資料「学校図書館政策の変遷」

 学校図書館政策の変遷 2010/8
                                        
0.戦前における学校図書館政策
 1873(明治6)年 文部省『小学校建設図』書籍室(図書室)あるもほとんど作られず。
 1924(大正13)年 文部次官通牒『文部時報』「近来小学校ニ於テ教科書ノ解説書若クハ教科書類似ノ図書ヲ副教科書又ハ参考書ト称シテ使用セシムル向有之ヤノ趣右ハ教育上尠カラザル弊害ヲ来スルモノト存ゼラルルニ付厳重ニ御取締相成依命此段通牒ス」
※大正自由主義教育に対する対応か?
 1928(昭和3)年 「御大禮記念事業勧奨ニ関スル件」児童文庫・図書室の設置
 1938(昭和13)年 内務省「児童読物改善ニ関スル指示要綱」
 1939(昭和14)年 文部省「児童図書推薦事業」良書・善導教育

1.戦後初期の学校図書館政策
 1946(昭和21)年 文部省『新教育指針』「図書室・実験室・工作室・保険設備、その他の教室などは、もっと内容が充実せられた上に、もっと自由に使用しうるように、児童に開放されることが重要である」
 1947(昭和22)年 「教育基本法」
 1947(昭和22)年 「学校教育法施行規則」「学校には、別に定める設置基準に従い、その学校の目的を実現するために必要な校地、校舎、校具、運動場、図書館又は図書室、保健室その他の設備を設けなければならない」
 1948(昭和23)年 文部省『学校図書館の手引き』「学校図書館は、新しい教育においては、きわめて重要な意義と役割を持っている」
 1949(昭和24)年 学校図書館協議会『学校図書館基準』(~1959年)
※学校図書館協議会は文部省の諮問機関として1948年に設置。
※1949年文部省『学校図書館の手引き』をテキストに講習会(学校図書館協議会)を開催。
※上記講習会参加者を中心に各地で学校図書館協議会を設立。1950年全国学校図書館協議会(全国SLA)設立。

2.「学校図書館法」の成立と展開
 1953(昭和28)年 「学校図書館法」成立
※国民運動:全国SLAによる請願署名92500名余。
※議員立法:
※『基準』の法制化から「学校図書館法」へ:
※第15国会「幻の学校図書館法」:免許制の司書教諭
 1954(昭和29)年 文部省「学校図書館司書教諭講習規程」告示
 1958(昭和33)年 「学校図書館法」一部改正:13条国庫負担金は高校のみに。
 1966(昭和41)年 「学校図書館法」一部改正:学校図書館審議会を規定した2章8~12条を削除
 1972(昭和47)年 「学校図書館法」改正案衆院通過後廃案:附則2項撤廃、学校司書制度化

3.50・60年代の学校図書館政策
 1958(昭和33)年 文部省『学習指導要領』改訂:「学校図書館の資料や視聴覚教材等については、これを精選して活用すること」
 1959(昭和34)年 文部省『学校図書館運営の手引き』:教材センター
 1960(昭和35)年 文部省『学校図書館における図書以外の資料の整理と利用』:資料センター
 1967(昭和42)年 文部省「公立高等学校の設置、適正配置及び教職員定数の標準等に関する法律」一部改正:学校図書館事務の充実を図るため、生徒数810名(その後の改正で18学級、さらに1992年12学級以上に)以上の全日制の課程または定時制の課程について事務員1名を加算」※義務制の学校については翌年「学校図書館の重要性とその事務量を考慮して」

4.「学校図書館法」の改正
 1997(平成9)年 「学校図書館法」一部改正:附則2項「当分の間」を「平成15年3月31日までの間(政令で定める規模以下の学校にあっては当分の間)」に
 1997(平成9)年 文部省「学校図書館の充実等に関する調査研究協力者会議」設置
 1998(平成10)年 文部省「学校図書館司書教諭講習規程の一部を改正する省令」
   ※学校図書館通論(1)、学校図書館の管理と運用(1)、図書の選択(1)、図書の整理(2)、図書以外の資料の利用(1)、児童生徒の読書活動(1)、学校図書館の利用指導(1)の7科目8単位から、学校経営と学校図書館(2)、読書と豊かな人間性(2)、学校図書館メディアの構成(2)、情報メディアの活用(2)、学習指導と学校図書館(2)の5科目10単位へ
   ※1975年『覚書』=「四者合意」
    1977年『学校図書館法改正法律案要綱』(「四者合意案」)
    1978年 衆議院法制局『学校教育法及び学校図書館法の一部を改正する法律案』(試案)
    1980年『学校教育法及び学校図書館法の一部を改正する法律案要綱』提出
    1981年四者話し合いで、日教組は「『四者合意』をふまえながらも当面、最重要課題として『学校司書』の制度化の運動を先行させたい」。日高教は賛意。
    1987年 日教組臨時大会『新しい司書教諭制度=専任司書教諭制度』機関決定
   ※1993年「子どもと本の議員連盟」設立

5.新しい時代の到来と学校図書館
 (1)「教育改革」「新しい学力観」との関連
 1989(平成1)年 文部省『高等学校学習指導要領』改訂:「視聴覚教材や教育機器などの教材・教具の適切な活用を図るとともに、学校図書館を計画的に利用しその機能の活用に努めること。」 
 1998(平成10)年 文部省「情報教育の推進等に関する調査研究協力者会議」『最終報告』「学校図書館が学校の情報化の中枢的機能を担っていく必要が有ることから、今後、司書教諭には、読書指導の充実とあわせ学校における情報教育推進の一翼を担うメディア専門職としての役 割を果たしていくことが求められる」
 (2)子どもの変化と新しい課題
 2001(平成13)年 文科省「子どもの読書活動の推進に関する法律」
 2002(平成14)年 文科省「子どもの読書活動の推進に関する基本的な計画」:「学校図書館は、児童生徒の自由な読書活動や読書指導の場として、さらには想像力を培い学習に対する興味・関心等を呼び起こし豊かな心を育む読書センターとしての機能と、児童生徒の自発的、主体的な学習活動を支援し、教育課程の展開に寄与する学習情報センターとしての機能を果たし、学校教育の中核的な役割を担うことが期待されている。特に、学校教育においては、児童生徒が自ら考え、主体的に判断し、行動できる資質や能力などの「生きる力」を育むことが求められており、学校図書館には、様々な学習活動を支援する機能を果たしていくことが求められる。」
 2002(平成14)年 「学校図書館図書整備5か年計画」
 2002(平成14)年  中教審「新しい時代における教養教育の在り方について」答申:「美術館や博物館,図書館等が子どもの教育に取り組むことは,子どもの教養の涵養にとっても,これら施設の活性化にとっても意義が大きい。」
 2005(平成17)年 文字・活字文化振興法:「国及び地方公共団体は、学校教育における言語力の涵養に資する環境の整備充実を図るため、司書教諭及び学校図書館に関する業務を担当するその他の職員の充実等の人的体制の整備、学校図書館の図書館資料の充実及び情報化の推進等の物的条件の整備等に関し必要な施策を講ずるものとする。」
 2008(平成20)年 文科省「子どもの読書活動の推進に関する基本的な計画(第二次計画)」
 2009(平成21)年 文科省「これからの学校図書館の活用の在り方等について(報告)」子どもの読書サポーターズ会議:(発足は2007年)
※2003・2006年OECD(経済開発機構)生徒の学力到達度調査(PISA):読解力

6.「新学習指導要領」と学校図書館
 (1)『総則』
「学校図書館を計画的に利用しその機能の活用を図り、生徒の主体的、意欲的な学習活動や読書活動を充実すること。」(「5教育課程の実施等に当たって配慮すべき事項」(11))
 (2)『国語』
「自分の読書生活を振り返り、読書の幅を広げ、読書の習慣を養うこと。」(「国語総合」 「3内容の取り扱い」)
 (3)『総合的な学習の時間』
「横断的・総合的な学習や探究的な学習を通して、自らの課題を見付け、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する資質や能力を育成するとともに、学び方やものの考え方を身に付け、問題の解決や探究活動に主体的、創造的、協同的に取り組む態度を育て、自己の在り方生き方を考えることができるようにする。」
 (「目標」)
「学校図書館の活用、他の学校との連携、公民館、図書館、博物館等の社会教育施設や社会教育関係団体等の各種団体との連携、地域の教材や学習環境の積極的な活用などの工夫を行うこと。」(「指導計画の作成と内容の取扱い」)

 「学校図書館はまた指導機関である。問題解決のために図書館を有効に利用する方法を会得させ、読書指導によって読書の習慣づけ・生活化を教え、図書館利用を通して社会的民主的生活態度を経験させる。」(『学校図書館基準』1959)


補.「学校司書」の法制化の展望

○「学校図書館基準」(1959)
「学校図書館に司書教諭および事務職員を置く。」
○「学校図書館法の一部を改正する法律等の施行について(通知)」(1997/6/11)
「学校図書館担当の事務職員は、図書館サービスの提供及び学校図書館の庶務・会計の職務に従事
しているもの」
○「子どもの読書活動の推進に関する基本的な計画」(2002/8)
「学校図書館を担当する事務職員は、司書教諭と連携・協力して、学校図書館に関する諸事務の処 理に当たっている。今後、学校図書館の活用を更に充実するため、各地方公共団体における事務職員の配置の取組を紹介して、学校図書館の諸事務に当たる職員の配置を促していく。」
(旧案『学校図書館を担当する事務職員は、司書教諭を補佐し、学校図書館に関する諸事務の処理に当たっている。』)
○「文字・活字文化振興法」(2005)
 2 国及び地方公共団体は、学校教育における言語力の涵養に資する環境の整備充実を図るため、司書教諭及び学校図書館に関する業務を担当するその他の職員の充実等の人的体制の整備、学校図書館の図書館資料の充実及び情報化の推進等の物的条件の整備等に関し必要な施策を講ずるものとする。(8条)
○「学校図書館のチカラを子どもたちのチカラに」(2008/6)
 「学校図書館活動の充実を図る上では、例えば高校だけでなく、小中学校にも「学校司書」を配置して、司書教諭等と連携しながら、多様な読書活動を企画・実施したり、図書サービスの改善を図ったりしていくことなども有効です。」(学校図書館の諸事務に当たるいわゆる「学校司書」は、各地方公共団体・学校の実情に応じて、その配置が勧められてきています。)
○「これからの学校図書館の活用の在り方等について(報告)」(2009/3)
 「学校図書館の業務の専門性を考え合わせると、専門的な知識・技能を有する担当職員である、いわゆる「学校司書」の役割が重要となる。学校図書館担当職員については、現在、その職務内容の実態等は様々となっているが、「学校司書」として、図書の貸出、返却、目録の作成等の実務のほか、資料の選択・収集や、図書の紹介、レファレンスへの対応、図書館利用のガイダンスなど、専門性を求められる業務において大きな役割を担っている例が少なくない。」
○中教審「今後の学級編制及び教職員定数の改善について」答申(2010/7)
 「学校教育の中で学校図書館が十分に活用され読書活動が推進されるよう、学校図書館業務の充実に向けた教職員定数の改善が必要」


《参考文献》
「学校図書館法改正」 全国学校図書館協議会(1983)
「学校図書館論」塩見昇 教育史料出版会(1989)
「学校教育と図書館」 第一法規(2007)
「学校図書館の光と影」 八千代出版(2007) 
# by yassall | 2012-11-26 13:37 | 学校図書館 | Comments(0)

紅葉の長瀞

 11月22日、紅葉を撮りに長瀞へ行って来ました。長瀞はかれこれ15年ぶり。もちろんその当時はフィルムカメラでした。
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 三連休の前日ということで観光客はそこそそ。それでもライン下りの舟がつぎつぎ下って来ました。
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 ここ一週間かなとは思っていましたが、午後から晴れという天気予報が当たりそう!というのを確認してからの出発でした。空模様を見てからでも間に合うのが東上線沿線族の利点ですね。
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 紅葉は町のHP情報ほどではありませんでしたが、もう少しもう少しと思っているうちに盛りが過ぎてしまうのも紅葉。青空の下、日光に輝く赤や黄に色づいた葉を見られれば満足です。
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 今回はこれまでパスしていた宝登山神社も参拝して来ました。
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 機材はG3。主としてオリンパスの9-18mmをつけて使っています。望遠側をカバーするため、Nikonのs8200をサブカメラとして持って行きました。帰りがけの夕空にかかっていた月をパチリ。
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# by yassall | 2012-11-22 18:08 | 風景 | Comments(0)

2012年埼玉県高等学校演劇中央発表会

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 11月17、18日と高校演劇中央発表会に行って来ました。会場は今年も彩の国さいたま芸術劇場(写真)。
 昨年度は西部A地区から新座柳瀬高校、元西部A地区のS先生が顧問でおいでの県立坂戸高校が出場したこともあり、なんで定年退職後にと思いながら出かけて行きましたが、なんと今年は二日間とも朝一から、昨日は6校、今日は4校のお芝居を見させてもらうことになりました(現役時代以上の熱心さ)。
 舞台の上の主役はあくまで生徒! 若い人たちが短い期間の間に才能を開花させ、舞台の上で輝いている姿は本当にまばゆいばかりです。
 『存在と時間』の著者ハイデガーは、存在が〈現〉われるためには光が必要である、光に照らし出されることによって初めて存在が〈現〉われるのだ、というようなことをいっているそうです。
 スポットライトに照らし出された舞台の上の役者そのものではないでしょうか? あたかもそこで初めてその人本来の姿が実現されているようにさえ思われてなりません。
 今年、関東大会へ選ばれた学校は筑波大付属坂戸高校、入間向陽高校、秩父農工科学高校の3校でした。ひるがえって、他の7校はこの県中央大会が最後の舞台になったわけですが、君たちは輝いていたよ、そのことを私は忘れないよ、といってあげたい気持ちです。

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 会場の最寄り駅、与野本町駅前のプロムナードに小バラ園があります。卒業生の中には懐かしいと感じる人もいるのでは。今年もきれいに咲いていました。




 
 
 
 
# by yassall | 2012-11-19 00:53 | 高校演劇 | Comments(1)

村上春樹『1Q84』

 村上春樹の『1Q84』をやっと読んだ。やっと、というのは読み終わるまでに時間がかかった、という意味ではなく、かつての同僚やさらには生徒からも「面白かったですよ。」とか「読んでみたら。」とすすめられながら、なかなか手に取る気になれなかったという意味である。
 もう発表されてからずいぶん時間がたったので、おそらくは精緻な読解がなされているのだろう。それらを参照することもなく書き始めるので、いかにも底の浅いものになってしまうだろうが、感想など記してみたい。

 まず、文庫本で6冊になる大部を一気に読ませる筆力はなかなかのものだと思う。仕掛けに手が込んでいて、さまざまに配置された暗喩も、謎が謎を生む迷宮仕立てになっている。 

 だが、謎が謎のまま放置されているケースも多く、たとえばプロローグに登場するタクシーの運転手などはかなり魅力的に造形されているが、「見かけにだまされないように」という暗示的な忠告ともどもそれきりになっている(ように見える)。全体としてなにか生煮えのままの料理を食べさせられているような不満を感じたことも確かだ。

 この作品に先立って『アンダー・グラウンド』があることから、オウム事件を背景にしていることが推察されるが、カルトがなぜ人間の心をとらえるのか、またカルトにとらえられた人間とその集団がどうなっていくのかについても深められている様子がない。(作品を読んでみると、描かれている宗教集団「さきがけ」はオウムというより、ヤマギシ会に近いような気もする。オウムとヤマギシは明らかに違うし、ヤマギシに飛び込んで行った知人もいるので、カルトとして同一視するのもためらわれるが…。)

 「世界とは、「悲惨であること」と「喜びが欠如していること」との間のどこかに位置を定め、それぞれの形状を帯びていく小世界の、限りない集積によって成り立っているのだという事実を、窓の外のその風景は示唆していた。」(2-12章)

 もしかすると、これが村上春樹の世界観の基底をなしているのでないかと考えてみる。「生きるとは雪かきをするようなもの」「ゼンマイ仕掛けの時計のように生きる」(正確でないかも知れない)といった、これまでの作品の端々に散見される呟きとも共通している。
 そうしてみると、青豆と天吾の「僕らがこうして出会うこと」が「この世界に入ってきた目的」(3-30章)というクライマックスは、壮大な恋愛劇として、作者が自らのペシミズムを克服しようとする試みであるのかとも考えた。久しぶりに「対幻想」などという言葉も連想した。
 だが、青豆や天吾の造形に問題はないだろうか。青豆は自分が手を下した殺人行為に裏切られることはないのだろうか。間テキスト理論を持ち出してしまえばそれまでだが、仕立ては池波正太郎の梅安さながらに暗殺者として設定してしまうと、人物造形に矛盾や破綻が避けがたく生じてしまうように思われる。やがて青豆は新しい生命を宿すものとなるのだから。

 最後に。
 この作品を父と子の物語として読むと、これまでとまったく様相が変わって、なにか突き刺さってくるもの、それでいて心の底で凍りついていたものが溶かされていくのを感じることができる。それは青豆と父、天吾と父の物語のそれぞれについていえるのだが、とくに天吾の物語で明らかに主題をもって描かれている。

 「でも今となってはそんなことはどうでもいい。どこに繋がっていようが、どこに繋がっていまいが、僕は僕だ。そしてあなたは僕の父親なるものだ。それでいいじゃないかと思った。それが和解と呼べるのかどうか僕にはわからない。あるいは僕は僕と和解した。そういうことかもしれない」(3-12章)

 実はこの夏、安岡章太郎の『海辺の光景』を再読したのだが、『海辺の光景』のつぎのような一節と、村上春樹の『1Q84』の上記の一節とは、人それぞれの母と父との出会いと別れを描いて、双璧をなしているかも知れないと思った。

 「息子はその母親の子供であるというだけですでに充分償っているのではないだろうか? 母はその息子を持ったことで償い、息子はその母親の子であることで償う。彼等の間で何が行われようと、どんなことを起こそうと、彼等の間だけですべてのことは片が付いてしまう。」

 『海辺の光景』は『海辺の光景』で、安岡章太郎の残酷なまでの視線にたじろがされるのだが、それだけ母との別れには膨大なエネルギーが必要とされるということだろう。
 私は父となることはなかったのだが、『1Q84』を読むと父なる存在の孤独と、村上春樹の鎮魂の思いが伝わってくるような気がする。

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 写真は横浜の夕暮れ





 
# by yassall | 2012-11-16 15:01 | | Comments(2)

笠井潔『8.15と3.11』と竹田恒泰『これが結論!日本人と原発』

 笠井潔が『8.15と3.11』の中で、「原発は差別の構造を不可避的に生み出す。稼働させ続けるには、放射能被爆の危険にさらされる現場労働者の存在が不可欠だからだ。…諸個人の自由を必然的に制限し剥奪するシステムだからこそ、原発は否定されなければならない」と述べている。
 皇室に連なる家に生まれ、「生粋の保守派」を自他共に認めている竹田恒泰は『これが結論!日本人と原発』で、「原発で働く労働者は路上生活者のなかから確保される場合も多く、弱みに付け込むように、数万円の日当をちらつかせて人数を確保するのである。生活力があれば、わざわざ原発の除染の仕事を好んで引き受ける人はいないだろう。そこには「愛」がない」から反対なのだ、と述べている。
 ときどき、原発に反対か賛成かの問題をイデオロギーの対立に矮小化しようとする論調があるが、立場をまったく異にするこの二人が同様のことを述べているのをみたとき、それが全然的外れであることがわかる。
 ましてや、原発を稼働させないと雇用を失う人がいる、だから必要悪なのでは…などという言説に惑わされてはならないだろう。作業員の人たちを宿泊させるという民宿にしたって本業は漁業や農業なのであり、ひとたび原発事故が起こればそれらの産業は壊滅に瀕することになってしまう。そして、今日の産経ニュースによれば福井・おおい町での原発再稼働は「地元経済の浮揚には直結していない」というのが実際なのだ。
 そして、引き起こされてしまった現実をみるとき、福島原発の廃炉までにいったい何人の現場労働者が動員されるのか(そもそも動員され得るのか、その人数はどう確保されるのか)、おそらくは私が生きているうちは廃炉の完了を見ることはあるまいと思うと本当に胸が痛むのである。
 ごく最近、福島原発を視察した後、「人類が生み出した技術を放棄するのは愚かなこと」と言い放った御仁がいるが、私にいわせれば現在の原発なんて、原子力を使ってお湯を沸かしているだけなのだ(それくらいしか出来ていないということ)。これに比べれば太陽光を電気に変える技術の方が特段に未来的である。これも竹田恒泰と柄谷行人が同じことを言っているのに驚かされたのだが、当面はガスによる火力発電を中心として(熱効率のよい発電機が開発されているとのこと)、再生エネルギーの開発と普及をすすめるのが未来に通じる道であると思う。(アメリカがすすめているシェールガスは水質汚染の危険性が大きいらしいが。)

笠井潔『8.15と3.11』NHK出版新書(2012.9.10)
竹田恒泰『これが結論!日本人と原発』小学館新書(2012.3.14)
# by yassall | 2012-11-12 19:12 | | Comments(0)

教育のつどい2012埼玉県教育研究集会

 昨日、教育のつどい2012教育研究集会に参加のため、伊奈町まで出かけて来た。国語教育の分科会に初めてレポートを提出した。
 今になって何のレポート?といわれそうだが、この7月まで2ヶ月半、非常勤講師として元の職場に復帰していたとき、いつかやってみたいと思っていたグループ学習を「山月記」でこころみた。そのとき作成したプリントやらをまとめてレポートにした。グリコではないけれど、一粒で二度おいしい思いをしようというわけだ。
 国語教育の分科会に一度レポートを出してみたかった、というより出さないといけないような気がしていた。これで心残りがひとつ減った。
 閉会後は大宮から湘南ラインを乗り継いで池袋回りで永田町へ。首都圏反原発連合が主催する「反原発100万人大占拠」行動に駆け込み参加。あいにくの雨模様だったが、その場に居合わせることが出来ただけでもよかったと思っている。

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 今年の会場は伊奈学園総合高校 紅葉がきれいでした

 
# by yassall | 2012-11-12 19:11 | 日誌 | Comments(1)

岡崎武志『上京する文学』

面白そうな本を見つけた。
岡崎武志『上京する文学』新日本出版社
著者は古本ライターとあるが、近代日本文学(および文学者)に対する並々ならぬ愛着がうかがえる。
類書では次の2冊が面白かった。
坪内祐三『「近代日本文学」の誕生』PHP新書(2006)
関川夏央『「一九〇五年」の彼ら』NHK出版新書(2012)
1905年5月27日は日露戦争の命運をわけた日本海海戦のあった日。関川夏央はこのとき日本の近代化=国民国家の頂点があったという。その年に文学者たちが何をしていたかと、それぞれの晩年をルポしている。東京という都市が形成される過程と、近代国民国家の形成は軌を一にしていると考えていいと思うので、そのへんも合わせみながら今回の本も読んでみたい。
少し古いが近代日本文学に対する愛着という意味では次も力作だと思う。
嵐山光三郎『追悼の達人』新潮社(1999)
本郷・菊坂を歩いたのは昨年の今頃。高校時代に田宮虎彦の「菊坂」を読んだ頃から、想像の世界では親しんでいたのだが、実際に歩いたのは初めてだった。樋口一葉ゆかりの井戸もカメラにおさめたが、あまりにも知られているので、写真は炭団坂。宮沢賢治も上京の際、このあたりに下宿したはず。

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岡崎武志『上京する文学』新日本出版社(2012)
# by yassall | 2012-11-10 16:31 | | Comments(2)

アンソール展

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 アンソール展へ行ってきた。開催は11月11日までなのですべり込みセーフというところ。アンソールは以前にも見たことがあったような気がしていたので、どうしようかとぐずぐずしているうちに(いつものことだけれど)ギリギリになってしまった。
 骸骨と仮面という禍々しい世界を描きながら、なぜか心を引き寄せられてしまうのは、どこか祝祭的な雰囲気があるからだろうか? それとも祝祭そのものが本来禍々しさを本質としているからだろうか?
 今日の展覧会によると、アンソール自身はブルジョワ的な世界観に精神的基盤を持っていたようで、必ずしも中世的・神話的世界に親和を感じていたような人物ではないらしい。まあ、ちゃんと研究したわけではないからそれは分からない。また、時代を考えればそれらは否定すべきものでもない。
 ところで西洋絵画にはよく骸骨がモチーフに用いられるが、これは「メメント・モリ(死を忘れるな)」という表象として描かれるのだとのこと。これに関連して「死の勝利」という題材があって、これは愛は純潔に勝てず、その純潔も死には勝てない、という14世紀イタリアのペトラルカという人の「凱旋」という詩から来ているとのことだ。では、死が最終的な勝利者であるかというとそうではなく、死に勝るものは名声、さらに時と続き、最後に勝利するのは永遠である、ということになるのだとか。
 どこで読んだのだったか…。まあ、こんな雑談を知ったかぶりについ付け加えたくなるのも、長い教員生活の性というところでしょうかね。 

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 損保ビル(新宿)42階からのながめ。こちらもけっこうシュール。もう少し夕暮れの雰囲気があると良かったのだけれど。

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 損保ジャパンビル。入館前の空模様はこんな感じ。
# by yassall | 2012-11-08 20:08 | 日誌 | Comments(1)

秋の旧古河庭園

 バスで赤羽まで出られる。自宅からの便がよいのでときどき出かける。入園料も安い。10月に出かけたときはバラは六分咲き。この日は散歩が中心だったのでそれはそれでいい。帰路は駒込まで歩いた。
 この日の機材はGF2とp310。最近はNikonはD90だけ残してもっぱらLUMIXの3/4を使っている。GF2は中古で手に入れた。14-42mmの電動ズームは軽量で持ち運びに便利なのだけれど、フードがつけられず、それほどの逆光でなくともハレーション気味になる傾向があるようだ。
 p310はこの春にS90から乗り換えた。直後にRX100が出て、早まったか!と思ったが、その後の投稿写真などを見ていると世評ほどでもないような気がする。3枚目の写真がP310で、日常のスナップにはこれで十分と自分に言い聞かせているのだけれど、どうだろう?
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 秋のバラは葉が枯れかっているものが多い。被写体になりそうな花を選んで。
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 ときどき青空も見えていたのだけれど、建物は曇り空を避けて。
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# by yassall | 2012-11-08 00:48 | 散歩 | Comments(0)

国語・国文について

 国語・国文のカテゴリーを設け、教材論をいくつかアップしました。これらは現役を退く前、最後の3年間のうちに書きとめたものです。プリントをその年受け持った生徒たちと同僚の皆さんに配布しました。本来、そこで役目を終えたわけですが、私なりに愛着もあり、まずは自分の記録として残そうとするものです。
 多少とも新しい視点を提起したという自負もあります。もしお読みいただき、ご高評などたまわれば分に過ぎたることこの上もありません。

※「『山月記』再び」についてはコメントがあります。
※「志賀直哉の『正直さ』」で、椎名麟三のキリスト教入信について、「カソリック」と「プロテスタント」とに誤りがありましたので訂正しました。
# by yassall | 2011-12-30 13:29 | 国語・国文 | Comments(0)