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2018秋の高校演劇③ 大宮区地区発表会

 大宮地区は2年連続となった。組み合わせが変わったとはいえ、あまり望ましいことではないだろう。審査員の配置でやむにやまれぬ事情があったのだろうと察してもらうしかないが、私としては昨年からどんなふうに成長したかという楽しみがあったし、どちらかというと昨年は演劇部を楽しむというところに重点をおいた学校が多かった気がしたが、今年は渡された台本を読んだ段階から芝居づくりへの意気込みが違うぞ、という期待感が高まっていたのである。会場は西部文化センターである。

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 上尾高校『OUT OF CONTROL』大倉マヤ・作
 核戦争の危機に警鐘を鳴らすブラックコメディ。昔の映画だがキューブリックの『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』(1963)を思い出した。
 女子高校生に見立てられた核兵器たちを、明るく、パワフルに造形することで題名の持つ真の怖さが伝わってくる、と漠然と考えていた。ト書きにはセーラー服とあったが、そんなものは無視して、デザインだけ揃え、それぞれ色とりどりのスカートとスカーフにでもすればいいのに、と考えていたら、白のTシャツ状の上衣に自作のセーラーカラーをつけて制服に仕立てていた。ただし、襟と袖口のラインとリボンにはそれぞれの名前につながる色を選び、なかなか鮮やかに仕上がっていた。パフォーマンスもオーバーアクションを心がけているのが見て取れ、つい「いいぞいいぞ、それで合っているぞ」と心の中でつぶやいていた。
 「爆発するけどしない。核が平和を維持している。」という先生の論理は核抑止論である。それに対し、女子高校生たち(=実は核兵器)は「(私たちは)自分で生きていくってことを知ってしまった。」「私たちは爆発するために生まれてきた。」「爆発したい!」として、しだいに制御不能になっていく。
 北朝鮮で核弾頭の製造やミサイル実験に成功したりすると、唯一の被爆国である日本の政治家の中ですら核抑止論を唱える者が現れる。だが、本当に核兵器は抑止として機能するだけで使用されることはないのか、使用を前提としない兵器は兵器といえるのか?(だったら、何も北朝鮮の核だけを恐れる必然性はない。)
 現実には、核兵器は小型化や中性子爆弾の開発など、「使える」核兵器としての開発がすすめられてきた。この台本が書かれたレーガン米大統領の時代には迎撃態勢の体系化を前提に、核先制攻撃論まで吹聴された。過去の話ではない。今なおプーチンもトランプもことある毎に核の使用をほのめかしている。核抑止論・核均衡論は核戦争のしきいを限りなく下げているのである。
 台本が書かれたのは1990年。チェルノブイリの直後でもあるから、女子高校生たちの紹介の後、第二場は原発から漏れてくる放射能から逃れようとするゆりと和也が駆け込んでくるところからはじまる。ただし、核兵器との関連は必ずしも明確ではない。
 台本は生徒が選んで来たそうだ。内容をよく理解し、先に述べたように作戦も練りながら芝居づくりをしてきたことは伝わってくる。ただ、まだ行儀がよすぎたかも知れない。緊迫感にもうひとつ弱さがあったことや、核兵器としてではなく、女子高校生というところに感情移入してしまったらしきところがあり、その分、暴発にいたるまでのパワーが不足してしまった。
 そのあたりがもう一歩というところだったが、生徒が生き生きと、それでいてナイーブさを失わずにやっていたのが何よりではないのか? 顧問は(昨年も紹介したが)西部Aでご一緒したKさん。Kさんは生徒が自ら本来の力を伸ばしていくのを大切にする人なのである。
 演劇に時代性や政治性を持ち込むことを極端に避けようとする人々がいる。だが、時代に敏感に反応し、先んじてその本質を解き明かしていくのも演劇の大事な使命であると考えている。18歳選挙権の現代、高校生たちが社会問題にめざめ、考えを深めていこうとしているなら応援してやるのが大人の役目ではないか。台本の今日性は失われていない。何より掘り起こしを評価したい。

 上尾南高校『回転、または直進』福田成樹・作
 舞台はねじ商社「六甲鋲螺」の事務室。近所のネジ工場主を父に持つ女子高生チカにとって、そこは居心地のよい場所だった。中年の女性事務員オノはヌシ的存在。最近、営業部員として入社して来たサクラはまだ若いが転職組、新たに倉庫管理に採用されたサイトウも自衛隊にも在籍したことのある転職組である。2人とも新たな職場で生き甲斐を求めているようである。(以上、あらすじ)
 8月に台本を渡されたときから、よい台本だと思った。初見だったので調べてみると、初演は兵庫県立御影高校、2015年度近畿大会で創作脚本賞を受賞している。福田氏は兵庫高校時代にも創作脚本賞しているとのことだ。
 ドラマらしいことは何も起こらない。電話で注文を受け、営業から帰って在庫を確認する、苦情を受ければ延々と不良品を選別する。人々が生きる、働く、つながる世界なのである。チカは「ここ、うるさい親や兄弟がいっぱいおるみたいや。」という。「うっとうしい?」と聞かれ、チカは「ううん。わりと好き。」と答える。
 私の住んでいる地域は中小零細企業が立ち並ぶ工場地帯だった。町工場が何軒か残っていて、今もプレス機の音が聞こえてくる。私がよい台本だなあ、と感じたのは、どこか似たような環境が頭に思い描かれたせいかも知れない。しかし、それらの大小あった工場はほとんど撤退してしまった。大企業は生産拠点を海外に移してしまったし、国内に取り残された中小企業は外国製品の進出の煽りを受けて虫の息である。私が次に感じたのは、ユートピアのようだ、ということだった。関西弁とあいまって(兵庫の人にとっては日常語なのだろうが)日本のどこかに、今もこんな場所があるかも知れないと夢見させてくれているような気がした。バイト生活に明け暮れた若い人々に、安心して働ける場所を提供してくれるような。
 昨年も感じたが、きちんとした芝居づくりをする学校だと思った。様々な装置や効果、役づくりも正確で、作品世界を舞台化する力があった。内容やストーリー展開が地味なので、出だしからテンションを上げようとしたのか、ツカミのところで走ってしまい、科白が聞き取れなかったのが残念だった。
 チカ役の1年生は動きにキレがあった。オノ役の2年生には見覚えがあった。昨年の女子大生役から打って変わってベテラン事務員役についたが、雰囲気は作れていた。それだけに残念だという話なのだが、舞台上にそれぞれの立ち位置は見つけられたのではないだろうか?

 桶川高校『埼玉会館のはしの方』今井唯太・作(顧問創作)
 演劇部物。総会に出席して、改めて高校演劇に対する愛と意欲を再確認する。(以上、あらすじ)
 高演連総会をまるごと素材にしてしまえ、という人を食った台本。けっこう好きである。空間の移動、時間の経過とともに会話のあり方も変わって来るはず。そこをもっと丁寧に描いていけば各人の個性も生きて来ただろうし、心の変化にも説得力が生まれた。日常の一コマを切り取っただけのように見えて、再びは訪れないかけがえのない一日を描いた。

 岩槻高校『伝説の勇者の作りかた』八城悠・作
 コンピュータ・ゲームのキャラクターを登場させ、ストーリーとキャラクターを自ら作っていく。元の設定では迫力が足りなかったからだが、自分たちはヒーローを迎え撃つ〈悪〉の立場だから、完結することは自分たちが滅びることになるというアイロニーに脱力する。だが、ゲームが面白ければ繰り返して遊んでもらえることに気づき、またがんばろうと決意する。(以上、あらすじ)
 一幕ものにはなっているが、どうにも動きが作れない台本。あえて舞台化しようとするなら、世界観をどう構築するかだろうか。メイク、コスチューム、小道具・大道具、照明・音響を総動員する必要がある。努力は認めるが限界だった。各人なりの役づくりも認められるが、相互にかみ合うまでに至らなかった。最後に剣をふるって一人殺陣を繰り広げるところくらいはビシッと決めないとダメでしょう。

 大宮商業高校『水屑となる』春野片泰・作
 「もうこれからずっと一緒に帰れない。」「望ちゃん、私ね、考えるのやめたの!」と言い残して友達だった香澄は去って行った。(引っ越しだと理由を説明していたが、どうやらどこかへ収容されたらしいことが後から暗示される。)その香澄から渡された本を読むうちに、望の心にも変化が起こってくる。望が「何か、おかしくないですか?」の一言を発したとき、周囲の人間たちはみな驚愕する。(以上、あらすじ)
 「思想教育」が個を圧殺する、オーウェル『1984年』を彷彿させるような近未来物語。きちんと問題意識をもって取り組んでいることは理解出来る。ただ、台本に混乱や矛盾がある。一例として理生が殺人を犯すシーン。強烈な違和感があった。自らの意志を持つということと自らの欲望のままに生きるということとは違うはず。時間としては5分くらいだろうか、私だったらカットしてしまうだろう。オリジナリティの尊重はもっともだが、それだけの価値がある台本かどうか()、片言隻句も疎かにしないことが常に正しいかどうかの見極めも必要だと思うのである。まともにやってしまわない方が良かったのではないか。
 (潤色の場合には作者の許可がいる。上演許可を申請する際にお断りをして認めてもらったことが私にもある。部分のカットについては一切認めないという作家もいるが、そうでない場合にはテキストレジが行われるのは普通のことである。)
 (最初にアップしてから1日経ってしまったが、このままででは誤解を招きそうな表現だったので補足する。来年度から「道徳」が教科化されるという。人間が生きていく上で道徳が必要かどうかを問題にしているのではない。国家が人の心の中を支配しようとすることの是非を問うのである。そんな中で作者の「普通とは?常識とは?教育と洗脳の違いとは?をテーマに作りました」(ネットから)とする執筆意図、この台本を選んだ生徒たちの問題意識は大いに評価されるべきだと思っている。ただ、指摘した部分はそうした台本の意図そのものを壊してしまうのではないか、と(私は)考えたということだ。小森陽一他著『「ポスト真実」の世界をどう生きるか』を読んでいたら、歴史学的には史料的裏付けのない「江戸しぐさ」(傘をさして歩くときに、すれ違う人に当たらないように傾けた、等)がそのまま小学校高学年向けの「道徳」の教科書『私達の道徳』に載ってしまい、指摘を受けた文科省の担当官が「道徳の教科書は江戸しぐさの真偽を教えるものではない。…礼儀について考えてもらうのが趣旨だ」と回答したという記載があった。危機感を感じる。時代は動く。今、何が起ころうとしているのかに敏感であれ、と思う。)

 大宮高校『赤鬼』野田秀樹・作
 あらすじは紹介するまでもない。いろいろな劇団や演劇部が様々な工夫をしている。照明効果でスペースを切り取ったり、波を表現したり。舞台中央に2m四方ほどの山台(生だったが)をおき、小屋や洞窟、そして舟に見立てたのは成功していたのではないか。道具の出し入れで場面転換しようとするとスピード感は削がれてしまうし、煩雑な割に効果も上がらない。
 テキストレジは脚本解釈でもある。わりとすっきりとまとまっていたし、役者も熱演していたが、まだまだ絶望や祈り、狡猾さや愚劣さといった人間の根源に迫るには至らなかった。トンビは少しも「足りない」男のようには見えなかったし、「あの女」も村人から迫害され、世界に対する怒りや絶望を抱えているようには見えなかった。だが、壁に挑んでいった勇気は失って欲しくない。それだけの価値ある作品なのだから。

(私なりの「赤鬼」観は「2018年春季西部A地区演劇発表会」(2018.4)で述べた(赤鬼=まれびと説、あるいはアンパンマン説)。今回、その読み方についても紹介したが、絶対だとも思っていないし、押しつけることもしない。赤鬼の科白にI have a dreamというのがある。暗殺されたキング牧師が意識されているのは間違いないと思うのである。だからこそ、「あの女」は赤鬼の言葉が理解出来るようになったのである。つまり、「あの女」の絶望は赤鬼(人肉)を食ってしまったこと(のみ)にあるのではなく、人間が失ってはならないものを圧殺してしまったところにあるのだと思うのである。だが、そうしたものが一度でも存在したということは人間にとっての希望でもあると思うのだ。①で審査員も卒業と書いた。その気持ちには変化はないのだが、その分、今年は特に全霊をもって審査にあたったつもりである。このブログもそうした気持ちで書いた。この部分、後から。)


by yassall | 2018-10-11 15:32 | 高校演劇 | Comments(0)

2018秋の高校演劇② 東部南地区発表会

 10月6・7日に大宮地区発表会が開催され、今年のBブロックとしてのコンクールも終了した。2018秋の高校演劇①で予告したので、二つの地区発表会で上演された各校について感想をアップする。
 どういう順番にしたらよいか考えたが、それぞれの地区ごとに候補に上がった学校について最初に書き、その後、残りの各校について出演順に書くことにする。どうしても後者の方が簡単になってしまうかも知れないが、講評では均等を心がけたつもりでいるし、私が必要と考えた範囲での助言もしたつもりである。
 候補となったのは東部南地区では草加南、三郷北、獨協埼玉、草加、大宮地区では上尾、上尾南の各高校である。全部で6校になるが、6校中から2校を選ぶのではなく、東部南地区が終わった段階で暫定2校を選ばなくてはならない。
 今回は東部南地区でも、大宮地区に移ってからも、4校から2校に絞るのにかなり苦しんだ。それぞれに捨てがたいところがあり、それぞれに弱点があった。それらにも丁寧に触れなければならないと思い、このような順序になった。
  ※
 東部南地区発表会は9月15・16・17日の日程で開催された。会場は鷹野文化センターである。今年から春日部地区が分離し、3日間で14校の上演となった。

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 草加南高校『はなまぼろし』大谷駿雄・作
 1983年度の宇部大会に出場した山形・天童高校の出演作品。作者の後書きでは山形に伝わる昔話「六部の茶碗」に材を採ったとある。奇しくも顧問のお一人Oさんの出身県であるが、顧問から提示したのではなく、まったく無関係に生徒たちが選んだのだそうだ。
 脚本を舞台化しようとする熱意と力量には並々ならぬものを感じた。部として蓄積されたものがあるのだろう、衣装や舞台装置、照明・音響効果など、持てる力を総動員した。足し算だけでなく、引き算もよく心得ている。
 ただ、私に限ってのことかも知れないが、台本にはどうしても合点のいかないものが残った。あらすじは以下のようである。
   ※
 捨て子でありながら老夫婦に実の娘のように育てられた桜子は、桜の季節になると放浪癖が起こり、水子の霊と戯れる。死に場所を求めて山里にやってきた学生にも水子たちが見えたことに桜子は驚く。「暗くて底のない沼」をのぞきこんだ学生に桜子は強く引きつけられ、学生の残した茶を飲むと子を孕む。父親の知れない子を産んだことで老爺は桜子を責める。桜子と夫婦になると心に決めていた村の若者・作蔵は父親は自分だと名乗り出る。作蔵は桜子の心の闇を理解出来ないままに夫婦として一緒に子育てをする。季節がめぐり、再び村を訪れた学生と再会するが、死の誘惑を乗り越えた学生は明るい人格に変わってしまっていた。老爺は学生を見て再び桜子を責める。桜子は絶望し、あろうことか赤子は桜の花びらとなって散ってしまう。水子の霊たちが現れ、老爺と学生は逃げ出してしまう。作蔵は風たちを味方につけ、水子の霊たちとたたかう。
  ※
 孤児として生まれ、精霊たちの世界と親しむ桜子と、人生に絶望し死に場所を求めて山里に踏み迷った学生との悲恋の物語というような柱を立て、私なりに整理すると上記のようになる。
 だが、そこには収まりきれないものが残るのである。例えば桜子が自分の中の「淫らな女の血」について言及するのは、自らの運命に対する自覚の言葉なのか、自分のことを諦めさせるために言い放った言葉なのか。前者だとしても、それは否定的に述べられたのか、身を滅ぼすまでの熱情に生きるしかないという意志を示したのか。
 作者の後書きに「情念」という言葉が出てくるところからすれば後者のようにも思われるが(学生に心惹かれ、子を孕むという言い伝えを知りながら、学生の残した茶を飲んだことを「淫ら」というなら)、「私は幸せになってはならない」とする桜子の言葉からすると前者であるとしか考えられない。では、桜子はなぜそんなにも自己に否定的でなくてはならなかったのか。また、そうだとすれば桜子にはいつかの時点で救済の手が差しのべられなければならない。そうでなければ物語として完結しないと思うのである。
 「水子の呪い」というような言葉も出てくる。いっそ桜子は人外の存在、桜子が産み落とした赤子と同じように、桜の花の精霊であったとでも解釈するのが正解であったのかとさえ思えてくる。
 「捨て子」「父なし子」「水子」が故意に混同されているようにも思われる。ラストシーンでの水子の霊たちと風たちの戦いは何だったのか。「風」は何を象徴していたのだろうか。作蔵は「狂ったように殺戮」を続けたとあるが、「殺戮」というような言い方になったのはなぜか、作蔵に子供達が見えたということは作蔵もまた狂気に近づいてしまったのか。
 以上はただただ私の読解力の不足を露呈しただけなのかも知れない。先には舞台づくりについて述べたが、人物造形がおろそかであったというようなことは少しもない。庄屋級としても老婆の着物はもっと農婦らしい方がいいのではないか、というようなことも述べたが、桜子に無私の愛情を注ぐ姿など、人物理解は正しかったし、力も感じられた。他の登場人物についても工夫は認めるが、まだまだ曖昧さや漠然としたところが残っている。さらに掘り下げていって欲しい。「台本」の言葉ではなく、「役」(=そこに生きている人間)の言葉として発せられたら、私の抱いた疑問も氷解してしまうかも知れない。
 のっけから私の混乱につきあわせてしまった。この学校だけ長くなってしまうが、もう二つ補足的に述べたい。一つはこの脚本は人間の「罪と罰」の物語として書かれたのかも知れないということである。誰でもが罪人であった、その罪を白日の下に晒していく物語なのだ、と考えればよかったのかも知れない。もう一つは、一人の人間が生きている背景には無数の死者が存在する、ということである。普段は忘れていたその事実を思い起こさせる物語というならすべては落ち着く。

 三郷北高校『Merry mad dolls』杉浦舞香&MKDC・作(生徒創作)
 大きな括りにしてみると登場人物は「怪物たち」「自警団」「街の民たち」の3グループに分けられる。「怪物たち」と「自警団」に対立軸があり、実際に両者の間で戦闘が繰り広げられるのだが、本当の対立軸は「怪物たち」と「街の民たち」にあるようである。というのも、「自警団」はプログラムの配役表には「街の自警団側」とあるが実は住民たちからは余所者のように見られており、(であるから自警団というより用心棒あるいは傭兵というのに近い)、定住民の間で組織されたのではないようだ。配役表では「その他」となっているグループを「街の民たち」と括り直したが、OPでロキを追い詰め、メリーを死に至らしめ、「異形の者」の存在を許さず、「自警団」を「怪物たち」の掃討に向かわせたのは「民たち」なのである。
 荒削りで、多分に暴力的であるが、根底に流れている「怒り」には若者の可能性を感じた。近代「国民国家」は「自/他」を二分することで、すなわち異分子を排除することによって同質性と均質性を高めようとした。物語の世界は中世的だが、すでに「自/他」の峻別による統合に向かっているように見える。(実は「民たち」の背後にはすでに軍=国家の存在が垣間見えるのである。)
 「異分子の排除」は、子ども間のイジメにはじまって、今日の社会に横行するヘイトや排外主義、ネット社会での不謹慎狩り、LGBT、難民問題にまで及ぶ病理である。しかし、マイノリティの迫害や、異分子の排除によって自己のアイデンティティを確認しようとするのは、そのアイデンティティに重大な揺らぎが生じている証左ではないだろうか。
 ダンスあり、殺陣ありで、渾然としてはいるが、若さとエネルギーが伝わって来た。物語が複雑な分、場転も多い。整理が必要だが、エネルギーを削いでいくことになりはしないか、悩ましいところだろう。ビジュアル志向が先行していると思われる点も認められる。それらを否定したりはしない。ぜひ、自分たちのエネルギーを信じ、自分たちがつかみかけたものを掘り下げ、大化けして欲しい。

 獨協埼玉高校『あの日の不思議』吉田辰也・作(顧問創作)
 親友同士のゆきことみさき、天使と悪魔を交えたファンタジー。ゆきこは父権的で世間体を優先しがちな家庭に育った。成績優秀な妹といつも比較されている。自己肯定感を持てないゆきこは万引きに手を染めてしまうが、そのことを後悔し、自分の力で解決したいと望んでいる。悪魔と魂を引き替えにする取引を交わし、みさき、天使、悪魔に協力してもらいながら店の宣伝のためのボランティアをする。ボランティアは成功するが、思いがけない事故で傷を負った悪魔は魔界に戻され、ゆきことの契約の破棄を伝える。(以上、あらすじ)
 軽快なJazzからはじまる舞台は火入れのされた街灯も美しく視覚的にも成功していた。天使と悪魔も個性的かつビジュアルに造形されていた。ダンスも見事な出来栄え。伝えよう、表現しようが気持ちよく、脚本が整理されていけば、さらに完成度があがる。具体的には、ゆきこの抱えている問題は実は深刻であり、「お父さんお母さんも見に来ていたね。」というような科白も挿入されているが、ゆきこの表情がぱっと明るくなるなど、もっと明確に解決の方向が示されるとよかった気がする。

 草加高校『マリア』宮本浩司・作
 18歳を迎え、大学合格を機に一人住まいを始めたマリア。引っ越しの荷解きの最中に見知らぬ7人の人物たちの訪問を受ける。実は18年前に起きた飛行機事故で生後半年のマリアは一命をとりとめた。7人はそのときの乗客たちで、自分たちの命をマリアに託し、マリアに生きて欲しいと願った人々だった。彼女たちはマリアの18歳の誕生日に、マリアの命を見届けようと集まって来たのだった。(以上、あらすじ)
 これもよい台本を掘り起こした。前半の不条理劇風の幕開けには成功した。10人中7人が1年生という編成だったが、人物造形も的確になされていた。きちんと大人の女性たちに見えていた。丁寧な芝居づくりをした分、墜落を目前とした旅客機内の緊迫感、クライマックスに向けて畳みかけていくパワーが弱かった。これはアパートの一室から旅客機内への場面転換に手間取ったことも原因した。白ずくめの舞台装置はマリアの無垢なる心象風景、あるいはまだ何も書き込まれていない未来の象徴だったのか。工夫は認めるが、引っ越しの荷解きをするのに白のワンピースはどうだっただろうか。
   ※
(ここまでが候補とした作品である。先に述べてしまえば東部南地区を抜け出したのは最初の草加南と三郷北の2校、大宮地区に移ってからもそのままこの2校が残ることになった。)
  
 越谷東高校『レンタルおじいちゃん』今野浩明・作
 8歳で交通事故にあった少女が22年ぶりに意識を取り戻す。医師団は精神障害を避けるため、父親を祖父にしたてて訓練を促す。だが、父も入院中で余命3ヶ月を宣告されていた。(以上、あらすじ)
 レンタル家族ものも、もう設定としては目新しさはなくなった。22年ぶりに意識を取り戻した少女の前に現れたのは亡くなった祖父とそっくりなアンドロイドだった。説明書と首っ引きでアンドロイドに対応する少女、しかし実は年老いて祖父に似てきた父親だった、というのが新しいところだっただろうか。
 何にしても設定に無理がありすぎるのだから、脚本選択の段階で退けるべきだったが、つかんでしまったら仕方がない。その台本のどこに自分たちは惹かれたのか、どの科白をしゃべって見たかったのか、どんな世界を築きたかったのかを思い起こし、やりきるしかない。
 (実は父)と孫、医師と看護師という二組の人間関係を交叉的に描けるかが鍵だったように思う。力演していたが、芝居の構造や心の動きをどうつかむかの詰めが不足していた。

 三郷高校『I Wish …』楽静・作
 忍び込んできた高校生たちとふれあうことで自由意志を持つようになったアンドロイドのマリィは女主人の妹の代替として完璧になろうとするのを止める。そのマリィが出した結論は妹ではなく、娘になることだった。(以上、あらすじ)
 根本に台本の問題があるとして、舞台上にひとつの時間を作りきれなかったのは、それぞれがまだ台本に納得せず、役づくりに悩んでいたからではないか。洋館内の閉ざされた人間関係に風穴をあけた高校生たち。人物たちの輪郭が明確になっていくか、変化は描けるか、あたりが見どころかと思っていたが、人物同士にコミュニケーションが成り立っていなかった。まず腕組みを止めよう、からはじまる(私も部員たちにそう言って来た)。

 松伏高校『ひまわり』五島ケンノ介・作(顧問創作)
 刑事の島は補佐官の玉置と平野を取り調べている。前半は平野がテロリスト役を演じたりしているが、これはお芝居らしい。まるで遊んでいるようだ。高木が蕎麦の出前持って来たりする。後半はシリアスになる。平野は自分の学生時代の思いを語る。ホストに貢ぐために5000万円を横領したが、それらは自分の意志であったと語る。(以上、あらすじ)
 『熱海殺人事件』と宮沢りえの『紙の月』のオマージュと看破したのは今回ご一緒したUさんだった。
 台本には不思議な魅力があり、幕が上がったときの取調室の雰囲気や刑事のラフさは作れていた。前半はナンセンスかつ軽妙、後半はシリアスでありながら愁嘆場にしない。前半と後半のコントラストをどう作るかが見どころかと思っていたが、芝居が沈んでしまい転がっていかなかった。前半のアクションシーンをもっと派手にやってしまった方が後が生きるのにと感じたが、身体にも心にも固さが残った。

 草加東高校『幻想列車』九国光・作
 現実の世界では事故や自殺によって死の瀬戸際にある者たちが乗り合わせる幻想列車。深い絶望にとらわれた美代子、社会への憎悪に満ちた竜太、大手術の最中の瑞穂、ただ一人心安らかで幻想列車の正体を知る老婆。乗客たちとの会話の中で、孤独や絶望から立ち直っていく翔太は一命を取り留め、瑞穂と再会する。(以上、あらすじ)
 科白にきちんと感情が乗っており芝居は作れていた。「止まらない列車」の不気味さ、閉塞感、非日常性を現出させられるか、が見どころだと思っていたが、少し演技エリアを広げすぎた。電車の疾走感も欲しかった。身体表現を磨こう。照明・音響プランは再考が必要である。具体的にいうと前灯りを落としすぎて、顔が見えなかった。観客は役者の顔が見たいもの、声が聞きたいものなのである。途中でパネルが1枚ずつ外されて行った。何かの意図があったらしいが伝わらなかった。何枚か残し、場面転換の後、病室の壁になったら面白いのにと思った。私だったらそんなことを考えただろう。

 越谷西高校『真夜中の紅茶』松岡美幸・作
 真夜中の雨に降り込められて、一人の男がある屋敷に雨宿りのために立ち寄る。そこで彼を出迎えたのは、一人の少女。彼女と話をするうち、男は夢とも現実ともつかない悲劇へと迷い込む。少女は先天的な障害で片足を引きずっていた。医者である少女の兄は、彼女の身体を満足なものにするため、移植手術の研究を続けていた。足の提供を断られた兄は、自らの母親を殺害して足を手に入れることをもくろむ。そのもくろみが少女にばれ、殺害は失敗に終わるかと思われるが、少女自身が母親を殺害して満足な身体を手に入れることに成功する。しかし、そのあとに残るのは紅茶と雨と虚無感だけだった。(以上、あらすじ)
 脚を移植することで走れるようになる? それも生体移植ではなく「死んでいる」ことが条件? 台本上のつじつまを合わせるための典型的なご都合主義である。もしあり得るとすれば、すべては屋敷に迷い込んできた男の悪夢だった、ということにするかだ。
 かなり無理のある台本だが思いの外、芝居になっていた。フロントライトだけで前灯りを作った照明や舞台美術が適切で、ゴシックロマン風の雰囲気を出せていた。科白も生きていたし、時間も流れていた。それでも世界を作り出すまでに至ったかは疑問。

 草加西高校『天使の声が聞こえたら』加藤のりや・作
 自分の声を人間に届けようと奮闘する天使をひねくれ者の悪魔がサポートする。手始めにCDショップで万引きしようとしていたマユを更正させようとするのだが。(以上、あらすじ)
 まだまだ脚本に振り回されている。脚本も舞台化しやすいようには出来ていない。もう少し作戦が必要だ。なかなか声も前に出ず、客席に届けようという意志と工夫が不足していると感じるのは、キャスト自身もまだ迷っているからではないか。台本選びは納得できるまで。

 越谷南高校『everywhere』鱶ヒレ夫・作(生徒創作)
 サーカス団を率いるレイガンは級友のスタンリーと協力して常小屋をめざしている。そんなときザイラーたちの乗っ取り計画にあう。ザイラーらはレイガン・スタンリーの隠された過去を暴く。スタンリーにあこがれているベンは、父を殺した犯人こそ軍人時代のスタンリーであったことを知る。(以上、あらすじ)
 サーカスを舞台に様々な人間模様を描こうとし、ドラマの中の対立軸も設定されようとしていた。だが、物語を広げすぎたのか、人物像に深みを欠いた。スタンリーの自裁も唐突だった。ジャグリングの稽古をしていたり、檻に入れられたライガーがいたり、側転するピエロがいたり、サーカス団の雰囲気を作ろうとしていた努力は認める。部活の持っているパワーのようなものは伝わって来た。
(一言。サーカス団の魅力って放浪にあるのではないだろうか? 一晩たったら跡形もなく消えていた、というような。題名だってeverywhereではないか?)

 八潮南高校『広くてすてきな宇宙じゃないか』成井豊・作
 アンドロイドによるファミリー・レンタル・サービス。アンドロイドを受け入れらず葛藤するクリコは同級生のカツラ、FRS職員のヒジカタとともに東京中を停電させるという大事件を引き起こす。(以上、あらすじ)
 真面目なとりくみには好感が持てる。その分、テンポが落ちてしまい、スピード感に欠けた。まず、不要な暗転をカットしていくことから始めたらどうか。正面の白パネルも本当に必要だったかどうか再考してみよう。

 越谷北高校『全校ワックス』中村勉・作
 転校生を含めた5人でワックスかけの作業がはじまる。やりとりの中で誤解もとけ、相互理解も進む。ワックスが乾くまでの間、段ボールの島に身を寄せ合って告白ごっこに興じたりする。「偶然、集まっただけ」と認識しつつ、心の通い合いを感じる。ワックスを塗ったばっかりの廊下を歩き出す様子は自らの殻からの解放のようにも見える。(以上、あらすじ)
 いまさらあらすじを紹介するまでもない台本。共同作業を通じて「親密圏」から脱していくというストーリーなのだから、冒頭こそ作りすぎたところがあったが、関係が深まるのに並行して各人の個性が立ち上がっていく様をよく描いた。この芝居に取り組むことで、きっと生徒たちの個性も立ち上がっていっただろうと思わせる。好演だった。
 ところで、劇中で上田にはない「悪気」が自分にはあるんだと大宅はいうが、もしかすると人間は誰しも少しずつ「悪気」を持っているものではないのだろうか? 「悪気」があると自覚していた方が、むしろ無意識のうちに毒をまき散らしたり、関係を破壊するに至るのを防止できるのではないのか? 今回、この劇を見ていて、そんなことを考えた。

 越ケ谷高校『部員ロボ2045』よしはらいさお・作(顧問創作)
 演劇部では部員が足らず、ロボットで補おうとしている。飯田は批判するが、とりあえず部長をロボット役にしてシーン練をしてみることになる。飯田はなお抵抗するが、実は部長はロボットであり、計画はすでに進行しているのであった。背景に2045年問題があり、ときは2055年、AIが人間を支配する時代を迎えているのであった。(以上、あらすじ)
 シンギュラリティを扱った創作。劇中劇をさらにコミカルに仕上げていけばラストにやってくる戦慄のシーンをより強く表現できただろう。Uさんも言っていたが、部長は段ボールロボのコスチュームを纏って劇中劇に臨めばよかったのにと思った。種明かしが説明的になってしまったところが残念。部員数が足りなかったのか、台本にはあった、ラストで続々とロボットが現れるシーンがカットされてしまったのも残念だった。


by yassall | 2018-10-10 15:19 | 高校演劇 | Comments(0)