6.3オール埼玉総行動

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 立憲主義を取り戻す!戦争させない!9条こわすな!6.3オール埼玉総行動が今年も北浦和公園を会場に開催された。市民団体、生協や埼商連、連合系・全労連系の労組などの諸団体のほか、1区から15区までの小選挙区ごとに結成された連絡会が集った。ゲストスピーチは元外務省国際情報局長の孫崎亨氏だった。
 どの発言者も安倍内閣の打倒を訴え、そのためには市民と立憲野党の連帯が最重要であることが強調された。政党あいさつは立憲民主党・菅直人氏、共産党・田村智子氏、社民党・又市征治氏、国民民主党・小宮山泰子氏、自由党・松崎哲久氏がスピーチに立った。これだけの野党がそろい踏み出来るのも埼玉ならではかも知れない。それにしても、昨年からを振り返って、いまだに安倍内閣が存続しているのは不思議だとしかいいようがない。
 (埼玉の集会に出るといろいろな昔なじみと会えるのが楽しい。今年はどうしているのか気になっていた人と15年ぶりくらいに再会できた。よい一日だった。)


# by yassall | 2018-06-03 17:02 | 日誌 | Comments(0)

えのもとぐりむ傑作選『陳弁ピクトグラム』

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 26日、みかわやこと今は葉山美侑から出演情報があったので、えのもとぐりむ傑作選『陳弁ピクトグラム』を観に浅草九劇まで出かけてきた。
 「ピクトグラム」とはひとことで言えば絵文字のことであり、上の舞台写真(終演後、許可を得て撮影した)下手の非常口や上手の禁煙マークのような、何らかの情報や注意を示すために表示される視覚記号のことである。「人間はピクトグラムのように薄っぺらな存在ではない」というのが芝居のテーマを言い表している。
 会場に入ると、「青白く照らされたトイレ。ひとりの女が殺されたところから物語は誘導されていく。」というリードの通り、舞台中央に設えた便器が青いサスライトで照らされている。単なる飾りではなく、様々な役者によって入れ替わり立ち替わり使用される。これを悪趣味といってはいけない。この芝居の基本的な構造を象徴しているのだから。
 人間が遮蔽物に囲まれたトイレの中で用を足すようになってから、それは個的な出来事となり、他者の目に触れることがないもの、触れてはならないものとなった。芝居はそうした人間の表面からは見えないもの、隠されたものの存在を明示し、あからさまにしようとしているのだろう。
 (もし、悪趣味というなら、むしろ演劇の仕組みそのものにかかわっているといえるだろう。通常、本当は目の前に観客が存在しているのに、役者は誰からも見られていないことを前提に演技し、観客は演者に知られずにそっと覗き見ていることを前提に観劇している。それならば誰にも見られることのないトイレの中の場面でも同様のはずだが、役者の方も観客の方も、見る・見られるの関係のある一線、日常に起こりえる一線を越える。もしかすると、それは観客の側に多くの緊張を強いるかも知れない。)
 えのものぐりむのTwitterを検索してみると、「人間世界は汚くて醜いバケモノが隠れていて、繊細な人間ほどそれをくらう。だけど純なものを信じて生きよう。」というような投稿と出会う。芝居には近親相姦やらストーカーやら、性関係による利害の交換やらが出てくる。殺人事件が起こり、しかも遺体は行方不明のままになる。被害者とされた女性の兄である刑事が同僚の女性刑事と捜査を続け、謎解きがはじまる。だが、表現の中心はそれらにはないのだと思う。「人間はピクトグラムではない」の科白によって示された人間存在の有り様そのものを描こうとしたのだと思った。さらにことばを重ねれば人間の自由を。
 以上が劇を見ての感想である。卒業生の追っかけしかしていないから詳しくないのだけれど、えのもとぐりむは「演劇界で今とても人気が出てきている演出家」なのだという。今回の公演については、「若手発掘企画と銘打ち、えのもとぐりむのワークショップなどから若き才能をプロデュース」とあった。終演後、みかわやにいきさつを聞いてみると、やはりオーディションを受けて抜擢されたそうだ。千葉ユリとして、「イントロ」で殺人事件の被害者となり、3話目の「禁煙」で美大生を演じ、そして謎解きがされる「三つ編み」に出演するという、全編を貫く重要な役どころを与えられた。一見、清楚で真面目そうでありながら、過酷な過去と複雑な内面とをかかえた人物造形にとりくんだ。濃淡をつけすぎず、清楚さも、不気味さも、リアルに表現できていたのではないか? やりがいのある役にとりくんだ、という充実感が、終演後のあいさつに駆け寄ってきた表情に見えた。

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# by yassall | 2018-05-28 14:31 | 日誌 | Comments(0)

コピスみよし2018第17回高校演劇フェスティバルのチラシが届きました!

 先にお知らせしたコピスみよし2018第17回高校演劇フェスティバルのチラシが届きました! 
 昨年までとおもむきが変わったのは今年から事務局長のtomoさんの制作になったからです。なかなかスッキリしていてよい出来栄えです。ぜひ、皆さんで拡散して下さい。
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拡散! 拡散!


# by yassall | 2018-05-24 20:25 | Comments(0)

『マルクス・エンゲルス』ラウル・ペック監督作品2018

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 原題は『THE YOUNG KARL MARX』である。マルクス生誕200年を記念して制作された。1842年の『ライン新聞』時代から1848年の『共産党宣言』執筆までを描いている。この時期にマルクスはエンゲルスと出会い、思想的に影響しあい、行動を共にするようになる。映画の中でもエンゲルスがリカードやA.スミスの経済学の勉強をすすめるシーンがあり、酔って二人で夜の街をうろつき回っているうちに、突然マルクスが有名な『フォイエルバッハに関するテーゼ』の第11「哲学者たちは、世界を様々に解釈してきただけである。肝心なのは、それを変革することである。」を思いつくシーンがある。マルクスが共産主義者としての立脚点を得る上で、エンゲルスとの出会いと共同は不可欠だった。青年マルクスに焦点を絞ったのもそこにねらいがあったのだろうから、邦題が不適切とは言えない。
 『ライン新聞』の主筆となったマルクスは「木材窃盗取締法に関する討論」を発表する。映画は森の中で枯れ枝を拾い、薪とすることで貧しい糧を得ようとする人々の群れに騎馬警官が襲いかかり、激しく殴打するという場面ではじまる。
 この印象的なプロローグを見ながら、マルクスの出発点となったとされる「木材窃盗取締法に関する討論」の意義について考えていた。
 ミレーの『落穂拾い』は収穫の際にこぼれ落ちた穂は貧しい人たちのものとしてよいという慣習から生まれたという。それと同様の慣習が森の民の間にも存在していたのだろう。さらに遡れば森が村落共同体の共有地であった時代もあったはずである。「木材窃盗取締法」は中世的世界が崩壊し、時代が近代へと移行しつつあったことを象徴しているのではないか? ライン州議会が枯れ枝を拾うことを窃盗であるとした背景には、私有財産制の浸透があったと考えたのだ。1840年代にはプロシアでも資本主義が興ってくる。貧困と格差が拡大する時代がやって来たのだった。
 マルクスはヘーゲル左派の哲学者として始まった。ヘーゲルにとって自由は社会の構成員全員のものでなければならず、自由の相互承認による「市民社会」の価値を認める。しかし、その「市民社会」は自由な欲望の追求(経済の自由競争)と「人倫」(共同的な道徳や秩序)との間に新たな矛盾を生み出す。ヘーゲルはその矛盾を止揚(アウフヘーベン)するものは「国家」であると考えたのである。
 ヘーゲルもまたドイツの近代化を真摯に模索したのであり、単純に国権を人権に優先させてしまおうとする国家主義(「国体」論!)と同一視してはならない。だが、ヘーゲルが「理性」の具現化とした国家が実際にどのように働いたか、といえば、その「秩序」維持のための実力組織=警官の騎馬や棍棒やサーベルは森の中で枯れ枝を拾う貧民の頭上に振るわれ、有産者階級の利益を肩代わりする暴力装置でしかなかった。マルクスは「木材窃盗取締法」と向き合うことでヘーゲルから抜け出たのだと思ったのだ。
  ※
 映画はフランス・ドイツ・ベルギー合作作品だという。『ライン新聞』が休刊に追い込まれた後、マルクスは活動拠点をパリに移す。そのパリも追放され、ブリュッセルに移住する(『共産党宣言』執筆の後、ベルギーも追放される)。その間、『神聖家族』や『ドイツ・イデオロギー』を共同執筆し、それぞれエンゲルスは『イギリスにおける労働者階級の状態』、マルクスは『哲学の貧困』を書いた。
 行動面でも「共産主義通信委員会」を創設し、二人で「正義者同盟」(義人同盟)に加入する。「正義者同盟」は第1回大会で「共産主義者同盟」と改称する。映画ではエンゲルスが激論をたたかわせながら、「万人は兄弟である」というスローガンを破棄し、「万国の労働者よ、団結せよ!」に変更させる場面が活写されている。そして「共産主義者同盟」から二人に依頼されたのが「理論的であると同時に実践的な党綱領」=『共産党宣言』であった。
 マルクスとエンゲルスは理論の追究にこだわり、同時代において実績や影響力のある社会運動家との論争も辞さなかった。それは、「われわれは空理空論をふりかざして世界に立ち向かうのではない。…現に世界を動かしている諸原理のなかから、新しい諸原理を発展」(『独仏年誌』)させるためであり、「理論もそれを大衆が掴むやいなや物質的な力となる」(『ヘーゲル法哲学批判』)ことを確信していたからだ。どうしても伝記を追っていくことになり、マルクスにおける理論的発展がどのようになされたか、その内面までもが描き切れているとはいえない。しかし、空想的あるいは主意的な運動の段階からの離脱をめざしていたことは、映画中での論争の端々からも十分に伝わってくる。
 ボブ・ディランの「Like A Rolling Stone」が流されて映画がラストを迎えることも評判になった。これは映画に描かれた後の時代のことになるが、1848年のフランス二月革命、ドイツ三月革命の挫折をへて、マルクス・エンゲルスは『共産党宣言』の革命理論を見直し、さらに深めていく。しかし、「ブルジョワジーは、世界市場の開発をつうじて、あらゆる国々の生産と消費を全世界的なものにした」というような今日のグローバル化世界の到来を予見したかのような一節と出会うと、その生命力は今もなお失われてはいないと思ってしまうのだ。
  ※
 つい固い感想になってしまった。原題のとおり、映画は若きマルクスとエンゲルスの青春物語として観ることも可能である。マルクスとイェニーの夫婦生活が描かれるが、エンゲルスの恋人メアリー・バーンズも登場する。もともとアイルランド系の女工で、ともに革命運動にたずさわるという描かれ方をする。また、後にエンゲルスと結婚することになるその妹のリィデアも最初から登場している。そのあたりのことは知識になかったので興味深かった。
 岩波ホールまで出かけたのは22日。三田線神保町を降りてすぐだから造作もない。もう何十年も映画館で映画を観ていない、とつい先日書いたばかりなのだが、別段宗旨替えしたというわけでもない。


# by yassall | 2018-05-24 01:27 | 日誌 | Comments(0)

コピスみよし2018第17回高校演劇フェスティバル始動です!

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 5月15日、三芳町文化会館コピスみよしにて、第17回高校演劇フェスティバル第1回実行委員会ならびに出演校打ち合わせ会・会場下見が行われました。今年の出演校と演目はつぎの通りです。松山女子高校と川越高校が初参加です。

 9:40       開場
 10:00~10:05 開会式
 10:10~11:10 松山女子高校『とおのもののけやしき』岩崎正裕(既成)
 11:30~12:30 新座高校『トシドンの放課後』上田美和(既成)
 12:30~13:30  昼休み
         (13:10~ 階段 星野高校)
 13:30~14:30 川越高校『お言葉ですが、東條英機閣下』阿部哲也(創作)
 14:50~15:50 東京農業大学第三高校『バンク・バン・レッスン』高橋いさを(既成)
 16:10~17:10 坂戸高校『鬼ぃさんといっしょ』
            作:豊嶋了子と丸高演劇部 潤色:坂戸高校演劇(既成)
 17:30~18:30 新座柳瀬高校『Alice! 〜パート3 響け、ウエディング・マーチ!編〜』
            原作:ルイス・キャロル 作:稲葉智己(創作)
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 実行委員会メンバー紹介、出演校紹介、大会運営協力校紹介、ホールスタッフ紹介、実施計画の説明の後、会場下見、学校別舞台上声出しタイムがありました。会場下見では会館スタッフの方から舞台、照明、音響など機構説明がありました。
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 2018年コピスみよし第17回高校演劇フェスティバルは

      6月17日(日)    です!

(チラシは来週できあがりの予定です。詳報が入ったらまたアップします!)


# by yassall | 2018-05-16 16:04 | 高校演劇 | Comments(0)

池田龍雄展

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 5月4日、「戦後美術の現在形 池田龍雄展 楕円幻想」が開かれているというので練馬区立美術館へ出かけてきた。これまでも中村正義や牧野邦夫など、独特の鑑識眼による企画展が開催されて来たが、今回も思いがけない拾いものをしたというのが率直な感想である。
 というような感想を持ったというのは私の不明によるものであって、戦後アバンギャルドの画家として池田龍雄は確固とした地位を占めており、ここ練馬区立美術館では20年前にも「池田龍雄・中村宏展」を開催しているそうだ。
 池田龍雄は1928年、佐賀県生まれ。1943年に「忠君愛国の至誠に燃え」て15歳で海軍航空隊に入隊し、1945年には特攻隊員として霞ヶ浦航空隊に配属され、敗戦の報を聞いた。除隊後、佐賀にもどり佐賀師範学校に編入されたが「終戦時に陸海軍の現役下士官以上だった者の教職就業の禁止」というGHQの通達のため、一年で退学となった。教師への道も閉ざされた池田は幼い頃から絵が得意であったことから画家をこころざし、1948年に多摩造形芸術専門学校(多摩美大)に入学、同年秋には岡本太郎や花田清輝らの「アヴァンギャルド芸術研究会」に参加し、前衛芸術家の道を歩にはじめた。
 展覧会の第0章は「終わらない戦後」である。このような経歴の持ち主であることから初期の作品には戦争体験の影が色濃い。最初期の「無風地帯 壊された風景」(1951)あたりにこそピカソの影響が明かだが、次第にオリジナリティを獲得していく様子が見て取れる。
 鋭く硬質な線の多用によるペン画は当時刊行されていた『現代詩』や『人民文学』等の表紙や挿絵に採用されていたらしい。その線描は棘のようで痛い。だが、風刺的でシニカルであると同時に、そこはかとないユーモア精神も感じられる。ここで、『列島』の関根宏や木島始と交流があったことも知り、頭の中でさまざまなピースが繋がっていく。一昨年、府中市立美術館で新海覚雄展を見たことがある。その新海と同じく、池田もルポルタージュ運動にたずさわっていた時代があるとのことだった。総評系に近かった新海が社会主義リアリズム的な傾向を持ち、共産党に近かった池田がアバンギャルドの技法によっていたというのは面白いと思った。ルポルタージュ運動には安部公房も参加していたから、1950年代はさまざまな志向を持った運動が渾然としていたのだろう。
 展覧会第1章のネーミングは「芸術と政治の狭間で」、第2章は「挫折のあとさき」である。ここでいう「挫折」とは具体的には1960年安保闘争とその挫折(条約改定を阻止し得なかったこと)であり、池田はのちに「わたしのなかの芸術と政治の間の距離を決定的に広げてしまった」と語ったという。絵画の上でも《禽獣記》《百仮面》シリーズをへながら変容していく。それは「人間の存在や、自らの内面」への視線の深まりともいえる。私の感想からいえば「線」から「球体」への変化である。
 それは池田の芸術活動の衰退を意味するのではなく、第3章「越境、交流、応答、そして行為の彼方へ」ではさまざまなジャンルとの横断的な交流(たとえば寺山修司のと共同作業)によってその範囲を広げ、第4章「楕円と梵」では宇宙論的とも存在論的ともいえる境地を開いていく。色彩も実に神秘的で美しい。
 池田龍雄がすごいところは90歳になる現在もその芸術活動がとどまらないことだ。第5章「池田龍雄の現在形」では《箱の中へ…》シリーズに象徴されるような即物的ともいえるオブジェや立体の造形に新境地を開いている。そのありようは、「宇宙空間を漂い続けた池田の思考は、やがて引力に引き戻されるように地上に降りてきた」とも評されているようだ。
 また、60年代に「芸術と政治の距離」を実感したとのことだが、2007年には「青空の下を再び焦土にするな」、2010年には「散りそこねた桜の碑」を描くなど、決して「外側の世界」に対する視点を失ってはいないことも見誤ってはならない。さらには、これは指摘を受けて気が付いたことだが、池田はまだ画家としては自立出来なかったころ、木島始を通して絵本を手がけていた時代があり、中でも浜田廣介・文『ないたあかおに』(1965)は今もなお出版され続けている代表作となった。原画が陳列ケースの中に展示されていた。やさしい絵だと思った。
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 1階展示室前のロビーには撮影フリーで「漂着」(2001)が展示されていた。瀧口修造の「夢の漂流物」に触発されて制作されたという。日本のシュルレアリスト瀧口修造は池袋モンパルナスとのかかわりでも名前が出てくる。また一つピースとピースが繋がった。左下の床には「楕円空間」(1963-4)を図案化したものが描かれている。二つの中心点を持ち、運動体である楕円の発見にも心ひかれるものがある。






# by yassall | 2018-05-05 16:53 | Comments(0)

9条改憲NO!平和といのちと人権を5.3憲法集会

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 5月3日、憲法集会参加のため有明・東京臨海広域防災公園へ出かけてきた。先週の天気予報ではGW後半は荒天とあった。カッパの着用を覚悟していたが、雨は朝のうちに上がり、暑くもなく、寒くもなくの天候となった。
 11時頃からイベントははじまっていたが、私は13:00の開会をめざして出かけた。有明駅に到着しても人出が多く、なかなか駅から出られない。ちょうど落合恵子氏のトークの最中にやっと会場入りが出来た。竹信三恵子、清末愛砂、山内敏弘氏らによるトークⅠのあと、立憲野党による政党あいさつ、プラカードアピール、おしどりマコ・ケンさんによるスピーチ、トークⅡ、全国統一署名報告というように進行した。
 立憲野党によるあいさつでは立憲民主党から枝野幸男代表、民進党から大塚公平代表、日本共産党から志位和夫委員長、社民党から又市征治党首があいさつし、自由党の小沢一郎代表がメッセージをよせた。希望の党にもよびかけはしたが参加はなかったという。
 プラカードアピールとは入り口で配られた3種類のカードを掲げてのコール。トークⅡでは沖縄平和運動センター議長の山城博治さんや福島原発告訴団団長の武藤類子さんら8名が登壇、さまざまな市民運動の先頭に立っている方々らしく、力強いスピーチが続いた。
 プラカードコンクールというのは参加者が持ち寄ったプラカードを、落合さんらが審査員になって優秀作品を表彰するという企画であるらしい。会場を回っていると、
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 何本もの釣り竿の先に紙に描いた魚が折からの風の中ではためいているのがみえた。
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 釣り竿の持ち主たちの足下をみると「渓流9条の会」というポスターが……。同好の仲間内の、たぶんそれほど大きくはない集まりなのだろうけれど、かえって運動のすそ野の広さとユーモア精神にも支えられたたくましさを感じさせた。
   ※
 参加者は6万人と発表された。昨年10月の衆院選で自民党は改憲4項目を公約にかかげて284議席を獲得し、政権与党の公明党をあわせて3分の2を維持した。国会でのは隠蔽や捏造、虚偽答弁を繰り返し、いまや窮地にたつ自民党ではあるが、憲法が危機に直面している状況には変わらない。
 改憲派は今年も公開憲法フォーラム(美しい日本の憲法をつくる国民の会・民間憲法臨調共催、会場は砂防会館)し、昨年に引き続き安倍首相は「この1年間で改憲の議論は大いに活性化し、具体化した」とするビデオメッセージをよせたという。
 帰宅後、TVのニュース番組をみていると、かなりの割合を改憲派の集会の報道にあてており、「改憲は多数の声」などとする参加者の声を拾い上げていた。安倍首相のビデオメッセージも改憲派の集会参加者の発言も「嘘ばっかり」であることは分かっていることだが、政権がいよいよ改憲に乗り出すときはマスコミも総動員して攻勢をかけてくるに違いない。その攻撃に負けないためにも今日のような集会を成功させ、確信を深めていくことが大切だと思った。
 

# by yassall | 2018-05-05 13:50 | 日誌 | Comments(0)

ひたち海浜公園とあしかがフラワーパーク

 5月1日、ひたち海浜公園とあしかがフラワーパークの花めぐりのツアーに参加してきた。今年の花々の開花情報から、よほどキャンセルしようかと考えたが、せっかくなので出かけてきた。
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 ひたち海浜公園は昨年の秋に続いて2回目。前回は見頃直前というコキアはまあまあとして、雨風はげしく、ともかく天候に恵まれなかった。今回は春のネモフィラでリベンジをはかりながら、みごとに返り討ちにあったというところだろうか?
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 ネモフィラは小さな花で、近づいてよく見てみると一輪一輪はまだまだ元気に咲いている。確かにピークは過ぎてしまっているが、よくぞ持ちこたえていてくれたともいえる。それでも、この青空の下、丘全体を真っ青に染める景色を見たかったという思いは残る。
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 いっそ主役を変えてみようかというところ。まあ、このへんがあきらめどころだろう。
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 朝7:30に上野を発ち、9:30の開園と同時に入ったので、時間に余裕を持って園内を散策することが出来た。
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 あしかがフラワーパークの大藤も似たような状況だった。いつかの亀戸天神ほどではないにしてもやはり寂しい。

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 白藤も同じような状況。これは裏側だが、盛りのときは支柱高く何段にも渡されたパイプから垂らされ、大滝に見立てられている。まあ、空はきれいなので。
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 黄藤は少し開花が遅いのか、色もかたちもきれいに咲いている。亀戸天神でも黄藤は残っていた。
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 フラワーパークというだけあってその他にも様々な花が咲き誇っていた。
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 いくつかアップしてみる。
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 根津神社のつつじ苑では見頃を過ぎていたツツジもきれいに咲いていた。
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 種類も多いようだ。
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 もともと花園というのか西洋庭園風にガーデニングされた空間も好きな方なので園内めぐりは楽しかった。手入れも行き届いていた。
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 あきらめきれないので最後に藤の写真をもう一枚。


 EM10Ⅱ+9-18mm、TX1


# by yassall | 2018-05-02 18:06 | 風景 | Comments(0)

2018年春季西部A地区演劇発表会

 4月29日、西部A地区春季演劇発表会の2日目に出かけてきた。28日の1日目には細田、新座、和国の3校の上演があったとのことだが、卒業生の公演と重なってしまい、行けなかった。2日目は朝霞、新座総合、朝霞西が上演した。新座柳瀬は急なことから上演を取りやめたとのことだ。どうしたことかと残念よりは心配が先にたったが、6月のコピスには出演できるとのことだった。

朝霞高校『赤鬼』野田秀樹・作
 「聖」と「俗」、あるいは「貴」と「賤」といったことを考えながら芝居を見ていた。
 『赤鬼』とは私が朝霞高校へ転勤となった年の3年生が卒業公演で演じていたのが最初の出会いである。3人しかいなかったし、中庭での道具もなしの上演だったが、いずれも力のある生徒たちで、1人で何役もこなしながら印象に残る芝居をしていた。台本も読んだ。「聖性」といった問題はかなり早いうちから考えにあったが、役づくりでも舞台づくりでもどうしてよいか検討もつかず、その後部員たちに提案することもなく終わった。どのように解釈し、どのように切り込んでいくかが課題だと思って来た。
 顧問のFさんは前からやりたがっていた。部員たちに提案したのは2度目だという。1度目はずいぶん前の代らしい。よくぞ部員たちが了承したものだと思う。このところ、朝霞はかなり難度の高い芝居に取り組んでいる。部員たちにしてみれば客席に受ける(=笑いがとれる)芝居をやりたがるところだろうが、たとえ高く固い壁に跳ね返されることがあったとしても、私はこうした芝居に真正面から取り組むことも高校演劇のひとつのあり方だと思っている。ああでもない、こうでもない、と思い悩む過程が貴重なのだ思っている。
 後で話す機会があったので、どのように脚本を理解し、解釈しようとしたのかをFさんに聞いてみた。Fさんの口からは「不寛容」ということばが発せられた。とんびとその妹の兄妹は村人たちからのけ者扱いにされている。そこへ異国の民らしき赤鬼(と呼ばれる男)が漂着する。兄妹(とくに妹)は赤鬼を村人たちからかばう。差別される者がさらに下位に位置する者を差別することで自らの境遇から抜けだそうとすることは通常にあり得ることだ。赤鬼が危害を及ぼす存在でないことを知ったことが大きいが、兄妹と赤鬼がなぜ接近できたのか、通じ合えたのかを考えることは大切な観点だ。「不寛容」を入り口とし、不寛容と必要以上の結束の強調(日本を批判する者は「反日」だ)が蔓延する現代を逆照射しようとすることはひとつの切り口である。
 『赤鬼』は人肉食を扱っている。極限的な飢餓にあって人肉食は許されるかどうか、人の肉を食って生き延びた者がその後どのようにして生きられるかは、重いが切実なテーマである。戦後文学の中でも武田泰淳の『ひかりごけ』や大岡昇平の『野火』がこの問題を扱っている。そうした飢餓状態の中での人肉食とは別に、古代や中世の戦闘集団の中で、敵の「力」を自分の内に取り入れることを目的とした人肉食がある。歴史の中では隠されているが、日本でも確かにあったという説を何かの本で読んだことがある。飢餓ではなく信仰(今日では迷信ということになるだろうが)が原因となる。野獣の世界でも共食いは見られるし、チンパンジーなどの類人猿の中には狩りを行うものもある。
 直接的な人肉食でなくとも、人間は他者の命(の全部あるいは一部)を奪いながら生きているというのが真実であるともいえる。自分一人の生のためである場合もあるだろうし、自分が所属する群れ(や国家)の存続や発展のためである場合もあるだろう。意識的な場合もあるし、無意識の場合もあるだろう。知っていて知らないふりをしている場合も多いことだろう。人間の業である。
 そこまで考えて『赤鬼』を振り返ってみる。赤鬼とされた男は確かによそ者であり、具体的には異国からの漂流民であるように見える。「でっかい船が見えた」という者がおり、水銀が兄妹と赤鬼を逃して小舟を出したのはその船に乗り込んで異国を見るためだという。
 実際に日本の海岸に自分たちと容姿が異なり、違う言葉をしゃべる異邦人が漂着したことはあるのだろう。だが、子細にみていくと、赤鬼はそうした漂着民とは異質であるように思われるのである。それは赤鬼の食べ物が花であることだ。赤鬼が花を食べて生きているとすれば、食料のことで人間と競合することはない。土地も資源も相互に争うことはあり得ないのだ。
 そればかりではない。赤鬼は自分を食って生きろ、と人間たちに言い放つのである。(この日の舞台では鬼の肉を食って長生きしたいという見物人に対しての科白になっているが、記憶では小舟の中で飢えに苦しむ同乗者に向かっても発言していたように覚えている。)私はそこに赤鬼の「聖性」をみるのである。野田は人間を超越した「聖性」の表象として赤鬼(まれびと)を描こうとしたのではないか、と考えるのである。
 赤鬼を食ったことを知った妹は村の岬から身を投げて自殺する。妹の自殺を重点に芝居づくりをしていけば人間に対する「絶望」がテーマになる。ところが芝居は兄のとんびのモノローグで終わる。「知恵」の足りないとんびは妹の「絶望」を理解できないというのである。とんびを重点にして芝居を解釈していったらどうなるのか?
 ドストエフスキーの『白痴』を想起している。[知恵」足らずのとんびは赤鬼とはまた違った意味で「聖性」の表象ではないのだろうか? そう考えると、そこには人間の「希望」が見えてくるような気がするのである。
 ※ブログを読んでくれたFさんから、小舟に乗り込んでからの赤鬼には自己犠牲にかかわるような科白はなかった、というメールがあった。私の記憶違いだったのだろう。ある思いが生まれると想念が勝手に膨らんでいくことがままある。いわゆる「深読み」のし過ぎには注意しなければならないが、テキストをきちんと読み込んだという前提のもとに、新しい解釈=切り口を発見していくことはあっていいと思っている。したがって自説を撤回することは今のところ必要ないと考えているが、この間のやりとりで水銀については新しい解釈が生まれてきた。ディスカッションの醍醐味である。テキストレジについての基本的な考え方についても教えてもらった。順当だったと思う。
  ※
 脚本解釈の問題から入ってしまった。3年生3人はよく演じていたと思う。(2年生1人もよくついていったが、まだまだ演技しようという意識が先にたって、役づくりまでには至っていない。上手くなっていくのはこの夏休みに苦しんでからだ。)3人とも1年生のときに招待してもらった試演会のときから見ていた。とんび役の生徒は早くに力をつけてきたが今回も難しい役をよくこなした。妹役の生徒は科白覚えが一番早いのだそうだ。そのせいかどうかは分からないが、これまでは一人芝居になってしまうことが多かった。今回はしっかり他の役者とからんでいた。一番の難役は「普通」のことばをしゃべれない赤鬼役だっただろう。科白を科白としてしゃべれないだけで相当の欲求不満があったはずである。よく耐え、演じきった。私が妹の「絶望」に重点があるのか、とんびの「希望」に重点があるのかに思い悩んだのは、皆それぞれが自分なりに役づくりにとりくみ、一定の到達点に達していたからだろうと言っておきたい。

新座総合技術高校『演劇部、始めました。』Kira・作
 部員が一人足らず、存続の危機に直面した演劇部が、内部分裂を乗り越えて文化祭公演を成功させ、新入部員を獲得するという演劇部物・学園物である。よくあるストーリーといってしまえばそれまでだが、練習をよくしてきたのは分かったし、間の作り方や、山場をどう作っていくかを会得すれば、もっと笑いもとれ、客を引き込んでいくことが出来るだろう。部員が大勢いて、楽しくやっているらしいのも見て取れた。
 感じたことを一ついえば、役の上の名前が分からなくなってしまったのだが、発声がまったく芝居がかっておらず(声が聞こえて来ない、という意味でなく)、なんだか普通の高校生が普通に教室でしゃべっていることばをそのまま舞台に乗せたような役者がいた。それがむしろ好ましく思えてきて面白くもあったし、新しい芝居のかたちの可能性を感じた。

朝霞西高校『朝日のような夕日をつれて 21世紀版』鴻上尚史・作
 朝霞西は何年か前にも『朝日のような夕日をつれて』を上演している。今回は21世紀バージョンであるという。以前の公演がなかなかよかったので、それが超えられるかどうかと思いながら見させてもらった。結論からいえば3年生男子5人の集大成ともいえる出来栄えに仕上がっていた。
 朝霞西の5人も1年生のうちからどこかで見覚えのある部員たちである。あのときのあの芝居に出ていた生徒だな、と思い出しながら見ていて、一人一人の成長ぶりを感じていた。あの頃はふとしたときに声が裏返りがちだったのに、今日はしっかり科白が出ているなとか、動きがとても自然になったなとかである。5人の息もしっかり合っていて、メリハリのある芝居運びが出来ていた。毎日の稽古を一緒に積み重ねていかなければこうは行かないものである。
 そういうわけでパフォーマンスはほぼ完成形といってよいと思ったし、鴻上の難解な科白もしっかり伝わって来た。ただ、芝居が胸に落ちてきたかというと、まだだった。まだだった、というのは、こちらの理解力の問題もあるから、回数を重ねて見れば分かるようになるかも知れないということもある。勢いで走りきってしまったことで、客の心に何かが引っかかる前に行きすぎてしまった、というようなこともあるかも知れない。だからといって、あまり思い入れたっぷりに科白を出されてもこの芝居は死んでしまうだろう。ここではパワーのようなものは確かに伝わって来たよ、とだけ言っておきたい。
   ※
 今回から打ち上げの宴席は遠慮するつもりでいたのだが、やさしいお誘いのことばをいただいて、つい出席してしまった。今年、定年を迎えたMさんの再任用先が地区外になってしまい、Sさんから「M先生も見えるというので」ということばを聞いて、席を共にしたいという気持ちがわき起こったことも理由のひとつである。(出席の理由を述べるのにSさんを引き合いに出したのはそういう経過からであって、自分の失敗や悪事の原因をなすりつけるためではない。むしろSさんの先輩愛をたたえたつもりだったので、その点悪しからず。)
 出席すればやはり楽しかったし、顧問の先生とつっこんだ話が出来たから朝霞の項ような長広舌をふるうことにもなったのである。だが、やはり今となると反省している。昔と比べると出席者が半減している。やはり打ち上げは現役顧問の方々が互いの労苦をねぎらったり、運営上の反省をしたり、各校の劇を批評し合ったりする場でなければならない。自分がそうした中で鍛えられてきたという意識があるから、やはりそうした場として復活させてもらいたいのである。
 もし、我々がいることでよけいな気遣いをさせてしまったり、気詰まりな思いをさせてしまったりしているとすれば、(きっとそんことを面と向かっていう人はいないだろうが)、自分から察して身を引かなくてはならなかったと思うのである。もし、その上で、たまには昔語りでも聞きたい、そのために別の席を設けてくれるとでもいうなら、ありがたく出席させてもらうということでいいではないか?  
 かつて「亡霊○号」を自称したのはKMさんだった。もちろん私たちは「亡霊」を歓待したが、自分もいつしか「亡霊」なりかかっているとしたら、そろそろ「通りすがり」の位置ぐらいまでポジションを移すべきときがきたのだと思うのである。さあ、宣言したぞ!



# by yassall | 2018-04-30 20:20 | 高校演劇 | Comments(0)

東京ノ温度第7回公演『しゃーろきあん』

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 28日、卒業生のみかわやこと葉山美侑から出演情報があったので東京ノ温度第7回公演『しゃーろきあん』を見てきた。小屋は新大久保ホボホボ、作・演出は主宰者である川島広輝である。
 葉山と東京ノ温度との関わりは2017年1月の第3回公演からはじまり、今回で3回目である。小劇場での公演ながら着実に回を重ねていることは立派だと思うし、そうした中で葉山が使われ続けていることはありがたいことだと思う。
 葉山が演じる主人公・秋山珠理奈はシャーロック・ホームズに深いあこがれを持ちながら、実は浮気調査専門の私立探偵事務所につとめている。まだ見習いであるのに、求人情報をみて面接にやってきた和田(和田さん→ワトソン)とともに、所長に無断で猫のポシェット連続盗難事件にとりくみ、そこに浮気調査依頼を装った別れさせ屋とのドタバタがからむといった内容である。
 東京ノ温度の芝居は「ワンシチュエーションコメディ」というコンセプトにある通り、尖ったところのない、安心して見ていられる芝居をめざしていると理解している。第3回はAI社会の問題、第5回は現実世界とバーチャル空間の接点における死者と生者の再会といった、未来的あるいは宇宙的なテーマを扱っていた。
 それらに比して、今回は不倫やスキャンダルといった、いっそう日常的な関心をもとに芝居が組み立てられている。しかし、それだけに人間の心に生まれる猜疑心や誤解から始まった怨恨の無意味さが、軽いタッチの中にもチクリと胸に刺さってくるしかけになっている。SNSや加熱する週刊誌報道、ちょっとした時事ネタなども盛り込まれていて、確実に客をつかみ、笑いをとることに成功している。
 それよりも何よりも、題名にある通りのシャーロキアンぶりに関心させられる。よほど読み込まない限り、推理小説のかなりの愛好者でも知識にないような、さまざまな作品の断片が次から次へと引用される。そして東京ノ温度らしく、それらの断片が人生を送るにあたっての警句や人々の苦悩を解消させる癒やしになっているのである。マニアックであるがそれだけに終わらない幅の厚みが感じられる。
 川島広輝は劇団マカリスターに所属する俳優・劇作家・演出家で、東京ノ温度を旗揚げしたのは2016年だそうだ。劇団員としての活動は続けながら、やはり自分の思うような芝居づくりをしたいという欲求があるのだろう。ただ、若い俳優たちに舞台に立つチャンスを与えようとしているようにも見える。思い込みかも知れないが、実質的にそうなっているように思われる。そんな中、葉山は連続して主役級の役所を与えられている。その信頼に応えてか、葉山の演技も安定感が増し、他の若い俳優たちをリード出来ていたと思う。 




# by yassall | 2018-04-30 16:51 | 日誌 | Comments(0)