それぞれの紙Ⅱ そして川越散歩

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 7日、「それぞれの紙Ⅱ」展の案内をいただいたので出かけてきた。会場は昨年に引き続いて小江戸蔵里ギャラリーである。1枚目の写真は木藤恭子さんの作品。右が西洋紙、左がタイの紙なのだそうだ。西洋紙の方が丈夫でかなり乱暴なことができる。タイ紙の方は裏から絵の具を染ませたりすることが出来るという。
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 いつもの木藤さんの画風とは少し変わっている。絵の具には土を使っているという説明だった。
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 打越氏は志木高の卒業生だそうである。水彩にこだわり続けているとのことだ。筆数をいかに少なくするか、というようなお話しがあった。
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 長谷川氏の作品の写真がないが、そのとなりに作風の違う絵があった。あとから気が付いたのだが、今年は三人展ではなく、木藤さんの夫君らしきもう一人の名前があった。鉛筆画とあるからこれらが御作なのかも知れない。すぐ気が付けば確かめられたのだが。写真では真っ黒にしか見えないが、なかなか味わいのある絵だった。
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 蔵里ギャラリーは元鏡山酒造の跡。志木高時代の同僚のYさんも来場していた。私とは同年代である。2年ほど早く退職し、現在は請われて書道教室を開いているという。お弟子さんも多く、ご活躍の様子だった。絵も描かれていたが、書道の方なのか、絵の方なのか、個展を開いたりもしているとのことだった。
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 フェイスブック小江戸川越会の投稿で佐久間旅館閉店とあった。川越散歩がてら、写真を撮っておこうと松江町まで歩いた。島崎藤村が原稿執筆のために泊まり込んだという創業130年余の老舗である。とはいいつつ、私も20年川越にいて、宴席に使われたのは一度しかない。
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 佐久間旅館前の川越キリスト教会は建物が新しくなったような気がするのだが気のせいだろうか?
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 川越八幡宮裏の骨董店はなくなってしまっていたが、その先の路地を入ったアビロードは健在のようだった。
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 こんな刻印は昔からあっただろうか?

# by yassall | 2018-04-09 09:41 | 散歩 | Comments(0)

フランケンシュタイン

 メアリー・シェリー(1797 1851)が『フランケンシュタイン』(1818)を書いた動機については有名なエピソードが残されている。
 1814年、16歳のメアリーは21歳のパーシー・シェリーと駆け落ちした。1816年、父の再婚相手の連れ子であったクレアを介してバイロンとスイスで合流し、レマン湖半にあったバイロンの別荘に滞在することになった。長雨が続いた初夏のある日、バイロンの発案でそれぞれが幽霊話を創作しようという遊びがはじまった。どうやらバイロンはすぐに飽きてしまったらしいのだが、メアリーはそのとき頭の中にひらめいた人造人間の物語を書き続け、完成させた。他にバイロンの侍医であったポリドリも後に『吸血鬼』(1819)を執筆した。
 イギリス小説の研究者で『批評理論入門  「フランケンシュタイン」解剖講義』(2005、中公新書)の著者である廣野由美子(京都大学大学院教授)は、『フランケンシュタイン』の文学性を高く評価し、「映像作品の恰好のネタとして、あるいは典型的でありふれたゴシック小説としてのみ」評価することに強い疑問を投げかけている。(『100分で名著 フランケンシュタイン』2015、NHK)
 中学時代、何も知らずに映画の原作だろうくらいのつもりで文庫本を買ったとき、内容があまりにも違うので驚いたという経験が私にもある。最大の違いは人造人間がただ粗野で、知能の低い野獣のような存在ではなく、人並み以上の知性を持ち、何より雄弁であることだった。確かに、後に連続して凶悪な殺人事件を引き起こすのではあるが、それ以前には盲目の老人ド・ラセーの一家の暮らしを覗き見ているうちに言葉を覚え、たまたま森で拾った鞄の中に入っていたミルトン『失楽園』、プルタルコス『プルターク英雄伝』、ゲーテ『若きウェルテルの悩み』を読みこなし、とくに『若きウェルテルの悩み』に強い感銘を受けたというのである。
  ※
 しかし、それらを知ってなお私が愛するのはユニバーサル・スタジオの映画『フランケンシュタイン』(1931)である。
 また遠回りになるが、コッポラがプロデュースし、ケネス・プラナー監督・主演(※人造人間はロバート・デ・ニーロ)の『フランケンシュタイン』(1994)は比較的原作に沿った映画として知られている。だが、廣野由美子が「映像化すると、視覚的な効果が優先され、本質的な魅力が抜け落ちてしまう」というとおり、おぞましさだけが先にたってしまい、とうてい物語に引き込まれるということにはならない。原作ともだいぶ異なる点もあり、とくにフランケンシュタインがエリザベスを再生させようとするが、これなどはあってはならない改作だった。「父親に愛されなかった息子の物語」の視点は間違ってはいないと思われるが、記憶にとどめておきたい映画とはとうていならない。今回、この文章を書くにあたってクリストファー・リーが人造人間を演じた『フランケンシュタインの逆襲』(1957)も一応みたが、ただグロテスクなだけで、映像としても物語としてもまるでお話しにならない。
  ※
 コッポラでもなく、ハマー・フイルムでもなく、ユニバーサルの映画(それも第1作!)に心引かれる理由をいくつか述べてみたい。
 まずは人造人間を演じたボリス・カーロフ(1887 1969)の魅力だろう。ボリス・カーロフはイギリス・ロンドン出身で、第二次世界大戦後も怪奇映画の大御所格として活躍したという。最初、ユニバーサルはベラ・ルゴシ(1882 1956)を怪物(人造人間)に当てようとしたのだが、セリフがないという設定をルゴシが嫌った結果、当時脇役しか回って来なかったボリス・カーロフに白羽の矢が立ったということだ。以後、カーロフはずっと怪奇映画俳優として人生を送っていくことになるのであるが、謙虚で物静かな人物であったカーロフは、その役を与えられたことに感謝し続けたということである。
 頭頂部が平たいのは脳を入れ替えるためだという。その特徴的な怪物のイメージはゴヤの絵をヒントにしているのだという。メイクにあたったジャック・ピアースはモンスター・メイカーと呼ばれ、ユニバーサルが生み出したすべての怪物たちのメイクを担当したとのことだ。フランケンシュタインでは固めた綿で頭部を造形し、1回のメイクに6時間を要したという。脚にはギブスをはめ、自然な動きを制限した。
 しかし、そのメイクをして怪物の怒りや悲しみを表現し得たのはボリス・カーロフの才能のゆえであると評されている。フランケンシュタイン物は続編が数多く作られているが、カーロフが演じたのは3作目までである。怪物のメイクの特許はユニバーサルが所有しているから、ユニバーサル映画ではその後も同じ姿かたちで登場する。『フランケンシュタインの幽霊』(1942)ではロン・チェイニー・ジュニア(1906 1973)が、『フランケンシュタインと狼男』(1943)ではベラ・ルゴシが怪物を演じた。だが、二人ともボリス・カーロフには及びもつかない。カーロフの怪物には、ふとした横顔にも眼に表情があり、唇に感情がこもっているのである。
 つぎは怪物を作り出したフランケンシュタイン男爵のマッド・サイエンティストぶりだろう。怪物に生命を与えた力は電気である。昔、NHKBSで放送していた『知への旅』によると、メアリーが生きていたころ、死んだカエルに微電流を流すと足が動くという実験をみてショックを受けた、というようなことが紹介されていた(ただし、原作には雷や電気のことは出てこない)。あちこちに怪しい放電現象が起こっている実験室も実に魅力的だったが、屋上から引き下ろされた実験台の怪物の手が動くのをみて、フランケンシュタインが「It's alive!」と叫ぶシーンには今でも鬼気迫るものがある。
 原作ではフランケンシュタインのファーストネームはヴィクターだが、1931年の映画ではヘンリーとされている。これは原作に対する遠慮というより、原作と映画とは異なる作品であるという制作者の意志を感じる。
 原作ではフランケンシュタインは人造人間を作り出すことに成功したとき、そのあまりの醜悪さに実験室を逃げ出し、創造主としての責任を負うこともなく怪物を放り出してしまう。映画はそうでなく、ヘンリーは成功のよろこびに興奮し、恩師であるウォルドマン教授が破棄をすすめるのも聞かず、実験を続行させようとするのである。ヘンリーが怪物の始末を決意するのは新妻であるエリザベスが襲われてからである。必ずしも「父親に愛されなかった息子」ではないのである。
 怪物の方の行動にもかなりの違いがある。怪物が凶暴になったのは助手のフリッツに虐待されたからである。そのフリッツが殺害され、ウォルドマンはヘンリーをうながし、劇薬で怪物を気絶させる。その際ヘンリーは負傷するが、エリザベスの看護もあって回復し、ヘンリーとエリザベスは結婚式をあげる。ウォルドマンはその間に怪物をなき者にしようとするが、意識をとりもどした怪物に殺されてしまう。
 屋敷から逃亡した怪物は村はずれで出会った少女マリアを湖に投げ込み、溺死させてしまうという事件をおこす。前の二人と違って少女は怪物に何も危害を加えようとはしていない。そのことで怪物は村中の人々から追われるところとなり、逃げ込んだ風車に火を放たれる場面でラストシーンとなる。報いは当然なのであるが、怪物が少女を湖に投げ込むにはつぎのようないきさつがある。
 怪物と出会ったとき、少女は花を摘んでは湖に投げ込むという遊びに興じており、怪物にもそれをすすめる。自分のことを怖がらず受け入れてくれたうれしさから怪物も少女をまねる。野原に摘む花がなくなったのをみて怪物は少女を抱え上げるのである。愚かといえばあまりに愚かであるが、敵意とか憎悪が理由ではなさそうなのである。湖畔で少女と向かい合わせに膝をつき、花を摘んでいるシーンは映画の中で最も有名な画像である。
 新婚早々のエリザベスのいる部屋に怪物が突然姿をあらわす場面がある。これも原作ではエリザベスは復讐心に燃える怪物の手にかかって殺されてしまうのだが映画では怪我で終わっている。森の中で怪物とであったヘンリーは殴り倒され、やすやすと風車小屋まで連れ去られてしまう。そして風車小屋が火で包まれる中、屋上から投げ捨てられてしまう。しかし、これもまた、火災によって焼死してしまわないためと見えなくもないのである。ヘンリーは重傷を負いはしたが、村人たちに助け起こされ、「奥さんの待つ屋敷」へと送り届けられるのである。
  ※
 第2作の『フランケンシュタインの花嫁』(1935)はフランケンシュタイン物の中では最高傑作とされているらしい。それは怪物が川で溺れそうになった少女を助けてやりながら通りかかった村人から銃で撃たれたり、盲目の老人の家に迎え入れられて心をひらき、言葉を覚えたり、女の人造人間が作られたりするところから、原作に近いと考えられたからだろう。だが、女の人造人間が作られるのも原作では自分の孤独を癒やすための仲間を作ってくれれば姿を消す、という怪物の要望によるものだったのに対し、映画ではプレトリウスという怪しげな科学者に協力を強いられたからである。
 第2作について唯一私が認められるのは、その女人造人間にも嫌われた怪物が「お前たちは生きろ!」といってヘンリーとエリザベスを実験室から逃がし、プレトリウスと女人造人間ともども実験室のある塔を倒壊させてしまう装置のレバーを引く場面である。他は物語としておかしなところばかりでなく、メイクにもカーロフの演技にも納得できないところが多々あったが、監督のジェームス・ホエールはこの第2作をコメディとして作ろうとしたという話があることを知り、何となく理解できたような気がしたのである。
 第3作の『フランケンシュタインの復活』(1939)はボリス・カーロフが怪物を演じた最後の作品である。フランケンシュタインの息子が廃墟となった実験室跡に眠っていた怪物を再生させるというすじがきである。怪物は言葉を失っており、毛皮のベストを着用していることに象徴されるように、すっかり野獣のような状態にもどっている。フランケンシュタイン父の助手であったイーゴリ(第1作で殺されたはずのフリッツといつのまにか入れ替わっている)の操り人形と化し、指示されるままに殺人を繰り返す。それでも鏡に映る自分の姿に激しい嫌悪感をあらわす様子などはカーロフの怪物らしい。また、子どもにはやさしい一面をみせる。映画としては格が落ちるが、子どもの時に怪物によって右腕を失ったというクローグ警視に存在感がある。
  ※
 最後に監督のことを書く。ジェームス・ホエール(1889 1957)はイギリス生まれ。製鉄業者である父と看護師である母との間に生まれた7人兄弟中の6番目の子供であった。 兄弟達のように重工業の仕事につくのを望まなかったホエールは、自分に絵の才能があると知り、アート&クラフト・スクールの夜間クラスに通った。
 1915年に第一次世界大戦に参加、1917年に捕虜になり、その間に舞台制作の才能に目覚めた。停戦後、ホエールはバーミンガムに戻り、プロの舞台関係者としてのキャリアを積み始めた。やがて当時あまり知られていなかった若手俳優ローレンス・オリヴィエの舞台を成功させるなどの実績を積みながらアメリカに渡り映画監督として活躍した。
 ホエールはハリウッドで活躍している間、自分が同性愛者であることを公表していた。1949年を最後に映画界を引退し、1957年ハリウッドにある自宅のプールで溺死体で発見され、警察の捜査で入水自殺と断定された。
 ホエールの晩年を描いた映画に『ゴッド・アンド・モンスター』(1998)がある。脚本も手がけた監督のビル・コンドンはアカデミー脚色賞を受賞した。この映画でも第1次世界大戦での塹壕体験や同性愛のことが取り上げられている。重くなりすぎないようにユーモラスに描かれてはいるが、言い知れぬ寂しさとともに人間の尊厳のようなものが伝わってくる。名画だと思った。この映画を見ながら、もしかするとフランケンシュタインの怪物には世に受け入れられず、世界との違和と孤独に苦しんだであろうホエールの姿が投影されているのかも知れないと思った。


# by yassall | 2018-04-08 10:49 | 雑感 | Comments(0)

懐かしの怪奇スターたち前口上 そして『眼には眼を』のこと

(今回は前口上です。本題は次回からですので、駄弁は無用ということでしたらスルーして下さい。)

 フランケンシュタイン、ドラキュラ、狼男といえば怪奇映画の三大モンスターである。以前から「懐かしの怪奇スターたち」と題して彼らについて書きたいと思ってきた。なかなか準備が十分でないのだが、このままだと書かずじまいになりそうなので書くことにした。
 前二作にはそれぞれメアリー・シェリー(1797 1851)の『フランケンシュタイン』(1818)およびブラム・ストーカー(1847 1912)の『ドラキュラ』(1897)という原作が存在する。これらの原作については参照することもあるかも知れないが、書きたいのはあくまで映画についてである。
 『フランケンシュタイン』は早くもサイレント時代の1910年にエジソン社によって映画化されている。16分ほどの小品で、燃え落ちる人形を撮影して逆回しさせ、坩堝の中で骨格に肉がつき、動き出すまでを映し出す、というような技法を用いたらしい。内容的にも技術的にも初歩的なものであったことが伺われるが、ともかくも映画の娯楽化とともに怪奇映画というジャンルも生まれていた証だろう。
 だが、何といっても三大スターを決定づけたのはユニバーサル・スタジオが怪奇映画の制作に乗り出してからだろう。トーキーの時代に入って、今度は先に『魔人ドラキュラ』(1931)が作られ、これがヒットすると『フランケンシュタイン』(1931)、『ジギル博士とハイド氏』(1931)、『ミイラ再生』(1932)などが立て続けに公開された。『狼男』はやや遅れて1941年の公開である。そして前二者については黒マントに身を包んだドラキュラ、頭頂が真っ平らなフランケンシュタインという強烈なイメージがこの時期のユニバーサルによって決定づけられた。
 もちろん、これらの映画を私は映画館で見たわけではない。小・中学生時代にTVで見た。長らくそれ切りであった。多くはモノクロ映画であるから、やがてTVでのリバイバル放映もなくなった。だが、幼少期の記憶というのは心の奥の方にいつまでも残っているものらしく、ふとした折に断片的な映像が頭の中に甦ってくることがある。恐怖体験としてではない。むしろどこか哀愁をおびた懐かしさをともなっているのである。
 さて順番であるが、最初に『フランケンシュタイン』について書こうと思う。なぜこれらの映画が私の心の奥底に残り続けているのか、その理由を明らかにできるように思うからだ。つぎに『ドラキュラ』であるが、これについては少々戸惑いがある。また改めて書くが、私の『ドラキュラ』体験はユニバーサルではなくハマーである。ただ、DVDを入手して見返してみると、幼いときの記憶とどうも異なることが多いのである。その点にも触れながら書いてみたい。しめくくりは『狼男』とする。
 以上が前口上なのだが、もう少し駄弁を続ける。映画と私、というようなことを振り返っておこうと思うのだ。
   ※
 浪人時代には予備校に通うはずがそのまま映画館に直行してしまうなどということがあった(もちろん年中というわけではなかったが)。大学に入学してからは池袋文芸座によく寄り道した。黒木和雄の『とべない沈黙』なんかは上映期間中に複数回見たような気がする。加賀まりこが少女役だった。後に蜷川幸雄も出演していたことを知ったが、どの役だったかは記憶にない。
 それがいつしか映画館からは足が遠のくようになった。ワイダの抵抗三部作は見ておきたかったからポーランド映画祭のような催しがあれば出かけていったが、ワイダを映画館で見たのは「大理石の男」までで、「鉄の男」はTVで放映されてからではなかったか。
 一本の映画を見るには相当のエネルギーを必要とする。つまりはそのエネルギーが乏しくなってきたということなのだろうと思っている。また映画館という場所をあまり好まなくなった、というのも理由のひとつだろう。演劇の場合は舞台と客席とが呼応しあうということが確かにあるが、映画館では他の客といっしょに映画をみるということに必然性がないような気がするのだ。(昔、高倉健の任侠映画の途中でかけ声がかかったなどという話もあることはある。ベクトルは違うかも知れないが「男はつらいよ」シリーズを愛した観客にも共感の広がりがあったようにも思う。)
 そして映画好きの人からは邪道だといわれそうだが、TVやDVDで映画をみることに何の抵抗もないというのも理由になるだろう。先のエネルギーのこととかかわるが、長編の映画などDVDなら途中までみて、続きは明日にしようなどということが出来るし、それで私はまったく平気なのだ。(すべてがDVD化されるわけではないし、それでは新作が観られないだろうと言われるかも知れない。その批判は正当で、つまりは新しいものを受け入れるという点でもエネルギーが乏しくなっているのかも知れない。)
   ※
 さて、TVが我が家にやってきたのは1959年。たぶん多くの家庭でそうだったのではないかと思うが、父がTV購入に思い切ったのは皇太子(現天皇)・美智子夫妻の結婚パレードを見るためだった。戦後史年表を見るとそのころからTVのカラー放送が始まったということになっているが、もちろん我が家で買えたのは白黒TVだった。(その直後の60年安保のデモを私は毎日TVで見ることになる。)
 その頃、小学校から帰ると毎日午後3時から放映されていたのが「奥様映画劇場」という番組だった。まだ各局とも番組制作力が乏しく、たぶん著作権切れか格安で放映権が入手できた古い映画で番組編成を埋めたのだろう。それも週の前半と後半で1本ずつ放映するのである。つまり、最長で3回同じ映画をみることになる。そして、私はその番組をよく見たのである。
 午後3時からといっても、けっして子ども向けの映画がセレクトされているわけではない。『外人部隊』(1933)も確かこの番組でみたような気がする。映画のかもし出す頽廃の雰囲気に子どもながらも酔わされた。なぜか、そばに母も妹もいたという記憶がない。
   ※
 『眼には眼を』はたぶんそのころに見た映画の一本である。町山智浩『トラウマ映画館』(集英社2011、文庫版2013)を読んでいたらこの映画のことが取り上げられていた。監督アンドレ・カイヤット、1957年の仏伊合作映画とある。この間、酒席で話題にしたので(そのときは「歯には歯を」といってしまったかも知れない)この映画のことを書く。

 映画の舞台はフランス領時代のシリア。クルト・ユルゲンス演じる医師ヴァルテルは大手術で疲れた晩、自宅で男の訪問を受ける。車に同乗している妻が腹痛を訴えているというのだ。ヴァルテルは自宅だから手当はできない、病院へ行きなさいと治療を断る。翌朝、病院でヴァルテルは研修医から急患を救えなかったという報告を受ける。男の車は途中で故障し、6時間も歩いて病院に着いたときは手遅れだったのだ。その日からヴァルテルのもとには無言電話がかかってきたり、行く先々で青いフォードが待ち受けていたりする。
 やがて姿を現した男の名はボルタク。ヴァルテルはボルタクを追うが捕まえられない。ある日、車で追跡していくとボルタクの妻の実家のあるラヤに到着したところでガソリンが切れる。ボルタクはヴァルテルを泊める。ヴァルテルはボルタクの妻の遺族の冷たい視線にさらされる。翌朝、ガソリンを届けに来た男が山奥に病人がいることを告げる。ヴァルテルは治療に向かうが注射を拒否され、不首尾に終わる。車に戻るとタイヤが盗まれており、バスは4日後だという。ラヤの街までが200km、ボルタクは歩いて帰るという。仕組まれたと思い込んだヴァルテルは一人で歩き始めるが、岩だらけの山道に太陽が照りつける中を進むとボルタクは先回りしており、「近道を知っているから。」という。そして畳一畳ほどの板をぶら下げただけのロープウェイを示し、これに乗って谷を越えればダマスカスだという。ためらいながらも同乗すると何時間もかかって到着した終点は砂漠だった。
 ヴァルテルは計られたと感じるがもはやボルタクに頼るしかない。「街はあの山の向こうです。」「すみません、道を間違えました。今度こそ本当です。」「二時間歩けば井戸があります。」「眠るとジャッカルに食われます。」とさんざん引き回され、憔悴の局にいたったヴァルテルは、「もういい、さっさと殺してくれ。」と懇願する。ボルタクは初めて感情を見せ、「妻が死んでから私も死にたいと思ってきた。」といい、「もういいですよ、先生。行って下さい。本当の道はあっちです。」といい、満足げに目をつぶる。
 映画はそこでは終わらず、ヴァルテルは突然メスを振るってボルタクの腕を切りつけ、「今度こそ街に行って治療しないと、お前も死ぬぞ!」と脅しつける。するとボルタクは別の方角に歩き始めるが、ほどなく力尽きて倒れる。最後の言葉は「ここを真っ直ぐ行けばすぐに街です。真っ直ぐです。」だった。ボルタクを置いてヴァルテルは一人でその方角に歩き始める。
 そこでカメラはしだいにロングショットとなり、上空から俯瞰するような画面に変わっていく。映し出されるのはどこまでも続く砂漠であった。もうヴァルテルの姿は点のようになってしまい、ボルタクの高笑いだけが響き渡っている。
   ※
 なにぶん古い映画なので記憶が薄れてしまっている人も多いのではと、少し長くあらすじを紹介した。50年以上も前に観たきりだが、一人で歩き始めたヴァルテルがふと振り返ったとき、ボルタクが「真っ直ぐです。真っ直ぐ!」と繰り返した場面、それを聞いて歩き出すしかなかったヴァルテルの複雑な表情は今でも思い出せる。
 アンドレ・カイヤットはフランスの映画監督であるが、原作を書いたヴァエ・カッチャはシリア生まれ。町山智浩の解説によるとカッチャはアルメニア人で、アルメニアは世界で初めてキリスト教を国教にしたことで知られるが、19世紀末のオスマントルコにおいてアルメニア人の大量虐殺事件が起き、難民が世界中に広がったという歴史をもつ。カッチャの両親もそうした難民の一人だったという。
 「眼には眼を」はハムラビ法典にあり、行き過ぎた刑罰や報復を規制し、法のもとに裁きを決するという罪刑法定主義の原点であるとされる。だが、キリスト教の「汝の敵を愛せよ」「右の頬を打たれたら左の頬を出せ」と比較してみれば、報復が果たされなければ済まされない鉄の掟のようなものの存在を感じもする。
 ボルタクはすでに自分の死は覚悟してヴァルテルを砂漠に連れ出したのではないのだろうか? 手当を期待するだろうとボルタクを負傷させたヴァルテルには決定的な誤算があったのではないだろうか? 
 ボルタクの妻の治療はヴァルテルの自宅では無理だったのであり、ボルタクの復讐心は理不尽であるというのは一応いえる。だが、ボルタクの心の中には統治国として君臨するフランスに対する被差別意識もあったのではないか?
 映画のラストは復讐の連鎖がいかに不毛であるかを表現しているのかも知れない。だが、幼心にも私の感情の移入先はボルタクの方にあり、その執念に対する恐れ以上に、亡き妻に対する愛情の深さを思ったのだった。

(もう一つの解釈の可能性を考えた。イスラーム世界ではということなのか、砂漠の民はということなのか忘れてしまったが、かの地では本当に困り、助けを求めている者には救いの手を差しのべてやらねばならないというルールがあるそうなのだ。乏しい食料や水であっても必ず分かち合うという。砂漠を生き延びるための知恵なのだろう。そうすると、復讐というより、その救援の手を拒んだヴァルテルに罰を与えようとした、という映画なのかも知れない。そういえばボルタクは最後に残った水筒の水をヴァルテルにすすめ、中味を疑ったヴァルテルが断ると自分で飲み干してしまうのだった。今日の文化摩擦と同じ性質の問題意識が底流に流れているとも考えられる。)


# by yassall | 2018-04-07 11:46 | 雑感 | Comments(0)

東大附属中等教育学校『父と暮らせば』

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 顧問のKさんから久しぶりのメール、「4月3日に六本木の俳優座劇場で公演をうてることになりました」とのお誘いをいただいたのは3月4日のことだった。添付されていたチラシを見ると、催し物名は「第26回はいすくーるドラマスペシャル」とあり、4月2-4日の期間中に6校が上演するという。どのように選抜されたのかは知らないが、通常の部活動としての枠を超えたところで高校演劇の発表の場が開かれていることは貴重であるし、旧知のKさんからのお誘いとあれば出かけないわけにはいかない。
 『父と暮らせば』は井上ひさし作で1994年の初演、2004年に宮沢りえ・原田芳雄・浅野忠信出演で映画化された。もともとは二人芝居であったが、映画では浅野が木下役で登場する。また、調べてみるとこまつ座以外では語りであったり、一人芝居であったりする上演例があるとのことだ。
 東大附属も一人芝居であった。なぜ一人芝居という方法を選んだのか、詳しいことは知らない。何でも昨年も学校公演でとりあげた脚本であるという。同一人物が演じたとすれば、その時点では役者となれる生徒が一人しかおらず、その延長であったのかも知れない。そうだとすれば、想像するに演じた生徒にはかねてからの希望があり、一人芝居をうつしかないときに、その状況を逆手にとってこの脚本を選んだのではないだろうか? 同学年に複数の役者志望の生徒がいる中ではなかなか一人芝居を名乗り出るのは困難であろうから。そしてそれが確かだとすれば、演劇に対する向きあい方においても、脚本選択においても、真面目で一途なひとがらが浮かんで来るのである。
 芝居をみせてもらった感想としては、まさにそのような真剣さとさわやかさ、そしてこの脚本にひたむきに取り組んできた者のもつ確信というのか自信のようなものが伝わって来たとまず言いたい。一人芝居としてどこまで出来るか、というのが見どころの一つだったのだろうが、まったく心配御無用であった。嘆き伏している娘のときはまるめた背中からもその悲しみが伝わってきたし、父に変わったときは娘にあたたかい愛情をそそぐ存在に瞬時に変化できていた。声を聞いていて、本当に涙まじりになってしまったのではないかと心配していた次の場面では娘を見守るおおらかな父親の口調に変わっていたときには、ある種の「技」の域に達するものを感じた。娘のときと父のときの違いを声量の違いであらわそうとしたためか、最初のうちは娘の声が聞き取りにくかったが、それは広島弁を早口でまくし立てた結果でもあったのだろう。それはそれで、聞き取れないときがあるのも自然であるともいえる。
 テーマは広島の被爆体験の継承である。被爆者である美津江には忘れようにも忘れられないにもかかわらず、自分からは触れたくない(あるいは未だ言葉に出来ない)体験である。その美津江の前に、広島の記憶を残すために原爆瓦や遺留品を収集している青年木下があらわれる。木下は美津江を見そめ、美津江も木下に引かれていく。しかし、美津江は木下に心引かれていくことで、かえって自分一人が生き残った後ろめたさから「自分一人が幸せになることはできない」との思いに苦しめられていく。数日前から幽霊となってあらわれた父竹造はそんな美津江を慰め、励まし、ときに叱咤する。やがて美津江は木下と生きる決意を固め、父に感謝する。進駐軍の監視ということばが何度も出てくるような時代であり、美津江がただちに広島の語り部になったとか、原水禁運動に参加するようになったとかという話にはならないだろうが、美津江が被爆者である自分を引き受けていく覚悟を固めたことは確かであると思われる。
 政権党の一部から日本も核武装をすべきであるとか、核抑止力に実効性を持たせるために核兵器の持ち込みを許容すべきであるとかいう発言が飛び出す現代にあって、「キノコ雲の下」で何が起こったかに対する想像力を復活させるためにも今日的意義の高い作品である。だが、そのようなテーマ性あるいはメッセージ性を超えた人間愛を作品は持っている。「お前の切ないためいきから(幽霊である)儂の胴体が出来た」なとどいう科白が書ける井上ひさしは本当にすごい人間だと思った。そして、その脚本に取り組むことを決意した生徒の曇りない真っ直ぐな気持ちに心から敬意を表したいと思うのである。
 顧問のKさんがどこまでかかわっていたのかは聞いていない。帰り際にちらとロビーで見かけたのだが、natsuさんとは声をかけ合ったらしい様子があったものの、少し遅れて出た私とは目が合わなかった。終演後はすぐにバラシがあるので、といっていたから、すぐに舞台の方に引き返したのかも知れない。だから、もしかすると「一人芝居をやるならこんな台本もあるよ」と紹介したのはKさんだったのかも知れない。それは分からない。
 それでも、生徒が決意したとき、それを引き受けてやろうとしたのがKさんだったことには間違いないだろう。幕が上がったとき、装置が相当程度しっかり組まれていたことに、まず軽い感動を覚えた。一人芝居を支えていくには舞台装置の作り込みが大切だとの判断からではないか? 調度品などにはやや時代が若いと感じないでもなかったが、吊り物の電灯は視線を集中させる役割を果たしていたし、終盤になって運び込まれた原爆資料を詰めた茶箱も説得力があった。
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 natsuさんとは事前に打ち合わせていたのだが会場に入るとKMさんも来ていた。思えばKさんとも同時代の人間なので何の不思議もないのだが、詳しく話を聞くと最近詩を書いている者同士のつながりで和国の1期生と知り合いとなり、その1期生を担任したのがKさんという巡り合わせがあったのだそうだ。KMさんは所用があるとのことで終演後はまたの再会を約束して別れたが、natsuさんとは新宿のわらび家で一献傾けた。シメに軽めのあがり蕎麦をいただいて9時前には別れたが、ちょうどよい関係ではないだろうか?

 

# by yassall | 2018-04-05 00:41 | 日誌 | Comments(0)

桜2018④身延山しだれ桜・富士山本宮浅間大社

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 4月2日は山梨から静岡にかけての旅である。メインは身延山久遠寺、日蓮宗の総本山である。
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 287段の階段。先日のみかも山に続いてまた山登りかと覚悟し、実は伸縮式のトレッキングポールを携行していった。
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 しかし、このような斜行エレベーターが設置されていて、楽に本堂まで上っていくことが出来た。もちろんストックはバスの中に置いていった。
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 堂内は撮影禁止とあった。堂外も禁止とはなかったので、境内の様子を写真に収める。加山又造の金の黒龍もしっかり見てきた。お坊さんがいたので一応聞いてみたが、黒龍も撮影禁止とのことだった。
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 久遠寺はしだれ桜で名高いとのことである。
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 きれいな桜の下にはやはり人が集まる。
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 私も近寄って撮影させてもらう。
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  境内には五重塔の他、いくつもの伽藍が立ち並び、ロープウェイの先には奥の院もひかえる。さらに山裾に向かって数多くの僧坊や道場が建てられている。総本山と呼ぶにふさわしい一大宗教施設であった。
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 続いて富士山本宮浅間大社に向かう。なかなかのおおやしろであるが意外と庶民的で嫌みがないと思った。
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 参道に入る前に富士山が見えた。この日は朝から薄曇りで富士は諦めていたのだが、さすがにそばまで来ているのだなと実感する。
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 そろそろ日が傾きかけてきた。参拝を済ませた後、桜の撮影に移る。近寄るとそろそろ葉が出てきたのが見てとれる。
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 もうすぐ花心が赤くなってくるころだろう。今日あたりが最後だったのかも知れない。
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 この日、午前中には歌舞伎文化公園にも立ち寄った。市川團十郎発祥の地だそうで、住所は山梨県市川三郷町とあった。城郭造りだが文化資料館として建てられた新しい建築である。
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 観光名所というより町の人々の憩いの地という感じだった。
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 釈迦堂PA近辺には桃園が公開されていた。如何せん滞在時間が短すぎた。桃なら古河公方公園で見たし。
    ※
 ところでこの日は久しぶりにD3300を持ち出した。携行機材の重さを気にせずすんだり、ワイナリーでワインの試飲が出来たりするのはバス旅行の利点ではある。ただ、ミラーレスに慣れてしまうと一眼レフは露出補正が難しいと改めて思った。

  D3300+18-55mm、ZR4000





# by yassall | 2018-04-04 18:49 | 風景 | Comments(2)

桜2018③森林公園

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 30日は森林公園。Kさん、Nさんとのいつものメンバーと一緒である。当初は4月5日か7日と予定していたところ、開花が早まったとの知らせから急遽前倒しになった。少人数だと小回りがきくのである。1枚目は山田城跡付近に分け入ったときの山桜、Kさんはこのような木のありかも心得ているのである。
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 少し遠回りをして花木園へ。奥まったところのベンチが集まっているあたりが目的地である。
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 平日ではあるが、この日は他の花見客も多かった。迷惑がかからないように端の方のベンチを選んで酒肴をひろげる。
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 窪地になっているからこのような風景に囲まれながら酒宴となる。空の青みが強い方が太陽からみて順光側である。ここ数年では最高の花盛りである。
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 4時には帰り支度をはじめる。花木園を離れても付近の丘一帯に桜は植えられている。
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 上はユキヤナギと、下は菜の花とのコラボ。
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 向かう先はいつもの新盛である。このところ予約の電話を入れてから向かうようにしている。金曜日ということもあるが、人気店らしく5時過ぎには座敷もカウンター席も満杯になってしまった。

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# by yassall | 2018-04-01 17:27 | 散歩 | Comments(0)

桜2018②太平山・みかも山・古河公方公園・権現堂桜堤

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 29日は北関東をめぐるツアーに参加してきた。朝8時に新宿を出発し、最初に向かったのは太平山である。日本のさくら名所100選に選ばれているとのことだったが、麓の方では満開だったのに対し、山頂はまだこれからという感じだった。謙信平はこの地で北条と和睦した謙信が関東平野を眺めてその広さに感じ入ったというところからだそうだ。
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 太平神社にも参拝しては来たが、枝垂れ桜もまだまだなのか、すでに盛りが過ぎたのか、少々がっかりだった。
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 山本有三の文学碑が建っているというので探してみた。
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 みかも山はカタクリが群生しているというのでコースに入った。かなりの急勾配である。
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 カタクリはユリ科の多年草で「春の妖精」と呼ばれているそうだ。
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 こんなデッキが観賞用に設えてあるのだが、ここまで来るのに下のような山道を15分ほども登らなければならない。
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 冬の運動不足がたたってすっかり息が上がってしまった。少しばかり恨めしい気持ちが残った。
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 栃木県から茨城県に移る。古河公方公園では桃まつりの真っ最中である。天候もうららかさを増してきた。
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 桃まつり娘(だったか?)が来場者をもてなしている。あまり和服を着慣れていない様子だが、華やかではある。

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 園内はかなり広く、色とりどりの桃の花が咲き誇っていた。

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 3枚目は寒緋という品種だそうだ。
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 数は少なかったが桜も見頃だった。
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 埼玉は幸手市に入る。一番のお目当ては権現堂桜堤だった。幾重にも桜並木が続き、花見客でごった返している。屋台もたくさん出ていて盛況の様子だった。
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 桜は満開なのだが菜の花の方が少しボリュームに乏しかったのでトリミングしてみた。
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 桜の撮影も存分に楽しんだ。

 G8+12-60mm、ZR4000



# by yassall | 2018-04-01 00:30 | 風景 | Comments(0)

桜2018①六義園・後楽園

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 桜の季節がやってきた。今年はどこへ撮りに行こうかとあれこれ思案しているうちに、例年より10日早く満開との情報が入ってきた。まず身近なところで三田線沿線を、ということで、27日は六義園と小石川後楽園を回ってきた。
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 六義園は千石から。枝垂れ桜が有名だが何度も行ったのにこれまで見たことはなかった。どうせ人で一杯なだけだろうと何となく避けてきたのである。人出は予想通りだが、こういうときは人間も風景のうちととりこんで行くしかない。思ったよりボリューム感がないなあと感じていたが、どうやら盛りは過ぎていたらしく、4日後に妹が出かけたときは花は影も形もなかったという。
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 ソメイヨシノがもう1本茶屋のとなりに立っている。
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 そばへ行って枝振りを観賞する。
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 こちらはまだつぼみを残している。
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 小石川後楽園へは春日から。春日から丸ノ内線後楽園は徒歩で7分ほど。後楽園の入り口まではずいぶん大回りをしなければならないので、丸ノ内線の駅からの方が歩く時間はながい。
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 桜は後楽園の方が充実していて種類も多い。少し曇ってきてしまったのが残念だ。
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  この大泉水の岸辺の岸辺の桜が一番見応えがあったかな。奥まった場所の内庭も隠れた撮影スポットという感じだったが、肝心の桜が白飛びしてしまって写真にならなかった。まだまだ腕が足りません。
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 水辺にかかる桜。
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 小石川後楽園の借景は東京ドームなのである。後楽園遊園地のジェットコースターも頭をのぞかせている。

 EM10+LX12-60mm


# by yassall | 2018-03-31 14:51 | 散歩 | Comments(0)

精華高校・新座柳瀬高校演劇部東京合同公演「愛もない青春もない旅に出る」

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 14日、精華高校演劇・新座柳瀬高校演劇部合同東京公演「愛もない青春もない旅に出る」を見にシアター風姿花伝まで出かけてきた。公演日程のうち、13日は夜の部のみ、14日には昼の部があったのでそこに予約を入れたのだが、この回にはポストパフォーマンストークがあり、二つの高校が合同公演を打つにいたったいきさつや、「愛もない青春もない旅に出る」という不思議なタイトルが生まれるにいたった経過の説明を聞くことが出来た。詳しくは省略するが、精華高校が「旅する」演劇部であること、新座柳瀬のtomoさんがその精華高校の芝居に惚れ込み、合同公演を打つことを目標としたこと、という運びであるらしい。

 大阪 精華高校『大阪、ミナミの高校生2』作・オノマリコと精華高校演劇部
 tomoさんから噂を聞いていたので、どんな芝居をみせてくれるのだろうと楽しみに見た。最初に部員の一人がホワイトボードを使って「今日の芝居の主題は恋あるいは恋愛だ」と口上を述べる。ここからして、通常の芝居作りとは一線が画されようとしている。
 トークショーには作者のオノマリコ氏にも出席していて、劇の成り立ちについて解説してくれた。反省文の書き方をめぐって女子高校生と担任教師とが日を変えて断続的にやりとりする、冒頭にも、またその間隙を縫うようにして男女の部員たちによるモノローグが挿入されていく、というような構成なのだが、部員たちのセリフのほとんどは各人たちが日ごろの思いや体験にもとづいて自分たちで考えて持ち寄ったものだというのである。
 テーマとされた「恋あるいは恋愛」はあらかじめ設定されたものであるのだろう。恋愛を深めていけばどうしても性の問題に突き当たらざるを得ない。「痴漢も冤罪痴漢も女性専用列車もなくなればいい。男とか女とか(性差が)なくなればいい。…ずっとそう思ってきた。でも、恋をすると違った。」(不正確な箇所あり)というようなセリフと出会うとドキッとさせられる。「性」を否定してしまいたい気持ち」というのはむしろ自らの「性」と強く向き合わざるを得ない年代を迎えたということだろう。その痛々しいまでのとまどい、怒り、おののきが伝わってくる。
 だが、そんなふうに高校生たちの裸のすがたを描き出して見せたことより、ドラマの中にモノローグを差し挟んでいく、というよりモノローグそのもので芝居を構成していこうとする手法に感心させられた。
 しばしば芝居を中断させ、私的なモノローグやアジテーションを挿入していったのは寺山修司である。その寺山芝居について高取英は次のように書いている(『寺山修司』平凡社新書2006)。

 劇を中断し、現実的なセリフによって、「一千万のドラマ」に注意をうながすのは、虚構に耽溺し、物語が終われば拍手をし、現実に戻るような観客と舞台とのなれあいの境界に寺山修司が、がまんできなかったからである。

 そして、寺山がよく「俺は、劇場で行われたことを、拍手で終わりにするのではなく、観客それぞれの現実生活に持ち帰ってもらいたいのだよ」といっていたことを紹介している。
 その寺山とも共通するような演劇なるものへの挑戦、観客を虚構の世界にいざない、幕切れとともに完結させる、というのとはまったく異なった演劇への模索を読み取ったのだ。かといって差し挟まれたモノローグが本当に現実そのものであるのかどうか、虚実ないまぜ、あるいはすれすれのところで演劇空間を成立させようとのこころみであったとも思う。役者たちがときに滑舌が悪かったり、素に戻ったごとくに照れくさそうにしているのも、もしかしたらリアルさの演出であったかも知れないと、一度は引いてみざるを得ないような。つまり、観客もただ舞台に身をゆだねていればいいのではなく、投げつけられるセリフに緊張を強いられている、ということだ。
 校則には「学校内でSEXをしてはいけない」とは確かに書いていない。それは担任教師がいうように「常識」であるからというより、触れてはいけない禁制であるからなのだろう。おのれの「性」に直面し、身もだえしている高校生にとって、その禁制は(keepoutの規制線のように)スカスカの虚構である。あえてその禁制を破ってみることと、規制線の内側にとどまっていることと、どちらが高校生が演じる高校演劇といえるのだろうか? 
 精華高校がいつもこのような芝居作りをしているのかどうかは知らない。ともかくも、上記の問題も含めて、いわゆる高校演劇あるいは演劇そのものの枠を破ってみせようという実験作だったと思う。

 埼玉 新座柳瀬高校『Merry-Go-Round!』作・稲葉智己
 tomoさんとしては精華高校とがっぷり四つに組んでみたいというのが目標の第一だったのだろう。それに相応しく新作(だよね?)で臨んできたし、リーフにある通り、「何かを伝えたいとか、何かを訴えたいというよりも、『こんな面白いお話しがありますよ』と物語りたい」とのことば通りの芝居作りだったし、「新座柳瀬の芝居の『型』」ということばも出てきたが、今あるものをすべて出してしまおう、というところだったのではないか? たぶん部員総出演というところも含めて、その意気込みやよしとしたいが、率直にいえば脚本の面でも、芝居の面でも、少々作り込み不足のものを感じた。
 地中海のとある島に君臨する偽貴族がいて、その貴族を利用している全権総督がいる、しかし偽貴族は引退を希望しており、後継者を探そうとするところから騒動が持ち上がる…という設定なのだが、その設定がツカミのところでよく伝わって来ない。複雑な事柄を説明的に述べられても困るのだが、偽貴族がいることで全権総督にどのようなメリットがあるのか、偽貴族の側にはどのような見返りがあるのか、引退したがっている理由等々が謎のままなのである。たぶん、何か大事なセリフを聞き逃してしまったのだろうとは思うが、そもそものきっかけのところで躓いてしまった。ラストのどんでん返しもよく出来ているといえば出来ているのだが、まんまと3、40万ドルをせしめて島を逃亡したアンジーが後継者の席にすわるまでのルディーとレベッカの決断、アンジーが心を決めるまでの過程ももう一言か二言でいいから欲しいところだった。
 オスカーとエディーが最初は欲得づくでアンジーに近づきながら、いつしか虜にされていく(ですよね?)過程も、アンジー側が淡泊すぎたことばかりでなく、オスカーとエディーの側の心理変化も不足していたのではないか? マーガレットとエリーが大金持ちにありがちな傲慢さゆえのおしおきを受けるというのはお約束通りとして、確か二人とも最初はオスカーを追っていたはずなのに、エリーがいつのまにかエディーにぞっこんになってしまうのはどのようなきっかけからだったか、どうも印象に残っていない。
 さて、tomoさんとしてはもう一つのねらいがあったのではないだろうか? それは卒業生3人の集大成とともに、この芝居で主役を交代させようということではないかとにらんだ。ただ、素材感は私も認めるところだが、表情の豊かさとか、セリフの切れとか、まだまだ鍛えられていないと思った。さわやかさだけを頼りにしてはいつまでも持つものではない。他の役者たちも含め、これからどのように育てていくか、楽しみにしている。どうも身内意識があるせいか、今回は辛口に終始してしまったようだが、最後まで楽しく見られたことはいうまでもない。
  ☆
 往路は西武池袋線椎名町駅から歩き、帰路はnatsuさんといっしょに下落合駅まで歩き、西武新宿線で新宿へ出た。もちろん二人で一献傾けようという算段をしていたのだ。natsuさんの長旅の疲れが気になったが、二人だけということもあり、酒もすすみ、突っ込んだ話まですることが出来たので、楽しくも深いひとときだった。
 さて、この劇評はまたしてもnatsuさんに先を越されてしまった(「18→81」)。natsuさんには昨日の酒が残らなかったのだろうか? 本当はnatsuさんのブログでほぼ言い尽くされているようなものなのだが、昨夜の約束もあるので後出しながらアップする。


 



 

# by yassall | 2018-03-15 20:06 | 高校演劇 | Comments(2)

ブリューゲル展

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 13日、ブリューゲル展を見に東京都美術館まで出かけてきた。ブリューゲルは日本に来るたびに見に行っているし、昨年の「バベルの塔」などはよくぞ日本で生きている間に見られたものだと感激もひとしおだった。今回の企画は「画家一族がやって来る」というキャッチコピーの通り、150年に及ぶというブリューゲル一族およびその工房の作品を集めたもので、ピーテル・ブリューゲル1世の作品は版画程度だった。それは予想通りだったのだが、しばらく美術館に足を運んでいないなあ、ということで出かけたのだった。
 1世の息子には兄のピーテル・ブリューゲル2世と弟のヤン・ブリューゲルⅠ世がいる。兄の方は父1世の複製を大量に制作し、ブリューゲルの名を広くヨーロッパに広めることになったという。複製といっても父1世が残した下絵にしたがって忠実に再現したものだ。会場には冬の風景である「鳥罠」が展示されていた。そうした先入観があるせいか、どこか力強さに足りないものがある気もしたが、絵画としては群を抜いているように思えた。絵の才能は弟の方がすぐれ、静物画という新しい境地を開いて「花のブリューゲル」と呼ばれたという。ひ孫たちには1世から「風景」や「城壁」をそれぞれ引き継いだと評される作品がある。それらと比較しても私は「鳥罠」の方に心をひかれた。 
 今年は一昨年のカラヴァッジョや昨年のクラーナハのような魅力的な展覧会情報がないなあ、と少々気落ちしていた。その気持ちが晴れたというほどの展覧会とはいかなかったが、いちおう記録としてアップしておく。


# by yassall | 2018-03-15 16:36 | 日誌 | Comments(0)