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森林公園紅葉狩り

 11月に入ったら3年ぶりの森林公園紅葉狩りをやりましょうとKさんとは連絡をとりあっていた。森林公園のHPを見ていると11月16日色づき始めとあった。翌週の24日あたりと期日の目安をつけ、せっかくならともう数人にあたったところ、Nさん、Yさんも参加するという。NさんはさらにNKさんにも電話してくれ、つごう5名が集まることになった。NKさんは我々の先輩格でかれこれ14、5年ぶりの再会となる。
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 森林公園駅に集合、13:00発のバスで出かけた。自転車で来るというYさんとうまく連絡がとれず、全員がそろうのに少し手間取ってしまった。西口から入園し、渓流広場でまずは久闊を叙した。渓流広場は日当たりも良く、山田大沼のほとりで眺めも悪くなく、自由に使えるベンチがあるので、いつも持ち寄りの飲み物や食べ物をひろげるのに利用させてもらっている。話がはずんでなかなか腰が上がらなかったが、今日は紅葉狩りそのものより旧知が集うことに重きがあったのである。
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 紅葉の色づきが今ひとつだったのも次の行動が遅れた理由かも知れない。今年は秋に入っても長雨が続いた。葉も痛みが目だつし、色も染まりきれないという印象である。こんなときは接写をあきらめ、距離をとって逆光がらみの透過光をねらうしかないだろう。
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 たいした絵にはならなかったが何枚かアップする。
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 光りを受けて金色になった葉もなかなか美しい。
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 上の写真の一部を切り取ったもの。
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 カエデ園わきの道路にはライトアップ用の灯籠が設置されている。作・群馬県立女子大とある。
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 カエデ園に戻ると他にもオブジェがところどころに展示されている。制作は草月流の華道グループによると掲示板にあった。
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 そうこうしている内にライトアップが始まった。今年のライトアップは平日のみの実施だそうだ。休日に来場者が過剰になるのを避けるためらしい。これもコロナ対策である。
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 この時期、森林公園の閉園時間は16:30。ただし、ライトアップ期間中はエリアを限って時間を延長している。我々はライトアップ目当ての新規の来場者とすれ違いながら退園する。もちろん駅近の焼き鳥屋でアフターに及ぶためである。今年は中央口から出て、タクシーを頼むことにした。いつだったか、大正大の学生で満員のままバスに通過され、乗り損なったからである。ところで入園時、入り口付近の掲示板に「酒類の持ち込み、宴会禁止」の文言があった。そこで我々が園内ではどうしたかについては内緒にしておく。

 E-M5+14-150mm


# by yassall | 2021-11-29 02:11 | 散歩 | Comments(0)

2021衆院選の結果について

 今週号の『週刊新潮』(11月18日号)が「「立憲民主党&共産党」はもういらない」という標題の記事を掲載している。私はdマガジンを登録しているので読むだけは読んでみた。
 要は共産党と組んだがために立憲民主党は保守・中道層の票を逃がし、議席を後退させた、ということである。その象徴として小沢一郎氏と中村喜四郎氏の小選挙区での敗北をあげている。(ただし、当の小沢一郎氏と中村喜四郎氏本人がどのような総括をしているかは明らかではない。)
 読んでいて不思議な感じがしたのは、保守というよりもはや右派というべき『週刊新潮』がなぜこのような記事を書いたのか、ということである。共産党と手を切れば立憲民主党に戻ってくる票がある(はずだ)から、もっと議席を伸ばせるとアドバイスしているのだろうか? 日ごろの『週刊新潮』の論調からすれば自民党が政権を握り続けることが望ましいはずだから、その座を脅かす勢力を伸長させようというのはまるで理屈にあわない。
 理屈からすれば立憲民主党がずっと共産党と手を組んでいてもらった方が『週刊新潮』としては渡りに船のはずである。そうではなく、このような記事の掲載に及んだのは、野党共闘が煙たくて仕方ないからではないのか。
 選挙期間中から、いわゆる「立憲・共産党」攻撃は激しかった。まるでこの一点だけで選挙戦を突破しようとしているかのようだった。幹事長になった甘利明もそれしか言わなかった。甘利は小選挙区では落選したが、「立憲民主党&共産党」決めつけ攻撃は一定の効果を持ったようではあった。『週刊新潮』はなんとかこれをもって「野党共闘」にとどめを刺したいのだろうが、さあ、これを許してよいのだろうか?
 だいたい「野合」などという悪罵を投げつけることで今回の衆院選の基本的な構図を見えなくしようとしているが、「野党共闘」の本体は「市民連合」と立憲野党4党による共通政策を根幹とした協同戦線なのである。れいわの山本太郎氏などはかなり「我が道を行く」タイプの人間だが、今回は政策でも選挙戦でも共同歩調をとった。もともと街頭演説を開けば多くの聴衆を引き寄せる力を持っているし今回も大奮闘した。社民党だって国会議員数こそ少ないがまだまだ底力は持っている。それを「立憲民主党&共産党」と矮小化しようとしたのは、この協同戦線を分断するための自民党側の作戦であり、日本維新の会もそれに乗った。それでも足りなくて最後には「連合」まで戦線の分断に一役買うことになった。
 いうなれば総がかりでこの協同戦線をつぶしにかかってきたというのが今回の選挙戦だった。自公にしてみれば、そうすることで自分たちに対する批判すらかわすねらいもあっただろうが、つまりはそれだけ「野党共闘」を恐れ、敵視していた証拠ではないだろうか。
  ※          ※          ※
 今回の衆院選の結果を得て、思うこと、考えることは多々ある。自分の中でもまとめ切れてはいないが、最初に感情論に走りすぎないように数字的なところを押さえておきたい。
 以下は47回から49回までの衆院選の開票時の結果である。こうして並べてみると、たとえば今回躍進したといわれる日本維新の会は2014年当時に戻っただけとも見えるし、当時の橋下代表は「信任を得られなかった」との選挙総括をしているのである。

2014年
自民290 民主73 維新41 公明35 次世代2 共産21 生活2 社民2 無所属9
2017年
自民284 立憲55 維新11 公明29 希望50 共産12 社民2 無所属22
2021年
自民261 立憲96 維新41 公明32 国民11 共産10 社民1 れいわ3 無所属10

 2014年には「野党共闘」はまだ無かった。そうした中で自公政権と対決姿勢を持っていると思われる民主・共産・生活・社民の合計は98議席である。2021年衆院選の立憲・共産・社民・れいわの合計は110議席である。選挙後、国民民主党は国会での野党連携から離脱することを宣言した。ある意味で本性が暴露されたというところだが、「市民連合」との共通政策には加わらなかったものの、直前までは共同歩調をとるフリだけはしていたのである。
 もちろん「政権交代」をという期待がもろくも敗れ去ったのは事実であるが、それだけの地力をつけてきたかという反省を含めた総括は必要として、果たして後退した、敗北だったという評価を下すのは正しいのか、結論を急ぎすぎてはならないように思うのだ。
  ※          ※          ※
 「野党共闘」の話を続ける。「市民連合」(正式には「安保法制の廃止と立憲主義の回復を求める市民連合」)は2015年、それまで違憲とされていた集団的自衛権容認の安保法制(戦争法)に対する反対運動の中で成立した。これまでにも2016年・2019年の参院選で候補者の一本化をすすめてきた。2017年の衆院選でも「市民連合」と4野党(当時)の間で結ばれた共通政策にもとづいて選挙戦が戦われるはずであった。しかし、民進党代表の座についた前原誠司が直前になって結党された希望の党との合流を決め、大混乱となった。そうした中で自身は無所属で立候補する予定であった枝野幸男氏によって、急遽立憲民主党が結党された。当初は希望の党から「排除」されそうになった旧民進党員の受皿としての位置づけだったのかも知れない。それでも曲がりなりにもリベラル派の結集の母体となったし、第2党の位置を占めるにいたったことは救いである。
 2017年の時点で、日本のリベラル派を結集した数字が55だったという事実はきちんと押さえておいた方がよいかも知れない。その後、立憲民主党は解党した希望の党の一部と無所属の一部が合流して110名を擁する大所帯となった。政権交代のためには大きなまとまりを作らなくてはならない、というのはその通りなのだと思う。そして、「市民連合」・共産・社民と連携する方針を持ったことでリベラル派という印象を国民の前に示したことも事実だと思う。
 自公を中心とした「野党共闘」に対する分断攻撃は確かにあった。だが、それとは別に立憲民主党がリベラル政党として国民の前に現れようとしたとき、国民の支持を集めきれなかった、あるいは信頼を得ることに成功できなかった、という一面もあったのではないか、少なくともその検証は必要だと思う。
 それでも96議席を得て立憲民主党は第2党の位置を占めている。96という数字のすべてがリベラル派であるとは言えないだろうが、2017年の55という数字が核になっていることは確かだろうと思う。党内では選挙総括が進められていくことになるだろうが、その総括を誤れば元も子も失うことになりかねないことは忘れるべきではない。
  ※          ※          ※
 埼玉平和委員会の二橋さんがFacebookに「朝日新聞」(2021年11月13日)の「天声人語」を引用しながら以下のような投稿をしている。

 (「天声人語」は)「衆院選でおきゅうをすえられたのは、与党ではなく、共闘した野党だったのかもしれない」という書き出しで始まっている。
 衆院選終了直後からメディアは、トーンの差はあれ一様に、野党共闘は「不発」「振るわず」「不振」と書き、「見直し」「出直し」の必要性を説いた。
そのため、政権党である自民党が、閣僚や閣僚経験者など大物と言われる候補者を各地で落とし、議席を15も減らしたことなど、消し飛んでしまった感がある。
 ましてや票差が1万票以内の接戦だった小選挙区が33あり、共闘の力がいかんなく発揮されていたなら、競り勝つことができていたことへの言及も一部の報道を除いてはほとんど検証されていない。
 この状態で世論調査をおこなえば、「野党共闘」への「冷ややかな視線」が多数を占めるのも、「想定内」といえよう。まさに、「マッチ・ポンプ」!
 いま注意深く見ておきたいことは、
 ①「野党共闘」(広範な市民と野党の共闘)はまだ緒についたばかりで、いろいろ不十分なことがあること、
 ②ある意味、初めての、本格的な「政権交代」「政権選択」がかかった選挙となり、有権者はもとより、選挙に臨む側にも戸惑いなどがあったこと、
 ③共闘を、広範な市民と野党の「本気の共闘」へと発展させることができれば、勝機が生まれること、などではないか…。
 すでに、いろいろなレベルで衆院選のふりかえりがおこなわれているが、「本気の共闘」へと発展させ、政権交代を実現していくためにも、メディアなどが喧伝する「野党共闘失敗」論にめげず、へこたれず、「宝の教訓」を引き出す議論をすすめたい。

 その二橋さんの投稿を読んで、私は以下のようなコメントを書かせてもらった。

 二橋さんの分析は正確だと思います。ただ野党共闘の継続については、とくに立憲側がどう考えるかが今後の焦点だと思います。代表選に立候補がとりざたされている人たちの発言をみると、小選挙区で1対1に持ち込む必要については誰も否定できないようです。ネックはユニオン連合と立憲内部にくすぶっている共産党嫌い、そして克服すべき課題は二橋さんが指摘しているマスコミをあげての野党共闘「不発」論です。(立憲が野党共闘の継続を決意できたとしてもマスコミは「変えられない立憲」攻撃をするでしょう。)
 連合は共産党とだけでなく、市民連合との共同すら否定的なのですから、立憲がリベラル層を結集していくためには連合から自立するくらいの覚悟が必要であり、さらに中道層に指示を広げていくためには国民を引きつけていく政策を打ち出せる政党になっていく必要があると思います。いやしくも第2党として国民の支持を集めた矜持を持ってもらいたい。
 共産党の「限定的な閣外協力」は共産党としてもギリギリの選択だと私は思っています。そうでなくては共産党らしさがなくなってしまうのだから。それは決して「野合」でもなければ「一体化」でもないことを両方から宣伝する必要があると思っています。
  ※          ※          ※
 雑多な感想を二つほど書いておく。
 ひとつは「連合」のことである。今回の選挙介入はもはや労資協調の域を超えて、まさに資本および権力への従属という体質をあからさまにしたと思う。労働者の権利や利益に資するところはひとつもなかった。労働戦線の右翼的再編の弊害をこれほど痛感させられたことはなかった。
 私は「連合」内部で執行部批判が起こることを期待しているし、そうならなければウソだと思っている。もちろん御用組合化した名ばかり「組合」は論外として、多少とも気骨のある組合だったら、この際「連合」を割って飛び出るくらいのことがあってしかるべきだと思う。
 組合が組合として自立するために資本からの独立・政党からの独立が必要であるように、立憲民主党も「連合」からの自立を模索する時期に来ているのではないだろうか。「連合」700万組合員の意識調査を行うと支持する政党の1番目は自民党なのである。「連合」という組織に加盟しているからといって、つまりは日本国民一般の縮図なのである。
 もうひとつは日本維新の会のことである。自民党に対する批判票の受皿になった、とか、第三極を形成することへの期待とかいわれるが、私ははなはだ疑問である。中国は日本維新の会を極右と定義している。それは当たっていると私は思う。民主党政権の時代、橋下徹が安倍晋三を維新の代表に迎えようとしたことがあった。それこそ不発に終わったが、日本維新の会が目指すものは強権政治である。強権を振るうことで彼らのいう「改革」を一気に推し進めようという政治姿勢を本質にしている。そのために「敵」をつくり、攻撃を激化させることで内部の結束を高めようとしたり、国民を扇動しようとする。第三極などと呼ぶと何だか「中道」というイメージだが、それでは本質を見誤る。また、キャスティングボートを握るなどという言い方もされるが、つまりは「勝ち馬」に乗る戦術である。日本維新の会、そしてそれと結託する道を選ぼうとしている国民民主党には最大限の警戒が必要であると考えている。
  ※          ※          ※
 正直にいえば選挙結果には失望が大きい。ちょうどNHKの100分de名著の ル・ボン『群衆心理』を視聴したり、テキストを読んだ直後だったので、これほど早く「怒り」を忘れ、デマゴギーに乗せられやすい国民によっては、未来には絶望しかあるまいという気になっていたのである。
 ただ、その私に失望したり、絶望したりする資格はあるのか、と自問しなければならない時がやってくるし、要するに自分には何も見えていなかったのだと反省するしかないのである。
 今回は選挙結果については何も書くまいと思っていたのだが、たくさんの人が次の道をさぐろうと発言を始めているのをみて、まとまらないながら私も思うところを書いた。
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 11月13日には「いたばし九条の会」主催の秋の講演のつどいに参加してきた。いつも国会前集会でしめくくりの行動提起をする高田健さんの話をまとまって聞くのは新鮮だった。特徴的な高音でユーモアを交えての語り口は意気軒昂そうであった。ただ、山口二郎さんは「政策合意に基づく共闘の実現は熱心な野党支持者を大いに活性化した。」としつつも、「2015年の安保法制反対運動を起点とする市民運動と野党の協働という文脈はここでいったん終わることを認めるべき。市民参加の野党協力というスタイルをどう刷新するかは若い人に考えてもらいたい。」とのツイッターを発するなど、疲労の色もみえるようだ。
 つい先日、のびのびになっていた山口二郎さんの『民主主義は終わるのか』(岩波新書)の読書会を知人たちと開いたばかりだ。山口さんにはまだまだオピニオンリーダーとして奮闘してもらいたいし、我々が進むべき道を指し示してもらいたいと思っている。

# by yassall | 2021-11-17 16:52 | 雑感 | Comments(0)

伊東静雄 「曠野の歌」から「倦んだ病人」へ

 このシリーズで伊東静雄を取り上げるのは二度目である。前回は『夏花』から「水中花」を選んだ。それきりになっていたが、もう少し書いておきたくなったのは、今年8月に日本浪曼派についてまとめを試みたときのことである。
 伊東静雄は昭和10年(1935)4月に『日本浪曼派』第2号から同人に参加した。第一詩集『わがひとに与ふる哀歌』はその年の10月にコギト発行所から刊行された。その出版記念会の席上で萩原朔太郎から「日本にまだ一人詩人が残っていた」と激賞された。田中克己、保田與重郎との出会いがなければ、詩人伊東静雄の名が世に出ることはなかったかも知れない。
 さて、「水中花」について書いたときにも述べたが、『わがひとに与ふる哀歌』の中で私が最も愛唱したのは「曠野の歌」と「有明海の思ひ出」である。

  「曠野の歌」

  わが死せむ美しき日のために
  連嶺の夢想よ! 汝が白雪を
  消さずあれ
  息ぐるしい稀薄のこれの曠野に
  ひと知れぬ泉をすぎ
  非時の木の実熟うるる
  隠れたる場しよを過ぎ
  われの播種く花のしるし
  近づく日わが屍骸を曳かむ馬を
  この道標はいざなひ還さむ
  あゝかくてわが永久の帰郷を
  高貴なる汝が白き光見送り
  木の実照り 泉はわらひ……
  わが痛き夢よこの時ぞ遂に
  休らはむもの!

   「有明海の思ひ出」

  馬車は遠く光のなかを駆け去り
  私はひとり岸辺に残る
  わたしは既におそく
  天の彼方に
  海波は最後の一滴まで沸たぎり墜ち了り
  沈黙な合唱をかし処にしてゐる
  月光の窓の恋人
  叢にゐる犬 谷々に鳴る小川……の歌は
  無限な泥海の輝き返るなかを
  縫ひながら
  私の岸に辿りつくよすがはない
  それらの気配にならぬ歌の
  うち顫ひちらちらとする
  緑の島のあたりに
  遥かにわたしは目を放つ
  夢みつつ誘はれつつ
  如何にしばしば少年等は
  各自の小さい滑板にのり
  彼の島を目指して滑り行つただらう
  あゝ わが祖父の物語!
  泥海ふかく溺れた児らは
  透明に 透明に
  無数なしやつぱに化身をしたと

 詩集に収められたのは「曠野の歌」(2番目)「有明海の思ひ出」(18番目)の順だが、発表されたのは「有明海の思ひ出」が『コギト』昭和10年3月号、「曠野の歌」が『コギト』昭和10年4月号である。小高根二郎は「有明海の思ひ出」が「故郷からおいてきぼりを喰った遅刻者としての郷愁の表明」であったとすれば、「曠野の歌」は「故郷の超絶者・超越者を覚悟した声明」であったとしている(『詩人伊東静雄』新潮選書1971)。それが正しいとすれば「有明海の思ひ出」「曠野の歌」という順に読む方が意識の展開の方向に沿っているのかも知れない。

  田舎を逃げた私が 都会よ
  どうしてお前に敢て安んじよう 「帰郷者」同反歌/『同』)

 伊東静雄は明治39年(1906)12月に長崎県諫早町に生まれた。大正12年(1923)4月佐賀高等学校入学、大正15年(1926)3月に佐賀高等学校を卒業し、4月に京都帝国大学文学部国文科に入学した。昭和4年(1929)3月に京大を卒業すると4月には大阪府立住吉中学校に就職した。
 進学・就職にあたって故郷を離れた伊東静雄ではあるが、「田舎を逃げた」というような自覚がどのようにして生まれたのかは不明である。昭和7年(1932)2月、父惣吉の死去にともない、静雄は家督を相続する。ただし、負債を負っての相続であった。静雄はその返済に生涯苦しむことになる。三兄がみな早世していたという事情があった。そこだけを見れば、「田舎を逃げた」というより、逃れようもなく「故郷に追いかけられた」という方が実情に即しているように思われる。
 小高根二郎は前掲書で、「伊東個人の故郷喪失の意識の根底には、忌避というほど濃厚な生理的な嫌悪感が渦巻いている」とまで踏み込んでいる。ただ、この詩を読む場合、個人的な生活歴を根掘り葉掘りし、その反映を作品中に探索しようとすることは、かえって鑑賞の妨げになるように思われる。ここでは伊東個人にも故郷に対する複雑ないきさつと思いがあった、という程度の認識にとどめてよいと思う。
 また、小高根二郎は「曠野の歌」にはアルプスを描いた画家セガンティーニ(Giovanni Segantini、1858-1899)の「帰郷」、メーリケ(Eduard Friedrich Mörike、1804-1875)の「運命の歌」、ヘルダーリン(Johann Christian Friedrich Hölderlin、1770-1843)の「帰郷」の三つの影響が認められることを指摘している。
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           セガンティーニ「帰郷」              

 小高根二郎の前掲書の口絵でセガンティーニの「帰郷」を知ったとき、そのイメージのあまりの合致に驚いたことを記憶している。また、メーリケの「この駒ぞ、汝が柩を曳きて/しづしづと歩み運ばん」の詩句も不思議にセガンティーニの「帰郷」と照応している。ただし、セガンティーニの画やメーリケの詩句から着想を得たことを伊東静雄は隠してはいないし、セガンティーニの沈鬱さと比較したとき、静雄の「高貴なる汝が白き光見送り/木の実照り 泉はわらひ」という燦然とも形容すべき輝きは、たとえ憧れとしてのそれであったとしても、まったく別物として静雄の内側から生まれ出て来たものと解釈すべきである。語り口は鮮烈で、むしろ「息ぐるしい稀薄のこれの曠野」に囲まれた若き詩人の、切羽詰まった魂が荒々しくも現出していると思うのである。
 私は密かにショパンを連想している。死したのち、その心臓が故国ポーランドに還されることを熱望したというショパンと共通した魂とでもいうのか、拒絶され、あるいは何らかの事情で断念を余儀なくされたからこそ、いっそう激しく熱せられていく望郷。それを「痛き夢」として抱え込み、苦悩し続けた詩ということではないのか。
 そして熱望した故郷の山々が「夢想」であったとしたら、実際の故郷である有明海への思いを描いた「有明海の思ひ出」もまた「夢想」としての故郷であるのだろう。子どもたちが滑り板に乗って泥海を渡ったとか、地元ではしゃっぱと呼んだシャコを採ったとかは、あるいは伊東静雄の実体験かも知れない。だが、それらは懐かしい記憶としてではなく、幻想世界として繰り広げられ、しばし詩人を夢想の中に漂わせているのである。

  二番花乏しく咲ける窓辺に
  われはなおかくて坐れり       「真昼の休息」/『同』

 自分が「遅れてきた」存在である、あるいは「二番花」であるという認識は繰り返し登場する。しかし、その精神の在り処の由来の詮索を今は必要としない。「有明海の思ひ出」はそうした探究を超えて美しい。
     ※          ※          ※
 さて、今回あらためて伊東静雄について書こうと思った動機のひとつに、遺作であり『反響以後』に収められた「倦んだ病人」の比重が私の中で大きさを増してきたことがある。


   「倦んだ病人」

  夜ふけの全病舍が停電してる。
  分厚い分厚い闇の底に
  敏感なまぶたがひらく。
  (ははあ。どうやら、おれは死んでるらしい。
   いつのまにかうまくいつてたんだな。
   占めた。ただむやみに暗いだけで、
   別に何ということもないようだ。)
  しかしすぐ覺醒がはつきりやつて來る。
  押しころしたひとり笑い。次に咳き。

 自分の死を見つめたということでは「曠野の歌」と共通していると言えないこともない。「曠野の歌」が発表された昭和10年(1935)、静雄29歳。これから新進の詩人として世に出ようというときであった。戦後、静雄は昭和24年(1949)に43歳で肺結核を発病し国立病院長野分院に入院、療養むなしく昭和28年(1953)に死去した。47歳だった。「倦んだ病人」は死を覚悟した静雄があらかじめ新聞社に送っていた作品で、その月のうちに『大阪毎日新聞』に発表された。
 ずっと「曠野の歌」から「倦んだ病人」にかけての落差というようなことを考えてきた。戦後の詩作は新即物主義への回帰という言われ方もするが、明らかに緊張感が失われ、静雄の持つ張り詰めた弦のような危うさも力強さも失われてしまったように感じていたのだった。日本の敗戦に重い衝撃を受けたことも承知していたから、「倦んだ病人」を読んでも失意の果ての死という印象から逃れられなかった。
 しかし、年齢を重ねるにつけ、そうとばかり受けとめるのは間違っているのではないか、と考えるようになった。つらい闘病生活や、回復の見込みを失った絶望感は確かにあっただろう。そうした中で、いかにして自らの死を受容するかが探究されているのだと感じるようになったのだ。
 ただ恐れているのでもない、精神を失調させてしまうのでもない、ひたすら苦痛からの解放を希っているのでもない、それではどうしたら己れの死を引き受けられるのか、それを探っているのではないだろうか。深い諦観によって別離の悲しみを克服しようとはしているかも知れない。かといって、神に近づいたり、仏に近づいたりはしていない。ただありのままの、一人の死を受けいれる準備をしているように思われる。
 死の前日の3月11日、静雄は涙ぐむ妻の花子に向かって、「泣いてはいけない。感傷的になってはいけない。最後まで頑張りますよ、死なないよ」と語りかけたという。

※セガンティーニ「帰郷」について:きちんとした複製画でも見たことはないが実物は彩色画であるようである。


痛き夢静雄を読みて休らはむ  望
# by yassall | 2021-11-08 15:12 | 詩・詩人 | Comments(0)

池袋TOKYUHANDの閉店

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 20日、池袋で小用を済ませたのち、せっかくなので少しブラブラしようと思った。天気も良かったし。でも、季節柄もあって何か被写体になりそうなものも思いつかなった。そういえば東急ハンズが閉店になるというニュースが流れたことがあったのを思い出し行ってみた。けっこう前だった記憶があるので、すでに看板くらいしか残っていないかも知れないと思いながらだったが、今月31日が最終営業日だそうで、売り尽くしセールの最中だった。
 東急ハンズをよく利用したのは演劇部の顧問だったころだ。大道具・小道具製作のための道具類を物色するのが主な目的だ。たいがいはDOITで調達できたが、東急ハンズだと蓄光テープのようなものも入手でき、何となく洒落た小物も多かった。パーティ用グッズで使えるものはないかと部員たちをつれて来たこともあった。おもちゃの短剣なんか、抜きさえしなければけっこうキラキラしていて見栄えがよかった。舞台で風船を使うときがあって探しにきたときはヘリウムガスのボンベまで売っていた。この日はブックスタンドとブックカバーだけ買って帰った。
 東急ハンズが出来る前、その向かいにコンサートホールという名前の名曲喫茶があった。コーヒーは不味かったが洋館然としたたたずまいが今でも懐かしい。西洋の古城か館のようなインテリアが魅力的だった池袋ライオンもなくなってしまって何年にもなる。そんなことを振り返りながら歩いていたら、なんとビックカメラのカメラ館が撤収していた(入居ビルにテナント募集の貼り紙)。つい先日、本館へ寄ってみたらカメラ売り場がなくなっており、パソコン館に統合されてしまっていた。あわててパソコン館の方へ行ってみると顔見知りに店員さんがいて少し話をした。やはりCOVID-19以降すっかりカメラの売り上げが激減し、この事態にいたったそうだ。「ずっと本館で働けると思っていたのですけどね」との嘆きの声だったが「また回復しますよ」との弁も聞こえた。そうであって欲しいと心底思った。カメラはカメラ本体だけでなく、さまざまな周辺機器とともに用いられる。ネット通販ではそうした小物をあれこれ選んだり、使い勝手や仕様を確かめたりすることが出来ないのだ。

# by yassall | 2021-10-21 17:19 | 日誌 | Comments(0)

驢庵日本画教室作品展 in 所沢ミューズ

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 窪田道子さんから驢庵絵画教室作品展のお知らせがあった。最初、LINEには自分は「無観客展」でとあり、持ち分の案内状は発送しないつもりであったらしい。昨年の春先だったかにも作品展の案内があったのにCOVID-19の感染拡大によって中止となっている。ワクチン接種は済ませたからと無理にせがんだところ、画像で案内状をアップしてくれた。期間は9月20日から25日、会場は所沢ミューズとあった。私が出かけたのは22日である。
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 巻頭の「あいさつ」文である。掲載した理由は、「電子機器がはびこり、ネット社会が世界を席巻し、短絡・即物的な情報に翻弄される現代」にあって、何十時間もかけて描くという「作業」にとりくみ、「一つの作品を生み出す」ことに、作者たちは「深い充実感」を感じとっているのだろうとは、鑑賞者としての私の感想でもあり、賞賛の気持でもあるからだ。
 実は今回の作品展は日本画だけでなく、パステル画や水彩画による作品も混在しているとのことだ。その見分けもろくにつけられない私に偉そうな物言いは慎まなければならないのは分かっているが、題材を選び、自分が描きたい絵をイメージし、それに適した画法や画材を選択し、構図を決め、色を落としていく、そうした一連の作業のために知識を深め、技量を磨いていくという過程にこそ、作品の巧拙を超えた価値が存在するとの思いに至ったのである。
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 窪田道子さんの「さくらんぼ」(2016)である。心にとまった作品をいくつか紹介していきたいが、その前にお断りしておきたいことがある。上の写真は会場に展示されたままを写している。ひもで吊してあること、撮影者の立ち位置が水平でないこと(なるべくカメラが作品と同じ高さになるようにと努めてはいるが)から、どうしても水平・垂直方向に台形の歪みが出てしまう(使用しているレンズが広角域だとよけいにそうなる)。また、壁面は基本的には白色であるが、照明によって色がついたり、影が出たりする。
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 そこで帰宅してから画像ソフトを使ってあれこれ補正することになる。カラーバランスは白色に合わせるがそれでも補正しきれない箇所や色かぶりが残ってしまっている。つぎにレンズ補正機能を使って水平・垂直方向の歪曲を補正する。一方向だけならもう少し上手に補正できたかも知れないが、両方となると手作業では完璧な補正は至難である。それでも絵本体はかなり頑張ったつもりだが、本体の水平・垂直を整えると額装の方に歪曲が集中した。コントラストや色相をいじるとかえって不自然になってしまうのでそれは避けるようにした。
 三脚を立て、水準器で水平・垂直を出し、マクロレンズを使っても、上から吊してある限り前かがみになり、垂直方向の台形の歪みは残るはずだ。プロはどうしているのだろう。まさかシフトレンズを使っているとも思えないが。もっともやっかいなのは額装のガラスへの映り込みだが、これは偏光フィルターがあれば対処できたかも知れない。何かの機会があったらそれなりの装備を調えて挑戦してみたい気もする。(窪田さんは動画fullによる作品紹介の動画をLINEにアップしてくれた。そこに写っていた写真は完璧だった。どうやって撮ったのか今度聞いてみたい。)
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 「かぶ」(2013)。今回の出品作の中では早い時期の作品である。それであるからか、どうなのか、デッサンに狂いがあるのだと後から教えられた。最初は対象を直截的につかみ取った作品のように感じられて、つまりあれこれ書き込み過ぎず、それでいて竹かごや葉の描写は緻密でかぶの白さを引き立たせていると思い、そのことを伝えた。そうしたらデッサンの話になった。
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 「春宵」(2016)。あらためて振り返ってみると、この作品が一番の力作だろうか。「かぶ」と比較してよく書き込まれてるという感じだが、決してくどくはなっていないと思う。
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 「六月の実り」(2019)。これも力作だと思った。素直に美しいと感じる。

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 「神の果実」(2020)。「ヤマモモは、出雲神話に邪気を払う神とある」との解題がある。確か娘さんが出雲にいるのである。
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 鳥(オナガ)が良く画けていたのでアップで。こうしてみると鳥というのは恐い顔をしている。さすがに恐竜の末裔だけのことはある。
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 「庭の柚子」(2021)、パステル画。庭の柚子というのは孫の生誕記念樹だそうである。
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 さて、驢庵絵画教室の会員は先生の石川驢庵さんを除いて6名だそうだ。他の方の作品は許可も得ていないので勝手に掲載することは出来ないのだが、特に心にとまったものを2点だけ(クレームがついたらすぐに削除します。窪田さんを通じて連絡して下さい。)
 上は野中利子さんの連作中「響(2019)。「空海の十喩詩から受けたメッセージを心象風景として表現」という解題があった。独特の宇宙観のようなものを感じた。
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 次は清水恵美子さんの「酔芙蓉」(2021)。ともかく大作・力作だった。巻頭に置かれるだけのことはあると思った。他に藤﨑隆司さんの真鶴シリーズも印象深かったが写真の掲載は遠慮しておく。
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 ところで会場が所沢ミューズとあったのも今回の楽しみの一つであった。出かけるのは初めてになるが、高校演劇で西部B地区(所沢・入間・飯能)の人々からうわさを聞いていたのだ。今は終わってしまったとのことだが、ここを会場に高校演劇祭を開催していたのだそうだ。駅から立派な欅並木が続く幅広い歩道を10分ほど歩くと大ホール(アークホール)の威容が見えてくる。その隣に小ホール(キューブホール)がある。
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 大ホールを通り過ぎると管理棟が見えてくる。この管理棟の5Fが今回の蘆庵絵画教室作品展の会場である。
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 その奥には展示室棟(ザ・スクエア)と中ホール(マーキーホール)が見える。高校演劇祭が開かれたというのはどのホールなのだろうか? 今度会ったらIさんに聞いてみなくては。
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 管理棟向かいの大ホール入口側。気持のよい空間だ。皆さんが誇らしげに語る理由が納得できる。
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 航空公園駅。何度か利用したはずだがこんな駅舎だったか? 記憶がないなあ。

  X-T30+15-45mm

# by yassall | 2021-09-24 16:20 | 日誌 | Comments(0)