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それぞれの紙Ⅱ そして川越散歩

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 7日、「それぞれの紙Ⅱ」展の案内をいただいたので出かけてきた。会場は昨年に引き続いて小江戸蔵里ギャラリーである。1枚目の写真は木藤恭子さんの作品。右が西洋紙、左がタイの紙なのだそうだ。西洋紙の方が丈夫でかなり乱暴なことができる。タイ紙の方は裏から絵の具を染ませたりすることが出来るという。
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 いつもの木藤さんの画風とは少し変わっている。絵の具には土を使っているという説明だった。
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 打越氏は志木高の卒業生だそうである。水彩にこだわり続けているとのことだ。筆数をいかに少なくするか、というようなお話しがあった。
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 長谷川氏の作品の写真がないが、そのとなりに作風の違う絵があった。あとから気が付いたのだが、今年は三人展ではなく、木藤さんの夫君らしきもう一人の名前があった。鉛筆画とあるからこれらが御作なのかも知れない。すぐ気が付けば確かめられたのだが。写真では真っ黒にしか見えないが、なかなか味わいのある絵だった。
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 蔵里ギャラリーは元鏡山酒造の跡。志木高時代の同僚のYさんも来場していた。私とは同年代である。2年ほど早く退職し、現在は請われて書道教室を開いているという。お弟子さんも多く、ご活躍の様子だった。絵も描かれていたが、書道の方なのか、絵の方なのか、個展を開いたりもしているとのことだった。
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 フェイスブック小江戸川越会の投稿で佐久間旅館閉店とあった。川越散歩がてら、写真を撮っておこうと松江町まで歩いた。島崎藤村が原稿執筆のために泊まり込んだという創業130年余の老舗である。とはいいつつ、私も20年川越にいて、宴席に使われたのは一度しかない。
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 佐久間旅館前の川越キリスト教会は建物が新しくなったような気がするのだが気のせいだろうか?
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 川越八幡宮裏の骨董店はなくなってしまっていたが、その先の路地を入ったアビロードは健在のようだった。
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 こんな刻印は昔からあっただろうか?

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by yassall | 2018-04-09 09:41 | 散歩 | Comments(0)

ブリューゲル展

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 13日、ブリューゲル展を見に東京都美術館まで出かけてきた。ブリューゲルは日本に来るたびに見に行っているし、昨年の「バベルの塔」などはよくぞ日本で生きている間に見られたものだと感激もひとしおだった。今回の企画は「画家一族がやって来る」というキャッチコピーの通り、150年に及ぶというブリューゲル一族およびその工房の作品を集めたもので、ピーテル・ブリューゲル1世の作品は版画程度だった。それは予想通りだったのだが、しばらく美術館に足を運んでいないなあ、ということで出かけたのだった。
 1世の息子には兄のピーテル・ブリューゲル2世と弟のヤン・ブリューゲルⅠ世がいる。兄の方は父1世の複製を大量に制作し、ブリューゲルの名を広くヨーロッパに広めることになったという。複製といっても父1世が残した下絵にしたがって忠実に再現したものだ。会場には冬の風景である「鳥罠」が展示されていた。そうした先入観があるせいか、どこか力強さに足りないものがある気もしたが、絵画としては群を抜いているように思えた。絵の才能は弟の方がすぐれ、静物画という新しい境地を開いて「花のブリューゲル」と呼ばれたという。ひ孫たちには1世から「風景」や「城壁」をそれぞれ引き継いだと評される作品がある。それらと比較しても私は「鳥罠」の方に心をひかれた。 
 今年は一昨年のカラヴァッジョや昨年のクラーナハのような魅力的な展覧会情報がないなあ、と少々気落ちしていた。その気持ちが晴れたというほどの展覧会とはいかなかったが、いちおう記録としてアップしておく。


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by yassall | 2018-03-15 16:36 | 日誌 | Comments(0)

中村彝アトリエ記念館

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 20日、天気がよかったら久しぶりに外出しようと思っていた。目白に中村彝のアトリエが復元されているというので、以前から一度行ってみようと思っていた。目白にはそれ以外には何があるとも思いあたるところがなかったので、ずっと後回しになっていたのだ。半日程度の散歩にはちょうどよいだろうと出かけることにした。
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 詳しい地図が入手できなかったので、下落合3丁目という番地だけを頼りに歩き始めたのだが、目白通りを西へ進んでいくとほどなく案内表示を発見できた。これで迷いようもなさそうなのに、間近になってからあちこち彷徨き回っては訪ね歩くことになった。それも初めての土地では楽しみなのである(と強がりをいう)。
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 庭側から全景をながめる。復元といっても、中村彝の後の所有者である画家の鈴木誠によって増改築された部分を除いていったということで、当時の部材も数多く活かされているということだった。
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 庭の風景。今はすっかり住宅街になってしまっているが、当時はいかにも東京郊外といった風情で田園風景がひろがっていたそうだ。隣の池袋に住んでいたことのある父が犬を散歩に連れて行き、小川で身体を洗ってやったことがあるというようなことを昔話で聞いたことがある。中村彝が37歳で亡くなったのが大正13年、父が池袋に住んだのはそれから10年後くらいだから、何となく想像できる。
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 中村彝アトリエ記念館は新宿区立。入場は無料である。採光のために大きく開かれた窓はアトリエらしく北側に面している。
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 これも採光のために設けられた天窓。平屋作りなのに大きな三角屋根があるのはこのためらしい。
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 アトリエのすぐ隣の居室はビデオルームになっている。こちらは南側ということになり、庭が眺められるが扉などは痛みが激しい。中村彝については近代美術館所蔵の「エロシェンコ氏の像」の作者であること、新宿中村屋のサロンのメンバーであったこと位しか知らなかった。ビデオは15分ほどで、彝の生涯と作品の概要について知ることが出来る。早世してしまった画家らしく、「エロシェンコ氏の像」が傑作であることは疑いないとしても、他に残されている作品はルノアール、セザンヌ、ゴッホ、ドラクロアなど、様々な画家たちからの影響が顕著な習作といったレベルで、まだ独自の作風を確立するまでには至っていないように思えた。それでも代表作である「小女」などはルノアールにはないまなざしの強さが感じられた。
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 赤レンガ造りの門柱も当時の雰囲気を再現したものらしい。
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 私には今年初めての梅である。
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 目白駅はもしかすると学生時代に一度だけ参加した四大学祭で降車して以来かも知れない。もっとも、安倍晋三が成蹊大学、麻生太郎が学習院大学卒業と聞いては、もはや四大学を強調する気にはなれない(笑)。

 GM5+12-32mm

 この記事を書いていると金子兜太氏の訃報が流れてきた。ご冥福をお祈りしたい。「アベ政治を許さない」を揮毫なさった。

    梅咲いて庭中に青鮫が来ている  兜太


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by yassall | 2018-02-21 19:23 | 散歩 | Comments(0)

「日本の家」展

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 2日続きの外出になるが、29日、歯医者通いのついでに「日本の家」展を見ようと竹橋の近代美術館まで出かけて来た。
 サブタイトルに「1945年以降の建築と暮らし」とあったので、もっと庶民の暮らしに即した、最大多数の人々が暮らす住宅を対象とした企画だと思い込んでいたのだが、実際は著名な建築家たちによる建築を時代を追いながら写真・設計図・模型で紹介していくという内容だった。美術館の企画によるのだからこれが当然なのだろうが、少々当てが外れた気持ちだった。
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 もちろん、それらにせよ、時代を反映したコンセプトによって裏づけられているのであるが、やはりデザイン優先で、実際に住みたい家とは距離があるように感じられてしまう。
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 住宅は寒冷地かそうでないかというような地域性、実際に家を建てようという土地の地形、住む人の生活スタイルといったものの制約を受けるのだろう。たとえば狭小地であるとか、土地に段差があるとか、そのような理想的とはいえない条件に挑戦した建築には引かれるものがある。暮らしやすさの工夫の中に、ちょっとした坪庭風の空間を設えることでかえって広がりを感じさせることがあるかも知れないし、そこに美の要素が加わることで愛着が生まれるのかも知れない。そんなことを考えながら帰路についた。

国立近代美術館 ~10/29


 

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by yassall | 2017-08-29 19:45 | 日誌 | Comments(0)

ベルギー奇想の系譜展

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 10日、夜の待ち合わせまでの時間にBunkamuraで開催中の「ベルギー奇想の系譜」展を見に出かけて来た。結論からいうと、予想通り?期待はずれだった、というしかない。
 2001年に新宿の伊勢丹美術館で「ベルギーの巨匠5人展」が開催されている。アンソール、スピリアールト、ペルメーク、マグリット、デルヴォーを集めた。今回もアンソール、マグリット、デルヴォーが並べられていたが、作品の力が弱く、数も少なかった。現代作家の作品も展示されていたが、新しい表現をめざしているようでいて、深みには欠けていた。
 展覧会の主題そのものは面白いと思った。「奇想」をキーワードに、中世にまでさかのぼってフランドルからベルギーにいたるまでの美術を系譜立ててみよう、というところだろうか? だが、ボスにしても、ブリューゲルにしても、版画以外にはオリジナルはなく、オリジナルと亜流との力の差はこれほどなのか、と思いを新たにさせられるばかりだった。たとえ悪魔が描かれているとしても、ルーベンスまで「奇想」に位置づけようというのもいかがなものか、とも思った。
 なかではデルヴィル「レテ河の水を飲むダンテ」(1919)とサードレールの「フランドルの雪」(1928)が良いと思った。
 まあ、悪口をいうならアップしなければよいのに、というのももっともなのだが、いちおう日誌として。
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 大規模工事中ということもあるのだろうが、渋谷はますます雑然とした発展をとげているようだ。新宿の方がはるかに大人の街のように見えてくる。好きになれない。といいながら、Bunkamuraへ出かけたときはなぜかこのビルを撮りたくなる。


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by yassall | 2017-08-12 14:19 | 日誌 | Comments(2)

横尾忠則 HANGA JUNGLE展

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 1日、横尾忠則HANGAJUNGLE展を見に町田市立国際版画美術館まで足を運んできた。
 横尾忠則は1960年代、アンダーグランド芝居のポスターで注目されるようになった。私が印象深く記憶しているのは大島渚の「新宿泥棒日記」に主役の万引き青年役で出演していたことである。(計算してみると当時すでに横尾は33歳。青年というのもどうかと思うが、田辺茂一ともども不思議な存在感をはなっていた。一方、映画公開時、私は18歳。1年浪人させてもらったにも関わらず、映画館にしけこんでいたことになる。親不孝なことである。)
 その大島渚も死んだ。三島由紀夫も死んだ。状況劇場のポスターを描くようになる以前、横尾は天井桟敷にも参加したが、主宰した寺山修司も死んだ。澁澤龍彦もとうにいない。
 そうしてみると横尾忠則の活動がとても息の長いものであることが分かる。今回の版画展はペインティングをのぞく版画作品のほぼ全作品約250点を展示しているという。
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 町田市立国際版画美術館は小田急町田駅から徒歩15分、芦ケ谷公園の一角にある。なかなか立派な建物で、しかも版画に特化した美術館を建てるとは、町田市はどのような自治体なのであろうか? その建設をよしとした町田市民とはどのような人々なのだろうか?
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 撮影フリーということだったので遠慮なく撮らせてもらった。三島由紀夫の死後、オカルティズムに近づいたころの作品群。
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 やがて横尾はその世界からは離れていくのだが作品には力がある。
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 いかにも横尾ワールドといった作品群である。1982年、横尾は「画家宣言」をするが、その後は日本国内でよりも世界での評価が高かったようだ。海外で個展を開くとまたたく間に作品が完売してしまうと聞いたことがある。
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 なんだか懐かしいポスターも広義の版画として展示されていた。
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 横尾のこだわりである「y字路」の作品も展示されていたのはうれしかった。
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 2017年作とある近作も展示されていた。タイトル未定とあった。ガラス面に反対側の壁の展示物が写り込んでしまったのは残念だった。一眼にPLフィルターを装着すれば避けられたのだろうが、そこまではなあ。

 横尾忠則HANGAJUNGLE展 町田市立国際版画美術館 ~6/18



 

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by yassall | 2017-06-02 15:41 | 日誌 | Comments(0)

ブリューゲル「バベルの塔」展

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 30日、「バベルの塔」展を見に東京都美術館まで出かけて来た。昨年、開催のアナウンスがあってからずっと楽しみにしていたのだが、開催期間もちょうど中頃、そろそろ見どきだと思ったのだ。
 近所の古書店で『ボッシュとブリューゲル』の画集を買ったのは高校時代のことだった。(最近ではボスBoschがボッシュと表記されることは滅多にないが書名なのでそのままにしておく。)二人を比較してみると、先行したボスの独創性がきわだっていた。「快楽の園」はどうしても一度は見てみたい絵の一枚だが、図版でみていても、のちのシュールレアリストたちが自分たちの始祖とした理由がうなずける。それくらい幻想と怪奇に満ち満ちた絵であり、一見快楽の肯定を描いているともとれるので宗教的異端として弾圧されることはなかったのかと考えたが、当時からそのようなことはなかったという。
 ボスと比較するとブリューゲルには社会性が感じられた。「快楽の園」の右翼は地獄の風景なのであろう。快楽に溺れた報いとして楽器の弦に身体を貫かれている罪人の姿が描かれている。しかし、残酷には違いないがどこかユーモラスである。
 ブリューゲルの「死の勝利」では荒涼とした大地のあちこちに戦火が立ちのぼり、押し寄せる軍勢こそ骸骨の姿(たぶん死神)をしているが、絞首台に吊されている者、今まさに剣で首を打ち落とされようとしている者、川に突き落とされようとしていたり、犬に食われようとしている死体など、来世としての地獄の出来事ではなく、現世で繰り広げられている惨事として描かれている。魔女裁判の本を読んでいるときだったか、西洋中世の刑罰に車輪の刑というのがあった。絞首台に並んで、さらし者にされた人間を乗せた車輪を高々と差し上げた長い杭が何本も立てられている。
 ブリューゲルの絵はもはや風刺や戒めの域ではなく、告発であるように思われた。(どの絵かは分からないが、野間宏の「暗い絵」の冒頭にブリューゲルの絵の描写が延々と繰り広げられる。野間は大阪空襲の悲惨さをブリューゲルに見いだしたのである。)
 ボスの死が1516年、その翌年の1517年からルターの宗教改革運動がはじまる。カール5世がネーデルランドの改革派を弾圧する最初の王令を出したのが1520年である。ブリューゲルの生没年は1526年頃から1569年である。宗教戦争が本格化するオランダ独立戦争が開始されたのが1568年であるから、「死の勝利」が宗教戦争を描いたのでないのは確かだが、カール5世・フェリペ2世と続いた低地諸邦支配と新教徒弾圧、激しい異端審問が背景になっているのは間違いないと思われる。
 さて、ブリューゲルは3枚の「バベルの塔」を描き、そのうちの1枚は現存せず、1563年に制作されたウィーン美術館所蔵のもの、1568年に制作されたとするボイマンス美術館所蔵のものがある。有名なのはウィーン美術館のもので、今回来日したロッテルダムの絵はサイズ的にも小ぶりで「焼き直し」とみられがちだそうだ。
 図版で見るとウィーン美術館の作品の方は左下に塔の建設を命じたとおぼしき王の姿が描かれ、建設もまだ進んでいない様子である。ボイマンス美術館の作品の方はかなり建設もすすみ、塔は雲の上まで顔を出しているが、まだまだ新しい階が積み上げられようとしている。目を凝らして見ていると、「マクロとミクロの融合」という点で(ウィーン美術館版は実物は見ていないが)少しも引けをとるようには思えなかった。むしろ、王を描き入れることを省いたことで、聖書上の挿話という位置づけを離れ、「バベルの塔」そのものを画題にしているように思われた。
 中野孝次は『ブリューゲルへの旅』で、この絵が人間の傲慢に対する「戒め」を超えて、「崩壊する科学技術文明の予言のような不吉」さを表現しているとしている。分かるような気もするが、私の感想は少し違う。
 絵の右側には港が描かれ、無数の船舶が行き来している。それらの船の多くは商船であろう。絵の左側には田園地帯が描かれ、街や田畑が描かれている。すると、この絵には農・工・商のすべての人間の姿が描かれていることになる。
 私たちは聖書に著された「バベルの塔」の結末を知っている。確かに、次の瞬間にやってくるのは破滅かも知れない。それは人間には知り得ない。それでも少しでも高みをめざして創造の手を休めようとしない人間の有り様こそがこの絵の主題ではないのか? 実際、塔の崩壊後、散り散りバラバラになった人間たちはその後もその営みの手を休めることはなかったのだから。エラスムスやモアを愛読していたという人文主義者ブリューゲルの姿をそこに見たいように思うのだ。
  ※
 ボスの絵も2点来ていたし、版画作品も充実していた。「バベルの塔」以外の作品も見ごたえがあった。満足した。
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 展覧会の企画の中で大友克洋の「INSIDE BABEL」も評判になっていた。出口を出てしまってから、「あれ、どこにあったののだろう?」と慌てたが、企画展入口隣りのホワイエに展示されていた。撮影フリーのようだったのでカメラにおさめたが、ガラスに反射してうっすらと自分の姿が映り込んでしまった。

 ブリューゲル「バベルの塔」展  東京都美術館 ~7/2
 


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by yassall | 2017-05-31 17:03 | 日誌 | Comments(2)

ミュシャ展  普遍的なものと「ナショナルなもの」と

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 ミュシャ(ムハ)の「スラヴ叙事詩」を見た。ミュシャがその後半生を捧げながら、歴史の激動の中で一度は埋もれてしまいそうになったこの絵を、日本にいながらにして見られるというのは本当にすごいことだ。
 連作「スラヴ叙事詩」は1918年のチェコスロバキアの独立以前からプラハで描き始められている。だが、ハプスブルグによるハンガリー・オーストリア帝国の衰退の中で、チェコの独立運動の高まりがなければこの絵は生まれなかっただろう。
 絵の前に立ちながら、私はずっと「ナショナルなもの」について考えていた。というより、「ナショナルなもの」を考えようとして絵を見に行った、といってよい。
 ナショナリズムについては、柄谷行人の「ネーションとは失われた共同体の想像的回復である」(『世界共和国へ』)を唯一の拠り所にしてよいと今のところ考えている。実際、人種・言語・文化・宗教といった標識では民族としての統一性あるいは個別性を証明することは出来ない。現在、フランス語、日本語と呼ばれているものは国民国家の形成の過程で作られた(せいぜい統合された)しろものなのである。
 もし民族としての一体性の拠り所となるものが存在するとすれば、それは物語に他ならないだろう。物語の共有は歴史の共有であり、運命を同じくする、永続性の証明である。ミュシャが「スラヴ叙事詩」の制作を自らの使命としたことは当然の帰結だった。民族としての一体性や尊厳の表象としようとしたのである。
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 意識してクラッシックを聴いていた時期があった。マーラーなんかは名前から入った方で、「4番」と「大地の歌」あたりは何とかついて行けるが、他は難解すぎて理解できたとはいえない。モーツアルトよりはベートーベンの方だから、純粋に音楽にひかれるというより、どこか文学を求めていたのかも知れない。
 あれこれ聴いているうちに、いわゆる国民楽派と呼ばれる人々の音楽に強くひかれていることに気がついた。ロシアのムソルグスキーやリムスキー・コルサコフ、フィンランドのシベリウス、そしてチェコのスメタナ、ドボルザークといった人々の音楽である。
 音楽に詳しい人と話をすると、これらの人々の音楽は西洋音楽の正統からすると外れているところがあるのだそうだ。展開上、次にはこの音が出てくるはずだ、というところで違っているのだそうである。
 図式的になってしまうが、ヘレニズムとヘブライズムを二本の柱とする西洋文明は、合理・均整・秩序を重んじ、明晰であること、完成されていることを求め、普遍に向かおうとする。だが、私たちが知る一般論としての狭義の西洋文明に対して、広くヨーロッパを見渡したとき、それとは全く異なる一面を見るときがある。
 ゴシックは北ヨーロッパの教会建築からはじまったという。その後、ヨーロッパ中に広まったから、私たちは西洋建築の一典型としてみる。しかし、最初は「ゴート人の」という侮蔑的な言い方であったという通り、ローマ様式からみると際立って異質なのだという。装飾が過剰で、必ずしも左右対称でなく、歪であって平然としているというのである。
 音楽の話にもどると、国民楽派はロマン主義の影響からはじまる。ロマン主義は普遍よりは個性を重んじる。個性は個人から民族へと展開する。個人に個性を付与するもの、根拠となるもの(identity)がなければならないからだ。乱暴に言ってしまえば、ナショナリズムの根源にはロマン主義があり、もともと熱狂、混沌、昇華、蕩尽といった性格を帯びるのだ。
 国民楽派はロマン主義と土着が結びついたところから起こった。スメタナは「我が祖国」を遺し、ドボルザークは「スラヴ舞曲」が認められたことから作曲家として世に出た。

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 ヤン・フスは宗教改革の先駆者とされる。昔、学校の世界史で習った宗教改革はルターにはじまるとされたが、中東欧ではフスの方がはるかに重要な人物である。西洋史のおさらいをしなければならないときにしばしば登場する。フスはチェコ語で説教を行った。フスが異端と宣告され火刑に処せられたことから、20年にわたるフス戦争が始まった。フスの再評価は19世紀の民族復興運動の大きな原動力となった。「ベツレヘム礼拝堂で説教するヤン・フス師」でミュシャは自らモデルをつとめたという。写真は「イヴァンチッツェでの兄弟団学校」の右側画面。小屋の中では初めてチェコ語に飜訳された聖書が印刷されている。

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 連作をみていて気がつくのは前景に必ず名もなき民衆の姿が描かれていることだ。何点かの重要な戦いを描いた絵でも、戦闘場面は避けられ、戦争が終結した後の情景が多い。したがって、戦う勇士たちという姿はなく、将軍や指導者たちは中景もしくは遠景に小さく描かれ、むしろ犠牲者や難民となった民衆たちがていねいに描き込まれている。

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 写真は「スラヴの菩提樹の下でおこなわれる「オムラディナ」の誓い」の左前景に描かれた少女である。ミュシャの娘がモデルだという。
 アール・デコはアール・ヌーヴォーの過剰な装飾性に対する反動から起こったという。アール・ヌーヴォーの旗手であったパリ時代と「スラブ叙事詩」との断絶がいわれるが、その間をつなぐものがあったことを思わせる。植物文様による装飾は共通していると思われる。ただ、人物の表情はまったく異なる。パリ時代の洗練、気取り、甘美さといったものは影をひそめ、代わって、その眼は鋭いばかりに生命的な力を宿している。

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 「ロシアの農奴制廃止」の前景に描かれた母子。連作に描かれているのは必ずしもチェコとは限らず、ポーランドやハンガリーを舞台にした作品もある。汎スラヴ主義ということなのかも知れないが、ミュシャの場合、たとえば汎ゲルマン主義との対抗といった軸で民族的な一体性を確保しようというのとは違うようだ。
   ※
 「ナショナルなもの」は確かに自分の中にも存在する。一方でボヘミアン的な無国籍性や放縦なまでの自由にも憧れがある。私の場合、それくらいいいかげんなものだが、、たとえばパリに渡った藤田嗣治は帰日した太平洋戦争の最中には盛んに戦争画を描いた。柄谷行人はネーションは人々を「永遠」なるものに導くという。民族が永遠であるためには個人の命までも差しだそうという狂信がナショナリズムには潜んでいる。
 だが、自由や平等といった人類にとっての普遍的価値といったものも、私は捨てがたく思うのである。今日であれば平和、公開、参加、共存、自然保護といった価値も人類的に共有されなければならないと思う。
 国際連合の英語表記はUnited Nationsであり、第二次世界大戦中の連合軍も同じUnited Nationsである。ここからも国連の元になったのは連合軍であることは明らかで、国連は戦勝国による新たな世界秩序の維持を目的としているに過ぎないのだ、という見方をする人々もいる。「東京裁判」批判といったものもそこから出ているのだろう。
 しかしながら、各国を連合軍に結集させる元となった「英米共同宣言」(大西洋憲章)は、①領土不拡大、②民族自決、③政府形態の選択のための人民の権利、④恐怖と欠乏からの自由の必要性などを謳い、ヴェルサイユ平和条約を引き継ぐ内容だった。このような戦後構想を示すことによって国際世論を統合し、連合軍は結成された。戦争終結後に国連が創設されたのはその連続として当然だったのである。
 普遍的な価値としての人類的なものとナショナルなものとは、ついに相対立するしかないのだろうか? あるいは、あたかもジギルとハイドのように、人類はその歴史の中でその二つを交互に出現させるように定められているのであろうか?
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 「スラヴ叙事詩」の最終章は「スラヴ讃歌」である。画面中央右に描かれている国旗は第一次世界大戦の戦勝国の旗だという。民族の独立は戦争を避けては得られなかった。だが、ミュシャは戦争を描いても英雄たちの物語としては描かなかった。流された血を讃えるという描き方はしなかった。
 「スラヴ讃歌」においても、人々は解放の喜びを全身で表現していると同時に、長い戦乱の末の和解を讃えているように見える。少なくとも自民族さえ幸福であればそれでよい、という排外思想とは無縁であるように思われる。先の問いに対する答がここにあると思った。
(1993年のチェコ共和国とスロバキア共和国の分離はビロード離婚と呼ばれ平和的に成立した。民族の自立と共存・共栄の両立への模索があったのではないだろうか。)


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by yassall | 2017-05-04 18:37 | 日誌 | Comments(1)

草間彌生展

 27日、国立新美術館へ行って来た。火曜日は国立西洋美術館でシャセリオーをみた。実はその日も国立新美術館へ向かっていたのだが、火曜休館であることが分かり、行き先を変えたのだった(以前にも一度、乃木坂駅まで着いて休館との掲示を発見し、がっかりしたことがあった)。
 目当てはミュシャの「スラブ叙事詩」の方だったのだが、せっかく同時開催中であったし、当日券を同時に買うと割引になるので草間彌生展もみることにした。 
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 乃木坂駅の美術館口から入るとさっそくテラスに巨大なカボチャのオブジェが鎮座している。天気のよい日だったから陽光に映えて美しい。
 「ふむ。カボチャと水玉か。」実は草間彌生については世評の方が先行していて、実際はそれほどでもないのではないか、と高をくくっていた。いざ、展覧会場にはいってみて認識が一変した。恐れ入りました、というのが本音である。
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 草間彌生は日本画からはじまった画家、とどこかでインプットされていた。日本画の革新をめざし前衛的な画風を確立した画家たちがいることを知っていたから。たとえば「風雲児」とよばれた中村正義もアクリル絵具をもちいて日本画の枠を超えようとした画家であったと思う。だが、どこかで「日本画の革新」という意識からは離れていなかったように思われる。
 そこのところを草間彌生は軽々と超えてしまった、あるいは最初からその枠に収まるものではなかった、まったく独自の美的世界を構築していったのだ、と思ったのだ。
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 レイアウト的にも展覧会として成功していていたのではないだろうか? アプローチを入ると大きくスペースをとった第1室に近作である「わが永遠の魂」の連作が並べられ、ここだけは携帯電話での撮影が許可されている。
 その第1室をめぐる回廊のようにして草間彌生の画業がたどれるという趣向になっていて、その最初のコーナーでは戦前すでに滝口修造らから高い評価を受けていた、というようなことが紹介されている。1957年の渡米後の活動と評価(そう、戦後世界では新しい芸術はNYからはじまるのである)、彫刻・インスタレーション・映画さらには文筆にまで創作分野を広げ、やがて帰国後に活動拠点を東京に移すまで、あたかも回顧展のような構成になっている。
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 回廊をめぐると再び第1室にもどってくる。ここまででも、その多様で旺盛な創作活動に圧倒されるのだが、何といっても圧巻はこの「わが永遠の魂」の連作だろう。約2m四方の大作が2009年以降だけで500枚に及ぶという。そのうちの132枚が広大なスペースの壁一面にところ狭しと展示されているのだ。
 過去の誰とも似ていないことと並んで、その創作のエネルギーがこんこんと湧きだして尽きないことが天才の条件だというが、これら連作は過去の自分の画風からすら一変し、しかも猛スピードで描かれ続けているのだ。
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 会場の中央にはこのようなオブジェも陳列されていた。若き日、草間彌生は己の幻覚に悩まされたとあった。草間の作品は自分の外部に対象があるのではなく、すべて内なる心象風景を表現しようとして止むことがなかったのだ、というのが私の勝手な感想である。
   ※
 最初に書いたように、この日のそもそもの目的はミュシャだった。もちろん、その期待は裏切られることはなかったし、実にさまざまなことを感じたり、考えたりした。こちらの方は感想をまとめるのに少し時間がかかりそうである。


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by yassall | 2017-04-28 20:44 | 日誌 | Comments(1)

シャセリオー展とスケーエン展

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 25日、歯科通いのついでに上野に回り、シャセリオー展とスケーエン・デンマークの芸術家村展を見てきた。
 シャセリオー(1819-1856)は「早熟の天才」というふれこみだったが、37歳で早世してしまったこと、壁画家として名をなしたがその多くが戦災等で失われてしまったことなどから、作品数は多くは残されていないようだった。総数約110点とはあるものの、素描や版画、あるいは書簡等の資料を含んでのことであり、見ごたえという点ではもの足りなさがあった。
 11歳でアングルに入門を許されたが、古典主義からロマン主義に移行していく中で師と決別したこと、アルジェリア旅行を機にエキゾチシズムにも目覚めていくなど、その変遷は興味深く、長命にめぐまれればどのような展開をとげたかと想像するとその死が惜しまれる。時代の転換期にあったといっていいのか、モローやルドンにも多大の影響を与えたというのも理解できるものであった。「気絶したマゼッパを見つけるコサックの娘」、「コンスタンティーヌのユダヤの娘」がよいと思った。
 スケーエンはデンマークの最北端に位置し、19世紀までは自国の中でも異郷というべき寒村であったという。だが、19世紀末から20世紀初めにかけて、その自然にひかれた画家や詩人たちが集まるようになり、北欧の芸術家村として知られるようになったということだ。
 以前にオランダ・ハーグ展を観た。芸術とは本来孤独な営みであると思うのだが、刺激を求めてか、切磋琢磨につとめるためか、芸術家たちがある種の共同体を求めようとするかのように結集することがあるのは面白い。モンマルトルに若き芸術家たちが集ったのは、パリの中では物価が安かったからだというような理由もあるらしいが。
 ミカエル・アンカーの「海辺の散歩」「ボードを漕ぎ出す漁師たち」、ベーター・セヴェリン・クロヤーの「マリー・クロヤーの肖像」がいいと思った。
 いずれも村の人々や家族がモデルである。シャセリオーの肖像画に描かれたのが社交界の人々であったのに対し、いかにも素朴なたたずまいである。だが、冬の荒海、あるいは春先の明るい陽光の中の人物たちは生き生きと描かれていると思った。

 シャセリオー展 2/28~5/28 国立西洋美術館
 スケーエン展 2/10~5/28 同常設展会場

 実はここ2週間ほど風邪を引きこんで家に籠もっていた。最初、喉の痛みと咳が3日ほど続いた。喉にくると長くなるので覚悟していたのだが、比較的早く収まった後、鼻水が出て止まらなかった。不思議なことに熱はまったく出ない。昨年も同じような症状だった。医者に相談すると、アレルギー性が疑われるということだった。いまさら花粉症とは思いたくないが、処方してもらった薬を飲むと確かに楽になったのである。桜の撮り歩きももっとしたかったのに、せっかくの季節を棒に振った。少しでも取り戻そうと、先週末ころから活動を再開した。


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by yassall | 2017-04-26 20:55 | 日誌 | Comments(1)