11.3 止めよう!改憲発議-この憲法で未来をつくる国会前大行動

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 11月3日、国会前行動に参加してきました。遅ればせながらの報告です。詳しくは「埼玉県高校・障害児学校教職員九条の会」のブログで。参加者は主催者発表で18000人。まだまだ力を発揮しないといけないと思いました。

https://blog.goo.ne.jp/9jousks
# by yassall | 2018-11-05 16:59 | 日誌 | Comments(0)

紅葉2018②八甲田・奥入瀬・十和田湖

 雨は夜通し降り続けたらしい。2日目は7:50に出発とのことだったので、6:30にはラウンジで朝食をとった。窓の外を気にしていると青空に変わる一瞬があったりしたが、たちまちに雨雲が垂れこめ雨模様となる。ただ、天気予報は相変わらずなのだが、Yahoo天気で子細にみていくと十和田市地方のみ降水確率20%とあった。気を取り直し、出発の準備を整えた。
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 本日の最初の目的地は八甲田山・城ヶ倉大橋である。城ヶ倉渓谷を一望でき、紅葉のシーズンには絶景ポイントとして知られているという。到着してみると雨を通り越して雪がぱらつくような空模様であった。
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 もともと八甲田は紅葉は終わりとのアナウンスがあったので、むしろ思いがけない雪景色を喜んだ。
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 眼下に広がる展望も紅葉の盛りのころはさぞやと思わせるものがある。
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 標高は高いし、雪は降る、風は吹くで早々にバスに引き返そうと思っているうちに、みるみる青空が広がって来た。まさしく山の天気である。
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 陽が差し込んでくると木々も色彩を取り戻す。
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 とりわけカラマツが美しかったのでパターンになるように切り取ってみる。後からトリミングしたもので、最初からもっと光学的に寄っておけば良かったと後悔した。
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 このまま橋を越えて次の目的地に向かうはずであったが、ここも先の道路が積雪で通行止めになってしまった。鳶沼がコースから外れたのは残念だが、もともと強行軍すぎたわけだし、紅葉も同程度であろうからと納得する。
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 一部コースを変更し、県道を使って奥入瀬に向かう。ほぼ専用道路状態であったし、普通ではコースに入らない景色を楽しむこともできた。奥入瀬では1時間ほどの散策タイムが予定されていたが、そのコースに入る前に石ヶ戸で休憩をとる。ここも最初の予定にはなかった。
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 この頃には空はすっかり青空に変わっていたが、何しろ渓谷ではあるし、露出を絞っているために画像が暗くなってしまった。谷間に差し込んでくる陽光が美しかったのだが、この写真で伝わるだろうか?
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 散策コースは白糸の滝から銚子大滝まで。途中、観光案内などで必ず紹介される九十九島近辺は車窓からとなった。写真が撮れなったのは残念であるが、もともと認識になかったし、初めて知ったようなものだから次回の楽しみにするしかない。次回があればだが。
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 以下、紅葉と渓流をカメラで切り取りながら先へとすすむ。
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 奥入瀬では今が紅葉の盛りというアナウンスはまあまあ正しかったようだ。

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 水量はかなり豊富なようだ。昨夜までの雨のためばかりでなく、放水のコントロールもしているらしい。
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 そうこうしているうちに終点の銚子大滝に着いてしまった。絶景ポイントを得ようとハイカーたちが少しでも前の位置にと詰めかけている。柵を越えて前に出るまではしなかったのだけれど、偶然にも人の山が引いたところでシャッターを切った。
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 十和田湖畔・休屋に到着すると再び雨が落ちてきた。ここから乙女の像まで15分ほど歩かなくてはならない。
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 乙女の像も初めて。まだ雨の中だからフィルターに雨滴がついている。
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 ところが、他の観光客が足早に引き返していくうちに、たちまちに青空が甦ってくる。実は旅行中に傘を差したのはこの15分ほどの間だけであった。
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 少し写真が当たり前すぎた。しばらくカメラを手にしていなかったのでフレーミングに対する感性が鈍っているのだろう。
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 湖畔も整備されていて美しい。
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 ただ、風は強く、波は荒々しかった。
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 コースのしめくくりは十和田湖南端の発荷峠である。天然のハッカが採取されたことからの命名だという。展望台から十和田湖を一望すると虹がかかっていた。今回の旅行で2回目である。
  ※
 中尊寺は川越工業時代に修学旅行の引率で訪れて以来であった。金色堂は記憶のままだったが、境内は毛越寺と記憶が混在してしまっていることに気が付いた。毛越寺の浄土式庭園ももう一度みたいものだと思った。八幡平は通行止めになってコースから外れてしまったが、やはり川越工業時代に初めてのスキー修学旅行で訪れた地である。スキーシーズンでないときにどんな景観を見せてくれるのか、またの機会があれば楽しみなことである。奥入瀬は一度は行ってみたいと思いながら果たせないでいた。新緑の季節もいいだろうなと思った。(旅を振り返って)

 G8+12-60mm


# by yassall | 2018-11-03 11:47 | 風景 | Comments(0)

紅葉2018①厳美渓・中尊寺

 このところ、旅行もしていないし、写真も撮りに行っていないなあ、と我が出不精を反省し、東北紅葉めぐりのツアーを申し込んだ。スケジュール表を検索すると、どうやらラスト3人くらいのところに滑り込んだらしい。
 空いていたのは10月30・31日。日程を決めると気になるのは天気予報である。先週からチェックを続けていると仙台までは晴れなのだが、岩手・青森は降水確率80%という予報がなかなか動かない。お手軽に過ぎるかなといつも反省するものの、撮影機材に防寒対策、さらに雨支度まで加わると、やはりバス旅行は楽ちんなのである。ツアー本体は朝7:15東京駅集合とあるが私は大宮8:10で合流。この辺も融通がきいて助かる。
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 仙台到着後からがバス移動になる。最初は岩手・一関にある厳美渓。国の名勝地に指定されたのが1927年というから、かなり古くからの観光地である。写真として切り取るとこのようになるが、周囲はけっこう開けていて自然美というにはほど遠い。
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 紅葉も今ひとつというところ。滞在時間は30分くらいだったが、妥当なところだろう。
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 中尊寺金色堂。内部は撮影禁止なのが残念だった。
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 左側の建物が金色堂の覆堂。ワンポイントというところながら紅葉が良い感じである。
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 旧覆堂も保存されている。「昭和の大修理」が1968年のことだそうだ。それまで使用されていたのだろうか?
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 阿弥陀堂。本堂を中心に、大日堂・薬師堂・地蔵堂など様々なお堂が建立されている。それでも、かつての栄華からはほど遠いのだろう。カメラに収めながら参拝したが、アップは一枚にとどめる。
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 絵になりそうな紅葉を探しながら月見坂へと参道を下っていく。
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 空はこのころは晴れていて、透過光の紅葉は美しかったのだが、なかなか写真にはならなかった。
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 参道を外れると平泉市内を一望できるような広場があった。
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 ふと振り向くと西行の歌碑が建てられていた。「きゝもせず 束稲やまのさくら花 よし野のほかに かゝるべしとは」と刻まれていることは、帰って来てから調べて分かったことである。
 この日はこの後、八幡平に回る予定であったのだが、雪のため道路が通行禁止となり、そのまま宿のある青森に向かうことになった。途中、初冠雪したという岩手山を車窓から眺めた。青森市内に入ったころ、天気予報どおり雨が落ちてきた。

 G8+12-60mm

# by yassall | 2018-11-02 16:51 | 風景 | Comments(0)

2018秋の高校演劇③ 大宮区地区発表会

 大宮地区は2年連続となった。組み合わせが変わったとはいえ、あまり望ましいことではないだろう。審査員の配置でやむにやまれぬ事情があったのだろうと察してもらうしかないが、私としては昨年からどんなふうに成長したかという楽しみがあったし、どちらかというと昨年は演劇部を楽しむというところに重点をおいた学校が多かった気がしたが、今年は渡された台本を読んだ段階から芝居づくりへの意気込みが違うぞ、という期待感が高まっていたのである。会場は西部文化センターである。

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 上尾高校『OUT OF CONTROL』大倉マヤ・作
 核戦争の危機に警鐘を鳴らすブラックコメディ。昔の映画だがキューブリックの『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』(1963)を思い出した。
 女子高校生に見立てられた核兵器たちを、明るく、パワフルに造形することで題名の持つ真の怖さが伝わってくる、と漠然と考えていた。ト書きにはセーラー服とあったが、そんなものは無視して、デザインだけ揃え、それぞれ色とりどりのスカートとスカーフにでもすればいいのに、と考えていたら、白のTシャツ状の上衣に自作のセーラーカラーをつけて制服に仕立てていた。ただし、襟と袖口のラインとリボンにはそれぞれの名前につながる色を選び、なかなか鮮やかに仕上がっていた。パフォーマンスもオーバーアクションを心がけているのが見て取れ、つい「いいぞいいぞ、それで合っているぞ」と心の中でつぶやいていた。
 「爆発するけどしない。核が平和を維持している。」という先生の論理は核抑止論である。それに対し、女子高校生たち(=実は核兵器)は「(私たちは)自分で生きていくってことを知ってしまった。」「私たちは爆発するために生まれてきた。」「爆発したい!」として、しだいに制御不能になっていく。
 北朝鮮で核弾頭の製造やミサイル実験に成功したりすると、唯一の被爆国である日本の政治家の中ですら核抑止論を唱える者が現れる。だが、本当に核兵器は抑止として機能するだけで使用されることはないのか、使用を前提としない兵器は兵器といえるのか?(だったら、何も北朝鮮の核だけを恐れる必然性はない。)
 現実には、核兵器は小型化や中性子爆弾の開発など、「使える」核兵器としての開発がすすめられてきた。この台本が書かれたレーガン米大統領の時代には迎撃態勢の体系化を前提に、核先制攻撃論まで吹聴された。過去の話ではない。今なおプーチンもトランプもことある毎に核の使用をほのめかしている。核抑止論・核均衡論は核戦争のしきいを限りなく下げているのである。
 台本が書かれたのは1990年。チェルノブイリの直後でもあるから、女子高校生たちの紹介の後、第二場は原発から漏れてくる放射能から逃れようとするゆりと和也が駆け込んでくるところからはじまる。ただし、核兵器との関連は必ずしも明確ではない。
 台本は生徒が選んで来たそうだ。内容をよく理解し、先に述べたように作戦も練りながら芝居づくりをしてきたことは伝わってくる。ただ、まだ行儀がよすぎたかも知れない。緊迫感にもうひとつ弱さがあったことや、核兵器としてではなく、女子高校生というところに感情移入してしまったらしきところがあり、その分、暴発にいたるまでのパワーが不足してしまった。
 そのあたりがもう一歩というところだったが、生徒が生き生きと、それでいてナイーブさを失わずにやっていたのが何よりではないのか? 顧問は(昨年も紹介したが)西部Aでご一緒したKさん。Kさんは生徒が自ら本来の力を伸ばしていくのを大切にする人なのである。
 演劇に時代性や政治性を持ち込むことを極端に避けようとする人々がいる。だが、時代に敏感に反応し、先んじてその本質を解き明かしていくのも演劇の大事な使命であると考えている。18歳選挙権の現代、高校生たちが社会問題にめざめ、考えを深めていこうとしているなら応援してやるのが大人の役目ではないか。台本の今日性は失われていない。何より掘り起こしを評価したい。

 上尾南高校『回転、または直進』福田成樹・作
 舞台はねじ商社「六甲鋲螺」の事務室。近所のネジ工場主を父に持つ女子高生チカにとって、そこは居心地のよい場所だった。中年の女性事務員オノはヌシ的存在。最近、営業部員として入社して来たサクラはまだ若いが転職組、新たに倉庫管理に採用されたサイトウも自衛隊にも在籍したことのある転職組である。2人とも新たな職場で生き甲斐を求めているようである。(以上、あらすじ)
 8月に台本を渡されたときから、よい台本だと思った。初見だったので調べてみると、初演は兵庫県立御影高校、2015年度近畿大会で創作脚本賞を受賞している。福田氏は兵庫高校時代にも創作脚本賞しているとのことだ。
 ドラマらしいことは何も起こらない。電話で注文を受け、営業から帰って在庫を確認する、苦情を受ければ延々と不良品を選別する。人々が生きる、働く、つながる世界なのである。チカは「ここ、うるさい親や兄弟がいっぱいおるみたいや。」という。「うっとうしい?」と聞かれ、チカは「ううん。わりと好き。」と答える。
 私の住んでいる地域は中小零細企業が立ち並ぶ工場地帯だった。町工場が何軒か残っていて、今もプレス機の音が聞こえてくる。私がよい台本だなあ、と感じたのは、どこか似たような環境が頭に思い描かれたせいかも知れない。しかし、それらの大小あった工場はほとんど撤退してしまった。大企業は生産拠点を海外に移してしまったし、国内に取り残された中小企業は外国製品の進出の煽りを受けて虫の息である。私が次に感じたのは、ユートピアのようだ、ということだった。関西弁とあいまって(兵庫の人にとっては日常語なのだろうが)日本のどこかに、今もこんな場所があるかも知れないと夢見させてくれているような気がした。バイト生活に明け暮れた若い人々に、安心して働ける場所を提供してくれるような。
 昨年も感じたが、きちんとした芝居づくりをする学校だと思った。様々な装置や効果、役づくりも正確で、作品世界を舞台化する力があった。内容やストーリー展開が地味なので、出だしからテンションを上げようとしたのか、ツカミのところで走ってしまい、科白が聞き取れなかったのが残念だった。
 チカ役の1年生は動きにキレがあった。オノ役の2年生には見覚えがあった。昨年の女子大生役から打って変わってベテラン事務員役についたが、雰囲気は作れていた。それだけに残念だという話なのだが、舞台上にそれぞれの立ち位置は見つけられたのではないだろうか?

 桶川高校『埼玉会館のはしの方』今井唯太・作(顧問創作)
 演劇部物。総会に出席して、改めて高校演劇に対する愛と意欲を再確認する。(以上、あらすじ)
 高演連総会をまるごと素材にしてしまえ、という人を食った台本。けっこう好きである。空間の移動、時間の経過とともに会話のあり方も変わって来るはず。そこをもっと丁寧に描いていけば各人の個性も生きて来ただろうし、心の変化にも説得力が生まれた。日常の一コマを切り取っただけのように見えて、再びは訪れないかけがえのない一日を描いた。

 岩槻高校『伝説の勇者の作りかた』八城悠・作
 コンピュータ・ゲームのキャラクターを登場させ、ストーリーとキャラクターを自ら作っていく。元の設定では迫力が足りなかったからだが、自分たちはヒーローを迎え撃つ〈悪〉の立場だから、完結することは自分たちが滅びることになるというアイロニーに脱力する。だが、ゲームが面白ければ繰り返して遊んでもらえることに気づき、またがんばろうと決意する。(以上、あらすじ)
 一幕ものにはなっているが、どうにも動きが作れない台本。あえて舞台化しようとするなら、世界観をどう構築するかだろうか。メイク、コスチューム、小道具・大道具、照明・音響を総動員する必要がある。努力は認めるが限界だった。各人なりの役づくりも認められるが、相互にかみ合うまでに至らなかった。最後に剣をふるって一人殺陣を繰り広げるところくらいはビシッと決めないとダメでしょう。

 大宮商業高校『水屑となる』春野片泰・作
 「もうこれからずっと一緒に帰れない。」「望ちゃん、私ね、考えるのやめたの!」と言い残して友達だった香澄は去って行った。(引っ越しだと理由を説明していたが、どうやらどこかへ収容されたらしいことが後から暗示される。)その香澄から渡された本を読むうちに、望の心にも変化が起こってくる。望が「何か、おかしくないですか?」の一言を発したとき、周囲の人間たちはみな驚愕する。(以上、あらすじ)
 「思想教育」が個を圧殺する、オーウェル『1984年』を彷彿させるような近未来物語。きちんと問題意識をもって取り組んでいることは理解出来る。ただ、台本に混乱や矛盾がある。一例として理生が殺人を犯すシーン。強烈な違和感があった。自らの意志を持つということと自らの欲望のままに生きるということとは違うはず。時間としては5分くらいだろうか、私だったらカットしてしまうだろう。オリジナリティの尊重はもっともだが、それだけの価値がある台本かどうか()、片言隻句も疎かにしないことが常に正しいかどうかの見極めも必要だと思うのである。まともにやってしまわない方が良かったのではないか。
 (潤色の場合には作者の許可がいる。上演許可を申請する際にお断りをして認めてもらったことが私にもある。部分のカットについては一切認めないという作家もいるが、そうでない場合にはテキストレジが行われるのは普通のことである。)
 (最初にアップしてから1日経ってしまったが、このままででは誤解を招きそうな表現だったので補足する。来年度から「道徳」が教科化されるという。人間が生きていく上で道徳が必要かどうかを問題にしているのではない。国家が人の心の中を支配しようとすることの是非を問うのである。そんな中で作者の「普通とは?常識とは?教育と洗脳の違いとは?をテーマに作りました」(ネットから)とする執筆意図、この台本を選んだ生徒たちの問題意識は大いに評価されるべきだと思っている。ただ、指摘した部分はそうした台本の意図そのものを壊してしまうのではないか、と(私は)考えたということだ。小森陽一他著『「ポスト真実」の世界をどう生きるか』を読んでいたら、歴史学的には史料的裏付けのない「江戸しぐさ」(傘をさして歩くときに、すれ違う人に当たらないように傾けた、等)がそのまま小学校高学年向けの「道徳」の教科書『私達の道徳』に載ってしまい、指摘を受けた文科省の担当官が「道徳の教科書は江戸しぐさの真偽を教えるものではない。…礼儀について考えてもらうのが趣旨だ」と回答したという記載があった。危機感を感じる。時代は動く。今、何が起ころうとしているのかに敏感であれ、と思う。)

 大宮高校『赤鬼』野田秀樹・作
 あらすじは紹介するまでもない。いろいろな劇団や演劇部が様々な工夫をしている。照明効果でスペースを切り取ったり、波を表現したり。舞台中央に2m四方ほどの山台(生だったが)をおき、小屋や洞窟、そして舟に見立てたのは成功していたのではないか。道具の出し入れで場面転換しようとするとスピード感は削がれてしまうし、煩雑な割に効果も上がらない。
 テキストレジは脚本解釈でもある。わりとすっきりとまとまっていたし、役者も熱演していたが、まだまだ絶望や祈り、狡猾さや愚劣さといった人間の根源に迫るには至らなかった。トンビは少しも「足りない」男のようには見えなかったし、「あの女」も村人から迫害され、世界に対する怒りや絶望を抱えているようには見えなかった。だが、壁に挑んでいった勇気は失って欲しくない。それだけの価値ある作品なのだから。

(私なりの「赤鬼」観は「2018年春季西部A地区演劇発表会」(2018.4)で述べた(赤鬼=まれびと説、あるいはアンパンマン説)。今回、その読み方についても紹介したが、絶対だとも思っていないし、押しつけることもしない。赤鬼の科白にI have a dreamというのがある。暗殺されたキング牧師が意識されているのは間違いないと思うのである。だからこそ、「あの女」は赤鬼の言葉が理解出来るようになったのである。つまり、「あの女」の絶望は赤鬼(人肉)を食ってしまったこと(のみ)にあるのではなく、人間が失ってはならないものを圧殺してしまったところにあるのだと思うのである。だが、そうしたものが一度でも存在したということは人間にとっての希望でもあると思うのだ。①で審査員も卒業と書いた。その気持ちには変化はないのだが、その分、今年は特に全霊をもって審査にあたったつもりである。このブログもそうした気持ちで書いた。この部分、後から。)


# by yassall | 2018-10-11 15:32 | 高校演劇 | Comments(0)

2018秋の高校演劇② 東部南地区発表会

 10月6・7日に大宮地区発表会が開催され、今年のBブロックとしてのコンクールも終了した。2018秋の高校演劇①で予告したので、二つの地区発表会で上演された各校について感想をアップする。
 どういう順番にしたらよいか考えたが、それぞれの地区ごとに候補に上がった学校について最初に書き、その後、残りの各校について出演順に書くことにする。どうしても後者の方が簡単になってしまうかも知れないが、講評では均等を心がけたつもりでいるし、私が必要と考えた範囲での助言もしたつもりである。
 候補となったのは東部南地区では草加南、三郷北、獨協埼玉、草加、大宮地区では上尾、上尾南の各高校である。全部で6校になるが、6校中から2校を選ぶのではなく、東部南地区が終わった段階で暫定2校を選ばなくてはならない。
 今回は東部南地区でも、大宮地区に移ってからも、4校から2校に絞るのにかなり苦しんだ。それぞれに捨てがたいところがあり、それぞれに弱点があった。それらにも丁寧に触れなければならないと思い、このような順序になった。
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 東部南地区発表会は9月15・16・17日の日程で開催された。会場は鷹野文化センターである。今年から春日部地区が分離し、3日間で14校の上演となった。

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 草加南高校『はなまぼろし』大谷駿雄・作
 1983年度の宇部大会に出場した山形・天童高校の出演作品。作者の後書きでは山形に伝わる昔話「六部の茶碗」に材を採ったとある。奇しくも顧問のお一人Oさんの出身県であるが、顧問から提示したのではなく、まったく無関係に生徒たちが選んだのだそうだ。
 脚本を舞台化しようとする熱意と力量には並々ならぬものを感じた。部として蓄積されたものがあるのだろう、衣装や舞台装置、照明・音響効果など、持てる力を総動員した。足し算だけでなく、引き算もよく心得ている。
 ただ、私に限ってのことかも知れないが、台本にはどうしても合点のいかないものが残った。あらすじは以下のようである。
   ※
 捨て子でありながら老夫婦に実の娘のように育てられた桜子は、桜の季節になると放浪癖が起こり、水子の霊と戯れる。死に場所を求めて山里にやってきた学生にも水子たちが見えたことに桜子は驚く。「暗くて底のない沼」をのぞきこんだ学生に桜子は強く引きつけられ、学生の残した茶を飲むと子を孕む。父親の知れない子を産んだことで老爺は桜子を責める。桜子と夫婦になると心に決めていた村の若者・作蔵は父親は自分だと名乗り出る。作蔵は桜子の心の闇を理解出来ないままに夫婦として一緒に子育てをする。季節がめぐり、再び村を訪れた学生と再会するが、死の誘惑を乗り越えた学生は明るい人格に変わってしまっていた。老爺は学生を見て再び桜子を責める。桜子は絶望し、あろうことか赤子は桜の花びらとなって散ってしまう。水子の霊たちが現れ、老爺と学生は逃げ出してしまう。作蔵は風たちを味方につけ、水子の霊たちとたたかう。
  ※
 孤児として生まれ、精霊たちの世界と親しむ桜子と、人生に絶望し死に場所を求めて山里に踏み迷った学生との悲恋の物語というような柱を立て、私なりに整理すると上記のようになる。
 だが、そこには収まりきれないものが残るのである。例えば桜子が自分の中の「淫らな女の血」について言及するのは、自らの運命に対する自覚の言葉なのか、自分のことを諦めさせるために言い放った言葉なのか。前者だとしても、それは否定的に述べられたのか、身を滅ぼすまでの熱情に生きるしかないという意志を示したのか。
 作者の後書きに「情念」という言葉が出てくるところからすれば後者のようにも思われるが(学生に心惹かれ、子を孕むという言い伝えを知りながら、学生の残した茶を飲んだことを「淫ら」というなら)、「私は幸せになってはならない」とする桜子の言葉からすると前者であるとしか考えられない。では、桜子はなぜそんなにも自己に否定的でなくてはならなかったのか。また、そうだとすれば桜子にはいつかの時点で救済の手が差しのべられなければならない。そうでなければ物語として完結しないと思うのである。
 「水子の呪い」というような言葉も出てくる。いっそ桜子は人外の存在、桜子が産み落とした赤子と同じように、桜の花の精霊であったとでも解釈するのが正解であったのかとさえ思えてくる。
 「捨て子」「父なし子」「水子」が故意に混同されているようにも思われる。ラストシーンでの水子の霊たちと風たちの戦いは何だったのか。「風」は何を象徴していたのだろうか。作蔵は「狂ったように殺戮」を続けたとあるが、「殺戮」というような言い方になったのはなぜか、作蔵に子供達が見えたということは作蔵もまた狂気に近づいてしまったのか。
 以上はただただ私の読解力の不足を露呈しただけなのかも知れない。先には舞台づくりについて述べたが、人物造形がおろそかであったというようなことは少しもない。庄屋級としても老婆の着物はもっと農婦らしい方がいいのではないか、というようなことも述べたが、桜子に無私の愛情を注ぐ姿など、人物理解は正しかったし、力も感じられた。他の登場人物についても工夫は認めるが、まだまだ曖昧さや漠然としたところが残っている。さらに掘り下げていって欲しい。「台本」の言葉ではなく、「役」(=そこに生きている人間)の言葉として発せられたら、私の抱いた疑問も氷解してしまうかも知れない。
 のっけから私の混乱につきあわせてしまった。この学校だけ長くなってしまうが、もう二つ補足的に述べたい。一つはこの脚本は人間の「罪と罰」の物語として書かれたのかも知れないということである。誰でもが罪人であった、その罪を白日の下に晒していく物語なのだ、と考えればよかったのかも知れない。もう一つは、一人の人間が生きている背景には無数の死者が存在する、ということである。普段は忘れていたその事実を思い起こさせる物語というならすべては落ち着く。

 三郷北高校『Merry mad dolls』杉浦舞香&MKDC・作(生徒創作)
 大きな括りにしてみると登場人物は「怪物たち」「自警団」「街の民たち」の3グループに分けられる。「怪物たち」と「自警団」に対立軸があり、実際に両者の間で戦闘が繰り広げられるのだが、本当の対立軸は「怪物たち」と「街の民たち」にあるようである。というのも、「自警団」はプログラムの配役表には「街の自警団側」とあるが実は住民たちからは余所者のように見られており、(であるから自警団というより用心棒あるいは傭兵というのに近い)、定住民の間で組織されたのではないようだ。配役表では「その他」となっているグループを「街の民たち」と括り直したが、OPでロキを追い詰め、メリーを死に至らしめ、「異形の者」の存在を許さず、「自警団」を「怪物たち」の掃討に向かわせたのは「民たち」なのである。
 荒削りで、多分に暴力的であるが、根底に流れている「怒り」には若者の可能性を感じた。近代「国民国家」は「自/他」を二分することで、すなわち異分子を排除することによって同質性と均質性を高めようとした。物語の世界は中世的だが、すでに「自/他」の峻別による統合に向かっているように見える。(実は「民たち」の背後にはすでに軍=国家の存在が垣間見えるのである。)
 「異分子の排除」は、子ども間のイジメにはじまって、今日の社会に横行するヘイトや排外主義、ネット社会での不謹慎狩り、LGBT、難民問題にまで及ぶ病理である。しかし、マイノリティの迫害や、異分子の排除によって自己のアイデンティティを確認しようとするのは、そのアイデンティティに重大な揺らぎが生じている証左ではないだろうか。
 ダンスあり、殺陣ありで、渾然としてはいるが、若さとエネルギーが伝わって来た。物語が複雑な分、場転も多い。整理が必要だが、エネルギーを削いでいくことになりはしないか、悩ましいところだろう。ビジュアル志向が先行していると思われる点も認められる。それらを否定したりはしない。ぜひ、自分たちのエネルギーを信じ、自分たちがつかみかけたものを掘り下げ、大化けして欲しい。

 獨協埼玉高校『あの日の不思議』吉田辰也・作(顧問創作)
 親友同士のゆきことみさき、天使と悪魔を交えたファンタジー。ゆきこは父権的で世間体を優先しがちな家庭に育った。成績優秀な妹といつも比較されている。自己肯定感を持てないゆきこは万引きに手を染めてしまうが、そのことを後悔し、自分の力で解決したいと望んでいる。悪魔と魂を引き替えにする取引を交わし、みさき、天使、悪魔に協力してもらいながら店の宣伝のためのボランティアをする。ボランティアは成功するが、思いがけない事故で傷を負った悪魔は魔界に戻され、ゆきことの契約の破棄を伝える。(以上、あらすじ)
 軽快なJazzからはじまる舞台は火入れのされた街灯も美しく視覚的にも成功していた。天使と悪魔も個性的かつビジュアルに造形されていた。ダンスも見事な出来栄え。伝えよう、表現しようが気持ちよく、脚本が整理されていけば、さらに完成度があがる。具体的には、ゆきこの抱えている問題は実は深刻であり、「お父さんお母さんも見に来ていたね。」というような科白も挿入されているが、ゆきこの表情がぱっと明るくなるなど、もっと明確に解決の方向が示されるとよかった気がする。

 草加高校『マリア』宮本浩司・作
 18歳を迎え、大学合格を機に一人住まいを始めたマリア。引っ越しの荷解きの最中に見知らぬ7人の人物たちの訪問を受ける。実は18年前に起きた飛行機事故で生後半年のマリアは一命をとりとめた。7人はそのときの乗客たちで、自分たちの命をマリアに託し、マリアに生きて欲しいと願った人々だった。彼女たちはマリアの18歳の誕生日に、マリアの命を見届けようと集まって来たのだった。(以上、あらすじ)
 これもよい台本を掘り起こした。前半の不条理劇風の幕開けには成功した。10人中7人が1年生という編成だったが、人物造形も的確になされていた。きちんと大人の女性たちに見えていた。丁寧な芝居づくりをした分、墜落を目前とした旅客機内の緊迫感、クライマックスに向けて畳みかけていくパワーが弱かった。これはアパートの一室から旅客機内への場面転換に手間取ったことも原因した。白ずくめの舞台装置はマリアの無垢なる心象風景、あるいはまだ何も書き込まれていない未来の象徴だったのか。工夫は認めるが、引っ越しの荷解きをするのに白のワンピースはどうだっただろうか。
   ※
(ここまでが候補とした作品である。先に述べてしまえば東部南地区を抜け出したのは最初の草加南と三郷北の2校、大宮地区に移ってからもそのままこの2校が残ることになった。)
  
 越谷東高校『レンタルおじいちゃん』今野浩明・作
 8歳で交通事故にあった少女が22年ぶりに意識を取り戻す。医師団は精神障害を避けるため、父親を祖父にしたてて訓練を促す。だが、父も入院中で余命3ヶ月を宣告されていた。(以上、あらすじ)
 レンタル家族ものも、もう設定としては目新しさはなくなった。22年ぶりに意識を取り戻した少女の前に現れたのは亡くなった祖父とそっくりなアンドロイドだった。説明書と首っ引きでアンドロイドに対応する少女、しかし実は年老いて祖父に似てきた父親だった、というのが新しいところだっただろうか。
 何にしても設定に無理がありすぎるのだから、脚本選択の段階で退けるべきだったが、つかんでしまったら仕方がない。その台本のどこに自分たちは惹かれたのか、どの科白をしゃべって見たかったのか、どんな世界を築きたかったのかを思い起こし、やりきるしかない。
 (実は父)と孫、医師と看護師という二組の人間関係を交叉的に描けるかが鍵だったように思う。力演していたが、芝居の構造や心の動きをどうつかむかの詰めが不足していた。

 三郷高校『I Wish …』楽静・作
 忍び込んできた高校生たちとふれあうことで自由意志を持つようになったアンドロイドのマリィは女主人の妹の代替として完璧になろうとするのを止める。そのマリィが出した結論は妹ではなく、娘になることだった。(以上、あらすじ)
 根本に台本の問題があるとして、舞台上にひとつの時間を作りきれなかったのは、それぞれがまだ台本に納得せず、役づくりに悩んでいたからではないか。洋館内の閉ざされた人間関係に風穴をあけた高校生たち。人物たちの輪郭が明確になっていくか、変化は描けるか、あたりが見どころかと思っていたが、人物同士にコミュニケーションが成り立っていなかった。まず腕組みを止めよう、からはじまる(私も部員たちにそう言って来た)。

 松伏高校『ひまわり』五島ケンノ介・作(顧問創作)
 刑事の島は補佐官の玉置と平野を取り調べている。前半は平野がテロリスト役を演じたりしているが、これはお芝居らしい。まるで遊んでいるようだ。高木が蕎麦の出前持って来たりする。後半はシリアスになる。平野は自分の学生時代の思いを語る。ホストに貢ぐために5000万円を横領したが、それらは自分の意志であったと語る。(以上、あらすじ)
 『熱海殺人事件』と宮沢りえの『紙の月』のオマージュと看破したのは今回ご一緒したUさんだった。
 台本には不思議な魅力があり、幕が上がったときの取調室の雰囲気や刑事のラフさは作れていた。前半はナンセンスかつ軽妙、後半はシリアスでありながら愁嘆場にしない。前半と後半のコントラストをどう作るかが見どころかと思っていたが、芝居が沈んでしまい転がっていかなかった。前半のアクションシーンをもっと派手にやってしまった方が後が生きるのにと感じたが、身体にも心にも固さが残った。

 草加東高校『幻想列車』九国光・作
 現実の世界では事故や自殺によって死の瀬戸際にある者たちが乗り合わせる幻想列車。深い絶望にとらわれた美代子、社会への憎悪に満ちた竜太、大手術の最中の瑞穂、ただ一人心安らかで幻想列車の正体を知る老婆。乗客たちとの会話の中で、孤独や絶望から立ち直っていく翔太は一命を取り留め、瑞穂と再会する。(以上、あらすじ)
 科白にきちんと感情が乗っており芝居は作れていた。「止まらない列車」の不気味さ、閉塞感、非日常性を現出させられるか、が見どころだと思っていたが、少し演技エリアを広げすぎた。電車の疾走感も欲しかった。身体表現を磨こう。照明・音響プランは再考が必要である。具体的にいうと前灯りを落としすぎて、顔が見えなかった。観客は役者の顔が見たいもの、声が聞きたいものなのである。途中でパネルが1枚ずつ外されて行った。何かの意図があったらしいが伝わらなかった。何枚か残し、場面転換の後、病室の壁になったら面白いのにと思った。私だったらそんなことを考えただろう。

 越谷西高校『真夜中の紅茶』松岡美幸・作
 真夜中の雨に降り込められて、一人の男がある屋敷に雨宿りのために立ち寄る。そこで彼を出迎えたのは、一人の少女。彼女と話をするうち、男は夢とも現実ともつかない悲劇へと迷い込む。少女は先天的な障害で片足を引きずっていた。医者である少女の兄は、彼女の身体を満足なものにするため、移植手術の研究を続けていた。足の提供を断られた兄は、自らの母親を殺害して足を手に入れることをもくろむ。そのもくろみが少女にばれ、殺害は失敗に終わるかと思われるが、少女自身が母親を殺害して満足な身体を手に入れることに成功する。しかし、そのあとに残るのは紅茶と雨と虚無感だけだった。(以上、あらすじ)
 脚を移植することで走れるようになる? それも生体移植ではなく「死んでいる」ことが条件? 台本上のつじつまを合わせるための典型的なご都合主義である。もしあり得るとすれば、すべては屋敷に迷い込んできた男の悪夢だった、ということにするかだ。
 かなり無理のある台本だが思いの外、芝居になっていた。フロントライトだけで前灯りを作った照明や舞台美術が適切で、ゴシックロマン風の雰囲気を出せていた。科白も生きていたし、時間も流れていた。それでも世界を作り出すまでに至ったかは疑問。

 草加西高校『天使の声が聞こえたら』加藤のりや・作
 自分の声を人間に届けようと奮闘する天使をひねくれ者の悪魔がサポートする。手始めにCDショップで万引きしようとしていたマユを更正させようとするのだが。(以上、あらすじ)
 まだまだ脚本に振り回されている。脚本も舞台化しやすいようには出来ていない。もう少し作戦が必要だ。なかなか声も前に出ず、客席に届けようという意志と工夫が不足していると感じるのは、キャスト自身もまだ迷っているからではないか。台本選びは納得できるまで。

 越谷南高校『everywhere』鱶ヒレ夫・作(生徒創作)
 サーカス団を率いるレイガンは級友のスタンリーと協力して常小屋をめざしている。そんなときザイラーたちの乗っ取り計画にあう。ザイラーらはレイガン・スタンリーの隠された過去を暴く。スタンリーにあこがれているベンは、父を殺した犯人こそ軍人時代のスタンリーであったことを知る。(以上、あらすじ)
 サーカスを舞台に様々な人間模様を描こうとし、ドラマの中の対立軸も設定されようとしていた。だが、物語を広げすぎたのか、人物像に深みを欠いた。スタンリーの自裁も唐突だった。ジャグリングの稽古をしていたり、檻に入れられたライガーがいたり、側転するピエロがいたり、サーカス団の雰囲気を作ろうとしていた努力は認める。部活の持っているパワーのようなものは伝わって来た。
(一言。サーカス団の魅力って放浪にあるのではないだろうか? 一晩たったら跡形もなく消えていた、というような。題名だってeverywhereではないか?)

 八潮南高校『広くてすてきな宇宙じゃないか』成井豊・作
 アンドロイドによるファミリー・レンタル・サービス。アンドロイドを受け入れらず葛藤するクリコは同級生のカツラ、FRS職員のヒジカタとともに東京中を停電させるという大事件を引き起こす。(以上、あらすじ)
 真面目なとりくみには好感が持てる。その分、テンポが落ちてしまい、スピード感に欠けた。まず、不要な暗転をカットしていくことから始めたらどうか。正面の白パネルも本当に必要だったかどうか再考してみよう。

 越谷北高校『全校ワックス』中村勉・作
 転校生を含めた5人でワックスかけの作業がはじまる。やりとりの中で誤解もとけ、相互理解も進む。ワックスが乾くまでの間、段ボールの島に身を寄せ合って告白ごっこに興じたりする。「偶然、集まっただけ」と認識しつつ、心の通い合いを感じる。ワックスを塗ったばっかりの廊下を歩き出す様子は自らの殻からの解放のようにも見える。(以上、あらすじ)
 いまさらあらすじを紹介するまでもない台本。共同作業を通じて「親密圏」から脱していくというストーリーなのだから、冒頭こそ作りすぎたところがあったが、関係が深まるのに並行して各人の個性が立ち上がっていく様をよく描いた。この芝居に取り組むことで、きっと生徒たちの個性も立ち上がっていっただろうと思わせる。好演だった。
 ところで、劇中で上田にはない「悪気」が自分にはあるんだと大宅はいうが、もしかすると人間は誰しも少しずつ「悪気」を持っているものではないのだろうか? 「悪気」があると自覚していた方が、むしろ無意識のうちに毒をまき散らしたり、関係を破壊するに至るのを防止できるのではないのか? 今回、この劇を見ていて、そんなことを考えた。

 越ケ谷高校『部員ロボ2045』よしはらいさお・作(顧問創作)
 演劇部では部員が足らず、ロボットで補おうとしている。飯田は批判するが、とりあえず部長をロボット役にしてシーン練をしてみることになる。飯田はなお抵抗するが、実は部長はロボットであり、計画はすでに進行しているのであった。背景に2045年問題があり、ときは2055年、AIが人間を支配する時代を迎えているのであった。(以上、あらすじ)
 シンギュラリティを扱った創作。劇中劇をさらにコミカルに仕上げていけばラストにやってくる戦慄のシーンをより強く表現できただろう。Uさんも言っていたが、部長は段ボールロボのコスチュームを纏って劇中劇に臨めばよかったのにと思った。種明かしが説明的になってしまったところが残念。部員数が足りなかったのか、台本にはあった、ラストで続々とロボットが現れるシーンがカットされてしまったのも残念だった。


# by yassall | 2018-10-10 15:19 | 高校演劇 | Comments(0)

2018秋の高校演劇① 西部A地区発表会

 9月22・23日、西部A地区秋季発表会が朝霞コミュニティセンターで開催された。今年になって、全出演校の芝居を見るという観劇スタイルにこだわらず、「通りすがりに一寸気になって」でもいいかな、と少しラフにかまえることにした。
 そんなわけで1日目は午後の朝霞高校と和光国際高校から見はじめ、2日目は朝から新座高校、新座総合技術高校、新座柳瀬高校の3校を見た。そうすると1日目の午前中の細田学園高校と朝霞西高校の芝居がどうだったのか、かえって気になってしまった。まあ、「ラフにかまえたい」とか「通りすがり」の視点とかいうのも、新しい距離感を持ってという程度の意味だから、あまり頑なになる必要もないのだろう。

 朝霞高校『蜉蝣の記』結城翼・作
 このところ朝霞は一定程度の部員数を確保できたという年と、少人数(それも1人か2人)に落ち込んでしまう年を繰り返している。音響や照明、衣装やメイクなど、各学年毎に担当者がいてノウハウを代々引き継いでいく、といった伝統が途絶えてしまうのはけっこう厳しい。やはり蓄積されたものの厚みというものがあるのだ。
 もちろん、生徒まかせにしておくと、誤りや不合理がそのまま伝統になってしまうことがあり、ただ効率が悪いだけでなく、危険をともなってしまうこともある。小さいことだが、照明担当の部員がナットの取り外しにペンチを使っていて、ナットを傷だらけにしているので、近隣のドイトでサイズに合うボックスレンチを探してやったことがある。後になって、照明担当の道具入れを開けてみたら、ちゃんと同サイズの古いレンチが入っていた。いつかの時点でナットの開け閉めにはレンチを使う、というノウハウが伝達されなかったのだろう。
 つまり、部員と顧問がうまくかみ合って、はじめて部活は円滑に回っていくということだと思う。顧問の側では、現在の部員たちの意欲や力量、ノウハウの蓄積をみきわめ、どの程度の緊急性で手を出したり、口を出したりしたらよいかに気を配っておかなくてはならない。
 さて、今年は2年生が2人きり。1年生1人を加えた3人芝居である。顧問のFさんから脚本選択の悩みについては聞いていたし、BOXの制作にあたってはサイズについての相談を受けていた。だが、私の方から口だしすることはなかったし、文化祭公演にもいかなかった。地区発表会がまったくの初見である。
 科白はしっかり出せていたのではないだろうか? ケンイチは声を作りすぎていたという印象を受けたが、フロアーで一言二言ことばを交わしてみると、どうも普段通りのしゃべり方らしい。natsuさんは「この役ではこれでいい」という評価だったが、飛行機を完成させようと決意するところ、飛び立った飛行機を目で追うところ、墜落してしまったとき、墜落現場を探しても葉月の影も形もみつからなかったとき、といった要所要所でもう少し心の動きが表現できてもよかったのではないかと思った(まあ、やり過ぎてあざとくなってしまって、自己満足で終わってもかえって重傷だが)。
 子にとって母は生まれたときから母である。だが、ふとした折に、母にも娘時代があり、若やいだ夢や輝きがあったことを思う。葉月は立ち姿がよく、もしかすると文学好きであったり、断崖から飛び降りるような向こう見ずなところがあったかも知れない、しかし子には知ることができない、若き母の幻といった雰囲気を出せていた。ただ、吉野弘の詩の朗読を始めるときの咳払いはいらなかったと思うし、これも要所要所での自分の見せ方を(わざとらしくなく)つかんでいったらもっと良かったのに、と思わないではなかった。カヲルは1年生とは思えない出来栄えだった。ただ、こちらも一本調子になりがちだったかも知れない。

 和光国際高校『ギフト』萩原康節・作
 親による虐待を題材にした作品。親に虐待され、あるいはネグレクトされた子が生育を歪められ、心身を傷つけられ、人生さえも奪われていく。家庭が子どもを守る場所ではなくなってしまえば子どもに居場所はなくなってしまう。
 近年、これほど心を痛める事件はない。演劇にとっても避けてはならない世界だろうし、いつか誰かによって書かれなくてはならない世界だっただろう。だが、扱いが適切だった、成功したとはいえないと思った。
 力が入っていたことは十分伝わってくる。螺旋状の階段を付した山台が上下に置かれ、対になっているなどの舞台美術も美しく、丁寧に作り込まれていたし、書き込みすぎとも思われる脚本も作者の熱い気持ちの表れととらえられなくもない。役者たちは皆、発声が確かで、練習量が並々でなかったことはすぐにそうと知れる。
 だが、なのである。劇は幼少期のマサムネとユキコが宮沢賢治『銀河鉄道の夜』のジョバンニとカンパネルラの科白を語るところからはじまる。ユキコにとってマサムネは唯一無二の存在であり、その死に重大な負い目と喪失感をいだいている。ユイコに二重の心の傷を設定したことでさらに劇を重層的にしたとはいえるだろう。問題は広中のサポートや庄野によるカウンセリングは複雑に絡み合ったユイコの心を解きほぐし、新しい命の鼓動を吹き込むだけの説得力があったといえるか、どうかである。
 ユイコがギフテッドとして超高度な知的能力の持ち主である、というような設定は、虐待死してしまった子らに無限の可能性があったかも知れない、ということであれば理解できなくはない。シリアルキラー云々については偏見に結び付かなければよいがという心配もさりながら、ユイコの示す暴力性とは異質なのではないかと思った。あれもある、これもある、とばかりに、次々に多様な知識が繰り出されるのであるが、設定が極端すぎるとリアリティが失われてしまう。
 それはともかく、きわめて複雑な心性の持ち主であるユイコが、同じヤクルトファンであることから庄野に心を許すようになった、などというところにまず嘘っぽさを読み取ってしまう。変化はユイコの側にも、庄野の側にも必要だったはずで、庄野の「人生にはすばらしい出会いが待っている」などということばも、自身の過去を讃えているだけだったら、そのことばがユキコの心を動かしたとは信じられない。
 結局、ユキコの夢に現れる子ども時代のマサムネとユキコが変化していくことでユキコが自身の底なし沼から脱していくのだが、その変化がどうして起こったのか、どうしても合点のいかないものが残るのである。
 科白量は膨大で、疾風のように1時間を駆け抜けたという気がする。心の変化が読み取れなかったというのは、そのせいであったのかも知れない。中には心に留めておきたいような、素敵な科白もあったような気がするのだが、噛みしめる間もなく通り過ぎてしまった。

 新座高校『お兄ちゃんとオネエさん』上田美和・作
 これもトランスジェンダーという今日的な題材を扱った作品。野球選手として嘱望されながら肩を壊し、進学した大学を続けられなくなった兄。学校に適応できず不登校となっている高校生の妹。妹にとっても、また両親にとっても、兄は希望の星であったが、その兄が水商売の女性を「友人」だと連れだって帰省する。しかし、あろうことかその「友人」は性同一障害者で実はオネエだった、ということからドラマは始まる。
 つまり、トランスジェンダーをかかえながら、自分のありのままに生きることを決意し、タイの孤児院を支援するなど、社会参加にも積極的であろうとするマリーからすれば、兄や妹のささいな挫折などは取るに足りないことだった、というのが結論だろうか。
 両親役の2人は3年生だけあってしっかり作り込まれていた。他はすべて1年生という配役だった。それにしてはけっこう熱演していたので先が楽しみだと思ったが、マリーはマリーの葛藤をかかえていたはず。その葛藤を表現したり、共感したりはまだ無理だったかも知れない。まあ、仕方のないことだが。

 新座総合技術高校『EMMA』NSG演劇部・作
 このところ新座総合の芝居は年によって大きな変化を見せている。かつてはファンタジー物が多かった気がするが、今回は刑事ドラマである。それをいったら昨年もそうだったではないか、ということだが、昨年は刑事物をビジュアルに描いてみせたというのに対し、今年はある意味で本格的、犯罪心理の深層に分け入っていくようなドラマであったように思う。ただ、そのところを科白で語り尽くそうとするから、ややもすると読み取れなくなってしまう。表現の意欲はあったのだろうが、観客にはどれだけ届いたことが。
 (一度アップしてから新座総合については書き足りないことがあるような気がしてきた。生徒創作こそ高校演劇のあるべき姿!という人がいる。だとすれば、新座総合こそ高校演劇の正道ということになる。数年前、新座総合が曾我部マコトを演ったとき、とても評価が高かったし、私も上出来だと思った。あのとき、『海がはじまる』をやりたいと言い出し、他の部員たちを説得したのは1人の生徒だったという。どこかでこの脚本のことを知り、高校生である自分を表現できると思ったのだろう。これから新座総合は変わるかも知れない、と考えたが、その後は生徒創作にもどっていった。しかし、創作か既成台本かの区別なく、高校生が自らの感性や日々の思いを表現したい、自分たちがドラマだと思ったことを舞台にしてみたい、というなら否定してはならないのだろう。演劇としては未熟で、コンクールを勝ち抜くというような結果が得られないとしても、このような部活の芝居と接することができるのも地区発表会ならではなのである。それに、何かのときに、いつ大化けするとも限らないのだから。)

 新座柳瀬高校『Ernest!』オスカー・ワイルド原作 稲葉智己・翻案
 新座柳瀬は3年前にもこの演目にとりくんでいる。そのときは春季地区発表会で前編を、コピスで開かれた高校演劇フェスタで後編(本編)をというように、2時間ドラマで仕立て上げている。今回は1時間に圧縮しようということだから、もちろんダイジェスト版にしようなどという愚を犯すことなく、全く別の作品として作り直している。であるので、全体にスピーディな運びになっているが、窮屈にしてしまうことなく、取り違え、すれ違い、繰り返しといった技も、ここぞというときは十分な間を持って、贅沢に投入されている。
 役者陣も達者だった。全国大会メンバーが卒業した後のことについては前にも書いたが、そこでも触れたとおり、セシリーを演じた今年の1年生もすでにして堂々たるものだった。
 さて、この作品については次の上演の機会の有無が不確定なので、これ以上は踏み込まないことにする。ただ、関心のある人は『コピスみよし第14回高校演劇フェステバル 勝手に名場面集!』(2015.6)を読んでみて欲しい。
    ※              ※           ※
 さて、さてがもうひとつ。今年こそは卒業の予定でしたが、またまた地区の審査員をつとめることになってしまいました。事務局長Mさんから電話があったとき、「今年は9月の土曜日は3日ふさがっているから無理だと思うよ」と(半分以上、これで今年は逃れられるとほくそ笑みながら)応対したのですが、何とたった1日空いていた15日はじまりの東部南地区を担当して欲しいという依頼だったのです。しかも、担当のもう1カ所は大宮地区で、開催期間は10月5・6日だというではありませんか! 
 まるで狙い澄ましたかのごとく、あまりに見事に隙間に当てはまったこと、東部南地区の会場は鷹野文化センターという会館で、公演を打つにあたっては申し分ないのですが、何といっても橋ひとつ東に越えたら千葉、南に越えたら東京という地の利の悪さ、ところが我が家からは環七を使うと1時間足らずで通えてしまう、つまりは他の人よりは私の方が交通に関しては適任で(らしく)ある、というようなことが脳裏をめぐり、ついウンといってしまったのです。
 東部南地区は3回目になります。大宮地区は2年連続。またあいつが来たのか、と思う人がいないわけではないと思います。引き受けたからには、過去にとらわれず、フレッシュな観点で、宝探しをするような気持ちで務めたいと思っています。
 東部南地区は先週終わりましたが、大宮地区が再来週になります。このブログへの報告は少し待って下さい。県中央発表会のパンフの原稿は私が書くことになっています。全部で21校分になりますが、字数制限のあるパンフよりは多少とも詳しく、各校毎の観劇記をアップする予定でいます。実は10月も少し立て込んでいて後半になってしまうかも知れませんが。


# by yassall | 2018-09-25 19:29 | 高校演劇 | Comments(2)

美貴ヲの劇『セックス ドラッグ 花嫁修業』


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 8日、みかわやこと葉山美侑から出演情報があり、新宿・眼科画廊まで出かけてきた。
 かなりセンセーショナルな題名だが、事前の案内メールによれば「タイトルのインパクトが強いですが、前回の公演ほど際どい演出はありません」とのことであった。前回というのは5月の『陳弁ピクトグラム』のことを指しているのだろう。であるなら何の心配もいらない。
 実際、「これはセックスというよりジェンダーの世界だな」というのが、見終わってからの感想である。チラシには「少し歪んだメガネ越しに眺めた、なんとなく生きづらい人たちのおとぎ話」というようなリードがあり、劇団の紹介には「女系家族で女子校育ちの美貴ヲがセルフプロデュースする演劇ユニット」とある。(netで検索してみると、2014年より始動とあった。)
 そうなると男性であることから1mmも外れない身としては、うかつに「共感した」とか「理解できた」とかは口に出来ない。先年亡くなった雨宮まみの『女子をこじらせて』あたりを手がかりに、おそるおそる解剖していくしかない。
 構成は小話を重ねていくオムニバスになっていて、毎日が同じように繰り返される日常の中で次第に自己をすり減らしていくOLや、「30歳までに結婚しないと動物にさせられてしまう」ため、収容所の中で期限付きの婚活を強いられる女性たちが、あるいは狂気にさらされ、あるいは脱走を企て、自己を突き放してみたり、抱え込んでは悶え苦しんだりする。各小話は必ずしも関連づけられているわけではないが、どこまでが遠い(それゆえに歪んでしまった)記憶であるのか、妄想(入口も出口も閉ざされてしまった)であるのかも分明しがたい姉妹をめぐるエピソードなどには、それこそ底なしのところがあって慄然とさせられたし、6話の中では一番オリジナリティを感じた。
 件の「生産性」発言もさっそく取り入れられているが、表面的な社会批評に終わらず、深いところで傷つきつつ、笑い飛ばしてしまうしたたかさを感じたりもした。
 自己言及性というのか、再帰性というのか、作り出した物語をあとに続く物語が飲み込んでいってしまう作りになっていて、アンダーグランドの本領発揮というところだ。それでも、どこかに系統が存在するはずだと思うのだが、一度見たきりでは入口すら見つからない。
 というわけで、あまり勘の良い観客ではなかったが、今度、脚本を見せてもらう機会があったらと思った。笑って終わって、でもいいのかも知れないが、隠された表現の切実さは伝わったような気がするのである。
 さて、みかわやは新たなステージを模索中なのだなと思った。これからどこへ向かっていくのだろうと、会って話でもしたいものだと思った。
 と、そのみかわやと同学年だったナベナベと会場で一緒になった。昨年、第一子を出産。子育ての真っ最中だが、今日は子どもは旦那に任せ、これからエビラーメンを食べて帰るつもりだという。エビラーメンという名前につられて、というのはもちろん冗談で、久しぶりに話でもしようとついていくことにした。この日に見た劇に影響されたのか、せっかくの育児の小休止に私が割り込んでよかったのか、後から少し反省した。


# by yassall | 2018-09-10 17:54 | 日誌 | Comments(0)

「縄文 一万年の美の鼓動」展

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 21日は縄文展を見に上野の国立博物館まで出かけてきた。戻り梅雨ならぬ戻り猛暑の中、自宅で甲子園野球の決勝戦を観戦するという手もあったのだが、うかうかしていると9月2日までの開催期間が終わってしまうと炎天下の街へ出た。
 国宝6点が一挙に公開されたことで評判となった。平日であったからか、入場制限がされるほどではなかったが、たいへんな人出だった。ただ、国宝として指定された6点については、その6点だけで1フロアーを割り当てるという、かなり余裕のあるレイアウトになっていたため、ストレスなく鑑賞することが出来た。
 縄文1万年は前期・中期・後期によって作風が変化していく。いわゆる火焔型土器あるいは王冠型土器は中期になって作られるようになったらしい。確かに独創的な造形である。ただ、縄文土器の命名の由来となった縄目文様は使われなくなっている。年代を追って出土品を鑑賞していくと、前期の縄目文様の素朴な味わいも美しいと思った。
 国宝6点の中では「縄文の女神」の抽象的ともいえそうなデザイン性、「縄文のビーナス」の髪型なのか冠り物なのか、個性的な頭部から下半身にかけてのボリューム感に独創性を感じた。歴史の蓄積の中で、あるとき、ある場所で、突出した才能が出現したことを思わせた。国宝の指定はないが、遮光器土偶でも何点かすぐれたものが展示されていて、この目で見られたことに感謝した。
 日本の古代史についての研究はすすんでいて、各集落・各地域はけっして孤立していたのではなく、交流ときには交易がなされていたということだ。ある地域でしか産出しない黒曜石が各地で出土するといったことから分かるらしい。今回の展覧会では、国宝とされた土器が長野、山形、青森、北海道といった東日本に集中していること(発掘の機会がどこでどの程度あったかによるから一概に東西を比較できないが)、ある地域で生まれた様式が他の地域に影響を与え、伝播していく痕跡がみられることなどが興味深かった。
   ※
 帰宅すると、奇しくも『東京新聞』夕刊のエッセイ「大波小波」で同展がとりあげられていた。「ビーナス」という命名の背景に西洋中心主義があるという批判は(もっともではあるが)それほど過敏になることもないのでは、と思う(現在の考古学会では批判的だそうだ)。だが、確か「美の競演」というタイトルがつけられたコーナーだったと思うが、縄文土器を中央に配置し、同時代の中国・インダス・エジプトの土器を壁沿いに並べた展示について述べている部分については、私も同じような感想を持った。
 装飾的な火焔型土器に比較して、展示された世界各地域の土器は形状に飾り気はなく、彩色が施されていたとしてもすでに色あせてしまっているのか、華やかさはない。しかし、「大波小波」子はこれをもって「日本は先史時代から『クール・ジャパン』であったといいたい」のだとしたら、それは「国家が出自の純粋さと優越性を誇示」しようとする意図とつながるという点で危ういというのである。
 火焔型土器については実用目的だったのか、あるいは何らかの宗教的な用途があったのかにつていは諸説があるという。神器とまではいわないとしても、現代においてもまったくの日用品である場合と、冠婚葬祭などの儀礼用に作られる食器には区別がある。このようなコーナーを作る場合には、何と何を比較しようとしているのか、その基準を明確にしなければならない。また、メソポタミアの出土品の解説にあったのだが、すでにロクロの使用が認められるのだという。ロクロを用いることで均質で大量の焼き物の製作が可能となったことだろう。そして、その多くは実用品であっただろう。文明的にどちらが優れているかなどという比較は成り立たない。また、世界各地域では日本より早くから金属器の製作も始まっている。装身具などの製作は土器から離れ、金属器に移っていったということも考えられる。
 だからといって、私は縄文土器あるいは縄文文化が価値的に低かったなどということを言おうとしているのではない。むしろ、1万年の長きにわたって外圧から守られ、豊かな自然にも恵まれつつ、営々と独自の文化を育んできた先人たちに思いをはせるとき、人間の営みの理想を見たくもあるのだ。
 

# by yassall | 2018-08-22 16:26 | 日誌 | Comments(2)

ゲッコーパレードの『マクベス』

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 ゲッコーパレードの芝居を見るのは久しぶりだ、と蕨駅から加藤家へ向かう道を歩きながら考えていた。だが、記録を調べてみたら昨年の12月以来だから、まだ1年とは空いていないのである。
 (パレードの連中もしだいに活動範囲を広げていて、公演案内をもらっても、というケースが増えてきたのは確かだ。この秋にも山形ビエンナーレ2018に参加したり、10月には早稲田の演劇博物館での上演が決定しているとのことだ。)
 それでも久しぶりだと感じたのは、久しく音信がとだえていた(?)ヨージと連絡がとれ、彼女いわく「まだ細~くゲッコーとつながっています。『マクベス』も応援に入ります」ということなので、それなら無事を確かめながら観劇にのぞむか、というはこびになったのである。
 芝居の作り方としては、ストーリーを追っていくのではなく、原作からいくつかのシーンを抜き出し、ときに改編しながら、さらにはまったく異質のシーンを挿入しながらつなげていくという手法である。4人の出演者がシーンごとに違った役を担うから、一人の役者が全編をつうじて一人の人物を造形していくというのではない。
 科白と人物とを切り離し、ことばをことばとして立ち上がらせていこうとしているのか、とも考えた。シェークスピア劇へのひとつの迫り方だろう。人は単なる通路に過ぎない、ことばこそが先行する、ということもある。途中で観客たちに文章の一部を切れ切れにした紙片を配り、はさみと糊を使って別の文章に再編させる、というようなワークショップを行わせたりする。成功しているかどうかはともかく、実験精神としては伝わってくる。
 そうした作業も民家を会場に、客数を限定してはじめて可能なことである。シーンごとに観客は別室に、ときには2階に案内されたりするのは以前にもあった。つまり、一軒の家屋の全体を演劇空間にしてしまおう、場合によって舞台と客席の境界も取り払ってしまおう、という試みを追究し続けているようにもみえる。
 役者は4人とも達者だった。ダンカンの王子たちがイングランドへ、あるいはアイルランドへと逃避していく場面には年若い王子たちの緊迫感がよく表現されていたし、マクベス夫人のモノローグの場面では底知れない内面が描き出されていた。この場面では照明も生きていた。
 それでも(というよりも、だからこそ)見終わった後に物足りなさを感じたのは、『マクベス』という劇をどう見せたかったのかがもうひとつ伝わって来なかった、ということである。それは、私自身が『マクベス』をどう読み解いたらいいか計りかねているということも大きな要因になっている。
   ※
 マクベスは魔女の予言に翻弄されたのか? 予言はマクベスの内心の声だった、というのには、予言はあまりにも人知の及ばない未来を言い当てている。マクベスが欲したのは何か? 栄光か、権力か? 権力にとりつかれた人間が権力を守るために暴政の限りをつくす。それはマクベスが偽王だからか、王道を外れた者の定めか?
 だいたい、主人公は誰なのか? マクベスか、マクベス夫人か? それともマクベスを打ち倒したマクダフか、あるいはマクダフに支えられて新王となったマルカムなのか? 最後のマルカムが正解だとすれば、権力を簒奪した者が自己を支えきれず自壊していき、破滅という末路をたどるしかなく、正統な王位継承こそが理想である、というのがテーマとなる。時代背景や成立事情からすると、あながち間違いともいえないらしい。だが、それではあまりにも勧善懲悪すぎる。
 マクベスは小心でありながら、つい足を滑らせた愚か者であった、というのはたやすい。だが、戦乱に明け暮れる日々にあって、自分に王座が転がり込むチャンスを目前にしながら、最後のところで怖じ気づいたまま生涯を終えたとき、人は己の小心を悔いたりしないのだろうか? マクベスは確かに亡霊に脅かされる。だが、バーナムの森が城に迫り、自分が魔女に謀られたことに気づいたとき、むしろ初めて正気に返ったのごとく、雄々しく剣をとるマクベスは勇者のようである。
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 終演後、役者の人たちとお話しが出来た。「いろいろな『マクベス』を演じてみようと思い、稽古しながら話あって行った。」「マクベス夫人の夢遊病は本当なのだろうか、彼女は正気だったのではないだろうか?」というようなことが聞けた。演じようとする側は演じようとする側から『マクベス』という迷路への入り口と出口を探そうとしているのだと思った。劇中で使われた短剣はボール紙製のチープさであったのに対し、最後のシーンでは本物の包丁を持ちだし魚を捌きだした。虚構とリアルとの対比を際立たせようとしたのか、とも考えたが、自信はない。もっと突っ込んだ話も聞いてみたかったが、彼・彼女たちも次の公演を控えていたし、私の方の準備も不十分だった。
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 加藤家を訪れたのは先週の土曜日である。あまり時間をおいてもと思ってアップするが、まだ感想としてまとまってはいない。また何か書くことがあるかも知れない。

 ゲッコーパレード本拠地公演 戯曲の棲む家vol.8『マクベス』 ~26日(日)まで

 Web http://geckoparade.com  Mail geckoparade@gmail.com
 


 

 


# by yassall | 2018-08-22 01:36 | 日誌 | Comments(0)

沖縄スパイ戦史

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 Cさんに誘われて東中野まで出かけてきた。(本当に主体性に欠ける人間だ!)6月にも『共犯者たち』に誘われたがそのときは遠慮した。せっかく誘ってくれるのに二度続けて断ってもなあ、というのもあったが、出かける気になったのはそれだけではない。
 監督は三上智恵さんと大矢英代さん。三上さんは一昨年、全教のゆいまーるに参加したときの記念講演の講師として知った。大阪毎日放送をへて、琉球朝日放送のニュースキャスターを19年務めたのち、沖縄では放映されるものの、なかなか全国放送されないことに限界を感じて独立、これまでに『標的の村』『戦場ぬ止み』等が全国上映されている。
 すばらしく勇気にあふれた人だなあ、と感心したが、そのときにも「映画を見てくれる人がいないと活動が続けられない。ぜひ見て下さい」との訴えがあった。せっかく誘いを受けながら、ここで億劫がっていては人の道に外れるというものである。
    ※
 映画は大きく三部構成になっている。主として沖縄の北部地区でゲリラ戦にたずさわった「護郷隊」は10代半ばの少年で編成されていた。波照間島の住民は軍の命令により西表島に強制移住させられ、マラリアにかかって500人近くが死亡した。住民が住民を監視する疑心暗鬼の状態になった集落では虐殺が起きていた。
 最初の「護郷隊」の編成、二番目の住民の強制移住には沖縄に送り込まれた陸軍中野学校の出身者が大きくかかわっていたのだという。沖縄戦では南部での激戦が伝えられているが、北部で展開されたのはゲリラ戦だった。非戦闘員を装って(一少年として)米軍に近寄り、燃料や食料を火にかけたり、夜間に乗じて戦車を爆破したり、中には少年スナイパーとしてその存在を知られた隊員もいたらしい。戦後、精神を病んで長く「戦争幽霊」として苦しんだ生き残りの人へのインタビューが痛々しかった。
 波照間島に派遣された中野学校出身者は山下虎雄と名乗ったとのことで石碑にも「許すが忘れない」と名が刻まれている。山下虎雄は偽名で、戦後の消息も判明している。名古屋で実業家として成功していたとのことだ。「護郷隊」の編成・指揮にあたった二名が戦後も遺族たちを尋ねたりと、多少とも良心の片鱗を感じさせるのに対して、残された電話インタビューの音声記録からは反省や謝罪のことばはない。
 強制移住は軍隊が不在の島嶼が米軍に占領されたとき、住民の口から軍の機密が漏洩することを恐れたからである。つまり、軍にとっては住民は守るべき対象ではなく、監視や統制の対象と考えれていたのである。
 日本側の映像記録は少ないので米軍が残したフィルムが多用されている。かなり残酷な映像も使用されているが、私がもっとも強く心をえぐられる思いをしたのは第三部にあたる「スパイ」として特定された住民(少年兵も含まれる)の虐殺であった。
 崩壊直前のナチスドイツで親衛隊によるボルシェビキ狩りがあったという。周囲にいる住民が「敵」に見えてしまうというのも、戦争が生み出す狂気なのであろう。それと似たようなことは世界中であったのではないだろうか。
 日本でも戦争前の段階で国民に対する防諜の呼びかけがあったという。軍事機密法がもたらすものは国民同士の相互監視体制であり、疑心暗鬼による分断であり、密告社会である。
 悲劇は誰が誰を密告し、誰が誰を殺害したかという記憶が戦争が終結した後にも住民の中に残ることである。
 
 戦時中、住民が軍事的組織の中で大事な役割を果たしていることもあった。長年、沖縄戦を取材してきた三上監督は、以前からその事実にたどり着いていたが、発信はせずにいた。虐殺に関わった当事者の住民が、存命だったからだ。当事者が亡くなりつつあり、証言者が生きている今、報道に踏み切った。

「村のためだと言いながら、軍とつながったほうが結果的に有利になる側面もあるし、自己保身にもなる。でも軍に協力する中で、悪気がなかった言動が、後になってみれば村や仲間を売った形になり、悲劇を一生背負うはめになった人もいます。戦争中の極限状況にあった人の罪を私たちが今指摘するのはおかしいと思う半面、そこから学ぶこともしないなら、犠牲になった人が報われないとも思う。いつもそのせめぎ合いなんです」

 沖縄では民間人が戦闘に巻き込まれている。被害者である一方、知らない間に加害者になり、人を殺していた現実もあった。それが一番怖いことだと三上監督は言う。
 
 とは、この映画について取材したAERA編集部・小野ヒデコ氏の文章である。

 「戦争を知らない世代が増えてくると戦争が間近になる」というような声がよく聞こえる。だが、いずれ戦争体験者のすべてがこの世を去る時代がやって来るのだから、人々が「戦争を知ろうとしなければ戦争はいつでもそばに近づいてくる」と言い換えなければならないだろう。
 戦争を知ること、それも正しく知ろうとすることが大切な時代なのだと思う。うっかりするとフェイク(「東条英機は実は平和主義者だった」「太平洋戦争は本当はアメリカがしかけた」とか)が平気でまかり通ってしまうのだから。辛い映画だったが見るべき映画だと思った。
   ※
 NHKは政権批判には弱いが特集番組ではまだまだがんばっていると思う。今年のこれまでの番組では戦災孤児を扱った『駅の子』とBS『映像の世紀』「難民」が力作だと思った。

ポレポレ東中野  ~17(金) 10:20/13:00/18:30   8/18(土)~9/7(金) 10:10
               ※9/8以降未定(上映は継続します)
シネマハウス大塚 8/20(月)~22(水)、26(日)~31(金)


# by yassall | 2018-08-15 16:06 | 日誌 | Comments(0)