0707反原発☆国会前行動

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 毎週金曜日に開かれている反原発国会前行動。月に一度は参加しようと心に決めながら、つい滞ってしまいがちだ。今回は7月7日の七夕にちなみ(か、どうかは知らないが)金曜日行動を変更して土曜日に開くという。
 このところ、原子力規制委員会が東海第二原発の新基準「適合」を発表したり、名古屋高裁金沢支部が大飯原発の差し止めを取り消したりと、いよいよ「底」が抜けたとしか思えないような加速ぶりで再稼働がすすめらようとしている。背景にあるのは新エネルギー基本計画である。あいかわらず原発をベースロード電源と位置づけており、そのためには40年を経過した老朽原発を稼働させたり、新増設をすすめなければならないのである。
 やはり黙っていてはいけない、自分一人が国会前に立とうが立つまいが、そのことで状況が変化するわけではないのは分かりきったこと、それでもじっとしていてはいけない気がしたのである。金曜日より土曜日の方が私には参加しやすい。そのことにも背中を押された。
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 野党共闘の面々である。その他、「脱原発をめざす首長会議」の三上元さん、香山リカさん、古賀重明さん、中沢啓さんらがスピーチに立った。参加者は主催者発表で1200名と決して多くはなかったが、登壇者のスピーチはどなたも力強かった。
 原発は温排水で海水を温めているのであり、原発は「地球温暖化に有効」は、原発は安全」「原発は安い」とならぶ三つ目の大嘘である、脱原発を決めたドイツはフランスから電力を輸入しているというのも嘘で実はドイツは輸出国、少し学べば政府の宣伝がまったくのまやかしであることが分かる(三上)、プルトニウムの蓄積は47トンに及び、米朝会談の障害となることからアメリカからさえ減らすように要請されており、新エネルギー基本計画にも明記せざるを得なくなった、世界的には再生可能エネルギーの時代を迎え、価格も下がっている、日本が政府の保証をつけてでも原発を輸出しようとしてもなかなか進まないのは、安全性もさることながら電気料金が高額になってしまうからだ(古賀)等々のお話しがあった。やはり、足を運べば力がわいてくると思った。
 東海第二原発が新基準に「適合」したといっても、再稼働までにはまだまだいくつものハードルがある。半径30km以内には96万人が暮らしているが、その人たちの避難計画など立てられるはずもなく(古賀)、6市町村の同意が得られる見通しは立たない。国民が「嫌なものは嫌!」と言い続ければ、元のように原発を推進することはそうたやすいことではない。

《つい一言》
 オウム死刑囚執行(6日)の前夜、自民党の国会議員ら30人近くが衆院赤坂議員宿舎内の会議室でパーティを開き、安倍首相、上川法相らが飲食に興じていたことに批判が集まっている。片山さつきはTwitterに「安倍総理初のご参加で大変な盛り上がり!」などと投稿し、ネットの世界でも「人としてどうなの?」と非難のコメントが寄せられているとのことである。
 あたかも豪雨到来の真っ最中で重大な被害が予想される中でもあった。集合写真には岸田の顔もみえるから、安倍三選に向けての下地作りのつもりだったのだろうが、優先順位を間違っていませんかという批判が高まるのは当然だ(政府が災害対策本部を立ち上げたのは8日午前)。それにつけても、死者69人、行方不明65人というニュースを聞くにつけ、第2次安倍内閣発足当時の「国土強靱化計画」という公約は何だったのか、多少なりとも期待した国民に対してどう説明するのかと問いたい。


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# by yassall | 2018-07-08 17:44 | 日誌 | Comments(0)

コピスみよし2018第17回高校演劇フェスティバル 勝手に名場面集

(この投稿は二回に分けて発表しましたが、前半と後半を一本にまとめました。)

 6月17日、コピスみよし2018第17回高校演劇フェスティバルが開催された。幕開けからほぼ満席というここ数年と比較し、今年は空席が散見され、明らかに観客動員数では落ち込みがあった。それでも上演した6校はどれも熱の入った舞台で、お出でいただいたお客様には十分満足していただけたのではないかと思っている。
 今年も写真撮影を担当した。もともと舞台撮影を専門に学んだことはない。刻々と変化する光線条件の中で、芝居の流れを予想し、一瞬をとらえるというのは至難のわざである。それでも少しでもよい写真を、と毎年機材を入れ替えたりしながら工夫しているのだが、これというショットはなかなか得られない。撮影者の側にしてそうであるから、クリエーター側に納得してもらえる写真になったかどうかは覚束ないのだが、写真には記録という要素もあるので、各校にはそのままお渡しするつもりである。
 さて、各校にはお許しをいただいて、毎年「勝手に名場面集」と銘打って何枚かを紹介している。藪にらみながら簡単な観劇記を添えて今年もアップする。
  ※
 村上春樹は「人はなぜ物語を欲するのか?」という問いに対して次のように答えている。

 「僕らは何かに属していないと、うまく生きていくことができません。僕らはもちろん家族に属し、社会に属し、今という時代に属しているわけなんですが、それだけでは足りません。その「属し方」が大事なのです。その属し方を納得するために、物語が必要になってきます。」(『村上さんのところ』)

 誰にも真似することの出来ない、独創的な小説世界を作り出している村上春樹のことばとして、たいへん興味深い。人間は一人の人生を生きるにあたって物語を欲するばかりでなく、確かに物語を通して何かに「属して」いこうとしているのだろう。そして、その通路となるのは「共感」であるに違いない。
 さて、物語についてこのように言えるとすれば、それは演劇についても同じように当てはまるのではないだろうか? 最初に、これを切り口に6本の芝居を概観してみようと思うのである。
  ※
 松山女子高校『とおのもののけやしき』新座高校『トシドンの放課後』の背景にあるのはフォークロアの世界である。『とおのもののけやしき』では幼い兄妹が古い民具が収められた蔵の中で精霊たちと出会う。それらの精霊たちとの交流を通して子どもたちは遠い先祖たちと繋がっていくのである。『トシドンの放課後』では精霊たちは直接には登場しない。しかし、トシドンという島の伝承こそがあかねの心を立ち直らせ、さらには他者と結びつかせるのである。
 坂戸高校『鬼ぃさんといっしょ』もフォークロアの世界をバックグラウンドにしている。ただし、こちらは近代化によって伝承世界が解体の危機を迎えていることに表現の方向性がある。コンビニが人々の生活を変え、金太郎は熊と相撲をとると負けてしまう。人々をひとつに結びつけていた赤い糸は今やその力を急速に失おうとしている。
 川越高校『お言葉ですが、東条英機閣下』はその意味では少々異端である。むしろ「大和魂」とか「愛国心」という壮大な(嘘っぱちの?)物語(村上春樹いうところの「悪い物語」)には安易には与しないぞ、という批判精神が働いている。そこには作者の現代という時代に対する警戒心も加味されていると思われる。今でこそ「クールジャパン」というようなソフトな装いを凝らしているが、強制された「愛国心」は静かに我々を取り囲もうとしているのである。
 農大三高『バンク・バン・レッスン』はどこまで本気で観ていい芝居なのか計りかねるところがあるが、物語の在り処というような補助線を引いてみると、その破壊力は際立ってくる。「銀行強盗対策訓練」とある通り、すべて模擬的で虚構であることを前提として芝居は進行していくのである。観客は通常、舞台の上で展開されるのは虚構であるということを承知で観劇している。否、むしろ虚構を前提としているからこそ、どこかで安心していられるのだとも言える。とすれば、この芝居にはそうした観客のあり方を揶揄しているところがあるのかも知れない、と思ってしまう。
 新座柳瀬高校『Alice!~響け、ウエディング・マーチ!編~』では同じ物語でも寓話の可能性のようなことを考えた。国民を幸せにするといいながら無理難題をふっかける女王(=権力者)、イエスマンに徹することで点数を稼ごうとする側近(=官僚)、その無理難題を丸投げされて右往左往する家臣たち(あるいは下々としての国民)というふうに役どころを振ってみると、まるでどこかの国で起こっていることさながらではないか?
 作者としては、自分はエンタメに徹しようとしたのであり、そのような寓意を読み取られることは不本意である、ということになるかも知れない。だが人というもは、それぞれの人生に何らかの意義を見いだそうとするように、物語にも何らかの意味を読み取ってしまうものなのである。言わずもがなであるが、そうでなければ「共感」もまた存在しないのである。
  ※
松山女子高校『とおのもののけやしき』作・岩崎正裕

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 題名の「とおの」は柳田国男の『遠野物語』を意識しているのだろう。柳田国男は文化とは生活様式の総体であるという認識に立ち、民衆のあいだに伝わる民具などの生活用品、あるいは伝承や祭礼などに日本文化あるいは日本人の心を探ろうとした。それはまた明治以降にあって急速に失われていこうとする民俗を、少しでも残しおこうとする試みでもあった。
 そういうわけだから、唐箕や千歯扱きなどの農具から、代々伝わってきたらしい掛け軸や雛人形が所狭しと収められた「蔵」という存在は芝居を左右するような重要な装置であり、アイテムであった。リハーサルの時間の大半を費やして飾り込まれたそのセットは、よくぞこれだけものを集められたものだと感嘆に値するものだったし、作り手たちの執念を感じさせるものだった。
 ただ、「物の怪」を登場させるためだったとはいえ、具象で成り立っている蔵の中に舞台装置としての山台がむき出しのまま置かれてしまったのはつや消しだったし、これは脚本通りなら仕方がないが、その「物の怪」が登場するのが垂れ下がった掛け軸の裏側からというのも不自然だと思った。蔵の中に掛け軸を保管する際には共箱に入れられているのが普通であり、いくらなんでも壁掛けにはされていないはずである。
 さて柳田国男にいわせれば、日本の妖怪とは仏教の伝来とともに本来精霊であったものが「化け物」の地位におとしめられたものだという。それはともかく、絶対神たる一神教の「神」とは違い、日本の神々あるいは精霊たちは人間のすぐそばにいて、人にいたずらしたり、一緒に遊んだり、ときはだまされたりする存在であるという。ここに登場したのもみな愛嬌に充ちた精霊たちであった。
 そのような精霊たちを、けっこう意地悪そうなおひなさまや間抜けな鬼、親身な納戸婆と1年生ながらしっかり二人で演じわけていた。兄妹は2年生と1年生のコンビで、二人とも力があると思ったが、兄役の2年生がさすがの演技だった。今は不在らしい両親の存在がほの見えて来て、家族というサイドストーリーが立ち上がって来そうだったのだが、脚本がそこまで書き込まれていないのか、中途半端に終わってしまったのは残念だった。

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新座高校『トシドンの放課後』作・上田三和

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 『トシドンの放課後』については以前に論じたことがあるので同じことは繰り返さない(「2014秋の高校演劇を振り返って~『トシドンの放課後』と『ホットチョコレート』」2014.10)。
 ただ、よく出来た台本は素直に演じればそれだけで伝わって来るものがあるというのは本当だとして、やはり心の奥に触れてくるときとそうでないときがあり、今回の『トシドン』は後者であったということだけはいっておきたい。
 それは第一にはあかねの造形である。ありふれた言い方だが、あかねは本当はいい子なのである。離島からの進学であること、成績が振るわないこと、そのため将来に希望が持てないこと、最近になって父親を亡くしたことなどか相乗して、心の荒れと飢餓感に苦しんでいるのである。いい子すぎても、悪い子すぎても、あかねの人物造形としては失敗なのである。
 クライマックス近くなって、強が進級できなかったことを知ったあかねが校長室に怒鳴り込もうとし、あかねの暴発を心配した強が必死に止めるというシーンがある。ここにあかねの本質があり、あかねと強との人間関係が集約的に表現されているのである。今回、あかね役を演じた3年生はその役づくりに成功していた。
 強が女子による男役なのがどうかな、と思っていたが、眼に力があり、周囲と調子を合わせられずに不登校状態に置かれつつも、人間に対する深い洞察力を身につけた強という役を演じきった。
 『トシドン』をやるとつい先生役が弱くなりがちである。先生役も1年生とは思えない出来栄えだった。3人の中で一番年下であるはずなのに、きちんと大人の女性に見えた。パンフによると中学校でも演劇部に所属していたらしい。難をいえば、少し堂々とし過ぎていたといえるかも知れない。この先生は初めて担任を受け持ち、あかねに右往左往させられている。その感じがもっと冒頭で出ているとよかったと思ったし、それでもあかねを正面から受けとめようとし、裸の自分をぶつけようとしたから、「私だって楽して教師になったんじゃない」ということばも、押しつけとは違う説得力を持ってあかねを揺さぶるのだと思った。(このところは私にも新しい発見だった。)
 強もまた先生役の生徒も発声がしっかりしていた。まずは科白をきちんと客席に届けることが大切で、その積み重ねによって客の心は動いていくのである。

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川越高校『お言葉ですが、東条英機閣下』作・阿部哲也

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 作者である阿部さんは見せかけの権威や美辞麗句で飾られた大義に対し、「くそ喰らえ!」と言ってみせる反骨心の持ち主なのではないだろうか? 2014年の中央発表会で創作脚本賞を受賞した『いてふノ精蟲』でも植物学者平瀬作五郎から発せられたし、翌年関東大会に進出した『最貧前線』の船長もそれらしいことを口にしている。
 聞けば鴻上尚史の『不死身の特攻兵』(講談社現代新書2017)に題材を得ているとのことである。だが、同書が阿部さんにこの脚本を書かせたというより、この本に接して共感するものを阿部さんが予め持ち合わせており、これをきっかけに啓発されていったという方が正しいのではないかと思っている。
 講談社ブック倶楽部から同書の内容紹介を以下に引用する。

 「太平洋戦争の末期に実施された”特別攻撃隊”。戦死を前提とする攻撃によって、若者たちが命を落としていった。/だが、陸軍第一回の特攻から計9回の出撃をし、9回生還した特攻兵がいた。その特攻兵、佐々木友次氏は、戦後の日本を生き抜き2016年2月に亡くなった。/ 鴻上尚史氏が生前の佐々木氏本人へインタビュー。/ 飛行機がただ好きだった男が、なぜ、軍では絶対である上官の命令に背き、命の尊厳を守りぬけたのか。」


 一機の飛行機を完成させるための経費を考えれば、特攻がいかに採算に合わない(人命は計算外か!)作戦であるか、その立案中にも愚策であるとの意見があったらしい。この劇中でも、「鋼鉄製の軍艦にジュラルミン製の飛行機が体当たりしても沈没させることは出来ない」という科白がある。
 合理的にはまったく成り立たない特攻作戦に向かわせたのは「精神主義」というリクツである(思想とも論理ともいいがたいのでそう言っておく)。「死を恐れない突撃精神に直面して、敵は恐怖心からパニックにおちいるに違いない」、翻ってまた「国民はその犠牲的精神に感じ入って再び敢闘精神を奮い立たせるに違いない」、という。だが、それらは「ソウデアッタライイナ」という希望的観測の域を少しも出ない、まったくの主意主義でしかなく、今風にいえば反知性主義の産物である。
 だいたい、西洋文明=物質中心主義VS日本=精神主義という構図自体が作られたイデオロギーである。ヨーロッパやアメリカには精神文化がなく、日本にだけは物質にまさる精神の優位性があるなどというのは、冷静に考えればまったくのナンセンスである。
 特攻作戦において飛行機の故障など何らかの理由によって出撃途中で帰還した飛行士は何人もいたらしい。軍神として送り出し、戦死したはずの兵士が生きていたというでは具合が悪いと、終戦まで隔離されていた人々のルポルタージュを見たことがある。また、この劇のように再度の出撃を強制された事例もあったことだろう。(阿部さんも話題にしていたが、『総員玉砕せよ!』を描いた水木しげるも似たような経験を語っている。)特攻=軍神として奉るために死ね、というのはもはや精神主義ですらなく、国民向けの情報操作でしかない。
 以前、小野寺信について書いたことがある。1940年11月、小野寺はスウェーデン公使館附武官に任命され、諜報武官としての任についていた。大戦末期、ヤルタ会談でドイツが降伏した3ヶ月後にソ連が日本との戦闘に参戦するという密約が交わされたとの情報を得た。小野寺は直ちに本国にその情報を暗号電で送った。受け取った日本政府や大本営はどうしたか? あろうことか日ソ不可侵条約を頼みに、戦争終結のための仲介を要請しようとしていた日本政府はその情報を握りつぶしてしまったのである。
 小野寺信は筋金入りの日本帝国軍人であり、反共主義者であり、愛国者だった。だが、反知性主義者ではなかった。電報を受け取った日本の戦争指導者は「自分たちに不都合な真実」を否認してしまった。
 特攻に9回出撃したという佐々木知次氏(劇中では佐々木友介)は愛国心を持たない「非国民」ではなく、臆病者でもない。亡き戦友たちへの思いを失ったこともない。ただ、偽りの「精神主義」に同調することを拒み、自らの理性と付与された生命に誠実であろうとしただけなのである。
 芝居としては、何度も出撃しては戦果をあげながら生還を果たしたことが如何に奇跡的で、周囲に驚きをもって迎えられたかがもっと強調されてもいいとは思った。しかし、部隊長をはじめとしたややオーバーなアクションに比べ、淡泊に見える佐々木の演技が、かえって沈着冷静な人柄や判断力をにじみ出させていて、効果的であったとも考え直した。いつになく舞台装置は簡素だったが、どこで見つけたのか飛行服はよく揃えたし、三八歩兵銃は自慢するに値する出来栄えであった。衣装や小道具ひとつでリアルさが段違いなのである。

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東京農業大学第三高校『バンク・バン・レッスン』作・高橋いさを

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 全部で8人の役者が舞台に上る。部員数がいつもギリギリという部活からしたら羨ましいかぎりだが、大勢のキャストをバランスよく動かし、間延びのない芝居を作り上げるのは容易ではない。『もしイタ』や『ロボむつ』を手がけてきた農大三高ならではの演目だが、それでも10日前くらいではかなり苦心している様子だった。
 さて、どのような舞台になるかと案じながら幕開けを待ったが、まったくの杞憂だった。距離感の取り方もずいぶん良くなっていたし、いち早く客をつかんでからはどんどん芝居を追い込んでいけた。統制はとれたが逆に一人一人が集団の中に埋もれてしまうということもなく、芝居の進行とともに個々のキャストが立ち上がってくるという具合だった。
 前段で、「どこまで本気で観ていい芝居なのか」と書いたが、否定的な意味では決してない。むしろ虚構の中で繰り広げられる虚構の世界であるからこそ、虚実すれすれのところをどう追究していくかが問われるような芝居なのではないか? 実際、1回目のレッスンを終えた後の行員たちの不満は「迫真性が欠ける」というところにあったのである。ただ、その迫真性を求めようとした結果があたかもテレビドラマのようであったことから、話はまたおかしな方向に進んでしまうのである。
 虚実すれすれの最たる場面は支店長の「何を隠そう、あなたは私の娘よ!」と告知するところだろう。とってつけたような、あまりに無理筋な展開であるが、娘だといわれた行員も支店長も、そして二人のやりとりを見守る他の登場人物たちにも要求されるのは本気度である。そうであって初めて観客の笑いを誘い、さらに後に別の男(タケシ)に向けての「あなたは私の息子よ!」で観客の笑いを爆発させることが出来るのである(ついでにいうと、ここは繰り返しのおもしろさなのであるから「あなたは私の息子」で十分なのであって、これに続く説明科白は省略ないしは刈り込んでしまってかまわなかったのではないかと思っている)。
 欲を言えば、もう少していねいに作り込んでくれたらなあ、とか、場面の見せ方や伏線の張り方で計算が不足していたという箇所もあった。今回はスピード重視というところだったのかも知れないが、実はそのことでパワーが減衰してしまったこともあったのではないだろうか?
 敵味方入り乱れての後、全員が倒されてしまった中で、ただ一人生き残った男(タカシ)が死体の山を見渡しながら突然哄笑し始めるという光景はかなりシュールである。作り方によっては相当のインパクトを与えられたのではないか? もちろん、そうしたあざとさを嫌うという作り方もある。だが、どこか方向性を統一できないまま、漫然と舞台に上げてしまった感が残ったのが残念だった。
 (ホリが背景だとやはり露出がむずかしかったようで、つい補正でシャドー・ハイライトを多用してしまい、画像が荒れてしまったかも知れません。ブログ用にリサイズすると余計にその傾向が強調されてしまったようです。まあ、藤橋さんならご自分で加工できるだろうとoriginalはほぼそのまま残しました。)
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坂戸高校『鬼ぃさんといっしょ』作・豊嶋了子と丸高演劇部 潤色・坂戸高校演劇部

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 キャストは総勢19名ということになるのだろうか? 農大三高を上回る人数だが、各シーンは1対1、2対1、2対2というような組み合わせで来ているから(集団は集団として登場するから)、処理はしやすかったのではないだろうか? 
 桃太郎が象徴しているのは近代日本なのではないか? そのような仮説を立ててみると一応の解釈が成り立つような気がする。してみると桃太郎が退治しようとした鬼とは近代以前の土着の神々であり、退治=否定し乗り越えたつもりがついに否定し得ず、伏流水となってときおり地表に吹き出ようとする。赤頭巾=西洋に逃げられ、完全には同化し得ないまま、桃太郎が苦悶する様子は近代と前近代に引き裂かれた日本人の心そのものである。
 色とりどりのケープをまとっているのは島の精霊たちだろうか? 嵐を呼ぶその中心で見得を切る鬼はそれら精霊たちのパワーの中心に位置している。コンビニの店員になりすまして姿を現すのも、日常の生活世界にしぶとく生き残っている生命力の証であるように思われる。
 ただ、赤い糸に象徴されるような、人々の心の所属先となってきた求心力は急速に衰えようとしている。御神木が幻となって現れたことがまさにその神秘性が失われようとしているということではないのか?
 さて、そのような解釈を試みたところで、その当否にまったく自信が持てないのは、暗喩として読み取ることが可能であると考えられた表象と、そこで発せられた科白(=言葉)とが多くの場合一致しないことがあげられる。もっと端的にいえば、なにやら思わせぶりな科白と、意味ありげな所作が繰り返されるばかりで、すじ道を見いだそうとしても前後が呼応することもなく、肩すかしを喰らわされているとしか感じられないのだ。かといって、無限にメタモルフォーゼしていく自由さとも無縁だ。
 そうなると、描こうとしているのは神々の没落なのか、それとも地下水脈となって生き残る生命力なのか、失われていくものへの愛惜なのか、復活への願望なのか、それとも私の立てた仮説のような苦悶なのか、まるでつかみ所のない、包みを解いてみたら空っぽだった、ということになってしまうのだ。
 舞台の作り出している雰囲気は私が好きな世界だった。暗喩や象徴は想像力を刺激してくれる。白一色のコンビニのカウンターも出来がよく、セットとして節度があったし、金太郎のまさかりなどの小道具も手抜きがなかった。照明もきれいだった。ただ、役者たちの演技力の支えがあったからあやういところで免れたが、ややもすると学芸会におちいらないとも限らないとも感じた。
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新座柳瀬高校『Alice!~響け、ウエディング・マーチ!編~』原作・ルイス・キャロル 作・稲葉智己

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 また芝居の完成度が一段上がったという印象を持った。細かいことだが、以前は男役の衣装が大きめで、見るからにだぶついていたなどということもあったが、今回はあつらえたようにフィットしていたし、役者たちもきちんと着こなしていた。セットはシンメトリックで美しく、飾りすぎず、必要十分という感じだった。
 それ以上に感じたのは役者たちの進歩だった。これまで脇役に回っていた生徒たちが芝居の中心を担うようになった。表情が格段によくなり、姿勢もよく、力強さが感じられた。白ウサギや料理長に特にそれを感じたが、女王は魅力的になったし、これまでにも場数を踏んできた三月ウサギは力を増し、貫禄のようなものが感じられた。やはり、全国大会まで進出した学校としての責任感とでもいうのか、後を受け継いだ者たちにも、それ相当の覚悟が育まれているのだろうと感じた。
 顧問のtomoさんによると今年は部員獲得にかなり苦心しているらしい。natsuさんのいう通り、今回の芝居ももう数人使える役者が多ければずいぶん説得力が違って来ただろう。だが、それは嘆いても仕方がない。3年生まで引っ張れるのも柳瀬の強みである。1年生が一人きりらしいが、さっそく舞台を経験したことだし、大事に育てれば伸びていくだろう。役者たちの成長を信じて、またよい芝居を見せて欲しい。
 少しだけ注文をつけると、今回は手慣れた手法でそつなくまとめてしまった、という印象を持った。春の発表会が流れた後、新入生をまじえながら急ごしらえで完成させることを優先したという事情は察する。今後の課題でいいから、新しい柳瀬の芝居、稲葉智己の芝居を見せてもらいたい。
 あ、でももう一つだけ。山台に上らせて科白をしゃべらせる手法には異議はないのだが、出番のないときも女王が出ずっぱりというのはやはり辛いものがあったのではないか? かといって、その都度、階段を上り下りさせるのも他の役者との差別化からも望ましくない。ドンデンか何かで登退場させるなんてことは出来なかったのだろうか? まあ、いうだけなら易いものだけれど。
 《おまけ》女王の「ウエディングマーチを聞くと幸せな気持ちになる」というのは共感!メンデルスゾーンの『夏の夜の夢』からで、華やかにして壮大、人を夢心地にする。ブライダルコーラスはワーグナーの『ローエングリン』から。こちらは官能的にしてどこか悲劇的。
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星野高校『階段パフォーマンス』

 部員たちが出場に消極的だったと聞いて心配していましたが、なかなかどうしてユーモラスかつ明るい雰囲気を振りまいて楽しませてくれました。ダンスも上手でした。写真が上手く撮れなくてごめんなさい。


# by yassall | 2018-07-04 16:26 | 高校演劇 | Comments(2)

埼玉県高校・障害児学校教職員「九条の会」総会・学習会が開催されました!

 7月1日、埼玉県高校・障害児学校教職員「九条の会」総会・学習会がさいたま市民会館うらわで開催されました。詳細は「九条の会」ブログで!
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https://blog.goo.ne.jp/9jousks?fm=rss

# by yassall | 2018-07-03 00:47 | 日誌 | Comments(0)

6.3オール埼玉総行動

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 立憲主義を取り戻す!戦争させない!9条こわすな!6.3オール埼玉総行動が今年も北浦和公園を会場に開催された。市民団体、生協や埼商連、連合系・全労連系の労組などの諸団体のほか、1区から15区までの小選挙区ごとに結成された連絡会が集った。ゲストスピーチは元外務省国際情報局長の孫崎亨氏だった。
 どの発言者も安倍内閣の打倒を訴え、そのためには市民と立憲野党の連帯が最重要であることが強調された。政党あいさつは立憲民主党・菅直人氏、共産党・田村智子氏、社民党・又市征治氏、国民民主党・小宮山泰子氏、自由党・松崎哲久氏がスピーチに立った。これだけの野党がそろい踏み出来るのも埼玉ならではかも知れない。それにしても、昨年からを振り返って、いまだに安倍内閣が存続しているのは不思議だとしかいいようがない。
 (埼玉の集会に出るといろいろな昔なじみと会えるのが楽しい。今年はどうしているのか気になっていた人と15年ぶりくらいに再会できた。よい一日だった。)


# by yassall | 2018-06-03 17:02 | 日誌 | Comments(0)

えのもとぐりむ傑作選『陳弁ピクトグラム』

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 26日、みかわやこと今は葉山美侑から出演情報があったので、えのもとぐりむ傑作選『陳弁ピクトグラム』を観に浅草九劇まで出かけてきた。
 「ピクトグラム」とはひとことで言えば絵文字のことであり、上の舞台写真(終演後、許可を得て撮影した)下手の非常口や上手の禁煙マークのような、何らかの情報や注意を示すために表示される視覚記号のことである。「人間はピクトグラムのように薄っぺらな存在ではない」というのが芝居のテーマを言い表している。
 会場に入ると、「青白く照らされたトイレ。ひとりの女が殺されたところから物語は誘導されていく。」というリードの通り、舞台中央に設えた便器が青いサスライトで照らされている。単なる飾りではなく、様々な役者によって入れ替わり立ち替わり使用される。これを悪趣味といってはいけない。この芝居の基本的な構造を象徴しているのだから。
 人間が遮蔽物に囲まれたトイレの中で用を足すようになってから、それは個的な出来事となり、他者の目に触れることがないもの、触れてはならないものとなった。芝居はそうした人間の表面からは見えないもの、隠されたものの存在を明示し、あからさまにしようとしているのだろう。
 (もし、悪趣味というなら、むしろ演劇の仕組みそのものにかかわっているといえるだろう。通常、本当は目の前に観客が存在しているのに、役者は誰からも見られていないことを前提に演技し、観客は演者に知られずにそっと覗き見ていることを前提に観劇している。それならば誰にも見られることのないトイレの中の場面でも同様のはずだが、役者の方も観客の方も、見る・見られるの関係のある一線、日常に起こりえる一線を越える。もしかすると、それは観客の側に多くの緊張を強いるかも知れない。)
 えのものぐりむのTwitterを検索してみると、「人間世界は汚くて醜いバケモノが隠れていて、繊細な人間ほどそれをくらう。だけど純なものを信じて生きよう。」というような投稿と出会う。芝居には近親相姦やらストーカーやら、性関係による利害の交換やらが出てくる。殺人事件が起こり、しかも遺体は行方不明のままになる。被害者とされた女性の兄である刑事が同僚の女性刑事と捜査を続け、謎解きがはじまる。だが、表現の中心はそれらにはないのだと思う。「人間はピクトグラムではない」の科白によって示された人間存在の有り様そのものを描こうとしたのだと思った。さらにことばを重ねれば人間の自由を。
 以上が劇を見ての感想である。卒業生の追っかけしかしていないから詳しくないのだけれど、えのもとぐりむは「演劇界で今とても人気が出てきている演出家」なのだという。今回の公演については、「若手発掘企画と銘打ち、えのもとぐりむのワークショップなどから若き才能をプロデュース」とあった。終演後、みかわやにいきさつを聞いてみると、やはりオーディションを受けて抜擢されたそうだ。千葉ユリとして、「イントロ」で殺人事件の被害者となり、3話目の「禁煙」で美大生を演じ、そして謎解きがされる「三つ編み」に出演するという、全編を貫く重要な役どころを与えられた。一見、清楚で真面目そうでありながら、過酷な過去と複雑な内面とをかかえた人物造形にとりくんだ。濃淡をつけすぎず、清楚さも、不気味さも、リアルに表現できていたのではないか? やりがいのある役にとりくんだ、という充実感が、終演後のあいさつに駆け寄ってきた表情に見えた。

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# by yassall | 2018-05-28 14:31 | 日誌 | Comments(0)

コピスみよし2018第17回高校演劇フェスティバルのチラシが届きました!

 先にお知らせしたコピスみよし2018第17回高校演劇フェスティバルのチラシが届きました! 
 昨年までとおもむきが変わったのは今年から事務局長のtomoさんの制作になったからです。なかなかスッキリしていてよい出来栄えです。ぜひ、皆さんで拡散して下さい。
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拡散! 拡散!


# by yassall | 2018-05-24 20:25 | Comments(0)

『マルクス・エンゲルス』ラウル・ペック監督作品2018

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 原題は『THE YOUNG KARL MARX』である。マルクス生誕200年を記念して制作された。1842年の『ライン新聞』時代から1848年の『共産党宣言』執筆までを描いている。この時期にマルクスはエンゲルスと出会い、思想的に影響しあい、行動を共にするようになる。映画の中でもエンゲルスがリカードやA.スミスの経済学の勉強をすすめるシーンがあり、酔って二人で夜の街をうろつき回っているうちに、突然マルクスが有名な『フォイエルバッハに関するテーゼ』の第11「哲学者たちは、世界を様々に解釈してきただけである。肝心なのは、それを変革することである。」を思いつくシーンがある。マルクスが共産主義者としての立脚点を得る上で、エンゲルスとの出会いと共同は不可欠だった。青年マルクスに焦点を絞ったのもそこにねらいがあったのだろうから、邦題が不適切とは言えない。
 『ライン新聞』の主筆となったマルクスは「木材窃盗取締法に関する討論」を発表する。映画は森の中で枯れ枝を拾い、薪とすることで貧しい糧を得ようとする人々の群れに騎馬警官が襲いかかり、激しく殴打するという場面ではじまる。
 この印象的なプロローグを見ながら、マルクスの出発点となったとされる「木材窃盗取締法に関する討論」の意義について考えていた。
 ミレーの『落穂拾い』は収穫の際にこぼれ落ちた穂は貧しい人たちのものとしてよいという慣習から生まれたという。それと同様の慣習が森の民の間にも存在していたのだろう。さらに遡れば森が村落共同体の共有地であった時代もあったはずである。「木材窃盗取締法」は中世的世界が崩壊し、時代が近代へと移行しつつあったことを象徴しているのではないか? ライン州議会が枯れ枝を拾うことを窃盗であるとした背景には、私有財産制の浸透があったと考えたのだ。1840年代にはプロシアでも資本主義が興ってくる。貧困と格差が拡大する時代がやって来たのだった。
 マルクスはヘーゲル左派の哲学者として始まった。ヘーゲルにとって自由は社会の構成員全員のものでなければならず、自由の相互承認による「市民社会」の価値を認める。しかし、その「市民社会」は自由な欲望の追求(経済の自由競争)と「人倫」(共同的な道徳や秩序)との間に新たな矛盾を生み出す。ヘーゲルはその矛盾を止揚(アウフヘーベン)するものは「国家」であると考えたのである。
 ヘーゲルもまたドイツの近代化を真摯に模索したのであり、単純に国権を人権に優先させてしまおうとする国家主義(「国体」論!)と同一視してはならない。だが、ヘーゲルが「理性」の具現化とした国家が実際にどのように働いたか、といえば、その「秩序」維持のための実力組織=警官の騎馬や棍棒やサーベルは森の中で枯れ枝を拾う貧民の頭上に振るわれ、有産者階級の利益を肩代わりする暴力装置でしかなかった。マルクスは「木材窃盗取締法」と向き合うことでヘーゲルから抜け出たのだと思ったのだ。
  ※
 映画はフランス・ドイツ・ベルギー合作作品だという。『ライン新聞』が休刊に追い込まれた後、マルクスは活動拠点をパリに移す。そのパリも追放され、ブリュッセルに移住する(『共産党宣言』執筆の後、ベルギーも追放される)。その間、『神聖家族』や『ドイツ・イデオロギー』を共同執筆し、それぞれエンゲルスは『イギリスにおける労働者階級の状態』、マルクスは『哲学の貧困』を書いた。
 行動面でも「共産主義通信委員会」を創設し、二人で「正義者同盟」(義人同盟)に加入する。「正義者同盟」は第1回大会で「共産主義者同盟」と改称する。映画ではエンゲルスが激論をたたかわせながら、「万人は兄弟である」というスローガンを破棄し、「万国の労働者よ、団結せよ!」に変更させる場面が活写されている。そして「共産主義者同盟」から二人に依頼されたのが「理論的であると同時に実践的な党綱領」=『共産党宣言』であった。
 マルクスとエンゲルスは理論の追究にこだわり、同時代において実績や影響力のある社会運動家との論争も辞さなかった。それは、「われわれは空理空論をふりかざして世界に立ち向かうのではない。…現に世界を動かしている諸原理のなかから、新しい諸原理を発展」(『独仏年誌』)させるためであり、「理論もそれを大衆が掴むやいなや物質的な力となる」(『ヘーゲル法哲学批判』)ことを確信していたからだ。どうしても伝記を追っていくことになり、マルクスにおける理論的発展がどのようになされたか、その内面までもが描き切れているとはいえない。しかし、空想的あるいは主意的な運動の段階からの離脱をめざしていたことは、映画中での論争の端々からも十分に伝わってくる。
 ボブ・ディランの「Like A Rolling Stone」が流されて映画がラストを迎えることも評判になった。これは映画に描かれた後の時代のことになるが、1848年のフランス二月革命、ドイツ三月革命の挫折をへて、マルクス・エンゲルスは『共産党宣言』の革命理論を見直し、さらに深めていく。しかし、「ブルジョワジーは、世界市場の開発をつうじて、あらゆる国々の生産と消費を全世界的なものにした」というような今日のグローバル化世界の到来を予見したかのような一節と出会うと、その生命力は今もなお失われてはいないと思ってしまうのだ。
  ※
 つい固い感想になってしまった。原題のとおり、映画は若きマルクスとエンゲルスの青春物語として観ることも可能である。マルクスとイェニーの夫婦生活が描かれるが、エンゲルスの恋人メアリー・バーンズも登場する。もともとアイルランド系の女工で、ともに革命運動にたずさわるという描かれ方をする。また、後にエンゲルスと結婚することになるその妹のリィデアも最初から登場している。そのあたりのことは知識になかったので興味深かった。
 岩波ホールまで出かけたのは22日。三田線神保町を降りてすぐだから造作もない。もう何十年も映画館で映画を観ていない、とつい先日書いたばかりなのだが、別段宗旨替えしたというわけでもない。


# by yassall | 2018-05-24 01:27 | 日誌 | Comments(0)

コピスみよし2018第17回高校演劇フェスティバル始動です!

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 5月15日、三芳町文化会館コピスみよしにて、第17回高校演劇フェスティバル第1回実行委員会ならびに出演校打ち合わせ会・会場下見が行われました。今年の出演校と演目はつぎの通りです。松山女子高校と川越高校が初参加です。

 9:40       開場
 10:00~10:05 開会式
 10:10~11:10 松山女子高校『とおのもののけやしき』岩崎正裕(既成)
 11:30~12:30 新座高校『トシドンの放課後』上田美和(既成)
 12:30~13:30  昼休み
         (13:10~ 階段 星野高校)
 13:30~14:30 川越高校『お言葉ですが、東條英機閣下』阿部哲也(創作)
 14:50~15:50 東京農業大学第三高校『バンク・バン・レッスン』高橋いさを(既成)
 16:10~17:10 坂戸高校『鬼ぃさんといっしょ』
            作:豊嶋了子と丸高演劇部 潤色:坂戸高校演劇(既成)
 17:30~18:30 新座柳瀬高校『Alice! 〜パート3 響け、ウエディング・マーチ!編〜』
            原作:ルイス・キャロル 作:稲葉智己(創作)
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 実行委員会メンバー紹介、出演校紹介、大会運営協力校紹介、ホールスタッフ紹介、実施計画の説明の後、会場下見、学校別舞台上声出しタイムがありました。会場下見では会館スタッフの方から舞台、照明、音響など機構説明がありました。
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 2018年コピスみよし第17回高校演劇フェスティバルは

      6月17日(日)    です!

(チラシは来週できあがりの予定です。詳報が入ったらまたアップします!)


# by yassall | 2018-05-16 16:04 | 高校演劇 | Comments(0)

池田龍雄展

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 5月4日、「戦後美術の現在形 池田龍雄展 楕円幻想」が開かれているというので練馬区立美術館へ出かけてきた。これまでも中村正義や牧野邦夫など、独特の鑑識眼による企画展が開催されて来たが、今回も思いがけない拾いものをしたというのが率直な感想である。
 というような感想を持ったというのは私の不明によるものであって、戦後アバンギャルドの画家として池田龍雄は確固とした地位を占めており、ここ練馬区立美術館では20年前にも「池田龍雄・中村宏展」を開催しているそうだ。
 池田龍雄は1928年、佐賀県生まれ。1943年に「忠君愛国の至誠に燃え」て15歳で海軍航空隊に入隊し、1945年には特攻隊員として霞ヶ浦航空隊に配属され、敗戦の報を聞いた。除隊後、佐賀にもどり佐賀師範学校に編入されたが「終戦時に陸海軍の現役下士官以上だった者の教職就業の禁止」というGHQの通達のため、一年で退学となった。教師への道も閉ざされた池田は幼い頃から絵が得意であったことから画家をこころざし、1948年に多摩造形芸術専門学校(多摩美大)に入学、同年秋には岡本太郎や花田清輝らの「アヴァンギャルド芸術研究会」に参加し、前衛芸術家の道を歩にはじめた。
 展覧会の第0章は「終わらない戦後」である。このような経歴の持ち主であることから初期の作品には戦争体験の影が色濃い。最初期の「無風地帯 壊された風景」(1951)あたりにこそピカソの影響が明かだが、次第にオリジナリティを獲得していく様子が見て取れる。
 鋭く硬質な線の多用によるペン画は当時刊行されていた『現代詩』や『人民文学』等の表紙や挿絵に採用されていたらしい。その線描は棘のようで痛い。だが、風刺的でシニカルであると同時に、そこはかとないユーモア精神も感じられる。ここで、『列島』の関根宏や木島始と交流があったことも知り、頭の中でさまざまなピースが繋がっていく。一昨年、府中市立美術館で新海覚雄展を見たことがある。その新海と同じく、池田もルポルタージュ運動にたずさわっていた時代があるとのことだった。総評系に近かった新海が社会主義リアリズム的な傾向を持ち、共産党に近かった池田がアバンギャルドの技法によっていたというのは面白いと思った。ルポルタージュ運動には安部公房も参加していたから、1950年代はさまざまな志向を持った運動が渾然としていたのだろう。
 展覧会第1章のネーミングは「芸術と政治の狭間で」、第2章は「挫折のあとさき」である。ここでいう「挫折」とは具体的には1960年安保闘争とその挫折(条約改定を阻止し得なかったこと)であり、池田はのちに「わたしのなかの芸術と政治の間の距離を決定的に広げてしまった」と語ったという。絵画の上でも《禽獣記》《百仮面》シリーズをへながら変容していく。それは「人間の存在や、自らの内面」への視線の深まりともいえる。私の感想からいえば「線」から「球体」への変化である。
 それは池田の芸術活動の衰退を意味するのではなく、第3章「越境、交流、応答、そして行為の彼方へ」ではさまざまなジャンルとの横断的な交流(たとえば寺山修司のと共同作業)によってその範囲を広げ、第4章「楕円と梵」では宇宙論的とも存在論的ともいえる境地を開いていく。色彩も実に神秘的で美しい。
 池田龍雄がすごいところは90歳になる現在もその芸術活動がとどまらないことだ。第5章「池田龍雄の現在形」では《箱の中へ…》シリーズに象徴されるような即物的ともいえるオブジェや立体の造形に新境地を開いている。そのありようは、「宇宙空間を漂い続けた池田の思考は、やがて引力に引き戻されるように地上に降りてきた」とも評されているようだ。
 また、60年代に「芸術と政治の距離」を実感したとのことだが、2007年には「青空の下を再び焦土にするな」、2010年には「散りそこねた桜の碑」を描くなど、決して「外側の世界」に対する視点を失ってはいないことも見誤ってはならない。さらには、これは指摘を受けて気が付いたことだが、池田はまだ画家としては自立出来なかったころ、木島始を通して絵本を手がけていた時代があり、中でも浜田廣介・文『ないたあかおに』(1965)は今もなお出版され続けている代表作となった。原画が陳列ケースの中に展示されていた。やさしい絵だと思った。
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 1階展示室前のロビーには撮影フリーで「漂着」(2001)が展示されていた。瀧口修造の「夢の漂流物」に触発されて制作されたという。日本のシュルレアリスト瀧口修造は池袋モンパルナスとのかかわりでも名前が出てくる。また一つピースとピースが繋がった。左下の床には「楕円空間」(1963-4)を図案化したものが描かれている。二つの中心点を持ち、運動体である楕円の発見にも心ひかれるものがある。






# by yassall | 2018-05-05 16:53 | Comments(0)

9条改憲NO!平和といのちと人権を5.3憲法集会

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 5月3日、憲法集会参加のため有明・東京臨海広域防災公園へ出かけてきた。先週の天気予報ではGW後半は荒天とあった。カッパの着用を覚悟していたが、雨は朝のうちに上がり、暑くもなく、寒くもなくの天候となった。
 11時頃からイベントははじまっていたが、私は13:00の開会をめざして出かけた。有明駅に到着しても人出が多く、なかなか駅から出られない。ちょうど落合恵子氏のトークの最中にやっと会場入りが出来た。竹信三恵子、清末愛砂、山内敏弘氏らによるトークⅠのあと、立憲野党による政党あいさつ、プラカードアピール、おしどりマコ・ケンさんによるスピーチ、トークⅡ、全国統一署名報告というように進行した。
 立憲野党によるあいさつでは立憲民主党から枝野幸男代表、民進党から大塚公平代表、日本共産党から志位和夫委員長、社民党から又市征治党首があいさつし、自由党の小沢一郎代表がメッセージをよせた。希望の党にもよびかけはしたが参加はなかったという。
 プラカードアピールとは入り口で配られた3種類のカードを掲げてのコール。トークⅡでは沖縄平和運動センター議長の山城博治さんや福島原発告訴団団長の武藤類子さんら8名が登壇、さまざまな市民運動の先頭に立っている方々らしく、力強いスピーチが続いた。
 プラカードコンクールというのは参加者が持ち寄ったプラカードを、落合さんらが審査員になって優秀作品を表彰するという企画であるらしい。会場を回っていると、
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 何本もの釣り竿の先に紙に描いた魚が折からの風の中ではためいているのがみえた。
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 釣り竿の持ち主たちの足下をみると「渓流9条の会」というポスターが……。同好の仲間内の、たぶんそれほど大きくはない集まりなのだろうけれど、かえって運動のすそ野の広さとユーモア精神にも支えられたたくましさを感じさせた。
   ※
 参加者は6万人と発表された。昨年10月の衆院選で自民党は改憲4項目を公約にかかげて284議席を獲得し、政権与党の公明党をあわせて3分の2を維持した。国会でのは隠蔽や捏造、虚偽答弁を繰り返し、いまや窮地にたつ自民党ではあるが、憲法が危機に直面している状況には変わらない。
 改憲派は今年も公開憲法フォーラム(美しい日本の憲法をつくる国民の会・民間憲法臨調共催、会場は砂防会館)し、昨年に引き続き安倍首相は「この1年間で改憲の議論は大いに活性化し、具体化した」とするビデオメッセージをよせたという。
 帰宅後、TVのニュース番組をみていると、かなりの割合を改憲派の集会の報道にあてており、「改憲は多数の声」などとする参加者の声を拾い上げていた。安倍首相のビデオメッセージも改憲派の集会参加者の発言も「嘘ばっかり」であることは分かっていることだが、政権がいよいよ改憲に乗り出すときはマスコミも総動員して攻勢をかけてくるに違いない。その攻撃に負けないためにも今日のような集会を成功させ、確信を深めていくことが大切だと思った。
 

# by yassall | 2018-05-05 13:50 | 日誌 | Comments(0)