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一年を振り返って

 今年も暮れようとしている。このところ、主に一年間の読書を振り返ることで、今年考えたことなどをまとめている。ところが今年は系統だった読書どころか、読みかけになった本も続出で、到達点はもちろん現在地点でさえ見失いがちである。
 退職したての頃、確かにある種の期待感があった。時間的にも人間関係上でもフリーになることで、ものごとを自由に考えることが出来そうに思えたのである。だが、まる7年もたつと次第に自分の中でチリのように積もってくるものもある。7年前はすでに自分にとって過去になりつつあるのである。
 また、体調に不安があるときなど、じっと自分の身体と相談しているなどという時間も増えてきた。容易に前に進めないぞ、という感じがあるのである。
 それでも、停滞と充電との区別くらいはつくつもりでいるが、どこかで流れが滞っているとしたらそれがどこかを突き止めることは出来るかも知れないと、何冊かだけでもメモに止めておきたい。

 木村敏『自己・あいだ・時間』ちくま学術文庫(2006)
 木村敏『自覚の精神病理学』紀伊國屋書店(1978)

 木村敏は精神科医にして精神病理学者。本を読むきっかけになったのは志木高時代の知人であるTさんの推薦による。Tさんらと3月に1回程度のローテーションで読書会を開いていることは以前にも紹介した。Tさんは今も大学でカウンセリングの講座を持ち、またカウンセラーとして活動されている。現役時代からの研鑽のたまものだと思う。そのTさんから読書会のテキストにどうかと提案があったのだ。
 木村敏の方法はフッサールやハイデガーといった現象学や実存主義、ときには西田哲学を援用しながら、精神疾患を人間学的に理解していこうとするところにある。さらにいえば、精神医学史を再検証し、西洋的二元論を克服するための理論構築をめざして行こうとしている。
 今回は分裂病(※)理解を中心とした。分裂病については高校時代に宮城音弥の書物で初めて知った。以来、とくに芸術と狂気の関連についての関心から、折に触れて本を読んだりした。30代のころだったか、荻野恒一の「現存在分析」理論に強く引かれ、何冊も本を読んだ記憶がある。
 とはいえ、継続的に研究を深めてきたわけでもなく、Tさんのようにカウンセラーとして疾患に直面してきたわけでもない。木村はノエマ・ノエシス(ただし、木村はフッサールの用語とは異なるとしている)、間主観性、「あいだ」、「共同世界」、habenとSein、アンテ・フェストウムとポスト・フェストウム(時間性)などの用語を駆使して理論を構築していく。たいへん刺激的で興味深い論考であると思ったが、その正しさがどの程度担保されるのかについては私には断言できない。
 木村は、分裂病は「対人関係の困難」ではなく「自己の個別化」の失敗が原因であるという。説得力に富んでいるが、木村自身も述べているように、完全な達成か挫折かを相互排除的に分けることは困難であろうし、他の精神病においても大きな意義を持つとすれば分裂病に固有の病因であるかどうかも断言できない。分裂病の中心的症状が「自閉性」にあるのか「妄想性」にあるのか、固有文化や時代背景は発病や病像に影響を与えるのかどうかも私は確たる認識にはいたっていない。
※病名としての「分裂病」は現在「統合失調症」に変更されている。ここで「分裂病」の用語を使ったのは書物で使用されたままを使ったということである。なお、森山公夫の書物で知ったのだが、「分裂病」の名の起こりは「連想心理学」が主流であった時代に、正常な「連想」の働きが断ち切られているという認識からであった、ということだ。とすれば、語感の違いはあるものの、「統合失調」と言い換えても病像の捉え方までもが変わった、ということではないような気がする。
 なお、これは木村の著作のみからの知識ではないのだが、分裂病を「疾患単位」としたクレペリン・ブロイラーの流れに対し、「汎精神疾患論」・「単一疾患説」を提唱する人々も存在する。精神疾患を広く「共同性の危機」と捉え、その現れ方によって多様な症状が顕れるという説などである。

 塩川伸明『民族とネイション』岩波新書(2008)
 井上寛司『「神道」の虚像と実像』講談社現代新書(2011)

 『民族とネイション』は上記の次の読書会で私からテキストとして取り上げてもらった。レポーターはもちろん私がつとめた。
 日本ばかりか、世界中に蔓延しようとしている自国中心主義・排外主義の根底にはナショナリズムがある。たとえば民族解放をかかげて戦われたベトナム戦争時、ナショナリズムは善であった。塩川もナショナリズムはさまざまなイデオロギーと結合すると述べているのだが、今日の反知性主義・歴史修正主義と結びついたナショナリズムはいかにも気味が悪く、かつ危険である。
 そのようなナショナリズムと対抗するために、まず学問的な基礎知識を得たいと思ってテキストにした。塩川のいうとおり、当初は何らかの政治的意図をもって「作られた」としても、大衆化したナショナリズムはときとして制御不能になり、暴発する危険性を秘めている。ナショナリズムに対抗、あるいは制御のためには、その正体を知ろうとすることが大切だと考える。
 次の『「神道」の虚像と実像』もその関連で読んだ。古代において日本では「神」は依り代にそのつど降りてきてもらうものであって、「神社」に常駐するものではなかった、「神社」の建設は仏教の影響とそれへの対抗によるものである、というところからはじまる。「神社」神道もナショナリズムと同じように、他の国家への対抗として歴史的に作られて来たのである。
 関連本ということでは、読みかけではあるが、

 立花隆『天皇と東大』文春文庫

 がある。明治国家建設のために近代天皇制が「作られた」ように、東大も日本の近代化をすすめるための装置であった。「天皇機関説」問題にみられるように、学問の世界でも国粋主義の嵐は吹き荒れていたのである。

 真継伸彦『鮫』河出文庫
 真継伸彦『無明』河出文庫
 真継伸彦『光る声』新潮文庫

 今さらながらこの夏には真継伸彦の小説をいくつか読んだ。書店では手に入らなかったので、Amazonを通して古書を取りよせた。前三作では主として浄土真宗をめぐっての信仰の問題、『光る声』では政治と党派の問題が掘り下げられていると思った。

 真継伸彦『心の三つの源泉』河出書房新社(1989)
 
 なども読んだし、つぎの本も同書に紹介されていたことから読んだ。

 胡桃沢耕史『黒パン俘虜記』文春文庫

 他に小説では帚木蓬生が筆力も確かであり、ミステリー仕立てではあるが、取り上げられている題材も興味深いものであった。薦めてくれる人があったからだが感謝している。

 帚木蓬生『聖灰の暗号上下』新潮文庫
 帚木蓬生『白い夏の墓標』新潮文庫

 平野啓一郎『透明な迷宮』新潮文庫

 平野啓一郎にはなかなか手が出なかったのだが、この本を読んで若手の中では筆力に確かなものがあると感じた。
  ※
 来年は柄谷行人『世界共和国へ』で得た見地をもう少し深めてみたいことと、原点に返って日本近代文学の見直しを再開したいと今は思っている。


by yassall | 2017-12-31 16:45 | 雑感 | Comments(0)

2017年のニューフェイス

 昨年、少なくとも来年はこの「今年のニューフェイス」を書かなくて済みそうだ、と書いた。しかし、結果は以下の通りである。機材の新調にあたっては使用頻度の少ない機材があれば下取りに出すようにしている。自分のカメラ・ライフを見直しながらのつもりでいるのだが、それでも少々飽和気味だなと実感している。
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 CASIOのZR4000の購入は5月。昨年、一度候補から外れたことを書いた。なぜ復活にいたったかというと昨年からの流れがある。LUMIX12-60mmを入手して以降、旅行でもスナップでも、ほとんどのシーンをこのレンズでこなすことになった。すると、サブカメラの位置づけが変わってきたのである。M.ZUIKO9-18mmを中心にしていたころは標準域から望遠域をカバーする機材が欲しかったが、今度は広角域を伸ばしたくなったのである。もちろんGM5に9-18mmをつけて2台態勢でのぞむという手はあるわけで、超広角による絵作りをねらってなら当然の選択になるだろう。だが、たまたまそのような被写体に出会ったときの備え程度で、通常はメモや押さえとして使えるカメラはないかと考えたとき、にわかにZR4000が浮上してきたのである。
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 撮像素子は1/1.7型CMOS、レンズは35mm換算で19-95mm。画質はある程度は期待できると思ってはいたが、使い出してみると予想以上だった。撮像素子が小型である分ズーム比も高く、デジタルズームにしても2倍適度だとそれほど画質も荒れない。質感も含めてデザインはやはりいただけないと思うが、サブカメラとしてはかなりの実力を持っていると感じた。CASIOらしく、いろいろ遊びの機能も充実しているようだが、操作系に慣れていないこともあり、そのへんの使いこなしはこれからである。
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 E-M10Ⅱの購入は5月。G5とGM1を下取りに出した。GM1はGM5と2台態勢でと思って中古で買ったのだが、EVFがなかったり、露出補正等の操作系が面倒だったりであまり出番がなかった。Panasonicが生産を中止してしまったことから、かえって人気が高まったのか、購入金額からほぼ値落ちせずに売却出来たのは驚きだった。
 E-M10Ⅱが欲しくなったのも12-60mmがらみなのである。スナップにはGM5との組み合わせで使っていたのだが、このレンズだとややフロントヘビーでマッチングに難があった。それでも軽量なのにこしたことはないと持ち出して来たのだが、あるときGM5のAFロックが不調になったことがあった。一時的なものであったようで、ほどなく回復したのだが、それがきっかけとなった。
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 E-M10Ⅱに12-60mmを装着したところ。これでもまだフロントヘビーである。GM5の質量は211gであるのに対し、E-M10Ⅱは351g。この点に関してはやや早まったかなと思っている。というのは現有のE-M5が425gで、重量こそ若干かさむが、サイズ感はほぼ変わらないのである。ならば防塵防滴仕様であることも含め、E-M5で間に合った、あるいは使用範囲が広かった、ということになってしまうのである。
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 描写はまあまあというところだろうか? 新しい分、モニターのレイアウトが多少とも洗練されているのと、ダイヤル類が大きくなって扱いやすくなったこと、デザインも気に入ってはいるので、しばらく使い込んでいくことになるだろう。
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 m4/3のカメラと比べてしまうと、いかにもごつい。これでもNikonのFXシリーズの中では軽量タイプ(750g)なのだという。やれやれ、どのくらい持ち出す機会があることだろうか?
 D750の購入は9月。実は最初に候補に上がったのはD7500だった。(6月の発売前から2、3ヶ月あれこれ実用性を検討した。それはそれで楽しかった。)だが、APS-CならD3300で十分だと思ったし、どうせならフルサイズを一台持っていてもいいかなと考え直したのである。2014年の発売だから最新機種とはいえない。その分、値もこなれているし、初期に発生したというシャッターの不具合も解消されているようだ。ここでD90とX-E1およびFUJIのレンズとはおさらばした。
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 D750にあわせて新調したレンズはNikon24-85mmとTAMRON28-300mmである。24-85mmは手頃な常用レンズとして以前から欲しかったレンズである。28-300mmは購入の動機の一つになった舞台記録用に買った。TAMRONも評判のよいレンズだが、描写は純正の方がよいようだ。汎用性は高いから使い道はあるだろう。下は28-300mmで撮影した。
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 購入のもうひとつの動機は旧レンズが使用できることである。実のところ、まだ真価を引き出せていないというのか、使いこなせていないというのか、はたまた結局フルサイズ神話ということであったのか、画質的なところでは満足のいく結果が出ていない。しかし、おそらくは(少なくともフルサイズでは)最後の一台になるであろうから(?)なるべく持ち出す機会を増やしていきたいと思っている。(ということは、来年こそ「今年のニューフェイス」は書かなくて済みそうである。ZR4100、E-M10Ⅲが出ようと、G9が発売になろうと……。)

by yassall | 2017-12-30 16:35 | カメラ談義 | Comments(0)

日馬富士事件と大相撲=「国技」原理主義について

 江川紹子氏と中島岳志氏もこの問題で発言しています。関連記事に追加しました。(1月1日)関連記事を追加しました。貴乃花個人の思想もありますが、日本にも広がりつつある排外主義と無縁ではない気がします。賛同者がどこまで踏み込んでいるのかも気になります。

 20日に開催された横綱審議会および日本相撲協会・臨時理事会で日馬富士事件に対する一定の処分が下された。
 日馬富士による暴行はあってはならないことであり、「引退勧告相当」は当然だった。また、同席した白鵬・鶴竜にも責任ありとした判定も適切であったと思う(このことについては後述)。
 しかし、その後もますます混迷が深まっているかのような様相をみていると、まさか他に視聴率や発行部数が稼げそうなネタがないからではあるまいが、意図的な情報操作がされているように思われて来てしまうのである。そして、「将来、大相撲をモンゴル勢で牛耳ろうとしている」白鵬と「興業的な成功ばかりを優先させようとしている」協会VS「相撲本来の姿を取り戻そうとしている」貴乃花といった、いわば「悪」VS「善」の対立軸が作られていこうとしていることに、大きな疑問を感じざるを得ないのである。
   ※
 先日アップした「MONGOLIAN TEAM」で「貴乃花については今いうことはない」と書いた。相撲協会による貴乃花への聴取もこれからだし、20日の理事会で配布されたという貴乃花個人の「文書」についても会議後に自ら回収したとのことで(当初はこのように報道されたと記憶していましが、その後、回収は協会側とも思われる経緯がありましたので削除します。その後、やはり貴乃花の意向によった、という記事がありました。)公開はされていない。
 憶測でものを言ってはならないという自制心は持ち合わせているつもりである。また、私は個人の「思想・信条の自由」は厳に守られるべきだと思っているし、何を「信念」とするかについても個人の責任の範囲だと考えている。
 だが、彼はいったい何と「たたかおう」としているのか、何を「取り戻そうとしている」のか、それを正しく認識しようとし、必要な批判をする必要もまた感じるのである。
 「表現の自由」を尊重する信念は人後に落ちないという自負はあるが、「正義」の名を借りて「不正義」な報道がされようとしているなら、これも批判しなければならないと思うのである。
  ※
 『週刊朝日』12月22日号に、「貴乃花の支援者の一人」である高野山別格本山清浄心院住職の池口恵観氏が11月末頃に受け取ったとして、次のような貴乃花からのメール(全文)が紹介されている。

 “観るものを魅了する”大相撲の起源を取り戻すべくの現世への生まれ変わりの私の天命があると心得ており、毘沙門天(炎)を心にしたため己に克つをを実践しております
 国家安泰を目指す角界でなくてはならず“角道の精華”陛下のお言葉をこの胸に国体を担う団体として組織の役割を明確にして参ります
 角道の精華とは、入門してから半年間相撲教習所で学びますが力士学徒の教室の上に掲げられております陛下からの賜りしの訓です、力と美しさそれに素手と素足と己と闘う術を錬磨し国士として力人として陛下の御守護をいたすこと力士そこに天命ありと心得ております
 今の状況、若い頃から慣れております報道とは民衆が報われる道を創るのが本分であると思いこれまで邁進してきております
 角道、報道、日本を取り戻すことのみ私の大義であり大道であります勧進相撲の始まりは全国の神社仏閣を建立するために角界が寄与するために寄進の精神で始まったものです。
 陛下から命を授かり現在に至っておりますので“失われない未来”を創出し全国民の皆様及び観衆の皆様の本来の幸せを感動という繋ぐ心で思慮深く究明し心動かされる人の心を大切に真摯な姿勢を一貫してこの心の中に角道の精華として樹立させたいと思います。敬白


 「揚げ足取り」にならないように、「全文」とされているまま引用した。自分を「毘沙門天」の「生まれ変わり」となぞらえているところなど、dマガジンで記事を読んだときから、何か神がかりのようなものを感じた。
 また、「池口恵観」という名前をどこかで聞いたようだと思い調べてみると、2013年に朝鮮総連中央本部の土地・建物を45億1,900万円で落札しようとし、のちに「圧力があった」として断念したことで話題になった人物であった。どうも政界や右翼団体ともつながりが深いらしく、安倍晋三が第一次安倍内閣を辞任した直後に当人を擁護するような講演を行ったり、石川県護国神社において、田母神俊雄と共に「神官仏僧合同大東亜聖戦祭」を開催したりしたとのことで、正体の分からないところがある。貴乃花以外にもスポーツ界と交遊があるらしいが、いずれにしても危ういものを感じる。
 それはさておき、基調として「国家安泰を目指す角界」「国体を担う団体」「国士として力士として陛下のご守護をいたす」など、特定のイデオロギーの存在が明らかな文面である。
 古代において角力が宮中行事であったという歴史は確かにある。ただし、有名な野見宿禰が當麻蹶速を蹴り殺したという記事にあるように、互いに蹴り合うというスタイルで、現代とはずいぶん形態が違ったものであり(想像するにテコンドーのようなもであったか?)、そのまま今日の相撲に結びついているというわけではない。途中をはしょれば、今日の大相撲の直接の起原は江戸期の勧進相撲であり、さらにさかのぼれば武家相撲である。組み打ちを中心とする技は甲冑を身にまとった武士同士の争闘に最適であり、合理性がある。
 横綱のしめる注連縄や行事の出で立ちからして神事としての要素があることは事実だが、巡業相撲にみられるように、それらもその土地土地に根ざした宗教儀式であったように思われる。
 私が「特定のイデオロギーの存在」を指摘するのはこのような理由からである。「国体を担う」とか、力士は「国士」であるとかは、少なくとも大多数の大相撲愛好家にとっても、また力士その他の相撲関係者にとっても共通認識となっているとは思われない。
  ※
 こうした相撲=「国技」観を原理主義的に純化しようとしていけば、モンゴル力士のみならず、すべての外国人力士を廃業ないし除名させるしかないことになるだろう。だが、今更そんなことが可能だろうか? 
 日本出身の日本人力士だけで大相撲を成り立たせたければ海外巡業などすべきではなかったし、門戸を開くべきではなかった。そのようなあり方を選択することも出来ただろうが、それで今日のような相撲人気はあり得たであろうか? 繰り返すが、もともと大相撲のルーツは勧進相撲であり、相撲興行なのであって、興行的な成功をめざさなければ成り立たなかったのである。
  ※
 白鵬についていえば、2015年に33回の優勝によって大鵬の記録を塗り替えて以来、相撲に迷いが出てきたというのか、取り口を見ていると確かに相撲が荒れているという感じはあった。それでもここ一番というとき、本当にほれぼれするような相撲をみせてくれるし、とくに「断食もして体を作り直して来ました」というここ数場所は白鵬復活を思わせるものがあった。素質に恵まれているばかりではなく、誰よりも努力家で、研究熱心であることのたまものではないのか? 
 横綱という圧倒的王者がいて大相撲人気はあると思うのである。もちろん、東西両横綱が揃っているのが望ましいし、どちらが勝利をおさめるかに神意を読み取ろうとしたという原初の形態からしてむしろそうあるべきなのであろう。
 つまりは小錦に対する千代の富士、曙・武蔵丸に対する貴乃花が不在なところに不満が高まっている理由もあるのだろう。しかし、残念ながら白鵬に並び立つ横綱が日本人力士に見当たらないのは白鵬のせいではない。素質も、努力も、探求心も日本人力士に不足しているということに他ならないのである(※)。それが気にくわないから、外国人では「国体を担う」には相応しくないから、という理由で排除し、「身内」だけで盛り上がろうとするなら、多くの相撲ファンの心は離れていくことだろう。
 (※白鵬の張り手・かち上げが批判されるが、三代目若乃花・花田虎上にいわせれば、張り手・かち上げをすれば脇が空く。そこを攻められないのは研究が不足しているからだという。これは攻めたというより、かち上げを避けた結果だが、両腕をあげることで白鵬のかち上げを最初に封じたのは宝富士だった。白鵬がかち上げを封印し出したのはそれからである。つまり、白鵬は同じ取り口では通用しないことをすぐさま「学んだ」のである。)
  ※
 もう少し書くべきことがある。しかし、焦点がぼけてしまうことを避けて別項とする。ただ、冒頭に「後述する」と書いたので、白鵬に下された処分について私見を述べる。
 1ヶ月半の減俸では軽すぎる、という意見がある。3ヶ月とか6ヶ月とかいう人もいるし、1場所の出場停止くらいならむしろ白鵬は喜ぶだろうという人までいた。しかし、大相撲=「国技」原理主義からすれば白鵬の引退あるいは除名しかない。たぶん、1ヶ月半では軽すぎる、と考えた人を満足させるにはそれしかないだろう。
 私は、といえば、3ヶ月でも6ヶ月でも同じだといいたい。横綱ともあろうものが処分を受けたのである。それだけで大きな傷である。それを「恥」と考え、潔く引退してしまうことで名を残す道もあるのではないか、ととっさに考えたほどである。
 だが、白鵬は汚名を負ったまま引退すべきではない、と考え直した。優勝回数40回を数えた大横綱をこのまま見送るのは忍びない。今回のことについては、これまで白鵬自身が蒔いてきた種の結果だ、という側面は確かにある。横審から公の場で取り口に対する批判も受けた。これらを受けとめて、誰からも批判されることのない、己の相撲人生の完成形をみせることで相撲史に名を残してもらいたいと私は思っている。
 

【関連記事】
https://www.j-cast.com/2017/12/21317301.html

https://www.newsweekjapan.jp/youkaiei/2017/12/post-8.php

江川紹子「白鵬には、こんな顔もあります~マスコミのバッシングの中でつぶやき合う相撲ファンたち」
https://news.yahoo.co.jp/byline/egawashoko/20171228-00079846/

中島岳志「相撲とナショナリズム あいまいな「国技」「品格」 国威発揚への利用に懸念」
https://www.nishinippon.co.jp/feature/press_comment/article/383794/

白鵬はなぜ過剰に叩かれるのか?世間と報道がつくる「大相撲の虚像」
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/54162


by yassall | 2017-12-23 01:41 | 雑感 | Comments(0)

トイボ クリスマス公演17

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 16日、葉山美侑ことみかわやから出演情報があったので池袋・シアターグリーンまで出かけてきた。案内には演劇集団TOY’sBOX第17回公演「サンタクロースが歌ってくれた」(脚本・成井豊、演出・青瀬博樹)とある。TOY’sBOXでトイボということらしい。劇団には制作として乙部あきなことレッドが参加している。葉山は今回はJJプロモーションからの客演ということのようだ。
 劇団の立ち上げは2013年とのこと。若々しく、エネルギッシュな芝居運びだったが、しっかり作り込まれていて、浮ついたところは少しもなかった。小技も達者だった。オリジナルは未見だが、十分に楽しめる舞台だった。
 写真は終演後の特別企画である撮影タイムのもの。そんなアフター企画があるのは知らなかったが、開場前に街のスナップでも撮ろうと、たまたまD750を持って出ていたのだった。
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 葉山はミツ役。初めてのメイド姿だと言っていた。明日12/17まで。本日は満席だったが、千秋楽には少し空きがあるとのことだ。


by yassall | 2017-12-16 20:28 | 日誌 | Comments(0)

東京駅周辺

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 12日、東京駅丸の内口の駅前広場の整備が終わったというので写真を撮りに出かけてきた。円形ドーム(正確には八角形?)の丸天井である。よく見ると中間に落下防止の金網が張ってある。
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 東京駅がリニューアルオープンしたのは2012年。その頃にも一度写真を撮りに来たのだが、駅前広場の整備が続行中で、いたるところフェンスに囲まれていた。ようやく整備が終了して広々とした空間が出現した。駅舎よりは広場を撮りたくて17-35mmズームを持ち出したわけだが、左右の円形ドームの明暗差や歩行者の影をみて分かるとおり、光線条件としてはかなり厳しいものがあった。
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 JR東日本は空中権を売却することによって改装費用を捻出したという。そのためか、周囲は高層ビルが建ち並ぶこととなり、駅前広場は冬の日差しによって長く伸びたビルの影に覆われることになった。この日は好天であったので、日照のあるところとないところの明暗差も悩ましいところであった。
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 JPビル。被写体として面白いと思った。逆光で撮影しているが左側面の反射をみても日差しの強さが分かる。
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 駅前大通りを桔梗濠まで進んでみる。この画像もコントラストが強く出過ぎていたので帰宅してから補正した。ただでさえ古いレンズなのに補正を施すとさらに画像が荒れる。
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 戸の倉噴水公園。2011年にいちど訪れている。そのときは震災直後であったので噴水は自粛するとの案内があった。この日も最初は噴水はなかったのだが、タイミングがよかったのか、滞留中にはじまった。
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 こちらはRX100で。(3枚目も)
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 明治生命館。前後したが、この日のメイン機材はD750。TAMRONの17-35mmを久しぶりに使って見たかったのだ。標準域のレンズでは得られないバースである。あまり多用すると品がなくなるが、日常にはない視角ではある。
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 こちらは三菱一号館。このレンズを持ち出すのはかれこれ10数年ぶり。光線条件もあるがやはり設計の古さを感じる。まあ、廉価版でもあったし。
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 三菱一号館の中庭。狭隘地だが、なかなか雰囲気がある。庭に面したレストランでランチをとると、けっこうリッチな気分になれる。美術館の入り口もこちら側だ。
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 最後にもう一枚撮ってこの日の撮影は終わり。


 D750+TAM17-35mm、RX100




by yassall | 2017-12-14 16:31 | 散歩 | Comments(2)

ゲッコーパレード本拠地公演『チロルの秋』

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 12月9日、ゲッコーパレード本拠地公演を見に蕨まで出かけてきた。演目は岸田國士『チロルの秋』であるが、チラシにある通り、タイトルは絵画上演no.1「とにかく絵の具を大量にかけるでしょう。そしたらあなたは目撃する。それが何であったのかを。あなたと私が昔から、必ず線を引いてきたって事も。」なのである。
 黒田瑞仁の「代表からのご挨拶」によると、「これまで〈パレードのように〉と意識して数多くのジャンルの芸術家と共同制作」を行ってきたが、所属メンバーからしてどうしても「演劇公演」の形をとることになった、しかし現代美術家の柴田彩芳が新メンバーに加わったことで「作り出すものの形として「演劇公演」だけでなく「美術作品」という可能性も手に入れた」ということである。
 そこで「とにかく絵の具を大量にかけるでしょう。」ということになる訳なのだが、率直に言って、あまり成功しているとは今回はいえないように感じた。大小の脚立や椅子、あるいは広げられ、吊された布、ホウキなどが、絵の具をかけられたことによって、別な何ものかとして立ち現れてきたかというとそうはならなかった。ある美的操作によって統一されたというわけでもなく、かといって混沌というのとも違っていた。役者たちはそれらのオブジェの中で芝居を演じていくわけだが、役者が動くことによって「美術作品」が生命感を帯びてくるとか、役者側からみてその演技に新しい意味を添えていくというふうにも見えなかった。キャンバス地のような役者の衣装にも彩色がほどこされ、それはそれで面白いこころみではあったが、舞台との一体が実現されたというところまでは達していなかったように思った。総じていえば「美術作品」としても「舞台装置」としても実験的な段階で、もし続けていくのなら、コラボとして成功するのはこれからだろう。
 岸田國士については「岸田國士戯曲賞」とか、岸田今日子の父であるとかの知識しかなく、『チロルの秋』についても今回の公演にあたって「青空文庫」をナナメ読みした程度である。したがって、こちらの方も分かったようなことは書けないのだが、芝居の方は面白いと思った。
 1924年の発表で、最初期の作品であるとのことだが、どこかにボヘミアン志向があるのだろうか? チロルのホテルに長逗留していた日本人アマノが、母親が日本人で、明日には旅立つというステラと愛を語る、といった内容である。ところが冒頭のステラとホテルの経営者であるエルザの会話の部分があたかもプレイバックするかのように途中まですすんでは何回も繰り返され、ときどき陰科白が入るものの、アマノがなかなか登場しないのである。
 後半に入って、アマノは激しい物音とともに、駆け込むようにして登場する。遅れた非礼をわびる科白は原作の通りだが、どこか生々しく、客の方は役者本人の遅刻の謝罪をしているかのように一瞬錯覚する。ともかくも生身のアマノの登場によって、ここからはリアルさが追求されていくのかと思ってしまうし、実際にステラとアマノとの間には緊張感のある科白のやりとりが繰り広げられていくのだが、それらの大部分は隣室に姿を消して障子越しに聞こえてくるという演出になっている。それらのやりとりが重視されていないというより、どこか遠いものとして伝えようとしたのかも知れない。
 どうやら「空想の遊戯」をキーワードにしているのである。原作も愛の不可能性、あるいは愛の挫折をテーマにしているらしいから、決して間違った解釈ではない。むしろ恋愛が「空想の遊戯」であることを強調し、アマノの登場はその断絶でしかあり得ない、あるいは断絶によってしか恋愛はかたちを持ち得ないことを表現してみせようとした演出なのだと思った。
 ステラは崎田ゆかりが演じた。今日の芝居は崎田の芝居だったといってよいと思う。表情豊かな中にも、己れの運命を悟った、凛としたものを感じた。いろいろな役柄をこなせる役者だと思った。エルザをつとめた河原舞は今回は脇を固めた。アマノの上池健太はまだ弱さがあるように感じた。
 ヨージこと岡田萌の姿がないの心配だった。もしこのまま一座から離れるようなことになったら、これまでのように毎回公演を見に行くことになるかどうかは分からない。それでも若い才能がさまざまなチャレンジを続けていくことを応援する気持ちに変わりはない。


by yassall | 2017-12-10 04:08 | 日誌 | Comments(0)

MONGOLIAN TEAM

 日馬富士事件以降、大相撲が大揺れである。TVのワイドショーやニュース番組でも、他に報道すべき大事なニュースはないのか、といいたくなるくらい毎日のように取り上げられている。場所がはじまるとにわか大相撲ファンになる私も、日馬富士が引き起こした暴行にせよ、後述する白鵬の場所中の態度にせよ、横綱としてあるまじき行為だと思ったし、何をしてくれたのだと怒りを感じたことは確かだ。せっかくの一年のしめくくりの九州場所なのに、観戦を心から楽しむことはできなかった。
 まだ全容も不明の段階で、しかも事態は流動的で、あらぬ方向へと動いていく可能性もある。何事かを発言する段階ではないと思うのだが、このところの報道ぶりを見ていて、やはりがまん出来なくなったので書くことにする。
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 もちろん非は事件を起こした側にある。しかし、私が感じている不快感の一方には事件をめぐっての報道のあり方がある。事件発覚後、「日馬富士は日頃から酒癖が悪かった」という暴露めいた報道がされた。はて、法政大学の大学院にもすすんだインテリ横綱として知られた日馬富士にも知られざる一面があったのか、と思っていたら、引退の記者会見で本人は「酒の上のことではない。酒癖が悪いといわれたことは一度もない」と述べた。どちらが本当なのか分からないが、「酒の上のことでなければその方が問題」というように論調が変わりこそすれ、その後本人の言葉を否定するような記事はなかった。どこから流れてきたか分からぬ風評やら憶測を選別しようともせず、いきおい任せに過熱をあおっているのではないかと勘ぐってしまうのである。
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 日馬富士の刑事上の処罰についてはこれからだが、横綱引退ということで社会的制裁は受けたといってよいだろう。日本国国籍を持たない日馬富士は(一部には国籍取得に動いていたとの報道もあったが)親方として大相撲に残ることは出来ない。それも自業自得、と切って捨てるにはさすがに気が引けたというわけではあるまいが、「17年間積み上げてきたものを一瞬で失った」本人への同情の声も上がり始めた。
 すると、矛先を失ったのか、今度は「本当に悪かったのは最初に説教をはじめた白鵬」として非難が白鵬に集中するようになった。「説教」云々は場所後に白鵬が危機管理員会の聴取に応じたころからの情報だから、本人が隠し立てをしていたということでもあるまい。だが、その報道があってから、中には「白鵬が目配せした」ことから暴行が始まったなどと、まことしやかに語る記事までがあらわれた。
 白鵬についていえば、自称元「勝手に応援団」の私としても、十三日目にみせたいわゆる「物言い」の態度は横綱の名を自ら汚すものであったとしかいいようがないし、優勝を決めた十四日目の遠藤戦で勝ちを急ぎすぎたのか、しばらく封印していたカチ上げを繰り出したのも褒められる相撲ではなかった。千秋楽の豪栄道戦こそ力相撲とはなったが、せっかくの40回目の優勝なのに大横綱になりそこなった、というのが実感だった。
 しかしながら、日馬富士の引退後、今度は「貴乃花VS協会VS白鵬」とでもいうべき構図がつくられていくのを目の当たりにすると、そもそもの問題の根源は何だったのかと問い直したくなる。長年スポーツ報道にたずさわってきた大隅潔にいたっては、各局のワイドショーやニュース番組に呼ばれては「相撲道」を体現した貴乃花VSモンゴルからの「出稼ぎ」組で「勝たなければ一銭にもならない」と豪語する白鵬と、「金の亡者」といわんばかりの発言を繰り返している。銅谷志朗あたりも似たようなものだ。(ついでに一言すると、貴乃花はかねてからモンゴル人力士たちに反感を持っていた、というようなことを力説されると、貴乃花がまるで根っからの国粋主義者であるように思われてきてしまう。)
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 場所中にモンゴル人力士が不適切なことをすると観衆から「モンゴルに帰れ!」という罵声が浴びせられることがあるという。やはり根底には「強すぎる」モンゴル人力士たちに対する鬱積した感情があるのではないだろうか? しまいには冬巡業の2日目だったか、朝稽古を終えてシャワーを浴びた後、控え室に戻ろうとした白鵬が背中にMONGOLIAN TEAMというプリントの入ったジャージを着ていたことまでが非難の対象になっている。やれ「モンゴル(力士の勢力)を誇示している」だとか、「宣戦布告」などと言い出す始末で、よくもまあ些末なことをおおげさに、とあきれるばかりだ。だが、本気で「力の誇示」だと考えているなら、それはそう考えた人間たちがモンゴル人力士たちを「脅威」に感じていることの裏返しの証明でしかないだろう。
 ガチンコ相撲などというが、全力でぶつかり合う相撲は命がけである。稀勢の里の負った怪我の大きさだけでもそれは知れる。なまじの鍛錬で土俵にあがれるものではない。素質に恵まれた者は他の道にすすんでも大成することだろう。それでも大相撲の道にすすもうという若者が日本にはいなくなってしまった(少なくなってしまった)ということではないのだろうか?
 「土俵には金が埋まっている」というのは先代の若乃花の言葉だという。「出稼ぎ組」などと揶揄した人間には「それで何が悪い」といいたいし、懸賞金制度などをどう考えるのか聞いてみたいものだ。そして、白鵬が本当に「出稼ぎ」に来ているだけで、大相撲の伝統などどうでもよいと考えているかどうかは、次世代の力士を育てるために彼自身が創設した白鵬杯をみるだけでもよい。最近、若手として台頭してきた阿武笑は白鵬杯の第1回の優勝力士だという。
 確かにモンゴル勢は大相撲の一大勢力になった。だが、それは今や大相撲はモンゴル人力士たちによって支えられているということではないのか? それがいやだというとき、モンゴル人力士たちを排除してしまおうということでいいのか? アメリカやヨーロッパ、南米出身の力士たちもいる中で、モンゴル人だけをシャットアウトできるのか? 本場所にしろ、巡業にしろ、彼らなしにやっていけるのか?
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 貴乃花については今いうことはない。我が道を行くというならそれもいいだろう。だが、「貴乃花VS白鵬」という作られた構図については、入門時から注目を集め、他の弟子たちと同様に扱われたといいながら、いわばエリートの道を歩んできた人物と、遠い異国から大相撲への憧れと成功への野心だけを頼りに這い上がってきたモンゴル人力士たちを引き比べて「品格」を云々することのみっともなさを知るべきだといいたい。
 先のジャージは昨年モンゴルで開催された世界相撲大会で作成されたもので、白鵬にもプレゼントされたものだそうだ。もしこの時期に白鵬が何らかの意図を持って着用したとしたら、祖国モンゴルの相撲ファンに対するささやかなサービスだろうと私なら考えるし、ときとして日本で孤立する自分たちのアイデンティティの確認の気持ちがあったかも知れないと考えないでもない。白鵬の背中に「増長」をみるのか、「孤独」をみるのか? そのどちらにせよ、そこへと追い込んだ者たちの責任という問題についても考えてみたい。

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by yassall | 2017-12-07 02:01 | 雑感 | Comments(0)