットではドラマの進行とともに高畑勲の足跡を振り返る記事もアップされている。新しい表現を追求して止まなかったパイオニアであったのだろうし、戦後の日本アニメーションの歴史である以上に、戦後日本の青春がそこにあったと思ったのだった。
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 本文で話題にした「アルプスの少女ハイジ」のジオラマ。TVアニメは見ていないがどのような世界観の下に制作されたか想像が広がるようだった。

by yassall | 2019-08-30 16:14 | 日誌 | Trackback | Comments(0)

東寺 空海と仏像曼荼羅

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 24日、東寺展を見に上野の国立博物館まで出かけて来た。coopを通じて前売券は買っておいた。
 東寺または教王護国寺の仏像曼荼羅のことを知ったのはいつ頃のことだったか、仏像に関する本を読んでいて、掲載されている写真によってだけでもその迫力には圧倒された。
 東寺は京都駅の南側にあたり、いわゆる観光地からは離れている。徒歩で行けるが道筋はまったくの住宅地である。史跡としてだけ残っている西寺の方は児童公園のようになっている。ときたま京都に出かけたときも、つい足を向けずに済ませていた。だが、いつだったか、仏像曼荼羅のことを思い出し、京都旅行の最後の日、初めて東寺を訪れた。以来、京都に出かけたときは必ず寄るようになった。
 国立博物館に来ると聞いて出かける気になったのは、東寺では正面から拝観するしかなく後ろ姿までは見ることが出来ないこと、寺院の施設としての講堂では照明に限度があることからである。つまり、曼荼羅として総体を見るのではなく、個々の仏像を芸術品として見ようということになるから、正しい見方とはいえなくなるということもあるだろう。それをおいても、二度とはない機会かも知れないと思ったのだ。
 展示は4部構成になっており、第1章は「空海と後七日御修法」、第2章「真言密教の至宝」、第3章「東寺の信仰と歴史」となっている。いずれも、ただ東寺を参拝しただけでは目にすることが出来ないものばかりで、真言密教の秘儀の一端に触れることができた思いはあった。だが、やはり興味は第4章「曼荼羅の世界」だった。
 密教であるから中心仏は大日如来ということになるのだと思うが大日如来像は来ていなかった。もともと如来や菩薩像よりも明王部・天部の仏像に惹かれるところが大きい。なのであまりがっかりすることはない。四天王では持国天と増長天の二体が来ていた。広目天・多聞天は東寺でも後方に位置しているから、この機会に間近に見られなかったのは残念だったが、二体だけでも来た甲斐があったと思った。ちょうど雨宮処凛の『生き地獄天国』を読んでいたところだったので、この憤怒の形相によってだけでも救われる人間がいるだろうとへんに納得した。他には、仏像曼荼羅には入らないが毘沙門天立像の若々しさに心惹かれた。
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 帝釈天騎象像のみ写真撮影がOKだった。初めて見た頃は物足りない感じだったが、男前といっていい端正な顔立ちだと改めて思った。モダンでもあると思った。

 
 

by yassall | 2019-05-25 17:10 | 散歩 | Trackback | Comments(0)

庭園美術館でキスリング展

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 7日、目黒の庭園美術館でキスリング展が開かれているというので出かけて来た。エコール・ド・パリの画家の中では生前から絵もよく売れ、人柄も円満であったことから、かえって軽んじられることが多かったのではないだろうか。確かに描くところの女性たちはみな美しく、万人受けしやすい。だが、一目見てキスリングと分かる個性は明かで、ユダヤ系ポーランド人として第2次世界大戦中はナチスにも抵抗した。会場が庭園美術館ということで、どの程度の美術展になるか期待も半ばであったが、新館の方が充実していて作品数も多く、見応えのある展覧会だった。
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 庭園美術館は10数年ぶり。元朝香宮邸だからというわけではないがアール・デコは好みではない。ただ、贅を尽くしていることはよく分かる。今は都立美術館であるのだから歴史的建造物として受け止めてよしとするか。
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 この時期の新緑を楽しもうというのも出かける動機のひとつだった。あいにくの小雨模様だったがその分入場者が少なく、ほぼ独り占め状態だった。こちらは日本庭園側。
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 こちらは西洋庭園側である。

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by yassall | 2019-05-15 20:32 | 散歩 | Trackback | Comments(0)

根津美術館

 4月28日、根津美術館へ出かけて来た。根津嘉一郎は東武鉄道の創始者にして我が武蔵大学の創立者である。「社会から得た利益は社会に還元する義務がある」という信念のもとであったという。古美術の収集も手がけ、根津美術館は嘉一郎の没後、コレクションを引き継いで開館した。その存在は学生時代から知っていたが、恩義に薄い身ゆえ、これまで足を運ぶには至らなかった。
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 当初、美術館は旧宅を改装したものであったという。隈研吾の設計による現在の展示棟は2009年のオープン。尾形光琳の国宝「燕子花図」を所蔵しており、毎年4月下旬~5月上旬にかけて公開されているとのことだ。琳派ファンとしては一度この目で実物を見ておきたいということもあり、また隈研吾の手になる建物も見てみたいというのが動機である。
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 美術館の中は撮影禁止。展示品を鑑賞後、庭に出てみる。嘉一郎の邸宅であった時代に造成されたものであるらしいが、手入れが行き届いて気持ちのよい庭園であった。
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 小さいながらも藤棚がしつらえてあったり。
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 「燕子花図」と比べてご覧なさい、とでもいうように八橋を模したようにカキツバタが植えられていたりしている。
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 決して広くはないが瀟洒という言葉がぴったりする。
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 これも嘉一郎のコレクションだろうか。道幅はどこもこれくらいだったが、傾斜地の上り下りを利用しており、回遊していて飽きない。
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 嘉一郎は茶人でもあったという。なかなかの風情である。
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 庭園への下り口は庭園口(1F)と茶室口(B1F)がある。茶室口手前から本館を見上げたところである。この日、誘いを受けてくれたのはTさん。二人して池袋までもどり、会食(飲?)。年に何度かそんな機会がある。

 RX100Ⅲ


by yassall | 2019-05-02 15:18 | 散歩 | Trackback | Comments(0)

ル・コルビュジエ展

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 16日、ル・コルビュジエ展を見に国立西洋美術館まで出かけて来た。開催のアナウンスがあったときから出かけるつもりでいた。ただ、コルビュジエについてはまったく詳しくはない。コルビュジエはペンネームで、本名はシャルル=エドゥアール・ジャヌレということも初めて知った。
 スイスに生まれ、もともとは時計職人を継ぐつもりで装飾美術学校で学び、才能を見いだされて建築の道へとすすんだ。展覧会の副題には「絵画から建築へ」とあるが、最初に画家を志して後に建築へ転向したというのとは違うようだ。コルビュジエというペンネームを使い出したのはパリに出た後、詩人のポール・デルメ、画家のアメデエ・オザンファンと共に雑誌『レスプリ・ヌーヴォー』(L'esprit Nouveau)を創刊したころからだという。
 ピュリスムということばも初めて知った。『キュビスム以降』(1918)でコルビュジエとアメデエによって提唱されということだ。ただ、素人からみるとキュビズムとの区別は一見しただけでは難しい。対象を多面的にとらえ、画布の上に再構成していくという点では共通しているように思われる。実際、後年になってコルビュジエらはピカソにも「構成と総合」を認めるようになったとあった。
 会場にはピカソやブラックの作品も展示されていて、比較していくと少しずつ分かりかけてきた気もした。キュビスムがリアリズムへの挑戦であったとすれば、ピュリスムにはそのような攻撃性は薄い。描かれているのも瓶、水差し、グラスといった日常生活になじんだものであるし、色彩もパステルカラーを多用した穏やかなものとなっている。一面的はいえないが、機械文明、工業製品といった近代文明に対する親和性が感じられる。幾何学的で規則性、法則性を感じる。キュビスムと袂を分かったレジェがピュリスムに賛同するようになった、との解説があったが、よく理解できる気がする。
 近代文明に対する親和性ということは建築でもいえるような気がするが、これより先は勉強不足なので触れない。
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 夕日を背に受ける考える人。見慣れたはずなのになぜか写真に撮っておきたくなった。(RX100Ⅲ)

 

by yassall | 2019-04-17 16:50 | 散歩 | Trackback | Comments(0)

福沢一郎展

 28日、「福沢一郎展」を見に国立近代美術館まで出かけて来た。
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 サブタイトルに「このどうしようもない世界を笑いとばせ」とあるのは、従来「シュルレアリスムの紹介者」とされてきた画家の再評価を企図してのことらしい。具体的には福沢の作品に「社会風刺」の要素を見いだし、対社会的意識の存在を浮き彫りにしようということのようだ。
 日本のシュルレアリスムの歴史をさかのぼると必ず福沢一郎の名前が出てくる。福沢が渡仏した1914年はアンドレ・ブルトンが「シュルレアリスム宣言」を発表した年である。もともと朝倉文夫に入門して彫刻家を志した福沢は、フランスの地でアバンギャルド運動に立ち会い、キリコやエルンストの影響下に画家として再出発する。
 そうした経緯からして福沢を「シュルレアリスムの紹介者」と位置づけるのは自然で、1941年に瀧口修造とともに治安維持法違反で拘禁された後、運動から離れていったことも日本のシュルレアリスム運動の終焉とともにあったとみるのは間違いではないと思われる。
 福沢一郎展の開催を知ったとき、最初はそのような歴史を振り返るための展覧会であると思ったし、1910年代の世界的な同時性を確認できればいいのだろうくらいに考えていた。だが、今回の展覧会を見て、画家としての射程はもっと長いものであったことが分かったと同時に、時代と誠実に向き合って来たことを知れたように思う。
 実はこの企画展に対しては美術評論家の黒瀬陽平が、福沢の風刺精神の存在や社会風刺のレベルに疑問を呈し、「結論ありきの予定調和的な再評価」として否定的な見解を発表している(『東京新聞』3.22)。そんなこともあり、私としてはなるべくフラットに展覧会に臨んだつもりだが、そこで得た感想はそのようなものであった。
 福沢自身が「自分はシュルレアリストではない」の述べていたということだが、日本のシュルレアリスムが真に世界と芸術の変革をめざしたものであったか、単なる意匠で終わってしまったかという問いと向き合ってみると、前者に対しては福沢の謙虚さが、後者に対しては明確な否定の意志が込められたことばであった気がする。つまり、「シュルレアリスムの原理を正確に理解した」かどうかは不明だが、少なくとも新しい意匠を振りまいて時代を先駆けたつもりになっていた、というのとは明らかに違うと思うのである。
 福沢はエルンストからコラージュの技法を学んだという。コラージュとはフランス語で「糊付け」という意味らしいのだが、ではパッチワークと一緒かといえばもちろ
ん違う。ひとつには「解剖台の上でのミシンと蝙蝠傘の出会い」の比喩の通り、異質のものとの出会いによる発見や飛躍、新しい美や意味の創造ということだろう。福沢の作品を見ていても、特に初期の作品にはそのような意図が顕著であるように思われる。
 だが、制作活動のその後の展開を追っていくとコラージュにはもうひとつの捉え方があるのではないかと思えてきた。それは「引用」である。代表作のひとつに「女」(1937)がある。どうやら描かれた女のポーズはマザッチオの「楽園追放」から取ったものであるというのである。「女」は福沢が満州を旅行した後に描かれている。中国東北部とみられる野を、右足から血を流し、左肩を押さえながら裸体で歩く女の姿に「楽園追放」のテーマを見いだすことはそれほど無理なことではないように思われる。
 戦時中、福沢も戦争協力を強いられ、何枚かの戦争画を描いている。その時代も含め、「敗戦群像」(1948)一連の終戦直後の作品を見ると、福沢が時代と時代に翻弄される自己と正対してきたことは確かだといってよいと思うのである。そして、そうであるからこそ南米・メキシコの旅の後の、展覧会では「文明批評としてのプリミティヴィズム」と標題がつけられた、画風の変化が訪れたと思うのである。思うに生命の新しいあり方の追究があったのである。
 
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 「埋葬」(1957)、中南米旅行の集大成的な作品。ただ一枚だけ撮影が許可されていた。東京駅のステンドグラスの原画にもなっているとのことだった。
   ※
 近代美術館へは有楽町線を市ヶ谷で新宿線に乗り換え、九段下から北の丸公園を抜けるコースを選んだ。せっかくなので桜を撮ろうという魂胆である。千鳥ヶ淵は満開という報道であったが桜はまだまだ六分咲き程度。空模様も曇天で、たいした写真は撮れなかったが、別稿でアップする。


 
 

by yassall | 2019-03-30 14:06 | 散歩 | Trackback | Comments(0)

奇想の系譜展

 22日、奇想の系譜展を見に上野の東京都美術館まで出かけて来た。
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 「奇想の系譜」というタイトルは伊藤若冲、岩佐又兵衛、曽我蕭白ら、それまで正統から外れた異端とされた画家たちを取り上げた辻惟雄『奇想の系譜』(1970)によるということだ。今回の展覧会では辻惟雄の弟子にあたる山下裕二氏(明治学院大教授)が監修をつとめている。単に顧問的な立場にあったのではなく、おそらくは企画段階から大きく関わって来たのではないだろうか。展覧会の企画をすすめていく段階で埋もれていた作品の新たな発見もあったという。
 伊藤若冲が再評価されるきっかけとなったのは辻惟雄の『奇想の系譜』からだということは確かなのだろう。だが、いまや若冲はビックネームである。へそが曲がっているのか、たぶん若冲だけだったら観に行くことはなかっただろう。(それでも「象と鯨図屏風」を直に見られたのは出かけていった甲斐ありというところだった。)
 最初からのお目当てであり、見終わった後にもこれ一枚と思ったのは曽我蕭白「雪中童子図」である。画題は釈迦の前生譚、雪山で修行していた前世の釈迦が無常偈の半偈の教えを聞くために身を捨てたという逸話からきている。
 指摘されているように童子の腰布の赤と羅刹の青い肌との対比が見どころなのだろうが、私はそれよりも童子の肌の白さとその表情に強く心に刻印されるものを感じた。悟りをひらいた喜び、ということになるのだろうが、惹かれるというよりは一度見たら容易には忘れがたくなるような不気味さを感じてしまうのである。不気味さという点では「群仙図屏風」に描かれた仙人たちにも通じるものがある。
 子どものころ、どこでだったか、鯉の滝登りを描いた掛け軸を見て、巨大な鯉の鱗や大きくまん丸な目に何ともいえない気味悪さを感じたことを思い出す。もしかすると美意識という点で現代とは異なった何かがあるのかも知れないと思ったり、西洋でもグロテスクは美意識の一傾向であることに連想を広げたりした。
 岩佐又兵衛のコーナーには「執念のドラマ」というサブタイトルが付けられていた。織田信長によって一族を惨殺された荒木村重の子として生まれた又兵衛にはそれだけで相応しいタイトルであるように思えてくる。「山中常磐物語絵巻」はまさにそうした一巻であるのだろう。前期と後期で入れ替えがあったらしいが、前期の方も見てみたかった。
 歌川国芳は近年になって再評価がすすんだというのとは違うと思うが、「相馬の古内裏」「宮本武蔵の鯨退治」「鬼若丸の鯉退治」「一ツ家」などを見ていると確かに奇想の系譜につらなると思った。扁額である「一ツ家」以外は小品といっていいような(浮世絵だから当然だが)作品だが筆致の細やかさ、確かさは圧巻だった。展示されていたもう一枚の扁額「火消千組の図」でも同じことがいえて、描き分けられた火消衆らの表情や姿態はいつまでも見ていたいと思わせるものがあった。
 白隠では「乞食大燈図」に惹かれるものがあった。自画像としての要素があるのではないかと勝手に推測した。だとすれば仏説を伝えるための方便を越えた近代精神の萌芽のようなものがあったのではないか。江戸というとつい伝統や家元が支配的な時代という先入観があるが、もしかすると現代以上に自由精神が発揮され、息づいた時代ではなかったかと思いを新たにした。
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 いくつか見たい展覧会が始まっているのだが、せっかく上野に出かけるなら桜が咲いてからと心待ちにしていた。東京の桜の開花宣言は3月21日。早咲きの桜以外はまだまだ二分咲き、三分咲きというところだ。今年は遠出の予定は立てずじまいでいる。せめて東京の桜の満開を逃さないようにしないと。

by yassall | 2019-03-23 15:51 | 散歩 | Trackback | Comments(0)