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今年の読書から

 今年の読書を振り返ることで一年のまとめをしてみたい。昨年、読書量も読書力も落ち、「到達点はもちろん現在地点でさえ見失いがちである」と書いた。状況は少しも変わらないのだが、一年という物理的な時間は過ぎたわけだし、そうした反省も含めて一里塚を立てておくことは必要だと思うのだ。

  小森陽一編著『「ポスト真実」の世界をどう生きるか』新日本出版社(2018)
  小森陽一『心脳コントロール社会』筑摩新書(2006)


 辺見庸が『瓦礫の中から言葉を』NHK出版新書(2012)で、福島第一原発で炉心溶解を起こしたと同時に日本の法制度も溶解現象を引き起こし、底が抜けてしまった、というようなことを書いていた。
 今年一年を振り返ると、フェイク、すり替え、隠蔽、改竄が平気でまかり通るようになってしまったことに危機感をいだかざるを得ない。いわゆる「森友・加計」問題のみならず、その後に審議された働き方「改革」法案や改定入管法においても審議の前提となるデータ等の隠蔽や改竄が発覚した。
 (公文書の書き換えが暴露され、批判されると、今度は公文書には詳細を記すなという指示が出されたという。こうなると、もう文明国とはいえない。)
 それにも関わらず、与党はごり押しして平然としている。よく恥ずかしげもなく、と私などは思ってしまうが、今まで違憲とされてきた「集団的自衛権」を閣議決定で覆してしまった政権であるから、ひとたび関門を突破したらあとは一瀉千里ということなのだろう。まさしく底が抜けたありさまなのである。
 上記の2冊は、そのようなフェイク=「ポスト真実」がまかり通ってしまうような社会がなぜ生まれたか、その実態、また「ポスト真実」がもたらすものを解明しようとしている。前者は小森陽一と香山リカ、比嘉喜高、浜矩子、西谷修らとの対談によって組み立てられている。後者は前者で紹介されていた本。現在は絶版中であるらしいので古書を探して取りよせた。
 非マイノリティの不本意感(※)、分断と対立、敵と被害者、島宇宙などがキーワードになるだろうか? 「真実」を探求するには考える力・問う力(疑う力)が必要だが、人類が培ってきたそうした理性にかかわる力がやすやすと破棄され、快・不快、好き・嫌いという動物的な「心脳」に働きかけ、コントロールされる社会が到来したということのようだ。しかも、それらがマーケティング、インターネット、ITを駆使して行われる時代となったのだ。
 (一例として、「改革」という言葉がプラスのイメージとしてとらえられるなら、「改革を止めるな」というワンフレーズを連呼し、反対する者たちに「抵抗勢力」「守旧派」というレッテル貼りをしてみせる。するとその中身がどうであるかに関わらず、大衆的な支持を集めるという現象が起きてしまう。)
 (「非マイノリティの不本意感」は、後のテーマともかかわるグローバリズムの進行による国際競争の激化がもたらした、いわゆる中間層の解体にかかわっているのだろう。マイノリティに対して「特権化」という攻撃を浴びせているのはまさに「敵」を見誤っているのである。)
  ※
 それらと立ち向かうのは容易なことではない。考える力、読み解く力、人びととつながる力の基礎となるのは言葉の力である。

  紅野謙介『国語教育の危機』ちくま新書(2018)
  堤未果『日本が売られる』幻冬舎新書(2018)


 新『学習指導要領』の改定に向けての中教審『答申』(2016)では、「主体的・対話的で深い学び」や「情報を多面的・多角的に精査し構造化する力」が強調されたということである。まさに分断やポスト真実の時代を乗り越えるために必要な学力といっていいだろう。しかし、具体的な各教科の改定内容や入試「改革」とも一体となったその方向性をたどっていくと、それが真に「主体性」や「対話力」、情報の真偽を見極めていくためのリテラシーを育てていくようには見えないのである。
 「国語」における記述式問題の導入においても、サンプルとして提示された問題例は「景観保護ガイドライン」や「駐車場契約書」であったりで、もちろん扱い方にもよるだろうが、思考力や洞察力を高めたり養ったりするものであるかどうかはまことに疑わしい。
 「国語」の科目編成でも、まっさきに目に付くのは「論理国語」と「文学国語」の分離である。実際の教科書が出揃ってみないと何ともいえないが、「論理的な思考力」を育てるとしながら、言語を限りなく記号としてとらえていけば単純化するしかなく、ニュアンスは度外視されてしまう。言語の単純化がいかに人間の思考力を奪っていくかはオーウェルの『1984年』に見るとおりである。
 「文学国語」という設定にも疑問を感じる。「言語の価値」を認めているように見えながら、果たして文学を「言語文化」という枠に閉じ込めてよいものなのか? その分量も含めて近代文学がどう扱われていくかはまだ不明だが、近代文学とは日本人がいかに近代という時代と格闘してきたかの証だと、少なくとも私は考えてきたのである。
   ※
 『貧困大国アメリカ』を書いた堤未果の『日本が売られる』はよく読まれているようだ。書かれている内容は私なりにつかめていると思っていたので買っておいたままになっていたが、知人の読書評を読んでこれは緊急にも読まなくてはならないと思い返した。
 第1章第1項で最初に取り上げられているのは「水が売られる」である。先の国会で水道民営化法が可決した。衆院ではわずか8時間の審議であった。いつのまにこんなことが、というのが実感だが、すでに2013年に麻生財務大臣がアメリカに出向いて「水道は…すべて民営化します」と表明しているのだそうだ(戦略国際問題研究所CSISにて)。つまりは日本がいまだにアメリカへの従属から逃れられていないこと、海外の巨大メジャーの圧力に耐えきれなくなったこと、せいぜいが日本も含めた巨大資本が国境を越えて活動できる環境づくりに反対できないというところだろう。
 何でもコンセッション方式というらしいが、水道管施設の所有権は自治体に、浄水場の運営権は水道メジャーにということになるらしい。そのことは本書でも触れられているが、その理由も分かった。地震や台風と行った自然災害の多い日本ではしばしば水道設備が大きな打撃を受ける。そのことが海外メジャーの日本進出をためらわせてきたが、水道管の修復は日本で(せいぜい折半で)というなら安心だというのである。民営化を推進する側は水道施設の老朽化などと、もっともらしい理由づけをしているが、みな嘘っぱちである。
 第2章第1節は「労働者が売られる」である。先にあげた働き方「改革」法や改定入管法による外国人労働者の受け入れは「人手不足」が問題なのではなく、労働者を慢性的に低賃金・長時間労働に押しとどめる(あるいは今以上に切り下げる」ためであり、「企業が世界で一番活躍しやすい国づくり」という現政権の政策を実現しようというものである。
 ネトウヨたちは現政権に批判的な人物や組織を「反日」と決めつける。「反日」というのは戦前でいう「売国奴」ということだろう。誰が「国を売ろう」としているのか、そうした非難を繰り返す人びとはこの本を読んでよく考えた方がいい。
  
  見田宗介『現代社会はどこへ向かうか』岩波新書(2018)
  竹田青嗣『哲学は資本主義を変えられるか』角川文庫(2016)
 
 堤未果『日本が売られる』には、働き方「改革」法案や水道民営化法案など、それでもまだ比較的に表面化した問題以外にも、種子法の廃止や漁業法改定など隠密裏にすすめられてしまった制度改変の問題点と危険性も指摘されている。そのレポート力に感嘆すると同時に、「遠くのわかりやすい敵に気を取られ、近くにいる一番危険な敵を見落とせば、気づいたときには全方位囲まれて、あっという間にやられてしまう」という警告が身に迫った。
 そしてもうひとつ私が実感していたのは「商品一元化」という資本主義の原理である。「水」という生存にかかわる最も基本的な自然物も、人間の労働力も「商品」として値をつけ、もうけの対象として止まることを知らない。それはすでに「暴走」と呼ぶしかない域にまで達しているようだ。
 見田宗介『現代社会はどこへ向かうか』はロジスティック曲線(Ⅰ大増殖期以前、Ⅱ大増殖期、Ⅲ安定平衡期)をモデルにしながら、近代社会および資本主義が向かうべき方向を示そうとした一冊である。資本主義の矛盾は「域外」からの資源の調達と「域外」への排出にある。しかし、グローバリズムは「最終的」な有限性を露呈するにいたり、その矛盾の克服は急務であるとする。修正ロジスティック曲線という用語も紹介されており、その課題に応えられなければ「安定平衡期」ならぬ滅亡が訪れるというのである。
  ※
 竹田青嗣『哲学は資本主義を変えられるか』は、以前に『人間の未来』として出版されたものを文庫化にあたって加筆訂正し、新しい題名を付した本であるとのことだ。ホップス、ルソー、ヘーゲルの系譜に近代社会を基礎つける論理と思想があり、そこで示された「社会契約」「一般意志」「自由の相互承認」を市民的ルールとして再確立しなければならない、というのが主張の中心である(と私は読んだ)。
 権力がなくなればルールが成立せず、権力がなくなれば支配がなくなるというのは錯覚である、資本主義(自由市場)システムがなければ「市民国家」自体が可能でない、とする主張は、結局は体制を容認することにつながるが、まったく説得力を欠いているわけではない。資本主義を分析・批判したマルクスも、資本主義による経済発展が社会主義の前提になるとしている。
 国家は階級支配の道具である、というのは、国家の本質が官僚機構と暴力装置としての軍隊にあるとすれば、秩序の維持の名の下にしばしば国民を弾圧し、そればかりか(『日本が売られる』で見たように)ときに国民を売り渡そうとするところから、今日でもけっして誤りとはいえないと考える。それでも、「国家」にはそれだけでは足りない要素があるというのも気が付いていたところだ。
 ヘーゲルのいう「理性国家」を認めるなら、社会主義「国家」が計画経済をコントロールしていくことが可能だったのではないか、という素朴な疑問も読んでいて感じた。マルクスもヘーゲルから出たのだから当然なのか。
 このように賛意と反発が相前後している段階なのだが、「現在の大量消費、大量廃棄型の資本主義の性格を根本的に修正し、同時に、現代国家を「自由の相互承認」にもとづく普遍ルール社会へと成熟させる道」を模索していることには深く興味をそそられたし、さらに読み込んでみようとも思った。

  仲正昌樹『今こそアーレントを読み直す』講談社現代新書(2009)
  山崎雅弘『日本会議』集英社新書(2016)
  菅野完『日本会議の研究』扶桑社新書(2016)
  安田浩一『「右翼」の戦後史』講談社現代新書(2018)


 最初の2冊は以前にも紹介した読書会のテキスト、あとの2冊はその関連で読んだ。昨年のネイションから続く、国家と民族とは何かという問題意識にもとづく。


  末近浩太『イスラーム主義』岩波新書(2018)


 これも方向性は少し異なるが同じ問題意識から読んだ。アーレントは国民国家の中に「自/他」の二分法を見たが、国民国家が直接排外主義をもたらすのではない。グローバル化した競争社会が排外主義をもたらし、その一部が全体主義化していったのである。イスラーム主義もまた西欧への対抗として生まれた。その中に「もう一つの近代」あるいは新たな普遍主義の可能性が存在するかどうかがテーマである。
  ※
 本当は、もっと探究的でなければならないと思いながら、私の読書は寄り道のしっぱなしである。つまらない本もさんざん読んだが、


   植木等『夢を食い続けた男』ちくま文庫(2018)


 は面白かった。戦前期の社会主義運動や水平社の運動にかかわった、父、徹誠の一代記として書かれている。


by yassall | 2018-12-31 02:51 | 雑感 | Trackback | Comments(0)

藤子不二雄A展・カタストロフ美術のちから展

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 20日は車の定期点検。ディーラーは三田線の蓮根にある。待ち時間の間を利用してどこかへ出かけようと考えていた。この時期になってしまうと紅葉はどこも終わりだから美術館めぐりが適当なところである。かといってフェルメールもムンクも見たいと思わない。そこで藤子不二雄Aとなってしまうのが不思議なところだが、なぜかこの方が今の私のどこかを活性化させてくれるような気がしたのだ。
 三田線だと六本木へは日比谷で乗り換えなくてはならない。座席に座れたので本を読んでいたらうっかり乗り過ごしてしまい、また引き返してくるなどというヘマをしながら出かけていった。
 懐かしい、というようなことでもない。『少年サンデー』を読んでいたのは小学生のころだからせいぜい「オバQ」までだろう。今回初めて知ったのだが、本名我孫子素雄と藤本弘が藤子不二雄として合作していたのはその「オバQ]までで、藤本弘が子ども向け漫画に純化していったのに対し、我孫子素雄の方はブラックユーモアを始め、さまざまなジャンルを開拓していった。コンビを解散したのが1987年。藤本弘が亡くなったのが1996年。我孫子素雄はトキワ荘世代の生き残りとして、今も現役の漫画家として描き続けている。その創作力の秘密に触れられたかどうかは別として、会場に入るや喪黒福造の人形がスツールに腰掛ける「BAR鷹の巣」のセットが設えてあったりしてけっこう楽しめた。
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 さて、「藤子不二雄A展」は52階展望台の壁面を利用しての展覧会であったが、53階の森美術館では15周年記念展として「カタストロフと美術のちから展」が開催されていた。共通券でもあったのでこちらも回ってみた。これがなかなかの見っけものであった。
 リーフレットには「東日本大震災などの自然災害、戦争やテロ、難民問題や個人的な悲劇まで、絶えず私たちを襲うカタストロフ(大惨事)。その時、美術はどのようにこれらと対峙し、どのような役割を果たすことができるのしょうか」と趣旨のことばが述べられており、会場に入ると若き日に出会ったJ.P.サルトルの「飢えた子どもたちの前で文学は有効か」ということばが引用されたあいさつ文が掲示されている。まず、その企画力でもって森美術館を見直す思いがした。
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 多くは若い現代作家によるもので、実験的な作品が多数を占めていた。平川恒太(1987年生)「ブラックタイマー」は108個の電波時計に黒の顔料で福島第一原発の作業員の顔を描き込んだ作品である。(福島には東日本エリアをカバーする標準電波の送信局があるのである。)
 最初は壁一面に真っ黒な円盤が並べられているようにしか見えないのだが、近づくとコチコトと時を刻む音が聞こえ、黒い顔料の中に透かし彫りのように作業服姿の顔が浮かび上がってくる。
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 アイ・ウエイウエイ(1957年北京生ベルリン在住)「オデッセイ」は難民問題をテーマにした作品。古代ギリシャの陶器の絵付けを思わせる精緻な描写でボートに乗りこんだ難民やこれを追う兵士たちが描かれている。
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 オノ・ヨーコ「色を加えるペインティング《難民船》」。参加型インスタレーションという説明があり、来場者によって色やメッセージが書き加えられていく。係の人が小部屋の前に控えていて、靴カバーとクレヨンを渡してくれた。



by yassall | 2018-12-27 02:35 | 散歩 | Trackback | Comments(0)

第54回関東高等学校演劇研究大会栃木会場

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  12月23、24日の日程で高校演劇関東大会(北会場)が栃木文化会館大ホールで開催された。今年は特別枠で埼玉から所沢、新座柳瀬、浦和南の3校が出場。所沢高校顧問のAさん、新座柳瀬高校顧問のMさんはかつて西部A地区でご縁のあった人たちであり、栃木ならいつもより少し早起きすれば通いで行けてしまうので、応援かたがた出かけて来た。事前に関東高校演劇協議会のHPで上演日程を確認してみると所沢が1日目の朝一、新座柳瀬が2日目の朝一、両日とも4時起きはつらいなと思いつつ、客足が少ない時間帯こそ応援の価値がある!などと気持ちを入れ直したのである。
 両日とも午前中で失礼してしまったので12校全部を観劇したわけではないが、それでも埼玉3校は一頭地を抜いているように思った。熱演しているとか、高校生らしく元気にあふれているとかいう観点からだったら、他の学校もそれぞれの県を代表して選抜されてきただけのことは認められる。だが、演劇としてのクオリティとか、伝える力・届ける力とかになると、今年の埼玉はどこも勝っていたと感じた。(浦和南は2日目の午後の上演であったので見ずに帰ってきてしまったが、埼玉県の中央発表会のままだとしても判定は変わるまいと思った。)
 もちろん身びいきということはあり得るから「曇りない目」という保証はない。また、当然のことながら審査員にそれぞれの評価の観点があることは認めなければならない。果たして夜になって分かった審査結果は以下のようであった。

 第54回関東高等学校演劇研究大会 ―栃木会場―


最優秀賞

 埼玉県立新座柳瀬高校「Ernest!?」オスカー・ワイルド/原作、稲葉智己/翻案(創作)


優秀賞(4校・上演順)

 埼玉県立所沢高校「プラヌラ」高石紗和子/作、とこえん/潤色(既成)

 新潟県立新潟工業高校「室長」畑澤聖悟/作、引場道太と新工放送演劇部/潤色(既成)

 栃木県立小山城南高等学校「無空の望」黒瀬香乃/作(創作)

 さいたま市立浦和南高校「緑の教室」渡部智尋/作(創作)


優良賞(7校・上演順)

 塩尻志学館高校「イッテきま~す」たかのけんじ/作(創作)

 東京農業大学第二高校「エレベーターの鍵」アゴタ・クリストフ/作(既成)

 新島学園高校「カイギはDancin'」大嶋昭彦/作(創作)

 長野県松川高校「カノン」山崎公博/作、松川高校演劇部/潤色(既成)

 新潟県立新潟中央高校「Damn!舞姫!!」関勝一/作、演劇部/潤色(既成)

 栃木県立栃木高等学校「ミサンガ」栃木高男/作(創作)

 作新学院高等学校「そこの人たち、ちゃんと歌って」川上朋花・五十嵐美波・阿久津奈愛/作(創作)


創作脚本賞

 栃木県立小山城南高等学校「無空の望」黒瀬香乃/作(創作)


 出場校の皆さん、お疲れ様でした。また、入賞校の皆さん、おめでとうございます!

  *

 最優秀賞の新座柳瀬高等学校さんは、第43回全国高等学校総合文化祭(佐賀会場)演劇部門に推薦されました。おめでとうございます!

また、今回の栃木会場の優秀賞と、来年1月19日・20日の関東高等学校演劇研究大会(横浜会場)の優秀賞の計8校のうち1校も、同じく佐賀総文に推薦されます。

 ※ 今回の関東大会には、各県毎の2校に特別枠の1校を加えて埼玉県代表として3校が出場しましたが、その3校全てが見事上位入賞(うち1校は最優秀賞)という、埼玉県としては大変喜ばしい結果となりました。(「埼玉県高校演劇連盟」HPより)

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 会場の栃木文化会館。現地運営委員の皆さん、たいへんお疲れさまでした。
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 栃木駅前には山本有三の碑が建っていました。





 


by yassall | 2018-12-25 17:18 | 高校演劇 | Trackback | Comments(2)

紅葉2018⑧飛鳥山公園・音無親水公園

 14日は午前中にインフルエンザ予防接種の予約、夕刻から整体の予約を入れた。隙間時間を利用して王子まで出かけて来た。桜のシーズンはともかく、どちらも紅葉は予想通りだったが、何枚かだけアップしておく。
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 青い葉、赤い葉、枯れ葉が混在している。都会の紅葉の限界だろう。
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 この日のカメラでは近寄れないし、寄っても詮ないので、ロングショットでねらうだけ。
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 イチョウも今年はどこもさえない。色づきも悪いし、葉が落ちるのも早かった気がする。
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 音無親水公園に回る。
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 ここもまあこんなところ。紅葉も今年はこれで最後だったな。

 RX100Ⅲ



by yassall | 2018-12-22 19:57 | 散歩 | Trackback | Comments(0)

紅葉2018⑦林試の森公園・芝公園

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 8日、林試の森公園の散策に武蔵小山まで出かけてきた。新しい撮影スポットはないかとあれこれ物色していたところ、元林野庁・林業試験場の跡地を整備して都立公園として開放されていることを知った。武蔵小山なら三田線一本で行けてしまう。
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  南口から入るとすぐ左側がデイキャンプ場になっている。周辺は住宅密集地であるのに、一歩入るとデイキャンプとは驚きの光景だが、他にも大きな広場がいくつか確保され、子ども達が野球の練習をしたりしている。それでも全体の敷地からするとごく一部だ。
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 カエデはそのデイキャンプ場付近が一番きれいだった。日当たりもいい。下に見える屋根は炊事場である。
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 園内を散策しながらロケーションを確かめる。人影がないように見えるが、ジョギングをしたり、散歩中だったり、私と同じように写真の撮り歩きをしている人はけっこう多かった。
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 小石川植物園と同じように、低地あり、平地ありの多様な地形であることが試験場に選ばれた理由なのだろうと思った。
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 ラクウショウの紅葉が見られるというあたりに来たのだが、すでに落葉してしまったのか、それらしい木々は見当たらなかった。その代わりに、ひときわ背が高く、枝振りが立派な木が立っていた。左手前の木にはユリノキという札が付いていたのだが、枝振りは似ているものの、肌の色が異なる。名前が判然としないのがもどかしいが、知識がないのだからいかんともしがたい。
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 見上げてみても絵になる木だ。
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 在来種や外来種など、さまざまな名前の木々が植林されていた。
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 平地に出てくる。
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 公園の中程には「林業試験場発祥の地」記念碑が建立されている。
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 クスノキ。園内一番の巨木で樹齢100年はたっているとのことだ。
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 帰路はコースを変え、小川を遡り、池の周りを歩いた。
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 木陰になってしまっているが、それでも漏れてくる日差しがきれいだ。
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 帰り際にもう一度デイキャンプ場付近のカエデを。
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 武蔵小山駅から乗車した電車が14:45発。もう少し時間がとれそうなので芝公園前駅で下車した。公園方面出口の階段を上るとイチョウがいい感じだったので少し期待が高まった。だが、丸山古墳あたりはさっぱりだった。前に来たときは雨だったせいもあるが、やはりさんざんだったのだ。
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 このあたりが撮影スポットらしいのだが、明暗差がありすぎ、イチョウの色も沈んでしまい、東京タワーの方は色が出ない。撮影に適した時間帯も終わりに近づいたようなので切り上げることにした。もみじ谷はもう少し先だったらしい。

  EM10Ⅱ+LX12-60mm





by yassall | 2018-12-09 01:35 | 散歩 | Trackback | Comments(0)

紅葉2018⑥大田黒公園

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 4日は太田黒公園。3年ぶりである。前回は殿ヶ谷庭園のあとから回ったので、こちらに到着したころには日が陰ってしまった。次回はもっと早い時間に来てみようと思っていたのに、やはり家を出るのにぐずぐずしてしまい、荻窪駅についたのが13:30頃になってしまった。
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 それには天気予報では曇りだったのに、なにやら日差しが出てきたのを見計らって、急遽出かけることに決めたからという理由もある。正門を入ったイチョウ並木も日差しを受けて輝いて見える。
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 こちらが並木道の終点にあたる中門。帰り際に人が引けたのを見計らって撮った。
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 中門を入ると日本庭園。写真は奥側からである。
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 これも奥側から。中央が広場になっている。左奥に見えるのが大田黒氏の旧アトリエ。
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 広場のさらに奥は池泉になっていて、池に張り出すようにして四阿が設えられている。この3カ所をポイントに写真撮影に入る。
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 風が収まるのを待って水との取り合わせをねらう。
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 今度は池が外れてしまった。透過光が美しい。
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 広場の中のひときわ枝振りのよいカエデを中心にする。
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 旧アトリエのピンクの壁との取り合わせ。
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  こちらはアトリエに隣接する休憩所の前あたり。
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 とにかく光があっての紅葉である。
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 存分に撮影を楽しんだがアップはこれくらいで。帰路は高円寺に出てバスという順路を選んだ。

  EM10Ⅱ+LX12-60mm


by yassall | 2018-12-05 19:33 | 散歩 | Trackback | Comments(0)

紅葉2018⑤立教大学正門そば

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 11月22日、金孝淳氏による『祖国が棄てた人びと 在日韓国人留学生スパイ事件記録』出版記念講演会が立教大学で開催されたことを報告した。実はその際、会場に忘れ物をしてしまったのだ。すぐに気が付いたのだが、もう施錠しなくてはならないという状況だったので、探し出すことが出来なかった。私のまったくの不注意であるのだからあきらめるしかないと思っていたのだが、いちおう忘れ物の特徴などを書いたメモを事務局に届けておいた。すると3日になって大学から連絡をいただいたのだ。その日のうちに尋ねると、間違いなく自分のものであることが確かめられ、本人確認の上ですぐに受け取ることが出来た。
 その帰り道、正門そばの広場のイチョウがみごとだったので一枚撮らせてもらった。今回一度だけ、という記念と、自分への戒めのためでもある。部外者がいつまでもカメラを片手にうろうろしているわけにもいかないので早々に退去した。

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by yassall | 2018-12-05 19:00 | 散歩 | Trackback | Comments(3)