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マクベス

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 9月に昴の芝居を見に行ったとき、広瀬和の出演情報があった。今回も演出助手をつとめるとともに、いくつかの役で舞台に立つという。初日の21日、13:00の回に出かけて来た。
 ヴェルディはシェイクスピアの「マクベス」を4幕物のオペラとして仕立てた。初演は1847年である。その後、1865年にパリ版として大幅に改定された。ヴェルディの生前には必ずしも評価されず、「ヴェルディはシェイクスピアを理解していない」とするような評もあったそうだ。ヴェルディは激怒し、「シェイクスピアは私の最愛の劇作家の一人」と知人に書き送ったという。
 チラシに「演劇×オペラが満を持して挑む二つのマクベス」とあったが、基になっているのはヴェルディのオペラのようだ。魔女も3人ではなく9人登場し、合唱部分を担っている。客層もオペラファンが占めていて、一曲終わる毎に「ブラボー」という絶妙なかけ声がかかる。舞台の進行も一つの場面を演劇部門のキャストが上演して見せ、つづいてオペラ部門のキャストがオペラで演じてみせるといくような組み立てだった。ヴェルディだからイタリア語なのだと思うが、これなら字幕はいらないわけだ。若い演奏家のためのプロジェクト公演という企画名も紹介されており、何回か同様の公演が続いているらしい。
 というわけで広瀬和の応援で出かけた身としては少々物足りない思いをしたが、演劇としてつくりが粗略であったなどということはなかった。魔女9人の内、3人は演劇部門の俳優がつとめていた。オペラ歌手の声量というのはすごいものだなと感心させられたのは確かとして、演劇部門でもバンコーの亡霊におびえるマクベス、マクベスを鼓舞するレディ・マクベスともに俳優としての力が伝わって来た。
 「マクベス」についてはいつかしっかり学んでみたいと思っている。イギリス史の中でみていくと王位継承の正統性に関する争闘の歴史は根深いものがあったらしいし、イングランドとスコットランドの対立にも長い歴史がある。人間存在を掘り下げていけばいたるところにマクベス的なものは発見されるだろう。柄谷行人は自身が書いた「マクベス」論は連合赤軍事件論だったという。偽王というのがキーワードにあるが、読んでもさっぱり分からなかった。
 公演のことにもどれば企画の面白さも含めて十分楽しめた。広瀬は4月にも舞台があるらしい。良い役をつかんで、実力をいかんなく発揮して欲しい。自信をもって臨め、とメッセージを送りたい。
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 渋谷区文化総合センター。会場の伝承ホールは6Fにある。天気が良かったので帰りにはEM10Ⅱに12-40mmをつけて変わりゆく渋谷を撮ろうと思っていたがホールを出た頃は早くも日が陰って来てしまった。これは入場前に。
 


by yassall | 2019-11-22 18:27 | 日誌 | Trackback | Comments(0)

2019年埼玉県高校演劇中央発表会

 11月16、17日に開催された2019年埼玉県高校演劇中央発表会に行ってきた。出かける前に済ませておきたいことがあり、初日の1本目だけ失礼したが、1日目5本、2日目4本のお芝居を見せてもらった。せっかくなので表彰式も結果発表まで居させてもらい、講評も聞かせていただいた。

 最優秀賞 新座柳瀬高校 [hénri]! G.B.ショー・原作 稲葉智己・翻案
 優秀賞  川越高校「いてふノ精蟲」阿部哲也・作
 (上記2校が関東大会出場)
 優秀賞  秩父農工科学高校「群青フェイク」コイケユタカ・作

 創作脚本賞   「群青フェイク」コイケユタカ・作
 創作脚本奨励賞 「夢、酔ひ 華、香る」青木友菜・作

 審査経過報告によると優秀賞の候補には芸術綜合高校「さらば夏の思い出」も残っていたとのことだ。いずれも力作だったと思う。
 [hénri]!は地区発表会からだいぶ手を加えてきた。レッスン料の交渉の場面など惜しまれる箇所もあるにはあるのだが、遊びの部分をカットしたため、テンポはよくなっていた。反面、ミセス・ヒギンズに自分のところに通うように言われたその後はどうなったのだろう、というような箇所については新しい科白が追加され、きちんと回収されていた。それよりも何よりも、ラストシーンにヘンリーがイライザをエスコートして夜会に出かけるという新しい場面が付け加えられた。

 一緒に劇を見ていた人の意見では、先行きに様々な可能性を残しているという意味で、前回より今回のエンディングの方が優れているという。確かにイライザがヘンリーと抱擁し合うという前回のエンディングは、それが二人の恋愛の成就を意味しているとすれば唐突感は否めないし、芝居のラストシーンとしてももう一つ盛り上がりに欠けるような気がする。また、二人の住む世界の違いから考えれば、たとえ将来的にイライザとヘンリーが結ばれるとしても、まだまだ越えなければならない障壁があるはずである。そして、二人してその障壁に立ち向かおうという決意が生まれているか、と問えば、その障壁が意識されているとも、決意が固まっているとも現段階では言えないだろう。
 それでも前回のエンディングを「正しい選択なのではないだろうか」と書いた身からすると、今回は少々肩すかしを喰らったような気がするのも確かなのである。
 それというのも、9月頃の稲葉氏のFacebookにG.B.ショーは「『Pygmalion』でイライザとヒギンズが結ばれること」に反対していたが、「翻案していくと、どうしたってイライザ×ヒギンズだろうということになる」ので、「今回、何とかヒギンズとフレディーが対等に渡り合えるように書き始めてみた」が「ラストシーンの手前でギブアップ」、結論としてG.B.ショーに「弓を引」くことを決意したとあったからだ。
 それは初めて劇を見る人には知りえない話としても、もともと劇の組み立てとしてもそうなっていたのではないのか、ヘンリーがイライザのために買い求めてきたプレゼントを渡せずに苦悩している様子とか、自分の名前をファーストネームで呼べるようになって欲しいとか、ヘンリーとイライザが互いに心惹かれるようになるのでなければ、客は何を見せられてきたのだという話になる。
 二人が抱擁する場面は今回も残されている。「h」の発音を克服したイライザがヘンリーに抱き付いたのは、自分を見守り、支えてくれる存在として、ヘンリーに対する感謝と信頼がイライザに生まれたということで、この時点では十分だと思う。それに対してヘンリーの側も自分のレッスンの成功と、それに耐えたイライザのこころざしと努力に対する賞賛として、固い抱擁で答えるということがあっていいと思うのである。互いの心が通じ合った一瞬として。もちろん、ピカリングやピアスの目が間近にあるのだから、すぐに我に返るということでいいのだが。
 ところが今回のヘンリーの側の抱擁は曖昧で戸惑いが見えた。イライザにしっかりと答えられていないのは、自分の心の在処もつかみ損ねているように見えてしまったのである。私は地区発表会の審査員のヘンリー=コミュニケーション障害説はなかなか鋭いと考えており、イライザに惹かれていく過程はヘンリーが自らのコミ障を克服していく過程として描かれたらいいのにと思っているのである。
 とはいえ、ラストシーン自体は美しく仕上がっていたし、劇のしめくくりとしての水準を引き上げた。芝居としての完成度が何段階も高まったのは疑いようもない。ただパーティのためにドレスアップしてみせたというだけでなく、上流階級のドレス云々と持ち前の口調でケチをつけるところは、イライザがまだまだ恋愛には淡泊で真っ直ぐであり、そのことには好感を持てるし、そのイライザに腕をとらせるヘンリーにはイライザに対する理解と慈しみがみえてダンディだった。
  ※
 「いてふノ精蟲」は一回目(2014年)の上演で関東大会へ進出しておかしくなかった作品である。今回、リベンジを果たしたということになるのだろう。二度目の観劇となると、この役については配役はこちらの方がよかった、というようなことになりがちなのだろうが、新鮮味が失われることもなく、十分に観客を惹きつけたし、感動させた。
 衣装でいうとフロックコートを着たり、ステッキを持たせたりで時代を表現しやすい教授連と比較し、主人公の平瀬が学生が穿くようなグレーのズボンとワイシャツではなあ、と前回は感じたものだったが、きちんと背広を着こなし、ズボン吊りと蝶ネクタイを結んで登場させるなど、細かい改善がなされていた。審査員に言わせるとそれでも不十分だということだが。芝居という大きな嘘をつくためには小さな嘘をついてはいけないというが、プロの目は厳しいものだ。
  ※
 「群青フェイク」についても一言する。ここ三年くらいにコイケユタカさんが書いたものを私はけっこう買っている。妙な言い方になるが、以前は「劇的であるための劇づくり」という印象だったのだが、時代と正面から向き合ったり、現代高校生の苦悩に真摯に寄り添ったりという姿勢を感じ取った。
 三木清は『人生論ノート』の中で憎悪と怒りの違いについて述べている。今回の劇の前半でSNSによる陰口やら互いの暴露合戦を支配している感情は妬みの入り交じった憎悪であろう。それを生み出しているのは互いの距離感をつねに計らずにいられない生きづらさがあるかも知れない。その意味ではラスト間近になってのクラスメイトたちの和解も自分の本心を偽った「フェイク」の域を抜け出せないということであったのかも知れない。だが、最後の最後になってのアサヒの叫びは憎悪によるものではなく、怒りの発露であったと思ったのだ。そして、その怒りは変革のエネルギーに転化していく可能性を持つと考えたのだ。
 手元に来て急に「消える魔球」になる変化球ではなく、直球勝負に来ていると感じた。その直球をどう受け止めるか、審査員の間でも意見が分かれた模様である。私はたぶん工藤審査員の意見に近い。今求められているのは変化球ではなく、直球であると思う。コイケユタカさんは直球を投げてきたし、それが否定されてはならないと思うのだ。
 どうしても順位を付けなくてはならないのだろうし、次段階への進出の枠は限られている。しかし、もう一枠増やせるものならもっと多くの人に見てもらいたい劇だった。
  ※
 川越西高校「ゆーめいどりーむ」についても一言したい。成井さんはこういう劇も書くんだ、というのが率直な感想である。最初に放射能マークが映写され、最後に黒服ながら防護服を着用した人物が登場する。そうしてみると凄まじく散らかった室内も、片付けが嫌いなお嬢様のわがままが原因なのではなく、荷物の整理のいとまもなく避難を余儀なくされた原発被災地のありさまを表しているのだと理解できる。登場人物の二人は1年間800万円の契約で何ものかによってこの建物で暮らすことを強制されているらしい。ときおり遠くから聞こえる異音が不気味である。外部では何かが進行しているらしい。
 キャスト二人は熱演していたと思う。正直いうと、同じように強い口調で同じような会話が進行していくと、途中で疲れてしまって芝居が見えなくなるときがあった。したがって感想としては審査員とは反対になる。閉ざされた世界で虚と実が入り交じり、というより、虚が虚を生み出し、「もう一回最初からやろうか」という通り、おそらくは延々と同じことが繰り返されていくしかない出口のなさは戦慄すべきものだった。
 成井さんに言わせると、あんたが知らないだけで俺はいろんなものが書けるんだよ、というところかも知れないが、また多様な成井ワールドを見せてもらいたいものだと思った。
  ※
 皆さん、勝手なことばかり書いてごめんね。苦情、反論はどうぞコメントで…。


by yassall | 2019-11-20 16:06 | 高校演劇 | Trackback | Comments(4)

劇団昴公演『君恋し』〜ハナの咲かなかった男〜

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 劇団「昴」へ行ったキナコこと広瀬和のFacebookに公演の案内があった。広瀬は出演していないが、演出助手をつとめているという。以前、出演情報があったときは観劇におよばなかった。久しぶりに顔を見たいものだというのが半分、「昴」の芝居なら見てみたい、ましてや多少なりとも広瀬が芝居づくりに関わったというならというので出かける気になった。 会場も池袋と近いし。ネットで23日、14:00の回を予約した。ちょうど中日にあたる。
 演目は、
  『君恋し』〜ハナの咲かなかった男〜
   作=中島淳彦 
   演出=黒岩亮[劇団青年座]
 チラシによるあらすじは、
  戦争の記憶が巷に残る頃。舞台は千葉の場末の芝居小屋「白川座」。小屋主の白川伍市は金策に駆けずり回りながらも、いつか浅草に戻ることを夢見ている。その彼に声を掛けられやってきたのが、梅園香代子率いるレビュー一座。座長に惚れて教師を辞めた亭主兼マネージャー、警官を辞めて劇作家を決意する井上ひさしらしき男、浅草を夢見て芸人を目指そうとする渥美清らしき男。そんな一座の面々はゲストに迎えた一人の男を待っている。男の名は二村定一。かつて浅草でエノケンと二枚看板を張った名俳優。しかし現れた二村は酒で足元も覚束ない酔っ払い…。
   ※
 その白川座の楽屋兼控室らしき広間を舞台にした一幕物。かつて浅草で小屋をかまえていた白川伍一が元映画館を改装して芝居小屋を立ち上げた。極度に警官を嫌うのは戦時中にさんざん酷い目に遭わされたからだという。いつか浅草に戻ると意気込んでいるが酒と病気でかなり身体は蝕まれている様子である。梅園一座はその白川と古いなじみらしく、明日に初日を迎えるというレビューの稽古中である。どうもそれだけでは集客に不安があるというので伝手をたよって二村定一を呼んだ。その二村定一は満州時代に酒浸りとなり、往年の輝きは影を潜めたが、芸に対する執念と誇りは失われていなかった。渥美清や井上ひさし(らしき)人物も登場するが、これは数年の差で創作としても時代が合わない。ただ、終戦直後という混沌とした時代はよく表されていた。
 芝居はベテラン陣と若手とが競い合ったようなというのが印象だ。変な言い方だが、ベテラン陣からは「俳優」が見えて来た。若手たちからは「人間」が見えて来た。これは先月、劇団「銅鑼」の芝居を見ていても感じたことだ。「俳優」が見えて来た、というのは否定的に断定しているのではなく、もともと「昴」の芝居を見たいと思ったというのも、演技力のしっかりしたホンモノの役者が見たいということだった。その点では今回も満足している。
 若手たちのうち、二村定一を演じた白倉裕人、座長の娘梅園志津子を演じた松村凪、小屋の雑用係佐久間を演じた桑原良太の三人は広瀬と同期だということを舞台がはねてから聞いた。そういえば研究生時代の試演会や卒業公演で見覚えがあった。そのころと比較して飛躍的といっていいくらい演技力は向上していた。だから「人間」が見えたといってもけっして「素」の顔が見えたという意味でないのはもちろんである。それでもどこか演技に若々しさがあったのか、これから伸びていこうとする若き俳優たちの役づくりへのひたむきさであったのか、今日のこの芝居の中だけに収まりきれない生命感のようなものを感じたのだ。
 芝居を見終わって、どうして今、戦後なのだろう?というようなことを考えた。劇中で、「時代は新しい時代にふさわしい芸術を求めている。観客が今、何を求めているかをつかまなくてはならない。」というような科白が出てきた。古い時代が去り、新しい時代が幕上げを告げようとする、その時代と時代がすれ違うさまを描こうとしたのであろうか? 二村定一が一世を風靡したのは関東大震災前だという(その後も活躍した)。その意味では二村は去りゆく世代の象徴である。しかし芝居はその二村のプライドやその裏付けとなっている才能や鍛錬を否定的には描いていない。「この世界は一度入ったら簡単には抜け出せない。」というような科白も出てくる。小屋主の白川、座長の梅園を含め、「皆変わり者」で他の世界では生きていけない、そこだけは時代を違えても変わることのない演劇人へのリスペクトが芝居を支えているのだろうか?
 今日、また別なことをふと考えた。二村定一が公演中に吐血し、48才で命を落としたのは昭和23年(1948年)だという。それは太宰治が入水自殺をとげたのと同年である。「富岳百景」にはじまる中期、戦時中にも「津軽」など穏やかな作風に変わった太宰が、なぜ戦後になって逆戻りしたかのように「人間失格」や「ヴィヨンの妻」のような破滅的な作風に急変したのか、太宰にとっての戦後体験とは何であったのか。学生時代、そんなことをテーマにしてみたいと考えたことがあった。日本浪蔓派のゼミに首を突っ込んだのもそれが動機だった。
 戦後直後を一言でいえば混沌と可能性の時代ということになるのだろう。だが、すぐさま「新しい可能性」へと続く道筋を見いだせたり、確信を持てたりしたわけではないだろう。時代の変化を感じ取ったり、またその必要性を認識しながら、どこへ向かったらいいのか、誰もがもがき苦しんでいたのではないのか。
 最近、また太宰治を主人公にした映画が公開されたらしい。もしかすると今、新しい「戦後」(価値観の転換)が求められているのも知れない。あるいは原点としての「戦後」に立ち返ることが求められているのか。だとすれば今回の芝居も時宜にかなっていたということになる。

26日(木)まで

会場
東京芸術劇場 シアターウェスト

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  同期の活躍を目の当たりにして、広瀬も「私だって」という気持ちでいるに違いない。11月の「マクベス」公演に出演するという。演劇版とオペラ版の二本立てで、広瀬は演劇版の方だ。チラシを見ると今回も演出補として名前が見える。がんばれ、キナコ!!応援してるぞ。


by yassall | 2019-09-25 15:09 | 日誌 | Trackback | Comments(0)

劇団銅鑼「ENDOLESS 挑戦!」コピスみよし公演

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 24日、コピスみよしで劇団銅鑼による「ENDOLESS 挑戦!」の公演があった。リーフレットには「私たちの仕事は、より良い未来を創るためにある…! 産廃屋二代目女社長と働く者たちの終わりなき挑戦。」というリードがある。
 この芝居にはきっかけとなった実話があるとのことだ。案内をくれたTさんが『東京新聞』取材による「石坂産業の取り組みを参考にした演劇の稽古に励む劇団銅鑼の団員たち」の記事を送ってくれた。下に引用する。

 嫌われる仕事-。そんな産業廃棄物処理業のイメージを覆し、国内外から年間三万人が見学に訪れる会社が、埼玉県三芳町にある。かつて住民から撤退を迫られ、廃業の危機から環境を一番に考える企業へと変貌した「石坂産業」だ。今夏、東京都板橋区の劇団銅鑼が、その復活の物語を参考にした演劇を披露する。プライドを捨てず偏見と闘い、信頼を勝ち取っていく姿を描き、働くことの意味を問い掛ける。
 三芳町周辺は以前、「産廃銀座」と呼ばれるほど業者が集中していた。1999年、近隣産の野菜から高濃度のダイオキシンが検出されたとの報道があり、値段が暴落。後に誤報と判明したが、風評被害を受けた農家らは産廃業者に立ち退きを迫る反対運動を展開した。
 工場から上がる煙を標的に、「出て行け」と迫る住民たち。同業者が次々と撤退する中、創業者の父親から会社を引き継いだ石坂典子社長(47)は、住民の理解を得て「地域に愛される企業」に生まれ変わろうと、改革を推進した。(『東京新聞』8月20日夕)


 1999年頃といえば所沢市産の野菜からダイオキシンが検出され(後に国の調査で基準値超はなかったと発表された)、各学校でいっせいに焼却炉が使用禁止となるなど、大問題になったことを記憶している。今ではプラスチックを完全燃焼させた場合にはダイオキシンは発生せず、整えられた設備の下で適切に管理された産廃工場から健康に害をもたらすような有毒物質は排出されないことが分かっている。しかし当時はヒステリーともいえるような喧騒だった。学校の焼却炉のような低温では危険性は払拭できないということで、やがて解体されていくことになったが、今度はアスベスト被害の可能性があり、解体工事はかなり気を遣うものになった。

 劇団銅鑼はかつてコピスみよしのアドバイザーをつとめていた。高校演劇フェスティバルでもずいぶんお世話になった。民間委託になる過程でアドバイザーからは外れたが、Tさんはその後も交流があったのだろう。稽古場が私の家のすぐ近くで、いつでも見学に来て下さいとお誘いも受けていたのだが、そのままになってしまっていた。いつか芝居を見てみたいとは思っていたので、ちょうどよい機会だった。
 ホームページを閲覧したことはあって、傾向としては社会派だなと察しをつけていた。一度しか見ていないのに決めつけも出来ないが、リーフレットにも「1972年の創立以来、『平和』と『人間愛』を求め、『本当に人間らしく生きるとは何か』」をテーマにしてきた、「様々な問題を抱えた現代にこそ、社会を豊に反映させた、心の糧になる『演劇の力』が求められています。」とあるところからそう間違ってはいない気がする。

 ドラマとしては二代目女社長の奮闘記というところだ。「プロフェッショナル」や「カンブリア宮殿」でよくありそうである。二代目を継いだのはいいが、先代の社長と苦楽を共にしてきた社員となかなか心が通わず、そこへ公害問題が降りかかってくるというわけだ。「女性社長を主人公に、住民との対立や社員と社長のぶつかり合い、対話を重ねて理解し合う姿を描くストーリー」(『東京新聞』)が展開する。
 社会派ドラマはどうしても説明的な科白が多くなり、固くなる印象がある。前半の二代目社長と古株の社員たちの対立あたりは迫力を感じたが、むしろ社長が繰り出す改革案が浸透していく段になっていくにつれ、急に社員たちの会話も理論だってきて「そんなに急に変われるものかなあ」と意地悪な気持ちが起こってしまう。モデルになった石坂産業はそれをなし遂げたからこそ変わることが出来たのだろうが。
 このような芝居はただ一方的に観劇していればいいというのではなく、観客一人ひとりが啓発され、思考することを始め、論議し、行動にうながされていくことを求めるのだろう。
 コピスみよしでの公演は一日だけで、27日から9月1日までは池袋の東京芸術劇場に会場を移しての上演となるとのことだ。おそらくはこちらの方が本公演なのだろう。今回の一日公演はモデルとなった石坂産業の地元でとの思いがあったに違いない。コピス公演の実行委員会にはかつて反対運動に関わっていた住民も参加しているという。これも演劇が舞台の上だけで完結するのではなく、住民たちと結びつき、議論と運動へのアクションを投げかけようとの考え方からだろう。演劇の可能性は多様であり、このような演劇が存在することも必要だとの思いを強くした。

《追記》
 そして私もいろいろ考えた。ゴミ処理にしても産廃の処分にしても、本来は生産と同程度の作業過程があってしかるべきなのではないだろうか? そこには当然労力と経費が発生するが、生産の側は「売って」おしまい、消費者も欲しい物への対価は支払うが、ゴミ処理にはお金を出し渋る。また、自分の手を離れてからのことには注意を払おうとすることはない。
 つい最近TVのニュース番組で、日ごろリサイクルされているとばかり思って来たプラスチックゴミのかなりの部分が東アジアに「輸出」されていることを知った。いちおうの名目は「リサイクル用資源」ということなのだが、ほとんど分別もされず、ポリ袋に詰め込まれたものであったりする。それらが処理しきれず、ベトナムの河川に放置され、汚染の原因になっているという。華々しい「海外援助」の成果が宣伝される裏側で、今日になっても日本のアジアに対する姿勢は戦前と少しも変わらないのだと思い知らされた。プラスチックによる海洋汚染のほとんどが日本製であるというのは誇大ではないのだろう。
 ずいぶん以前、分別が徹底しているドイツでプラスチックゴミを火力発電に利用しようという試みがあるというニュースがあった。プラスチックは燃やすと高温となり、完全燃焼が可能ならば有害物質の発生も抑えられるというのだ。普通の可燃ゴミと混ぜることになり、せっかくすすんできた分別に逆行するというので反対の声も上がっているとのことだった。この国民意識の違いはどこから来るのだろう。
 


by yassall | 2019-08-30 15:31 | 日誌 | Trackback | Comments(0)

コピスみよし2019第18回高校演劇フェスティバル『勝手に名場面集』

  6月16日、コピスみよし2019第18回高校演劇フェスティバルが開催された。6月28日のまとめの実行委員会の報告によれば観客動員も昨年からV字回復を果たしたとのことだ。まずはフェスティバルの成功を喜びたい。
 今年も写真記録係を担当した。各校の許可を得て、今年も「勝手に名場面集」をアップしたい。ただ、諸事情があって時機を大きく外してしまったこともあり、いつもの「やぶにらみ観劇記」の方は簡素になってしまいそうである。
 私が現役としてこのフェスティバルに関わったのが第9回まで。今回が第18回と聞けば本来は感慨もひとしおなのであるが、それらの思いも省くことになる。
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 とはいえ、いつものようにまずはひとくさり。斎藤美奈子が『日本の同時代小説』(岩波新書、2018)で、「小説は「何を(WHAT)いかに(HOW)書くか」が問われるジャンルです。その伝でいくと[HOW(形式)」に力点があるのが純文学、「WHAT(内容)」に力点があるのがエンターテイメント。」と書いている。
 1960年代論から稿を起こした斎藤美奈子としては、「知識人/大衆という階層の解体」の中で「純文学」が通用しなくなった、という文脈の中で語られる箇所なのであるが、ふと演劇でも同じようなことが言えないかと連想が広がったのである。
 もちろん表現者の側からすれば「何を」と「いかに」はどちらに力点を置くかという選択の問題ではなく、二つをどう結合させるかという問題設定になるだろう。それは脚本の段階でもいえるし、演技者・演出家のそれぞれに葛藤やひらめきや創意として表れることになるだろう。
 一方、鑑賞者の側からすると「感動した」や「面白かった」というとき、「何を」に力点を置いていたか、「いかに」に力点を置いていたかの違いは出てくるような気がする。私などはどちらかといえば「何を」の方に重点を置くタイプのように思えるし、おそらくは一般的な観客もそうではないかと考えている。その意味では「いかに」に重点を置いている鑑賞者は、本当の意味での見巧者ということになるのかも知れない。
 ただ、ここが演劇の不思議なところで、あまりにもパターン化された(陳腐な)感情表現や、肉声とならない観念語の羅列や、ちぐはくな身体と科白といったものからはその「何を」は少しも客席に伝わって来ないのである。「何を」に感動しているようにみえて、実は「いかに」に心震わされているというのが観劇の醍醐味かも知れない。 
      ※                ※                ※
 坂戸高校『修学旅行~鬼ヶ島編~』畑澤聖悟・作 県坂演劇部・潤色
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 一昨年に坂戸高校は『修学旅行』正篇を上演している。正篇は高校演劇の傑作であると思う。沖縄修学旅行を題材に、教師側のいわゆる平和教育がどのくらい生徒に届いているか、という問題設定から始まって、一班に割り当てられた部屋の中で高校生たちが繰り広げるドタバを描きながら、実は隣国からの脅威や国境侵犯、エスカレートする対立など、世界で起こっている紛争の有り様がカリカチュアライズされていて、高校生たちもその現実から無関係ではいられないという事実に直面していくという構成になっている。
 しかしながら、この『鬼ヶ島編』には少なからず疑問を感じざるを得なかった。鬼ヶ島といえば桃太郎が出てくる。実際、劇中でも桃太郎が過去に鬼たちを襲撃し、打ち負かしていった回想シーンとして登場する。さらに、青鬼と赤鬼を分断させ、島を支配していったというような歴史が語られる。とすれば桃太郎はここではかつての大日本帝国の象徴、あるいは戦後沖縄を統治したアメリカ帝国主義を象徴しているようにも解釈できる。
 しかし、そのようにして蒔かれた種はちっとも育っていく気配がなく、最後まで回収されずに終わってしまっているようだった。後に残るのは鬼が登場して高校生たちと会話をしたりという虚と実の境界を失ってしまった無秩序感であり、赤鬼と今は亡霊となった青鬼の百年だか千年だかの恋の成就を見せられても伝わって来るものがなかった。
 写真1はその桃太郎の闘争シーンである。桃太郎は台本上でも武器を手にしていないのだろうか? 日本刀なり、あるいは衣装に似つかわしくない近代兵器を持たせた方がその暴力性が表現できたのではないだろうかと思った。写真2はラストシーン。このところ坂戸高校は部員確保に成功し続けており、ともかくも大人数によるパワーは伝わって来る。
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 星野高校『僕らの青春ドキュメント』ユウと愉快な仲間達・作 星野高校演劇部・潤色

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 富山第一高校放送演劇部による2018年度全国大会出演作品。パンフレットによるあらすじ紹介には、「春山高校2年4組の放送部は番組制作に苦戦していた。そんなある日、文化祭のクラス別出し物で演劇をすることが決まった。そこで、その様子を撮り番組を作ることにした。お互いを傷つけながらも成長していく「青春」物語。」とある。
 ストーリーが進行していくといわゆる「スクールカースト」の問題が提示される。総勢25名を舞台にあげたところはいかにも星野高校らしいところだが、そのスクールカーストの存在を表象しているかの縦長の階段上の舞台装置が効果的で生徒達が大人数に埋もれてしまうことなく、それぞれのグループや個人が浮き彫りにされていく。スクールカーストといってもクラス内が分断されているというばかりでなく、実は皆がラインで結ばれているといったところがあり、特定の個人が徹底的に除外されていくといった悲惨からは免れ、現代的であると同時にまたかすかな希望のようなものも提示されている。
 そうしたクラスの実態を番組制作と称してカメラに収めていく突き放した視線の存在が芝居にどう絡んでくるのか、もう一つ理解できなかったが、人物もなかなか魅力的に造形されており、好演だったと思う。
 写真1は期末考査が終わったばかりのところに特別授業の開始を告げられるクラスの全景である。写真2はクラスの出し物の稽古風景。蜘蛛の女王の登場シーンである。
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 東大附属中等教育学校『Alice!~白うさぎのお見合い!?編~』稲葉智己・作 ルイス・キャロル・原作

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 新座柳瀬高校は昨年のコピスで『Alice!~響け、ウエディング・マーチ!編~』を上演した。後述するように、今年は同題名でこのシリーズの総集編というべき作品を持って来た。
 シリーズと書いたが、今回東大附属が上演した『白うさぎのお見合い!?編』は昨年と今年との間をつなぐ作品らしい。私は初見なのだが、どこかで上演したのを顧問のKさんあたりが見ていたのだろう。コピスの観客たちにとっては親切な上演となった。
 幕が開いてみるとKさんがなぜこの台本を選んだのか理解できたような気がした。中高一貫校らしく、高二は一人きりで、他は中二から高一までの混成チームなのである。まだどこかしらあどけなさの残るキャスティングで(こう書くと本人たちは怒るかも知れないが)、きっと子ども達が見たら親近感が湧くだろうという舞台になった。
 とはいえ、演技はしっかりしており、舞台運びのテンポもよかった。衣装などもかわいらしく雰囲気をよく出していたと思う。些末なことのようだが、メイクでうさぎたちに髭を描き込んだのは不要だったのではないだろうか? 顔をしっかり見せた方が伝わる力が強まったと思う。写真1,2とも舞台風景である。
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 東京農大第三高校『ルート67』鹿目由紀・作

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 題名はもちろんアメリカ大陸を横断するかつての国道「ルート66」をもじっているのだろう。「ルート66」は廃線になってしまったが、この「ルート67」も廃線の危機に直面している。何とか廃線を回避できるようにとランナー(ライダー?)たちが国道を疾駆する。
 パンフレットには、「いつからだろう。この世界はこんな風になってしまった。地球温暖化を防ぐため、人間は科学技術を推進させ、人間と車が融合することを発明した。車人間たちが繰り広げる過激なデットヒート。リアルとバーチャルが錯綜するスピーディーなSFファンタジックドラマ。」との作品紹介がある。
 とにかく役者たちがよく動いた。たちどころに後景に飛び去っていくドライブインの看板やら、工事中の看板の付近にいた工事人たちが飛び上がっては消え去っていくありさま、そして様々なパフォーマンスをまじえながらルート67を疾走していくランナーたち。昨年の『バンクバンレッスン』で見知った役者たちも多数認められたが、誰も彼も見違えるように動きもよく表情も生き生きとしていた。
 写真1はルート67を疾駆するランナーたち。それぞれに表情がある。写真2は工事の進行を遅らせようと毎日のようにやってきては徒歩で道路を行きつ戻りつする少女とその少女を見守ろうと、あるいは説得のために集まってきた人々。少女の行為は入院中の妹を激励するためであり、実はルート67の物語はパソコンを使って少女が書き続けている創作であることが判明する。この少女が醸し出す雰囲気には惹かれるものがあった。
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 農大三高だけもう一枚。写真はルート67上でのパフォーマンスの一場面。シャッターは1/80秒でしか切れていないのに全員がよく止まっている。次の動作に移る前に一瞬の静止があるものだが、よほど息が合っているのだろう。プリントした方がきれいな写真になった。今回の私的ベストショットである。
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 川越高校『パンツァー☆ぼぉいず』阿部哲也・作

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 TVアニメ『ガールズ&パンツァー』を下敷きにしているのだという。戦車同士の模擬戦が伝統的な女性向けの武道として競技化され、華道や茶道と並ぶ大和撫子の嗜みとして認知されており、女子高校生たちが全国大会で優勝を目指して奮闘するといったような内容らしい。その戦車道に男子高校生の部があり、全国大会に出場することで落第を免れようとする高校生とその仲間たちを描く。
 その奇抜さとたぶんわざとチープに(しかしある意味で実に精巧に)作られた2台の戦車が見どころの舞台だろう。以前、同じ川越市内の高校に勤めていた身として、これは川越高校ならではの芝居だなと感じていた。
 旧制川越中学校を前身とし、陸軍特別大演習では大本営がおかれ、大正天皇を迎えたというような歴史がある。戦前、天皇から下賜された戦車が倉庫に眠っていた、などという設定は他の新制高校では想像上でもあり得ない。もちろん川越高校でもあり得ないのだが、何となく説得力が生まれてしまう。
 そして何より川越高校水泳部の存在が大きい。それまで女子の競技とされてきたシンクロナイズドスイミング(今はアーティスティックスイミングというらしい)を引退した3年生の水泳部員が文化祭での出し物として披露し大人気となったのである。私は見に行ったことはないが、ともかく年を追うごとに観客が殺到するようになったという噂を聞いていた。その後、映画『ウォーターボーイズ』(2001)のもとにもなった。「ガールズ&パンツァー」で女子の競技とされた戦車道を男子が競うというのとどこか構図が似ているような気がする。
 写真1は川添高校の選手が乗り込む九七式中戦車チハとその運転席。迷彩色が効いている。写真2は中戦車の元乗組員らしい旧日本軍人の霊と対話する男子。軍国主義の復活ではないスポーツとしての戦車道を認知するために登場させたらしい。ポツダム宣言受諾後のソ連軍との戦闘により、オホーツクで戦死したとある。日本の戦車は東南アジアを走り回るのには適していたのかも知れないが、ノモンハンではソ連に、太平洋諸島では米軍に徹底的にやられている。
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 新座柳瀬高校『Alice!~響け、ウエディング・マーチ!編~』稲葉智己・作 ルイス・キャロル・原作

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 東大附属のところで触れたようにシリーズの集大成的な作品であると思われた。白うさぎとアリス、帽子屋とチエシャといったカップルが、それまでのわだかまりを乗り越えて心を通わせていくという大団円を迎える。これまで暴君さながらであった女王は今回は縁結びの役割を果たしている。
 シリーズの集大成というだけなく、これまでの総決算を意識しているようにも思われた。オープニングで紗幕に映し出された回想的シーンなどの作り方にも感じたし、繰り返し使われてきたテディベアによるプレゼント攻勢などにも感じた。
 今年は新入部員が多かったらしく、キャスティングには余裕があったようである。1年生も多数出演させているようなのに、東大附属の「Alice」と比べると大人びた舞台となった。ただ、急ごしらえであったのか、脚本にももう少しひねりが欲しかったような気がするし、演技・演出にも詰めが不足していたように感じた。まあ、最近の多忙ぶりを知っていて書いているのだが。
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 ※今年も使用機材はD750+TAMRON28-300mm


by yassall | 2019-07-17 17:37 | 高校演劇 | Trackback | Comments(0)

コピスみよし2019第18回高校演劇フェスティバルのご案内

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 14日、コピスみよし2019第18回高校演劇フェスティバルの第1回実行委員会が開催され、今年の出演校が勢揃いしました。第1回から第9回まで現役として関わった身としては回数として倍の18回を迎えたというのは喜びとともに驚きでもあります。
 昨年、第17回の「勝手に名場面集」でも触れたように、コピスの年間行事としても定着してきたフェスティバルではありながら、前回は観客動員が200人ほど落ち込んでしまいました。多くの方々に見ていただいて成り立ち存続していくものです。
 ここのところ、足が遠のいてしまったなあというOB・OGの皆さんもぜひお誘い合わせの上、ふるってご来場いただけるようご案内申し上げます。

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by yassall | 2019-05-15 20:43 | お知らせ | Trackback | Comments(0)

2019年春季西部A地区演劇発表会

 4月20、21日の日程で2019年春季西部A地区演劇発表会が朝霞コミュニティセンターで開催された。今回は諸事情があって出演校が5校にとどまるということは知らされていた。どのようなプログラムになるのか予想がつかず、高演連のHPなどをのぞいても情報が得られなかった。20日は夜に予定が出来てしまい、時間調整が難しそうだななどと逡巡しているうちに出遅れてしまった。(翌日に知ったところでは1日目は午前中のみの公演であったそうだ。)
 古巣の朝霞高校は2日目の2本目と聞いていたので開演に合わせて出かけていった。この日の1本目は朝霞西高校だったそうだ。Mさんが去った後、Sさんが頑張っているのは知っていたので観たいと思っていた。もう少し早めに到着できるようにすればよかったのだが、区長選と区議選の投票を済ませてから出かけていったので、見ることが出来たのは朝霞だけになってしまった。なお、午後の1本は細田学園高校で予定上演時間は15分ということであった。前任の顧問のEさんが急に退職することになり、新任の方と顧問交代があったためだという。

 朝霞高校『熱海殺人事件』つかこうへい・作
 さて、言い訳がましいことから始めてしまったが、朝霞も観劇というより応援気分で出かけていった。というのも、3月31日の試演会直前にキャストの一人が退部してしまい、かなり顧問が参ってしまっているのを聞かされていたからだ。Fさんは現役時代の同僚でもともとブラスバンドの指導で実績のある人だった。音楽に専門家が来たのがきっかけで演劇に代わってから熱心に部を見てくれていた。鴻上尚史や竹内銃一郎、野田秀樹といった手強くも硬質な脚本に挑戦し続けて来たし、音響関係は元から詳しかったにせよ、照明のことも熱心に勉強されていた。ブラスバンドとのコンテストのあり方に悩んでいたり、部員たちとの葛藤も少なからずあった様子で、相談を持ちかけられることも多かったが、演劇に真正面からとりくんでくれたことには感謝している。
 応援気分というのはそんな意味からだったのだが、劇そのものは予想に反して(失礼!)なかなかの出来栄えだった。もちろん台本の力はある(だからこそ骨のある台本に挑戦して欲しいと思っている)。それを措いても、とくに3年生の2人は力演だったと思う。部長役の男子はよくぞここまで成長したなあと感心させられること頻りだった。思い込みが強かったり、ときに暴力的だったりする役回りだが、感情がよく乗っていたし、根底にある怒りや悲しみのようなものも表現されていたと思う。
 直前にキャストが降りてしまったというのは片桐ハナ子役の生徒であったという。急遽、代役を務めたのはTさんだ。昨年秋頃からしばらく休部状態で、復活してからもスタッフは手伝うがキャストは引き受けない、と宣言していたらしい。1年生のときから素材的にいいものを持っており、残念に思っていたが、あわや出場辞退という局面になってキャスト引き受けたという。試演会で会ったときに激励がてら声をかけたら、スタッフで稽古に参加している最中に科白はだいたい入っている、という頼もしい返事だった。そして本番、単に科白がつながっているなどというレベルにとどまることなく、ドラマにメリハリを作っていく役割をよく果たしていた。この春で引退してしまうのが本当に惜しく思われた。
 大山役と熊田役は2年生であったようだ。生徒会やら他の部活動とかけもちしているようなことを聞いていたので(どうも演劇以外にやりたいことのある生徒が多いらしい)、稽古不足が心配だったが科白はしっかり入っていた。責任感はあるのだろう。ただ、やはり自分の科白が回ってくる順番を待ってしまっている感はぬぐえなかった。
 相手のも含めて科白回しに不安がなくなり、それぞれの人物造形がつかみ始めてからが本当の稽古だし、演出もつぎつぎにアイデアが生まれてくる。たぶんもう2週間、全員がそろって稽古する期間があったら、方向性も共有され、表現の核とでもいうのか、月並みにいえば主題も見えてきたことだろう。なかなか部員が増えず、当分苦心する日々が続くだろうが、ぜひ心をひとつにして次に向かっていって欲しいものだと真に思う。

  ※

 さて、前日の予定とは東京労働学校から「日朝近現代史講座」の案内があり、20日は「韓国の民主化運動とキャンドル革命」が開講されたのである。講師は崔仁鐵(チェ・インチョル)氏。大学は日本で学んだらしいが、その後韓国へ戻り、現在論文にとりくんでいるという若き研究者である。来週の「朝鮮民主主義人民共和国の現在」も参加するつもりでいる。そして21日の午後は新座の9条の会で学習会があるというのでその足で出かけていった。こちらは近々内容を紹介する予定でいる。


by yassall | 2019-04-24 19:42 | 高校演劇 | Trackback | Comments(0)

第54回関東高等学校演劇研究大会栃木会場

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  12月23、24日の日程で高校演劇関東大会(北会場)が栃木文化会館大ホールで開催された。今年は特別枠で埼玉から所沢、新座柳瀬、浦和南の3校が出場。所沢高校顧問のAさん、新座柳瀬高校顧問のMさんはかつて西部A地区でご縁のあった人たちであり、栃木ならいつもより少し早起きすれば通いで行けてしまうので、応援かたがた出かけて来た。事前に関東高校演劇協議会のHPで上演日程を確認してみると所沢が1日目の朝一、新座柳瀬が2日目の朝一、両日とも4時起きはつらいなと思いつつ、客足が少ない時間帯こそ応援の価値がある!などと気持ちを入れ直したのである。
 両日とも午前中で失礼してしまったので12校全部を観劇したわけではないが、それでも埼玉3校は一頭地を抜いているように思った。熱演しているとか、高校生らしく元気にあふれているとかいう観点からだったら、他の学校もそれぞれの県を代表して選抜されてきただけのことは認められる。だが、演劇としてのクオリティとか、伝える力・届ける力とかになると、今年の埼玉はどこも勝っていたと感じた。(浦和南は2日目の午後の上演であったので見ずに帰ってきてしまったが、埼玉県の中央発表会のままだとしても判定は変わるまいと思った。)
 もちろん身びいきということはあり得るから「曇りない目」という保証はない。また、当然のことながら審査員にそれぞれの評価の観点があることは認めなければならない。果たして夜になって分かった審査結果は以下のようであった。

 第54回関東高等学校演劇研究大会 ―栃木会場―


最優秀賞

 埼玉県立新座柳瀬高校「Ernest!?」オスカー・ワイルド/原作、稲葉智己/翻案(創作)


優秀賞(4校・上演順)

 埼玉県立所沢高校「プラヌラ」高石紗和子/作、とこえん/潤色(既成)

 新潟県立新潟工業高校「室長」畑澤聖悟/作、引場道太と新工放送演劇部/潤色(既成)

 栃木県立小山城南高等学校「無空の望」黒瀬香乃/作(創作)

 さいたま市立浦和南高校「緑の教室」渡部智尋/作(創作)


優良賞(7校・上演順)

 塩尻志学館高校「イッテきま~す」たかのけんじ/作(創作)

 東京農業大学第二高校「エレベーターの鍵」アゴタ・クリストフ/作(既成)

 新島学園高校「カイギはDancin'」大嶋昭彦/作(創作)

 長野県松川高校「カノン」山崎公博/作、松川高校演劇部/潤色(既成)

 新潟県立新潟中央高校「Damn!舞姫!!」関勝一/作、演劇部/潤色(既成)

 栃木県立栃木高等学校「ミサンガ」栃木高男/作(創作)

 作新学院高等学校「そこの人たち、ちゃんと歌って」川上朋花・五十嵐美波・阿久津奈愛/作(創作)


創作脚本賞

 栃木県立小山城南高等学校「無空の望」黒瀬香乃/作(創作)


 出場校の皆さん、お疲れ様でした。また、入賞校の皆さん、おめでとうございます!

  *

 最優秀賞の新座柳瀬高等学校さんは、第43回全国高等学校総合文化祭(佐賀会場)演劇部門に推薦されました。おめでとうございます!

また、今回の栃木会場の優秀賞と、来年1月19日・20日の関東高等学校演劇研究大会(横浜会場)の優秀賞の計8校のうち1校も、同じく佐賀総文に推薦されます。

 ※ 今回の関東大会には、各県毎の2校に特別枠の1校を加えて埼玉県代表として3校が出場しましたが、その3校全てが見事上位入賞(うち1校は最優秀賞)という、埼玉県としては大変喜ばしい結果となりました。(「埼玉県高校演劇連盟」HPより)

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 会場の栃木文化会館。現地運営委員の皆さん、たいへんお疲れさまでした。
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 栃木駅前には山本有三の碑が建っていました。





 


by yassall | 2018-12-25 17:18 | 高校演劇 | Trackback | Comments(2)

2018年埼玉県高校演劇中央発表会

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 11月17・18日、埼玉県高校演劇中央発表会が開催された。会場の彩の国さいたま芸術劇場は1994年に建設され、来年25周年を迎えるという。17日朝、数日前には雨マークの付く天気予報であったが、空は晴れ渡っていた。
  ※
 ここ数年、写真記録を担当してきたが、今年は辞退させてもらうことにした。始まりはメインのIさんの都合がつかないときのピンチヒッターであったのだし、今でもフォローが必要なときはいつでもお手伝いするつもりではいるのだが、狭いスペースで二人して同じような写真を撮っているのも無駄であるというのが理由のひとつ(もし、コピスと同じように2階席からという限定であったとしても何カ所かにポジションを変えられるなら複数態勢にも意味があるだろうが)。
 また、カメラの高性能化によって画像ファイルのサイズが大きくなると、後処理にも膨大な時間がかかる。全部で10校分ということになればパソコンに読み込むだけでも相当の時間を要する。それが2人分になるということは、読み込み時間も、読み込んだ後に各校に分類し、DVD(もうCDでは容量が足りない)に落としていく時間も2倍になるということなのである。最後の舞監会議で各校に配布するため、それらの作業を短時間のうちにこなしているのはIさんなのである。
 三つ目の理由としては、やはり自分の撮った写真に満足できないということがある。というより、これが最大の理由である。ピントと露出は「時の運」もあるから当たり外れは仕方ないとして、もう少し絞りたい、シャッタースピードを上げたい、ISO感度を下げたい、という選択の壁はいかんともしがたいのである。機材を変えてみたり、設定を工夫したりしているが、思うような結果が得られないでいる。
 では当日、なぜお前はカメラマン席にいたのだ、ということなのだが、以前からの約束もあったり、西部Aやコピスつながりがあったり、縁のある人たちからの依頼があったら「学校付き」のカメラマンは引き受けようと決めていたからだ。係以外で、カメラ席にいられるのは当該校の上演時間中に限り1名のみという決まりになっているそうだから、他に学校としてのカメラ担当者がおらず、かつ希望があった場合に限定されるのはいうまでもない。
 (今回、時間帯以外はカメラ席のすぐ後ろに座っていたのだが、学校によって私などよりははるかに立派な機材を持ち込んでいる方も複数いらした。私ごときが席を占有し続けている理由は何もないのだと思った。)
 連絡が不徹底だったのか、私の側の意思表示が十分でなかったのか、大会パンフの役員表には名前が残ってしまっていた。出演校の中に私の分の画像ファイルがないことに不審を感じた方がいたら(多分そんな学校はお出ででないと思うが)、そういう事情であったことをご理解願いたい。
  ※
 少々、話がくどくなった。そんなことで例年より気楽に各校の上演を楽しんだ。審査の結果は次のようだった。創作脚本奨励賞が2校になったのは審査員からのたっての要望であったという。

 最優秀賞     浦和南高校「緑の教室」
 優秀賞      新座柳瀬高校「Ernest!?」    
 優秀賞      所沢高校「プラヌラ」 (本年は上記3校が関東大会に進出)
 創作脚本賞    浦和南高校「緑の教室」渡部智尋・作(生徒創作)
 創作脚本奨励賞 三郷北高校「Merry mad dolls」杉浦舞香&MKDC・作(生徒創作)
    〃    南陵高校「部活紹介って何すればいいの?」村上健・作(顧問創作)

 浦和南高校は以前に出場したとき不条理劇風の生徒創作が評価された。劇としては変容というより破綻が見えてしまって、そのように才気を浪費してはならないと、むしろ私には惜しむ気持ちが強かったのを記憶している。今回は現代高校生のかかえる様々な問題をとりあげながら、劇としてきちんと構成されていた。最優秀賞までは予想できなかったが、演技も素直で、好感を持って見ることが出来た。審査員一同の慧眼としたい。
 新座柳瀬高校の「Ernest!?」は地区発表会でも完成形ではあったが一段とレベルアップしていた。作品について一言したい。秋の高校演劇①でも前述したように新座柳瀬は2015年のコピスみよし第14回高校演劇フェスティバルでもこの演目を上演している。ただし、キャスト数も異なるし、脚本も大幅に改訂されている。前回のバージョンでアーネストを演じたのはKさんだった。たいへん魅力的な才能の持ち主で、偶然が偶然を呼ぶことで運命の扉が開いていく、貴種流離譚の性格をもつ物語を演じ切っていた。私はそこに運命に対するおののきのようなものを感じた。
 今回アーネストを演じたIさんからは、残念ながらそうした震えは伝わって来ないな、と地区発表会の時点では思っていた。だが、中央発表会での印象はそれとはずいぶん異なるものであった。Iさんのアーネストから伝わってきたものは、己の運命を受けとめようとする力強さであった。すでに恐れは去っていた。クライマックスで、それまでたじたじだったブラックネル郷夫人に正面から立ち向かう、その声や目線の強さ、立ち姿、軍人名鑑をめくるスピードや指先にそれは表現されていた。
 そう気が付くと、前段でブラックネル郷夫人の詰問を受け、アルジャノンにすがりつくほど震え上がった恐がりのアーネストを設定したのも、後との対比によってアーネストが貴種本来の誇りや威厳を取り戻したことを強調するための仕掛けだったのだ、脚本の改訂はそのような意図をもってなされたのだ、と合点した。そこには役を割り振った生徒の特徴や能力に対する見極めもあったに違いないし、自分の役に対する理解力と稽古の積み重ねが生徒の側にあったことはもちろんである。
 所沢高校の「プラヌラ」は面白い台本だと思った。どのような経緯で所沢高校の手に渡ったのか、今度ゆっくり話を聞きたいものだと思った。昨年、一昨年と所沢・入間地区の審査員をつとめた。2回とも所高を候補にしながら選び切れなかった。その意味でも今回、中央発表会出場校となり、関東大会まで抜けたことを心からお祝いしたい。
  ※
 秩父農工科学高校が選外となったのを意外と感じた人は多かったのではないだろうか? 私もその一人である。確かに科白がよく聞き取れなかったことはあったが、(その為もあってか、複雑な話がよけい分かりにくかったが)、舞台美術・効果にはいっそう磨きがかかっていたし、計算された演技にも破綻がなかった。
 テーマは「リアル」である、と思った。秩父農工の芝居に何度か現れるテーマである。「脳」は「肉体」と敵対する。VRは肉体を通過しない(=架空の)「リアル」で脳をだますのである。しかし、現代人は本当の意味での(=肉体を通過した)「リアル」を日々体験し得ているだろうか?
 養老孟司にいわせれば「都市」とは「脳」なのだそうである。都市文明は人間を「リアル」から遠ざける。現代人にとってVRは現実逃避なのではない。「現実」がVR化しているのである。リストカット(=傷つけられた「肉体」)によってしか「リアル」な生を感じ取れない若者たち、「リア充」を求めて苦悶する若者たちは、さながら自分の尾を追いかけて回り続ける子犬のようなのである。
 秩父農工の芝居の「でも、本物って何?」という問いには、そうした現代社会の本質を明視化していくきっかけがあるような気がしたのである。VRに象徴される世界は近未来物語なのではなく、今、現在の最中にあるのである。
 秩父農工には「リアル」とは何かの問いを極めていって欲しい。今回の芝居では、VRの世界に現実の人間関係を再現している、と見えながら、実は現実の人間関係もまたVR化(=脳化)されている、という実態を言い当てたものだと解釈した。だが、(これは現実の存在であるらしい、あるいは出産と同時に死亡したことになっているから存在していたらしい)「母」を持ち出すことで主人公の「心の痛み」の原因を説明づけてしまうと、まだどこかで回帰し得る「現実」があった、ということになってしまうのではないか? 追求していたものをどこかで見失ってしまった、あるいは徹底し切れなかったのではないか?
  ※
 地区発表会での審査を終えた時点で、選出した学校は出場校となり、私の手からは離れた存在となる。2校を選ぶにあたっては他の18校を選外としたわけだから、ぜひともその18校の思いも受けとめながら、18校が納得できるような上演をして欲しいとは思う。だが、それも当方の勝手な願望なのである。
 とはいいながら、最後に草加南高校と三郷北高校について触れると、2校とも地区発表会とはずいぶん変えてきたなということにまず注目した。変えて良くなったところと、効果が判然としないところとがあったが、少なくともより良い芝居づくりを最後まで追求していったのだ、という点は評価したいと思っているし、その労をねぎらいたい気持ちでいっぱいだ。
 また、変わったところを見ていくと、私たちが講評やその後の質問タイムで述べたことが、大なり小なり影響していることが分かる。その意味で、改めて審査員としての責任の重大さを噛みしめざるを得ない。
 「はなまぼろし」は(古い時代を扱った作品だから仕方ないのかも知れないが)ややもすると旧来の性道徳に絡めとられてしまうという点でも(桜子が自分の恋を「淫らな血」のゆえんとしてしまうところなど)、やはり台本として評価できない。この台本によって自己表現を試みようとした生徒たちも、どこかで壁に突き当たったようなもどかしさを感じていたのではないかと私は推測している。
 しかし、以前はただ台本を忠実になぞらえようとしていた段階に止まっていたとしたら、今回は(ときに科白の入れ替えや、行動にいたる動機の変更までしながら)自分たちの表現世界を創り出そうとしていた。地区発表会では感じていた「穴」(たとえば老人の杖の突き方など)も実にていねいに潰されていた。きっと細部にいたるまで皆でチェックし合ったのだろう。
  ※
 三郷北高校についても同様のことがいえる。冒頭のツカミのところは話を複雑にし過ぎないように、とアドバイスしたが、自分たちでも自覚していたのか、さっそく変えていたし、物語の設定にかかわる部分も芝居の進行にしたがって徐々に明らかになるように工夫されていた。
 科白が弱かったところは、私からするとずいぶん頑張っていたと思うのだが、「聞こえて来ない!」という声は多かった。たとえば剣を手にした、あるいは刃を向けられたときの緊張感の不足、というところは今回も審査員から注意されていた。
 問題はテーマにかかわる部分である。メッセージの伝え方が直接的過ぎたかも、とは確かに言ったが、今回は少し隠され過ぎたのではないか、あるいは自分たちの中でも後景に置いてしまいがちになったのではないだろうか?
 審査員の先生方からは創作脚本奨励賞を受賞した。ただ、その理由が「2.5次元芝居を追求していって欲しい」というような言い方だったのが気になった。私の認識では、漫画やアニメ(あるいはライトノベル)という2次元の世界を舞台上に立体化(=3次元化)したものであることから2.5次元芝居と命名された。厳密にいえば「原作物」であるのだ。確かにたいへんな人気だが、観客は自分たちのアイドルを求めて劇場に足を運んでくる。
 メッセージ性が弱められた分、(自分たちは弱めたつもりはないかも知れないが)、パンフの学校紹介でも強調されたエンタメ性ばかりがアピールされ、受けとめられる結果になったような気がする。
 私がどんな可能性を感じたかは地区発表会の様子を紹介した秋の高校演劇②の通りでその考えは変わらない。[自/他]の二分法による異分子の排除とその不条理性に対する怒りである。より現代的な問題に引き寄せて、「怪物たち」とは国民国家の枠を越えて大量に流入してくる難民たちであり、少数のうちは差別しながらも受け入れていた「民」たちは次第に迫害の手を強めていく、難民たちの間にも強硬派が生まれテロ事件が発生する、「民」たちは「自警団」(これも元は非定住の流浪の民であったかも知れない)をとりこみながら「怪物たち」の殲滅をはかろうとする、というような物語が見えてくるようになれば、ただのファンタジーの域を超え出る力を得ていくように私などは夢想してしまうのである。
 科白の作り方として、ロキが「死人を生き返らせる不思議な魔法を持っている」存在だ、といってしまえばあり得ないファンタジーに終わってしまうが、「私たちは一度死んでしまった人間だ。ロキはそんな私たちに新しい命を与えてくれた」というような書き方にすれば、絶望の淵に置かれた難民たちがリーダーの出現によって新しい希望を与えられた、というような暗喩を帯びるようになると思うのだがどうだろう。
 当分、私は三郷北高校演劇部の今後に注目していきたいような気もしているのだ。あくまでエンタメ性を追求するというならそれでもいい。ただし、2.5次元舞台では耳かけ式マイクを使用するが、高校演劇では使わないから発声は演劇用に鍛える必要がある。


by yassall | 2018-11-20 04:00 | 高校演劇 | Trackback | Comments(2)

2018秋の高校演劇③ 大宮区地区発表会

 大宮地区は2年連続となった。組み合わせが変わったとはいえ、あまり望ましいことではないだろう。審査員の配置でやむにやまれぬ事情があったのだろうと察してもらうしかないが、私としては昨年からどんなふうに成長したかという楽しみがあったし、どちらかというと昨年は演劇部を楽しむというところに重点をおいた学校が多かった気がしたが、今年は渡された台本を読んだ段階から芝居づくりへの意気込みが違うぞ、という期待感が高まっていたのである。会場は西部文化センターである。

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 上尾高校『OUT OF CONTROL』大倉マヤ・作
 核戦争の危機に警鐘を鳴らすブラックコメディ。昔の映画だがキューブリックの『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』(1963)を思い出した。
 女子高校生に見立てられた核兵器たちを、明るく、パワフルに造形することで題名の持つ真の怖さが伝わってくる、と漠然と考えていた。ト書きにはセーラー服とあったが、そんなものは無視して、デザインだけ揃え、それぞれ色とりどりのスカートとスカーフにでもすればいいのに、と考えていたら、白のTシャツ状の上衣に自作のセーラーカラーをつけて制服に仕立てていた。ただし、襟と袖口のラインとリボンにはそれぞれの名前につながる色を選び、なかなか鮮やかに仕上がっていた。パフォーマンスもオーバーアクションを心がけているのが見て取れ、つい「いいぞいいぞ、それで合っているぞ」と心の中でつぶやいていた。
 「爆発するけどしない。核が平和を維持している。」という先生の論理は核抑止論である。それに対し、女子高校生たち(=実は核兵器)は「(私たちは)自分で生きていくってことを知ってしまった。」「私たちは爆発するために生まれてきた。」「爆発したい!」として、しだいに制御不能になっていく。
 北朝鮮で核弾頭の製造やミサイル実験に成功したりすると、唯一の被爆国である日本の政治家の中ですら核抑止論を唱える者が現れる。だが、本当に核兵器は抑止として機能するだけで使用されることはないのか、使用を前提としない兵器は兵器といえるのか?(だったら、何も北朝鮮の核だけを恐れる必然性はない。)
 現実には、核兵器は小型化や中性子爆弾の開発など、「使える」核兵器としての開発がすすめられてきた。この台本が書かれたレーガン米大統領の時代には迎撃態勢の体系化を前提に、核先制攻撃論まで吹聴された。過去の話ではない。今なおプーチンもトランプもことある毎に核の使用をほのめかしている。核抑止論・核均衡論は核戦争のしきいを限りなく下げているのである。
 台本が書かれたのは1990年。チェルノブイリの直後でもあるから、女子高校生たちの紹介の後、第二場は原発から漏れてくる放射能から逃れようとするゆりと和也が駆け込んでくるところからはじまる。ただし、核兵器との関連は必ずしも明確ではない。
 台本は生徒が選んで来たそうだ。内容をよく理解し、先に述べたように作戦も練りながら芝居づくりをしてきたことは伝わってくる。ただ、まだ行儀がよすぎたかも知れない。緊迫感にもうひとつ弱さがあったことや、核兵器としてではなく、女子高校生というところに感情移入してしまったらしきところがあり、その分、暴発にいたるまでのパワーが不足してしまった。
 そのあたりがもう一歩というところだったが、生徒が生き生きと、それでいてナイーブさを失わずにやっていたのが何よりではないのか? 顧問は(昨年も紹介したが)西部Aでご一緒したKさん。Kさんは生徒が自ら本来の力を伸ばしていくのを大切にする人なのである。
 演劇に時代性や政治性を持ち込むことを極端に避けようとする人々がいる。だが、時代に敏感に反応し、先んじてその本質を解き明かしていくのも演劇の大事な使命であると考えている。18歳選挙権の現代、高校生たちが社会問題にめざめ、考えを深めていこうとしているなら応援してやるのが大人の役目ではないか。台本の今日性は失われていない。何より掘り起こしを評価したい。

 上尾南高校『回転、または直進』福田成樹・作
 舞台はねじ商社「六甲鋲螺」の事務室。近所のネジ工場主を父に持つ女子高生チカにとって、そこは居心地のよい場所だった。中年の女性事務員オノはヌシ的存在。最近、営業部員として入社して来たサクラはまだ若いが転職組、新たに倉庫管理に採用されたサイトウも自衛隊にも在籍したことのある転職組である。2人とも新たな職場で生き甲斐を求めているようである。(以上、あらすじ)
 8月に台本を渡されたときから、よい台本だと思った。初見だったので調べてみると、初演は兵庫県立御影高校、2015年度近畿大会で創作脚本賞を受賞している。福田氏は兵庫高校時代にも創作脚本賞しているとのことだ。
 ドラマらしいことは何も起こらない。電話で注文を受け、営業から帰って在庫を確認する、苦情を受ければ延々と不良品を選別する。人々が生きる、働く、つながる世界なのである。チカは「ここ、うるさい親や兄弟がいっぱいおるみたいや。」という。「うっとうしい?」と聞かれ、チカは「ううん。わりと好き。」と答える。
 私の住んでいる地域は中小零細企業が立ち並ぶ工場地帯だった。町工場が何軒か残っていて、今もプレス機の音が聞こえてくる。私がよい台本だなあ、と感じたのは、どこか似たような環境が頭に思い描かれたせいかも知れない。しかし、それらの大小あった工場はほとんど撤退してしまった。大企業は生産拠点を海外に移してしまったし、国内に取り残された中小企業は外国製品の進出の煽りを受けて虫の息である。私が次に感じたのは、ユートピアのようだ、ということだった。関西弁とあいまって(兵庫の人にとっては日常語なのだろうが)日本のどこかに、今もこんな場所があるかも知れないと夢見させてくれているような気がした。バイト生活に明け暮れた若い人々に、安心して働ける場所を提供してくれるような。
 昨年も感じたが、きちんとした芝居づくりをする学校だと思った。様々な装置や効果、役づくりも正確で、作品世界を舞台化する力があった。内容やストーリー展開が地味なので、出だしからテンションを上げようとしたのか、ツカミのところで走ってしまい、科白が聞き取れなかったのが残念だった。
 チカ役の1年生は動きにキレがあった。オノ役の2年生には見覚えがあった。昨年の女子大生役から打って変わってベテラン事務員役についたが、雰囲気は作れていた。それだけに残念だという話なのだが、舞台上にそれぞれの立ち位置は見つけられたのではないだろうか?

 桶川高校『埼玉会館のはしの方』今井唯太・作(顧問創作)
 演劇部物。総会に出席して、改めて高校演劇に対する愛と意欲を再確認する。(以上、あらすじ)
 高演連総会をまるごと素材にしてしまえ、という人を食った台本。けっこう好きである。空間の移動、時間の経過とともに会話のあり方も変わって来るはず。そこをもっと丁寧に描いていけば各人の個性も生きて来ただろうし、心の変化にも説得力が生まれた。日常の一コマを切り取っただけのように見えて、再びは訪れないかけがえのない一日を描いた。

 岩槻高校『伝説の勇者の作りかた』八城悠・作
 コンピュータ・ゲームのキャラクターを登場させ、ストーリーとキャラクターを自ら作っていく。元の設定では迫力が足りなかったからだが、自分たちはヒーローを迎え撃つ〈悪〉の立場だから、完結することは自分たちが滅びることになるというアイロニーに脱力する。だが、ゲームが面白ければ繰り返して遊んでもらえることに気づき、またがんばろうと決意する。(以上、あらすじ)
 一幕ものにはなっているが、どうにも動きが作れない台本。あえて舞台化しようとするなら、世界観をどう構築するかだろうか。メイク、コスチューム、小道具・大道具、照明・音響を総動員する必要がある。努力は認めるが限界だった。各人なりの役づくりも認められるが、相互にかみ合うまでに至らなかった。最後に剣をふるって一人殺陣を繰り広げるところくらいはビシッと決めないとダメでしょう。

 大宮商業高校『水屑となる』春野片泰・作
 「もうこれからずっと一緒に帰れない。」「望ちゃん、私ね、考えるのやめたの!」と言い残して友達だった香澄は去って行った。(引っ越しだと理由を説明していたが、どうやらどこかへ収容されたらしいことが後から暗示される。)その香澄から渡された本を読むうちに、望の心にも変化が起こってくる。望が「何か、おかしくないですか?」の一言を発したとき、周囲の人間たちはみな驚愕する。(以上、あらすじ)
 「思想教育」が個を圧殺する、オーウェル『1984年』を彷彿させるような近未来物語。きちんと問題意識をもって取り組んでいることは理解出来る。ただ、台本に混乱や矛盾がある。一例として理生が殺人を犯すシーン。強烈な違和感があった。自らの意志を持つということと自らの欲望のままに生きるということとは違うはず。時間としては5分くらいだろうか、私だったらカットしてしまうだろう。オリジナリティの尊重はもっともだが、それだけの価値がある台本かどうか()、片言隻句も疎かにしないことが常に正しいかどうかの見極めも必要だと思うのである。まともにやってしまわない方が良かったのではないか。
 (潤色の場合には作者の許可がいる。上演許可を申請する際にお断りをして認めてもらったことが私にもある。部分のカットについては一切認めないという作家もいるが、そうでない場合にはテキストレジが行われるのは普通のことである。)
 (最初にアップしてから1日経ってしまったが、このままででは誤解を招きそうな表現だったので補足する。来年度から「道徳」が教科化されるという。人間が生きていく上で道徳が必要かどうかを問題にしているのではない。国家が人の心の中を支配しようとすることの是非を問うのである。そんな中で作者の「普通とは?常識とは?教育と洗脳の違いとは?をテーマに作りました」(ネットから)とする執筆意図、この台本を選んだ生徒たちの問題意識は大いに評価されるべきだと思っている。ただ、指摘した部分はそうした台本の意図そのものを壊してしまうのではないか、と(私は)考えたということだ。小森陽一他著『「ポスト真実」の世界をどう生きるか』を読んでいたら、歴史学的には史料的裏付けのない「江戸しぐさ」(傘をさして歩くときに、すれ違う人に当たらないように傾けた、等)がそのまま小学校高学年向けの「道徳」の教科書『私達の道徳』に載ってしまい、指摘を受けた文科省の担当官が「道徳の教科書は江戸しぐさの真偽を教えるものではない。…礼儀について考えてもらうのが趣旨だ」と回答したという記載があった。危機感を感じる。時代は動く。今、何が起ころうとしているのかに敏感であれ、と思う。)

 大宮高校『赤鬼』野田秀樹・作
 あらすじは紹介するまでもない。いろいろな劇団や演劇部が様々な工夫をしている。照明効果でスペースを切り取ったり、波を表現したり。舞台中央に2m四方ほどの山台(生だったが)をおき、小屋や洞窟、そして舟に見立てたのは成功していたのではないか。道具の出し入れで場面転換しようとするとスピード感は削がれてしまうし、煩雑な割に効果も上がらない。
 テキストレジは脚本解釈でもある。わりとすっきりとまとまっていたし、役者も熱演していたが、まだまだ絶望や祈り、狡猾さや愚劣さといった人間の根源に迫るには至らなかった。トンビは少しも「足りない」男のようには見えなかったし、「あの女」も村人から迫害され、世界に対する怒りや絶望を抱えているようには見えなかった。だが、壁に挑んでいった勇気は失って欲しくない。それだけの価値ある作品なのだから。

(私なりの「赤鬼」観は「2018年春季西部A地区演劇発表会」(2018.4)で述べた(赤鬼=まれびと説、あるいはアンパンマン説)。今回、その読み方についても紹介したが、絶対だとも思っていないし、押しつけることもしない。赤鬼の科白にI have a dreamというのがある。暗殺されたキング牧師が意識されているのは間違いないと思うのである。だからこそ、「あの女」は赤鬼の言葉が理解出来るようになったのである。つまり、「あの女」の絶望は赤鬼(人肉)を食ってしまったこと(のみ)にあるのではなく、人間が失ってはならないものを圧殺してしまったところにあるのだと思うのである。だが、そうしたものが一度でも存在したということは人間にとっての希望でもあると思うのだ。①で審査員も卒業と書いた。その気持ちには変化はないのだが、その分、今年は特に全霊をもって審査にあたったつもりである。このブログもそうした気持ちで書いた。この部分、後から。)


by yassall | 2018-10-11 15:32 | 高校演劇 | Trackback | Comments(0)