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『方丈記』と「個我」覚え書き

  半年ほど前から『方丈記』と「個我」というようなことについて考えているのだが、いっこうに思考がすすまない。理由は「方丈記」あるいは鴨長明について何ごとかを論じられるような勉強はしてこなかったことと、「個我」というような発想自体が近代文学上の問題なのだが、その近代文学でも「個我」のあり方が揺らいでいるからなのだろう。
  身体には「自分でないもの」を厳密に排除しようとする免疫が備わっている。「他の誰でもない、たった一人の我」などというものは、身体にしか存在しないという考え方もある。いわれてみれば、「思想の自由」などといっても、私が日本語で考えている限り日本語の枠内から自由ではあり得ず、日本語という全体の一部でしかないということになってしまう。いや、身体にしたって遺伝子からは完全に自由ではあり得ない。
  どっちの側から入ろうとしても、たちまち行き詰まりに陥ることは目に見えているわけなのだが、せっかく考え始めたことなので少し書いてみる。

  「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖と、またかくのごとし。」

  『方丈記』冒頭にいう「人」とは何か、というのが最初だった。下鴨神社の禰宜の次男として生まれながら、家職を継ぐ望みを失って出家するにいたった筆者の、仏教的無常観を表明した部分と一般的にいわれる。
  すると、ここでいう「人」とは「朝に死に夕に生まるるならひ(=法則)」に生きる、いわば普遍的存在としての人間であり、せいぜい集合としての人間を指しているのであって、「個我」としての人間という発見はされていない。その証拠に、「人と栖」とあるのに、これに続く文章はもっぱら「栖」の方に関心の重点があるようで、「高き賤しき人の住まい」は「世々を経て尽きせぬもの」ではあるが、「昔ありし家は稀」で「大家ほろびて小家となる」と書き、「住む人もこれに同じ」と添えられる。それも「二三十人が中」の「ひとりふたり」としての人間なのである。
  『方丈記』が教科書に出てくれば、教師は必ず無常観を口にするから、私もそのように読み取り、また生徒に教えて疑いもしなかった。そこには『方丈記』における「個我」の目覚め、などという問題意識はまるでなかった。
  しかし、3.11後に堀田善衛の『方丈記私記』が見直されたりしているのを見ているうちに、どうもそれでは済まないような気がしてきたのだ。大火や地震といった災害を見続け、飢饉や飢餓に立ち会いながら、これを書きとめようとする精神性とは何か、というようなことを考えだすと、少なくとも「達観」というような境地とは縁遠いところに立っていたのではないか、というようなことだろうか。
  同時代におきた保元の乱や平治の乱、壮年期に目の当たりにしたはずの源平の争闘に関する記述がないと指摘されるが、関心がなかったはずがなく、むしろ影響が重大であったからこそ、あえて論評を避けたと見ることの方が正しいと思う。

  「予ものの心を知れりしより、四十あまりの春秋を送れるあひだに、世の不思議を見る事やたびたびになりぬ。」

  鴨長明はこう書く。大火が起これば、火は風に煽られて扇形に燃え広がる。扇の要の地点が火元である。火元をたずねて出火の原因を探ろうとする鴨長明に「ヤジ馬根性」をみたのは堀田善衛であったか。
  私はむしろ「予」という主語の提示に、観察主体としての「自己」の自覚をみることが出来るように思ったのである。40余年にわたろうとする歳月の中で、有為転変する世を見ることが単に諦観とともにある一方的な受容ではなかったことの証が、大火が起これば火元を確かめずにはおられない行動であったのではないかと考えたのである。
  「自分」の目で確かめなければならない、と思い立ったとき、鴨長明は一個の能動体であった。「自分」の目という定点が得られた以上、その目が「我」と我をとりまく「世界」とに注がれないはずがない。
  古代から中世へという歴史的転換期にあって、その象徴となる政変に無関心であったはずもなく、おそらくは没落するみやびへの愛惜に止まるものではなかったはずだと考える理由もそこにある。

  「そもそも一期の月影かたぶきて、余算の山の端に近し。たちまちに三途の闇に向はんとす。」
  「みづから心に問ひていはく、世を遁れて山林に交るは、心ををさめて道を行はむとなり、しかるを汝、すがたは聖人にて、心は濁りに染めり」

  『方丈記』しめくくりの段である。観察の対象はすでに世事ではなく自己の内面に向かっている。「汝」と呼びかける相手は自分であり、ここにあるのは自問自答、すなわち心の中の対話である。悟りを得ようと「聖人」の道を求めながら、「心」はいまだ混迷にあるという。
  「知らず、生れ死ぬる人いづかたより来りて、いづかたへか去る」とうそぶきながら、たった一人生まれ、世界と自己を見つづけ、たった一人人生を閉じようとする姿勢に「個我」を見ずに何を「個我」というべきだろうか。
  近代における「個我」の揺らぎがあるとすれば、逆に「個我」の意識を近代にのみ特有のものと考える必要もないように思うのである。
   ※
  「方丈記」は仏教思想のプロパガンダでも、動乱期を記録した見聞録でもなかった、というようなことが書きたかったらしい。こうして考えてみると、「平家物語」で合戦に臨む武士が名のりをあげるのも、あるいは「個我」の自覚ではなかったかと考えるようになった。確かに「○○出身の」「○○一族の」「○○の一子の」のあとにやっと己の名が告げられるのだが、そもそも人間という存在が関係性の網の「目」にあり、それでいてかけがえのない「個」であるという両面性を有しているというのは当たり前のことなのである。武士達が一族の栄誉や家名を背負いながらも、自らの死と直面するという実存的な状況下で「個我」に目覚めていった、と考えることはそう不自然なことではないと思うのである。
   ※
  そもそも「個我」とは何か。字面からすれば「単独者としての・自意識」というところだろうか。あれこれ考えているうちに、苦しまぎれに昔読んだ本のことを思い出した。書棚を探したが見つからない。何という題名だったかを思い出せないままなのだから見つかるはずもない。(図書館で借りた本だったらしいと後で思い出す。)そうこうしていうちに、ノートをとってあったことを思い出した。ノートの方は見つかった。
  さて、その本(佐田啓一『個人主義の運命』)ではジンメルによる個人主義の二類型が紹介されている。①量的個人主義(単一性)と、②質的個人主義(唯一性)である。①を支えるものは理性であり、18世紀啓蒙主義による人間の尊厳の思想を背景とし、②を支えるものは個性であり、19世紀ロマン主義による自己発展の思想を背景としている。
  「単一性」と「唯一性」というのは分かりやすい。理性は普遍性と結びつき、個性は持続性と結びつく。つまり「個我」とは、自己の一体性(統一性)と連続性(持続性)を内容とする、人格的主体のことであるということになる。
 ただし、これらは近代思想の産物であり、ときとして揺らぐ。その揺らぎとは一体性と連続性の揺らぎである。そのことはここでは触れない。

「方丈記」『日本古典文学全集27』小学館
佐田啓一『個人主義の運命』岩波新書(1981)


by yassall | 2014-05-28 12:12 | 国語・国文 | Comments(0)

「明治の精神」覚え書き


 漱石の「こゝろ」を読んで、不可解さとして後に残るのは「明治の精神に殉死する」という件である。「先生」が自死を決意する契機となったことを押さえられればそれでいい、という読み方もあり得るだろうし、そもそもの動機をあいまいにしないためにも、あまりこだわり過ぎないのが正しいとも思う。

  「「明治の精神」への殉死は口実に過ぎない。乃木将軍が殉死したのに便乗し、個人的な理由で死ぬのである。」(島田雅彦『漱石を書く』)

 島田雅彦のような読み手がそういうのだから、おとなしく従っていてもいいとも思うのだが、やはりどうも気にかかるところである。といいながら、さしたる勉強もせずに来たが、少しきっかけのようなものがつかめたような気がしたので、覚え書きとして書いてみたい。
 覚え書きとしたのは、論文とするには先行する諸研究に対する目配りが絶対的に不足しているし、自分自身でも確信を持つまでには深められていないという自覚があるからである。とはいえ、うかうかしているとこのまま何も書かずじまいになってしまわないとも限らないし、ブログ(個人の記録)という発表形態であるなら、参考資料の出処など、多少のルーズさも許されると当て込んでのことでもある。なに、フリーで身軽な立場だからこそ、書いてしまえることもあるに違いない。

 最初に、問題となる箇所を本文で確かめておこう。

  「すると夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。其時私は明治の精神が天皇に始まつて天皇に終つたやうな気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、其後に生き残つてゐるのは必竟時勢遅れだといふ感じが烈しく私の胸を打ちました。私は明白さまに妻にさう云ひました。妻は笑つて取り合ひませんでしたが、何を思つたものか、突然私に、では殉死でもしたら可からうと調戯ひました。」(下五十五)
  「私は殉死といふ言葉を殆んど忘れてゐました。平生使ふ必要のない字だから、記憶の底に沈んだ儘、腐れかけてゐたものと見えます。妻の笑談を聞いて始めてそれを思ひ出した時、私は妻に向かつてもし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死するつもりだと答へました。」(下五十六)

 ただし、この時点では「私の答も無論笑談に過ぎなかつた」とあり、ただ「何だか古い不要な言葉に新しい意義を盛り得たやうな心持ちがした」と続けている。
 「先生」が自死を決意するのは「それから約一ケ月」の後である。「御大葬」が執り行われ、翌朝の号外で乃木大将の殉死を知る。

  「私は新聞で乃木大将の死ぬ前に書き残して行つたものを読みました。西南戦争の時敵に旗を奪られて以来、申し訳に死なう死なうと思つて、つい今日迄生きてゐたといふ意味の句を見た時、私は思はず指を折つて、乃木さんが死ぬ覚悟をしながら生きながらへて来た年月を勘定して見ました。(中略)乃木さんは此三十五年の間、死なう死なうと思つて、死ぬ機会を待つてゐたらしいのです。私はさういふ人に取つて、生きてゐた三十五年が苦しいか、また刀を腹へ突き立てた一刹那が苦しいか、何方が苦しいだらうと考へました。
   それから二三日して、私はとうとう自殺する決心をしたのです。」(下五十六)

 自分の解釈に都合のよいところだけを抜き書きする誤りを避けるため、少々長めに引用した。
 明治天皇の「崩御」にあたって、殉死という言葉が「新しい意義」をもって「先生」の心にある方向づけをしたのは確かだろう。だが、自死の決意を決定的にしたのは1ヶ月後の乃木大将の殉死である。それでは「先生」はそのどこに反応したのだろうか。
 すると、まっ先に注目されるのは乃木が「死ぬ機会を待つてゐた」というところではないだろうか。なぜなら、「先生」もまた「死んだ積で生きて行かうと決心」しながらも、生きることの苦痛に堪えかね、「今日に至る迄既に二三度運命の導いて行く最も楽な方向へ進まう」、すなわち自殺の誘惑にかられてきた人間であるからである。
 それまでその誘惑を押しとどめてきたものは「奥さん」の存在であった。「妻を一所に連れて行く勇気」はなく、かといって「私だけが居なくなつた後の妻を想像」すると不憫でならなかったからである。
 そんな「先生」に決意をうながしたもの、心の堰を切らせた力は、乃木の半生に対する共感であり、「死ぬ機会」の突然の提示である。それを便乗といってしまえばそれまでだが、冒頭に述べた「明治の精神に殉死する」ことを「先生」が自死を決意する契機ととらえる、というのはそういうことである。
 だが、もちろんそれでは終わらないだろう。殉死に見いだされた「新しい意義」とは何か、「其後に生き残つてゐるのは必竟時勢遅れだ」というのはなぜか、そもそも「明治の精神」とは何か、というあたりが焦点となり、問題を解く鍵ともなるだろう。そのような見当をつけながら先にすすんでみたい。

  2
 最初の段階で漱石の天皇・皇室観を見ておきたい。「日記」からよく引用されるのは次のような箇所である。

  「(行幸能にて)皇后陛下皇太子殿下喫烟せらる。而して我等は禁烟なり。(中略)若し自身喫烟を差支なしと思はゞ臣民にも同等の自由を許さるべし。」(1912、明45.6.10)
  「皇室は神の集合にあらず。近づき易く親しみ易くして我等の同情に訴へて敬愛の念を得らるべし。」(同)
  「晩天子重患の号外を手にす。(中略)川開きの催し差留められたり。天子未だ崩ぜず。川開きを禁ずるの必要なし。細民是が為に困るもの多からん。」(同、明45.7.20)

 これらをみるに、一般的な親愛の感情までも否定する必要はないものの、その神格化を否定し、「臣民」に「同等の自由」があるべきだとする漱石を、「明治の精神に殉死する」の件をもって尊皇主義者の仲間に加えることには無理があるように思われる。
 殉死とは「主君が死んだとき、あとを追って臣下が自殺すること」(「広辞苑」)である。しかし、漱石の中にそのような忠誠心や君臣一体のエートスを見いだすことはできない。

 1889(明22)年に制定された「大日本帝国憲法」は第1条で天皇の統治権を規定し、「天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ」(3条)としたが、天皇の絶対不可侵の度合を強めていくのは1910年(明43)の大逆事件のころからではないだろうか。その大逆事件で死刑となった幸徳秋水が草稿を書いたという直訴状をもって田中正造が直訴事件を引き起こしたのは1901年であるが、田中はそのことで罰を受けることはなかったのである。
 「大日本帝国憲法」はそもそもは立憲君主制の基盤として制定され、憲法学上では「天皇機関説」が主流であった時期の方が長く、一知半解のそしりを覚悟していえば、伊藤博文も立憲主義の立場から同様の憲法構想を持っていたという説を耳にした記憶がある。「天皇制」が猛威をふるうようになるのは治安維持法が制定され、さらには「統帥権」の名の下に軍部が独走するようになってのことである。「天皇機関説」が排撃され、『国体の本義』(1937、昭12)が編纂された4年後に日本は太平洋戦争に突入する。
 話が先へ行きすぎてしまったが、明治人の中には昭和期に出現したようなファナティックな尊皇主義はなかった、少なくとも一般的ではなかったと私は考えている。

  「彼はエゴイズムと愛の不可能性という宿痾に悩む孤独な近代人として生きなければならなかったが、明治天皇と乃木大将の殉死という二大事件のあとで、彼は突然、いわゆる「明治の精神」が彼の内部で全く死に絶えてはいなかったことを悟らねばならなかった。(中略)彼の一部が、おそらくは小説の主人公のかたちで、「明治の精神」に殉じられることを知ったのである。」(江藤淳『明治の一知識人』)

 桶谷秀昭はこのような江藤の「文章の主旨」におおむね「同意」するとしながら、「江藤淳のこの漱石像はかなり鷗外的ではないかという印象を受ける」といい、漱石は「古い「明治の精神」」を「明治の時代の終焉とともに背後に押し遣ったにちがいない」としている(桶谷秀昭『夏目漱石論』)。
 ここで「鷗外的」というのは、森鷗外が乃木殉死の5日後に行われた葬儀の日に「興津彌五右衛門」を中央公論社に届けたことを指している。
 森鷗外の方が乃木殉死に対する反応が早かった。「興津彌五右衛門」を読む限り、鷗外は乃木の殉死に過去の「武士道精神」が現代に甦ったことを感じ取っているように思われる。
 これは後から述べることになるが、一方の漱石は明治という時代とともに滅んでいく自分を殉死ということばの中に見ているというのが私の考えである。
 したがって、桶谷のいうような「時代の終焉とともに背後に押し遣った」というのとは少し異なるのだが、それを割り引いてみると、私は桶谷秀昭が正しいのではないかと考えている。
 脱線するようだが、このあたりが同じ保守派の論客といわれ、桶谷を師とよぶ長谷川三千子らと決定的に異なるところなのである。まず作品に対する向き合い方が異なる。思想に対する切実さが違うのである。

  「大正の文化を支配した普遍主義が、西洋市民社会の日本社会への内面化であるという幻想を知識階級に抱かせたときから、明治近代国家が帝国主義国家に変質し、まずアジアの中で急速に孤立の度を深めていったのは、皮肉な運命といわねばならない。」(桶谷秀昭『夏目漱石論』)

 桶谷が続けてこのように書くとき、ますますその思いは強まる。幸徳秋水らの大逆事件が引き起こされた1910年は韓国併合の年であり、日本帝国主義がアジアの植民地支配を本格化していく年でもあるからである。

  3
 それにしても「明治の精神」というものがあるとすれば、それはどのようなものなのであろうか。自明のことであるようにみえて、内実はさっぱりつかめない。
 苦しまぎれに保田輿重郎の「明治の精神」(1938)を読んでみる。すると昭和13年という時点であったからか、意外(?)な書きように驚かされる。
 保田は「世界的精神」こそが明治の精神であったといい、その象徴として岡倉天心と内村鑑三の二人をあげるのである。岡倉天心は「日本の美」を世界に発信した人、内村鑑三は無教会主義のキリスト者であり、非戦論の立場に立った人物であるが、内村のキリスト教は武士道精神と結びついていたともいわれる。したがって「世界的精神」とはいってもコスモポリタンとしてのそれとはやや性格が異なるようなのではあるが、決して偏狭なナショナリズムを強調しているわけではない。
 さらに保田は、「明治の精神は云はゞ日清日露の二役を国民独立戦争と考へた精神である」と書く。ここまで来ると昭和の右派イデオローグたる面目が顔をのぞかせる。だが、日清日露戦争に勝利したことをどう評価するかは別として、日本の国民が戦争の行方に自らの命運を見定めざるを得なかったということは確かであろうし、一蓮托生という意味での国民国家の形成がこの戦争期になされたと見ることは間違いとはいえない。
 すると、国権主義によるか、民権主義によるか、二つの流れに引き裂かれていたことはあるとしても、国家としての存立と独立という、近代国家建設への情熱と傾注こそ「明治の精神」であるといえるだろうか。
 それは具体的には「富国強兵」「殖産興業」としてすすめられた。その裾野では功成り名を遂げようと、政治、産業、軍事、医療、学問、教育、芸術など多様な分野で、多様な人びとの活動があったことだろう。それらをいちがいに「立身出世主義」と切って捨てることはできない。いうなれば「上昇志向」を基調とした「志を持って生きる」ことを「明治の精神」と呼ぶことができようか。

 その意味では、漱石もまた明治人であったということは可能だろう。若き日、正岡子規に宛てた手紙には「文壇に立て赤幟を万世に翻さんと欲せば」、「洋文学の隊長とならん」、「愛国心ある小生」、「狭くいえば国の為め大きくいえば天下の為め」といった、友人相手のややおどけた口調でありながらも、気負いに満ちたことばが散見される。「何をして好いか」少しも見当がつかないながら、「私は此世に生まれた以上何かしなければならん」という悶々とした思いをかかえていたことを後年に告白もしている(「私の個人主義」1914、大3)。
 だが、こうした「事業意識」ともいうべき心情が存在したことをもって、漱石が明治という時代を肯定的に見ていたとか、ましてや礼賛しているとかみるのは早計といわざるを得ない。

 「三四郎」(1908)では、熊本の高等学校を卒業し、帝国大学に進学をきめた小川三四郎が上京の途次で広田先生と同じ列車に乗り合わせ、日露戦争後の世情について次のような会話をかわす。

  「「然し是からは日本も段々発展するでせう」と弁護した。するとかの男は、すましたもので、「亡びるね」と云った。」

 また、大逆事件の翌年に行われた講演「現代日本の開化」(1911)では、日本の「開化」(=近代化)は「外発的」であるとして、「日露戦争以降、世界の一等国の仲間入りをした」かのような世相を批判した。
 さらに遡れば、日露戦争終結の翌年に書かれた「坊っちゃん」(1906)は江戸っ子気質を残す坊っちゃんと会津出身の山嵐を主人公としているが、山嵐が辞職を迫られ、これに憤慨した坊っちゃんも辞表を叩きつけるきっかけとなった中学校同士の大げんかは日露戦争祝勝会の日の出来事なのである。いわずもがなだが、江戸は明治維新を推進した「官軍」によって開城され、会津は会津戦争によって「官軍」に攻め滅ぼされた。「坊ちゃん」で漱石はこの二人が何を怒り、何とたたかう姿を描こうとしたか、そう考えればことは単純な痛快譚では終わるはずもないのである。

  「漱石を官命によって洋行させた明治国家は、漱石が神経衰弱をつのらせ発狂の噂まで滞英邦人間に立てられたほど悪戦苦闘に貢献せんとした国家とは決定的にずれていたことである。」(桶谷秀昭『夏目漱石論』)

 桶谷もまたこのように書くのである。

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 「明治の精神に殉死する」といっても、旧世界の規範意識としての忠誠心から発するものではなく、「近代国家」建設にあけくれた明治に対する愛惜の情から発するのでもないとすれば、いよいよ八方ふさがりの態である。
 ここでもう一度、問題となっている本文にもどってみよう。

  「最も強く明治の影響を受けた私どもが、其後に生き残つてゐるのは必竟時勢遅れだといふ感じが烈しく私の胸を打ちました。」

 漱石を反近代主義者とみなすことは適当ではない。実際に現前することになった明治国家に対して肯定的でなかったとしても、漱石もまた日本的近代の探究のために「悪戦苦闘」した一人であることには間違いなく、「最も強く明治の影響を受けた」ことの真実は揺らがない。漱石の文明批評の鋭さとその未来までも見通した射程の長さをみるならば、むしろその可能性も不可能性も含めて、最も深く近代日本の進路を探っていったのが漱石であったと言って言い過ぎではない。

  「維新の革命と同時に生まれた余から見ると、明治の歴史は即ち余の歴史である。」(「マードック先生の日本歴史」1911、明44)

 修善寺の大患の翌年、漱石がこのように書いたのは明治天皇崩御の一年前のことである。

 最後の問題は、「時勢遅れ」とはどのような感情であるか、である。明治とともに生きたという自覚にある者が、その終わりにあたって自らの引き際を感じ取ったということなのか。それはなぜか。漱石が思い描いたところの日本近代と、あるいはついに思い描き切れなかった日本近代と、日露戦争後に現前した明治日本との乖離への絶望感なのか、はたまた重大な健康不安をかかえるに至った漱石自身の、己が人生のある内での達成への断念なのか。
 ここで一気に「こゝろ」全篇に視野を拡大してみよう。「中 両親と私」は短い章であるが、病気を患った父親の子の行く末に対する心配や期待、つまりは家族のつながり、世間的価値観に対する気配りと受容、勤労や質素倹約を尊ぶ伝統的価値観といった、いうなれば現実世界を構成している庶民一般の生活意識がどのようであったか、決して漱石がそれらを視界の外に置いてはいなかったことを示して重要である。
 そして、そうした生活意識からまさに離脱しようとしている青年「私」が置かれるとき、時代の継ぎ手であり、また新たな時代の創造主体である「青年」に漱石の最後の期待があったと考えるのはそう見当違いのことではないように思われる。
 私は先に、漱石は明治という時代とともに滅んでいく自分を殉死ということばの中に見ている、と書いた。その滅びへの傾斜とは同時に再生への願望である。

 
  「一つの時代の終わりは新しい時代の始まりでした。というより、新しい時代はすでに始まっていて、天皇の死とともに古い時代が完全に終わったと感じたのです。「明治の精神」に支配される自分達は時代遅れだという自覚と、新しい時代の青年に対する期待が、先生の遺書には強く感じられます。」(伊豆利彦『夏目漱石』)

 伊豆利彦は民主文学の立場に立った研究者であり、その漱石論も拠って立つところは鮮明なのであるが、次のような一節をみるならば、決して自らの見地に引き寄せ過ぎているとは言えないのである。

  「私は今自分で自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に浴びせかけようとしているのです。私の鼓動が停まった時、あなたの胸に新しい命が宿る事が出来るなら満足です。」(下二)

  「明治の精神に殉死する」こととは、ひとつの時代の終焉にあたって、燃焼し尽くそうとするものの中から次世代に受け渡すべきものを拾い出そうととすることであった。「こゝろ」の執筆と同時期になされた講演「私の個人主義」を読んでみると、それが間違ってはいないことを確信するのである。

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 それでは漱石が次世代に引き継ごうとしたものは何であったのか、もうひとつの出口を塞ぎながら考えてみよう。
 もうひとつの出口といったのは、「最も強く明治の影響を受けた私ども」とあるうちの「私ども」にかかわっている。「ども」は複数化のための接尾語であるが、ここでは「私」という個人ではなく、同時代を生きた世代一般をさすか、「私」を特化しないためのあいまい表現とみるのが正しいのかもしれない。だが、どうしても「K」の存在を意識してしまうのは、「先生」の直前の回想に次のような一節があるからである。

  「私もKの歩いた路を同じやうに辿つてゐるのだといふ予覚が、折々風のやうに私の胸を横過り始めたからです。」(下五十三)

 「K」における「理想と現実の衝突」の問題についてはここではふれない。ただ、「K」もまた新しい時代の哲学の探究者であったとだけ述べておきたい。「先生」が「Kが私のやうにたつた一人で淋しくつて仕方がなくなった」というとき、その淋しさとは次のようなものである。

  「自由と独立と己とに充ちた現代に生まれた我々は、其犠牲としてみんな此淋しみを味はわなくてはならないでせう」(下十四)

 しかし、「自由と独立と己」とは、漱石が到達したところの「自己本位」の思想の生み出すものではないだろうか。それでは「自由と独立と己」と引き換えに失われたもの、それは「天」であったり、「自然」であったりするのかも知れないが、それらを惜しみ、「淋しみ」としてこだわり続けているところに「時勢遅れ」という自己認識があったのだろうか。
 私が塞いでおきたい出口とは、ここから漱石が近代主義から転向し、旧世界的な倫理観に舞い戻ったのだ、というような見方である。

  「小説『心』は、心は心を欺くという主題を描いていた。先生は「私は私自身さへ信用してゐないのです」と〈私〉に語っていた。これは完全な「自己」否定を意味する。「自己本位」の崩壊が、これほどまでに明白に語られているのである。そして「自己本位」の否定は、とりもなおさず「私」の否定にほかならない。先生の「私」は完全に否定されている。これが「則天去私」の「去私」に当たることは、明らかであろう。」(今西順吉『「心」の秘密』)

 今西順吉は仏教者の立場からの漱石の研究者である。インド哲学に関する豊富な知見を駆使し、「識」から作品世界を解明していくさまは「こゝろ」という題名の意味を改めて考えさせられ、多くの示唆に富むものである。しかしながら、反近代主義とは異なるとはいえ、「こゝろ」執筆時、漱石はすでに「自己本位」の思想を否定するに至っていたという説には疑問がある。時期を同じくする「私の個人主義」で「自己本位」の思想を強調したのは、ロンドン留学時代の自分を語ったものであり、学習院の学生相手のものであったからだとか、新しい思想が十分に構築されていなかったからだというのにも無理があると思われる。
 確かに漱石は、「近ごろは自我とか自覚とか唱えていくら自分の勝手なまねをしてもかまわない符丁に使うようです。」(「私の個人主義」)として、私利私欲に固まった個人主義を批判している。しかし、もともとそれは漱石のいう「自己本位」の思想とは別のものである。
 自己が自己として存立しながら他者とつながることを可能にすること、個人の自由が万人の自由であることが可能であるような社会を築くこと、矛盾を矛盾として保持しながらその統一をめざすこと。「自己本位」の思想が否定されたというより、より高い次元への止揚をはかろうとしたところに漱石の思索の発展があったと思いたいのである。
 晩年の漱石が至ったという「則天去私」の境地とは、その矛盾を投げ捨てることではなく、矛盾を矛盾として支える力を得たということではないのか。
 漱石の苦悩をつかみ、その思索の深さを引き継ぐとは、そういうことでなければならないと思うのである。

 ※夏目漱石の「こゝろ」については、以前に「『こころ』断章」を書きました。上はその補論として書いたものです。言葉足らずのところを補う意味で、あわせてお読みいただければ幸いです。

《参考文献》
本文で引用した参考文献は以下の通りです。

島田雅彦『漱石を書く』岩波新書(1933)
桶谷秀昭『夏目漱石論』河出書房新社(1972)
桶谷秀昭『文学と歴史の影』北洋社(1972)
保田輿重郎「明治の精神」『戴冠詩人の御一人者』所収(「保田輿重郎文庫」新学社版は2000)
伊豆利彦『夏目漱石』新日本新書(1990)
今西順吉『「心」の秘密』トランスビュー(2010)
水川隆夫『夏目漱石「こゝろ」を読みなおす』平凡社新書(2005)

 ※今西順吉『「心」の秘密』については、引用部分については否定的な見解を述べましたが、漱石と禅宗とのかかわりはもちろん、「こゝろ」には「先生」と浄土真宗、「K」と日蓮宗など、宗教的見地からの解明が待たれている問題も残されていると思われます。明治期の仏教革新運動が「K」に影を落としているという他の研究者の指摘もあります。その意味で、決してないがしろには出来ない書物であることをくり返しておきたいと思います。

《改稿の記録》
2014.5.13 冒頭部を一部改稿。「明治の精神」にこだわりすぎるともともとの自死の動機を見失ってしまう危険性がある。



by yassall | 2014-05-12 11:43 | 国語・国文 | Comments(0)

柄谷行人『遊動論』

 柄谷行人が『畏怖する人間』(1972)で古井由吉の「杳子」を読み解いていく様に圧倒された記憶は今も鮮明である。だから最初は「内向の世代」によりそう文芸評論家として柄谷は出現した。
 連合赤軍事件がきっかけだったというが、その後『マルクスその可能性の中心』(1978)を発表した辺りから今日の思想家としての営為に重点が移っていったようだ。
 折からのニューアカデミズムブームと併走しているようにみえながら、流行思想に便乗しているのとは違って、問題意識の在処が強固で、時代に対抗し得る新しい思想を構築しようとしていることは理解できるのだが、抽象度が高く暗喩に満ちた文章は難解でなかなか近づけなかった。
 『倫理21』(2000)を読んだとき、柄谷がしようとしていることが少し理解できたような気がし、柄谷へのインタビューで構成された『政治と思想 1960-2011』(2012)でその全容に対する見通しが開けたように思えた。
 『トランスクリティーク カントとマルクス』(2001/岩波現代文庫2010)は、やはり大部で難解な書物であったが、なんとか読み通した。内容を完全に理解し得たとはいえない段階であるが、博覧強記を越えて、人類的〈知〉と向き合おうとしていることは分かるし、その足跡をたどっていけば未来が見えるというような確証には至らないまでも、決してないがしろにはできない思索なのだと直観させられるものがあった。
 さて、今回『遊動論』をとりあげようと思ったのは、先に村井紀『南島イデオロギーの発生』(1992福武書店/2004岩波現代文庫)を読んでいたからである。
 『南島イデオロギーの発生』は副題を「柳田国男と植民地主義」とし、柳田国男および日本民俗学と植民地との関わりを明らかにしようとした書物である。
 1910年の「韓国併合」にあたって、柳田国男が内閣書記官として法制作成にあったことは事実であるらしく、村井の柳田批判は「「朝鮮」問題をこの「南島」によって隠蔽した」とし、「同質的な日本という作為された「政治」的な神話(イデオロギー)を作り出す役割を担わされている」というものである。
 沖縄には「琉球国」として独自の主権を確立していた歴史があり、明治日本の廃藩置県にあたって、いわゆる「琉球処分」によって日本に編入したことは沖縄の植民地化だった、というのは間違いとは言えない。すると、柳田の「日琉同祖論」はその正当化のためのイデオロギーであったというのは説得力がある。
 ただ、柳田国男の他の言説との整合性から、その認識を持ち続けるには心のどこかで何となく違和感を感じていた。
 『遊動論』は柳田国男を再評価しながら、持論である「国家」や「資本」から独立した「アソシエーション」という理論を展開しようとした著者の最新刊である。
 柄谷は村井の著作にも触れ、「琉球処分は植民地支配」であることを認めつつも、柳田が日本の植民地支配には批判的であったこと(「日朝同祖論」には与せず「皇民化」政策には反対していた)、日本文化の基底をなすものとして「日琉道祖論」に立つものの、沖縄が不平等に扱われることには異議を唱えていたことをあげ、村井の先のような見地を退けている。
 柄谷の「アソシエーション」論は「協同組合」論として展開される。「オヤ・コ」はもともと労働組織(親方=親分・子分、ウミノオヤ)であったこと、日本には服従関係を伴うその関係以外に「ユイ」という対等・相互組織も存在したというようなことが述べられる。
 農政家としての柳田の姿勢は一貫していたといい、少年期に飢饉を体験したことから「経世済民」思想が原点にあり、農民の救済を目的とする三倉(義倉・社倉・常平倉)を再評価していたことなどが述べられる。
 柳田は「山人」研究を放棄して「常民」論へ移行したのではなく、定住=農耕文化とは異なった山人=非定住民の文化を探究する中で、新しい社会のあり方の可能性を発見しようとの試みを持ち続けていたというのである。
 これらは柳田を柄谷の思想に引きよせ過ぎているという印象は確かにある。また、柄谷自身の思想も、ややもすれば「空想的社会主義」と批判されてもやむを得ない一面を持つだろう。
 しかし、つぎのような引用は柄谷の柳田解釈が決して的外れでないことを証明してはいないだろうか。

 「此山村には、富の均分というが如き社会主義の理想が実行せられたのであります。『ユートピア』の実現で、一の奇跡であります。併し実際住民は必ずしも高き理想に促されて之を実施したのではありませぬ。全く彼等の土地に対する思想が、平地に於ける人々の思想と異なって居るため、何等の面倒もなく、斯かる分割方法が行わるるのであります。」(「九州南部地方の民風」)

 さらには幸徳秋水らが「共産党宣言」を翻訳したのが1904年、『遠野物語』が刊行されたのが大逆事件のあった1910年であることにふれ、「願はくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ」という激越な序が、「一つの妖怪がヨーロッパをさまよっている」という「共産党宣言」の書き出しを想起させるとまで書いている。
 これは柳田からの引用ではないのだが、宇沢弘文の「社会的共通資本」の概念を援用して、「コモンズとしての農村」といった問題も提起している。今日、里山の荒廃が指摘されているとき、山林や田畑が果たしてきた治水・保水のことを考えれば、私有財産制を越えた社会の可能性があったかも知れないこと、未来に向かってあり得ることは、大きな示唆を与えてくれるのである。
 『トランスクリティーク』では、つぎにようなマルクスのことばも引用していることも紹介しておこう。

 「もし連合した共同組合組織諸団体が共同のプランにもとづいて全国的生産を調整し、かくてそれを諸団体のコントロールの下におき、資本制生産の宿命である不断の無政府と周期的変動を終えさせるとすれば、諸君、それは共産主義、“可能なる”共産主義以外のなんであろう」(「フランスの内乱」)

 母系でも父系でもない双系制の社会が日本にあったとか、先の「社倉」の理論化と実行は南宋の朱子によるものであったとか、新書版でありながらともかく知的な刺激に富んだ書物である。

柄谷行人『遊動論』文春新書(2014)

《追記》
 実は『畏怖する人間』は長いこと行方不明になったままだった(誰かに貸したままになっているのだ)。講談社文芸文庫に収められたのは知っていたので、いつだったか三省堂で探したことがあったのだが、見つからなかった。著者が絶版にしてしまったという話を聞いたことがあったような気がしたので、そのまま諦めていたのだが、今回このような文章を書き、気になってネットで検索したらamazonで注文できた。
 今日届いたのだが、パラパラめくってみると、やはり記憶違いがあった。「「杳子」を読み解いた」と書いたが、「杳子」のみを取り上げて論じた文章はなく、「閉ざされたる熱狂」を中心に古井由吉を論じた文章が長短いくつかあり、それぞれで「杳子」に触れているのだった。
 中村泰行『ポストモダニズムの幻影』(1989)の柄谷の項も読みなおしてみた。柄谷が江藤淳と親和性が高いというのは事実であろうし、戦後日本社会に対する違和感を思想的な原点に持っているという共通点の指摘も正しいのだろう。批判の論点は明快であるし、私も「ポストモダニズム一般」はこれで切って捨てたように考えていた時期もあった。
 だが、明快である分、一方的な決めつけはぬぐいがたく、ややもすればイデオロギー暴露で終わってしまう嫌いもある。中村は「解体批評」を「解体=はぐらかす」ことだけを目的とした主観的な印象批評と断じているが、「内向の世代」という同時代で進行している作家たちの解読に私が驚嘆したのは、「ずらす=はぐらかす」という批評態度から生まれたものではなかったに違いない。
 「脱構築」とか「解体構築」というとさも目新しく感じられるが、ひとつの作品(テキスト)に対して、先入見を可能な限り排し、あくまでテキストに沿いつつ、新しい読み方を試みること、今日的な意義をつかみ取ろうとすることは、むしろ正統ともいうべき批評態度ではないだろうか。ましてや既存の価値観がゆるぎ、新しく引き起こされている現象を説明し得ることばが失われた時代であればなおのことである。(1月30日)


by yassall | 2014-01-28 15:09 | | Comments(0)