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生活に書を!作品展in川越

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 横山延子さんは志木高時代の同僚で書道の先生である。昨年4月、同じく志木高校で美術を担当していた木藤恭子さんから「それぞれの紙Ⅱ」展の案内をいただいた。会場の小江戸蔵里ギャラリーに横山さんもいらしていて、2年ほど早く退職し、請われて書道教室を開いていたり、個展を開いたりしているとの近況をうかがった。ずっと年賀状のやりとりはしていたのだが、そのときの縁で作品展の通知をいただいたのだ。
 学生時代、中学校の国語の免許を取るために書道演習に出たくらいで、滅多に筆など手にしたこともない。元来、左利きであるので書道とは縁遠い人生を送って来たのである。ただそれだけに、多少のたしなみがあれば少しは文人らしい雰囲気を醸しだせたのではないか、という憧れのようなものはあったし、墨の匂いとは心地よいものだなあと感じ入ることもあったのである。
 展覧会は30人ほどのお弟子さんたちによるもので、今回で4回目となるのだそうである。昔、書道をやったことがあるのでもう一度始めてみたい、定年を迎えたらぜひ挑戦してみたいと思い続けてきた、など動機はそれぞれらしい。臨書あり、創作あり、書体もさまざまで、たぶん横山さんのポリシーもあるのだろうが、まずは書道を楽しんでいる様子が展覧会全体にうかがえたし、墨痕淋漓というのか、私のようなものにも日ごろの鍛錬や生来の才がそれと知れるような力作も多かった。
 さて、写真はピンク色の掛け軸から左にみて額装された3点が横山さんの賛助出品。筆が生きていて流石としかいいようもないが、さらにその左のねずみ色の軸と額装の2点は志木高で数学の非常勤講師をなさっていたEさんの作品である。書道歴は長いらしく、こちらも気品ただようというのか、それでいて勢いというのか、力強さにあふれた御作だった。
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 会場となった川越市西文化会館は私の川工時代に竣工した。さっそく亀井文夫の映画会を開催したりなど、けっこう活用させてもらったはずなのだが、当時は車でしか行ったことがなかった。霞ヶ関駅から歩いたのも初めてだったし、20数年の間に周囲の道路の整備なども進んだらしく、記憶とぴたりと合致したという感覚を得られなかった。ホールでは川越市民文化祭青少年演劇祭が催されている様子だった。少々交通の便は悪いが市民に使い勝手よく利用されているなら何よりである。このあと、川越駅にもどり、夜からは川工時代の同僚たちと年一度の集まりである。今年は16人が集まった。


by yassall | 2019-02-25 01:44 | 日誌 | Trackback | Comments(0)

藤子不二雄A展・カタストロフ美術のちから展

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 20日は車の定期点検。ディーラーは三田線の蓮根にある。待ち時間の間を利用してどこかへ出かけようと考えていた。この時期になってしまうと紅葉はどこも終わりだから美術館めぐりが適当なところである。かといってフェルメールもムンクも見たいと思わない。そこで藤子不二雄Aとなってしまうのが不思議なところだが、なぜかこの方が今の私のどこかを活性化させてくれるような気がしたのだ。
 三田線だと六本木へは日比谷で乗り換えなくてはならない。座席に座れたので本を読んでいたらうっかり乗り過ごしてしまい、また引き返してくるなどというヘマをしながら出かけていった。
 懐かしい、というようなことでもない。『少年サンデー』を読んでいたのは小学生のころだからせいぜい「オバQ」までだろう。今回初めて知ったのだが、本名我孫子素雄と藤本弘が藤子不二雄として合作していたのはその「オバQ]までで、藤本弘が子ども向け漫画に純化していったのに対し、我孫子素雄の方はブラックユーモアを始め、さまざまなジャンルを開拓していった。コンビを解散したのが1987年。藤本弘が亡くなったのが1996年。我孫子素雄はトキワ荘世代の生き残りとして、今も現役の漫画家として描き続けている。その創作力の秘密に触れられたかどうかは別として、会場に入るや喪黒福造の人形がスツールに腰掛ける「BAR鷹の巣」のセットが設えてあったりしてけっこう楽しめた。
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 さて、「藤子不二雄A展」は52階展望台の壁面を利用しての展覧会であったが、53階の森美術館では15周年記念展として「カタストロフと美術のちから展」が開催されていた。共通券でもあったのでこちらも回ってみた。これがなかなかの見っけものであった。
 リーフレットには「東日本大震災などの自然災害、戦争やテロ、難民問題や個人的な悲劇まで、絶えず私たちを襲うカタストロフ(大惨事)。その時、美術はどのようにこれらと対峙し、どのような役割を果たすことができるのしょうか」と趣旨のことばが述べられており、会場に入ると若き日に出会ったJ.P.サルトルの「飢えた子どもたちの前で文学は有効か」ということばが引用されたあいさつ文が掲示されている。まず、その企画力でもって森美術館を見直す思いがした。
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 多くは若い現代作家によるもので、実験的な作品が多数を占めていた。平川恒太(1987年生)「ブラックタイマー」は108個の電波時計に黒の顔料で福島第一原発の作業員の顔を描き込んだ作品である。(福島には東日本エリアをカバーする標準電波の送信局があるのである。)
 最初は壁一面に真っ黒な円盤が並べられているようにしか見えないのだが、近づくとコチコトと時を刻む音が聞こえ、黒い顔料の中に透かし彫りのように作業服姿の顔が浮かび上がってくる。
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 アイ・ウエイウエイ(1957年北京生ベルリン在住)「オデッセイ」は難民問題をテーマにした作品。古代ギリシャの陶器の絵付けを思わせる精緻な描写でボートに乗りこんだ難民やこれを追う兵士たちが描かれている。
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 オノ・ヨーコ「色を加えるペインティング《難民船》」。参加型インスタレーションという説明があり、来場者によって色やメッセージが書き加えられていく。係の人が小部屋の前に控えていて、靴カバーとクレヨンを渡してくれた。



by yassall | 2018-12-27 02:35 | 散歩 | Trackback | Comments(0)

寺山修司展

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 15日、神奈川近代文学館で開催中の寺山修司展へ出かけてきた。そろそろ開催期日も迫っているのは知っていた。天気の良い日があったら少し遠出をしたいと思っていたので、候補地としてマークしておいたのだ。
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 元町・中華街駅のひとつ前の日本大通り駅で降りたのも目的の大きな部分を散歩が占めているからだ。写真も街角スナップ程度のつもりでいたから機材はTX1一台である。
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 山下公園から港の見える丘公園までが本日のコースであるから赤レンガパーク方向は遠望するにとどめる。
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 インド水塔の天井のタイル模様。1939年、在日インド人協会から寄贈された塔というには小ぶりのこの建造物は、関東大震災で命を落とした同胞らを慰霊するものでもあるという。
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 横浜マリンタワー。
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 氷川丸も健在である。いつだったか、戦時中は海軍に徴用され病院船として使用、戦後は帰国者の引き上げ任務に従事したという歴史を紹介したテレビ番組があった。戦中・戦後史の証人として残っていって欲しい。
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 花壇の花々もよく手入れされていた。観光客も多かった。
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 花壇がああるのが中央付近、南端の階段は滝の落ちる意匠が凝らされていて、なかなか造形的である。人通りはあまりない。
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 階段を上って右折すると歩道橋が港の見える丘公園まで続いている。
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 港の見える丘公園に到着する。フランス山に登る正面の階段はせいぜい100段というところなのだが、けっこう息が切れて難渋した。以前に来たのは12、3年前だっただろうか、F5とA200の2台態勢で何でもなかったと記憶しているのだが。
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 神奈川近代文学館は霧笛橋を渡った公園の一番奥まったところに位置している。大佛太郎記念館は入口の猫の彫刻を写真に撮ったのを覚えている。近代文学館はさらにその裏手になる。
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 寺山修司についてまた新たなことを知れる、というようなことは期待していなかったが、展示はなかなかセンスがよいと思った。撮影フリーのコーナーがあって、この一枚は一度写真(たぶん自画像)を破り、後に糸で縫い合わせるというコラージュ。寺山が高校時代に創刊したという俳句誌『牧羊神』や劇団「天井桟敷」時代のポスターの実物が見られたのはよかった。
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 近代文学館の建物およびその周辺も寺山修司展モードに装われていた。
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  最後に今回気が付いたことをもう一つ。特に「天井桟敷」時代の展示を見ていて、寺山修司の周りには実に多彩な才能が集結していたのだな、と思った。その幅の広さたるや、横尾忠則から辻村ジュサブロー、コシノジュンコまでをカバーしてしまう。寺山に人を引きつけて止まない吸引力もあったのだろうし、寺山もそうした多くの才能と創作をともにすることを好んだのではないだろうか?



by yassall | 2018-11-16 19:39 | 散歩 | Trackback | Comments(0)

「縄文 一万年の美の鼓動」展

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 21日は縄文展を見に上野の国立博物館まで出かけてきた。戻り梅雨ならぬ戻り猛暑の中、自宅で甲子園野球の決勝戦を観戦するという手もあったのだが、うかうかしていると9月2日までの開催期間が終わってしまうと炎天下の街へ出た。
 国宝6点が一挙に公開されたことで評判となった。平日であったからか、入場制限がされるほどではなかったが、たいへんな人出だった。ただ、国宝として指定された6点については、その6点だけで1フロアーを割り当てるという、かなり余裕のあるレイアウトになっていたため、ストレスなく鑑賞することが出来た。
 縄文1万年は前期・中期・後期によって作風が変化していく。いわゆる火焔型土器あるいは王冠型土器は中期になって作られるようになったらしい。確かに独創的な造形である。ただ、縄文土器の命名の由来となった縄目文様は使われなくなっている。年代を追って出土品を鑑賞していくと、前期の縄目文様の素朴な味わいも美しいと思った。
 国宝6点の中では「縄文の女神」の抽象的ともいえそうなデザイン性、「縄文のビーナス」の髪型なのか冠り物なのか、個性的な頭部から下半身にかけてのボリューム感に独創性を感じた。歴史の蓄積の中で、あるとき、ある場所で、突出した才能が出現したことを思わせた。国宝の指定はないが、遮光器土偶でも何点かすぐれたものが展示されていて、この目で見られたことに感謝した。
 日本の古代史についての研究はすすんでいて、各集落・各地域はけっして孤立していたのではなく、交流ときには交易がなされていたということだ。ある地域でしか産出しない黒曜石が各地で出土するといったことから分かるらしい。今回の展覧会では、国宝とされた土器が長野、山形、青森、北海道といった東日本に集中していること(発掘の機会がどこでどの程度あったかによるから一概に東西を比較できないが)、ある地域で生まれた様式が他の地域に影響を与え、伝播していく痕跡がみられることなどが興味深かった。
   ※
 帰宅すると、奇しくも『東京新聞』夕刊のエッセイ「大波小波」で同展がとりあげられていた。「ビーナス」という命名の背景に西洋中心主義があるという批判は(もっともではあるが)それほど過敏になることもないのでは、と思う(現在の考古学会では批判的だそうだ)。だが、確か「美の競演」というタイトルがつけられたコーナーだったと思うが、縄文土器を中央に配置し、同時代の中国・インダス・エジプトの土器を壁沿いに並べた展示について述べている部分については、私も同じような感想を持った。
 装飾的な火焔型土器に比較して、展示された世界各地域の土器は形状に飾り気はなく、彩色が施されていたとしてもすでに色あせてしまっているのか、華やかさはない。しかし、「大波小波」子はこれをもって「日本は先史時代から『クール・ジャパン』であったといいたい」のだとしたら、それは「国家が出自の純粋さと優越性を誇示」しようとする意図とつながるという点で危ういというのである。
 火焔型土器については実用目的だったのか、あるいは何らかの宗教的な用途があったのかにつていは諸説があるという。神器とまではいわないとしても、現代においてもまったくの日用品である場合と、冠婚葬祭などの儀礼用に作られる食器には区別がある。このようなコーナーを作る場合には、何と何を比較しようとしているのか、その基準を明確にしなければならない。また、メソポタミアの出土品の解説にあったのだが、すでにロクロの使用が認められるのだという。ロクロを用いることで均質で大量の焼き物の製作が可能となったことだろう。そして、その多くは実用品であっただろう。文明的にどちらが優れているかなどという比較は成り立たない。また、世界各地域では日本より早くから金属器の製作も始まっている。装身具などの製作は土器から離れ、金属器に移っていったということも考えられる。
 だからといって、私は縄文土器あるいは縄文文化が価値的に低かったなどということを言おうとしているのではない。むしろ、1万年の長きにわたって外圧から守られ、豊かな自然にも恵まれつつ、営々と独自の文化を育んできた先人たちに思いをはせるとき、人間の営みの理想を見たくもあるのだ。
 

by yassall | 2018-08-22 16:26 | 日誌 | Trackback | Comments(2)

池田龍雄展

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 5月4日、「戦後美術の現在形 池田龍雄展 楕円幻想」が開かれているというので練馬区立美術館へ出かけてきた。これまでも中村正義や牧野邦夫など、独特の鑑識眼による企画展が開催されて来たが、今回も思いがけない拾いものをしたというのが率直な感想である。
 というような感想を持ったというのは私の不明によるものであって、戦後アバンギャルドの画家として池田龍雄は確固とした地位を占めており、ここ練馬区立美術館では20年前にも「池田龍雄・中村宏展」を開催しているそうだ。
 池田龍雄は1928年、佐賀県生まれ。1943年に「忠君愛国の至誠に燃え」て15歳で海軍航空隊に入隊し、1945年には特攻隊員として霞ヶ浦航空隊に配属され、敗戦の報を聞いた。除隊後、佐賀にもどり佐賀師範学校に編入されたが「終戦時に陸海軍の現役下士官以上だった者の教職就業の禁止」というGHQの通達のため、一年で退学となった。教師への道も閉ざされた池田は幼い頃から絵が得意であったことから画家をこころざし、1948年に多摩造形芸術専門学校(多摩美大)に入学、同年秋には岡本太郎や花田清輝らの「アヴァンギャルド芸術研究会」に参加し、前衛芸術家の道を歩にはじめた。
 展覧会の第0章は「終わらない戦後」である。このような経歴の持ち主であることから初期の作品には戦争体験の影が色濃い。最初期の「無風地帯 壊された風景」(1951)あたりにこそピカソの影響が明かだが、次第にオリジナリティを獲得していく様子が見て取れる。
 鋭く硬質な線の多用によるペン画は当時刊行されていた『現代詩』や『人民文学』等の表紙や挿絵に採用されていたらしい。その線描は棘のようで痛い。だが、風刺的でシニカルであると同時に、そこはかとないユーモア精神も感じられる。ここで、『列島』の関根宏や木島始と交流があったことも知り、頭の中でさまざまなピースが繋がっていく。一昨年、府中市立美術館で新海覚雄展を見たことがある。その新海と同じく、池田もルポルタージュ運動にたずさわっていた時代があるとのことだった。総評系に近かった新海が社会主義リアリズム的な傾向を持ち、共産党に近かった池田がアバンギャルドの技法によっていたというのは面白いと思った。ルポルタージュ運動には安部公房も参加していたから、1950年代はさまざまな志向を持った運動が渾然としていたのだろう。
 展覧会第1章のネーミングは「芸術と政治の狭間で」、第2章は「挫折のあとさき」である。ここでいう「挫折」とは具体的には1960年安保闘争とその挫折(条約改定を阻止し得なかったこと)であり、池田はのちに「わたしのなかの芸術と政治の間の距離を決定的に広げてしまった」と語ったという。絵画の上でも《禽獣記》《百仮面》シリーズをへながら変容していく。それは「人間の存在や、自らの内面」への視線の深まりともいえる。私の感想からいえば「線」から「球体」への変化である。
 それは池田の芸術活動の衰退を意味するのではなく、第3章「越境、交流、応答、そして行為の彼方へ」ではさまざまなジャンルとの横断的な交流(たとえば寺山修司のと共同作業)によってその範囲を広げ、第4章「楕円と梵」では宇宙論的とも存在論的ともいえる境地を開いていく。色彩も実に神秘的で美しい。
 池田龍雄がすごいところは90歳になる現在もその芸術活動がとどまらないことだ。第5章「池田龍雄の現在形」では《箱の中へ…》シリーズに象徴されるような即物的ともいえるオブジェや立体の造形に新境地を開いている。そのありようは、「宇宙空間を漂い続けた池田の思考は、やがて引力に引き戻されるように地上に降りてきた」とも評されているようだ。
 また、60年代に「芸術と政治の距離」を実感したとのことだが、2007年には「青空の下を再び焦土にするな」、2010年には「散りそこねた桜の碑」を描くなど、決して「外側の世界」に対する視点を失ってはいないことも見誤ってはならない。さらには、これは指摘を受けて気が付いたことだが、池田はまだ画家としては自立出来なかったころ、木島始を通して絵本を手がけていた時代があり、中でも浜田廣介・文『ないたあかおに』(1965)は今もなお出版され続けている代表作となった。原画が陳列ケースの中に展示されていた。やさしい絵だと思った。
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 1階展示室前のロビーには撮影フリーで「漂着」(2001)が展示されていた。瀧口修造の「夢の漂流物」に触発されて制作されたという。日本のシュルレアリスト瀧口修造は池袋モンパルナスとのかかわりでも名前が出てくる。また一つピースとピースが繋がった。左下の床には「楕円空間」(1963-4)を図案化したものが描かれている。二つの中心点を持ち、運動体である楕円の発見にも心ひかれるものがある。






by yassall | 2018-05-05 16:53 | 散歩 | Trackback | Comments(0)

根津神社からプラド美術館展へ

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 日本でベラスケスが見られるという。こんな機会を逃す手はないのだが、どうしたわけかなかなか足が向かなかった。10日も最初は西洋美術館が頭にあったのに、結局弥生美術館に行ってしまった。26日になってようやく腰を上げたのも、実は根津神社行きが先で、その後に上野に回れるとの算段からだった。
 とはいえ展覧会として充実していることに異議はまったくない。これまで図版でしか見たことがなかった「狩猟服姿のフェリペ4世」「バリェーカスの少年」などを間近に見られるなどということはもうないだろうし、こうした企画展にありがちなベラスケス以外は凡庸な作品を並べ立ててお茶を濁すなどということはなく、さすがにプラド美術館の所蔵作品だと感心させられる。ときとしてベラスケスが他の作品に埋もれてしまうほどだった。
 それは、たとえば「狩猟服姿のフェリペ4世」には明らかに描き直しの跡があり、まだ筆が定まっていないことが見て取れるといったこともある。しかし、それ以上に何か痛ましいものを感じ取ってしまうからかも知れない。
 『怖い絵』の著者中野京子によれば近親婚を繰り返した「高貴なる青い血」のスペイン・ハプスブルグ家の黄金期は2代目のフェリペ2世までで、4代目に当たるフェリペ4世は「無能王」とよばれ、その凋落のもととなった。戦争をすれば負け、領地を激減させた。ただ審美眼にはすぐれ、ベラスケスを宮廷画家として登用し、重用した。今日、フェリペ4世が歴史に名を残すのはベラスケスによってだというのは皮肉なことである。
 「王太子バルタサール・カルロス騎馬像」に描かれたバルタサールはフェリペ4世の最初の王妃であるエリザベートの間に生まれた王子である。しかし、悲運にもバルタサールは16歳で早逝してしまう。その後、フェリペ4世は姪のマリアナと再婚する。「ラス・メニーナス」に描かれた王女マルガリータはマリアナとの間の子である。同じくマリアナとの間に生まれたカルロス2世がスペイン・ハプスブルグ家の最後の王となる。親ゆずりの特徴的な面長の顔の肖像画が残されているが、相当の粉飾が施されているであろうにもかかわらず、明らかに病的なものが見て取れる。
 ベラスケスが優れているのは「神の手」ともいうべき超絶技法によるというより、一瞬でその人物の内面あるいはその後の運命までもとらえる人間観察力と、のちの印象派にもつながれるとされる技法の革新によるのだというのが、この日、理解したことである。
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 さて、冒頭に書いたとおり、この日まず最初に訪れたのは根津神社である。思い立った理由は、最近RX100をM3に買い換え、試し撮りをしてみたかったからである。
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 つつじ苑から楼門を望んだところ。宝永3年の建立。江戸の神社で楼門が残っているのはここだけだそうだ。
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 つつじ祭りは5月6日までだが、今年の天候から期待できないのは分かっていた。
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 まだ痛みのない花を探してみる。遅咲きのつつじもあるらしい。
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 乙女稲荷、駒込稲荷に続く千本鳥居を見下ろしてみる。
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 根津からどうやって上野に向かうか、いろいろ検討したあげく、徒歩で行くのが一番いいという結論に達した。約30分の道のりの途中に森鴎外居住之跡があった(現在は水月ホテル鴎外莊となっている)。ここに鴎外が住んでいたのは最初の妻である登志子との結婚時代のことだ。登志子とは1年半で離婚してしまったから、こちらにもどこか痛ましさが残る。
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 RX100を買ったのは5年前だった。その後、機材が増えるにつれ、宙に浮いていた。M3は24mm始まりになったのと、小さいながらEVFがついた。発売は2014年。RX100より50g重くなったが、RX100シリーズはM4、M5となるにしたがってさらに重量が増えている。TX1との重量差は20gしかないが一回りは小さい。小さいことが善である場面もあるだろうと買い換えを決めた。RX100が20900円と私が購入したときの半額弱で手放せたことも決め手のひとつである。相変わらずのカメラバカである。





 

by yassall | 2018-04-27 19:23 | 散歩 | Trackback | Comments(0)

セーラー服と女学生

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 4月10日、弥生美術館へ行ってきた。標題からして、趣味性あるいは人格を疑われてしまう虞れなきにしもあらずなので放っておいたのだが、いちおうアップしておく。まだ期間もあることだし。
 1階は高畠華宵、松本かづち、中原惇一といった、いわゆる抒情画が展示されていた。時代としては戦前である。明治期から始まった女子教育において制服の洋装化は何度か試みられたがなかなか成功しなかった、大正になってセーラー服が採用されると一躍全国に広まった、セーラー服はイギリス海軍の制服であり、もともと制服とするのに適していたという側面はあるが、それは採用の直接的な理由ではない、セーラー服は子供服や女性のファッションとして流行し、日本の女子教育で最初に制服として採用されたのはミッション系の学校であった、というような歴史が紹介されていた。男子学生の詰め襟と同様、もとは軍服であるというのが起原であろうと思い込んでいたので、認識を新たにさせられた気持ちになった。
 2階では現代画家による作品が展示されていた。江津匡士によると日本でセーラー服が制服として普及していったのは、そのユニセックスなファッションが日本人の体型に合っていたからであるという。すると、現代ではセーラー服の採用が少数になったというのも、日本人の体型の変化が理由であるということになる。
 その江津匡士のどこかノスタルジックな作品もよかったが、私が今回の企画展の目玉だと思ったのはチラシにある作品の作者である中村佑介である。『角川新字源』の特装版を手がけるなど、最近作品を目にすることの多くなった画家であるが、名前は知らなかった。本人によると、自分は「竹久夢二や林静一の系譜」に連なっていきたいとのことだが、夢二や林静一のウェットさは少しも感じられず、セーラー服も何かの表象であることを止め、ドライで即物的な心地よさが感じられたのだった。こうした出会いがあると出かけていった甲斐もあるというものである。

 

by yassall | 2018-04-27 16:33 | 日誌 | Trackback | Comments(0)

それぞれの紙Ⅱ そして川越散歩

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 7日、「それぞれの紙Ⅱ」展の案内をいただいたので出かけてきた。会場は昨年に引き続いて小江戸蔵里ギャラリーである。1枚目の写真は木藤恭子さんの作品。右が西洋紙、左がタイの紙なのだそうだ。西洋紙の方が丈夫でかなり乱暴なことができる。タイ紙の方は裏から絵の具を染ませたりすることが出来るという。
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 いつもの木藤さんの画風とは少し変わっている。絵の具には土を使っているという説明だった。
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 打越氏は志木高の卒業生だそうである。水彩にこだわり続けているとのことだ。筆数をいかに少なくするか、というようなお話しがあった。
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 長谷川氏の作品の写真がないが、そのとなりに作風の違う絵があった。あとから気が付いたのだが、今年は三人展ではなく、木藤さんの夫君らしきもう一人の名前があった。鉛筆画とあるからこれらが御作なのかも知れない。すぐ気が付けば確かめられたのだが。写真では真っ黒にしか見えないが、なかなか味わいのある絵だった。
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 蔵里ギャラリーは元鏡山酒造の跡。志木高時代の同僚のYさんも来場していた。私とは同年代である。2年ほど早く退職し、現在は請われて書道教室を開いているという。お弟子さんも多く、ご活躍の様子だった。絵も描かれていたが、書道の方なのか、絵の方なのか、個展を開いたりもしているとのことだった。
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 フェイスブック小江戸川越会の投稿で佐久間旅館閉店とあった。川越散歩がてら、写真を撮っておこうと松江町まで歩いた。島崎藤村が原稿執筆のために泊まり込んだという創業130年余の老舗である。とはいいつつ、私も20年川越にいて、宴席に使われたのは一度しかない。
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 佐久間旅館前の川越キリスト教会は建物が新しくなったような気がするのだが気のせいだろうか?
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 川越八幡宮裏の骨董店はなくなってしまっていたが、その先の路地を入ったアビロードは健在のようだった。
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 こんな刻印は昔からあっただろうか?

by yassall | 2018-04-09 09:41 | 散歩 | Trackback | Comments(0)

ブリューゲル展

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 13日、ブリューゲル展を見に東京都美術館まで出かけてきた。ブリューゲルは日本に来るたびに見に行っているし、昨年の「バベルの塔」などはよくぞ日本で生きている間に見られたものだと感激もひとしおだった。今回の企画は「画家一族がやって来る」というキャッチコピーの通り、150年に及ぶというブリューゲル一族およびその工房の作品を集めたもので、ピーテル・ブリューゲル1世の作品は版画程度だった。それは予想通りだったのだが、しばらく美術館に足を運んでいないなあ、ということで出かけたのだった。
 1世の息子には兄のピーテル・ブリューゲル2世と弟のヤン・ブリューゲルⅠ世がいる。兄の方は父1世の複製を大量に制作し、ブリューゲルの名を広くヨーロッパに広めることになったという。複製といっても父1世が残した下絵にしたがって忠実に再現したものだ。会場には冬の風景である「鳥罠」が展示されていた。そうした先入観があるせいか、どこか力強さに足りないものがある気もしたが、絵画としては群を抜いているように思えた。絵の才能は弟の方がすぐれ、静物画という新しい境地を開いて「花のブリューゲル」と呼ばれたという。ひ孫たちには1世から「風景」や「城壁」をそれぞれ引き継いだと評される作品がある。それらと比較しても私は「鳥罠」の方に心をひかれた。 
 今年は一昨年のカラヴァッジョや昨年のクラーナハのような魅力的な展覧会情報がないなあ、と少々気落ちしていた。その気持ちが晴れたというほどの展覧会とはいかなかったが、いちおう記録としてアップしておく。


by yassall | 2018-03-15 16:36 | 日誌 | Trackback | Comments(0)

中村彝アトリエ記念館

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 20日、天気がよかったら久しぶりに外出しようと思っていた。目白に中村彝のアトリエが復元されているというので、以前から一度行ってみようと思っていた。目白にはそれ以外には何があるとも思いあたるところがなかったので、ずっと後回しになっていたのだ。半日程度の散歩にはちょうどよいだろうと出かけることにした。
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 詳しい地図が入手できなかったので、下落合3丁目という番地だけを頼りに歩き始めたのだが、目白通りを西へ進んでいくとほどなく案内表示を発見できた。これで迷いようもなさそうなのに、間近になってからあちこち彷徨き回っては訪ね歩くことになった。それも初めての土地では楽しみなのである(と強がりをいう)。
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 庭側から全景をながめる。復元といっても、中村彝の後の所有者である画家の鈴木誠によって増改築された部分を除いていったということで、当時の部材も数多く活かされているということだった。
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 庭の風景。今はすっかり住宅街になってしまっているが、当時はいかにも東京郊外といった風情で田園風景がひろがっていたそうだ。隣の池袋に住んでいたことのある父が犬を散歩に連れて行き、小川で身体を洗ってやったことがあるというようなことを昔話で聞いたことがある。中村彝が37歳で亡くなったのが大正13年、父が池袋に住んだのはそれから10年後くらいだから、何となく想像できる。
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 中村彝アトリエ記念館は新宿区立。入場は無料である。採光のために大きく開かれた窓はアトリエらしく北側に面している。
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 これも採光のために設けられた天窓。平屋作りなのに大きな三角屋根があるのはこのためらしい。
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 アトリエのすぐ隣の居室はビデオルームになっている。こちらは南側ということになり、庭が眺められるが扉などは痛みが激しい。中村彝については近代美術館所蔵の「エロシェンコ氏の像」の作者であること、新宿中村屋のサロンのメンバーであったこと位しか知らなかった。ビデオは15分ほどで、彝の生涯と作品の概要について知ることが出来る。早世してしまった画家らしく、「エロシェンコ氏の像」が傑作であることは疑いないとしても、他に残されている作品はルノアール、セザンヌ、ゴッホ、ドラクロアなど、様々な画家たちからの影響が顕著な習作といったレベルで、まだ独自の作風を確立するまでには至っていないように思えた。それでも代表作である「小女」などはルノアールにはないまなざしの強さが感じられた。
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 赤レンガ造りの門柱も当時の雰囲気を再現したものらしい。
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 私には今年初めての梅である。
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 目白駅はもしかすると学生時代に一度だけ参加した四大学祭で降車して以来かも知れない。もっとも、安倍晋三が成蹊大学、麻生太郎が学習院大学卒業と聞いては、もはや四大学を強調する気にはなれない(笑)。

 GM5+12-32mm

 この記事を書いていると金子兜太氏の訃報が流れてきた。ご冥福をお祈りしたい。「アベ政治を許さない」を揮毫なさった。

    梅咲いて庭中に青鮫が来ている  兜太


by yassall | 2018-02-21 19:23 | 散歩 | Trackback | Comments(0)