石川啄木「飛行機」

 「実生活者としては怠け者で自堕落で、うそばかりついたり借金ばかりしたり、家庭では専制者で女たらしの面もあり」(安斉均)と、近年は生活破綻者としての一面が強調されがちな石川啄木であるが、国民詩人啄木の地位もいまだ不動なのではないだろうか。
 石原裕次郎歌うところの「錆びたナイフ」は、次の短歌を下敷きにしていることは誰の目にも明らかだろうし、

  いたく錆びしピストル出でぬ
  砂山の
  砂を指もて掘りてありしに

 近いところでは石川さゆりの「津軽海峡冬景色」も次のような啄木歌が作詞者の底流にあったのではないだろうか。

  やはらかに柳あをめる
  北上の岸辺目に見ゆ
  泣けとごとくに

 通俗的な例ばかりを拾い上げているようであるが、これらの流行歌を人々がつい口ずさんだり、カラオケで歌ったりするところに、啄木の歌が近代日本人の感受性の一部分を形成してきたように思われてならないのである。
 
 さて、啄木は短歌ばかりでなく詩も書いたが、その中から一篇をとしたらどれを選ぶべきだろうか。「時代閉塞の現状」を鋭く指摘し、

  赤紙の表紙手擦れし
  国禁の
  書を行李の底に探す日

 と詠んだ啄木に焦点を当てれば、それは当然「はてしなき議論の後」ということになるのだろうが、ここはあえて「飛行機」をあげてみたい。西洋文明へのあこがれかとも解釈されるが、

  不来方のお城のあとの草に臥て
  空に吸はれし
  十五のこころ

 ともどこか通じるものを感じる。ともかくも地上からの離脱への憧憬があるのは確かだろう。


  「飛行機」

  見よ、今日も、かの蒼空に
  飛行機の高く飛べるを。

  給仕つどめの少年が
  たまに非番の日曜日、
  肺病やみの母親とたつた二人の家にゐて、
  ひとりせつせとリイダアの独学をする目の疲れ……

  見よ、今日も、かの蒼空に
  飛行機の高く飛べるを。

  (いしかわたくぼく,1886-1912)
# by yassall | 2013-02-20 16:03 | 詩・詩人 | Comments(0)

鳥居邦朗『昭和文学史試論』

 鳥居邦朗先生の本が出た。
   鳥居邦朗『昭和文学史試論』ゆまに書房(2013)

 鳥居先生は武蔵の恩師。御本を出されるのは10年ぶりくらいだろうか(不肖の弟子である私が他を見落としていただけかも知れないが)。
 これまで様々に論じられた諸論文が、第1部は総論、第2部は大正から昭和へ、第3部は戦前から戦後へ、第4部はご専門の太宰について、という4部構成にまとめられている。
 第1部の「〈私研究〉は不要か」の、論理の客観性に裏打ちされた〈私研究〉という提起から、作品論という方法が生まれる。(これは学生には見せなかった一面で、思わずズルイ!という一言が出る)。
 佐藤春夫を探究なさっていたり、安岡章太郎を熱心に論じられていたのは知っていたが、戦前から戦後にかけて縦横無尽に昭和文学が語られている。
 「戦後文学における「第三の新人」の位置」では、第三の新人=戦後の相対的安定期における日常性の文学という通説に、いち早く疑問を投げかけている。戦後文学とは何か、という問題意識の鋭さであると思う。
 小説の表現史、散文におけるフレームの問題が提起され、客観=主観の不動性のゆらぎ、自意識の解体など、重要な手がかりがいくつも提示されながら、必ずしも存分に展開しきれていないように感じられるのは、研究者としての自己抑制からだろうか。

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# by yassall | 2013-02-17 16:23 | | Comments(0)

島崎隆『思想のシビルミニマム』☆ノート

 書棚を整理していたら奥の方から見つかった。「あれ?こんな本持ってたっけかな?」と目次を見てみると、なかなか興味深そうなテーマが扱われている。では、と机に向かって読み始めてビックリ! いたる所に赤線が引いてあって、けっこう精読した跡がある。(「積ん読じゃなかったんだ…。」)赤線は最後の方まで引かれていて、途中で投げ出した形跡もない。なのに中身はさっぱり思い出せないのである(ああ!)。
 現役時代の自分の読書を振り返ると、そのときどきの必要や関心にまかせて読むには読んだが、読み放しだったという反省がある。しかし、ここまでとは!
 いったい私のようなものに読書する価値があるのだろうか、と自己嫌悪に近いものを感じながら、いや、忘れてしまったようでもきっと私の中に血肉化しているものがあるはずだ、とも思い返し、今度はノートをとりながら再読してみる。
 ※
(この書の問題意識)
 出版されたのは1991年4月22日であるが、時代的な背景に1989年11月9日のベルリンの壁の崩壊に象徴される東欧革命があることは明らかである。
 それは第1章で、加藤哲郎の「(東欧改革は)フォーラムによる平和的市民革命」であった、を引用しながら、「社会主義の改革と対話の問題」を課題として掲げているところからも知ることができる。
 私がこの書を読んだのが何年であるのかは記録がないのだが、(したがって私自身がその時どのような問題意識をもって読んでいたかは不明なのであるが)、その1991年の12月25日にはソ連が崩壊してしまった。この書が「社会主義の改革」を提起しようとしていたとしたら、その大部分は戦後世界を揺るがした激動の中で立ち消えになってしまっている。
 だが、と考える。多くの人は世界がこのままで良いとは考えてはいまい。今もまだ革命あるいは改革が必要とされているのではないか?
 ※
(市民社会・民主主義・対話)
 「市民社会・民主主義・対話」がキーワードである。それらが検証される。政治的市民社会(A)の物質的基礎は経済的市民社会(B)である。Aにおいての「個人の自由」はBにおける「営業の自由」であり、「平等」は「等価交換」であるというふうに。
 さらに大衆社会の到来によって民主主義もまた常に衆愚政治・暴民政治の危機をはらんでいることが指摘される。
 市民社会は社会構成体としては存在せず、近代社会の一側面として実在するとされ、階級、格差、環境などの問題が解決されていないことが指摘される。
 筆者が展望しようとしているのは「自発にもとづく共同性」「諸個人の自由な交通」(マルクス『ドイツ・イデオロギー』)概念を導入することによって大衆的市民社会(C)を構築することである。
 そのため「自由・公正・連帯」を理念とする対話共同体(ローレンツェン)を構築することは可能であるのか?
 ※
 古代ギリシャから始まって、デカルト、ロック、ルソー、ヘーゲル、マルクスにいたる民主主義の思想史が振り返られる。
 現存社会主義(当時)が、ロックからは個人中心の民主主義が欠如していること、全体意志に対して一般意志を対置しようとしたルソーからは全体民主主義の未完成と堕落を指摘されるだろうと述べる。
 ※
 「討論を沈黙させることはすべて無謬性を仮定することである」(J.S.ミル『自由論』)ということで対話の重要性が強調される。
 だがジレンマがある。真理反映説か真理合意説か? 相対主義や不可知論に陥る危険性はないのか? 〈知〉の遊戯化や〈差異〉の一面的な強調という思想状況……。
 方法論的相対主義といったことも提起されるが、このあたりはなかなか難しい問題をはらんでいる。もちろん克服されるべき課題として。
 ※
「極端な無政府主義はつねに極端な専制主義を誘致し、また極端な専制主義は極端な無政府主義を誘致する」(ヘーゲル『小論理学』)
 ここでの無政府主義とは社会運動としてのアナーキズムというより、国民が政治に無関心であることであろう。国民の政治的無関心は独裁を許し、独裁政治が始まると個人の意見は無視され、無いのと同じになってしまう……。
 しかし、真に国民一人一人が自己の利得を一時的にでも棚上げして「一般意志」を自覚し、これに従うことが可能だろうか?
 ※
 「①偏見を離れた思考様式、②拡張された思考様式、③整合的な思考様式……。」(カント『判断力批判』)
  ①自分の頭で考えること、②他人の立場に身をおいて考えること、でも③自分の考え方をしっかり持つこと……。自己思考の大切さはいくら強調しても強調されすぎることはない。(してみると、偏見とは風評をうのみにして自分の頭で考えないことか…。確かだ…。)
 ※
 「自由・平等」にどうして「友愛」が加わるのか? 「自由・平等」だけでは個人がバラバラなままであるから。「友愛」が必要とされたのはフランス革命が共和国の建設をめざしたからだ、とある。
 ※
(コミュニケーション論)
 この書はコミュニケーション論としての一面がある。
 ※
 コミュニケーションには、〈伝達〉的意味合いのコミュニケーションと〈交わり〉的意味合いのコミュニケーションがある(尾関周二)。
 ※
レトリックとは言語を中心媒体とした表現・共感・説得の科学である(島崎隆)。
 ※
 国語科にもコミュニケーション論が必要だと考える。社会学との接点ということだろうか? 私自身、これらに自己確立、連帯・協同、批判・闘争、社会参加のための言語を加えて、似たようなことを考えたことがあった。
 筆者はさらに全人格的対話・交流としての「われとなんじの対話」(マルテン・ブーバー)までを射程に収めようとする。いずれにしてもコミュニケーションとは単なる伝達ではないのである。
 ※
 それにしても民主主義の思想史を振り返りながら、それが〈知〉の巨人たちによって形成されていったのだと考えさせられる。
 A.スミス(英)は精神的な交流としての「同感」、ヘーゲル(独)は「相互承認」が重要だ、といったとのことだ。フランス革命の標語「友愛」(仏)と並べてみると、何か共通している。資本制社会という競争社会の到来を前にして、同様の危機意識と課題を感じていたということではないだろうか。
 道徳(心がけ)のみでは問題は解決されなかったのはその後の歴史が明らかにしたことではあるが、道徳(倫理)を嘲笑しては未来は閉ざされてしまうだろう。
 ※
 いわゆる日本的コミュニケーションの問題も取り上げられていて日本文化論の学徒としては興味深いのあるが、それらは十分に展開されているとはいえない。

  島崎隆『思想のシビルミニマム』大月書店(1991)
# by yassall | 2013-02-10 01:38 | | Comments(0)

知念榮喜『みやらび』

  月の可愛(かい)しゃ十日三日
  美童(みやらべ)かいしゃ十七つ ホーイ チョーガ

 知念榮喜については沖縄県生まれ、明治大学(中退)で萩原朔太郎に出会い、詩作を始めた、49歳の年に詩集『みやらび』でH氏賞を獲得した、という以上には詳しくないのである。ただ、H氏賞を受賞した1970年に私は大学に入学し、さっそく入部した文芸部の先輩が持っていた詩集をみせてもらったことを今に記憶している。
 最初に心惹かれたのはその装丁だった。“みやらび”とは“美童”と書き、若い女性やピュアな心を持った子どものことをいうのだそうだ。装丁に使われた絵は知念榮喜の息子が描いたものだと聞いたような気がするが、今となっては確かめようがない。(※奥付を確かめると、装丁知念太郎、とある。)
 詩集は500部限定で印刷された。私が入手したのはずいぶん後になってからだったと思うが、34番のナンバリングがある。渋谷の中村書店で見つけた。
 原崎孝は「生命の始原や自然の古代への思慕と現代の惨酷」とのせめぎあい、「純粋なるもの正義なるものへの志向」と評している(『日本近代文学大事典』講談社)。
 知念榮喜が東京新聞に寄稿したエッセイの切り抜きを一枚だけ保存していた。その一部を詩集『みやらび』の巻頭詩とともに書き写してみる。

         「優しいたましひは埋葬できない」

  
                             みやらびよ 相思樹のいし
     だたみに未来をきざむな  濱木綿の七つの香りをはこび  夜明
     けの泉にはぢらひの緑の髪をかざすな  星のかがやかない盲ひ
     たははには死線がみえる  みやらびよ  終りの月を炎の歌でつ
     つみ  木麻黄の楯にきよらかないけにへの裸型を示すな  棘の
     指がまさぐる夢の塔はとどろく海のなみだにひらされる  みや
     らびよ  漂ふ羊の空にひとりめざめ  乾いた骨の岩棚をさすら
     ひ  奪はれたかぎろひの日々を喚びもどすな  阿檀の森の雨に
     濡れ  海鳥の岬によろばふおどろのははは  優しいたましひを
     埋葬できない  みやらびよ


  私はいつまでも島の夢を織りつづけるだろう。砂漠の都会をさまよう者にとって、悪魔祓いに似ている。私が生まれたところは、今も淋しく美しいところである。島の北の果てであり、戦禍をまぬかれているからだ。
 私は木蔭の長老たちのように、そこで終生を果たすことができないであろう。島の根を求め、夏の夢を織りつづけるのである。
 私は忘れることがない。夜の海には夜光虫が瞬いていた。今、私の上には、島から送られてきた、とりどりの貝が散らばっている。貝は耳にあてると海鳴りの音がする。
 八月十五日は島の祈りの日である。私は月明かりに貝を耳にあてるのだ。海の音を聴くのである。
                                     (「海の音を聴く 沖縄の八月十五日」1977.8.12)

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(ちねんえいき,1920-2005)
# by yassall | 2013-02-03 15:51 | 詩・詩人 | Comments(0)

冬の新河岸川

 新河岸川は川越を起点とし、埼玉西部から東京までを流れます。川越で氷川神社の裏手を流れるあたりではようやく小舟が浮かべられる程の川幅ですが、さまざまな川と合流しながら、しだいに川幅を拡げていきます。
 前々任校の志木高校は新河岸川の岸辺にたち、川堤は春は桜、秋はコスモスに彩られます。ここで柳瀬川と合流します。
 本日の撮影ポイントは板橋区小豆沢の水上バス発着所付近、我が家から徒歩で往復一万歩というあたりです。
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 新河岸川大槁です。
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 上流側です。
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 下流側です。この先で荒川と合流します。
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 今回の機材はX-E1+18-55mm(つい、買っちゃいました)。試し撮りを兼ねてのお散歩でした。
# by yassall | 2013-01-29 19:25 | 散歩 | Comments(2)

中原中也「曇天」

 岡林信康の「ガイコツの唄」を聞いていて、中原中也の「骨」を連想したことを記憶しているから、私が中也を読んでいたのはその頃だったのだろう。もちろん、詩想はずいぶん違っていて、中也の場合には「ホラホラ、これが僕の骨だ」と、自分の骨を見つめている自分がいて、しかもそれを他者に提示している私がいる。しかし、なぜかそのとき、そこはかとないユーモアに共通なものを感じたからか、私は岡林信康は中也を読んだに違いないと思い込んだのだった。
 それでは、私は熱烈な中也の信奉者であったかといえば、そんなことはないのである。実際、「汚れちまった悲しみに」などはナルシシズムが臭って耐え難かったし、「サーカス」あたりは完成度が高い方だと思われるが、それでも舌足らずな甘さが感じられた。ダダイスト高橋新吉の洗礼を受けたというけれど、「トタンがセンベイ食べて」と書かれても児戯の域を出ていないと思われた。
 ただ、「生い立ちの歌」や「砂漠」などは、後年になって演劇部のレッスンで群読してみたりすると、言葉が響き合い、朗読して初めて真価が分かる作品であるかと思われた。
 「帰郷」の、

  あゝ おまへはなにをして来たのだと……
  吹き来る風が私に云ふ

 の一節には、夢破れ、傷心の心を抱える帰郷者の表白がある。だが、誰かが書いていたのだが、たとえば石川啄木にとっての故郷と比較してみれば、中也のそれはいつでも自分を包み込み、癒やしてくれる温かさに満ちていた、といわれてみると、確かにどこか自己慰謝的であるような気がしてくる。
 ただ、最近になって読んだのだが、岩波明の『文豪はみんな、うつ』(幻冬舎新書)によれば、中也は短い生涯のうちに何度か精神変調に襲われたことがあり、とくに幼い長男を病で失った頃、「巡査の足音が聞こえる」とか「近所の人の悪口が聞こえる」など幻覚妄想状態が顕著になったことがあるとのことだ。
 そうした病質な敏感さを持っていたとすれば、このとき聞いた「風」の音も、中也の心の傷を覆ってくれる優しさというのではなく、もっと激しい指弾の響きであったという可能性はある。
 さて、中也の作品で私が今も忘れがたく思い出すのは以下の詩である。黒旗のイメージが今一つ鮮明でない恨みもあるが、年若いうちに自分の運命を見てしまった者の孤独が伝わって印象深い。

「曇天」

   ある朝 僕は 空の 中に、
  黒い 旗が はためくのを 見た。
   はたはた それは はためいて ゐたが、
  音は きこえぬ 高きが ゆゑに。

   手繰り 下ろそうと 僕は したが、
  綱も なければ それも 叶はず、
   旗は はたはた たかめく ばかり、
  空の 奥処に 舞ひ入る 如く。

   かゝる 朝を 少年の 日も、
  屢々 見たりと 僕は 憶ふ。
   かの時は そを 野原の 上に、
  今はた 都会の 甍の 上に。

   かの時 この時 時は 隔つれ、
  此処と 彼処と 所は 異れ、
   はたはた はたはた み空に ひとり、
  いまも 渝らぬ この 黒旗よ。

(なかはらちゅうや,1907-1937)


蒼穹に黒き旗はためく憩えよ  望
# by yassall | 2013-01-27 16:29 | 詩・詩人 | Comments(0)

飯島耕一「他人の空」

    「他人の空」

  鳥たちが帰って来た。
  地の黒い割れ目をついばんだ。
  見慣れない屋根の上を
  上ったり下ったりした。
  それは途方に暮れているように見えた。

  空は石を食ったように頭をかかえている。
  物思いにふけっている。
  もう流れ出すこともなかったので、
  血は空に
  他人のようにめぐっている。

  高田馬場の古本屋街をあさっていて、ばら売りしていた思潮社の『現代詩大系』を買ったのは1969年のことだったから、飯島耕一の「他人の空」と初めて出会ったのは10代の終わりの頃だったと思う。
 高校を卒業した後、私は一年浪人をしたが、どこにも帰属していないことで私は自由だった。若く、解き放たれていた。その私の心をどうしてこのような閉塞感に満ちた詩がとらえてしまったのかは分からない。
  ジョハリの窓というのがある。マズローの欲求階層説とならんで、カウンセリング講習会などで最初に紹介される。自己selfには4つの窓があって、①自分も自覚し、他人も認める明るい窓、②自分は気づいているが、他人には知られていない隠れた窓、それとは逆に③自分には自覚がないが、他人は気づいている盲点の窓がある、というものだ。そして4つめの窓というのは、自分にも他人にも知られていない未知の窓である。
  いうなれば「他人の空」は、この4つめの窓を開けてしまったような違和感、空漠感に満たされているようだ。「他人の」というが、それは誤りで、描かれているのは自己selfの意識世界の内部であるのに違いない。それをもう一度「他人」の側に押しやっている。『現代詩大系』の解説は鮎川信夫が書いているが、飯島耕一には「sense of identityを失った悲しみ」の評をあてている。
  「黒い割れ目」というのは心に負った傷のことではないだろうか。しかし、その傷にさえもselfとしての自覚を持ち得ない、「見慣れない」、疎外感の深さなのだ。
  その後、飯島耕一からは離れてしまったが、思いの外(といってはいけないのかも知れないが)活動期間の長い詩人である(※)ので、またいつか別の出会いがあるかも知れない。それはともかく、今回久しぶりに書棚から詩集を引っ張り出してみて、次の作品にも心惹かれた記憶が蘇ってきた。この詩人にも抒情世界の広がりがあるのだ。決して理知に勝るばかりに乾燥し切ってはいないところの。

   「切り抜かれた空」

  彼女は僕の見たことのない空を
  蔵い込んでいる。
  記憶の中の
  幾枚かの切り抜かれた空。

  時々階段を上って来て
  大事そうに
  一枚一枚を手渡してくれる。

  空には一つの沼があって
  そこには
  いろいろなものが棲んでいると云う。

  そこには一度きりしか通過したことのない
  小さな木造の駅があって、
  草履袋をもった
  小学生が
  しゃがんでいたりする。

  ついで彼女は
  失くしてしまった空の方に
  もっと澄んだのがあったとも云った。

  (いいじまこういち,1930-2013)

  ※この項を書いたころは飯島氏は存命でしたが、2013.10.14に83歳で逝去されました。
# by yassall | 2013-01-22 13:11 | 詩・詩人 | Comments(0)

図書館と読書のつどい

 「子どもたちに豊かな育ちと読書の喜びを」をスローガンに、「学校図書館・公共図書館の充実を求めるつどい」が埼玉共済会館で開かれました。第13回になるこの催しも、今年は埼玉が会場ということで、半年ほど前から準備がすすめられて来たものです。
  折からの大雪で午後の日程を切り詰めての実施になりましたが、全国から図書館への思いをともにする人々が集いました。
 大阪からは橋下府政になってから学校司書の人減らしがすすみ、日常的に図書館を開館できない高校が4割に達したとの報告がありました。変革者を装い、公務員バッシングに明け暮れる橋下氏の、マスコミでの取り上げられ方は本当に偏っていると思います。
 OBである私にも声をかけていただき、現地実行委員の一人としてお手伝いをしました。主な担当は午後の分散会でした。先の事情で時間も短縮され、あまりお役には立てませんでしたが、学校図書館運動の中で知り合った方々との再会も果たし、心和む一日でした。
今日は成人式。20歳を迎えた人たちには残念な天候になってしまいましたが、帰りの電車やバスで乗り合わせた成人式帰りの人たちは皆元気そうでした。やはり若いっていい!
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# by yassall | 2013-01-14 23:27 | 日誌 | Comments(0)

日々雑感  ☆地熱発電の可能性

 ちょっとTVの見過ぎ? 今日の話題は地熱発電です。
 今日もたまたまだったのだけれど、テレビ東京の番組ジバングを見ていたら、目が離せなくなってしまった。 地熱発電を特集していたのだけれど、日本の潜在的な資源量は世界第3位にして原発20基分(それも現在の技術を以てして)。かつその地熱発電の技術は日本がトップレベルなのだそうだ。
 その日本での開発の現状も紹介されていたが、環境への影響など、きめ細かい調査がなされながら進められていて(温泉業者に対する理解を得るのが大変なのだと以前にも聞いたことがある)、そうスムースには進捗していないのだけれど、それもかえって巨大マネーが動く中で進められた原発との違いが際立っていて好ましい印象を受けた。
 当面の目標は2030年代に総発電量の10%ということで、なんだか目標値が低いようなのだが、一極集中ではないエネルギー政策のあり方としては正しい気もする。様々なエネルギーを土地柄に合わせて活用していくことが未来的なのだろう。
 日照に左右される太陽光発電や天候の影響を受けやすい風力発電と違って、地熱発電は安定的にエネルギーを取り出せ、基礎的な電力の供給を可能にする。しかも利用するのは蒸気だけで熱水は再び地下に戻すことで再生が可能、火力発電のように燃料を燃焼させる必要もなく、設備も小規模でCO2も排出しない。
かねがね日本の風土にあっているのは水力発電と考えてきたが、地熱発電も今まで遅れてきた分、その普及に期待を持ってよいと認識を新たにした。
 来週は海洋発電を特集するとのこと。来週も見なくては、と思っている。
# by yassall | 2013-01-08 01:19 | 雑感 | Comments(1)

日々雑感 ☆facebookによる顔認識 

 たまたま昨夜のNHKサイエンスZEROを見ていて考えさせられました。最先端の顔認識技術によって、スマホで顔写真を撮った3秒後に、その人物の姓名や誕生日などの個人情報が検索できる!というアメリカの大学での実験が紹介されていました。解説ではそのデータベースになったのがfacebookに登録されたプロフィール写真であるとのことでした。
 プライバシー保護の研究の一環だそうで、一般社会での実用を目的としたものではないそうですが、ちょっとゾッとさせられます。
 SNSはますます広がっていくでしょうが、利用者の側もプロフィール写真の選び方やタグ付け、基本データの記載内容などは慎重になった方がよいかも知れません。
 また、今日の朝日新聞デジタルでSNSハラスメント(会社の上司などが公開を迫る)のことが取り上げられていましたが、facebookでは友達のグループ化によって公開の範囲を制限できるそうですね。(私はまだよく知りませんが…。)これから会社づとめをするような若い人たちは、そうした方法の研究も必要になるでしょうね。自分の身は自分で守る工夫をしないと。
 では老婆心ながら情報提供まで…。

 
# by yassall | 2013-01-07 00:57 | 雑感 | Comments(0)