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ゲッコーパレードの『マクベス』

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 ゲッコーパレードの芝居を見るのは久しぶりだ、と蕨駅から加藤家へ向かう道を歩きながら考えていた。だが、記録を調べてみたら昨年の12月以来だから、まだ1年とは空いていないのである。また、パレードの連中もしだいに活動範囲を広げていて、公演案内をもらっても、というケースが増えてきたのも確かだ。この秋にも山形ビエンナーレ2018に参加したり、10月には早稲田の演劇博物館での上演が決定しているとのことだ。
 それでも久しぶりだと感じたのは、久しく音信がとだえていた(?)ヨージと連絡がとれ、彼女いわく「まだ細~くゲッコーとつながっています。『マクベス』も応援に入ります」ということなので、それなら無事を確かめながら観劇にのぞむか、というはこびになったのである。
 芝居の作り方としては、ストーリーを追っていくのではなく、原作からいくつかのシーンを抜き出し、ときに改編しながら、さらにはまったく異質のシーンを挿入しながらつなげていくという手法である。4人の出演者がシーンごとに違った役を担うから、一人の役者が全編をつうじて一人の人物を造形していくというのではない。
 科白と人物とを切り離し、ことばをことばとして大切にしていこうとしているのか、とも考えた。シェークスピア劇へのひとつの迫り方だろう。途中で観客たちに文章の一部を切れ切れにした紙片を配り、はさみと糊を使って別の文章に再編させる、というようなワークショップを行わせたりする。成功しているかどうかはともかく、実験精神としては伝わってくる。
 そうした作業も民家を会場に、客数を限定してはじめて可能なことである。シーンごとに観客は別室に、ときには2階に案内されたりするのは以前にもあった。つまり、一軒の家屋の全体を演劇空間にしてしまおう、場合によって舞台と客席の境界も取り払ってしまおう、という試みを追究し続けているようにもみえる。
 役者は4人とも達者だった。ダンカンの王子たちがイングランドへ、あるいはアイルランドへと逃避していく場面には年若い王子たちの緊迫感がよく表現されていたし、マクベス夫人のモノローグの場面では底知れない内面が描き出されていた。この場面では照明も生きていた。
 それでも(というよりも、だからこそ)見終わった後に物足りなさを感じたのは、『マクベス』という劇をどう見せたかったのかがもうひとつ伝わって来なかった、ということである。それは、私自身が『マクベス』をどう読み解いたらいいか計りかねているということも大きな要因になっている。
   ※
 マクベスは魔女の予言に翻弄されたのか? 予言はマクベスの内心の声だった、というのには、予言はあまりにも人知の及ばない未来を言い当てている。マクベスが欲したのは何か? 栄光か、権力か? 権力にとりつかれた人間が権力を守るために暴政の限りをつくす。それはマクベスが偽王だからか、王道を外れた者の定めか?
 だいたい、主人公は誰なのか? マクベスか、マクベス夫人か? それともマクベスを打ち倒したマクダフか、あるいはマクダフに支えられて新王となったマルカムなのか? 最後のマルカムが正解だとすれば、権力を簒奪した者が自己を支えきれず自壊していき、破滅という末路をたどるしかなく、正統な王位継承こそが理想であるというのがテーマとなる。時代背景や成立事情からすると、あながち間違いともいえないらしい。だが、それではあまりにも勧善懲悪すぎる。
 マクベスは小心でありながら、つい足を滑らせた愚か者であったというのはたやすい。だが、戦乱に明け暮れる日々にあって、自分に王座が転がり込むチャンスを目前にしながら、最後のところで怖じ気づいたまま生涯を終えたとき、人は己の小心を悔いたりしないのだろうか? マクベスは確かに亡霊に脅かされる。だが、バーナムの森が城に迫り、自分が魔女に謀られたことに気づいたとき、むしろ初めて正気に返ったのごとく雄々しく剣をとるマクベスは勇者のようである。
  ※
 終演後、役者の人たちとお話しが出来た。「いろいろな『マクベス』を演じてみようと思い、稽古しながら話あって行った。」「マクベス夫人の夢遊病は本当なのだろうか、彼女は正気だったのではないだろうか?」というようなことが聞けた。演じようとする側は演じようとする側から『マクベス』という迷路への入り口と出口を探そうとしているのだと思った。劇中で使われた短剣はボール紙製のチープさであったのに対し、最後のシーンでは本物の包丁を持ちだし魚を捌きだした。虚構とリアルとの対比を際立たせようとしたのか、とも考えたが、自信はない。もっと突っ込んだ話も聞いてみたかったが、彼・彼女たちも次の公演を控えていたし、私の方の準備も不十分だった。
  ※
 加藤家を訪れたのは先週の土曜日である。あまり時間をおいてもと思ってアップするが、まだ感想としてまとまってはいない。また何か書くことがあるかも知れない。

 ゲッコーパレード本拠地公演 戯曲の棲む家vol.8『マクベス』 ~26日(日)まで
 Web http://geckoparade.com  Mail geckoparade@gmail.com
 


 

 


by yassall | 2018-08-22 01:36 | 日誌 | Comments(0)

コピスみよし2018第17回高校演劇フェスティバル 勝手に名場面集

(この投稿は二回に分けて発表しましたが、前半と後半を一本にまとめました。)

 6月17日、コピスみよし2018第17回高校演劇フェスティバルが開催された。幕開けからほぼ満席というここ数年と比較し、今年は空席が散見され、明らかに観客動員数では落ち込みがあった。それでも上演した6校はどれも熱の入った舞台で、お出でいただいたお客様には十分満足していただけたのではないかと思っている。
 今年も写真撮影を担当した。もともと舞台撮影を専門に学んだことはない。刻々と変化する光線条件の中で、芝居の流れを予想し、一瞬をとらえるというのは至難のわざである。それでも少しでもよい写真を、と毎年機材を入れ替えたりしながら工夫しているのだが、これというショットはなかなか得られない。撮影者の側にしてそうであるから、クリエーター側に納得してもらえる写真になったかどうかは覚束ないのだが、写真には記録という要素もあるので、各校にはそのままお渡しするつもりである。
 さて、各校にはお許しをいただいて、毎年「勝手に名場面集」と銘打って何枚かを紹介している。藪にらみながら簡単な観劇記を添えて今年もアップする。
  ※
 村上春樹は「人はなぜ物語を欲するのか?」という問いに対して次のように答えている。

 「僕らは何かに属していないと、うまく生きていくことができません。僕らはもちろん家族に属し、社会に属し、今という時代に属しているわけなんですが、それだけでは足りません。その「属し方」が大事なのです。その属し方を納得するために、物語が必要になってきます。」(『村上さんのところ』)

 誰にも真似することの出来ない、独創的な小説世界を作り出している村上春樹のことばとして、たいへん興味深い。人間は一人の人生を生きるにあたって物語を欲するばかりでなく、確かに物語を通して何かに「属して」いこうとしているのだろう。そして、その通路となるのは「共感」であるに違いない。
 さて、物語についてこのように言えるとすれば、それは演劇についても同じように当てはまるのではないだろうか? 最初に、これを切り口に6本の芝居を概観してみようと思うのである。
  ※
 松山女子高校『とおのもののけやしき』新座高校『トシドンの放課後』の背景にあるのはフォークロアの世界である。『とおのもののけやしき』では幼い兄妹が古い民具が収められた蔵の中で精霊たちと出会う。それらの精霊たちとの交流を通して子どもたちは遠い先祖たちと繋がっていくのである。『トシドンの放課後』では精霊たちは直接には登場しない。しかし、トシドンという島の伝承こそがあかねの心を立ち直らせ、さらには他者と結びつかせるのである。
 坂戸高校『鬼ぃさんといっしょ』もフォークロアの世界をバックグラウンドにしている。ただし、こちらは近代化によって伝承世界が解体の危機を迎えていることに表現の方向性がある。コンビニが人々の生活を変え、金太郎は熊と相撲をとると負けてしまう。人々をひとつに結びつけていた赤い糸は今やその力を急速に失おうとしている。
 川越高校『お言葉ですが、東条英機閣下』はその意味では少々異端である。むしろ「大和魂」とか「愛国心」という壮大な(嘘っぱちの?)物語(村上春樹いうところの「悪い物語」)には安易には与しないぞ、という批判精神が働いている。そこには作者の現代という時代に対する警戒心も加味されていると思われる。今でこそ「クールジャパン」というようなソフトな装いを凝らしているが、強制された「愛国心」は静かに我々を取り囲もうとしているのである。
 農大三高『バンク・バン・レッスン』はどこまで本気で観ていい芝居なのか計りかねるところがあるが、物語の在り処というような補助線を引いてみると、その破壊力は際立ってくる。「銀行強盗対策訓練」とある通り、すべて模擬的で虚構であることを前提として芝居は進行していくのである。観客は通常、舞台の上で展開されるのは虚構であるということを承知で観劇している。否、むしろ虚構を前提としているからこそ、どこかで安心していられるのだとも言える。とすれば、この芝居にはそうした観客のあり方を揶揄しているところがあるのかも知れない、と思ってしまう。
 新座柳瀬高校『Alice!~響け、ウエディング・マーチ!編~』では同じ物語でも寓話の可能性のようなことを考えた。国民を幸せにするといいながら無理難題をふっかける女王(=権力者)、イエスマンに徹することで点数を稼ごうとする側近(=官僚)、その無理難題を丸投げされて右往左往する家臣たち(あるいは下々としての国民)というふうに役どころを振ってみると、まるでどこかの国で起こっていることさながらではないか?
 作者としては、自分はエンタメに徹しようとしたのであり、そのような寓意を読み取られることは不本意である、ということになるかも知れない。だが人というもは、それぞれの人生に何らかの意義を見いだそうとするように、物語にも何らかの意味を読み取ってしまうものなのである。言わずもがなであるが、そうでなければ「共感」もまた存在しないのである。
  ※
松山女子高校『とおのもののけやしき』作・岩崎正裕

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 題名の「とおの」は柳田国男の『遠野物語』を意識しているのだろう。柳田国男は文化とは生活様式の総体であるという認識に立ち、民衆のあいだに伝わる民具などの生活用品、あるいは伝承や祭礼などに日本文化あるいは日本人の心を探ろうとした。それはまた明治以降にあって急速に失われていこうとする民俗を、少しでも残しおこうとする試みでもあった。
 そういうわけだから、唐箕や千歯扱きなどの農具から、代々伝わってきたらしい掛け軸や雛人形が所狭しと収められた「蔵」という存在は芝居を左右するような重要な装置であり、アイテムであった。リハーサルの時間の大半を費やして飾り込まれたそのセットは、よくぞこれだけものを集められたものだと感嘆に値するものだったし、作り手たちの執念を感じさせるものだった。
 ただ、「物の怪」を登場させるためだったとはいえ、具象で成り立っている蔵の中に舞台装置としての山台がむき出しのまま置かれてしまったのはつや消しだったし、これは脚本通りなら仕方がないが、その「物の怪」が登場するのが垂れ下がった掛け軸の裏側からというのも不自然だと思った。蔵の中に掛け軸を保管する際には共箱に入れられているのが普通であり、いくらなんでも壁掛けにはされていないはずである。
 さて柳田国男にいわせれば、日本の妖怪とは仏教の伝来とともに本来精霊であったものが「化け物」の地位におとしめられたものだという。それはともかく、絶対神たる一神教の「神」とは違い、日本の神々あるいは精霊たちは人間のすぐそばにいて、人にいたずらしたり、一緒に遊んだり、ときはだまされたりする存在であるという。ここに登場したのもみな愛嬌に充ちた精霊たちであった。
 そのような精霊たちを、けっこう意地悪そうなおひなさまや間抜けな鬼、親身な納戸婆と1年生ながらしっかり二人で演じわけていた。兄妹は2年生と1年生のコンビで、二人とも力があると思ったが、兄役の2年生がさすがの演技だった。今は不在らしい両親の存在がほの見えて来て、家族というサイドストーリーが立ち上がって来そうだったのだが、脚本がそこまで書き込まれていないのか、中途半端に終わってしまったのは残念だった。

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新座高校『トシドンの放課後』作・上田三和

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 『トシドンの放課後』については以前に論じたことがあるので同じことは繰り返さない(「2014秋の高校演劇を振り返って~『トシドンの放課後』と『ホットチョコレート』」2014.10)。
 ただ、よく出来た台本は素直に演じればそれだけで伝わって来るものがあるというのは本当だとして、やはり心の奥に触れてくるときとそうでないときがあり、今回の『トシドン』は後者であったということだけはいっておきたい。
 それは第一にはあかねの造形である。ありふれた言い方だが、あかねは本当はいい子なのである。離島からの進学であること、成績が振るわないこと、そのため将来に希望が持てないこと、最近になって父親を亡くしたことなどか相乗して、心の荒れと飢餓感に苦しんでいるのである。いい子すぎても、悪い子すぎても、あかねの人物造形としては失敗なのである。
 クライマックス近くなって、強が進級できなかったことを知ったあかねが校長室に怒鳴り込もうとし、あかねの暴発を心配した強が必死に止めるというシーンがある。ここにあかねの本質があり、あかねと強との人間関係が集約的に表現されているのである。今回、あかね役を演じた3年生はその役づくりに成功していた。
 強が女子による男役なのがどうかな、と思っていたが、眼に力があり、周囲と調子を合わせられずに不登校状態に置かれつつも、人間に対する深い洞察力を身につけた強という役を演じきった。
 『トシドン』をやるとつい先生役が弱くなりがちである。先生役も1年生とは思えない出来栄えだった。3人の中で一番年下であるはずなのに、きちんと大人の女性に見えた。パンフによると中学校でも演劇部に所属していたらしい。難をいえば、少し堂々とし過ぎていたといえるかも知れない。この先生は初めて担任を受け持ち、あかねに右往左往させられている。その感じがもっと冒頭で出ているとよかったと思ったし、それでもあかねを正面から受けとめようとし、裸の自分をぶつけようとしたから、「私だって楽して教師になったんじゃない」ということばも、押しつけとは違う説得力を持ってあかねを揺さぶるのだと思った。(このところは私にも新しい発見だった。)
 強もまた先生役の生徒も発声がしっかりしていた。まずは科白をきちんと客席に届けることが大切で、その積み重ねによって客の心は動いていくのである。

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川越高校『お言葉ですが、東条英機閣下』作・阿部哲也

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 作者である阿部さんは見せかけの権威や美辞麗句で飾られた大義に対し、「くそ喰らえ!」と言ってみせる反骨心の持ち主なのではないだろうか? 2014年の中央発表会で創作脚本賞を受賞した『いてふノ精蟲』でも植物学者平瀬作五郎から発せられたし、翌年関東大会に進出した『最貧前線』の船長もそれらしいことを口にしている。
 聞けば鴻上尚史の『不死身の特攻兵』(講談社現代新書2017)に題材を得ているとのことである。だが、同書が阿部さんにこの脚本を書かせたというより、この本に接して共感するものを阿部さんが予め持ち合わせており、これをきっかけに啓発されていったという方が正しいのではないかと思っている。
 講談社ブック倶楽部から同書の内容紹介を以下に引用する。

 「太平洋戦争の末期に実施された”特別攻撃隊”。戦死を前提とする攻撃によって、若者たちが命を落としていった。/だが、陸軍第一回の特攻から計9回の出撃をし、9回生還した特攻兵がいた。その特攻兵、佐々木友次氏は、戦後の日本を生き抜き2016年2月に亡くなった。/ 鴻上尚史氏が生前の佐々木氏本人へインタビュー。/ 飛行機がただ好きだった男が、なぜ、軍では絶対である上官の命令に背き、命の尊厳を守りぬけたのか。」


 一機の飛行機を完成させるための経費を考えれば、特攻がいかに採算に合わない(人命は計算外か!)作戦であるか、その立案中にも愚策であるとの意見があったらしい。この劇中でも、「鋼鉄製の軍艦にジュラルミン製の飛行機が体当たりしても沈没させることは出来ない」という科白がある。
 合理的にはまったく成り立たない特攻作戦に向かわせたのは「精神主義」というリクツである(思想とも論理ともいいがたいのでそう言っておく)。「死を恐れない突撃精神に直面して、敵は恐怖心からパニックにおちいるに違いない」、翻ってまた「国民はその犠牲的精神に感じ入って再び敢闘精神を奮い立たせるに違いない」、という。だが、それらは「ソウデアッタライイナ」という希望的観測の域を少しも出ない、まったくの主意主義でしかなく、今風にいえば反知性主義の産物である。
 だいたい、西洋文明=物質中心主義VS日本=精神主義という構図自体が作られたイデオロギーである。ヨーロッパやアメリカには精神文化がなく、日本にだけは物質にまさる精神の優位性があるなどというのは、冷静に考えればまったくのナンセンスである。
 特攻作戦において飛行機の故障など何らかの理由によって出撃途中で帰還した飛行士は何人もいたらしい。軍神として送り出し、戦死したはずの兵士が生きていたというでは具合が悪いと、終戦まで隔離されていた人々のルポルタージュを見たことがある。また、この劇のように再度の出撃を強制された事例もあったことだろう。(阿部さんも話題にしていたが、『総員玉砕せよ!』を描いた水木しげるも似たような経験を語っている。)特攻=軍神として奉るために死ね、というのはもはや精神主義ですらなく、国民向けの情報操作でしかない。
 以前、小野寺信について書いたことがある。1940年11月、小野寺はスウェーデン公使館附武官に任命され、諜報武官としての任についていた。大戦末期、ヤルタ会談でドイツが降伏した3ヶ月後にソ連が日本との戦闘に参戦するという密約が交わされたとの情報を得た。小野寺は直ちに本国にその情報を暗号電で送った。受け取った日本政府や大本営はどうしたか? あろうことか日ソ不可侵条約を頼みに、戦争終結のための仲介を要請しようとしていた日本政府はその情報を握りつぶしてしまったのである。
 小野寺信は筋金入りの日本帝国軍人であり、反共主義者であり、愛国者だった。だが、反知性主義者ではなかった。電報を受け取った日本の戦争指導者は「自分たちに不都合な真実」を否認してしまった。
 特攻に9回出撃したという佐々木知次氏(劇中では佐々木友介)は愛国心を持たない「非国民」ではなく、臆病者でもない。亡き戦友たちへの思いを失ったこともない。ただ、偽りの「精神主義」に同調することを拒み、自らの理性と付与された生命に誠実であろうとしただけなのである。
 芝居としては、何度も出撃しては戦果をあげながら生還を果たしたことが如何に奇跡的で、周囲に驚きをもって迎えられたかがもっと強調されてもいいとは思った。しかし、部隊長をはじめとしたややオーバーなアクションに比べ、淡泊に見える佐々木の演技が、かえって沈着冷静な人柄や判断力をにじみ出させていて、効果的であったとも考え直した。いつになく舞台装置は簡素だったが、どこで見つけたのか飛行服はよく揃えたし、三八歩兵銃は自慢するに値する出来栄えであった。衣装や小道具ひとつでリアルさが段違いなのである。

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東京農業大学第三高校『バンク・バン・レッスン』作・高橋いさを

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 全部で8人の役者が舞台に上る。部員数がいつもギリギリという部活からしたら羨ましいかぎりだが、大勢のキャストをバランスよく動かし、間延びのない芝居を作り上げるのは容易ではない。『もしイタ』や『ロボむつ』を手がけてきた農大三高ならではの演目だが、それでも10日前くらいではかなり苦心している様子だった。
 さて、どのような舞台になるかと案じながら幕開けを待ったが、まったくの杞憂だった。距離感の取り方もずいぶん良くなっていたし、いち早く客をつかんでからはどんどん芝居を追い込んでいけた。統制はとれたが逆に一人一人が集団の中に埋もれてしまうということもなく、芝居の進行とともに個々のキャストが立ち上がってくるという具合だった。
 前段で、「どこまで本気で観ていい芝居なのか」と書いたが、否定的な意味では決してない。むしろ虚構の中で繰り広げられる虚構の世界であるからこそ、虚実すれすれのところをどう追究していくかが問われるような芝居なのではないか? 実際、1回目のレッスンを終えた後の行員たちの不満は「迫真性が欠ける」というところにあったのである。ただ、その迫真性を求めようとした結果があたかもテレビドラマのようであったことから、話はまたおかしな方向に進んでしまうのである。
 虚実すれすれの最たる場面は支店長の「何を隠そう、あなたは私の娘よ!」と告知するところだろう。とってつけたような、あまりに無理筋な展開であるが、娘だといわれた行員も支店長も、そして二人のやりとりを見守る他の登場人物たちにも要求されるのは本気度である。そうであって初めて観客の笑いを誘い、さらに後に別の男(タケシ)に向けての「あなたは私の息子よ!」で観客の笑いを爆発させることが出来るのである(ついでにいうと、ここは繰り返しのおもしろさなのであるから「あなたは私の息子」で十分なのであって、これに続く説明科白は省略ないしは刈り込んでしまってかまわなかったのではないかと思っている)。
 欲を言えば、もう少していねいに作り込んでくれたらなあ、とか、場面の見せ方や伏線の張り方で計算が不足していたという箇所もあった。今回はスピード重視というところだったのかも知れないが、実はそのことでパワーが減衰してしまったこともあったのではないだろうか?
 敵味方入り乱れての後、全員が倒されてしまった中で、ただ一人生き残った男(タカシ)が死体の山を見渡しながら突然哄笑し始めるという光景はかなりシュールである。作り方によっては相当のインパクトを与えられたのではないか? もちろん、そうしたあざとさを嫌うという作り方もある。だが、どこか方向性を統一できないまま、漫然と舞台に上げてしまった感が残ったのが残念だった。
 (ホリが背景だとやはり露出がむずかしかったようで、つい補正でシャドー・ハイライトを多用してしまい、画像が荒れてしまったかも知れません。ブログ用にリサイズすると余計にその傾向が強調されてしまったようです。まあ、藤橋さんならご自分で加工できるだろうとoriginalはほぼそのまま残しました。)
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坂戸高校『鬼ぃさんといっしょ』作・豊嶋了子と丸高演劇部 潤色・坂戸高校演劇部

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 キャストは総勢19名ということになるのだろうか? 農大三高を上回る人数だが、各シーンは1対1、2対1、2対2というような組み合わせで来ているから(集団は集団として登場するから)、処理はしやすかったのではないだろうか? 
 桃太郎が象徴しているのは近代日本なのではないか? そのような仮説を立ててみると一応の解釈が成り立つような気がする。してみると桃太郎が退治しようとした鬼とは近代以前の土着の神々であり、退治=否定し乗り越えたつもりがついに否定し得ず、伏流水となってときおり地表に吹き出ようとする。赤頭巾=西洋に逃げられ、完全には同化し得ないまま、桃太郎が苦悶する様子は近代と前近代に引き裂かれた日本人の心そのものである。
 色とりどりのケープをまとっているのは島の精霊たちだろうか? 嵐を呼ぶその中心で見得を切る鬼はそれら精霊たちのパワーの中心に位置している。コンビニの店員になりすまして姿を現すのも、日常の生活世界にしぶとく生き残っている生命力の証であるように思われる。
 ただ、赤い糸に象徴されるような、人々の心の所属先となってきた求心力は急速に衰えようとしている。御神木が幻となって現れたことがまさにその神秘性が失われようとしているということではないのか?
 さて、そのような解釈を試みたところで、その当否にまったく自信が持てないのは、暗喩として読み取ることが可能であると考えられた表象と、そこで発せられた科白(=言葉)とが多くの場合一致しないことがあげられる。もっと端的にいえば、なにやら思わせぶりな科白と、意味ありげな所作が繰り返されるばかりで、すじ道を見いだそうとしても前後が呼応することもなく、肩すかしを喰らわされているとしか感じられないのだ。かといって、無限にメタモルフォーゼしていく自由さとも無縁だ。
 そうなると、描こうとしているのは神々の没落なのか、それとも地下水脈となって生き残る生命力なのか、失われていくものへの愛惜なのか、復活への願望なのか、それとも私の立てた仮説のような苦悶なのか、まるでつかみ所のない、包みを解いてみたら空っぽだった、ということになってしまうのだ。
 舞台の作り出している雰囲気は私が好きな世界だった。暗喩や象徴は想像力を刺激してくれる。白一色のコンビニのカウンターも出来がよく、セットとして節度があったし、金太郎のまさかりなどの小道具も手抜きがなかった。照明もきれいだった。ただ、役者たちの演技力の支えがあったからあやういところで免れたが、ややもすると学芸会におちいらないとも限らないとも感じた。
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新座柳瀬高校『Alice!~響け、ウエディング・マーチ!編~』原作・ルイス・キャロル 作・稲葉智己

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 また芝居の完成度が一段上がったという印象を持った。細かいことだが、以前は男役の衣装が大きめで、見るからにだぶついていたなどということもあったが、今回はあつらえたようにフィットしていたし、役者たちもきちんと着こなしていた。セットはシンメトリックで美しく、飾りすぎず、必要十分という感じだった。
 それ以上に感じたのは役者たちの進歩だった。これまで脇役に回っていた生徒たちが芝居の中心を担うようになった。表情が格段によくなり、姿勢もよく、力強さが感じられた。白ウサギや料理長に特にそれを感じたが、女王は魅力的になったし、これまでにも場数を踏んできた三月ウサギは力を増し、貫禄のようなものが感じられた。やはり、全国大会まで進出した学校としての責任感とでもいうのか、後を受け継いだ者たちにも、それ相当の覚悟が育まれているのだろうと感じた。
 顧問のtomoさんによると今年は部員獲得にかなり苦心しているらしい。natsuさんのいう通り、今回の芝居ももう数人使える役者が多ければずいぶん説得力が違って来ただろう。だが、それは嘆いても仕方がない。3年生まで引っ張れるのも柳瀬の強みである。1年生が一人きりらしいが、さっそく舞台を経験したことだし、大事に育てれば伸びていくだろう。役者たちの成長を信じて、またよい芝居を見せて欲しい。
 少しだけ注文をつけると、今回は手慣れた手法でそつなくまとめてしまった、という印象を持った。春の発表会が流れた後、新入生をまじえながら急ごしらえで完成させることを優先したという事情は察する。今後の課題でいいから、新しい柳瀬の芝居、稲葉智己の芝居を見せてもらいたい。
 あ、でももう一つだけ。山台に上らせて科白をしゃべらせる手法には異議はないのだが、出番のないときも女王が出ずっぱりというのはやはり辛いものがあったのではないか? かといって、その都度、階段を上り下りさせるのも他の役者との差別化からも望ましくない。ドンデンか何かで登退場させるなんてことは出来なかったのだろうか? まあ、いうだけなら易いものだけれど。
 《おまけ》女王の「ウエディングマーチを聞くと幸せな気持ちになる」というのは共感!メンデルスゾーンの『夏の夜の夢』からで、華やかにして壮大、人を夢心地にする。ブライダルコーラスはワーグナーの『ローエングリン』から。こちらは官能的にしてどこか悲劇的。
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星野高校『階段パフォーマンス』

 部員たちが出場に消極的だったと聞いて心配していましたが、なかなかどうしてユーモラスかつ明るい雰囲気を振りまいて楽しませてくれました。ダンスも上手でした。写真が上手く撮れなくてごめんなさい。


by yassall | 2018-07-04 16:26 | 高校演劇 | Comments(2)

えのもとぐりむ傑作選『陳弁ピクトグラム』

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 26日、みかわやこと今は葉山美侑から出演情報があったので、えのもとぐりむ傑作選『陳弁ピクトグラム』を観に浅草九劇まで出かけてきた。
 「ピクトグラム」とはひとことで言えば絵文字のことであり、上の舞台写真(終演後、許可を得て撮影した)下手の非常口や上手の禁煙マークのような、何らかの情報や注意を示すために表示される視覚記号のことである。「人間はピクトグラムのように薄っぺらな存在ではない」というのが芝居のテーマを言い表している。
 会場に入ると、「青白く照らされたトイレ。ひとりの女が殺されたところから物語は誘導されていく。」というリードの通り、舞台中央に設えた便器が青いサスライトで照らされている。単なる飾りではなく、様々な役者によって入れ替わり立ち替わり使用される。これを悪趣味といってはいけない。この芝居の基本的な構造を象徴しているのだから。
 人間が遮蔽物に囲まれたトイレの中で用を足すようになってから、それは個的な出来事となり、他者の目に触れることがないもの、触れてはならないものとなった。芝居はそうした人間の表面からは見えないもの、隠されたものの存在を明示し、あからさまにしようとしているのだろう。
 (もし、悪趣味というなら、むしろ演劇の仕組みそのものにかかわっているといえるだろう。通常、本当は目の前に観客が存在しているのに、役者は誰からも見られていないことを前提に演技し、観客は演者に知られずにそっと覗き見ていることを前提に観劇している。それならば誰にも見られることのないトイレの中の場面でも同様のはずだが、役者の方も観客の方も、見る・見られるの関係のある一線、日常に起こりえる一線を越える。もしかすると、それは観客の側に多くの緊張を強いるかも知れない。)
 えのものぐりむのTwitterを検索してみると、「人間世界は汚くて醜いバケモノが隠れていて、繊細な人間ほどそれをくらう。だけど純なものを信じて生きよう。」というような投稿と出会う。芝居には近親相姦やらストーカーやら、性関係による利害の交換やらが出てくる。殺人事件が起こり、しかも遺体は行方不明のままになる。被害者とされた女性の兄である刑事が同僚の女性刑事と捜査を続け、謎解きがはじまる。だが、表現の中心はそれらにはないのだと思う。「人間はピクトグラムではない」の科白によって示された人間存在の有り様そのものを描こうとしたのだと思った。さらにことばを重ねれば人間の自由を。
 以上が劇を見ての感想である。卒業生の追っかけしかしていないから詳しくないのだけれど、えのもとぐりむは「演劇界で今とても人気が出てきている演出家」なのだという。今回の公演については、「若手発掘企画と銘打ち、えのもとぐりむのワークショップなどから若き才能をプロデュース」とあった。終演後、みかわやにいきさつを聞いてみると、やはりオーディションを受けて抜擢されたそうだ。千葉ユリとして、「イントロ」で殺人事件の被害者となり、3話目の「禁煙」で美大生を演じ、そして謎解きがされる「三つ編み」に出演するという、全編を貫く重要な役どころを与えられた。一見、清楚で真面目そうでありながら、過酷な過去と複雑な内面とをかかえた人物造形にとりくんだ。濃淡をつけすぎず、清楚さも、不気味さも、リアルに表現できていたのではないか? やりがいのある役にとりくんだ、という充実感が、終演後のあいさつに駆け寄ってきた表情に見えた。

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by yassall | 2018-05-28 14:31 | 日誌 | Comments(0)

2018年春季西部A地区演劇発表会

 4月29日、西部A地区春季演劇発表会の2日目に出かけてきた。28日の1日目には細田、新座、和国の3校の上演があったとのことだが、卒業生の公演と重なってしまい、行けなかった。2日目は朝霞、新座総合、朝霞西が上演した。新座柳瀬は急なことから上演を取りやめたとのことだ。どうしたことかと残念よりは心配が先にたったが、6月のコピスには出演できるとのことだった。

朝霞高校『赤鬼』野田秀樹・作
 「聖」と「俗」、あるいは「貴」と「賤」といったことを考えながら芝居を見ていた。
 『赤鬼』とは私が朝霞高校へ転勤となった年の3年生が卒業公演で演じていたのが最初の出会いである。3人しかいなかったし、中庭での道具もなしの上演だったが、いずれも力のある生徒たちで、1人で何役もこなしながら印象に残る芝居をしていた。台本も読んだ。「聖性」といった問題はかなり早いうちから考えにあったが、役づくりでも舞台づくりでもどうしてよいか検討もつかず、その後部員たちに提案することもなく終わった。どのように解釈し、どのように切り込んでいくかが課題だと思って来た。
 顧問のFさんは前からやりたがっていた。部員たちに提案したのは2度目だという。1度目はずいぶん前の代らしい。よくぞ部員たちが了承したものだと思う。このところ、朝霞はかなり難度の高い芝居に取り組んでいる。部員たちにしてみれば客席に受ける(=笑いがとれる)芝居をやりたがるところだろうが、たとえ高く固い壁に跳ね返されることがあったとしても、私はこうした芝居に真正面から取り組むことも高校演劇のひとつのあり方だと思っている。ああでもない、こうでもない、と思い悩む過程が貴重なのだ思っている。
 後で話す機会があったので、どのように脚本を理解し、解釈しようとしたのかをFさんに聞いてみた。Fさんの口からは「不寛容」ということばが発せられた。とんびとその妹の兄妹は村人たちからのけ者扱いにされている。そこへ異国の民らしき赤鬼(と呼ばれる男)が漂着する。兄妹(とくに妹)は赤鬼を村人たちからかばう。差別される者がさらに下位に位置する者を差別することで自らの境遇から抜けだそうとすることは通常にあり得ることだ。赤鬼が危害を及ぼす存在でないことを知ったことが大きいが、兄妹と赤鬼がなぜ接近できたのか、通じ合えたのかを考えることは大切な観点だ。「不寛容」を入り口とし、不寛容と必要以上の結束の強調(日本を批判する者は「反日」だ)が蔓延する現代を逆照射しようとすることはひとつの切り口である。
 『赤鬼』は人肉食を扱っている。極限的な飢餓にあって人肉食は許されるかどうか、人の肉を食って生き延びた者がその後どのようにして生きられるかは、重いが切実なテーマである。戦後文学の中でも武田泰淳の『ひかりごけ』や大岡昇平の『野火』がこの問題を扱っている。そうした飢餓状態の中での人肉食とは別に、古代や中世の戦闘集団の中で、敵の「力」を自分の内に取り入れることを目的とした人肉食がある。歴史の中では隠されているが、日本でも確かにあったという説を何かの本で読んだことがある。飢餓ではなく信仰(今日では迷信ということになるだろうが)が原因となる。野獣の世界でも共食いは見られるし、チンパンジーなどの類人猿の中には狩りを行うものもある。
 直接的な人肉食でなくとも、人間は他者の命(の全部あるいは一部)を奪いながら生きているというのが真実であるともいえる。自分一人の生のためである場合もあるだろうし、自分が所属する群れ(や国家)の存続や発展のためである場合もあるだろう。意識的な場合もあるし、無意識の場合もあるだろう。知っていて知らないふりをしている場合も多いことだろう。人間の業である。
 そこまで考えて『赤鬼』を振り返ってみる。赤鬼とされた男は確かによそ者であり、具体的には異国からの漂流民であるように見える。「でっかい船が見えた」という者がおり、水銀が兄妹と赤鬼を逃して小舟を出したのはその船に乗り込んで異国を見るためだという。
 実際に日本の海岸に自分たちと容姿が異なり、違う言葉をしゃべる異邦人が漂着したことはあるのだろう。だが、子細にみていくと、赤鬼はそうした漂着民とは異質であるように思われるのである。それは赤鬼の食べ物が花であることだ。赤鬼が花を食べて生きているとすれば、食料のことで人間と競合することはない。土地も資源も相互に争うことはあり得ないのだ。
 そればかりではない。赤鬼は自分を食って生きろ、と人間たちに言い放つのである。(この日の舞台では鬼の肉を食って長生きしたいという見物人に対しての科白になっているが、記憶では小舟の中で飢えに苦しむ同乗者に向かっても発言していたように覚えている。)私はそこに赤鬼の「聖性」をみるのである。野田は人間を超越した「聖性」の表象として赤鬼(まれびと)を描こうとしたのではないか、と考えるのである。
 赤鬼を食ったことを知った妹は村の岬から身を投げて自殺する。妹の自殺を重点に芝居づくりをしていけば人間に対する「絶望」がテーマになる。ところが芝居は兄のとんびのモノローグで終わる。「知恵」の足りないとんびは妹の「絶望」を理解できないというのである。とんびを重点にして芝居を解釈していったらどうなるのか?
 ドストエフスキーの『白痴』を想起している。[知恵」足らずのとんびは赤鬼とはまた違った意味で「聖性」の表象ではないのだろうか? そう考えると、そこには人間の「希望」が見えてくるような気がするのである。
 ※ブログを読んでくれたFさんから、小舟に乗り込んでからの赤鬼には自己犠牲にかかわるような科白はなかった、というメールがあった。私の記憶違いだったのだろう。ある思いが生まれると想念が勝手に膨らんでいくことがままある。いわゆる「深読み」のし過ぎには注意しなければならないが、テキストをきちんと読み込んだという前提のもとに、新しい解釈=切り口を発見していくことはあっていいと思っている。したがって自説を撤回することは今のところ必要ないと考えているが、この間のやりとりで水銀については新しい解釈が生まれてきた。ディスカッションの醍醐味である。テキストレジについての基本的な考え方についても教えてもらった。順当だったと思う。
  ※
 脚本解釈の問題から入ってしまった。3年生3人はよく演じていたと思う。(2年生1人もよくついていったが、まだまだ演技しようという意識が先にたって、役づくりまでには至っていない。上手くなっていくのはこの夏休みに苦しんでからだ。)3人とも1年生のときに招待してもらった試演会のときから見ていた。とんび役の生徒は早くに力をつけてきたが今回も難しい役をよくこなした。妹役の生徒は科白覚えが一番早いのだそうだ。そのせいかどうかは分からないが、これまでは一人芝居になってしまうことが多かった。今回はしっかり他の役者とからんでいた。一番の難役は「普通」のことばをしゃべれない赤鬼役だっただろう。科白を科白としてしゃべれないだけで相当の欲求不満があったはずである。よく耐え、演じきった。私が妹の「絶望」に重点があるのか、とんびの「希望」に重点があるのかに思い悩んだのは、皆それぞれが自分なりに役づくりにとりくみ、一定の到達点に達していたからだろうと言っておきたい。

新座総合技術高校『演劇部、始めました。』Kira・作
 部員が一人足らず、存続の危機に直面した演劇部が、内部分裂を乗り越えて文化祭公演を成功させ、新入部員を獲得するという演劇部物・学園物である。よくあるストーリーといってしまえばそれまでだが、練習をよくしてきたのは分かったし、間の作り方や、山場をどう作っていくかを会得すれば、もっと笑いもとれ、客を引き込んでいくことが出来るだろう。部員が大勢いて、楽しくやっているらしいのも見て取れた。
 感じたことを一ついえば、役の上の名前が分からなくなってしまったのだが、発声がまったく芝居がかっておらず(声が聞こえて来ない、という意味でなく)、なんだか普通の高校生が普通に教室でしゃべっていることばをそのまま舞台に乗せたような役者がいた。それがむしろ好ましく思えてきて面白くもあったし、新しい芝居のかたちの可能性を感じた。

朝霞西高校『朝日のような夕日をつれて 21世紀版』鴻上尚史・作
 朝霞西は何年か前にも『朝日のような夕日をつれて』を上演している。今回は21世紀バージョンであるという。以前の公演がなかなかよかったので、それが超えられるかどうかと思いながら見させてもらった。結論からいえば3年生男子5人の集大成ともいえる出来栄えに仕上がっていた。
 朝霞西の5人も1年生のうちからどこかで見覚えのある部員たちである。あのときのあの芝居に出ていた生徒だな、と思い出しながら見ていて、一人一人の成長ぶりを感じていた。あの頃はふとしたときに声が裏返りがちだったのに、今日はしっかり科白が出ているなとか、動きがとても自然になったなとかである。5人の息もしっかり合っていて、メリハリのある芝居運びが出来ていた。毎日の稽古を一緒に積み重ねていかなければこうは行かないものである。
 そういうわけでパフォーマンスはほぼ完成形といってよいと思ったし、鴻上の難解な科白もしっかり伝わって来た。ただ、芝居が胸に落ちてきたかというと、まだだった。まだだった、というのは、こちらの理解力の問題もあるから、回数を重ねて見れば分かるようになるかも知れないということもある。勢いで走りきってしまったことで、客の心に何かが引っかかる前に行きすぎてしまった、というようなこともあるかも知れない。だからといって、あまり思い入れたっぷりに科白を出されてもこの芝居は死んでしまうだろう。ここではパワーのようなものは確かに伝わって来たよ、とだけ言っておきたい。
   ※
 今回から打ち上げの宴席は遠慮するつもりでいたのだが、やさしいお誘いのことばをいただいて、つい出席してしまった。今年、定年を迎えたMさんの再任用先が地区外になってしまい、Sさんから「M先生も見えるというので」ということばを聞いて、席を共にしたいという気持ちがわき起こったことも理由のひとつである。(出席の理由を述べるのにSさんを引き合いに出したのはそういう経過からであって、自分の失敗や悪事の原因をなすりつけるためではない。むしろSさんの先輩愛をたたえたつもりだったので、その点悪しからず。)
 出席すればやはり楽しかったし、顧問の先生とつっこんだ話が出来たから朝霞の項ような長広舌をふるうことにもなったのである。だが、やはり今となると反省している。昔と比べると出席者が半減している。やはり打ち上げは現役顧問の方々が互いの労苦をねぎらったり、運営上の反省をしたり、各校の劇を批評し合ったりする場でなければならない。自分がそうした中で鍛えられてきたという意識があるから、やはりそうした場として復活させてもらいたいのである。
 もし、我々がいることでよけいな気遣いをさせてしまったり、気詰まりな思いをさせてしまったりしているとすれば、(きっとそんことを面と向かっていう人はいないだろうが)、自分から察して身を引かなくてはならなかったと思うのである。もし、その上で、たまには昔語りでも聞きたい、そのために別の席を設けてくれるとでもいうなら、ありがたく出席させてもらうということでいいではないか?  
 かつて「亡霊○号」を自称したのはKMさんだった。もちろん私たちは「亡霊」を歓待したが、自分もいつしか「亡霊」なりかかっているとしたら、そろそろ「通りすがり」の位置ぐらいまでポジションを移すべきときがきたのだと思うのである。さあ、宣言したぞ!



by yassall | 2018-04-30 20:20 | 高校演劇 | Comments(0)

東京ノ温度第7回公演『しゃーろきあん』

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 28日、卒業生のみかわやこと葉山美侑から出演情報があったので東京ノ温度第7回公演『しゃーろきあん』を見てきた。小屋は新大久保ホボホボ、作・演出は主宰者である川島広輝である。
 葉山と東京ノ温度との関わりは2017年1月の第3回公演からはじまり、今回で3回目である。小劇場での公演ながら着実に回を重ねていることは立派だと思うし、そうした中で葉山が使われ続けていることはありがたいことだと思う。
 葉山が演じる主人公・秋山珠理奈はシャーロック・ホームズに深いあこがれを持ちながら、実は浮気調査専門の私立探偵事務所につとめている。まだ見習いであるのに、求人情報をみて面接にやってきた和田(和田さん→ワトソン)とともに、所長に無断で猫のポシェット連続盗難事件にとりくみ、そこに浮気調査依頼を装った別れさせ屋とのドタバタがからむといった内容である。
 東京ノ温度の芝居は「ワンシチュエーションコメディ」というコンセプトにある通り、尖ったところのない、安心して見ていられる芝居をめざしていると理解している。第3回はAI社会の問題、第5回は現実世界とバーチャル空間の接点における死者と生者の再会といった、未来的あるいは宇宙的なテーマを扱っていた。
 それらに比して、今回は不倫やスキャンダルといった、いっそう日常的な関心をもとに芝居が組み立てられている。しかし、それだけに人間の心に生まれる猜疑心や誤解から始まった怨恨の無意味さが、軽いタッチの中にもチクリと胸に刺さってくるしかけになっている。SNSや加熱する週刊誌報道、ちょっとした時事ネタなども盛り込まれていて、確実に客をつかみ、笑いをとることに成功している。
 それよりも何よりも、題名にある通りのシャーロキアンぶりに関心させられる。よほど読み込まない限り、推理小説のかなりの愛好者でも知識にないような、さまざまな作品の断片が次から次へと引用される。そして東京ノ温度らしく、それらの断片が人生を送るにあたっての警句や人々の苦悩を解消させる癒やしになっているのである。マニアックであるがそれだけに終わらない幅の厚みが感じられる。
 川島広輝は劇団マカリスターに所属する俳優・劇作家・演出家で、東京ノ温度を旗揚げしたのは2016年だそうだ。劇団員としての活動は続けながら、やはり自分の思うような芝居づくりをしたいという欲求があるのだろう。ただ、若い俳優たちに舞台に立つチャンスを与えようとしているようにも見える。思い込みかも知れないが、実質的にそうなっているように思われる。そんな中、葉山は連続して主役級の役所を与えられている。その信頼に応えてか、葉山の演技も安定感が増し、他の若い俳優たちをリード出来ていたと思う。 




by yassall | 2018-04-30 16:51 | 日誌 | Comments(0)

精華高校・新座柳瀬高校演劇部東京合同公演「愛もない青春もない旅に出る」

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 14日、精華高校演劇・新座柳瀬高校演劇部合同東京公演「愛もない青春もない旅に出る」を見にシアター風姿花伝まで出かけてきた。公演日程のうち、13日は夜の部のみ、14日には昼の部があったのでそこに予約を入れたのだが、この回にはポストパフォーマンストークがあり、二つの高校が合同公演を打つにいたったいきさつや、「愛もない青春もない旅に出る」という不思議なタイトルが生まれるにいたった経過の説明を聞くことが出来た。詳しくは省略するが、精華高校が「旅する」演劇部であること、新座柳瀬のtomoさんがその精華高校の芝居に惚れ込み、合同公演を打つことを目標としたこと、という運びであるらしい。

 大阪 精華高校『大阪、ミナミの高校生2』作・オノマリコと精華高校演劇部
 tomoさんから噂を聞いていたので、どんな芝居をみせてくれるのだろうと楽しみに見た。最初に部員の一人がホワイトボードを使って「今日の芝居の主題は恋あるいは恋愛だ」と口上を述べる。ここからして、通常の芝居作りとは一線が画されようとしている。
 トークショーには作者のオノマリコ氏にも出席していて、劇の成り立ちについて解説してくれた。反省文の書き方をめぐって女子高校生と担任教師とが日を変えて断続的にやりとりする、冒頭にも、またその間隙を縫うようにして男女の部員たちによるモノローグが挿入されていく、というような構成なのだが、部員たちのセリフのほとんどは各人たちが日ごろの思いや体験にもとづいて自分たちで考えて持ち寄ったものだというのである。
 テーマとされた「恋あるいは恋愛」はあらかじめ設定されたものであるのだろう。恋愛を深めていけばどうしても性の問題に突き当たらざるを得ない。「痴漢も冤罪痴漢も女性専用列車もなくなればいい。男とか女とか(性差が)なくなればいい。…ずっとそう思ってきた。でも、恋をすると違った。」(不正確な箇所あり)というようなセリフと出会うとドキッとさせられる。「性」を否定してしまいたい気持ち」というのはむしろ自らの「性」と強く向き合わざるを得ない年代を迎えたということだろう。その痛々しいまでのとまどい、怒り、おののきが伝わってくる。
 だが、そんなふうに高校生たちの裸のすがたを描き出して見せたことより、ドラマの中にモノローグを差し挟んでいく、というよりモノローグそのもので芝居を構成していこうとする手法に感心させられた。
 しばしば芝居を中断させ、私的なモノローグやアジテーションを挿入していったのは寺山修司である。その寺山芝居について高取英は次のように書いている(『寺山修司』平凡社新書2006)。

 劇を中断し、現実的なセリフによって、「一千万のドラマ」に注意をうながすのは、虚構に耽溺し、物語が終われば拍手をし、現実に戻るような観客と舞台とのなれあいの境界に寺山修司が、がまんできなかったからである。

 そして、寺山がよく「俺は、劇場で行われたことを、拍手で終わりにするのではなく、観客それぞれの現実生活に持ち帰ってもらいたいのだよ」といっていたことを紹介している。
 その寺山とも共通するような演劇なるものへの挑戦、観客を虚構の世界にいざない、幕切れとともに完結させる、というのとはまったく異なった演劇への模索を読み取ったのだ。かといって差し挟まれたモノローグが本当に現実そのものであるのかどうか、虚実ないまぜ、あるいはすれすれのところで演劇空間を成立させようとのこころみであったとも思う。役者たちがときに滑舌が悪かったり、素に戻ったごとくに照れくさそうにしているのも、もしかしたらリアルさの演出であったかも知れないと、一度は引いてみざるを得ないような。つまり、観客もただ舞台に身をゆだねていればいいのではなく、投げつけられるセリフに緊張を強いられている、ということだ。
 校則には「学校内でSEXをしてはいけない」とは確かに書いていない。それは担任教師がいうように「常識」であるからというより、触れてはいけない禁制であるからなのだろう。おのれの「性」に直面し、身もだえしている高校生にとって、その禁制は(keepoutの規制線のように)スカスカの虚構である。あえてその禁制を破ってみることと、規制線の内側にとどまっていることと、どちらが高校生が演じる高校演劇といえるのだろうか? 
 精華高校がいつもこのような芝居作りをしているのかどうかは知らない。ともかくも、上記の問題も含めて、いわゆる高校演劇あるいは演劇そのものの枠を破ってみせようという実験作だったと思う。

 埼玉 新座柳瀬高校『Merry-Go-Round!』作・稲葉智己
 tomoさんとしては精華高校とがっぷり四つに組んでみたいというのが目標の第一だったのだろう。それに相応しく新作(だよね?)で臨んできたし、リーフにある通り、「何かを伝えたいとか、何かを訴えたいというよりも、『こんな面白いお話しがありますよ』と物語りたい」とのことば通りの芝居作りだったし、「新座柳瀬の芝居の『型』」ということばも出てきたが、今あるものをすべて出してしまおう、というところだったのではないか? たぶん部員総出演というところも含めて、その意気込みやよしとしたいが、率直にいえば脚本の面でも、芝居の面でも、少々作り込み不足のものを感じた。
 地中海のとある島に君臨する偽貴族がいて、その貴族を利用している全権総督がいる、しかし偽貴族は引退を希望しており、後継者を探そうとするところから騒動が持ち上がる…という設定なのだが、その設定がツカミのところでよく伝わって来ない。複雑な事柄を説明的に述べられても困るのだが、偽貴族がいることで全権総督にどのようなメリットがあるのか、偽貴族の側にはどのような見返りがあるのか、引退したがっている理由等々が謎のままなのである。たぶん、何か大事なセリフを聞き逃してしまったのだろうとは思うが、そもそものきっかけのところで躓いてしまった。ラストのどんでん返しもよく出来ているといえば出来ているのだが、まんまと3、40万ドルをせしめて島を逃亡したアンジーが後継者の席にすわるまでのルディーとレベッカの決断、アンジーが心を決めるまでの過程ももう一言か二言でいいから欲しいところだった。
 オスカーとエディーが最初は欲得づくでアンジーに近づきながら、いつしか虜にされていく(ですよね?)過程も、アンジー側が淡泊すぎたことばかりでなく、オスカーとエディーの側の心理変化も不足していたのではないか? マーガレットとエリーが大金持ちにありがちな傲慢さゆえのおしおきを受けるというのはお約束通りとして、確か二人とも最初はオスカーを追っていたはずなのに、エリーがいつのまにかエディーにぞっこんになってしまうのはどのようなきっかけからだったか、どうも印象に残っていない。
 さて、tomoさんとしてはもう一つのねらいがあったのではないだろうか? それは卒業生3人の集大成とともに、この芝居で主役を交代させようということではないかとにらんだ。ただ、素材感は私も認めるところだが、表情の豊かさとか、セリフの切れとか、まだまだ鍛えられていないと思った。さわやかさだけを頼りにしてはいつまでも持つものではない。他の役者たちも含め、これからどのように育てていくか、楽しみにしている。どうも身内意識があるせいか、今回は辛口に終始してしまったようだが、最後まで楽しく見られたことはいうまでもない。
  ☆
 往路は西武池袋線椎名町駅から歩き、帰路はnatsuさんといっしょに下落合駅まで歩き、西武新宿線で新宿へ出た。もちろん二人で一献傾けようという算段をしていたのだ。natsuさんの長旅の疲れが気になったが、二人だけということもあり、酒もすすみ、突っ込んだ話まですることが出来たので、楽しくも深いひとときだった。
 さて、この劇評はまたしてもnatsuさんに先を越されてしまった(「18→81」)。natsuさんには昨日の酒が残らなかったのだろうか? 本当はnatsuさんのブログでほぼ言い尽くされているようなものなのだが、昨夜の約束もあるので後出しながらアップする。


 



 

by yassall | 2018-03-15 20:06 | 高校演劇 | Comments(2)

トイボ クリスマス公演17

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 16日、葉山美侑ことみかわやから出演情報があったので池袋・シアターグリーンまで出かけてきた。案内には演劇集団TOY’sBOX第17回公演「サンタクロースが歌ってくれた」(脚本・成井豊、演出・青瀬博樹)とある。TOY’sBOXでトイボということらしい。劇団には制作として乙部あきなことレッドが参加している。葉山は今回はJJプロモーションからの客演ということのようだ。
 劇団の立ち上げは2013年とのこと。若々しく、エネルギッシュな芝居運びだったが、しっかり作り込まれていて、浮ついたところは少しもなかった。小技も達者だった。オリジナルは未見だが、十分に楽しめる舞台だった。
 写真は終演後の特別企画である撮影タイムのもの。そんなアフター企画があるのは知らなかったが、開場前に街のスナップでも撮ろうと、たまたまD750を持って出ていたのだった。
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 葉山はミツ役。初めてのメイド姿だと言っていた。明日12/17まで。本日は満席だったが、千秋楽には少し空きがあるとのことだ。


by yassall | 2017-12-16 20:28 | 日誌 | Comments(0)

ゲッコーパレード本拠地公演『チロルの秋』

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 12月9日、ゲッコーパレード本拠地公演を見に蕨まで出かけてきた。演目は岸田國士『チロルの秋』であるが、チラシにある通り、タイトルは絵画上演no.1「とにかく絵の具を大量にかけるでしょう。そしたらあなたは目撃する。それが何であったのかを。あなたと私が昔から、必ず線を引いてきたって事も。」なのである。
 黒田瑞仁の「代表からのご挨拶」によると、「これまで〈パレードのように〉と意識して数多くのジャンルの芸術家と共同制作」を行ってきたが、所属メンバーからしてどうしても「演劇公演」の形をとることになった、しかし現代美術家の柴田彩芳が新メンバーに加わったことで「作り出すものの形として「演劇公演」だけでなく「美術作品」という可能性も手に入れた」ということである。
 そこで「とにかく絵の具を大量にかけるでしょう。」ということになる訳なのだが、率直に言って、あまり成功しているとは今回はいえないように感じた。大小の脚立や椅子、あるいは広げられ、吊された布、ホウキなどが、絵の具をかけられたことによって、別な何ものかとして立ち現れてきたかというとそうはならなかった。ある美的操作によって統一されたというわけでもなく、かといって混沌というのとも違っていた。役者たちはそれらのオブジェの中で芝居を演じていくわけだが、役者が動くことによって「美術作品」が生命感を帯びてくるとか、役者側からみてその演技に新しい意味を添えていくというふうにも見えなかった。キャンバス地のような役者の衣装にも彩色がほどこされ、それはそれで面白いこころみではあったが、舞台との一体が実現されたというところまでは達していなかったように思った。総じていえば「美術作品」としても「舞台装置」としても実験的な段階で、もし続けていくのなら、コラボとして成功するのはこれからだろう。
 岸田國士については「岸田國士戯曲賞」とか、岸田今日子の父であるとかの知識しかなく、『チロルの秋』についても今回の公演にあたって「青空文庫」をナナメ読みした程度である。したがって、こちらの方も分かったようなことは書けないのだが、芝居の方は面白いと思った。
 1924年の発表で、最初期の作品であるとのことだが、どこかにボヘミアン志向があるのだろうか? チロルのホテルに長逗留していた日本人アマノが、母親が日本人で、明日には旅立つというステラと愛を語る、といった内容である。ところが冒頭のステラとホテルの経営者であるエルザの会話の部分があたかもプレイバックするかのように途中まですすんでは何回も繰り返され、ときどき陰科白が入るものの、アマノがなかなか登場しないのである。
 後半に入って、アマノは激しい物音とともに、駆け込むようにして登場する。遅れた非礼をわびる科白は原作の通りだが、どこか生々しく、客の方は役者本人の遅刻の謝罪をしているかのように一瞬錯覚する。ともかくも生身のアマノの登場によって、ここからはリアルさが追求されていくのかと思ってしまうし、実際にステラとアマノとの間には緊張感のある科白のやりとりが繰り広げられていくのだが、それらの大部分は隣室に姿を消して障子越しに聞こえてくるという演出になっている。それらのやりとりが重視されていないというより、どこか遠いものとして伝えようとしたのかも知れない。
 どうやら「空想の遊戯」をキーワードにしているのである。原作も愛の不可能性、あるいは愛の挫折をテーマにしているらしいから、決して間違った解釈ではない。むしろ恋愛が「空想の遊戯」であることを強調し、アマノの登場はその断絶でしかあり得ない、あるいは断絶によってしか恋愛はかたちを持ち得ないことを表現してみせようとした演出なのだと思った。
 ステラは崎田ゆかりが演じた。今日の芝居は崎田の芝居だったといってよいと思う。表情豊かな中にも、己れの運命を悟った、凛としたものを感じた。いろいろな役柄をこなせる役者だと思った。エルザをつとめた河原舞は今回は脇を固めた。アマノの上池健太はまだ弱さがあるように感じた。
 ヨージこと岡田萌の姿がないの心配だった。もしこのまま一座から離れるようなことになったら、これまでのように毎回公演を見に行くことになるかどうかは分からない。それでも若い才能がさまざまなチャレンジを続けていくことを応援する気持ちに変わりはない。


by yassall | 2017-12-10 04:08 | 日誌 | Comments(0)

2017年埼玉高校演劇中央発表会

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 11月18・19日、埼玉県高等学校演劇中央発表会が開催された。今年も写真記録の係を依頼された。今年はメインのIさんがフルタイムでいられるというので、半ば趣味の延長という気楽さで引き受けた。何にしても2人というのは何かのときにはカバーし合えるという点で心強い。Iさんもそう思ってくれたならうれしいことだ。
 趣味の延長というのは、具体的には新しい機材を試してみたかったということである。D750はフルサイズであることに加えてハイライト測光という測光方式が選択できる。AFも-3レベルの暗所に対応し、f8のレンズでも合焦可能なフォーカスポイントを備えている。購入の動機は35mmフイルム時代のレンズが使えるというのが最大の決め手であったが、舞台撮影に威力を発揮するかもというのも大きな要因であった。
 スポットライトに照らされた人物を撮るとき、もっとも懸念されるのは白飛びである。その点、ハイライト測光は確かに効果があると感じた。マイナス側よりプラス側に露出補正が必要なケースが多かったほどである。ただ、ミラーレスの場合は撮影前にモニターで補正の適不適をある程度まで確認することが可能だが、一眼レフの場合は勘に頼りながら、また撮影後の画像を確認しながら値を決めていかなくてはならない。どうしても試し撮りの枚数が増える。
 ファイルをパソコンに落とし、一度だけ画像チェックをした段階だからまだ何ともいえないが、ピントについてはm4/3のG8と比較して飛躍的に向上しているかどうかは微妙である。舞台の場合、サスにしろシーリングにしろ、トップからの光が多い。そのためか、どうしても顔や首回りに影が出てしまう。それを避けるためには露出を開けることになるから今度はまた白飛びが心配になる。最終的には枚数をかせいでおくしかなさそうだが、いずれにしてももっと使い込んでおくことが大事だろう。重たいカメラだから三脚の使い方あるいは選択も考え直さなくてはならないかも知れない。
   ※
 さて、カメラの話になると際限もなくなってしまうが、審査の結果は下記のようであった。

 最優秀賞   越谷南高校「宵待草」
 優秀賞一席  秩父農工科学高校「Solid Black Marigold」    (以上は関東大会に推薦)
 優秀賞二席  芸術総合高校「朝がある」
 創作脚本賞  越谷南高校「宵待草」斑鳩里志・作

 最優秀賞・優秀賞一席とも顧問創作である。今年は秩父農工科学高校の芝居に注目させられた。高校生が生徒会室に集まってきては生徒会活動にあたったり、文化祭準備のためにマリーゴールドの造花を作ったりしている。生徒会室を取り囲んでいるのは鉄筋がむき出しになったコンクリート建築の廃墟のようである。そこへ転入生がやってくるのだが、その転入生は生徒会メンバーの多くが卒業した小学校で、かつて皆がイジメの対象にした生徒だった、というのが物語の発端である。
 イジメを取り上げているとはいえ、その場でイジメが展開されるのではなく、過去のイジメや知らんぷりを反省して謝罪し合っていくという逆ベクトルになっている。暴力の連鎖をさかのぼっていくと「見ていたのに助けようとしなかった」から「知ろうとしなかった」ことの罪悪にまでたどりつく。
 「サイコパス」の問題が出てくるところが少しわかりにくかったが、「共感」の欠如というあたりが焦点になるのだろうか? そのあたりまで突き詰めたところで、一転してテロの問題が提起される。ここで舞台装置としての廃墟の意味も明らかにされる。具体的にはシリア空爆の光景である。カナトの妄想癖というのは言葉を変えれば想像力であるのだろう。カナトは想像力で世界とつながったのである。
 マリーゴールドの花言葉は「友愛」と「絶望」なのだそうである。ラストは爆撃機の飛来音らしき音響でしめくくりとなるが、「絶望」的な状況ばかりが提示されたのだとは思われない。「絶望」に突き当たったあと、なお「友愛」の道の探求を伝えようとしたドラマであるとみた。「絶望」の底まで落ち込むことで、はじめて「希望」を切実に希求することがあるように。
 今年夏の宮城大会を振り返った小池さんの文章に、「誰も掴みだしていないようなココロノカケラ」を舞台化していきたい、というような一節があった。昨年の芝居で秩父農工がめざしたものが何であったか少しばかり理解できたような気がしたが、私としては今年の方が作品として優れていると思われた。直前でひねりの入る変化球ではなく、ストレートにメッセージが伝わってきたように思えた。
  ※
 越谷南高校の芝居は審査結果の発表の以前から周囲の人たちの間で評価が高かった。ただ、どうしてか私は芝居に入っていけなかった。理由としては幕開け早々にちょっとした撮影上のトラブルがあったことがあげられるかも知れない。ツカミのところをツカミ損なってしまった。
 だが、そればかりではないように思う。様々な人間模様が延々と繰り広げられていくのだが、いったい何を伝えようとし、どこへ向かって時間が進行しているのか、そのかけらさえも心に引っかかってこないのだ。
 大正という時代の雰囲気を表現してみたかった、というならそれでもいい。激動の昭和の前夜、日本の近代史の中でも特異な位置を占める大正に心引かれる気持ちも理解できないわけではない。だが、もともと「大正浪漫」などというのはあまり信用していないが、どこか頽廃的なまでの爛熟を表現するには役者があまりに若すぎる。フリーラブを唱えながら先へ進もうとするとたちまち封建的な家制度の壁に突き当たらざるを得なかった挫折が表現されているか、といえばそれは無理だっただろう。やがて日本を飛び出していった東郷青児、アナキスト大杉栄らが人物群像として配され、豆腐屋に「シベリヤ出兵以来、どうにも不景気で」というような台詞をしゃべらせることでもう一つの大正史が描かれそうにもなったが、芝居を立体的にするまでには至らなかったように思う。
 以上のようなものいいになってしまうのは目下のところ私が次のような「大正」観に大きく影響されているからかも知れない。実際、急速な資本主義の発達の中で労働問題は深刻化していったし、昭和の戦争の時代に兵士として動員されていった圧倒的多数は大正生まれであったのだろう。「大正浪漫」「大正デモクラシー」は歴史の一面でしかない。

「大正の文化を支配した普遍主義が、西洋市民社会の日本社会への内面化であるという幻想を知識階級に抱かせたときから、明治近代国家が帝国主義国家に変質し、まずアジアの中で急速に孤立の度を深めていったのは、皮肉な運命といわねばならない。」(桶谷秀昭『夏目漱石論』)
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 新座柳瀬高校の「Lonely My Sweet Rose」は選外となってしまったが、深い井戸から水を汲み上げてくるような、あの切ないまでのリリシズムは確かに会場に伝わったと思う。
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 所沢北高校の「のぞく・はいる・ほる」には、実は心配と期待とが相半ばしていた。心配というのは地区発表会で私たちが目の当たりにした通りの芝居が中央発表会で再現できるだろうかだった。(さらなるレベルアップを目標にしてもらいたかったのはもちろんだが。)どうしても守りに入ってしまうことで、台詞のやりとりでは微妙に間の狂いがあったとは思う。衣装を夏物から秋物(一部不統一)に変えてしまったから、何となく軽快さが失われてしまった(あわせてそれぞれが自分を守る鎧を持ってしまった)ようにも感じた。だが、総体としては上出来だったと思っている。
 地区発表会での劇評にも書いたが、この重いテーマを正面から受け止め、自分たちなりに脚本を読み込み、理解しようとし、舞台化しようとしていた。頭だけ(?)で演技しようとしているというような言われ方をするかも知れないが、それを言ったら頭を使わずに演技しようとしていた学校が他にあったのかと問いたいし、舞台化といったとき、彼らが身体表現の重要性に気づかず、おろそかにしていたとは思えないのである。(Eが声を張りすぎてしまったために怒りの中にある嘆きを表現しきれなかったというようなことは確かにある。頭ではEの心情を理解できていても、心が作れていなかったということかも知れない。それでもこの台本にとりくんだ意気込みは評価してやってよいと思うのである。)
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 こうして振り返ってみると、確かに私の芝居の見方はメッセージ性に偏重しているのかも知れない。(本当は耽美的な世界も好きだし、不条理や怪奇、純粋なアクションやコメディに対する評価がないわけではないのだが。ただ、それらを見せてくれるとしたらプロでしかないだろう。)その意味では私は観劇者としては初歩の初歩なのだと思う。だが、大多数の観客はその芝居が何を自分に伝えてくれるのか、どのように自分を変えてくれるのかを待っているのではないだろうか? であるなら私は玄人であろうとは思わない。





by yassall | 2017-11-21 01:32 | 高校演劇 | Comments(2)

島薗邸で「リンドバーグたちの飛行」ゲッコーパレード出張公演

 14日、ゲッコーパレード出張公演に出かけて来た。
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 島薗邸は国登録有形文化財。生化学者である島薗順雄(1906-92)の自邸として1932年に建てられた。設計は矢部又吉(1888-1951)。表の洋館に和館がつながる和洋併置の住宅。たてもの応援団の管理の下、月2回だけ一般公開されている。別にイベント等にも貸し出されている。文京区千駄木3-3-3
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 「リンドバーグたちの飛行」は昨年12月にゲッコーパレード本拠地公演vol.5として上演された。建築内の各部屋を移動しながら、従ってそのつど客を誘導しながらの公演であるので、1公演あたりの観客数を10人程度に限定している。そんな小規模な公演ではあったが、演劇誌『悲劇喜劇』の2016年の演劇シーンを総括した対談でとりあげられたりしたらしい(『悲劇喜劇』2017年3月号、早川書房)。
 そんなことがあってか、出張公演と銘打って今回の島薗邸公演となった。チラシには「家を渉る劇」なるフレーズとともに移動型の連続プロジェクトとの宣言があるから、今回だけでは終わらないのかも知れない。
 戯曲については以前(2016.12.20)に書いたので繰り返さない。2回目の観劇になるのに却って新鮮に感じられたのは会場(小屋)のためだけではあるまい。会場(舞台)が変わったのだから演出も多少とも変わっているが、それ以上に役者たちの進化を感じた。
 出演は河原舞、崎田ゆかりは変更なく、渡辺恒に変わって林純平が加わった。飛行服を着た河原舞はどこか少年性をただよわせ、もしかすると大西洋横断に踏み切ったリンドバーグもまた少年の無謀さと野心の持ち主であったのではないかと思わせた。崎田ゆかりの声は芝居をおしすすめる力、立ち上がらせる力があり、林純平にはやわらかさがあった。
 吹雪の場でのピアノ演奏は今回も本間志穂。前回の空気が抜けていくような古オルガンもよかったが、今回のピアノの1音1音が鮮明で転がるように変転する音の連続打も作品にはふさわしかったかも知れない。
 今回も観客を屋外へと引き連れての終章だった。前回は蕨市の平日の住宅街ということでほとんど人通りもない中であったが、土曜日でしかも千駄木祭の最中ということで通行人の反応も芝居に織り込まれた。ハプニング劇は60・70年代の手法かも知れないが、当時のような気負いがない分、驚きは自然だった。
 
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 次回は本拠地公演。
  テキスト:岸田國士『チロルの秋』
  12月8-18日
  旧加藤家住宅
  構成・美術:柴田彩芳  演出:黒田瑞仁
  出演:崎田ゆかり、河原舞、黒田瑞仁、岡田萌

おっ!岡田ことヨージも久しぶりに舞台に乗るのか、これは見逃せないなあ。


by yassall | 2017-10-15 01:01 | 日誌 | Comments(0)