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ブリューゲル「バベルの塔」展

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 30日、「バベルの塔」展を見に東京都美術館まで出かけて来た。昨年、開催のアナウンスがあってからずっと楽しみにしていたのだが、開催期間もちょうど中頃、そろそろ見どきだと思ったのだ。
 近所の古書店で『ボッシュとブリューゲル』の画集を買ったのは高校時代のことだった。(最近ではボスBoschがボッシュと表記されることは滅多にないが書名なのでそのままにしておく。)二人を比較してみると、先行したボスの独創性がきわだっていた。「快楽の園」はどうしても一度は見てみたい絵の一枚だが、図版でみていても、のちのシュールレアリストたちが自分たちの始祖とした理由がうなずける。それくらい幻想と怪奇に満ち満ちた絵であり、一見快楽の肯定を描いているともとれるので宗教的異端として弾圧されることはなかったのかと考えたが、当時からそのようなことはなかったという。
 ボスと比較するとブリューゲルには社会性が感じられた。「快楽の園」の右翼は地獄の風景なのであろう。快楽に溺れた報いとして楽器の弦に身体を貫かれている罪人の姿が描かれている。しかし、残酷には違いないがどこかユーモラスである。
 ブリューゲルの「死の勝利」では荒涼とした大地のあちこちに戦火が立ちのぼり、押し寄せる軍勢こそ骸骨の姿(たぶん死神)をしているが、絞首台に吊されている者、今まさに剣で首を打ち落とされようとしている者、川に突き落とされようとしていたり、犬に食われようとしている死体など、来世としての地獄の出来事ではなく、現世で繰り広げられている惨事として描かれている。魔女裁判の本を読んでいるときだったか、西洋中世の刑罰に車輪の刑というのがあった。絞首台に並んで、さらし者にされた人間を乗せた車輪を高々と差し上げた長い杭が何本も立てられている。
 ブリューゲルの絵はもはや風刺や戒めの域ではなく、告発であるように思われた。(どの絵かは分からないが、野間宏の「暗い絵」の冒頭にブリューゲルの絵の描写が延々と繰り広げられる。野間は大阪空襲の悲惨さをブリューゲルに見いだしたのである。)
 ボスの死が1516年、その翌年の1517年からルターの宗教改革運動がはじまる。カール5世がネーデルランドの改革派を弾圧する最初の王令を出したのが1520年である。ブリューゲルの生没年は1526年頃から1569年である。宗教戦争が本格化するオランダ独立戦争が開始されたのが1568年であるから、「死の勝利」が宗教戦争を描いたのでないのは確かだが、カール5世・フェリペ2世と続いた低地諸邦支配と新教徒弾圧、激しい異端審問が背景になっているのは間違いないと思われる。
 さて、ブリューゲルは3枚の「バベルの塔」を描き、そのうちの1枚は現存せず、1563年に制作されたウィーン美術館所蔵のもの、1568年に制作されたとするボイマンス美術館所蔵のものがある。有名なのはウィーン美術館のもので、今回来日したロッテルダムの絵はサイズ的にも小ぶりで「焼き直し」とみられがちだそうだ。
 図版で見るとウィーン美術館の作品の方は左下に塔の建設を命じたとおぼしき王の姿が描かれ、建設もまだ進んでいない様子である。ボイマンス美術館の作品の方はかなり建設もすすみ、塔は雲の上まで顔を出しているが、まだまだ新しい階が積み上げられようとしている。目を凝らして見ていると、「マクロとミクロの融合」という点で(ウィーン美術館版は実物は見ていないが)少しも引けをとるようには思えなかった。むしろ、王を描き入れることを省いたことで、聖書上の挿話という位置づけを離れ、「バベルの塔」そのものを画題にしているように思われた。
 中野孝次は『ブリューゲルへの旅』で、この絵が人間の傲慢に対する「戒め」を超えて、「崩壊する科学技術文明の予言のような不吉」さを表現しているとしている。分かるような気もするが、私の感想は少し違う。
 絵の右側には港が描かれ、無数の船舶が行き来している。それらの船の多くは商船であろう。絵の左側には田園地帯が描かれ、街や田畑が描かれている。すると、この絵には農・工・商のすべての人間の姿が描かれていることになる。
 私たちは聖書に著された「バベルの塔」の結末を知っている。確かに、次の瞬間にやってくるのは破滅かも知れない。それは人間には知り得ない。それでも少しでも高みをめざして創造の手を休めようとしない人間の有り様こそがこの絵の主題ではないのか? 実際、塔の崩壊後、散り散りバラバラになった人間たちはその後もその営みの手を休めることはなかったのだから。エラスムスやモアを愛読していたという人文主義者ブリューゲルの姿をそこに見たいように思うのだ。
  ※
 ボスの絵も2点来ていたし、版画作品も充実していた。「バベルの塔」以外の作品も見ごたえがあった。満足した。
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 展覧会の企画の中で大友克洋の「INSIDE BABEL」も評判になっていた。出口を出てしまってから、「あれ、どこにあったののだろう?」と慌てたが、企画展入口隣りのホワイエに展示されていた。撮影フリーのようだったのでカメラにおさめたが、ガラスに反射してうっすらと自分の姿が映り込んでしまった。

 ブリューゲル「バベルの塔」展  東京都美術館 ~7/2
 


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by yassall | 2017-05-31 17:03 | 日誌 | Comments(2)

つい一言 2017.5

 その昔、末川博の『法学入門』を読んでいて、法の持つ「二面性」という説明があったのが記憶に残っている。
 「法治主義」というように、法律が国家を統治する(=国民を支配する)ための道具であることは確かだが、それと同時に法律に定められた範囲を超えて権力を濫用してはならないとする規定でもあるというのだ。「法の下の支配」というのは国家の支配原理であるとともに、国民を保護するものでもある、法律を学ぶ意義もそこにある、というような論旨だったと思う。
 まるで大学の教養課程にあったようなことをなぜことさらにするのか? それは「共謀罪」が衆院を通過し、まさに参院での審議がはじまろうとしているからだ。
 自民党の石破氏がテレビのインタビューに答え、「どのような法律も運用によって善くも悪くも働く」「法律を運用するのは政治家である。その政治家を選ぶのは主権者たる国民である。国民を害するような法律の運用をする政治家は選挙で落選させればよいのである。」というようなことを述べていた。
 国会で野党に追及されるとたちまち逆上気味になる安倍氏と比較すると、いかにも理性的で理論的にみえる石破氏らしくはある。
 しかし、聞いていてずいぶん危険な思想だと私は感じた。政権についた者は(政権の安定のために)これを維持しようとつとめるだろうし、そのためには法律を有利に働くように運用しようとするのは当然のことだ。もっともらしくはあるが、最終的な責任はあなたたちにあるのですよ、と焦点のところは巧みに隠蔽される。だからこそ法律は運用者によってどうとでも運用されるような曖昧さを極力排除する必要があるのだ。
 その点、「共謀罪」ほど為政者に対してフリーハンドに権力を与えてしまう法律はない。内心の自由をおびやかす、密告を奨励する、監視社会になる、冤罪の温床になる、それだけで国民を萎縮させるなど、問題点はさまざまに指摘されているが、権力の恣意的な行使の範囲をいっきょに拡大してしまうことが最大の問題点だと私は考えている。
 政府は「計画」だけでは罪にならない、具体的な「準備行為」がなければならないという。だが、例としてあげられたのは「資金を得るために銀行から預金を引き出した」というようなことである。ATMから預金をおろしている人は日々何万何千人といることだろう。調査機関が眼をつければ、そのうちの特定の誰かを恣意的に、フリーハンドに捕らえることが可能になってしまうのである。
 私はこれらがまったくの杞憂であるとは思わない。戦前の治安維持法下、基地のそばで写生をしていた(今だったらカメラを持っていた)、児童に綴り方を書かせた、というだけで捕らえられ、拷問を受け、少なからぬ人々が死に至らしめられたのはつい70年前のことなのだ。(5月29日)

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by yassall | 2017-05-29 20:40 | つい一言 | Comments(0)

旧古河庭園ライトアップ

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 20日、旧古河庭園へ出かけて来た。春のバラの季節、開館時間を延長し、ライトアップを行っているのを知った。
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 以前から恒例になっていて私が知らなかっただけなのか、つい最近になってはじまったのかは分からないが、もともと今年もバラを撮りに行こうと思っていたし、時間帯によってどのように変化していくか、比べて見るのも面白いと思ったのだ。
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 昼光のショットである。光によって花びらが透けてしまいそうだ。
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 陰影が強調される。光を受けたところは輝くようである。ただ、コントラストがきつすぎる嫌いは確かにある。
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 館内の喫茶室で休憩をとっているうちに夕暮れ時になる。外へ出て撮影を再開。今度は光が回ってやわらかい絵になる。
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 その分、ピントが甘くなる印象があるが、形状よりも色彩に重きをおくなら、花の撮り方としてはそれもありだろう。
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 19:00も過ぎたころ、いよいよライトアップ効果が出て来て雰囲気も高まってくる。
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 傾斜地を活用したバラ園を見おろしたところ。ふむ、どこがどうなっているんだか分からない。
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 花壇に小さなライトを何灯もしかけて一輪もしくは数輪を照らし出している。
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 暗闇の中に花影が浮かびあがるというような趣向であった。

 GM5+12-60mm



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by yassall | 2017-05-23 00:31 | 散歩 | Comments(2)

今年もはじまります! コピスみよし第16回高校演劇フェスティバル

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 5月16日、コピスみよし2017/第16回高校演劇フェスティバルの出演校打ち合わせ会・会場下見が実施されました。今年もスタートしました。
 今年の出演校は県立坂戸高校、朝霞高校、新座柳瀬高校、朝霞西高校、星野高校、東京農大第三高校(出演順)の6校です。本番の6月18日(日)まで今日のワクワク感を持ち続け、観客の皆様に届けて欲しいと思っています。
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 出演校紹介、全体説明のあとはいつものように各校毎の会館スタッフの方々による説明と質疑。コピスのスタッフの皆さんはとてもていねいにアドバイスしてくれます。
 演目や細かな日程、バスの時刻表などは下記のチラシをご覧下さい。大勢の方々のご来場を心待ちにしています。
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by yassall | 2017-05-17 20:22 | お知らせ | Comments(0)

共謀罪法案廃案へ!5.12議員会館前集会

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 5月3日の憲法集会には出られなかった。「共謀罪」が風雲急を告げる中、歯がゆい思いでいたのだが、12日には時間が取れそうだったので総がかり行動実行委員会のHPを閲覧すると、あたかも国会連続行動の最中で、この日も昼から行動が計画されていた。したがって私は途中参加ということになるが、18:30からの議員会館前集会に参加してきた。
 それにしても国会審議をチェックしていると、答弁不能で無能な人物をわざと法務大臣にすえたのではないかと思えるくらい、審議が深められる様子はない。たぶん、「一般人は対象にならない」(ただし、突然の変化によって対象となる)という検証されない答弁で押し切り、30時間で討論打ち切り、維新の会の修正で合意できたので採決強行というねらいではないだろうか?
 つい最近、首相は「九条改悪」を公然と目標にかかげた。1、2項は変えず、3項に「自衛隊」を明記する、という、これまで「国防軍」を創設するとしていた自民党草案とも整合性のない、思いつきのような発言だった。しかし、国会でろくな審議もせずに「共謀罪」を強行採決しても、「九条改悪」を唱えても、国民はたいして騒ぎ立てることもないだろうとはずいぶんと甘くみられたものだ。
 「共謀罪」は戦前の治安維持法の復活と危ぶまれている。その先に「九条改悪」が待っているとすれば、戦前回帰というのも杞憂ではない。来週がもっとも危険であるとの情勢説明があった。下は集会で配られた行動予定表である。まだ身動きできるうちに反対の声をあげていきたい。
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by yassall | 2017-05-12 21:34 | 日誌 | Comments(0)

小石川植物園

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 天気がよいのでどこかへ出かけたいと思っていると、今年はまだ神田明神詣でをしていないことに気がついた。毎年4月を初詣と決めているのだが、今年はあれこれあってのびのびになっていたのだ。まだ行ったことがないところへとも思ったが、行きそびれてはと出かけることにした。せっかくなので茗荷谷で途中下車し、善仁寺を回って、小石川植物園(東大附属植物園)に寄ることにした。
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 正門をくぐってすぐ左に曲がる。低地帯には池があったり、水たまりがあったりする。水辺の植物が植えられている。
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 まっすぐ進んで行き止まりに見えてくるのが旧東京医学校本館。映画「外科室」のロケに使われた。小石川植物園にくるたび写真を撮る。プリントして過去の写真と比較してみようと思う。
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 階段を昇って高台側へ出ると樹林帯になっている。
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  季節がら緑が美しい。
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 2014年の埼玉県高校演劇中央発表会で創作脚本賞を受賞した川越高校の「いてふノ精蟲」の題材となったイチョウである。阿部哲也さんもこのイチョウを見に来たのだろうか? 案内板には「1896(明治29)年平瀬作次郎はこの雌の木から採集した若い種子において精子を発見した。」として、その偉業を讃えている。
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 根元から樹上を見上げたところ。
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 全景はこんなふうである。
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 柴田記念館。この建物の扉が絵になりそうなので何回か挑戦しているが、あまり成功したことがない。この日はパスした。
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 神田明神に回る。連休中だからか、神田祭が近いからか、山車や御輿が開帳されていた。
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 江戸総鎮守であること、平将門を祀っていることから神田明神に足を運んでいる。参拝をすませ、裏手に回ってお札を納めた後、末社にならんで開帳されていた御輿を見せてもらった。
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 この日はお茶の水からさらに半蔵門へ出るつもりでいたのだが、時刻も遅くなってしまった。駿河台へ出てニコライ堂だけ写真に撮った。駅前の丸善によって帰路についた。

 GM5+SIGMA19mm、TX1



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by yassall | 2017-05-06 15:32 | 散歩 | Comments(2)

ミュシャ展  普遍的なものと「ナショナルなもの」と

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 ミュシャ(ムハ)の「スラヴ叙事詩」を見た。ミュシャがその後半生を捧げながら、歴史の激動の中で一度は埋もれてしまいそうになったこの絵を、日本にいながらにして見られるというのは本当にすごいことだ。
 連作「スラヴ叙事詩」は1918年のチェコスロバキアの独立以前からプラハで描き始められている。だが、ハプスブルグによるハンガリー・オーストリア帝国の衰退の中で、チェコの独立運動の高まりがなければこの絵は生まれなかっただろう。
 絵の前に立ちながら、私はずっと「ナショナルなもの」について考えていた。というより、「ナショナルなもの」を考えようとして絵を見に行った、といってよい。
 ナショナリズムについては、柄谷行人の「ネーションとは失われた共同体の想像的回復である」(『世界共和国へ』)を唯一の拠り所にしてよいと今のところ考えている。実際、人種・言語・文化・宗教といった標識では民族としての統一性あるいは個別性を証明することは出来ない。現在、フランス語、日本語と呼ばれているものは国民国家の形成の過程で作られた(せいぜい統合された)しろものなのである。
 もし民族としての一体性の拠り所となるものが存在するとすれば、それは物語に他ならないだろう。物語の共有は歴史の共有であり、運命を同じくする、永続性の証明である。ミュシャが「スラヴ叙事詩」の制作を自らの使命としたことは当然の帰結だった。民族としての一体性や尊厳の表象としようとしたのである。
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 意識してクラッシックを聴いていた時期があった。マーラーなんかは名前から入った方で、「4番」と「大地の歌」あたりは何とかついて行けるが、他は難解すぎて理解できたとはいえない。モーツアルトよりはベートーベンの方だから、純粋に音楽にひかれるというより、どこか文学を求めていたのかも知れない。
 あれこれ聴いているうちに、いわゆる国民楽派と呼ばれる人々の音楽に強くひかれていることに気がついた。ロシアのムソルグスキーやリムスキー・コルサコフ、フィンランドのシベリウス、そしてチェコのスメタナ、ドボルザークといった人々の音楽である。
 音楽に詳しい人と話をすると、これらの人々の音楽は西洋音楽の正統からすると外れているところがあるのだそうだ。展開上、次にはこの音が出てくるはずだ、というところで違っているのだそうである。
 図式的になってしまうが、ヘレニズムとヘブライズムを二本の柱とする西洋文明は、合理・均整・秩序を重んじ、明晰であること、完成されていることを求め、普遍に向かおうとする。だが、私たちが知る一般論としての狭義の西洋文明に対して、広くヨーロッパを見渡したとき、それとは全く異なる一面を見るときがある。
 ゴシックは北ヨーロッパの教会建築からはじまったという。その後、ヨーロッパ中に広まったから、私たちは西洋建築の一典型としてみる。しかし、最初は「ゴート人の」という侮蔑的な言い方であったという通り、ローマ様式からみると際立って異質なのだという。装飾が過剰で、必ずしも左右対称でなく、歪であって平然としているというのである。
 音楽の話にもどると、国民楽派はロマン主義の影響からはじまる。ロマン主義は普遍よりは個性を重んじる。個性は個人から民族へと展開する。個人に個性を付与するもの、根拠となるもの(identity)がなければならないからだ。乱暴に言ってしまえば、ナショナリズムの根源にはロマン主義があり、もともと熱狂、混沌、昇華、蕩尽といった性格を帯びるのだ。
 国民楽派はロマン主義と土着が結びついたところから起こった。スメタナは「我が祖国」を遺し、ドボルザークは「スラヴ舞曲」が認められたことから作曲家として世に出た。

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 ヤン・フスは宗教改革の先駆者とされる。昔、学校の世界史で習った宗教改革はルターにはじまるとされたが、中東欧ではフスの方がはるかに重要な人物である。西洋史のおさらいをしなければならないときにしばしば登場する。フスはチェコ語で説教を行った。フスが異端と宣告され火刑に処せられたことから、20年にわたるフス戦争が始まった。フスの再評価は19世紀の民族復興運動の大きな原動力となった。「ベツレヘム礼拝堂で説教するヤン・フス師」でミュシャは自らモデルをつとめたという。写真は「イヴァンチッツェでの兄弟団学校」の右側画面。小屋の中では初めてチェコ語に飜訳された聖書が印刷されている。

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 連作をみていて気がつくのは前景に必ず名もなき民衆の姿が描かれていることだ。何点かの重要な戦いを描いた絵でも、戦闘場面は避けられ、戦争が終結した後の情景が多い。したがって、戦う勇士たちという姿はなく、将軍や指導者たちは中景もしくは遠景に小さく描かれ、むしろ犠牲者や難民となった民衆たちがていねいに描き込まれている。

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 写真は「スラヴの菩提樹の下でおこなわれる「オムラディナ」の誓い」の左前景に描かれた少女である。ミュシャの娘がモデルだという。
 アール・デコはアール・ヌーヴォーの過剰な装飾性に対する反動から起こったという。アール・ヌーヴォーの旗手であったパリ時代と「スラブ叙事詩」との断絶がいわれるが、その間をつなぐものがあったことを思わせる。植物文様による装飾は共通していると思われる。ただ、人物の表情はまったく異なる。パリ時代の洗練、気取り、甘美さといったものは影をひそめ、代わって、その眼は鋭いばかりに生命的な力を宿している。

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 「ロシアの農奴制廃止」の前景に描かれた母子。連作に描かれているのは必ずしもチェコとは限らず、ポーランドやハンガリーを舞台にした作品もある。汎スラヴ主義ということなのかも知れないが、ミュシャの場合、たとえば汎ゲルマン主義との対抗といった軸で民族的な一体性を確保しようというのとは違うようだ。
   ※
 「ナショナルなもの」は確かに自分の中にも存在する。一方でボヘミアン的な無国籍性や放縦なまでの自由にも憧れがある。私の場合、それくらいいいかげんなものだが、、たとえばパリに渡った藤田嗣治は帰日した太平洋戦争の最中には盛んに戦争画を描いた。柄谷行人はネーションは人々を「永遠」なるものに導くという。民族が永遠であるためには個人の命までも差しだそうという狂信がナショナリズムには潜んでいる。
 だが、自由や平等といった人類にとっての普遍的価値といったものも、私は捨てがたく思うのである。今日であれば平和、公開、参加、共存、自然保護といった価値も人類的に共有されなければならないと思う。
 国際連合の英語表記はUnited Nationsであり、第二次世界大戦中の連合軍も同じUnited Nationsである。ここからも国連の元になったのは連合軍であることは明らかで、国連は戦勝国による新たな世界秩序の維持を目的としているに過ぎないのだ、という見方をする人々もいる。「東京裁判」批判といったものもそこから出ているのだろう。
 しかしながら、各国を連合軍に結集させる元となった「英米共同宣言」(大西洋憲章)は、①領土不拡大、②民族自決、③政府形態の選択のための人民の権利、④恐怖と欠乏からの自由の必要性などを謳い、ヴェルサイユ平和条約を引き継ぐ内容だった。このような戦後構想を示すことによって国際世論を統合し、連合軍は結成された。戦争終結後に国連が創設されたのはその連続として当然だったのである。
 普遍的な価値としての人類的なものとナショナルなものとは、ついに相対立するしかないのだろうか? あるいは、あたかもジギルとハイドのように、人類はその歴史の中でその二つを交互に出現させるように定められているのであろうか?
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 「スラヴ叙事詩」の最終章は「スラヴ讃歌」である。画面中央右に描かれている国旗は第一次世界大戦の戦勝国の旗だという。民族の独立は戦争を避けては得られなかった。だが、ミュシャは戦争を描いても英雄たちの物語としては描かなかった。流された血を讃えるという描き方はしなかった。
 「スラヴ讃歌」においても、人々は解放の喜びを全身で表現していると同時に、長い戦乱の末の和解を讃えているように見える。少なくとも自民族さえ幸福であればそれでよい、という排外思想とは無縁であるように思われる。先の問いに対する答がここにあると思った。
(1993年のチェコ共和国とスロバキア共和国の分離はビロード離婚と呼ばれ平和的に成立した。民族の自立と共存・共栄の両立への模索があったのではないだろうか。)


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by yassall | 2017-05-04 18:37 | 日誌 | Comments(1)

2017年春季西部A地区演劇発表会

 4月29・30日、2017年春季西部A地区発表会が朝霞コミュニティセンターで開催された。1日目が9:30開場で和光国際、新座総合技術、朝霞高校の3校、2日目が9:20開場で朝霞西、細田学園、新座、新座柳瀬高校の4校が上演した。
 2日間で7校上演ならずいぶん余裕があるな、と一瞬感じたが、各校の生徒・顧問は両日とも朝8:30には集合ということになっていただろうし、学校によってはもっと早い時間に学校集合がかかっていたところもあるだろう。現役時代、私の学校でも「朝通し」が慣例になっていて6:30だったかに集合していた時代もあった。(その後はメイクだけになって、少し集合時間が遅くなった。)
 そういうわけだから、見に行くだけの立場の人間は気楽なものである。1本の芝居を上演にまでこぎつける稽古の日々と(たぶん一直線に進められたわけではないだろう)、2日間の運営にあたるご苦労とに対するリスペクトを忘れないように心がけながら観劇した。まあ、そのためには楽しんで観させてもらうのが一番だと思いながら。

 和光国際高校「さいまじょ・メランコリア」萩原康節・作
 キャストリストをみると3年生はほぼ総出演。春の発表会は3年生の総決算公演でもあるのだ。卒業をひかえ、「三送会」で自分たちなりのメッセージを送ろうと、共鳴した後輩たちとともにダンスを踊る卒業生たち。ストーリーの展開がなんとも強引だなあ、と感じたが、どうやらアイドル・グループ欅坂46の「サイレント・マジョリティ」という曲を振り付けつきで踊りたい、というところから出発したらしい。私のような年齢の者には、どこかで聞いたことがあるかも知れないなあ、という程度の認知度であったのでネットで調べてみた。この歌詞が現代の若者たちの心をとらえているのだとしたら興味深いことだと思った。
 分かりやすくするためか、人物造形が類型に傾いているのが気になった。理事長がその典型だが、その口から吉本隆明の名が飛び出したのには驚かされた。吉本隆明をリュウメイと呼称するのはある特定の年代の人間まで、という思い込みがあるのだが、この理事長に吉本隆明を読み込んだ時期があり、その自分の思想を破棄するに到った過程があったのだとしたら、そこのところが深められていたら面白いのにと思った。まあ、そういう芝居ではないということなのだろう。

 新座総合技術高校「海がはじまる」曾我部マコト・作
 いつもは創作劇で独特の舞台空間を作ろうとしてきた新座総合が、今回は既成台本で臨んできた。少し前から、きちんと客席に届けようという意志とその力を感じるようになってきたが、今回の公演で1段も2段もステップアップを果たしたと思った。
 脚本がよかった。あとから顧問の先生に伺ったら、サツキを演じた生徒の提案だという。昨年あたりから舞台映えもよく、身体もよく動き、声も出る生徒だな、と注目してきた。彼女なりに芝居もよく見、本もよく読んだのではないだろうか?
 ボートレース大会の接待係に割り振られ、開会を待つというところからはじまるのだが、しだいに何が真実で何か嘘であるか分からない会話を通して、それぞれの抱える事情と人間関係が明らかにされる。かなり難しい芝居だと思うが、他のキャストもみごとにはまって、よく演じきった。余分な身振り手振りが多かったのが気になったといえば気になったが、思い入れたっぷりになりすぎて芝居を壊してしまうなどということもなく、脚本の心を摑んでいた。


 朝霞高校「酔・待・草」竹内銃一郎・作
 現役時代、やってみたいと思いながら果たせなかった作品。かなり苦心している様子がもれ伝わってきたが、よくぞ板に乗せてくれたというのが実感である。
 キャストに3年生は1人しかおらず、他の5人はみな2年生である。2年生はこの芝居づくりを通して演技を学んできたということになるのだろう。まだまだ勘違いしているところもあるかも知れないが、以前を知っている身としてはずいぶん役者らしくなってきたなと思う。
 ただ、私が原作を読んだのはずいぶん前だったから、細部は忘れてしまっていた。原作では田舎道にぽつんと電話ボックスがあるという設定になっているのに、携帯電話にしてしまったのは誤りだという指摘があった。確かに携帯電話だと時代設定に矛盾してくる箇所があるのは間違いない。
 ただ、電話ボックスを置くとしたらリアルさがなければ漫画になってしまうだろうし、作成するにしても、どこからか入手する(当たってみる価値はあるかも知れないが)にしても、相当に困難だろう。また、2017年にこの芝居をやるというとき、携帯電話に置き換えることによって生まれる効果というのもあるのではないかとも考えるのである。
 電話機を通して誰かと繋がっている可能性、あるいは誰とも繋がってはいない可能性、そして繋がるといったとき、空間ばかりか時間的な距離さえ超えてしまう可能性といったような。何しろ携帯電話は個体として切断され、電線ですら繋がっていないのだから。
 というわけで、私としては携帯電話に置き換えることで原作に対するリスペクトを欠いているとまでは思えないし、ましてや電話ボックスが手に入らなければこの台本をやるべきではないというのとは違うと思うのだ。
 ただ、カスミが立ち上がったとき受話器を手にしていた方がいいとは思うし、「証人」云々のところの処理が必要になるだろうが、マングースはバスケットの中の架空の存在のままの方がいいとは思った。ヒゲはメイクで作るか、ヒゲにまつわるセリフを変えてしまうか、ともかく今のままでいいとは思えないし、手直しが必要なところはまだまだある。
 もっとも大事なところは、まだまだ「受け」の演技が弱く、自分のセリフの順番を待ってしまっているところだろう。一人一人のセリフを早口にすればスピード感が生まれるというのではない。相手のセリフに反応し、そこから自分のセリフが繰り出されていくという緊張感からしかテンポは作れない。ますます磨きをかけてもらいたい。

 朝霞西高校「ある日、ぼくらは夢の中で出会う」高橋いさを・作
 台本については「2016秋の高校演劇Cブロックを振り返って②」で書いた。通常は新人刑事カトウに焦点を合わせて芝居づくりがされる。カトウからみたベテラン達の胡散臭さに対する失望や怒りが底流に流れている、と私は解釈してきた。
 ところが今回の朝霞西の芝居ではカトウによって否定されるベテラン達の方に重点が置かれているように感じたのだ。カトウを演じたのはただ1人の3年生だから演技的に弱かったということではないと思う。そのような作り方をしたのかも知れない。それとも胡散臭いはずの、それでいて自信たっぷりのベテランたちの言い分に、どこか納得してしまう程度にまで私自身が「怒り」を忘れてしまったということだろうか?
 建て込んだ白いパネルは上辺がきれいに揃ってよい出来栄えだったが、大黒にしてラストシーンでは少しスモークを焚いて青いサスライトを何本か落とすというようなことでもよかったのではないかと思った。また、カトウは女子だったが無理に男役にせず、その世界にあこがれて飛び込んで来た女性刑事というような設定でもよかったのではないかと思った。まあ、対立軸が変わってしまうかも知れないし、無責任な言い分だが。

 細田学園高校「七人の部長」越智優・作
 私の記憶違いかも知れないが、原作では他の部長達が皆揃っているところに演劇部の部長だけが遅刻して入ってくる、という始まりではなかっただろうか? そのことには直接触れなかったが、後から顧問の先生のお話を伺ってみると、部長達の並び方からして過去の公演の体裁を変えて見たかったということだった。
 若い顧問の先生が赴任されたことから細田演劇部が復活した。あれこれ方向性を探っている最中であるということだと思う。ここ数年の公演をたどってみると、手探りのようにしてすすめていることが分かる。それはそれで、きっと将来に結実していくに違いない。
 そんな中、今回の公演は細田として1段階ステップアップを果たしたと思った。それぞれの部活動の部長がそれらしくはまっていたし、全体としてちぐはぐになってしまうことなく、舞台上に同じ時間が流れていた。
 肝心の生徒会長と演劇部部長が少し弱かったと感じたが、顧問の先生もそこのところは承知していて、生徒会長の心の変化が描き切れなかったことを反省なさっていた。逆にいえば、もう一歩のところまで来ているという手応えを摑んでいるのではないだろうか?

 新座高校「夏芙蓉」越智優・作
 私の知る限り、新座高校として3回目の「夏芙蓉」である。自分たちの学校の十八番にしていこうというのは方向性のひとつとしてあり得ると思うし、観る側としてもそのときどきの生徒たちによってどのように演じ分けられていくか、過去とも比較して見ていくのは楽しみでもある。
 結論からいうと、過去3回の中では一番の出来栄えではないだろうか? これまでが不満足だったというのではなく、今回は何か演者たちに風格のようなものが感じられたのだ。
 皆自信を持って自分の役を演じているから、きちんと同じ時間が流れている。ただ、芝居はその時間の流れが急変する箇所がある。クライマックスへの導き方、作り方に磨きをかければさらによくなると思った。

 新座柳瀬高校「Article30」稲葉智己・作
 1948年の「世界人権宣言」の採択いたるまでの国連人権委員会での討論を描いた作品。各国代表を集めたという設定による密室劇であり、セリフの応酬だけで成り立つという作劇になっている。ほとんどが条文をめぐって、その内容や順序、文言の選択に費やされるのだが、最後まで緊迫感が失われることなく、進行していくにしたがって人間ドラマとしての風格までおびてきた。
 国民主権や基本的人権に対する攻撃はつねに繰り返されている。日本国憲法下にある日本でさえ、「優勝劣敗」やら「適者生存」説をかざして、それらを「建前」だけのことにしようとする勢力が存在している。(念のために言っておけば、ある特定の基準を設ければ「優劣」があるのは確かだが、すべての生物はいつかは衰え、滅びていくという厳然たる事実を前にすれば、絶対的に「優」なるものは存在せず、「劣」なるものが滅びる運命にあるのだとすれば、それらはすでに存在していないはずなのである。)その思想は結果的にニヒリズムに陥るしかなく、ニヒリズムからはいかなる未来も開けてはいかないのである。
 ときどき、こういうテーマ性のあるものが書きたくなるのです、と作者はいう。その言い方だと偶然にということになるが、私にはまことに時代をとらえた作品であると思われた。なぜなら、現代ほど人類の「普遍的価値」がないがしろにされようとし、「力」の論理がまかり通ろうとしている時代はないと感じるからである。経済的グローバリズムも「力」の論理なら、反グローバリズムをかかげる国家主義も「力」の論理である。
 「人権」思想は一朝一夕にして出来上がったものではない。ドラマでもそのことが強調されている。先に人間ドラマたり得ていると書いたのは、最後に議長のエレノア・ルーズベルトとサウジアラビア代表の会話を持って来たところにも現れている。「結婚の自由」「宗教変更の自由」をめぐってサウジアラビアは棄権するのだが、ドラマでは互いの討論をリスペクトしあうというところで終わる。未来への希望はそこにしか存在しないのである。

 簡略ながら、以上が感想である。最初に書いた通り、感想を書くことで上演にいたるまでの各校への敬意をあらわしたいと考えた。今回は小姑がましいことは書くまいというつもりでいたが、やはり書いてしまったかも知れない。ご容赦願いたい。


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by yassall | 2017-05-01 20:22 | 高校演劇 | Comments(2)