<   2016年 09月 ( 10 )   > この月の画像一覧

9月の散歩

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 27日、久しぶりにS8200を持ちだして近所を歩いてみた。主な撮影地は薬師の泉、常楽院といつものコースである。
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 2014年にも一度書いたのだが、試写の目的はサブカメラとしての復活である。もう5年も前の機種だし、センサーも1/2.3CMOSなのだが、光線条件さえよければよく写るし、2L程度だったらプリントしても十分見られる。
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 今年に入ってTX1を買った。1inchセンサーで25-250mmまであるので、スペック的にはサブカメラとしては最強である。だが、よく小型化に成功しているのは認めるものの、意外とかさばるし、たかが310gの重さがけっこうずっしりくる。センサーが大きい分、被写界深度が浅いせいか、いまひとつピンと来ないときもある。メインカメラとは別に押さえにもう1台としては少々扱いが悪いのである。
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 そこで目を付けたのがSONYのHX90Vなのである。でもなあ、同じ1/2.3センサーだしなあ、同じようなカメラがあってもなあ、という声と、EVF付は大きいぞ、4年の進歩(90Vの発売は2015年)も侮りがたいはずだ、という声が心の中でたたかっている。腕の悪さを棚に上げて、新しいカメラを買えばいい写真が撮れると思うのは泥沼にはまるようなものなのに…。
 さて、サブカメラでカバーしたいのは望遠系である。この日はあいにくの曇り空。望遠が生かせる被写体が見つからない。上の写真がやや離れた木槿の植え込みから一輪だけ切り抜いた写真。これくらい写ればこれでいいか?


 

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by yassall | 2016-09-30 15:01 | 散歩 | Comments(0)

2016秋の高校演劇 Cブロックを振り返って②

 先に①でとりあげた5校以外の学校について出演順に述べる。長文と短文が入り混じってしまうのはご容赦願いたい。講評では各校が公平になるように時間配分したつもりである。

【西部B地区】
 狭山経済高校「ソロモンのちっちゃい鍵」作・網田明紘
 ネット台本らしいが、やりようによっては面白い芝居になるかも知れないと思った。書き直しプランを二つくらい考えた(書かないけれど)。その台本を選んで何を演りたいのか、方向性のようなものを持たないと、台本に引きずられてているだけ、という結果になってしまう。作りたい世界が明確になっていないから演技も小さくなってしまい、照れが残っている様子ばかりが目立ってしまう。部員の人数は揃っているようなので、もっと歯ごたえのある台本に挑戦して欲しい。

 所沢西高校「桜、散る恋の物語。」作・小林彩音(生徒創作)
 学園ミステリー物。名探偵コナンを連想させるような主人公が事件の解決にあたる。創作への意欲は買うが、恋敵・父子・刑事と犯人など様々な対立を盛り込みすぎてドラマを作れていない。設定にも無理が多く、出来事や感情の変化の唐突感が否めない。「これですべてのピースがそろいました」といわれても、ご都合主義に見えてしまう。「感情の解放」への欲望、といった人間の心の闇を解明しようとしているようにも見えたのだが。

 聖望学園高校「GONGERAゴンゲラ」作・安藤聖
 浪人中の受験生の部屋につぎつぎと不可解な闖入者が現れるという不条理劇。自分の住む町が突然戦場になってしまうという展開は、ある意味で今日的なリアリティがある。常にハイテンションで、熱演ではあったが、身振り手振りが説明的でドタバタし過ぎた。その割にはパワーが伝わってこなかった。個々の人物設定や場面のリアリティをもっと作りこんで欲しい。

 所沢北高校「ひまわり~トコキタ劇版こころ~」作・所沢北演劇部
 サブタイトルにある通り、漱石の「こころ」を下敷きにした創作劇。「こころ」は良くも悪くも明治の男の話だが、男女それぞれ二人ずつの組を作り、女の物語も作ったところに新しさを感じた。ただ、それでは現代の男女のドラマとして作り出せていたかというと疑問が残る。漱石の「精神的な向上心のないものはバカだ」という引用も、現代人の心の葛藤を表現する言葉にはなり得ていないと思った。強い感情表現をしようとしているのは理解できるのだが、ずっと同じテンポになってしまい、科白と身体との間にギャップがあった。

 入間向陽高校「クレタ島の冒険」作・中村勉 潤色・Koyo劇
 三人芝居。小品ながら面白い台本にとりくんだと思った。「クレタ人は嘘つきだとクレタ人は言った」は日本語の世界でなら何の不思議もなく成立する。「(ときたま)嘘をついても(恥じない)人(が多い)(から気を付けろ)・(ので恥ずかしい)」とカッコの中を補足しながら読みとってしまうからだ。同一律・矛盾律・排中律を基礎とするヨーロッパ言語で問題を考えるからパラドックスに見えてしまうのである。
 (もっと簡単に言うと、一度も嘘をついた人間はおらず、かといって言う言葉全部嘘という人間もいないという前提でこの言葉が発せられていることを予め了解しているからだ。)
 中田は相談室登校をしている。だが、あちこちに盛んに校内電話をしている。どうも単純な引きこもり傾向を有する生徒というのとも違うようだ。友人である内田が訪ねてきたり、荻野が訪ねてきたりする。やがて荻野は中田が作り出した幻覚であることが分かる。
 中田は自分探しの過程で迷路に入り込んでしまった人間のようにも見える(どちらが本当で、どちらが嘘の自分か分からない)。また、荻野を作り出すことによって自己完結してしまおうとするようにも見える。
 閉塞された世界から中田を救い出すのは内田なのだろう。内田は中田の虚構を突き崩すことによって、中田を肉体を持った人間世界、現実世界に引き戻す。それは「わたし、クレタ島の人みたい」「嘘つきで正直」と自らの矛盾を引き受けることから始まる。
 キャストは2年生1人、1年生2人。丁寧な芝居づくりであったが、その分、身構えすぎて取るべきところで笑いが取れなかったり、坦々としてしまって芝居のヤマが作りきれなかった。それでも真面目に台本と向き合ってきたことは伝わってきて好感が持てたし、役者として力をつけていくだろうと思わせるものがあった。
 起承転結でいえば、「転」にあたるのは内田が電話のコードが繋がっていないことに気づくシーンだろう。伏線になるのは何度か呼び出し音が鳴り、中田が電話に出るのだが、内田に「今、なった?」と言わせるところだろう。これは台本通りらしいから仕方がないのだが、「鳴った?」ではなく、「電話?」だけで十分ではないだろうか(存在が知られていない中田にどうして電話が?とも解釈できるから)。伏線もあまりにもあからさまだと最初から答を教えられている気になってしまう。

 所沢商業高校「鎖をひきちぎれ」作・加藤のりや
 勇ましい題名だが看板倒れに終わってしまった台本ではないだろうか? 選んではみたが、役者たちもどう演じたらいいのかつかめず、そのまま舞台に上がってしまった、というような気がする。
 感情表現の努力は認めるし、モノローグにはそれなりの力があった。だが、ここでも長科白の応酬という台本のしくみから会話としては成立していない。
 こういうときは、いっそハチャメチャにやってしまうしかないのだが、元々がそれぞれの墓に鎖でつながれているという設定なのだから動きを作り出しようもない。
 矛盾するようだが、プラスチック製の鎖(ホームセンターで買える)を用意し、走り出したら足を取られて転んでしまった、というくらいのことをしてもよかったかも知れない。どうにも動きが作れないときは道具の力を借りてみるのも一つの方法である。
 舞台に上ろうという意欲は伝わって来るから、今度はもっといい台本をつかんで欲しい。

 豊岡高校「ある日、僕らは夢の中で出会う」作・高橋いさを
 初めて演劇部を任されたとき、生徒が「これ演りたい」といって持って来た台本。秋の地区発表会に持って行ったら、審査員にさんざんけなされた(酷評から「評」の字をマイナスした感じ)。
 その後、今度やるとしたらどうしたらよいのかなあ、とときどき思い出したりしていた。豊岡高校はとても丁寧な芝居づくりをするという印象があったので、楽しみにしていた。
 拳銃が「ハジキ」ならぬ「ビー玉」、刑事が「デカ」ならぬ「チビ」といった胡散臭さをどう引っ張るか、転換勝負の芝居に、客にどう食いついてもらうかが勝負どころだと思った。
 予想通りとても丁寧な芝居づくりで、真摯に台本と向き合って来たことは分かるのだが、もうひとつ弾みが足りなかった。
 結末の意外性以上に、大人の「常識」に対する若者の怒りのようなものが、この芝居の核にあるように思う。なかなか表現しきれなかったが、この台本だったらここまでではないか?
 (終演後、何だか落ち込んでいる生徒がいたので顧問の先生に聞いてみると、科白を一箇所間違えたのを気に病んでいるとのことだった。責任感の強い生徒なのだろう。だが、人物の呼び間違えなんて気にする必要はない。客はそれが誰だったかなんて覚えていないことの方が多いのだ。誰が、誰に向かって呼びかけているのか、身体の方を見ているのである。)

 所沢中央高校「海がはじまる」作・曾我部マコト
 難しいが、いい台本をつかんだ。5人のキャストのうち、1年生が3人。よく挑戦したし、上級生にリードされてのことだろうが、1年生もまったく遜色ない演技だった。
 4人の女子生徒たちは伝統の「クラス対抗全校ボートレース大会」の接待班として開会にそなえているところである。だが、実はこの日は大会は開催されず、転居していく友人のために他の3人は学校をサボって、見送りを兼ねて最後の大会を演出しているところだったのである。
 ネタバレをしてしまったが、いかに客を欺して今にも大会が始まりそうなわくわく感を表現するか、女子大生の登場あたりから怪しくなってくる空気の変化をどう表現するか、という課題があるが、それは表面にすぎない。
 4人の女子生徒の虚々実々の会話には、秘められた人間関係が隠されている。その人間関係をどう構築し、表現するかが最大の課題だったのだろう。

 狭山清陵高校「通勤電車のドア越しに~OL編~」作・金井達
 終電に閉じ込められた人々が織りなす人間模様。あり得ない設定にどのようにリアリティを持たせるかが課題かなあ、と漠然と考えながら上演に臨んだが、観客を引き込む力があった。
 声量、間、応答などがしっかりしていた。やはり、科白をきちんと客席に届けることが基本中の基本だ。ここも1年生がよく頑張った。ドアに首を挟まれ、身動きが取れなくなったという黒木を中心に芝居が回るが、身動きならぬという設定ゆえに、かえって不要な身振り手振りがなく、演技が生きていた。上司と部下、先輩と後輩、母親と娘の間の人間関係の変化もそれほど無理なく描かれていた。
 荒唐無稽にみえて、きちんとしたドラマになっていた。

【比企地区】
 小川高校「リンク」作・山崎永遠(生徒創作)
 イジメを題材とした創作劇。重いテーマだが、直面する世代からの実態、被・加害者の心理等の報告が蓄積されていくなら意義がある。
 隠蔽された世界でイジメが行われていく陰湿さ、事なかれ主義、無神経なまでの配慮のなさ、教師集団の不統一などの問題は提示されており、友人や大人たちの気づきや声かけの大切さなどの指摘もある。
 肝心なことはドラマとして成立しているかということ。山口はなぜ自殺を思いとどまれたのか、中野はどうやって過去のトラウマを克服できたのか、加害の中心にいた2人はなぜ改心したのか、対立や葛藤を通して人物が変化していく過程の描き方が主要な観点となるが、まだまだ説得力に欠けると思った。また、照明に工夫したい気持ちも分かるが、肝心な場面で顔が暗くなってしまうのは本末転倒だった。

 滑川総合高校「ごはんの時間2い」作・青山一也
 最終学年を直前にしたデザイン科の高校生たちの昼休み、一番の楽しみの昼食風景から進路をめぐっての討論会となり、ジェンダーの問題にまで議題は広がる。一見おふざけに見えて、真面目な内容の台本だと思ったし、キャラクターの設定や個々の演技もしっかりしていて好感度が高かった。
 教室については机の間隔が広すぎ、せっかく科白のやりとりで反応が出来ているのに、伝達速度の遅れを感じた。昼休みなのに机を寄せ合おうともしないのは仲がよいのか悪いのか分からない。女子同士はあちこちで固まるのに、男子2人は孤立している、というふうにすれば、人間関係の構図も作りやすかったのではないか。幕開けとラスト近くの暗転は台本通りだが、要らなかったのではないだろうか? Tさんの意見もきいてみたが同意見だった。どこまで台本通りにやるべきか、時と場合によるだろう。客は役者の声が聞きたい、顔が見たいものなのである。

 鳩山高校「オリオンは高くうたう」作・内木文英
 黒パネルを4枚使っただけだったが、袖幕も上手く使い、世界は作れていた。バックはホリだったが、ホリは本来強烈で説明し過ぎなもの。後ろに光があると役者の顔も見づらい。パネルで狭めてやると、そうした欠点が多少とも軽減できる。演技は無駄な身振り手振りを避け、さわやかイメージだった。声も抑制されて耳障りなことはなかったが、その分メリハリに欠け、芝居も小さくしてしまった。芝居のヤマ場は「君だけしかない証明書」を発見するシーンだろうが、もっと印象的に作れたのではないだろうか?

 松山高校「ここでは死ねない!?」作・楽静
 マンションの屋上、自殺しようとする青年と思いとどまらせようとする謎の人物。2人芝居は芝居の基本形だと思う。科白のやりとりを通して相互に影響し合ったり、互いに変化していくところからドラマが始まる。
 客席に伝わる力が弱かった理由について考えてみたい。声量のせいではない(怒鳴り散らされても耳障りなだけだ)。滑舌の弱さは多少あるかも知れない。音としてではなく、言葉として発せられていないと伝わらない。やはり台本が書き込まれていないことは大きい。言葉が胸に落ちてこない。
 一番は会話として成り立っていない、ということではないか? 2人間の距離が開きすぎ、きちんと相手に話しかけているようには見えない(ましてや自殺を思いとどまらせようとしているようには見えない)。指さし・身振り手振りが大げさで、しかも2人とも同じようだから、お互いが会話の中で変化しているようには見えない。
 一応、起承転結もそなわり、しかも「転」は「転・転・結・転」くらいには凝っている。今回は練習問題というところではなかったか? 自分たちのめざすべきものを追究して次ぎの芝居に挑戦して欲しい。

※当日の講評もあることだし、いつもは審査に伺った地区の劇評は避けているのだが、今回は少し考え方を変えてみた。いつもいうことだが、私のつたない感想でも何かのヒントになったり、芝居づくりの役に立つことがあったら幸いである。


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by yassall | 2016-09-27 17:20 | 高校演劇 | Comments(1)

2016秋の高校演劇 Cブロックを振り返って①

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 9月24日、比企地区発表会が開催された。会場は東松山活動センター(写真)。開会式では生徒による司会が緞帳前に立ち、各校から5人の制作委員が選出されて運営に当たっていることなどが紹介され、また時間的制約のある中であったが各校紹介などもあった。良き伝統が残っている地区であると思った。午前中には小川、滑川総合高校の2校、午後には鳩山、東京農大第三、松山、松山女子高校の4校の上演があった。
 昔読んだ演劇入門書に、演劇の4つの要素として①戯曲、②俳優、③舞台、④観客などと書いてあった。ずいぶん形式的な分類だなあと、その後顧みることもなかったのだが、最近になって舞台があって初めて演劇が始まるのではないか、というようなことを考えている。舞台という小宇宙に俳優が登場人物として立ち現れ、科白を発し、ドラマが展開していく。その舞台を舞台たらしめるために、音響や照明、舞台美術などさまざまな効果を駆使し、演出を冴え渡らせる。舞台はまさしく出会いの場なのである。
 さて、この日で今年のCブロックの審査が終わった。そこで、Cブロック全体を振り返ってみたい。ブロック割りは毎年変更になるが、今年は西部B(所沢・入間)・比企地区から中央発表会に2校を推薦する。その役目がTさんと私。最初にその2校を順位とともに紹介する。

  第1位 東京農大第三高校
  第2位 飯能高校

 第2位には、所沢高校も候補になった。飯能高校と所沢高校は2週間前に西部B地区が終わった時点での暫定2校であったが、その段階では順位をつけられなかった。最終的な決断を下すにあたっても最後まで悩んだ。また、西部B地区で2校にしぼる段階で芸術総合高校も候補に残った。比企地区では松山女子高校が2位の位置につけた。まず、以上の5校について書いてみたい。
 (以下は少なからずネタバレになるので、これからの上演を控えた学校についてはその点を承知の上で読んで欲しい。)

 東京農大第三高校「翔べ!原子力ロボむつ」作・畑澤聖悟
 農大三高としては2年続けての畑澤聖悟作品の上演になる。地域性が高く、また社会的なメッセージ性が強い。
 「むつ」といっても日本で最初で最後(でなくてはならない)となった原子力船「むつ」ではない。高濃度放射性廃棄物の最終処理を目的として設計されたという、架空のロボットである。つい最近、やっと廃炉に向けて動き出した高速増殖炉もんじゅともども、日本の原子力政策のしわ寄せ的存在ともいうべき六カ所再処理工場(実態は中間貯蔵施設)を想起させる。青森のかかえる難題を題材としている点でホットであり、地方の衰退という背景を持つ(六カ所村の敷地は元々工業団地を誘致しようとして整備された。産業を興す前に衰退が始まってしまったのだ)。
 社会的メッセージを含んでいると、プロパガンダだとして、あたかも芸術的価値が低いような議論がある。かつての芸術的価値論争でもあるまいに、社会的メッセージを持たないから享楽的で無価値だ、というのと同じくらいおかしな議論だ。
 (近年、トランボの再評価がすすんでいるが、「ローマの休日」には全く社会的メッセージが込められていないなどいうのもおめでたいし、「ジョニーは戦場へ行った」は反戦のメッセージを含んでいるから芸術的価値が低いなどという人はいまい。)
 時代の課題をとらえ、警鐘を鳴らしたり、共通認識化していくことは演劇の重要な働きのひとつだと私は考えている。時代の課題を取り上げたらメッセージ性が優先しているなどといったら、高校演劇でイジメの問題をとりあげることも出来なくなる。問題はいかに演劇として魅力あるものとして舞台化していくか、ではないだろうか?
 さて、では演劇としてどうだっかということだが、見終わっての感想はお見事というしかない。大集団を動かしながら、無駄のない、スピード感に富んだアクションは、それでいて単調にはならない。最初のうちこそ集団の中に紛れていた個々の役者も、しだいにその表情が鮮明となり、深みを増していく。一番の課題は10万年という時間をどう実感させられるか、ということだったと思うが、舞台上に3つのスポットライトを落とし、上手と下手から舞台を駆け抜ける黒子たちの動きを巧みに使って表現した。
 講評でも触れたことだが、課題としては「リンゴ王国」と「イカ王国」との差異と類比をどう考えるか、全体のトーンを主題に合わせて暗く設定した方がいいのか、ときに明るいトーンを持たせることでかえって恐ろしさが表現されるのか(もう一度吟味して欲しい)、ラスト近くに出てくる「夢だった」をさらに逆転させていくどんでん返しをどう印象づけ、悲劇性を伝えていくか、だと考える。
 「リンゴ王国」の独立は台本にあることだから、その通りやるしかないが、ドラマとして焦点がぶれないようにする工夫も必要だと思った(地方の逆襲や怒りの表現は必要)。
 オリジナルがある以上、影響を受けないではいられないだろうが、いかにして農三としての独自の表現を作り出していくかについては最後まで追究してもらいたい。
 カズキの町長演説を聞いていて、青森でこの芝居を上演するのには相当の勇気を必要としただろうと思った。その勇気に埼玉の地から応えようとした心意気に敬意を表する。

 飯能高校「M・H・P」作・飯能高校演劇部
 題名の「M・H・P」は確率に関する数学用語らしいが、説明を受け、自分なりに調べてみてもよく分からなかった。
 芝居を見てみると、確率のことも出てくるが、主題はむしろ人生における選択ということのようだった。人生は選択の連続である、必ずしもその条件は公平ではないが、それでも人はよりよい人生を求めて選択する、それは自己形成の過程でもある、失敗しても必ず続きがある、と伝えようとするメッセージは良質であり、むしろ常識的であると台本を読んだ段階では思った。それと引き比べ、積み重ねられていくエピソードはそれらのメッセージを正しく伝えていくだろうか、それが課題だと考えながら上演に臨んだ。
 だが、芝居をみているうちに、作品はさらに重いものを発しているのではないかという考えが起こって来た。私の若いころはまだまだ実存主義が全盛だった。その実存の有り様のようなものを描こうとしているのではないのか? たとえてみれば、人は一つの椅子にしか座ることが出来ない、一つの椅子に座ってしまえば、(少なくとも同時に)他の椅子に座ることは出来ない、というような。そして、それでも人間は選択しなければならない。死神たちのゲームとは、実は選択し直しの不可能性ではないのか? つまり、問題は確率にはないのだ。
 見終わって2週間がたってみると、果たして私の見方が正しかったのか、どうかは分からない。それでもそうした実存的な問いを投げかけて来たことは確かだと思ったのだ。
 そして、何より役者たちが達者だった。とりわけ死神Aが変幻する役どころを感性豊かに演じた。死神BもAによく応えていたし、手下1・2もしっかり脇を固めていた。女子高校生と女も、役どころはこなしていたと思う。精霊1・2・3は1年生らしくやや固かったし、もう少し透明感が欲しかったが、白の衣装を揃え、雰囲気を出していた。
 私の見方にやや自信がなさそうなもの言いをしてしまったのは、やはり台本が分かりやすくは作られていない(直球勝負で来られても困るが)ことがある。台本についてはさらに作り込んで欲しい。また、幕開けに近い段階で出てくる変態じみたエピソードは、ツカミのつもりでかえって客を引かせてしまうのではないか、と思った。飯能高校演劇部が表現上の必然であると考えるなら止めようもないが、やるならば後の女子高生や女優のかかえる問題の伏線となるような小話を用意した方がいいのではないかと思った。

 所沢高校「うぉーつつ」作・安水真由子
 所沢高校も台本に弱点をかかえていた。むしろ、その弱点をカバーしてしまうくらいに演技が突き抜けていたところで西部B地区で抜けだし、Cブロックとしての最終審査でも最後まで候補に残った。
 発表会に向けた台本づくりという、よくある設定の演劇部物である。彼らが選んだテーマは「戦争」。テーマを深めていく中で高校生たちがどのように変化していくかが主要な観点となる。
 私が台本の弱点と考えたのは、テーマに食いついていく段階では改憲や集団的自衛権の問題、中東情勢などに注目しておきながら、劇作りの段階では戦争の要因に「水争い」を持ち出し、帝王や王様がいることになってしまう点である。これでは「(中世では)闘いってロマン」を批判しても説得力がない。(もっとも「水争い」が「油争い」であったら生々しすぎたろうが。)
 私が台本上の弱点を突き抜けてしまった、と評したのは、小田ちゃんの「違う」という科白の鋭さからである。周囲から「そんなセリフは無い」という声が聞こえてくる中で、「こうじゃない。こんな気持ちじゃない。」と続ける小田ちゃんが、自分たちが作りかけた劇そのものを否定し、欺瞞や虚構を突き崩していく力に満ちているように感じられたのだ。そして、そこまで到達して初めて「ぼくたちはぼくたちの目と心で、考えたいんだ!」という科白が生きたものとなると感じたのだ。
 これは、私にそう聞こえた、ということではないと思う。私自身は最初からこの台本には否定的であったのだから。だから、これは所沢高校演劇部の生徒たちがこの台本にとりくんでいく中で、台本に振り回されるのではなく、自分たちの芝居として追い込んでいく過程で、自分たちのことばとして発することが出来た、ということではないかと思ったのだ。
 ただ、そう芝居を見つめ直してなお、台本の弱点は如何ともし難いとの思いは残った。もし、私が解釈した通りだとすれば、この演劇部員たちは一から台本を作り直さなくてはならないはずなのである。また、講評でも触れたが、まだまだ方向性を見いだせないでいる段階での部内のうだうだ感、戦闘シーンなど、細部の作り込みはまだまだだと感じた。総勢11人のキャストがいれば、科白のない役者の中には素に帰ってしまう者もどうしても出てくる。一人一人によく目を配っていることは理解できたが、この点ももっともっと作り込めるのではないかと思った。
 厳しいことも書いたが、皆で力を合わせて芝居づくりにとりくんだことは見て取れたし、好演であったとの思いは今も変わらない。

 芸術総合高校「いまここから見える君を含んだこのときのすべて」作・生徒顧問創作
 発声、科白のやりとり、身体表現など、どれをとっても一級品だと思った。脚本も小品ながら詩情にあふれ、そっけないといえばそっけないまでに多くを語ろうとしていないが、それゆえに上質な物だけを摘み取ったような、ピュアという意味での贅沢感があった。
 横尾忠則のエッセイを読んでいたら、10代のころは20歳から先の自分はまったく見えなかった、という一節があった。芝居は、「ここにいるのは『いま』から10年後の私たちです。」といって始まるが、描かれるのは「これからご覧いただくのは、『いま』のわたしたち。ここから出てくるのは、高校生です。さっきのひとたちが高校生だった時の『いま』。私も高校生に戻ります」という世界である。
 題名の「いま」「ここから見える」「このときのすべて」というのは、実は10年後に振り返ってみたときにはすでに思い出すことも不可能な、宝石のようにキラキラしながらも、その瞬間に失われていくしかない、それでいて豊穣な10代の日々ということであると思う。流れるような芝居はこびの中で交わされるあれこれの会話も、さまざまな喜怒哀楽さえ置き去りにして、止むことのない時間の残酷さを表現しているのだと思った。
 題名の分析から「君を含んだ」を故意にはずしてしまった。10代のときには君は確かに「いた」、しかし10年後には「いた」とはいえない、というのは若くして失われた命の存在を暗示させる。だが、ドラマとしてはその死は描かれていない。
 選びきれなかったのはドラマとしてのもの足りなさであった。「人魚」が人魚である所以、「ライオン」がライオンである所以が語られないと、それらのニックネームは説得力を持たないし、その後の人生に想像力をめぐらすことも出来ない。ラストシーンで出てくる「ここなんだね」という素敵な科白も、どうしても胸に落ちてこない。

 松山女子高校「千里だって走っちゃう」作・市村益宏
 大店舗の圧迫を受ける中で小さな薬局を営む家族と、その娘にひそかに恋心をいだく同級生の羽場が店の存続をかけて町内リレー大会に挑むという、破天荒といえば破天荒な設定のラブコメディーである。
 羽場がよかった。高校生の羽場もよかったし、50年後の羽場もよかった。50年後の羽場が、ときおり高校生の羽場の間近に立ちながら、往時を懐かしみ、今は亡き恋人の死を悲しむ思いが伝わってきた。母親は母親に、男子は男子に見えていた。悪役も元気に頑張っていた。
 中途半端にまとまってしまうと芝居の命が消えてしまうと思っていた。混沌としたエネルギーのようなものが欲しいと思っていたが、まだまだパワーが足りなかった。その反面、力を込めたつもりが、かえって雑になってしまったところが散見された。
 舞台美術や衣装、照明効果なども力が入っていたのは見て取れたが、細部の作り込みがまだまだ甘いと思った。

 各校の観劇を見終わって思う。ここまでの芝居を作り上げるのは並大抵の努力ではない。いろいろ注文をつけたが、それならお前がやってみろ、といわれれば返す言葉もない。力の拮抗している(それでいて尺度が異なっている)芝居が並ぶと、審査とはつらい仕事だとつくづく思う。


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by yassall | 2016-09-26 11:13 | 高校演劇 | Comments(3)

さようなら原発さようなら戦争9.22大集会

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 9月22日、さようなら原発さようなら戦争9.22大集会があるというので代々木公園まで出かけて来た。
 会場の割には参加者が少なかったのは残念だった。幟旗をみていると参加団体にも傾向があるようだった。 主催は「さようなら原発」一千万署名 市民の会とあるが、帰宅後HPを検索してみると戦争をさせない1000人委員会が本体らしかった。
 「止めよう!辺野古埋立て」国会包囲行動実行委員会と、戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会は協力団体となっている。まあ、思いは同じということだが、もう少し一般参加者が参加しやすい工夫があったらと思った。
 主催者あいさつには澤地久枝さんが立った。アーサー・ビナード(詩人)氏のスピーチは駄洒落が多かった。参加者は主催者発表で9500人と発表された。
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 雨天のため、安全も考慮し、パレードは中止ということだったので、原宿までの帰路は代々木公園を歩いた。雨に濡れた木立ちが美しい。
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 代々木公園は、戦前は陸軍の練兵場、敗戦後は接収されてワシントン・ハイツとなり、1964年の東京オリンピックでは選手村となった。公園の奥まったところにオランダ選手宿舎が保存されていた。



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by yassall | 2016-09-23 13:42 | 日誌 | Comments(0)

夜久野の葡萄

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 Hは大学で4年間を共にした旧友である。卒業後、いったん民間会社に就職したが、ほどなく大学院にもどり、修士課程を終えてから故郷の京都で高校教師をしていた。確か定年前に退職し、今は実家で米作りをしている。
 「草刈りと水の管理しかしていない」とうそぶいているが、何年か前に送ってもらった米は美味かった。昨年も「送るよ」といってくれたのだが、近所(といっても車で行くしかない場所)に精米機を設置しているコンビニをようやく見つけたのに、採算があわなかったのか、精米機が老朽化したのか、仮小屋ごと撤収してしまい、「玄米で送ってもらっても」ということで遠慮した。
 それとは別に、これも数年前から葡萄を送ってくれるのである。「君が栽培しているのか?」と聞くと「違う」という。出荷元は倉垣農園とある。福知山市は京都といっても兵庫県との県境に位置し、夜久野のほとんどは火山灰地で黒土「くろぼく」は一部に限定されているらしい。これを地の恵みとして倉垣農園は減農薬による葡萄の栽培にとりくんでいる。
 同封されていた案内によると、葡萄は房のままにしておくと枝が枯れ、日持ちがしない、軸を2mm程残して冷蔵庫に入れておくと長持ちするとのことである。写真は冷蔵保存の準備をしたところである。私は一度口の中に放り込んだあと皮を出してしまうが、減農薬であるから皮ごと食べられるという。品のよい甘みで美味である。
 お礼のメールついでに、「せっかくなら君が手がけた米をいただきたい。5キロほどでよいから精米したのを送ってくれ(以前は30キロ送ってくれたのだ)」とねだってみた。「来年でいいから」と添え書きしたのだが「10月に入ったら送る」と返信があった。これも楽しみである。

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by yassall | 2016-09-21 20:13 | 日誌 | Comments(0)

強行採決から1年!戦争法廃止!9.19国会正門前行動に参加してきた

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 9月19日、戦争法(安保関連法)の強行採決から1年、「戦争法廃止をあきらめない」と全国各地で集会やデモが行われた。総がかり行動実行委員会の主催による国会前集会に参加してきた。
 天気予報では曇りだったのに、雨は激しさを増すばかり。だが、スピーチに立つ人も、参加者も、意気盛んだった。
 「安保関連法に反対する学者の会」。「立憲デモクラシーの会」、「元シールズ」、「安保関連法に反対するママの会@東京」、「日本弁護士連合会」と力強いスピーチが続いたが、中でも元自衛官の井筒高雄さんのスピーチは海外派兵によっていかに自衛隊員が危機にさらされていくか、「自衛隊員はいつでも命を投げ出す覚悟をしている」などと発言した政治家がどんなに無責任か、怒りの高まりが直接伝わってくるようなスピーチだった。南スーダンへの派遣のための準備がすすんでいるが、海外で行われた戦闘の結果に対する法的整備もなく、負傷した場合の手当の訓練も不足していること、一方、南スーダンはすでに戦場化しており、PKO宿営地に難民が押し寄せている状況であることなどが具体的に語られた。
 参加者数は主催者発表で2万2千人、また全国400箇所以上で行動があったとの報告があった。
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 雨でもあり、参加者で通路もいっぱいの状況で、思うように写真も撮れなかった。国会正門前はいつもにもまして警戒が厳重であるように感じられた。


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by yassall | 2016-09-20 16:42 | 日誌 | Comments(0)

2016秋の高校演劇 西部A地区発表会

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 9月17・18日、西部A地区発表会が開催された。いろいろあって、今回は必ずしも愉快にばかりはなれなかったのだが、それは私の気持ちの問題。こうして高校演劇を通じて人と人とのつながりをいただいていることに感謝しなくてはならない。
 1日目は細田学園、朝霞西、和光国際、新座高校の4校、2日目は朝霞、新座総合、新座柳瀬高校の3校が上演した。

 細田学園高校「桜井家の掟」作・阿部順
 キャストの大半が1年生ということもあると思うが、「演じる」(登場人物として舞台に現れ出る)ということがまだまだ理解できていないし、それをカバーするための工夫も出来ていない。だから姉は姉に、妹は妹に、恋人は恋人になり切れておらず、そのため相互の人間関係も構築できていない。舞台に上がったという経験が一番大きな糧になると思うので、これからを期待したい。

 朝霞西高校「BETTER HALF」作・鴻上尚史
 ここも4人芝居のうち1年生が3人。難しい台本にとりくんだ心意気は買いたい。楽な道に逃げていると、いつまでも力をつけることが出来ない。アップテンポにも助けられてそれなりに芝居が転がっていたと思うが、やはり消化不良か? 台本の問題もあるのだろうが、心の変化を説得力をもって表現しきれなかった。

 和光国際高校「あの雲は夏の名残り」作・萩原康節
 キャストは11人すべて2年生。部員の獲得と観客の動員力には敬意を表したい。ただ、創作台本には大きな疑問を持った。善玉と悪玉を際立たせ、物語を分かりやすくしたというところなのだろうが、姉と妹の対立とつながり、柔道の強豪校のあくどさの描き方など、かえってリアリティを失い、見ていて辛くなった。
 親や兄弟から強い否認を受ける人間は確かに存在するだろう。それが萎縮や性格のねじれになってしまうばかりでなく、発憤につながる場合もあるには違いない。それでもトラウマとして残るはずだ。姉の側からだけでなく、妹の側に立っても、その和解には説得力がないと思った。
 強豪校の部員による陰湿な面罵や暴力も度が過ぎているし、審査員の方のいうとおり、思わず距離を置きたくなるような描き方だった。
 少なくとも、コメディあるいはエンタメを作ろうとしたのだとしたら、まったく似つかわしくないと思った。

 新座高校「パヴァーヌ」作・曾我部マコト
 最近になって思うようになったのだが、曾我部マコトの台本には非常に濃厚・濃密な人間関係が描かれる。この芝居では双子の姉妹であるアキとユキの関係をどうとらえるかが核心になるのだろう。アキとユキはいっしょに高校受験を迎えるが、ユキは進学校に、アキは標準校(底辺校?)に進学する。何も説明されていないが、高校進学後のアキとユキの姉妹関係はどうだったのだろうか? アキが死んでしまったとき、その死をユキはどのように受けとめたのだろうか? ユキが学習意欲を失ったり、成績不振に陥ってしまった理由は何だったのだろうか?
 かつてアキもよく集まっていたという溜まり場で誕生会を開こうという友人たちとの人間関係を考えると、アキの死因は必ずしも自殺であると断定できないとも考えるが、後からの反省会の席で披露された審査員の方の「ユキはアキの通った土地を見て、そのあと死のうとしていたのではないか?」という仮説には深く考えされられた。
 この学校も7人のキャストのうち2年生は2人だそうである。舞台美術に統一感が欠けていたりと、まだまだトータルには芝居が作りきれてはいないが、個々の俳優、個々の演技には光るものがあった。1年生で芝居勘のようなものがつかめたら先が楽しみである。そういうわけで作品論にも深入りした。想像力が刺激された。

 朝霞高校「ハルシオン・デイズ」作・鴻上尚史
 顧問時代、最後の春は「ハルシオン・デイズ」だった。9.11を意識していると思ったし、自爆テロと人間の盾との自己犠牲のあり方の違いというようなことを取り出し、かなり大胆なテキストレジをした。私としては思い入れのある舞台になったが、今回はかなり異なった切り口を持とうとしているらしかった。
 月を映し出したい、というようなことは、以前から聞いていた。その効果については私からは触れない。なかなか時間内に収まらず、大事だと思われる科白をカットしているうちにあらすじを追うだけになってしまったとの嘆きがあった。それはその通りだったなと見終わったときに感じた。(例えば、使わない七輪をみせる必要があったのか? 省略した食事のシーンを暗示するため? あらすじをかいつまんだつもりでも観客には意味不明だ。)
 4人のうち2年生は1人だけ。芝居勘をつかむには至っていないことを承知で、いくつかだけ書く。和美の衣装はせいぜい女子大生で子ども子どもし、カウンセラーには見えない。月を正面に出して、和美のモノローグをセンターに置いた幕開けはいかがなものか、和美を下手に、他の2人(あるいは3人とも)を予め上手にというような立ち位置は考えられないか? 赤鬼のシーンで哲造の鳥の形態模写は必要だったか、様になっていたか? 頭の中にはイメージがあったのかも知れないが、そのイメージを形象化するだけの作戦も力量もともなっていなかった。
 今後、伸びそうな部員もいるが、まずは当事者たちが危機意識を共有しないとせっかくの芽も摘んでしまうことになる。

 新座総合技術高校「第52回オカルト部会議」作・篠田美羽
 確かに台本にはつじつまが合っていない箇所が多数あり、結末も取って付けたようでいかにも苦しまぎれである。だが、新総芝居と長年つきあっているうちに、この「ユルさ」が何ともいえない味のように感じられてきた。いわれてみれば花子さんは小学生で、二宮金次郎ともども高校の怪談には登場しそうもないが、あのおかっぱ頭といい、紋付き袴の金次郎といい、ビジュアル的には成功している気がする。少なくとも一時の舞台上だけで完結してしまっている閉塞感はない。

 新座柳瀬高校「Love&Chance!」原作・P.D.マリヴォー 脚色・稲葉智己
 最後になってようやく安心して見ていられる芝居が上演された。舞台美術、衣装もグレードアップし、セリフ回しも申し分ない。役者に力量以上のものを要求してはいないが、ハイテンポな芝居運びで単調になってしまうこともなく、飽きさせない。難をいえば照明の切り替えがときどき遅れたくらいか? 先の展開が読めてしまっても十分楽しめた。ラストシーンは他の人も指摘したとおり。芝居そのものが貴族同士の恋の成就よりも、彼らの気まぐれによっ偶然にもそれぞれの従者と小間使いの恋が芽生え、めでたく結ばれたというところに重点があるお話なのだから、その二人に祝福の拍手を送る機会を観客から奪う手はない。

 さて、冒頭に「今回は」と書いたが、何とはなしにふと憂鬱な気分がただよってしまうのは春のときもそうだったのだった。どうやらそれは、リタイア6年目というならそれに見合う距離感をとりあぐねている、いったようなことであるらしい。
 こうして観劇記のようなものを書いても、つい辛口になってしまっているのに気づくと、「自分のときはどうだったのか? いつの間にか過去が美化されていて、正当な評価になっていないのではないか?」などという自問が生まれてくる。
 運営面でも、客寄せの音楽がないなあ、とか、1ベルと2ベルの間隔、アナウンスと2ベルの順番、アナウンスが早口すぎないか、一番心配だったのは緞下げのとき、いつでも停止ボタンを押せるように人が配置されているのだろうか、などなど、客を不安にさせるような場面がいくつかあった。ただでさえ人事異動で人の入れ替わりがあり、今回は文化祭と重なってしまった学校が多く、そもそも人手が足りない中で切り盛りしているのだろうな、というようなことを察しないわけではない。
 それでも客席にいて初めて気がつくこともあるかも知れない、自分だってさんざんヘマをやってきたことを棚に上げてでも、気がついたことは伝えた方がいいのか? それとも、いつの間にかただの口うるさい年寄りになってしまっていることに気がつかないだけなのか?

 今回、2日間通って初めて知ったのだが、1階のレストラン”ぱる”が8月で閉店してしまっていた。そうと知っていればごあいさつに伺ったのに、と思ったくらいに”ぱる”にもさまざまな思い出がある。
 つまりは西部Aおよび朝霞コミセンには切っても切れない愛着があるのであり、代が変わり、人が変わっても、この場所で発表会が行われ続け、訪ねて来られるということがこの上ない喜びであるということなのだ。
 そして何より、この西部A地区が生徒たちの交流と切磋琢磨の場であり続けて欲しい、それを支える各校の顧問が啓発しあい、しっかりと協力し合う場であり続けて欲しい、私はそれを見守りたいということなのだ。

【追記】
 momさんのブログへのコメントを見て「Love&Chance!」の結末は原作通りだということを知った。(考えてみれば当たり前で、「従者と小間使いの恋が重点」という前言は撤回しなければならない。)だとすれば、monさんの言うとおり、貴族の子息令嬢がもっと魅力的に造形されていなければならないと思った。また、身分違いの相手に惹かれてしまった苦悩、自分たちの企みがもたらした結果に対する後悔といったものが(私が見落としたのかも知れないが)もっと表現されていなければならないと思った。それでも、その恋の成就は大勢の人に祝福されていいと思うし、たとえサブストーリーであったとしても、勇気をふるって自分たちの恋愛を追求した召使いたちにも讃歌が送られる場があって欲しいと思う。


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by yassall | 2016-09-20 02:02 | 高校演劇 | Comments(3)

2016秋の高校演劇 西部B地区発表会

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 9月9・10・11日の日程で西部B(所沢・入間)地区発表会が開催された。予定されていた西武文理高校が上演取り止めとなり、3日間で12校の芝居を見させてもらった。
 審査員なんてガラじゃないのは重々承知しているので、高演連の事務局長には「どうしても調整がつかないときの最後の候補なら」と伝えてある。その約束は守ってくれているらしく、8月も中旬にさしかかったころメールがあった。日程にも不都合が無く、2年ぶりということもあり、こんなことがないと高校現場の人と交流する機会もないのでお引き受けした。相方のTさんは超ベテランの方なので(同じ年だということが今回分かったが)心強い。
 地区発表会の段階だと、芝居づくりの伝統が根付いている学校もそうでない学校も、指導のノウハウを持っている顧問がいる学校もそうでない学校も混在している。それでも同じ高校生、脚本を探し、キャスト・スタッフを決め、稽古を重ね、舞台に挑戦してくるという点では対等である。緞帳が上がる瞬間、舞台の上でも、照明・音効のオペ室でも、きっと皆ワクワク、ドキドキしているのだろうと思うと、それがいとおしい。
 芝居は科白で成り立っている。自分の科白を言うだけで一杯一杯になっている生徒もいる。相手の科白を聞いているようで、実は自分の科白の順番を待っているだけ。頭で理解し、何とか感情のこもった科白を言うことができる段階まで来た生徒がいる。でも、会話しているようにみえて互いに科白をぶつけ合っているだけ。頭で理解している段階だから、何とか演技らしくみせようと身振り手振りを工夫しても説明的になってしまう。
 そんなふうにみてくると、実は科白は頭ではなく、身体から発せられるものだと言うことが分かってくる。「身体がウソをついている(つかせるな)」(※)というやつだが、これは難しい。生身の人間だって、言葉と身体がバラバラなことは往々にしてある。人間、日常不断に、毎日毎日を真剣に生き切っているわけではないのだ。でも、だからこそ、たまさかにも、舞台の上で科白のやりとりが生き生きとなされているのを目の当たりにすると、なにやら魂のようなものが降りて来たような思いにさせられるのである。そこまで到達できた学校、一瞬でも近づけた学校があれば思わず拍手を送ってしまう。
 棒立ちということばがある。科白を覚えたてのうちは、どんな生徒だって棒立ちだ。誰もが通ってきた道だということが長年生徒たちといっしょに芝居づくりをしてきた身ならわかる。「棒」のようにコチコチに固まった心を解放させることの大切さ、科白と身体との一致をめざすことの大切さ、そんなことを伝えられたら3日間所沢まで通った甲斐があるというもである。
 ※各学校には顧問の先生がついている。同じようなことであっても、立場の異なる人間からいわれると伝わり方も違うだろうと、講評では「臆面も無く」を心がけている。
 ※芝居づくりは脚本選びから、というのもここにある。台本に「ウソ」があれば、科白が生きてくるはずがない。
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 西部B地区は2度目。会場の所沢中央公民館への道すがら、上の看板を見つけたのは3年前でしたが、今回は下のような看板も発見しました。何だか、所沢は楽しい町です。
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 今週末は古巣の西部A地区の発表会に出かける予定です(審査とは無関係)。来週は比企地区の発表会へ。9月は高校演劇の月です。 
 

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by yassall | 2016-09-12 20:48 | 高校演劇 | Comments(2)

「画家・新海覚雄の軌跡」展

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 6日、新海覚雄の画を見に府中市美術館まで行って来た。チラシには「府中市平和都市宣言30周年記念事業」とある。HPには次のような開催趣旨が掲示されている。

 東京・多摩地域で社会運動と結びついて熱く展開された美術の歴史を発掘する企画として、新海(しんかい)覚雄(かくお)(1904-68)の画業を紹介します。
 彫刻家・新海(しんかい)竹太郎(たけたろう)の長男として東京・本郷に生まれ、川端画学校で油彩画を学んだ新海覚雄は、太平洋画会、二科会、一水会などで活躍、同時代の風俗や労働者の姿を描き、社会への眼差しを育みました。終戦を迎え美術界の民主化を掲げる日本美術会に参加、戦争に抵抗したドイツの美術家ケーテ・コルヴィッツに影響を受け、ヒューマニズムの立場で現実に生きる人々を描き、戦後のリアリズム美術運動を主導しました。
 1950年代、社会問題に取材し、人々のたたかいを伝えた新海らの表現を、ルポルタージュ絵画と呼びます。1955年、砂川町(現在の立川市北部)で起きた米軍基地拡張に反対する住民運動を記録した仕事は、ダイナミックな群像表現の起点となりました。盛り上がる世論を背景に基地返還へ至った砂川闘争は、農民、労働者、学生とともに、多くの美術家も支援に参加した文化運動でもあったのです。
 新海は、日本労働組合総評議会(総評)傘下の国鉄労働組合など、全国的に高揚する労働運動を、絵筆をとって励まし、当時の国民文化運動を代表する画家となります。1950年代後半からは、宣伝ポスターと並行して、原水爆を告発するリトグラフにも取り組み、モンタージュ技法をとり入れるなどモダニズムの受容に努めました。日本では数少ない群像の大作に挑戦しましたが、志も道半ばで倒れ、府中の多磨霊園に永眠しました。
 戦後社会派を代表する画家として、東京・多摩の平和・労働運動に足跡を残した新海覚雄の知られざる軌跡を、油彩・水彩・素描・版画・ポスターなど約70点でたどります。

 大正から昭和のはじめに出発点を持つ画家らしく、最初期の作品にはキュビズムなど、第一次大戦後に起こったアバンギャルドの影響が濃厚にみられる。そうした作品の中では「籠を持つ婦人像」(1925)が優れていると思った。ただ、その方向にすすんでいったとしても、おそらくは同時代の他の画家たちと同様に、時代の潮流に敏感だった青年の一人で終わっていたのではないか?
 戦前の段階では社会運動への参加歴はなかったようだが、プロレタリア美術家たちとの交流はあったようで、様々な試行錯誤をへて、しだいに社会主義リアリズムに近づき、戦後のルポルタージュ運動の下地が作られていったようだ。
 そうしたルポルタージュ運動からは内灘や砂川の基地反対闘争に取材した作品が多く展示されていた。その背景にはもちろん自身の戦争体験があってのことだろうが、原水禁運動やベトナム反戦を訴えたポスターも精力的に描いていたようだ。
 だが、集中ではチラシにも採られた「構内デモ」(1955)が何といっても圧巻だった。162×241.5cmの大作で、現在は国鉄労働組合の所蔵となっている。国労は国鉄分割民営化の中でずたずたに分断されたが、いまもなお国労の旗をかかげる人々の支えになったりしているのではないかと想像してしまう。
 画家はもちろん国鉄ストの現場に取材しているが、制作にあたっては美学校生をモデルにして群像画としての詰めをはかったとのことである。そうした背景を知ったとしても、人物たちの表情は緊迫感の中にもはつらつとした若々しさにあふれ、終戦もまもない頃、労働組合運動に結集した青年たちの高揚した熱気のようなものが伝わって来るのである。
 ところで今回、私は画家がたずさわった社会運動に対する関心から展覧会におもむいたのではなかった。6月に板橋美術館で「プラウダを持つ蔵原惟人」(永田一侑、1928)を見た時もそうだったのだが、現代からみてかえって新鮮なものを予感したのである。そして、その予感は裏切られなかった。うまく言葉にならないが、ロマンチシズムとリアリズムの結合の力とでもいうのだろうか、妙になつかしく、切ないほどに心が引きつけられたのだった。

※「府中市美術館常設展特集」とあったが、他の美術館から集められたものも多かった。「籠を持つ婦人像」は板橋区立美術館の所蔵とのことである。板橋区立美術館には常設展がない。小さい美術館だとスペースが取れないという実情があるのだろうが、せっかくの絵を所有しながら、いつも倉庫の中ではもったいないと思うのだ。
※ネットで同展覧会について検索していたら、「展示が「内容が偏っている」ことを理由に「中止の可能性も含めて再検討」を指示された」云々の記事がヒットした。むゝ、最近とみに激しくなっている表現・言論封殺の一端かと心配していたら、HPには関連事業として、亀井文夫の「流血の記録・砂川」の上映会や、美術館所属の学芸員による「砂川闘争の現場を歩く」という実地調査が催されたりしたらしい。府中市の気骨を示したというところなのか。
※砂川闘争といえば、先日ひまわりを撮りにいった昭和記念公園近辺がまさに現場である。このところ、中央線、小田急線、京王線に乗る機会が多く、多摩づいている。
※年表には1960年代には丸木位里・俊夫妻と行動を共にしたようなことが書いてある。60年安保後、原水禁運動が分裂したころから文化運動も二つに分かれてしまった。新海は総評系の組合や団体と関係が深かったようだ。だが、その線引きは今となっては意味のないことだ。
(青木文庫版の峠三吉『原爆詩集』では丸木位里・俊が挿絵を描き、中野重治が解説を書いていたのに。ルポルタージュ運動の提唱者は安部公房だったというが、安部公房は共産党除名後は運動そのものから離れてしまった。)

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by yassall | 2016-09-07 16:23 | 日誌 | Comments(0)

つい一言 2016.9

 29日、BSフジの番組で、高速増殖炉もんじゅの廃炉を前提とした見直しが決まったことに関し、馳浩元文科相が原子力規制委員会を「血も涙もない組織だ」と批判したという。(東京新聞)
 いやはや、教科書問題や「日の丸・君が代」強制、国立大学からの文系学部の廃止のことでもなく、自らが1年経たずして(東京オリンピックを控えているのに)文科相を交代させられたことでもなく、よくぞこの人の口から「血も涙も」という言葉が出てくるものだ。
 馳元文科相は「物理的、技術的、費用、予算で可能な限度を越えた要求水準があった。ハードルを高くあげてほしくなかった」とも述べたという(同様のことを桜井ひろ子もどこかの雑誌で書いていた)。元とはいえ、文部「科学」大臣の発言だろうか? 安全よりも原子力ムラの利益を優先させているとしか考えられない。
  ※
 日立・東芝・三菱重工の三社が原発の核燃料製造事業を統合することで調整中とのニュースも報道された。国内の原発がほとんど稼働せず、財務が悪化しており、経費を節減するためらしい。シェール革命のアメリカでは原発は続々廃炉、推進国であるフランスでは原発大手アレバが開発した原子炉にトラブルが続き、5年連続で純損益が赤字だという。世界中で原発市場がしぼむ中、中国とインドが推進に乗り出している。日本あたりが、「先へ進んでも行き詰まりははっきりしているから、もう止めよう」と言わなくてはならないのに、国内で頭打ちになった分をインドあたりに売り込もうと躍起になっている。(9月30日)

 松野文部科学大臣は、高速増殖炉「もんじゅ」について、一部の報道で、「政府が廃炉にする方向で最終調整している」と報じられたことについて、「現時点で政府として具体的な方針を決定しているものではない」と述べました。
 そのうえで、松野大臣は、「政府内に、さまざまな意見はあるのだろうと思うが、予算・制度・組織上の課題について1つ1つ丁寧に解決していくよう関係省庁・機関と連携し、できるだけ速やかに結論を出したい」と述べ、文部科学省として、「もんじゅ」の存続を前提に検討を進める考えを強調しました。(NHK news Web)

 先が見えてきたかと思うと、またふりだしにもどる。根源にあるのは原発マネーをめぐる利権の構造に違いない。
 敦賀市の渕上市長は松野文科相と会談し、「われわれ立地自治体はもんじゅの重要性を理解し、国策の核燃料サイクルの研究開発に誇りをもって協力してきた」と存続を要請したとのことである。「もし廃炉にするなら、元の30年前に戻してくれとか、あす目が覚めたら更地になっているようにしてほしいとか、そういう気持ちになってしまう」とも述べたとのことだ。
 気持ちを理解できないわけではないが、もう限界なのではないか? 「経済的影響」というが、これまで地元に落ちた原発マネーが本当に地域を活性化させたのかどうかも検証すべきではないか?
 はじまりは「核燃料サイクルの研究開発に誇り」というのも真実だったろうが、素人目にも研究は行き詰まっており、すでに施設も老朽化している。このまま存続させても、永遠に金食い虫でしかなく、そのおこぼれにあずかるシロアリにまで堕落してはならない。
 そして、ひとたび重大事故が起これば、その影響は地元どころか日本を超えて世界に及ぶのだから。(9月14日)


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by yassall | 2016-09-01 00:36 | つい一言 | Comments(0)