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紅葉2016③六義園

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 29日、晴天。そうだ、六義園へ行ってみようと思い立ち、出かけて来た。かかりつけの歯医者のほど近くの駅から三田線に乗ると15分ほどで千石へ出られる。さっさと行って、さっさと帰って来られるのだ。
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 だが、写真の方は少々残念な結果に終わってしまった。まず色つきが悪かった。都心の紅葉は期待できない、というのは以前にも実感したところなのだが、パソコンで彩度を調整してもこの程度である。
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 それでも滝見茶屋あたりはきれいだったので何枚も撮ったが、何だか写真が冴えない。肝心の紅葉がモヤモヤしているのである。
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 機材は森林公園と同じTX1を携行した。春に入手したものの、あまり持ち出す機会がなく、あれこれ設定を調整している途中なのである。森林公園でシャープネスとコントラストを高くし過ぎたように感じたのでそのあたりを再調整した。その試写を兼ねていたのである。
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 だが、写真が不出来なのはシャープネスとコントラストを落としたためだけではなかったのかも知れない。晴天下の日陰という条件での露出の不適正なのか、AF方式の特性なのか、その場でいろいろ設定を変えて試してみればよかったのだが、カメラのモニターで見ている限りはどのショットもヒットしているように見えてしまったのだ。
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 こういう順光条件での全景写真ですら細密感に乏しく感じられる。被写界深度は十分なはずなのに不思議である。
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 まあ、このショットなどは手前のススキにピントを合わせた訳だから後景のボケはむしろねらい通りなのだが。(写真としては前ボケにした方がよかったのではと反省している。)
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 このようなロケーションでベターな結果を出して行くにはどうしたらよいのだろうか?

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by yassall | 2016-11-30 13:36 | 散歩 | Comments(1)

紅葉2016②森林公園

 最初は24日に予定を立てていたのだが、どの天気予報をみても当日は雪。何と首都圏での11月の初雪は54年ぶりなのだそうだ。東松山在住のKさんの情報では、紅葉は今年はもう遅い、ということだったのが、雪景色とのとりあわせもよかろうということで、1日順延で出かけて来た。
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 13:12発のバスで西口から入る。この日は朝から晴天で都心では雪は溶けてしまっていたが、公園内は予想通りこんな具合である。
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 雪の重みですっかり葉が落ちてしまっている。
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 枝振りも色づきもよくないから遠景から透過光(逆光)をねらってみる。
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 カエデ園に入っても事情はあまり変わらない。前日は中止したというライトアップになぜかこの時間から明かりが灯っているのがかえってわびしい。
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 少し補正しすぎ。
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 長く伸びた影が主役と言い張ってみるか?
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 早々にカエデ園をあきらめ、森林公園散策に移る。
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 Kさんの案内で歩くと、こんな小道を歩いたり、
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 こんなところを登ったりすることになる。
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 するとこんな風景に出会ったりする。
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 運動広場に出て陽当たりのよい場所を探し、いつものように酒やつまみを広げる。Nさんは自家栽培だという落花生を持ち寄ってくれた。この時期、閉園は16:30。森林公園駅にもどってからは常連となったお店に直行するが、今回は早めに切り上げた。うむ、皆いい歳になったのだから当然か…。

 TX1

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by yassall | 2016-11-26 13:03 | 散歩 | Comments(0)

Tさんからのメール  県中央発表会に関連して

 今年の地区発表会で一緒に審査員に当たったTさんからメールをいただきました。ご本人の許可を得て掲載させていただきます。

 ブログ、読ませていただきました。
 Sさんが指摘されていた6項目、私も同じように考えます。
 コピーの批判はおかしいですよ。
 劇を観て感動し自分達もこのような劇を創りたい、同じような感動を与える芝居にしたいと思い、かなりのレベルまでやり遂げた芝居だったと感じています。
 県大会は残念ながら観られませんでしたが、地区大会では私たち観客にメッセージがきちんと伝わってきました。

 その土地の者しか演じ切れないみたいな感じかたも随分おかしなはなしですね。

 また、機会がありましたらご一緒できたら嬉しいです。  T

 審査は二人で行ったもので、私ばかりが先走ってもいけないと思い、ブログに投稿したことをお知らせしたことによるものです。私からは次のような返信を差し上げました。

 感想ありがとうございます。
 同感とのご意見をいただいて心強いばかりです。
 本文でも書きましたが、他人の読書感想文を丸写しにするのとは訳が違います。
 丸写しは頭も使いませんし、場合によっては本を読まなくてもいいのです。
 演劇の場合は、それが優れた作品であればなおさらのこと、たとえそっくり真似しようとしても簡単なことではないはずです。

 実は、意見を言いに来た人が指摘したようなことは、私たちも考えなかったことではありませんでした。(でなければ、前稿のような見解をすぐさま表明することはできません。)様々な問題に配慮を怠らないようにし、熟議を重ね、真摯に審査に当たったことは強調しておきたいし、信じてもらいたいと思っています。
 少し冷静になって考えてみると、意見を言いに来た人も単純にオリジナル性を問題にしたということではないのかも知れないと思い直しています。
 話題になった学校として独自の表現の追究がなかった訳ではないことは前稿でもふれましたが、問題はむしろ直近の全国大会で高評価を受けた作品を、数年を置かずして他の県・学校で手がけることの是非でしょう。たぶん、10年も前の作品であれば、「そのまま」であったらともかく、「似ている」から審査から除外すべきだと主張する人はいないでしょう。
 ただ、この芝居に関しては10年後にどこかが再演するのでは遅い、青森から発せられたこのメッセージにいち早く反応し、埼玉の地から答えたことにこそ価値があったのだと思うのです。原発も処分場も持たない県で、問題を共有化し、「我がこと」としてとらえる契機となったことに意義があったと思うのです。
 それでも私たちは慎重でした。「2016秋の高校演劇 Cブロックを振り返って①」でも書きましたが、プロパガンダであるよりも、あくまで「演劇として魅力あるものとして舞台化」されたかを基準に審査しました。
 私個人としては県中央発表会での到達点であれば関東大会に推薦されても少しもおかしくはなかったと思っています。真相は分かりませんが、もしかすると審査員の方々に先ほどと同じような理由から関東大会・全国大会へ進めていいのだろうか、というような迷いがあったのではないか、とも考えないではありません。それは審査員の責任と判断ですからそれでいいのです。
 ただ、地区発表会の審査員を務めた身としては、あれだけの心意気と到達度を持った芝居を地区発表会の段階で落選させることは到底できない、少なくとも「似ている・かも知れない」(他にもそんな上演はいくらでもあるかも知れないのに)などという曖昧な理由で審査から除外することは適当でない、と判断したということなのです。
 重ねてのことになりますが、県中央発表会で上演され、観客の惜しみない拍手に接したとき、私たちの判断が間違ってはいなかったと確信しました。私はそのような埼玉県中央発表会であり続けて欲しいと思っています。

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by yassall | 2016-11-24 13:03 | 日誌 | Comments(0)

2016年埼玉高校演劇中央発表会

※初稿から書き加えがあります。(11月23日)当該校の許可を得て画像を追加しました。(同日)後半部を編集し直しました。(11月28日)


 11月19・20日、埼玉県高等学校演劇中央発表会が開催された。各ブロックから選出された10校が2日間に分かれてしのぎを削った。最後に以下のような審査結果が発表された。


 最優秀賞    秩父農工科学高校
 優秀賞一席  新座柳瀬高校    (以上は関東大会に推薦)
 優秀賞二席  松伏高校
 創作脚本賞  「M・H・P」飯能高校演劇部


 今年も全日程を通して観劇することができた。一昨年も書いたように、現役時代以上に精勤(?)するようになったのには三つ理由がある。一つ目は、地区発表会の審査員を引き受けるようになり、自分が選んだ学校が県中央大会でどう評価されるか、応援も含めて見届ける必要があるように思ったこと。二つ目は古巣である西部A地区から選ばれた学校があればその応援。(西部Aを破って選ばれた学校があったらどんな学校のどんな芝居であったのか。)そして三つ目は気心の知れた人々との、いまや恒例となった大会終了後の懇親会である。


 今年は2年ぶりに地区発表会の審査員を引き受けた。担当したCブロックからは東京農大第三高校と飯能高校が出場している。農大三高「翔べ!原子力ロボむつ」はややスピード感の弱まりを感じたが、総体としては地区発表会から一段とレベルアップしており、熱演だった。客席にもその熱は十分伝わったと思うのだが、今年も優良賞に止まったのは残念だった。
 飯能高校「M・H・P」は創作脚本賞を受賞した。今年は創作台本をもっての出場校が少なかったのでどこまで評価していいかは分からないが、私たちが地区発表会でピックアップしようとした核心のところが審査員の方々にも届いたということではないか、と思っている。(創作脚本賞については該当作品なし、ということでもいいのだから。)
 ただ、そのような評価がなされたことを踏まえた上で、私としては中央発表会に向けてもっと作り込んで欲しかった、という気持ちが残ることは表明しておかなければならない。「実存的な問いかけ」という点については講評に書いた通りなのだが、主題として提示されたままでドラマとして深められていないことがもどかしく、歯がゆいばかりなのだ。観客としては、1時間の間、同じところを何度もどうどう巡りさせられているような気になってしまう。


 西部A地区からは、新座柳瀬高校としても、また地区としても5年ぶりの中央発表会への出場となった。今年の演目「Love&Chance!」は地区発表会からさらにグレードアップしており、みごとに観客の心をつかんでいた。科白量が多く、いきおい役者たちは早口になっていたが、一番後ろの席にいた私のところでも明瞭に伝わってきた。台本にもずいぶん手を加えてのことだから、役者たちも鍛えに鍛えられてのことだろう。
 ここで一言しておきたいのは、この科白量は海外作品としてはごく当たり前のことで、新座柳瀬だけが独特に見えるというのは、日頃日本の芝居だけを見慣れているからではないかということだ。座・高円寺でエドワード・ボンド「大いなる平和」(『戦争戯曲集』から)を見た時にそれを実感した。マシンガンなどというものではなかった。科白が洪水のように押し寄せてきた。こうであってこそ、西欧では戯曲が文学の最高形式と呼ばれるのだと理解した。科白芝居、などというなら、それくらいの科白量を覚悟しなくてはならないのではないか。(ロビーでちらと「科白が聞き取れなかった」などという声を耳にしたので。少なくとも早口や滑舌のせいにして欲しくない。滑舌については先に触れた通りだった。)
 さて、新座柳瀬も含んでのことだが、今年はコピスの仲間から先の農大三高の他、坂戸高校、星野高校の4校が出場を果たしたというのも嬉しいことだった。埼玉高演連のHPに、8月に宮代・草加南・松伏の3校が合同自主公演を実施したという記事が掲載されていた。その3校とも中央発表会への出場をなしとげている。コピス仲間にしても、3校での合同公演を実施した学校にしても、やはり互いの切磋琢磨を積み重ねてきた学校が成果を出しているということではないだろうか。
 坂戸高校については審査員の講評から出た「現代における民主主義のゆらぎ」の表現という解釈が印象深かった。星野高校はトリにふさわしく会場中を湧かせることに成功した。


 さて、一昨年も書いた通り、審査員としての私の役目は地区発表会の段階で終わりである。県中央発表会は純粋に一人の観客として高校演劇を楽しみたいと思っている。そして、最初の上演校である草加南高校の「想稿・銀河鉄道の夜」で「素粒子のように自由だ」などという科白と出会うと、それだけで来てよかったという気持ちにさせられるのだ。
 ただ、今年は2人ばかり、私の地区発表会での審査について意見を言いにきた人がいた。審査のあり方について、様々な意見に耳を傾けることは必要なことだと思っているし(埼玉高演連として審査員同士の交流会や総括会議を持って欲しいと考えたこともあった)、教えを垂れてくれるというならありがたく拝聴しなくてはならない。
 また、自分だってそうだったが、審査員に不満を持つことは往々にしてあり得ることだ。だからといって(相手がプロならともかく)プレッシャーをかけることになるのもルール違反だから、それぞれの評価基準の存在を信頼して、我慢するところは我慢するというのが暗黙の了解事項だが、どうしても言いたいことがある人の声は受け入れてあげるのも年齢相応の作法だろう。というわけなので、反論というのでもないのだが、この機会に私の考えるところを少しく述べておきたい。


 演劇部顧問としては私はかなりの後発である。学生時代には演劇部の友人もいたし、社会人になってからも、地域運動で知り合った劇団員の人と交流があったりはした。それらは顧問となってから何かのベースにはなっていると思うが、何といっても40歳代になってからの顧問歴で、劇づくりはもちろん、照明も音響も最初のイロハから始まったのである。
 また、組合や学校図書館関係でけっこう仕事をかかえ、演劇についてはなるべく活動範囲を地区内にとどめようともしていた。だから、他の地区の人たちからしたら、「審査員として来ました」といっても、どこの馬の骨が来たのかと思われても仕方のないことなのである。
 ただ、自分でも「馬の骨」という自覚は持っているから、その分、審査のあり方、評価の基準、芝居を見る観点については熟慮を重ねているし、審査員打ち合わせにも可能な限りは出席し、台本を受け取ってからはテーマの分析、具体的な評価の基準や観点の書き出しメモを作成し、作者や作品についても調べられることは調べ、それらの作業を2週間前には終わらせて、今度は先入見なしに芝居を見られるよう準備を心がけている。
 私は私なりの価値観を持っているつもりだが、審査にあたってそれを押しつけることはしないようにすることも心がけている。まずは一人の観客として、何を表現したかったのか、それは伝わったのか、伝えるためにどのような工夫をし、磨きをかけていったのか、そのことで役者自身も観客たちにも変化を与えられたのか(感動したとか、勇気や優しさが得られたかとか)、を見届けるようにしている。
 まず、以上のような基本姿勢を述べた上で本題に入りたい。

 問題の焦点はつまりは上演作品のオリジナル性に関することだった。既成台本であれば必ずオリジナルとしての劇団あるいは上演校が存在する。既成台本によって発表会に参加しようとすれば、大なり小なり、オリジナル性の問題が発生する。(脚色・潤色の場合は、逆の問題、今度は作品のオリジナル性を損なわないか、という問題が発生する。脚色・潤色を断る作家、許可を求める作家がいるのは当然なのである。)

 ①最初にいえば、オリジナルを見ていなければ正しい審査は出来ないはずだ、というような無理難題を投げつけるのは止めて欲しい。高校演劇で全国大会に出場した演目だけでも過去まで振り返れば厖大にあるのだから、それらをすべて見、つぶさに記憶しておくなどというのは不可能である。(そんなことを言い出されたら、もともと私のように出来たら審査員など辞退したいと思っている人間には絶好の口実になる。)また、「似ている」ことが審査の除外になることがルール化されるのなら、すべての上演作品に適応されなければならない。各ブロックでバラバラに審査されている状況の中で徹底できるものかどうかは自明である。
 (ついでに言っておけば、客は初見だからそれを知らずに評価してしまう、というのもあまりに観客を軽んじた見方ではないか? それは客に受けなかったのは自分たちの芝居が高尚すぎたからだ、というのと同じくらい思い上がった見方だ。芝居の出来不出来に観客ほどシビアな存在はないのだから。)


 ②全国大会に出場した芝居を完全コピーすれば、その学校も全国まで進めるというのはともかく(まさかそれを狙って、とまで勘ぐっているわけではないだろうが)、高い評価を受けられることになってしまう、というのも全くの誤りである。それは、自分でも芝居づくりをしたことのある人間ならすぐに理解できるはずだ。それぞれに個性を持った人間たちが舞台に上がるのだ。そんな生やさしいものであるはずもない。読書感想文の宿題を出された生徒が、過去のコンクールの入賞作品か何かを写して提出してしまうのとは訳が違う。


 ③そもそも演劇において完全コピーがあり得るか、という問題はさておいて、ある芝居なり台本なりを発見して、自分たちも演じてみたい、と思ったとき、どうしてもオリジナルに似てくることはあり得ることだ。それがオリジナルに対する敬意であるということだって考えられる。真似にならないように、そっくりにならないように、と工夫しても、核心部分であればあるほど同じようになってくることは避けがたいのではないだろうか? それでも、その台本と真剣に向き合い、自分たちの表現として、肉声が届くようにして舞台上に開かれたとき、それを評価することにためらうべきではないと考える。


 ④同じことだが、既成台本である限り、審査にあたってはどこかの「真似」である可能性は予想しておかなければならない。だが、それぞれの身体、それぞれの声、それぞれの個性がある限り、ただの「真似」であれば身体に合わない服を着たときのようにぎこちなくなってしまうはずだ。芝居が自分たちの身体から出たものになっているかどうか、芝居として成立しているかいないかが評価の基準であるだろうし、そこを見抜く眼力を身につける必要があるのだ。作者やオリジナルの上演校から「剽窃だ」との訴えがあったというならともかく、きちんと上演許可も得ているという前提を忘れて議論してはならない。
 (なお、こういう言い方をしたからといって誤解のないように述べておけば、最後の※で触れたように話題になった学校が独自の表現を追究していないというのは全く事実に反するということは強調しておきたい。)


 ⑤とくに地域性が高いテーマによる芝居の場合、それを他県で上演することに意義があるのか、といった議論もあるのかも知れない。それを言いだしたら海のない、したがって離島もない埼玉で「トシドンの放課後」を上演することは何のリアリティもなく、ナンセンスだということになってしまう。当事者に対する配慮などという、いわゆる「不謹慎狩り」まがいのことも言い出さないで欲しい。そのくせ都合のいいときだけナショナリズムを持ち出すネトウヨたちと一緒になってしまう。一地域の問題に押しとどめるのではなく、これを「我がこと」として受けとめたとき、問題は普遍化されるのではないか?


 ⑥多少ともテクスト論をかじった人間なら、完全にオリジナルなテキストなどは存在せず、あらゆるテキストは先行するテキストの複雑な引用で成り立っているという言説があることを知っているはずだ。思想や表現においても同じことがいえるのではないか? ある感情を表現するのに、別な表現をしてみようと試みる。だが、「別の」と思われた表現は別の役者の「真似」であることの方が多いのではないのか? また、それがコードとして機能しない限り、伝達は成立し得ない。厳密にオリジナル性を考えるというならこの問題から逃れることはできない。


 長くなった。先に私は私なりの価値観を持っているつもりだ、と書いた。誤解をおそれず、ひとつだけ紹介しよう。それは思想でも芸術でも、「9.11後」「3.11後」があるはずだ、直接9.11、3.11をとりあげるか否かではなく、世界や人間を見る視野の片隅にそれらが置かれていなければ、それは真実ではあり得ない、ということだ。
 千住博が『美は時を超える』で、9.11後にニューヨークの美術界で変化が起こったことを伝えている。「現代美術」はまったく通用しなくなり、人々が求めたものは「人間」的なものをたたえた作品、ピカソやマチス、あるいは歴史の風雪にたえてきた古典作品だったというのである。過激さにおいて現実の方がはるかに先に行ってしまったとき、芸術における「過激さ」の追究は鳴りをひそめていくしかなかった、それでは非人間化を押しとどめることが出来なかったということなのだろう。
 3.11後についていえば、現代が直面する課題が戦争、原発(環境問題)、格差であることを、誰しもが逃れられない問題として白日にさらしたということだろう。
 ここまでいえば、私が問題にしているのが農大三高の「翔べ!原子力ロボむつ」のことであることが分かるだろう。農大三高がこの台本にとりくみ、見ごたえのある芝居に仕上げたこと、県中央発表会でこの芝居が上演され、観客が惜しみない拍手を送ったことを、埼玉の高校演劇界は誇りとすべきだと私は信じて疑わないのである。

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 会場のさいたま芸術劇場。1日目は雨模様でしたが、2日目は好天に恵まれました。

 ※natsuさんのブログでもこの問題を論じています。青森弁でなければ「原子力ロボむつ」という芝居は成立しない。「地域に根ざした問題を扱っているために、たとえば言葉一つを取っても、その土地の言葉を忠実に「コピー」するしかないのである。」というのはその通りだと思います。「演じる」という一点にしぼっても、まずはその「人物」(この場合なら青森県人)になり切ろうとするところから、演技が始まるのでしょう。この投稿を最後まで読んでくれた方は合わせてお読み下さるようご案内いたします。
http://krmtdir90.exblog.jp/

 ※作者の立場に立ったらどうなのか、ということも考えてみたいと思います。他の県、他の学校によって上演されることを拒もうとするケースもあることでしょう。自分たち以外にその芝居を上演することは出来ない、許さない、と考えるならば、上演許可を出さないことも出来るのです。逆に、オリジナルの尊厳を維持しながら、全国に拡散されていくことを良しとするという場合もあると思うのです。また、様々なバリエーションが生まれることを歓迎するという場合もあるでしょうし、自分たちとなるべく変わらないように演じて欲しい、自分たちとは異質な解釈を持ち込んで欲しくない、というケースだって考えられるのです。作者とどのような打ち合わせがあったかは不明ですが、この作品のようなメッセージ性の高い芝居であれば後者であると考えるのが自然でしょう。
 ※もういいや、と思いましたが、やっぱり一言。①~⑥は一般論としてオリジナル問題を論じましたが、問題を農大三高の芝居に限ってみます。(私は事前にも当たってみましたが、)ネットでサツキ・ミナヅキの画像が検索できます。(次のURLをそままクリックすれば出ます。)
http://koenkyo.org/?p=1822
 下は農大三高のサツキとミナズキの写真です。顧問と部員の許可を得てアップしますので、比べて見て下さい。(なお、写真はたまたま午前中の記録係をおおせつかったので撮影したもので、決して無許可で撮影したものではありません。) これを「そっくりだ」と見る人も「自分たちなりにアレンジした」と見る人もいるでしょう。それでも、「そのままだ」とは言えないのは確かでしょう。

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 それでも、その二体の意匠には裾回りに近いものがあるのは確かですが、その他の画像をみると、衣装も、フォーメーションも、照明もまったく異なっていることが分かります。農大三高が独自の表現への工夫を怠ったというのは事実ではないというのは明らかです。
 また、ネットではこの二体のロボットは「モスラ」に登場したザ・ピーナッツを連想させると書いた観劇記録もありました。「あるテキストは先行するテキストの複雑な引用である」という実例のようです。ましてやある脚本を選び、手を加えることなく舞台化しようとするとき、オリジナル性を云々することにはよほど慎重でなければなりません。


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by yassall | 2016-11-21 20:08 | 高校演劇 | Comments(6)

ゴッホとゴーギャン展

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 17日、ゴッホとゴーギャン展を見に上野の東京都美術館まで行ってきた。それぞれの展覧会は何度も開かれたが、二人をテーマにした企画展は日本で初めてなのだそうだ。
 となると、どうしてもアルルでの共同生活を焦点として、二人の接点、比較、そして共同生活の破綻の後、それぞれの画風がどのように変化していったかが、展覧会の構成の基調となる。
 アルルに明るい色彩を求めて芸術共同体を幻想したのは主にゴッホの方だったのだろう。たった9週間しか続かなかったゴーギャンとの日々は、互いの芸術観や画風のみならず、性格や生活への姿勢そのものの違いを鮮明にすることになった。破綻に対するショックはゴッホの側に大きかった。
 それでも、その1888年に描かれた作品について、ゴッホは『収穫』を「他のすべての作品を完全に圧倒する」と述べ、ゴーギャンは『ブドウの収穫、人間の悲惨』を「今年描いた最高の絵画だ」と述べたという。
 並べて展示されている二枚の絵を見ながら、それぞれが自分の絵、自分の表現とは何かを追究していった結果がここにあらわれ、またその方向性の違いが決定的に顕わにされているのだなと思った。
 影響関係にあった同時代の画家たちの作品も含めて展示は60点ほどだった。決して多くはない。それぞれの代表作といえるような作品も何点かに限られていた。
 そんな中、私が強くひかれたのは二人の自画像だった。ゴーギャンの自画像は30代の後半に差しかかって、初めて画家を志した当時のもの。ゴッホの自画像は3点展示されていたが、いわゆるゴッホらしい色彩表現に移る前の、写実的な作品にひかれた。ゴッホに自画像が多いのはモデルを雇う経済的余裕がなかったからだとも言われるが、その二点の自画像を見ながら、もしかするとこの二人は自分という存在をその深淵にまで追究しないではいられなかった人間たちだったのではないか、と思ったのだ。
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 会場の東京都美術館。上の窓のゴッホの自画像は新しい色彩表現を試行するようになってからの作品。先にふれた作品とは異なるが、目の描き方は似ている。決して明るくはない。


 

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by yassall | 2016-11-18 20:43 | 日誌 | Comments(1)

紅葉2016①昇仙峡・河口湖畔

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 今年も紅葉の季節がやってきた。11日、まず手はじめに昇仙峡・河口湖畔をめぐるツアーに参加してきた。
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 昇仙峡は20代のころに一度だけ訪れたことがあるきりで記憶もあいまいになっていた。上流側の駐車場でバスを降り、長い階段を下って仙娥滝から観光コースに入る。
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 落差30m。なかなか見ごたえのある滝だったので角度を変えて撮ってみる。立ち上る水煙が上手く表現できなかった。
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 渓谷として他と比較して巨石が多かったような気がする。
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 遊歩道にはかなり狭まった箇所もある。
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 下流に向かっていくわけだが、水の流れが激しい。
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 覚円峰が見えてくる。昇仙峡のシンボルタワーといったとこか。
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 渓谷美が続く。
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 名所のひとつ、石門。
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 先端にはわずかなすき間。このままで静止し続けているというわけだ。
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 10時に上野を出発した頃はまだ雨だった。西に向かうにつれ雨は上がり、ときおり青空も広がった。あとで知ったのだが、この日、東京は午後も雨だったというからけっこうラッキーだったのだろう。
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 30分ほど歩いてようやく紅葉と出会う。谷底ではあるが、頭上からの日射しがあるのできれいだ。
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 夏の終わりころの長雨と日照不足、寒暖差の乏しさから、今年は紅葉は外れ年らしい。山中真っ赤というわけにはいかないが、もともと楓の数も多くないのだろう。
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 紅葉探訪の最初がこれなら贅沢はいえない。
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 渓流を背景にした写真も撮ってみる。
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 しばらくは紅葉を堪能する。
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 楓は長田円右衛門の碑あたりに集中していた。見どころいうところなのか、四阿も設えてある。
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 また滝のところまでもどってくる。だいぶ日が傾いているのがわかる。階段をのぼって大通りに出てみるとそうでもないのだが、やはり谷間まで陽が差し込む時間帯は限られているのだろう。
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 この日のメインは河口湖畔もみじ回廊のライトアップということになっていた。だが、こちらはまだまだという印象だった。
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 ライトアップの仕方にも疑問が残った。何枚かは撮ったがだんだん意欲も薄れていった。
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 夜の河口湖。手持ち撮影だが、あまりブレずに撮れた。今回はG8の試し撮りも兼ねていた。新規の機材については機会をあらためて。

 G8+12-60mm


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by yassall | 2016-11-13 02:15 | 風景 | Comments(2)

つい一言 2016.11

 20日、「駆けつけ警護」の新任務を与えられて陸上自衛隊が南スーダンに派遣された。憲法違反の「安保法制」の発動である。
 その南スーダンに関する資料について見逃せないことがあった。今年6月、表題以外をすべて黒塗りにして開示した「南スーダン国連平和維持活動(PKO)」に関する作成資料を、防衛省は今月になって公開した。
 時期が前後して話がややこしいのだが、この資料は今月派遣された派遣要員の「家族説明資料」(8月1日時点)の「反政府派の活動が活発な地域」とされていたものと同じものなのだが、黒塗りの時も今回公開された資料も、実は表題は「政府派・反政府派の支配地域」なのである。
 これまで稲田防衛相が「反政府勢力が支配を確立した領域はない」としていたことは意図的なウソだったことが明らかになった。これは「戦闘は起こっていない。衝突が起こっているだけだ」と訳の分からない言葉のすり替えをおこなってきた以上の偽り行為だ。
 現地で報道されていることすらも隠そう、小さく見せよう、との偽りを重ねてまで南スーダンへの派遣を強行した。その先に待っているかもしれない事態に日本政府は責任をとれるのだろうか。(11月24日)
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik16/2016-11-23/2016112302_01_1.html
http://www.huffingtonpost.jp/karin-amamiya/south-sudan-self-defense-forces_b_13159584.html

 日本はこんなことが起こる国になってしまったのか!と、驚きと嘆きを禁じ得ない出来事が東京新聞で報道された(11.23朝刊)。
 20日、東京・武蔵野市で天皇制に反対するデモを複数の右翼団体が襲撃し、デモを先導する車のフロントガラスが割られたり、負傷者まで出たというのである。
 これまでも市民団体等の集会やデモに対する妨害活動はあった。近年、エスカレートしてきたな、とは感じていたが、実際の暴力行為にまでいたったのは60年安保以来ではないだろうか?
 だが、驚いたのはそれだけではない。当日は100人ほどのデモ参加者に対して500人ほどの機動隊員がいたという。襲撃した右翼団体は3、40人だったそうだが、機動隊は一応制止はしたものの、逮捕者は一人も出なかったというのである。
 斉藤貴男氏は「警察は本質的には体制の擁護者。(中略)そうだとしても、目の前の犯罪を取り締まらないとは度を越している」と批判している。
 右翼は建前上は尊皇主義者。尊皇主義者といえば、先日「天皇の生前退位」について議論する政府の有識者会議で、桜井よし子ら右派知識人(知識人?)は「反対」を唱えている。つまり、彼らの「尊皇」とは体制(国体)としての天皇制であり、天皇に対する敬意なんて少しも持ち合わせてはいないのだ。各種の世論調査では8~9割の国民が賛成しているというのに。(11月24日)

 つい一言が滞りがちになっているが、書きたいことがなくなったのとは逆に書かなければならないことが山積みになっており、資料もそろえてあるのだが、どこから書いていいかパイプが詰まったような状態になっているのだ。そしてモタモタしているうちに、ホットな話題を心がけながら、あれよあれよという間に時機を逸してしまう、なんてことが続いている。
 現在、経産省の有識者会議ですすめられているという福島原発事故の損害賠償費用や全国の原発の廃炉費用についての議論の中で、新電力の事業者にも負担させようということが検討されているという。具体的には送配電網の使用量に上乗せするというものだが、つまる話は原発を持っていない電力会社の電気料金も値上げをさせて、そこから回そうということなのだ。
 人のいい私は、もし政府が脱原発を決意するならという条件でだが、廃炉はたしかに国民的課題なのだから、一定の負担をしてもいいくらいには思っていた。ただ、そうなってはいないことは明白であり、これが原発の延命につながったり、ましてや「安心して」新増設も可能になるようなことに道を開くなら反対だ、とは考えていた。
 だが、「バックアップ契約」(新電力で何らかのトラブルが起き、電力不足が起きた時に、東電などの地域電力が必要な電力を融通してくれる、という仕組み)との関係なのかどうか分からないが、これを批判する識者の中で「原発を嫌って新電力を選んだのに、原発を使った電力を使わされることになるから反対」というのがあり、にわかに危機感をかき立てられたのである。
 新電力の利用者が増えれば地域電力は原発を稼働させる口実がなくなる、と考えてわが家も新電力に切り換えた。少なくとも電力が不足するから、という理由は成り立たなくなり、残るとすれば安価な電力を供給するためということになる。
 だが、損害賠償費用や廃炉費用を上乗せしなければならないという一点で、原発=安価な電力という神話は崩壊しているはずだ。政府も電力会社も、まずそのことを認めなければならない。そこのところをごまかして、原発による電力はごめんだ、と思っている人々にまで無理矢理使わせようとすることに心の底からの怒りをおぼえる。(11月22日)

 また腹を立ててばかりと言われそうだが、やはり書いておきたい。自民党の「2020年以降の経済財政機構小委員会」が「人生百年時代の社会保障へ」という提言を出したそうだ。何が書かれていたかというと、「現行制度では、健康管理をしっかりやってきた方も、そうではなく生活習慣病になってしまった方も、同じ自己負担で治療が受けられる。これでは、自助を促すインセンティブが十分とはいえない」ので、「医療介護版の『ゴールド免許』を作り、自己負担を低く設定することで、自助を支援すべきだ」というようなことらしい。(東京新聞「紙つぶて」11.4)
 健康管理に努力した人が報われるように、といえば聞こえはいいが、紹介してくれた荻上チキ氏がいうとおり、「貧困層や非正規雇用など健康リスクが高い人ほど、健康になる努力や検診にかける経済的・時間的余裕」がないのが現実だ。残業残業で追われて、健康増進のためにジムに通うどころか、病院にも行けない人ほど高負担になるという結果になる。
 予防医学に対する理解を広めることは大切だ。好きで病気になる人はいないのだから、健康への知識と意欲を持つように啓発することはますます重要だろう。だが、自分の健康には自分で責任を持つ、というのは個人の自覚の問題であって、国家が負うべき責任を個人に押しつけてしまおうというのは話が違う。柄谷行人によれば、国家とは「略取-再分配」という交換様式にもとづく社会構成体である。早い話が、税金は取るが国民が必要としても分配はしてやらないよ、ということだ。社会契約論からいっても間違いで、そんなことでは国家そのものの成立要件が突き崩されてしまう。(11月8日)

 昨日、菅官房長官はTPPについて、「国会で野党から『対米追従だ』と言われるが、今回だけは『2人の大統領候補が反対しているのになぜやり急ぐんだ』と、全く逆のことを言われている」と述べたという。
 つまらぬ皮肉だ、それ以上には何も言っていない、と思った。アメリカで大統領候補が反対しているのは選挙向けではないのか。それでいえば、自民党も選挙前にはTPPには反対だと言っていた。
 そして今日、その自民党と公明党・日本維新の会の賛成でTPP法案が衆院特別委員会で可決された。つい先日、「自民党は強行採決など一度も考えたことがない」などと言っていたのに二枚舌もここに到れりだ。
 食の安全や健康保険制度への圧迫のみならず、ISDS条項によって企業・投資家が国家を相手に提訴することが可能になり、莫大な賠償金を請求されるリスクがあるなど、国民の不安はまったく解消されていない。(11月4日)

 今朝の東京新聞「本音のコラム」欄で竹田茂夫氏が、「働き方の未来2035」なる報告書が厚生労働省によって発表されたことを紹介していた。あまりの内容なのでネットで調べてみると、確かに「働き方の未来2035:一人ひとりが輝くために」懇談会が8月2日に報告書をまとめている。
 「約20年後には、働く者は個人事業主として会社や職場から独立し、世界を相手に自由に能力を発揮できる」ようになるというのだが、竹田氏は「労働者がすべて個人事業主になれば、過労死・過労自殺は自己責任で低賃金は自己決定、偽装請負・偽装派遣は合法となる」ことを指摘し、「空想的資本主義」として厳しく批判している。
 「格差や非正規層の不安定な身分、機械・IT・AIが職を奪う技術的失業」についても触れている。資本主義は「技術革新」によって剰余価値を得ようとする。今日、最も注目されているのはAIである。だが、企業は「技術革新」によって富を増大させることができるかも知れないが、そのことで働く人々が「余剰労働力」とされる未来は明るいといえるのだろうか?
 新自由主義とは「もうけ」を得られそうな資本がいっそう利潤を上げることを可能にするというシステムである。「世界中で一番企業が活躍できる社会」をめざすという安倍政権の本質に国民は気づかなくてはならない。事態は着々と進行している。特にこれからの時代を生きていく若者は怒りの声をあげなくてはならない。(11月3日)
 「自民党の小泉進次郎農林部会長が雇用の流動化を目指した解雇自由化法案を提案している」との次のような記事もこれと関連しているのだろう。
  http://saigaijyouhou.com/blog-entry-13805.html

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by yassall | 2016-11-01 16:41 | つい一言 | Comments(0)