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2018年春季西部A地区演劇発表会

 4月29日、西部A地区春季演劇発表会の2日目に出かけてきた。28日の1日目には細田、新座、和国の3校の上演があったとのことだが、卒業生の公演と重なってしまい、行けなかった。2日目は朝霞、新座総合、朝霞西が上演した。新座柳瀬は急なことから上演を取りやめたとのことだ。どうしたことかと残念よりは心配が先にたったが、6月のコピスには出演できるとのことだった。

朝霞高校『赤鬼』野田秀樹・作
 「聖」と「俗」、あるいは「貴」と「賤」といったことを考えながら芝居を見ていた。
 『赤鬼』とは私が朝霞高校へ転勤となった年の3年生が卒業公演で演じていたのが最初の出会いである。3人しかいなかったし、中庭での道具もなしの上演だったが、いずれも力のある生徒たちで、1人で何役もこなしながら印象に残る芝居をしていた。台本も読んだ。「聖性」といった問題はかなり早いうちから考えにあったが、役づくりでも舞台づくりでもどうしてよいか検討もつかず、その後部員たちに提案することもなく終わった。どのように解釈し、どのように切り込んでいくかが課題だと思って来た。
 顧問のFさんは前からやりたがっていた。部員たちに提案したのは2度目だという。1度目はずいぶん前の代らしい。よくぞ部員たちが了承したものだと思う。このところ、朝霞はかなり難度の高い芝居に取り組んでいる。部員たちにしてみれば客席に受ける(=笑いがとれる)芝居をやりたがるところだろうが、たとえ高く固い壁に跳ね返されることがあったとしても、私はこうした芝居に真正面から取り組むことも高校演劇のひとつのあり方だと思っている。ああでもない、こうでもない、と思い悩む過程が貴重なのだ思っている。
 後で話す機会があったので、どのように脚本を理解し、解釈しようとしたのかをFさんに聞いてみた。Fさんの口からは「不寛容」ということばが発せられた。とんびとその妹の兄妹は村人たちからのけ者扱いにされている。そこへ異国の民らしき赤鬼(と呼ばれる男)が漂着する。兄妹(とくに妹)は赤鬼を村人たちからかばう。差別される者がさらに下位に位置する者を差別することで自らの境遇から抜けだそうとすることは通常にあり得ることだ。赤鬼が危害を及ぼす存在でないことを知ったことが大きいが、兄妹と赤鬼がなぜ接近できたのか、通じ合えたのかを考えることは大切な観点だ。「不寛容」を入り口とし、不寛容と必要以上の結束の強調(日本を批判する者は「反日」だ)が蔓延する現代を逆照射しようとすることはひとつの切り口である。
 『赤鬼』は人肉食を扱っている。極限的な飢餓にあって人肉食は許されるかどうか、人の肉を食って生き延びた者がその後どのようにして生きられるかは、重いが切実なテーマである。戦後文学の中でも武田泰淳の『ひかりごけ』や大岡昇平の『野火』がこの問題を扱っている。そうした飢餓状態の中での人肉食とは別に、古代や中世の戦闘集団の中で、敵の「力」を自分の内に取り入れることを目的とした人肉食がある。歴史の中では隠されているが、日本でも確かにあったという説を何かの本で読んだことがある。飢餓ではなく信仰(今日では迷信ということになるだろうが)が原因となる。野獣の世界でも共食いは見られるし、チンパンジーなどの類人猿の中には狩りを行うものもある。
 直接的な人肉食でなくとも、人間は他者の命(の全部あるいは一部)を奪いながら生きているというのが真実であるともいえる。自分一人の生のためである場合もあるだろうし、自分が所属する群れ(や国家)の存続や発展のためである場合もあるだろう。意識的な場合もあるし、無意識の場合もあるだろう。知っていて知らないふりをしている場合も多いことだろう。人間の業である。
 そこまで考えて『赤鬼』を振り返ってみる。赤鬼とされた男は確かによそ者であり、具体的には異国からの漂流民であるように見える。「でっかい船が見えた」という者がおり、水銀が兄妹と赤鬼を逃して小舟を出したのはその船に乗り込んで異国を見るためだという。
 実際に日本の海岸に自分たちと容姿が異なり、違う言葉をしゃべる異邦人が漂着したことはあるのだろう。だが、子細にみていくと、赤鬼はそうした漂着民とは異質であるように思われるのである。それは赤鬼の食べ物が花であることだ。赤鬼が花を食べて生きているとすれば、食料のことで人間と競合することはない。土地も資源も相互に争うことはあり得ないのだ。
 そればかりではない。赤鬼は自分を食って生きろ、と人間たちに言い放つのである。(この日の舞台では鬼の肉を食って長生きしたいという見物人に対しての科白になっているが、記憶では小舟の中で飢えに苦しむ同乗者に向かっても発言していたように覚えている。)私はそこに赤鬼の「聖性」をみるのである。野田は人間を超越した「聖性」の表象として赤鬼(まれびと)を描こうとしたのではないか、と考えるのである。
 赤鬼を食ったことを知った妹は村の岬から身を投げて自殺する。妹の自殺を重点に芝居づくりをしていけば人間に対する「絶望」がテーマになる。ところが芝居は兄のとんびのモノローグで終わる。「知恵」の足りないとんびは妹の「絶望」を理解できないというのである。とんびを重点にして芝居を解釈していったらどうなるのか?
 ドストエフスキーの『白痴』を想起している。[知恵」足らずのとんびは赤鬼とはまた違った意味で「聖性」の表象ではないのだろうか? そう考えると、そこには人間の「希望」が見えてくるような気がするのである。
 ※ブログを読んでくれたFさんから、小舟に乗り込んでからの赤鬼には自己犠牲にかかわるような科白はなかった、というメールがあった。私の記憶違いだったのだろう。ある思いが生まれると想念が勝手に膨らんでいくことがままある。いわゆる「深読み」のし過ぎには注意しなければならないが、テキストをきちんと読み込んだという前提のもとに、新しい解釈=切り口を発見していくことはあっていいと思っている。したがって自説を撤回することは今のところ必要ないと考えているが、この間のやりとりで水銀については新しい解釈が生まれてきた。ディスカッションの醍醐味である。テキストレジについての基本的な考え方についても教えてもらった。順当だったと思う。
  ※
 脚本解釈の問題から入ってしまった。3年生3人はよく演じていたと思う。(2年生1人もよくついていったが、まだまだ演技しようという意識が先にたって、役づくりまでには至っていない。上手くなっていくのはこの夏休みに苦しんでからだ。)3人とも1年生のときに招待してもらった試演会のときから見ていた。とんび役の生徒は早くに力をつけてきたが今回も難しい役をよくこなした。妹役の生徒は科白覚えが一番早いのだそうだ。そのせいかどうかは分からないが、これまでは一人芝居になってしまうことが多かった。今回はしっかり他の役者とからんでいた。一番の難役は「普通」のことばをしゃべれない赤鬼役だっただろう。科白を科白としてしゃべれないだけで相当の欲求不満があったはずである。よく耐え、演じきった。私が妹の「絶望」に重点があるのか、とんびの「希望」に重点があるのかに思い悩んだのは、皆それぞれが自分なりに役づくりにとりくみ、一定の到達点に達していたからだろうと言っておきたい。

新座総合技術高校『演劇部、始めました。』Kira・作
 部員が一人足らず、存続の危機に直面した演劇部が、内部分裂を乗り越えて文化祭公演を成功させ、新入部員を獲得するという演劇部物・学園物である。よくあるストーリーといってしまえばそれまでだが、練習をよくしてきたのは分かったし、間の作り方や、山場をどう作っていくかを会得すれば、もっと笑いもとれ、客を引き込んでいくことが出来るだろう。部員が大勢いて、楽しくやっているらしいのも見て取れた。
 感じたことを一ついえば、役の上の名前が分からなくなってしまったのだが、発声がまったく芝居がかっておらず(声が聞こえて来ない、という意味でなく)、なんだか普通の高校生が普通に教室でしゃべっていることばをそのまま舞台に乗せたような役者がいた。それがむしろ好ましく思えてきて面白くもあったし、新しい芝居のかたちの可能性を感じた。

朝霞西高校『朝日のような夕日をつれて 21世紀版』鴻上尚史・作
 朝霞西は何年か前にも『朝日のような夕日をつれて』を上演している。今回は21世紀バージョンであるという。以前の公演がなかなかよかったので、それが超えられるかどうかと思いながら見させてもらった。結論からいえば3年生男子5人の集大成ともいえる出来栄えに仕上がっていた。
 朝霞西の5人も1年生のうちからどこかで見覚えのある部員たちである。あのときのあの芝居に出ていた生徒だな、と思い出しながら見ていて、一人一人の成長ぶりを感じていた。あの頃はふとしたときに声が裏返りがちだったのに、今日はしっかり科白が出ているなとか、動きがとても自然になったなとかである。5人の息もしっかり合っていて、メリハリのある芝居運びが出来ていた。毎日の稽古を一緒に積み重ねていかなければこうは行かないものである。
 そういうわけでパフォーマンスはほぼ完成形といってよいと思ったし、鴻上の難解な科白もしっかり伝わって来た。ただ、芝居が胸に落ちてきたかというと、まだだった。まだだった、というのは、こちらの理解力の問題もあるから、回数を重ねて見れば分かるようになるかも知れないということもある。勢いで走りきってしまったことで、客の心に何かが引っかかる前に行きすぎてしまった、というようなこともあるかも知れない。だからといって、あまり思い入れたっぷりに科白を出されてもこの芝居は死んでしまうだろう。ここではパワーのようなものは確かに伝わって来たよ、とだけ言っておきたい。
   ※
 今回から打ち上げの宴席は遠慮するつもりでいたのだが、やさしいお誘いのことばをいただいて、つい出席してしまった。今年、定年を迎えたMさんの再任用先が地区外になってしまい、Sさんから「M先生も見えるというので」ということばを聞いて、席を共にしたいという気持ちがわき起こったことも理由のひとつである。(出席の理由を述べるのにSさんを引き合いに出したのはそういう経過からであって、自分の失敗や悪事の原因をなすりつけるためではない。むしろSさんの先輩愛をたたえたつもりだったので、その点悪しからず。)
 出席すればやはり楽しかったし、顧問の先生とつっこんだ話が出来たから朝霞の項ような長広舌をふるうことにもなったのである。だが、やはり今となると反省している。昔と比べると出席者が半減している。やはり打ち上げは現役顧問の方々が互いの労苦をねぎらったり、運営上の反省をしたり、各校の劇を批評し合ったりする場でなければならない。自分がそうした中で鍛えられてきたという意識があるから、やはりそうした場として復活させてもらいたいのである。
 もし、我々がいることでよけいな気遣いをさせてしまったり、気詰まりな思いをさせてしまったりしているとすれば、(きっとそんことを面と向かっていう人はいないだろうが)、自分から察して身を引かなくてはならなかったと思うのである。もし、その上で、たまには昔語りでも聞きたい、そのために別の席を設けてくれるとでもいうなら、ありがたく出席させてもらうということでいいではないか?  
 かつて「亡霊○号」を自称したのはKMさんだった。もちろん私たちは「亡霊」を歓待したが、自分もいつしか「亡霊」なりかかっているとしたら、そろそろ「通りすがり」の位置ぐらいまでポジションを移すべきときがきたのだと思うのである。さあ、宣言したぞ!



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by yassall | 2018-04-30 20:20 | 高校演劇 | Comments(0)

東京ノ温度第7回公演『しゃーろきあん』

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 28日、卒業生のみかわやこと葉山美侑から出演情報があったので東京ノ温度第7回公演『しゃーろきあん』を見てきた。小屋は新大久保ホボホボ、作・演出は主宰者である川島広輝である。
 葉山と東京ノ温度との関わりは2017年1月の第3回公演からはじまり、今回で3回目である。小劇場での公演ながら着実に回を重ねていることは立派だと思うし、そうした中で葉山が使われ続けていることはありがたいことだと思う。
 葉山が演じる主人公・秋山珠理奈はシャーロック・ホームズに深いあこがれを持ちながら、実は浮気調査専門の私立探偵事務所につとめている。まだ見習いであるのに、求人情報をみて面接にやってきた和田(和田さん→ワトソン)とともに、所長に無断で猫のポシェット連続盗難事件にとりくみ、そこに浮気調査依頼を装った別れさせ屋とのドタバタがからむといった内容である。
 東京ノ温度の芝居は「ワンシチュエーションコメディ」というコンセプトにある通り、尖ったところのない、安心して見ていられる芝居をめざしていると理解している。第3回はAI社会の問題、第5回は現実世界とバーチャル空間の接点における死者と生者の再会といった、未来的あるいは宇宙的なテーマを扱っていた。
 それらに比して、今回は不倫やスキャンダルといった、いっそう日常的な関心をもとに芝居が組み立てられている。しかし、それだけに人間の心に生まれる猜疑心や誤解から始まった怨恨の無意味さが、軽いタッチの中にもチクリと胸に刺さってくるしかけになっている。SNSや加熱する週刊誌報道、ちょっとした時事ネタなども盛り込まれていて、確実に客をつかみ、笑いをとることに成功している。
 それよりも何よりも、題名にある通りのシャーロキアンぶりに関心させられる。よほど読み込まない限り、推理小説のかなりの愛好者でも知識にないような、さまざまな作品の断片が次から次へと引用される。そして東京ノ温度らしく、それらの断片が人生を送るにあたっての警句や人々の苦悩を解消させる癒やしになっているのである。マニアックであるがそれだけに終わらない幅の厚みが感じられる。
 川島広輝は劇団マカリスターに所属する俳優・劇作家・演出家で、東京ノ温度を旗揚げしたのは2016年だそうだ。劇団員としての活動は続けながら、やはり自分の思うような芝居づくりをしたいという欲求があるのだろう。ただ、若い俳優たちに舞台に立つチャンスを与えようとしているようにも見える。思い込みかも知れないが、実質的にそうなっているように思われる。そんな中、葉山は連続して主役級の役所を与えられている。その信頼に応えてか、葉山の演技も安定感が増し、他の若い俳優たちをリード出来ていたと思う。 




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by yassall | 2018-04-30 16:51 | 日誌 | Comments(0)

精華高校・新座柳瀬高校演劇部東京合同公演「愛もない青春もない旅に出る」

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 14日、精華高校演劇・新座柳瀬高校演劇部合同東京公演「愛もない青春もない旅に出る」を見にシアター風姿花伝まで出かけてきた。公演日程のうち、13日は夜の部のみ、14日には昼の部があったのでそこに予約を入れたのだが、この回にはポストパフォーマンストークがあり、二つの高校が合同公演を打つにいたったいきさつや、「愛もない青春もない旅に出る」という不思議なタイトルが生まれるにいたった経過の説明を聞くことが出来た。詳しくは省略するが、精華高校が「旅する」演劇部であること、新座柳瀬のtomoさんがその精華高校の芝居に惚れ込み、合同公演を打つことを目標としたこと、という運びであるらしい。

 大阪 精華高校『大阪、ミナミの高校生2』作・オノマリコと精華高校演劇部
 tomoさんから噂を聞いていたので、どんな芝居をみせてくれるのだろうと楽しみに見た。最初に部員の一人がホワイトボードを使って「今日の芝居の主題は恋あるいは恋愛だ」と口上を述べる。ここからして、通常の芝居作りとは一線が画されようとしている。
 トークショーには作者のオノマリコ氏にも出席していて、劇の成り立ちについて解説してくれた。反省文の書き方をめぐって女子高校生と担任教師とが日を変えて断続的にやりとりする、冒頭にも、またその間隙を縫うようにして男女の部員たちによるモノローグが挿入されていく、というような構成なのだが、部員たちのセリフのほとんどは各人たちが日ごろの思いや体験にもとづいて自分たちで考えて持ち寄ったものだというのである。
 テーマとされた「恋あるいは恋愛」はあらかじめ設定されたものであるのだろう。恋愛を深めていけばどうしても性の問題に突き当たらざるを得ない。「痴漢も冤罪痴漢も女性専用列車もなくなればいい。男とか女とか(性差が)なくなればいい。…ずっとそう思ってきた。でも、恋をすると違った。」(不正確な箇所あり)というようなセリフと出会うとドキッとさせられる。「性」を否定してしまいたい気持ち」というのはむしろ自らの「性」と強く向き合わざるを得ない年代を迎えたということだろう。その痛々しいまでのとまどい、怒り、おののきが伝わってくる。
 だが、そんなふうに高校生たちの裸のすがたを描き出して見せたことより、ドラマの中にモノローグを差し挟んでいく、というよりモノローグそのもので芝居を構成していこうとする手法に感心させられた。
 しばしば芝居を中断させ、私的なモノローグやアジテーションを挿入していったのは寺山修司である。その寺山芝居について高取英は次のように書いている(『寺山修司』平凡社新書2006)。

 劇を中断し、現実的なセリフによって、「一千万のドラマ」に注意をうながすのは、虚構に耽溺し、物語が終われば拍手をし、現実に戻るような観客と舞台とのなれあいの境界に寺山修司が、がまんできなかったからである。

 そして、寺山がよく「俺は、劇場で行われたことを、拍手で終わりにするのではなく、観客それぞれの現実生活に持ち帰ってもらいたいのだよ」といっていたことを紹介している。
 その寺山とも共通するような演劇なるものへの挑戦、観客を虚構の世界にいざない、幕切れとともに完結させる、というのとはまったく異なった演劇への模索を読み取ったのだ。かといって差し挟まれたモノローグが本当に現実そのものであるのかどうか、虚実ないまぜ、あるいはすれすれのところで演劇空間を成立させようとのこころみであったとも思う。役者たちがときに滑舌が悪かったり、素に戻ったごとくに照れくさそうにしているのも、もしかしたらリアルさの演出であったかも知れないと、一度は引いてみざるを得ないような。つまり、観客もただ舞台に身をゆだねていればいいのではなく、投げつけられるセリフに緊張を強いられている、ということだ。
 校則には「学校内でSEXをしてはいけない」とは確かに書いていない。それは担任教師がいうように「常識」であるからというより、触れてはいけない禁制であるからなのだろう。おのれの「性」に直面し、身もだえしている高校生にとって、その禁制は(keepoutの規制線のように)スカスカの虚構である。あえてその禁制を破ってみることと、規制線の内側にとどまっていることと、どちらが高校生が演じる高校演劇といえるのだろうか? 
 精華高校がいつもこのような芝居作りをしているのかどうかは知らない。ともかくも、上記の問題も含めて、いわゆる高校演劇あるいは演劇そのものの枠を破ってみせようという実験作だったと思う。

 埼玉 新座柳瀬高校『Merry-Go-Round!』作・稲葉智己
 tomoさんとしては精華高校とがっぷり四つに組んでみたいというのが目標の第一だったのだろう。それに相応しく新作(だよね?)で臨んできたし、リーフにある通り、「何かを伝えたいとか、何かを訴えたいというよりも、『こんな面白いお話しがありますよ』と物語りたい」とのことば通りの芝居作りだったし、「新座柳瀬の芝居の『型』」ということばも出てきたが、今あるものをすべて出してしまおう、というところだったのではないか? たぶん部員総出演というところも含めて、その意気込みやよしとしたいが、率直にいえば脚本の面でも、芝居の面でも、少々作り込み不足のものを感じた。
 地中海のとある島に君臨する偽貴族がいて、その貴族を利用している全権総督がいる、しかし偽貴族は引退を希望しており、後継者を探そうとするところから騒動が持ち上がる…という設定なのだが、その設定がツカミのところでよく伝わって来ない。複雑な事柄を説明的に述べられても困るのだが、偽貴族がいることで全権総督にどのようなメリットがあるのか、偽貴族の側にはどのような見返りがあるのか、引退したがっている理由等々が謎のままなのである。たぶん、何か大事なセリフを聞き逃してしまったのだろうとは思うが、そもそものきっかけのところで躓いてしまった。ラストのどんでん返しもよく出来ているといえば出来ているのだが、まんまと3、40万ドルをせしめて島を逃亡したアンジーが後継者の席にすわるまでのルディーとレベッカの決断、アンジーが心を決めるまでの過程ももう一言か二言でいいから欲しいところだった。
 オスカーとエディーが最初は欲得づくでアンジーに近づきながら、いつしか虜にされていく(ですよね?)過程も、アンジー側が淡泊すぎたことばかりでなく、オスカーとエディーの側の心理変化も不足していたのではないか? マーガレットとエリーが大金持ちにありがちな傲慢さゆえのおしおきを受けるというのはお約束通りとして、確か二人とも最初はオスカーを追っていたはずなのに、エリーがいつのまにかエディーにぞっこんになってしまうのはどのようなきっかけからだったか、どうも印象に残っていない。
 さて、tomoさんとしてはもう一つのねらいがあったのではないだろうか? それは卒業生3人の集大成とともに、この芝居で主役を交代させようということではないかとにらんだ。ただ、素材感は私も認めるところだが、表情の豊かさとか、セリフの切れとか、まだまだ鍛えられていないと思った。さわやかさだけを頼りにしてはいつまでも持つものではない。他の役者たちも含め、これからどのように育てていくか、楽しみにしている。どうも身内意識があるせいか、今回は辛口に終始してしまったようだが、最後まで楽しく見られたことはいうまでもない。
  ☆
 往路は西武池袋線椎名町駅から歩き、帰路はnatsuさんといっしょに下落合駅まで歩き、西武新宿線で新宿へ出た。もちろん二人で一献傾けようという算段をしていたのだ。natsuさんの長旅の疲れが気になったが、二人だけということもあり、酒もすすみ、突っ込んだ話まですることが出来たので、楽しくも深いひとときだった。
 さて、この劇評はまたしてもnatsuさんに先を越されてしまった(「18→81」)。natsuさんには昨日の酒が残らなかったのだろうか? 本当はnatsuさんのブログでほぼ言い尽くされているようなものなのだが、昨夜の約束もあるので後出しながらアップする。


 



 

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by yassall | 2018-03-15 20:06 | 高校演劇 | Comments(2)

トイボ クリスマス公演17

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 16日、葉山美侑ことみかわやから出演情報があったので池袋・シアターグリーンまで出かけてきた。案内には演劇集団TOY’sBOX第17回公演「サンタクロースが歌ってくれた」(脚本・成井豊、演出・青瀬博樹)とある。TOY’sBOXでトイボということらしい。劇団には制作として乙部あきなことレッドが参加している。葉山は今回はJJプロモーションからの客演ということのようだ。
 劇団の立ち上げは2013年とのこと。若々しく、エネルギッシュな芝居運びだったが、しっかり作り込まれていて、浮ついたところは少しもなかった。小技も達者だった。オリジナルは未見だが、十分に楽しめる舞台だった。
 写真は終演後の特別企画である撮影タイムのもの。そんなアフター企画があるのは知らなかったが、開場前に街のスナップでも撮ろうと、たまたまD750を持って出ていたのだった。
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 葉山はミツ役。初めてのメイド姿だと言っていた。明日12/17まで。本日は満席だったが、千秋楽には少し空きがあるとのことだ。


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by yassall | 2017-12-16 20:28 | 日誌 | Comments(0)

ゲッコーパレード本拠地公演『チロルの秋』

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 12月9日、ゲッコーパレード本拠地公演を見に蕨まで出かけてきた。演目は岸田國士『チロルの秋』であるが、チラシにある通り、タイトルは絵画上演no.1「とにかく絵の具を大量にかけるでしょう。そしたらあなたは目撃する。それが何であったのかを。あなたと私が昔から、必ず線を引いてきたって事も。」なのである。
 黒田瑞仁の「代表からのご挨拶」によると、「これまで〈パレードのように〉と意識して数多くのジャンルの芸術家と共同制作」を行ってきたが、所属メンバーからしてどうしても「演劇公演」の形をとることになった、しかし現代美術家の柴田彩芳が新メンバーに加わったことで「作り出すものの形として「演劇公演」だけでなく「美術作品」という可能性も手に入れた」ということである。
 そこで「とにかく絵の具を大量にかけるでしょう。」ということになる訳なのだが、率直に言って、あまり成功しているとは今回はいえないように感じた。大小の脚立や椅子、あるいは広げられ、吊された布、ホウキなどが、絵の具をかけられたことによって、別な何ものかとして立ち現れてきたかというとそうはならなかった。ある美的操作によって統一されたというわけでもなく、かといって混沌というのとも違っていた。役者たちはそれらのオブジェの中で芝居を演じていくわけだが、役者が動くことによって「美術作品」が生命感を帯びてくるとか、役者側からみてその演技に新しい意味を添えていくというふうにも見えなかった。キャンバス地のような役者の衣装にも彩色がほどこされ、それはそれで面白いこころみではあったが、舞台との一体が実現されたというところまでは達していなかったように思った。総じていえば「美術作品」としても「舞台装置」としても実験的な段階で、もし続けていくのなら、コラボとして成功するのはこれからだろう。
 岸田國士については「岸田國士戯曲賞」とか、岸田今日子の父であるとかの知識しかなく、『チロルの秋』についても今回の公演にあたって「青空文庫」をナナメ読みした程度である。したがって、こちらの方も分かったようなことは書けないのだが、芝居の方は面白いと思った。
 1924年の発表で、最初期の作品であるとのことだが、どこかにボヘミアン志向があるのだろうか? チロルのホテルに長逗留していた日本人アマノが、母親が日本人で、明日には旅立つというステラと愛を語る、といった内容である。ところが冒頭のステラとホテルの経営者であるエルザの会話の部分があたかもプレイバックするかのように途中まですすんでは何回も繰り返され、ときどき陰科白が入るものの、アマノがなかなか登場しないのである。
 後半に入って、アマノは激しい物音とともに、駆け込むようにして登場する。遅れた非礼をわびる科白は原作の通りだが、どこか生々しく、客の方は役者本人の遅刻の謝罪をしているかのように一瞬錯覚する。ともかくも生身のアマノの登場によって、ここからはリアルさが追求されていくのかと思ってしまうし、実際にステラとアマノとの間には緊張感のある科白のやりとりが繰り広げられていくのだが、それらの大部分は隣室に姿を消して障子越しに聞こえてくるという演出になっている。それらのやりとりが重視されていないというより、どこか遠いものとして伝えようとしたのかも知れない。
 どうやら「空想の遊戯」をキーワードにしているのである。原作も愛の不可能性、あるいは愛の挫折をテーマにしているらしいから、決して間違った解釈ではない。むしろ恋愛が「空想の遊戯」であることを強調し、アマノの登場はその断絶でしかあり得ない、あるいは断絶によってしか恋愛はかたちを持ち得ないことを表現してみせようとした演出なのだと思った。
 ステラは崎田ゆかりが演じた。今日の芝居は崎田の芝居だったといってよいと思う。表情豊かな中にも、己れの運命を悟った、凛としたものを感じた。いろいろな役柄をこなせる役者だと思った。エルザをつとめた河原舞は今回は脇を固めた。アマノの上池健太はまだ弱さがあるように感じた。
 ヨージこと岡田萌の姿がないの心配だった。もしこのまま一座から離れるようなことになったら、これまでのように毎回公演を見に行くことになるかどうかは分からない。それでも若い才能がさまざまなチャレンジを続けていくことを応援する気持ちに変わりはない。


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by yassall | 2017-12-10 04:08 | 日誌 | Comments(0)

2017年埼玉高校演劇中央発表会

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 11月18・19日、埼玉県高等学校演劇中央発表会が開催された。今年も写真記録の係を依頼された。今年はメインのIさんがフルタイムでいられるというので、半ば趣味の延長という気楽さで引き受けた。何にしても2人というのは何かのときにはカバーし合えるという点で心強い。Iさんもそう思ってくれたならうれしいことだ。
 趣味の延長というのは、具体的には新しい機材を試してみたかったということである。D750はフルサイズであることに加えてハイライト測光という測光方式が選択できる。AFも-3レベルの暗所に対応し、f8のレンズでも合焦可能なフォーカスポイントを備えている。購入の動機は35mmフイルム時代のレンズが使えるというのが最大の決め手であったが、舞台撮影に威力を発揮するかもというのも大きな要因であった。
 スポットライトに照らされた人物を撮るとき、もっとも懸念されるのは白飛びである。その点、ハイライト測光は確かに効果があると感じた。マイナス側よりプラス側に露出補正が必要なケースが多かったほどである。ただ、ミラーレスの場合は撮影前にモニターで補正の適不適をある程度まで確認することが可能だが、一眼レフの場合は勘に頼りながら、また撮影後の画像を確認しながら値を決めていかなくてはならない。どうしても試し撮りの枚数が増える。
 ファイルをパソコンに落とし、一度だけ画像チェックをした段階だからまだ何ともいえないが、ピントについてはm4/3のG8と比較して飛躍的に向上しているかどうかは微妙である。舞台の場合、サスにしろシーリングにしろ、トップからの光が多い。そのためか、どうしても顔や首回りに影が出てしまう。それを避けるためには露出を開けることになるから今度はまた白飛びが心配になる。最終的には枚数をかせいでおくしかなさそうだが、いずれにしてももっと使い込んでおくことが大事だろう。重たいカメラだから三脚の使い方あるいは選択も考え直さなくてはならないかも知れない。
   ※
 さて、カメラの話になると際限もなくなってしまうが、審査の結果は下記のようであった。

 最優秀賞   越谷南高校「宵待草」
 優秀賞一席  秩父農工科学高校「Solid Black Marigold」    (以上は関東大会に推薦)
 優秀賞二席  芸術総合高校「朝がある」
 創作脚本賞  越谷南高校「宵待草」斑鳩里志・作

 最優秀賞・優秀賞一席とも顧問創作である。今年は秩父農工科学高校の芝居に注目させられた。高校生が生徒会室に集まってきては生徒会活動にあたったり、文化祭準備のためにマリーゴールドの造花を作ったりしている。生徒会室を取り囲んでいるのは鉄筋がむき出しになったコンクリート建築の廃墟のようである。そこへ転入生がやってくるのだが、その転入生は生徒会メンバーの多くが卒業した小学校で、かつて皆がイジメの対象にした生徒だった、というのが物語の発端である。
 イジメを取り上げているとはいえ、その場でイジメが展開されるのではなく、過去のイジメや知らんぷりを反省して謝罪し合っていくという逆ベクトルになっている。暴力の連鎖をさかのぼっていくと「見ていたのに助けようとしなかった」から「知ろうとしなかった」ことの罪悪にまでたどりつく。
 「サイコパス」の問題が出てくるところが少しわかりにくかったが、「共感」の欠如というあたりが焦点になるのだろうか? そのあたりまで突き詰めたところで、一転してテロの問題が提起される。ここで舞台装置としての廃墟の意味も明らかにされる。具体的にはシリア空爆の光景である。カナトの妄想癖というのは言葉を変えれば想像力であるのだろう。カナトは想像力で世界とつながったのである。
 マリーゴールドの花言葉は「友愛」と「絶望」なのだそうである。ラストは爆撃機の飛来音らしき音響でしめくくりとなるが、「絶望」的な状況ばかりが提示されたのだとは思われない。「絶望」に突き当たったあと、なお「友愛」の道の探求を伝えようとしたドラマであるとみた。「絶望」の底まで落ち込むことで、はじめて「希望」を切実に希求することがあるように。
 今年夏の宮城大会を振り返った小池さんの文章に、「誰も掴みだしていないようなココロノカケラ」を舞台化していきたい、というような一節があった。昨年の芝居で秩父農工がめざしたものが何であったか少しばかり理解できたような気がしたが、私としては今年の方が作品として優れていると思われた。直前でひねりの入る変化球ではなく、ストレートにメッセージが伝わってきたように思えた。
  ※
 越谷南高校の芝居は審査結果の発表の以前から周囲の人たちの間で評価が高かった。ただ、どうしてか私は芝居に入っていけなかった。理由としては幕開け早々にちょっとした撮影上のトラブルがあったことがあげられるかも知れない。ツカミのところをツカミ損なってしまった。
 だが、そればかりではないように思う。様々な人間模様が延々と繰り広げられていくのだが、いったい何を伝えようとし、どこへ向かって時間が進行しているのか、そのかけらさえも心に引っかかってこないのだ。
 大正という時代の雰囲気を表現してみたかった、というならそれでもいい。激動の昭和の前夜、日本の近代史の中でも特異な位置を占める大正に心引かれる気持ちも理解できないわけではない。だが、もともと「大正浪漫」などというのはあまり信用していないが、どこか頽廃的なまでの爛熟を表現するには役者があまりに若すぎる。フリーラブを唱えながら先へ進もうとするとたちまち封建的な家制度の壁に突き当たらざるを得なかった挫折が表現されているか、といえばそれは無理だっただろう。やがて日本を飛び出していった東郷青児、アナキスト大杉栄らが人物群像として配され、豆腐屋に「シベリヤ出兵以来、どうにも不景気で」というような台詞をしゃべらせることでもう一つの大正史が描かれそうにもなったが、芝居を立体的にするまでには至らなかったように思う。
 以上のようなものいいになってしまうのは目下のところ私が次のような「大正」観に大きく影響されているからかも知れない。実際、急速な資本主義の発達の中で労働問題は深刻化していったし、昭和の戦争の時代に兵士として動員されていった圧倒的多数は大正生まれであったのだろう。「大正浪漫」「大正デモクラシー」は歴史の一面でしかない。

「大正の文化を支配した普遍主義が、西洋市民社会の日本社会への内面化であるという幻想を知識階級に抱かせたときから、明治近代国家が帝国主義国家に変質し、まずアジアの中で急速に孤立の度を深めていったのは、皮肉な運命といわねばならない。」(桶谷秀昭『夏目漱石論』)
  ※
 新座柳瀬高校の「Lonely My Sweet Rose」は選外となってしまったが、深い井戸から水を汲み上げてくるような、あの切ないまでのリリシズムは確かに会場に伝わったと思う。
  ※
 所沢北高校の「のぞく・はいる・ほる」には、実は心配と期待とが相半ばしていた。心配というのは地区発表会で私たちが目の当たりにした通りの芝居が中央発表会で再現できるだろうかだった。(さらなるレベルアップを目標にしてもらいたかったのはもちろんだが。)どうしても守りに入ってしまうことで、台詞のやりとりでは微妙に間の狂いがあったとは思う。衣装を夏物から秋物(一部不統一)に変えてしまったから、何となく軽快さが失われてしまった(あわせてそれぞれが自分を守る鎧を持ってしまった)ようにも感じた。だが、総体としては上出来だったと思っている。
 地区発表会での劇評にも書いたが、この重いテーマを正面から受け止め、自分たちなりに脚本を読み込み、理解しようとし、舞台化しようとしていた。頭だけ(?)で演技しようとしているというような言われ方をするかも知れないが、それを言ったら頭を使わずに演技しようとしていた学校が他にあったのかと問いたいし、舞台化といったとき、彼らが身体表現の重要性に気づかず、おろそかにしていたとは思えないのである。(Eが声を張りすぎてしまったために怒りの中にある嘆きを表現しきれなかったというようなことは確かにある。頭ではEの心情を理解できていても、心が作れていなかったということかも知れない。それでもこの台本にとりくんだ意気込みは評価してやってよいと思うのである。)
  ※
 こうして振り返ってみると、確かに私の芝居の見方はメッセージ性に偏重しているのかも知れない。(本当は耽美的な世界も好きだし、不条理や怪奇、純粋なアクションやコメディに対する評価がないわけではないのだが。ただ、それらを見せてくれるとしたらプロでしかないだろう。)その意味では私は観劇者としては初歩の初歩なのだと思う。だが、大多数の観客はその芝居が何を自分に伝えてくれるのか、どのように自分を変えてくれるのかを待っているのではないだろうか? であるなら私は玄人であろうとは思わない。





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by yassall | 2017-11-21 01:32 | 高校演劇 | Comments(2)

島薗邸で「リンドバーグたちの飛行」ゲッコーパレード出張公演

 14日、ゲッコーパレード出張公演に出かけて来た。
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 島薗邸は国登録有形文化財。生化学者である島薗順雄(1906-92)の自邸として1932年に建てられた。設計は矢部又吉(1888-1951)。表の洋館に和館がつながる和洋併置の住宅。たてもの応援団の管理の下、月2回だけ一般公開されている。別にイベント等にも貸し出されている。文京区千駄木3-3-3
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 「リンドバーグたちの飛行」は昨年12月にゲッコーパレード本拠地公演vol.5として上演された。建築内の各部屋を移動しながら、従ってそのつど客を誘導しながらの公演であるので、1公演あたりの観客数を10人程度に限定している。そんな小規模な公演ではあったが、演劇誌『悲劇喜劇』の2016年の演劇シーンを総括した対談でとりあげられたりしたらしい(『悲劇喜劇』2017年3月号、早川書房)。
 そんなことがあってか、出張公演と銘打って今回の島薗邸公演となった。チラシには「家を渉る劇」なるフレーズとともに移動型の連続プロジェクトとの宣言があるから、今回だけでは終わらないのかも知れない。
 戯曲については以前(2016.12.20)に書いたので繰り返さない。2回目の観劇になるのに却って新鮮に感じられたのは会場(小屋)のためだけではあるまい。会場(舞台)が変わったのだから演出も多少とも変わっているが、それ以上に役者たちの進化を感じた。
 出演は河原舞、崎田ゆかりは変更なく、渡辺恒に変わって林純平が加わった。飛行服を着た河原舞はどこか少年性をただよわせ、もしかすると大西洋横断に踏み切ったリンドバーグもまた少年の無謀さと野心の持ち主であったのではないかと思わせた。崎田ゆかりの声は芝居をおしすすめる力、立ち上がらせる力があり、林純平にはやわらかさがあった。
 吹雪の場でのピアノ演奏は今回も本間志穂。前回の空気が抜けていくような古オルガンもよかったが、今回のピアノの1音1音が鮮明で転がるように変転する音の連続打も作品にはふさわしかったかも知れない。
 今回も観客を屋外へと引き連れての終章だった。前回は蕨市の平日の住宅街ということでほとんど人通りもない中であったが、土曜日でしかも千駄木祭の最中ということで通行人の反応も芝居に織り込まれた。ハプニング劇は60・70年代の手法かも知れないが、当時のような気負いがない分、驚きは自然だった。
 
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 次回は本拠地公演。
  テキスト:岸田國士『チロルの秋』
  12月8-18日
  旧加藤家住宅
  構成・美術:柴田彩芳  演出:黒田瑞仁
  出演:崎田ゆかり、河原舞、黒田瑞仁、岡田萌

おっ!岡田ことヨージも久しぶりに舞台に乗るのか、これは見逃せないなあ。


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by yassall | 2017-10-15 01:01 | 日誌 | Comments(0)

2017秋の高校演劇④大宮地区発表会

 大宮地区の各校について感想を述べる。1年生が主体の若いチームが多かったので、これからの劇づくりに参考になりそうなことを話させてもらった。ベテランの人にはお耳汚しかも知れない。

上尾高校「ミス・ダンデライオン」成井豊・作
 2年生5人、1年生7人という安定した力を発揮できそうなチーム。顧問は西部A地区でもご一緒したKさんである。演目の選び方にしても、出演人数にしても、ともかく皆で演劇を楽しもうという姿勢がみえる。
 科白はしっかり伝わって来た。ことばを大切にしている姿勢がうかがえる。場面場面のやりとりもしっかりしており、感情も乗せられていた。
 芝居のテンポも作られていたが、芝居を進行させるためであることは理解できるものの、語気が強すぎるところが多かった。強い感情を強い声で表現しようとばかりすると芝居が薄っぺらになってしまうものだ。
 客は役者の顔をみたいもの、声を聞きたいものとはいえ、正面を向きっぱなしで会話として成立していないところもあった。くすぐりの呼吸なども覚えていって欲しいところだ。
 キャラメルボックスのクロノスもの(タイムマシンもの)では一番上出来の作品だと思う。みな好人物ばかりで、劇中に人間的な対立はない。最大の対立は人間対時間なのであろう。ハッピーエンドの向こうに、人間の根源的な悲しみを見るのは私だけだろうか?

桶川高校「ハッピーエンドには優しい嘘を添えて」ひよこ大福・作
 不思議な台本である。たった1人のテロリストによって壊滅した世界、人々は復讐の連鎖の中にあり、生きる目的を失っている。絶望の中で一筋の光明を見いだそうとしている。
 描き出したい世界があるのだろうが、描き切れなかった。まず、それらしい舞台美術を作り上げなければならなかったが、装置も衣装もきれい過ぎた。ドアなどはとてもしっかり作られており、室内の調度類もレイアウト良く並べられている。だが、犯罪者たちの町で身の置き所とする砦あるいは隠れ家というより、地方から進学してきたそれなりに裕福な大学生が借りたワンルームマンションという風情だった。
 昔、「身体が嘘をついている」というような批評のされ方をよくした。科白回し自体は男のニヒルさや、少女の世界に対する憎悪、運び屋の斜にかまえた感じは出ているのだが、身体に現れていないからよけいに嘘っぽく見えてしまうのである。眼をさましたとき、自分が睡眠薬を盛られたことに気づいたときの反応はそんなものだろうか? と例をあげたが、そこは理解してもらえたように思う。

大宮商業高校「犯人(ホシ)に願いを★」武庫次元・作
 警察署内に女性に対する犯罪を専門にあつかう浜崎レディースを創設するという物語。あれこれ難しいことを考えずに、いかに楽しみ、楽しませる芝居ではないかと思った。
 リアルさよりはオシャレ感を出した方がよいと漠然と考えていたが、慣れないヒールを履いて、それなりに頑張っていた。ただ統一感は今一つで、上司とされた石原こそスーツで決めて欲しかったし、他の署員たちはもっとカラフルでもよいと思った。
 芝居の方はまだまだ台本を追いかけている段階だと思った。客は芝居には台本があるのは知っている。だが、役者たちがただ順番通りに台本に書かれた科白をしゃべっているだけ、と見えた途端に引いてしまうものだ。
 舞台の上では一つの時間が流れていて欲しい。それは現実の(リアルな)時間と隔たったものではあるまい。例えばラストで、電話がかかってきて本格的な捜査が始まろうという場面で、事件の概要をつかむための時間はあんなに短くてよかったのか、というようなところを再点検してもらいたい。
 一人一人は熱演しているし、船越の飄々とした感じなどには惹かれるものがあるのだが、ライバル同士だという哀川と間などの対立軸なども生かされていない。そのあたりの勘所がつかめたらきっと伸びていくだろう。まずは芝居が好きになることだ。

伊奈学園総合高校「破稿 銀河鉄道の夜」水野陽子・作
 初見だがいい台本を選んだと思った。題名には「銀河鉄道」とあるが宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」をなぞったものではない。すでに3年生で演劇部を引退し、受験の準備をしなければならないカナエであるが、1・2年生が大会の打ち合わせで不在の部室で、今は亡き友であるトウコと会話をするという内容である。
 受け取った台本に、元々は関西弁で書かれていたが標準語に改めた、との断り書きがある。科白の端々や年月日などから背景には阪神淡路大震災があるようだ。トウコと二人で読み合わせをしている台本「想稿・銀河鉄道の夜」(北村想)は震災のために春の発表会が中止となり、上演されずじまいとなったときのものらしい。トウコの死が震災と関連があるのかどうかは不明だが、それ以上に深入りされていなのでそれ抜きでも成立可能な芝居であるかも知れない。
 ※実は最初のうち、私は背景として阪神淡路大震災があるのに気づかず、相方のFさんに指摘されてそれと知れた。それくらい前面に出されてはいないが、きっと関西の人々は「地震」という一言や年月日からすぐにピンと来るのだろう。
 3.11のあと、私たちは自分の生き方はこのままでいいのか、日本はこのままでいいのか、という深刻な問いを投げつけられた。震災のためか、友の死のためかは判然としないが、カナエも自分の生き方あり方はこのままでいいのか、という問いを突きつけられたようだ。単に受験勉強から逃げているのではなく、停滞していたり、ましてや逆行しているのでもないのだろう。
 そんなカナエにトウコは語りかけ、自分を取り戻すための手助けをし、やがて銀河鉄道に乗って去っていく。冒頭に述べたように宮沢賢治の作品をなぞったものではないが、一時を死者と共に過ごすという点で作品の核心をつかんでいると思った。
 芝居の方は演技エリアを広く取りすぎたためか、単調になるまいとの工夫からだとは思うが不自然な動きが目立ち、やはり科白と身体とがバラバラだった。距離感のとり方などをつかんでいくと芝居も向上していくだろう。台本に真摯にとりくんでいることは伝わってきたから。

上尾南高校「海がはじまる」曾我部マコト・作
 客電が落ちると同時に波音とウミネコの鳴き声が聞こえてくる。それだけで客の期待感を高めてくれる。なかなか力のある学校だと思った。
 目線・距離感・声量なども正確だ。遠く沖合を見つめている目と隣にいる級友を見つめる目とはきちんと区別がついたし、立ったまま話しかけているときと隣のイスに腰かけているときの声量も使い分けている。前の学校では演技エリアを広く取りすぎないようにとアドバイスしたばかりだが、4人で舞台いっぱいを使っても不自然でなく、3対1、2対2の関係をきちんと作り出している。無対象演技も出来ている。
 舞台装置(具体的には来賓用のイス)がもの足りなかったのと、受けの演技の崩れ、バランスの悪いところがあったことで点数を下げたが、稽古もしっかり積んで来たことは見てとれた。
 ラストは地明かりを消してホリのみとし、4人のシルエットを見せた。きれいだったし、この瞬間が記憶として心の中に長く残っていくことを暗示させたが、表情をみせたままのドン切りでも良かったのではないかと思った。

大宮開成高校「夏芙蓉」越智優・作
 パンフに学年が記載がなかったのであとで聞くと、2年生が1人いて今回はスタッフに回った、昨年は出場せず、今年は1年生のみのキャストで臨んだとのことである。いうなれば再スタートの開成高校が選んだ台本は夏芙蓉。しかも、4人のうち2人は男子というキャスティングである。
 しっかりした台本に取り組むのはいいとして、いったいどうなることかと心配だったが、男子の1人のキャラクターに助けられてあやうく成立したような、しないような……。
 だが、声量はバラバラだし、立ってはポケットに手を突っ込んだまま、坐っては中心となる千鶴と舞子が向かい合ったのはいいがずっと横向きのままという、たぶん本人たちとしてもほろ苦い出発だったのではないか。それでも、ともかくも一本の芝居を作り上げたという充実感、スポットライトを浴び、幕が降りるのと同時に起こる拍手につつまれた快感を味わったら、また次の芝居づくりに意欲を燃やしてくれるに違いない。
 その参考になれば、ということだが、私が生徒たちに言ってきたことは「台本が手から離れてからがはじまりだ」ということ。ややもすると、科白を覚えたときが稽古の終わりになりがちで、実際そこまでが苦労なのだが、芝居づくりもその面白さもそこからなのである。
 大事なことは相手の科白をよく聞くこと。そうすることで受けの演技が出来るというのはもちろんだが、その次の自分の科白がどうして出てくるのかは相手の科白を聞いて初めて理解できるのである。
 すぐに演技をしようと思うのではなく、最初のうちは棒立ち状態であったとしても、まずは科白のやりとりを何遍も繰り返すこと。いきなり味付けから入るのではなく、じっくり煮込んでいく時間が必要なのである。
 演技といえば、最初の明かりのスイッチを探す仕草がいただけないという話もした。場所は教室であることは分かっているのだから、少なくともスイッチがある高さに対する見当はつくはずである。やみくもに手を動かせば手探りしている演技になるというわけではない。これも良く言われたことだが、芝居という大嘘をつくためには小さな嘘をつぶしていかなくてはならないのである。

岩槻高校「前略 工藤俊作様」坂本鯉兼・作
 これも不思議な台本。「探偵物語」に憧れを持つらしい私立探偵須藤順作が繰り広げるアクションドラマというところだろうか? 
 オープニングは成功したといっていいのかも知れない。客電落ちと共に派手目の音楽が鳴り響き、緞帳が上がると探偵事務所らしいセットが浮かびあがる。上ソデから出前持ちの声がするどんぶりを捧げ持った順作があらわれ、真ん中のデスクでラーメンをすすり始める。そのいでたちは真紅のシャツに黒のスーツ、ネクタイは白という取り合わせである。
 だが、中途から失速してしまったのは、どのようなトーンで芝居づくりをしていくのか、共通意思の形成が不十分だったのではないか?
 台本選び、キャスト決め、読み合わせという初期段階で、キャスト・スタッフ全員で芝居のトーンをどうするか、その方向性について話合っておかなくてはならない。この芝居でいえば、リアルさやシリアスをめざす芝居ではなく、コメディタッチのアクション芝居であるというようなことになるのではないか? そうすれば、めざすところはスピード感に富んだオーバーアクション、多少の台本の矛盾や無理すじを突き抜けてしまう勢いが命になることが理解できるはずである。

大宮高校「憂鬱傀儡めらんこりっくまりおねっと」結城和奏・作(創作)
 不思議を超えて摩訶不思議ともいうべき台本。「不思議の国のアリス」をベースにしたファンタジーということになるだろう。舞台美術・衣装・メイク・小道具を動員して、いかにファンタジーの世界を作れるかが芝居に入ってもらうための入口かなあ、と考えながら幕開けを待った。
 舞台装置については会館の制約や予算の関係もあって、そう大がかりなものは作れないという場合もあるだろう。最低限必要なものを効果的に配置することで、あとは客の想像力に頼るという選択もある。その場合でも可能な限り質感の良いものを揃えたい。
 また、特にこの芝居のような場合には、衣装や小道具にはぜひこだわりを持ってもらいたい。大道具の方には疑問があったが、衣装の方はかなり作り込んで来たことが見て取れた。デザイン・素材・色彩もあれこれ吟味し、全体の取り合わせにも注意を払い、衣装合わせを繰り返しながら準備していったのだろう。意気込みが伝われば芝居の方にも集中力が向く。
 ファンタジーといってもほのぼのとしたところは全くない芝居だった。Fさんからダークサイドということばを教わったが、帽子屋が血染めの衣装であらわれたり、時計屋が後ろから首を絞められたり、殺伐といっていいような光景が繰り広げられる。ファンタジーは人間の深層心理に迫るものだから、ある種の残酷さを秘めているのはむしろ当然なのかも知れない。「アリス」にだって女王は年中「首をはねてしまえ!」と命令を発している。ただ、どうせならもっと人間の深いところに触ってくるようであって欲しかった。
 描きたい世界があるらしいのは理解できる。思いがけない黒幕がいたり、一度示された結末をもう一度ひっくり返してしまうようなどんでん返しがラストに準備されていたり、ドラマチックさも出したかったのだろう。だが、最後まで秘密にしておきたかったのは分かるとしても、それなりの伏線が用意されていないと突然芝居が飛んでしまったという印象しか持ち得ない。ドラマなくしてドラマチックはない。
   ※
 以上で劇評を終える。今年のCブロックは西部B地区と大宮地区との組み合わせである。Cブロックの中から2校を11月の県中央発表会に推薦するまでが私たちに委任されたお務めである。結論からいうと、芸術総合高校と所沢北高校を選ばせていただいた。
 選んだ理由についてはこれまでの文章を読んでもらいたい。
 西部B地区では他に所沢高校、飯能高校を候補にあげ、4校の中から選抜した。大宮地区では上尾南高校、上尾高校を評価したが西部B地区の2校には及ばないと判断した。
 西部B地区の発表会は約1月前であった。2校には結論が出るまでずいぶん長い期間をお待たせすることになった。もう一度モチベーションを引き上げてさらに芝居を作り込んでもらいたい。
  ※
 前回、審査員としてのあり方を考え直す時期が来たかも知れない、というようなことを書いた。あまり考えが深まってはいないのだが、定年後これだけの年月が経過すると、同じように学校現場で芝居づくりに関わってきた者の立場というには隔たりを感じるようになった。とすれば、まずは1人の観客として芝居をどのように見、どのように感じ、何を考えたかを根拠にするしかないのではないだろうか?
 キーワードは「変わる」ということではないかと漠然と考えている。高校生たちが演劇に関わることでどう変わったのか、人間理解は深まったのか、人と協力しながら何かを作り上げることを学んだのか、テーマの追求を通して何かを考えるようになったのか、創造のよろこびを感じ取ったのか?
 演劇には人を変える力がある。それは芝居を見た人の側も同じだろう。新しいものの見方を知って世界が変わって見えた、おなかの底から笑うことで心のこだわりが消えた、などなど。
 上手な芝居と下手な芝居とは確かにある。だが、上手な芝居であるから心に届いてくるとは限らない。舞台に立った高校生が、ああこの生徒は今、本当の自分と出会っているのだな、ということが確かに伝わってくる一瞬がある。そんな一瞬に立ち会えたらこの上ない喜びである。
 観客もまた、自分が変わることを期待して劇場に足を運ぶのだろう。演劇は人を変えるが、それは人に自分を変える力が秘められているからである。その変化が自分の深いところで起こったとしたら私はそれをすぐれた芝居であるというだろう。

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(写真は大宮地区の発表会場となった宮原コミュニティセンター。間口はそれなりにあるのだが奥行きが狭かったり、ソデ中にピアノが置かれていたり、バック幕が大黒ではなく赤幕であったり、条件として良かったとはいえない。いつもは西部文化センターを使っているのだが、今年は予約がとれなかったそうだ。もちろん、その辺は頭に入れながら芝居を見せてもらったが、やりたいと思っても出来なかったことがさぞ多かっただろう。)


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by yassall | 2017-10-10 16:12 | 高校演劇 | Comments(0)

2017秋の高校演劇③西部B地区発表会(続)

 10月7・8日に大宮地区発表会が開催され、Cブロックとしてのコンクールも終了した。前回、今年も劇評をアップするかどうかについては考慮中だと書いたが、やはり掲載することにした。審査に当たった者としての責任ということを考えたし、選外としてしまった各校についても一言なりとも書き残しておきたかったからである。それよりも何よりも、やはり講評で述べただけでは足りないという気持ちが残ったからだ。そういう気持ちにさせたのも各校の芝居に後押しされたということだろう。
 最初に9月7・9・10日に開催された西部B(所沢・入間・飯能)地区の各校分をアップする。大宮地区については数日中を目標としたい。審査結果については最後に述べる。

西武文理高校「I'm HOME」藤原瑛理子・作(創作)
 家族の再生あるいは新しい家族像の模索がテーマだと思った。この本の場合は子どもを持った親同士の再婚と、その後に父親が死去してしまったことから生じた家族構成で、成り立ちとしては比較的単純である。しかし、都市化社会がすすむにつれ、血縁によらない家族というのは増えていくのではないか? そうした時代の到来を感じ取って新しい家族像を模索しようというのであれば興味深いと思った。
 芝居としては展開が急すぎたり、必然性に乏しかったり、さまざまな問題を持ち込みすぎて焦点を絞りにくかったりした。認知症の母親が家出した次女に手紙を書き残していたりなどの無理すじも気になった。「なぜ次女は家に帰ってきたのか?」をもっと突き詰めて欲しかった。もっとも激しく反応した次女が、もっとも強く家族を愛していた可能性があるのだから。引きこもりの三女の人物像は面白かった。

所沢西高校「残夏の朝顔」山本岳輝・作(創作)
 主人公大地は父と母をあい次いで亡くす。深い喪失感から孤立する大地を幼なじみや学友たちが支える。人の往来に不思議感があった。一人住まいをしている大地の家に幼なじみの女子が勝手に上がり込んでいたり、他の学友たちと泊まり込んだりと、設定上に無理なものを感じながら、あまりにもあっけらかんと進行していくので、男女間や先輩後輩間に対する人間関係のとらえ方として現代的なのかも知れないと感じた。もちろん感覚的なものだろうが。人物像の造形、人間関係における対立の見せ方、場面転換の工夫など、芝居づくりにはまだまだ工夫が必要だと思った。

狭山経済高校「これからはそういう『設定』で!」なつみ「ダブルクラブ」・作
 ネットからの台本だと思うが、面白いところがあると思った。神、自然法則、遺伝子など、人間を超えた力によって世界は支配されているという感覚は普遍的に存在するのではないか? コンピュータ時代にあって、何者かの「設定」によって自分のあり方も支配されている、という不安感にはリアリティがある。ただ、「神」による支配と比較すると世俗化されており、当然そこには「設定」しだいによって変化がありうるという隙間が生じる。主体的にとらえれば、それは変化への可能性であり、人間による働きかけの余地をあたえるものである。「取り戻そう」とする「プライド」とは人間の主体性や自由ということであろう。台本の最後を自分たちで書き換え、「自分の設定は自分たちで作り上げる」と宣言することに集約させてしまった。芝居としてどちらが面白かったかは不明だが、この台本で自分たちは何を伝えようとしているのかについてディスカッションした結果であるなら尊重したい。

所沢北高校「のぞく・はいる・ほる」古谷泰三・作
 直接的には阪神淡路大震災を背景にした作品であるらしい。「当事者」でないのに書きすぎだという人もいるかも知れないが力作だと思った。3.11後の今日、震災体験の深化という点で普遍性を持ったと思った。台本上、登場人物はA・B・C・D・Eとしか書かれていない。互いを名前で呼び合うシーンがない(だから名前をつける必要がない)以上に、誰の身の上にも起こり得る出来事として描いたということではないだろうか?
 5人が5人とも重要な位置付けがなされている。比較的早くに出番がなくなるAとBにしても、お互いがお互いを見失い、すれ違い、それでも互いを探しに行くのである。結婚し、子どもをつくり、つまり生活の再建のため階段を登ろうとするDがいて、自分にそれを許さず井戸を掘り続けようというCがいる。もちろん作品はCの選択に重きをおこうとするのだが、DにはDの苦悩があったこともきちんと描き切っているのである。
 大澤真幸の本で知ったのだが、「ソフィーの選択」という重いテーマがある。Eの抱えた苦悩は「命の差別」という点で「ソフィーの選択」と同質であると思った。Eは最初に発見した「草食動物の目」をした「あいつ」ではなく、その声にしたがって救援に向かったCを助けた。以前、「隙間に入ることによって誰かの役に立ちたいんだ」と語ったという「あいつ」にCは神を見たのかも知れない。それ故に憎み、見殺しにした罪悪感に耐え難かったのだ。
 だがしかし、その重さは助けられたCも背負わざるを得なかったものである。そのCが井戸を「ほる」ことを決意し、心の痛手を癒やし、いつか罪を洗い流す「水」を掘り当てようとする。その勇気の確かさを思った。
 生徒たちはこの芝居の重さを受け止めきれるだろうか、ただ台本をなぞるのではなく、自分たちの肉体を通して表現できるだろうか、というのが課題だと思った。最後まで緊張感が失われることなく、みごとにやり遂げた。
 最後に舞台装置について。階段はきれいに作り込まれていた。散乱する瓦礫はどうかと思ったが、登場人物たちにとって「その日」の風景は少しも変わらないのだとすれば、彼らの選択の方が正しかったのかも知れない。中空に斜めに吊された十字架も不要だと思ったが、ふとA.ワイダの「灰とダイヤモンド」で、廃墟となった教会でマリア像が逆さに吊されていたのを連想した。

入間向陽高校「靴下スケート」中村勉・作
 明日処分する予定であるらしい、これまでに溜めこんだ雑多な品々を詰め込んだ「100か200」のゴミ袋の山から加奈子が登場する。学校には通っているらしいから引き籠もりとは違うのだが、明らかに周囲に適応できずにいる加奈子と、何人目かの家庭教師として傭われた優子との二人芝居である。いつしか共感や連帯感で結ばれていくのだが、会話自体はたわいもなく、ナンセンスに終始している。きっと、そのナンセンスさを楽しむ芝居なのだろう。会話はことばのやりとりには違いないが、必ずしも意味を伝達することを目的としているとは限らず、他者を身近に感じ、感情を共有することに価値があることもあるのだ。袋の中味は加奈子には宝物であったのだろう。それがゴミ袋に収められているということは、加奈子自身が自分を変えようと思う時期に差しかかったと見ることも出来る。その意味では品々の中で仮面は象徴的である。ペルソナはパーソナリティーの語源である。パーソナリティーとして社会参加することとは仮面をかぶることであるかも知れないのである。もっと弾んでもいいとも思ったが、向陽らしい丁寧な芝居づくりで好感が持てた。ラストの靴下スケートは舞台の真ん中でやって欲しかった。

芸術総合高校「朝がある」柴幸男・作
 作者の柴幸男氏は2010年の岸田賞受賞者であるとのことだ。本来は一人芝居であったものを集団劇に脚色したらしい。さらに元をただすと、柴氏は太宰治の「女生徒」の世界を表現しようとしたのだという。
 あとから聞くと、脚色や科白の分担、フォーメーションやモーションは生徒たちがあれこれ工夫しながら決めたらしい。公演1週間前まで詰めの作業をおこなっていたというから、確かに若干のぎこちなさは残っていたかも知れない。しかし、それも言われてみればの話であって、むしろ固められていないみずみずしさと伸びやかさがあった。
 主題は時間だと思った。私たちが直面している時間は「明日、そしてまた明日」という無秩序に連続していく時間であり、たちまちに過ぎ去り、失われていく時間である。この劇でいえば「ゆう子さんにきちんとお礼をいわないうちに機会を失ってしまった」と悔やむしかない時間である。
 しかし、AからJまでの無数の私たちは自由に時間の中を行き来する。それは、この劇で描かれた時間は「一瞬」であるからだ。いうなれば水平の時間ではなく垂直の時間、「一瞬」から永遠へとつながっていくような時間なのである。その象徴が「くしゃみ」である。くしゃみは思考と行動のズレさえも無化してしまう。
 本来、このような時間は詩の持つ時間である。演劇でありながら表現されたのは詩なのである。今回はその実験精神を買いたい。

聖望学園高校「七人の部長」越智優・作
 良く書けた台本だと思う。「生徒の自主性尊重」は形式的なタテマエで終わっていないか、という学校批判の要素が認められる。どこまで高校生たちを啓発しようという意図が働いているかは分からないが、大いに刺激されて欲しいところだ。
 ただ、「会議」によって生徒自身で何かを決めたい、たとえ結果がついてこなくても職員会議に働きかけてみたい、という生徒会長の問題意識は部長会議のメンバーには理解されず、共有されるところにはならなかった。不満といえばそこが不満だったが、もともと啓蒙的に作られた劇ではないから仕方ないだろう。
 その分、帰れる・変えられないの混乱とか、マラソンの話題への脱線とか、剣道部とアニメ部の対立と和解とか、客席を笑いの渦に巻き込んでしまえるかどうかが勝負どころとなる。実際、何度もこの芝居を見ているはずなのに思わず笑ってしまうくらいに仕掛けに手が込んでいる。あとはいかに客席の呼吸をつかむかだ。
 女子は顔が見えるようにきちんと髪を束ね、履き物も(体育館履きではなく)上履きを用意してきた。丁寧に芝居づくりをして発表会に臨んで来たことは分かる。生徒会室を教室型にしたが、自分たちもあとから言っていたように机と机の間隔が開きすぎて、会話や動きのテンポが狂ってしまったのが残念だった。ふだんの練習場所より舞台のスペースが広いと、つい演技エリアをひろげ過ぎてしまうが、そんな必要はないばかりか不自然になってしまうのである。

豊岡高校「ホットをひとつ、お願いします。」福原未希・作(創作)
 作品に対してはツッコミどころ満載なのだが演技力で引っ張った。とくにサラシナ(作者でもある)を演じた女子の柔らかい、ふくらみのある演技が光った。変転する心の動きが伝わってきた。そのサラシナのリードによるものだと思うが、ユキモト役の不思議な人感(何しろ天国でカードに興じるという場面で始まるのだから)、動きにキレのあるアイダ役のズッコケ感、アイダの上司であるホヅミ役のしっかり感がうまく噛み合い、飽きさせない。互いの距離感も正確だと思った。
 サラシナは自分のためにユキモトを死なせてしまったという「心的外傷」をかかえている。一方、ユキモトは先に天国にいてサラシナを案じている。その「心的外傷」をどう克服していくかが課題になるのだろうが、サラシナは最後まで自分を許すことが出来ず、またユキモトを受け入れることも拒否する。そのギリギリのところを追求しようとしたことは理解できる気がする。安易なハッピーエンドに終わってしまうことを否定したかったのだろう。ただ、どうしてもそこで芝居が止まってしまうし、複雑な心情をことばで説明してしまうから、客は演技よりことばに集中してしまう。
 結局、二人は転生した後に再会を果たすのだが(そうでないとドラマにならないのだから、それはいいのだが)、先の結末からどうしてそれが可能だったかもことばによる(それもとってつけたような)説明になってしまった。
 と、批評がましいことを書いたが、それは「ツッコミどころ満載」と書いてしまった手前であって、思いがけない見つけ物をしたという感想に偽りはない。

所沢高校「オイデイプス」岡谷南高校演劇部・作
 芝居づくり・舞台づくりをよく心得ている学校だなと思った。現代のマスコミ社会を外枠にして古代ギリシャ悲劇が同時進行していくという劇である。舞台に大がかりなギリシャ神殿風の舞台装置を飾り込んだ。二重舞台になっているからそれぞれの世界が同時に展開しても観客は直感的に理解できる。主要なキャスト以外は一人で何役も受け持つことになる。衣装を黒で統一して色のついた布を身にまとうとか、腕章を腕にはめるとかしてシンボライズし、役どころを明確にした。オーソドックスではあるが、演者を交代させながら単サスの点灯・消灯を繰り返すことによる場転にはスピード感があった。
 台本も興味深いものだった。古代ギリシャ悲劇は託宣(という神の意志)によって定められた運命から逃れ得ない人間たちの物語である。近代化とは、しかしその神々の世界の世俗化だった。現代マスコミにとって、王たちの悲劇は視聴者を刺激する話題性という価値に一元化され、視聴率かせぎの餌食でしかない。その対立が劇の骨格になるだろうと思った(あとからの懇談によると、生徒たちもそういう認識でいたらしい)。
 しかしながら、これは台本通りなのだから仕方ないのだが、とくに前半のオイデイプスが妙に子ども子どもして作られていたり、明快で論理的な弁護が魅力的だったクレオンが結果的にはオイデイプスを追放することになるのだが、人間の運命や悲劇に対する共感を欠いているように見えたりするところが残念だった。「みなまで言うな」というオイデイプスの科白は、己の運命を引き受けようとの勇気の証だろう。この場面はなかなか堂々と演じられていた。ディレクター役の女子も好演だった。

所沢商業高校「タナトピア」穂村一彦・作
 死んだときの姿のまま死体が永久に保持されるというタナトピアで、愛する(した)人との生活を選択した者たち。破綻も多いが選びたくなる気持ちも分からなくもない。古事記にも、ギリシャ神話にも、中国古典にも現れる世界である。タナトピアからの脱出を試みた由佳がもっとも非人間的な存在に描かれる。
 グロテスクさとロマンティシズムとの共存とでもいうのだろうか、怪奇ロマンというような雰囲気をもっと濃厚に出せれば面白い芝居になったかも知れない。舞台の作り込みが不足していたのと、場面転換の仕方にも工夫が必要だった。芝居づくりの基礎をどこかで学べればよいのだが。
 2年生が1人(もう1人、死体役で友情出演)、1年生が3人。2年生のひかり役の生徒には見覚えがあった。昨年からの急成長に驚かされた。感情表現、目線の送り方がよく、意味のない動作がなく、感情の変化の裏付けがしっかりしていた。せっかく多人数で入部してきた1年生を引っ張っていって欲しい。

所沢中央高校「そうーゆーことも」小林洋・作
 4人連れのクラスメートが高校最後の夏休みの記念にキャンプに出かける。そこで思いがけない出生の秘密が明らかになる、というけっこう深刻な内容なのだが、「そうーゆーことも」あるさという軽妙さを基調としようという芝居なのだろう。
 「それでミナミがいてくれるならよかったのかな」という科白のためにある芝居なのかな、と思った。どのようにしてこの世に生を受けたかには関わらず、一人ひとりの命と人生に価値があるのだから。
 アンサンブルがよく、幕が降りたあとにさわやかさの残る演技であった。そこのところは評価できるのだが、やはり台本には無理があると思った。米を研ぐのに洗剤を使おうとしたというのは受け狙いでしょう、と講評で述べた。ネットの世界では、洗剤で米を洗って電気釜にかけたら泡だらけになってしまった、というような逸話が確かに出てくる。しかし、私は猫チン事件(アメリカで猫を電子レンジでチンしてしまった、取扱説明書には禁止の項目がなかったので訴訟を起こし、勝訴した)と同じような作り話であろうと思っている。もし家でも学校の調理実習の時間でも、一度も米を研いだことがない、家族や級友が研いでいるところを見たことがない、という生徒が仮にいたとしても、その生徒が「ああ、じゃあ私が行ってくるよ」と名乗りをあげたりするだろうか? 

狭山清陵高校「ぽっくりさん」亀尾佳宏・作
 台本に対する疑問は以前(9月21日)に書いたとおり。クライマックスには劇的な結末と、「死を選ぶな!」という強いメッセージが発せられるが、果たして自死願望を懐いてしまった人たちにどれだけ届くだろうか?
 前半のコメディタッチの「学校の怪談」テイストから、後半のシリアスへの変化をメリハリをもって作り出せるか、教室の中で傘をさして歩くなどの場面を幻想的に作れるか、あたりが見どころになるなと予想していたが、生徒たちもどこか納得できていないのか、なかなか素直には芝居が進行していかないようにみえた。「目に見えないものを見てきた」という子どもたちの気持ちを、私が理解できないというのとは違うのである。
 部活の雰囲気はなかなかよいのではないだろうか? ぽっくりさん役に力量を感じたが、他のキャストも個人で工夫したり、皆で相談したりしながら役作りをし、芝居を作り上げていこうとした跡は確かに伝わって来た。 
飯能高校「DAWN 「ドーン」」飯能高校演劇部・作
 場転につぐ場転、スピード感あるパフォーマンス、圧倒的な稽古量と不要な自意識は捨て去ってしまおうという覚悟で客席を興奮の渦で巻き込んだ。
 監禁か密室か(密室は内側からは容易に鍵を外せるのだそうだ)、つまり人間の自由? はたまたエロスの復権? そのあたりにテーマがあるのではないか、と検討をつけてみる。如来、菩薩、明王という日本の神仏たちとミカエル、ガブリエル、アズラエルという西洋の神の使いたちとが協力して星明という男子生徒の獣性=煩悩を呼び覚まそうとする。しかし、どうやら西洋側には別の意図があった様子でサタン(ルシファー=明けの明星=サタン)の復活を企んでいたらしいことが発覚する。しかし、星明はサタンとしては復活せず、西洋側の企みは挫折する。「これで日本は守られた」というのは人間の理性と感情に対する東西文明の差異を表現しているのだろうか?
 ところがミカエルが仕えているのがギリシャ・ローマ神話の主神ゼウスであったり、そのミカエルのいでたちはどうみても修道士であったりと、どこまで本気でテーマを追求しているのかは不明である。
 はたと、これはパフォーマンスそのものを楽しめばよいのでは、と考えを変えた。すると冒頭に述べたように感嘆すべき芝居はこびが見えて来たのである。
 昨年も1人の3年生が中心になっていたが、その3年生の芝居をみごとに受けていた2年生(つまり今年3年生)がミカエル役で出演していた。この3年生が昨年に増してパワーアップしていた。ほぼ袖幕に隠れ、審査員席か両端の最前列席からしか見えないだろうという場所に入ってからもしっかり演技が出来ていた。1年生のただ1人の男子も含め、他のキャストも鍛えられた演技であったが、中でも伝達役の柔軟でキレの良い演技が光っていた。先が楽しみである。


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by yassall | 2017-10-09 14:40 | 高校演劇 | Comments(0)

2017秋の高校演劇②西部A地区秋季発表会

 9月23・24日、西部A地区秋季発表会へ出かけて来た。どんなに頼まれても、古巣であるこの地区の審査員だけは引き受けまいと思ってきた。審査とはかかわりのない目で芝居をみたいと思っているからだ。
 とはいえ、やはり秋は秋なりの緊張感のある発表会となった。もちろん、各校もコンクールだけを目当てに芝居づくりをしているわけではないだろうが、それぞれに特色を出しつつ、高みをめざしていこうという意欲が伝わってきた。
 長い夏休みを芝居づくりについやして来たことだろうから、見せていただいた礼儀として感想を書いてみたい。芝居の出来不出来ということとは関係なく、書きたいことが次々と浮かんでくる芝居とそうはならない芝居とがあるから、長短に差が出てしまうのはご容赦願いたい。

和光国際高校「たりたの疾風」萩原康節・作
 顧問のHさんとは長いつきあいになった。ご自分でも武道をたしなんでいらしたから、その経験をいかして殺陣をとりこんだ作品が多かった。和国に異動して来られてからは初めてだと記憶している(昨年も柔道部ものではあったが)が、Hさんの作品の中では一番の出来だと思った。
 それは題材とその扱いの面白さによるところが大きい。その題材とは明治28年に創設された大日本武徳会の大会に参加し、のちに薙刀術範士の称号を受けた園部たりたの生涯である。実在の人物であるから一個の人間として人物像が浮き彫りにされ、あるいは制約され、対立軸を浮き立たせるために「作られた」人間像になってしまうという弊をまぬがれることができた。
 ネットで知れる範囲のことだが、園部たりたは明治3年仙台藩馬廻役日下陽三郎の六女として生まれた(明治3年は会津戦争後であるから仙台藩が藩として存続していたといっていいか、どうかは不明)。撃剣興業に参加しながら薙刀術をまなび、18歳で印可状を受け、秀雄と名のることを許された。劇はたりた18歳のころから数年間を描く。(劇はたりたと渡辺昇との試合がクライマックスであるが、実際にたりたと渡辺昇が大演武会で試合をおこなったのはたりた29歳とあるから、かなり作者による創作の手が加わっているのは確かだろう)。
 こうした芝居が劇として成立するかどうかはその武具のとりまわし、稽古における型や演武の迫真性だろう。稽古風景を最初に見せて、そのキレのよさで客を引きつけたし、とくにたりた役の生徒のさわやかさが伝わる演技で、嫌な味わいが混ざり込むのを退けた。稽古用の棒薙刀をきちんと袋に収めているところなどにもきめ細かい作り込みがうかがえた。
 だが、私がもっとも引かれたのは師範役に位置づけられた中澤琴乃の人物像である。たりたと同じ仙台藩の出身で西南戦争時には抜刀隊にも加わったという設定になっている。たりたより年長であるから戦闘に加わったかどうかは別として会津戦争も記憶にあったに違いない。二度の戦乱の経験者である中澤は、日清戦争を前にして渡辺が戦意高揚のために全国の陸軍の基地を巡回興行させようとするのを必死に拒否しようとした、というのである。
 大日本武徳会の創設には二面性があったのだろう。国民の戦意高揚、敢闘精神の涵養に役立つという富国強兵政策との合致から財団法人として認可された、という一面はもちろんあっただろうし、また近代戦においてほとんど価値を失った古武術の伝統を守りたい、とする武道家たちの切なる願いもあったことだろう。劇中では「武術の近代化」ということばで表現される。中澤は薙刀の「近代化」をめざしたということになっていた。
 ※薙刀は南北朝以降はほとんど実戦では使われなくなった武器であるから、伝統やたしなみという側面が特に強かっただろう。
 ※武術の近代化という面でもっとも成功した例は講道館柔道だろう。
 また、劇は女性の地位向上という主題も秘めていた。先ほども書いたように武道家としてのたりたは実際には秀雄を名のっていたようである。それを「もう女子は足りた」から名づけたというたりたという名をあえて残しているところからも知れる。
 脚本としての作り込みに荒っぽさがあったことは否めない。劇中で何度か「追い込まれたときこそ前に出る。逃げ場がなくなってから逃げたら負けなんだ」という、たりたのモットーだったらしい科白が使われていた。このことばなども、単に試合に臨んだときの心得、あるいは勝利へのこだわりとだけ受け取られていたらもったいない。逆境に抗う力、自らの運命を自らの力で切りひらく固い決意のことばとして伝わるようになっていたら、と思った。
 日清戦争前夜という重い問題を提起しながらそのままになってしまったことの消化不良感はその通りだと思う(実際には国民の多くは戦勝ムードに湧いたというのが本当のところだろう。だが、そこには多大の犠牲があったはずだ。中澤の「また人が死ぬんですね」という述懐はもっと光ってよいと思った)。
 中澤のその後の消息として、満州に渡ったそうだ、という点についても考えるところは多々あるが、ここでは触れない。ただ、いろいろな人々がいろいろな動機と目的をもって大陸へと渡っていったのだろうとだけいっておく。小説上のことだが、五味川純平『人間の條件』の梶だって戦争に疑問を持ち、兵役から免除されようと満鉄職員になったことになっている。
  ※
 たりたの曾孫だという大志は狂言回しに徹底した方が成功したのではないか? ただ、合気道をやっていたという大志に、もし仮に多少とも作者の影が投影されていたとするなら、(年上らしい口の利き方をさせてもらうなら)もっと自信を持てよ、そうすれば人の批判ももっと素直に、余裕をもって受け入れられるはず、そのことでさらに成長できるはずと言いたい。
  ※
 のっけから長文になった。本当はHさんに読んで欲しいがHさんは私のブログは読んでいないだろう。つまりは自分のために書いておきたかったと言うことだ。
  ※
 さて、この調子だといつまでたってもアップできそうもないので、少々スピードアップ。冒頭に書いたように芝居の出来不出来、印象に残った残らないとは別なのでご容赦!

細田学園高校「ぼくんち」廣井直子・作
 公園にいつも集まって来る5人の仲良しの子どもたち。ママゴト遊びや隠れん坊で取り残され、泣き出した弟と兄との葛藤などを通じて、各家庭の内情や子どもたちが抱いている心の不満などがあきらかになるというお芝居。
 いきなり鬼婆退治という場面で始まるからドッキリさせられるが、昔風の嫁いびりの姑のいる家庭だったら、心を痛めている子どもたちがいることも想像できる。まあ、「本当に殴っちゃだめなんだよ。」と戒めているところにかわいげがある。
 春の「七人の部長」と比較すると「作ろう」「見せよう」が優先していない分、演技は素直で好感がもてる。ただ、今度は芝居はこびが坦々としてしまって、子どもたちの心の動きがみえず、芝居の展開を見失ってしまう場面が多かった。あれ、あの兄はどうして急にすねだしたのだろう?と、首をかしげてしまうのだった。それは役者自身の心がきちんと動いていないとき、つまりなぜその科白が出てくるのか理解できていないことが多いのだ。
 舞台装置の黒ボックスは審査員の指摘があったとおり。とはいえ、舞台装置はトータルな世界観、といいながら、私も芝居の都合を優先させてしまったことは多々ある。だが、とくに具象(滑り台やジャングルジム)と抽象とを混合させる場合には細心の注意が必要だ。
 顧問のEさんには次世代のホープとして皆期待している。がんばろう!

新座総合技術高校「アメリカンに謎解きを。」NSG演劇部・作
 新総ワンダーランドというところだね。以前にも、このゆるい感じがかえって魅力なのかも知れない、と書いたことがある。今回もなかなかのスタイルの持ち主が金髪とピンヒールといういでたちで登場、観客を煙に巻いた。
 ただ、その意味でいうと服飾科、デザイン科をかかえる新総としては、まだまだビジュアルのパンチ度が弱かった。新総の独自路線をつらぬくのか、それとも本格的にドラマづくりをめざすのか、選択のときではないだろうか?
 春にせっかく「海がはじまる」で開いた新境地を追求してもらいたいという気持ちが残る。見ていると、いつも一定の部員数は確保できているのだから。

朝霞西高校「スナフキンの手紙」鴻上尚史・作
 料理しがいのある芝居だ(劇中にフライパンを持った後藤田が登場するから、というわけではないが)。
 朝霞でも春季発表会で1度(その頃は私はまだ志木にいたが)、新1年生のアトリエ公演で1度とりくんだことがある。その頃は春は特に時間制限はもうけていなかったから90分くらいにはなっていたと記憶しているし、アトリエはそもそもエンドレスである。だから60分芝居におさめるのはかなり苦労があったのではないか、と推察する。
 ただ、今回の朝西の芝居についていえば、かえって無駄をそぎ落とした、テンポのよいしまった芝居になっていたのではないだろうか? 幕開け早々から高速で舞台を駆け回る役者たちの動きで観客を演劇空間に引きこんでいく。
 キャンディー追跡の場面に突然サラリーマンが登場するシーンがある。昔、生徒が欲しいというのでドンデンを作ったが、朝西は大黒の前に置かれた黒ボックスにダークスーツをきた山室が後ろ向きに座っているというスタンバイの仕方で処理していた。その方がスピード感も出るし、十分成立していたと思う。
 さて、「理想の60年代」「内戦の70年代」「流血の80年代」(詳しくは忘れたが)という時代認識が示されたあと、「希望の90年代」が提起される。では自殺衝動も乗り越え、どのように「希望の90年代」に飛躍するのか? 「閉ざされた扉」という閉塞状況を打破するのか?
 もし、不満があるとすれば、サイコダイブしたあと到達した新世界で、面々にはもっと新鮮な自己と世界との出会い感が欲しかった。そうでなかければ新しい出発もあり得ないのだから。

朝霞高校「りんごの木の下で」カメオカマミ・作
 緞帳が開いて、ああ、よくここまで和室の一部屋を作り込んだな、というのが第一印象だった。あとから見せてもらうと畳の敷き方や柱の造作など、けっして丁寧ではないのだけれど、客席からは十分観賞に耐えるものだった。
 階段のつけ方には指摘があった。前の私の家でも2階はあとで建て増ししたこともあり、(居間ではなかったが)畳の部屋に階段がつくことになった(その部屋は納戸のようになった)。居間だと風の吹き込みが心配は心配だが、許容範囲かとも思う。だが、縁側の位置は約束事をしっかり決めておいて欲しかった。外にいた長女を室内に呼び戻したとき、縁側があるとされた面とは違う面から入ってきた。おい、そこは壁でTVが置いてあったはずだろう、と突っ込みたくなった。もう夜だし、遅れて玄関から戻ってきた長女が皆が空けておいた席につくことで全員がそろった、ということでよかったのではないだろうか?
 台本は審査員が二人とも評価なさっていたが私には無理すじに思われた。いくら寝起きが悪くても親にカッターを投げつける娘がいて、その親子関係や家族関係からこのようなストーリーが展開していくだろうか、と首をかしげた。その次女が父親にしかけたいたずらの始末がどうなったかも霧散ししてしまったし、フィアンセがもうすぐ訪ねてくるという直前になって美容院にでかけるという設定も、長女が居合わせないことによるドタバタのためのご都合と思われてしかたがない。
 それでも客席に一定の笑いが生まれたのは脚本の力というより演技の力だった、と何人かの方からはお褒めのことばをいただいた。まあ、こちらももっと作り込めるとは思ったが(と相変わらず朝霞には厳しめにいっておく)。

新座高校「お葬式」亀尾佳宏・作
 この演目については「女の子が抜けだして来たのは「知らない人が大勢集まって」「みな嘘泣きしている」のにいたたまれなかったからではないだろうか? 幼いために人の死を理解できないでいる、というのではなく、大好きだった祖父の死を受け入れられないでいるからではないだろうか?」というようなことを以前に書き、また「お葬式ごっこ」はその儀礼としての葬式をいったん無化し、真に人の死を悼み、弔うことの意味をもう一度問い直すということだったのではないか、とも書いたことがある。
 実はそのような考え方をするようになったのは、以前に同じ新座高校がとりくんだ「お葬式」を見てからなのだ。ところがその後、他の学校が上演した「お葬式」を見ると、どうも違っているような気がしてならなくなった。
 今回、新座高校の芝居を見て、その理由が分かったような気がした。今回の「お葬式」はその後に見た「お葬式」と同じなのだ。つまり、こちらの方が脚本そのままで、その意味でいったら前回見た「お葬式」だって脚本に忠実だったのには違いないのだが、生徒たちの演技がどこかで私の想像力と思考回路を刺激してくれたのだった。
 丁寧に芝居を作っていたし、演じていた。だが、そうするとやはり子どもの芝居になってしまう。それもかなり無理すじの子どもだったということになってしまう。(ああ、また亀尾氏の脚本を否定するような言い方になってしまった。)

新座柳瀬高校「Lonely my Sweet Rose」サン・テグジュペリ・作 稲葉智己・脚色
 2014年の秋に初演されている。その時、私は「感心したのは俳優たちのセリフの美しさだ。本当に美しい詩の朗読を聞かされているような酩酊感があった。」と書いた。
 台本はほぼ変わっていないのだという。しかし、私には一段と作品としての完成度が増したように思えた。役者の力量、ということではないと思う。前回も役者のレベルは相当に高かった。
 演出は変わったところがある。前回、王子は円錐形の台の中で蛇に咬まれて消えていったと記憶している。しかけはほぼ同じだが、今回はセンターで蛇にからまれ、暗転ののち、円錐形の台の中で現れる。あまり詳しく書いてしまうといけないのかも知れないが、バラが現れる場所も違った。
 エンディングの変更で芝居にドラマチックさが生まれたと感じたが、それ以上の変化があった。それは飛行士である。飛行士の受けの演技がみごとだったのだ。ほぼ王子の独白で進行していく芝居が受けの演技のおかげできちんと会話として成立していったのだ。飛行士がしだいに王子のことばに引きこまれ、その存在を「飼い慣らし」「飼い慣らされ」ていく様がみてとれたのだ。
 そのことについては照明効果も有効だった。飛行士の目に光をあたえ、表情に陰影をもたらした。だから、王子が消えたあとで飛行士が「王子様!」と嘆きの声をあげることの必然性も伝わった(ただし、声はもう少し抑え気味で悲しみが表現されていた方がよかった)。
 中央の台上の長身の地理学者も存在感があり、声も美声だった。バラ役の女子は確かはじめての女性役だったが、どこか投げやりな感じをよく醸し出していた。ヘビ役、キツネ役もきちんと役どころを果たしていたと思う。
  ※
 この地区段階での中央発表会への推薦のための候補校については、もう一つの地区の発表会がこれからであり、途中経過なので聞きはしたが公表および論評は差し控える。ただ、2日間を通して全部の上演を見せてもらった身として結果は順当であったと思う、とだけ言っておきたい。
  ※
 さて、今回は最後にnatsuさんとの交遊記のようなことを書いておきたい(きっと、何を勝手な!と怒られることだと思うが)。
 natsuさんが所沢から新座北(新座柳瀬の前身)に異動してきたのは私が志木に転勤になった1年後のことではなかっただろうか?
 最初のうち、私は演劇部には熱心でなかった。まったくの初心者で指導らしきことも出来なかった。新しい学校に定着するためにはまず学年にしっかりとりくもう、と思っていたし、実は学校図書館関係でも全国大会の開催をひかえていた。
 ところが異動3年目の夏、その全国大会準備の疲れもあったのか、私は大きな病気をして半年ほど休職し、学年も外れることになった。復帰後の冬、地区の顧問会議があった。次年度の常任委員が志木に回って来る番だったらしいのだが、立教のTさんが気を回してくれ、順番の変更を提案してくれた。そのとき、「ああ、いいよ」と気楽に引き受けてくれたのがnatsuさんだったのだ。
 その時までにも何度か顔を合わせているはずだったのだが、natsuさんという人物をはっきりと意識したのは初めてだった。それ以来の交遊のはじまりだった。
 その後、私の方は手術後の痛みや不具合からもそろそろと回復し、学年を外してもらったものの、もう少し生徒と関わり合いたいなと思い始めていた。演劇部には新入部員がなく、もと所属していた学年の3年生が3人ばかりいるだけだった。そこへ入試の面接で演劇部への入部を希望していた生徒と掃除監督で出会ったのである。その生徒は入学後、すぐには演劇部には入部しなかった。「あれ、君は演劇部に入部したいと言っていた子ではなかったっけ?」とたずねると、今でもやってみたいとは思っているという。そこで「一人じゃできないから誰かつれておいで」といったら、程なくして中学の同級生だという生徒と一緒にやってきたのだ。
 一方で常任委員を外してもらうという配慮をしてもらいながら、一方で顧問生活の続行(実質は開始)をはかるという。矛盾しているようだが、演劇部顧問としての人生も、西部Aとのかかわりもこうしてはじまった。
 それ以前は知らないが、西部Aの地区としての立て直しの時期であったようで、その中心になったのがnatsuさんだった。それも幸い?したのか、私としてはすでに出来上がった仲間の中に入っていくというより、最初から運営体制づくりの中に組み込まれていくことになった。反対にいえば逃げ隠れ出来ないことになった。
 とはいえ、初心者であることには変わりがない。natsuさんには本当にいろいろなことを教わった。照明の基本的な考え方からパネルの作り方、そして芝居のあり方・考え方、脚本の読み方から稽古の仕方……。私はすでに45歳をすぎていたが、natsuさんは私より若干年長であったから尋ねやすかったし、natsuさんとしても教えやすかったのだろう(覚えの悪い奴だとは思っただろうが)。直接教えてもらったことも多いが、照明の仕込みでも最初は綱元などを任されながら「見て」覚えたことも多い。
 後年のことになるが、数年前に定年となったAさんから「Sさんは他校の生徒のことも同じように考えてくれたり、相談にのってくれた。」ということばをかけてもらった。ヒアリングやリハーサルなどでの立ち位置などもnatsuさんから受け継いだスタイルだ。「昔は自分のところのことしか考えいなかった。今はその罪滅ぼしだ。」というのが口癖だった。
 「(演劇部以外の)他のところで出会ったら、きっとお互いに何てヤツだ、と思い合っていただろう。」というのも口癖だった。だが、お互いに酒好きだというところでは気が合った。お互い現役だったころは、ことあるごとに居酒屋通いをした。他にも声をかければお仲間が大勢集まって来た。
 natsuさんは自分はやさしくないという。だが、他人にやさしくない人間がいっしょに酒を吞むことを好んだりはしないものだ。確かに大いに頑固で、少々?怒りっぽく、歯に衣着せぬところはある。だが、後腐れのないところもあって、相手がいい芝居を作れば過去のいきさつは抜きにして讃辞を送るというような場面には何度も遭遇している。
 相手を見てものをいうことを知っているのはもちろんである。私も志木にいるときより、朝霞に移ってからの方がきつい言われ方をした。朝霞をあずかったならもっとしっかりしろ、と言いたかったのだろう。当初はいろいろ難題もあったから、かえって励ましのことばと受け取った。それでも、私が初めて中央発表会への出場を決めた芝居のとき、バラシの最中に「段取りはみんな決まったね」とニコニコしながら声をかけてくれたのを印象深く覚えている。
 こんなことを書き出したのは、このところ何回か触れている西部A地区との接し方についてである。幸い古くからの付き合いの人も、新しく顔なじみになった人も、我々が行けばあたたかく迎えてくれる。打ち上げの席にも招待してくれる。だが、ときどき、このままでいいのかと思わないでもないのである。natsuさんの観察眼は変わらず鋭く、せっかくのチャンスがあるなら聞かなくては損だと私などは思うのだが、やはりヒアリングでさまざまな助言を得たり、ライトを吊ってもらったり、ときには同じ悩みをかかえる同志としての一面をみたりという関係性が薄れていくと、なかなか素直に耳を傾けてもらえないという場面も増えているのではないかと感じているのである。いつか、そんなことをゆっくり話合ってみたいと思っている。(書き過ぎも多々あっただろう。しかも、ながながと。natsuさんごめんね!)


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by yassall | 2017-09-26 02:28 | 高校演劇 | Comments(4)