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戦争法廃止5.19国会前集会

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 毎月の19日行動、戦争法を発動させない!参議院選挙野党勝利!安倍内閣は退陣を!5.19議員会館前行動に参加して来ました。
 いつものことながら、私が着いたころには議員会館前はもう参加者で満杯。ただ、毎回同じアングルではと一枚だけ写真を撮ってから国会図書館前へ移動しました。
 あたかも、沖縄で行方不明になっていた20歳の女性の遺体が発見され、元米軍海兵隊員で現在も米軍基地に勤務する軍属の男が逮捕されたというニュースが報じられた直後でした。
 スピーチに立った何人もの人がこのニュースに触れていましたが、わけても沖縄出身の糸数慶子参院議員の魂の訴えは参加者の胸に迫るものでした。
 なお、本日は埼玉県でも憲法会議主催による「輝け!日本国憲法のつどい」がさいたま市民会館で開かれています。


by yassall | 2016-05-19 22:12 | 日誌 | Comments(0)

詩とは何か  「鳥居歌集」から

 「鳥居歌集 キリンの子」を読みながら、詩とは何かについて考えた。それは、詩において「言葉」が先か、「心」が先か、という問題である。まだまだ雑感の段階であるが、少しく文章にしてみたい。
 よく引き合いに出されるのは、「太初に言あり」(「ヨハネ伝」)と「やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」(『古今和歌集』仮名序)の対比である。しかし、キリスト教文化圏であれ、日本語文化圏であれ、「言葉」が人間の思考、あるいは感情までも決定していくことは確かである。
 「言葉」は言葉の法則にしたがうから、主語は述語を求め、修飾語と被修飾語は相互に探究しあう。鳥居の次の歌をみてみよう。

  目を伏せて空へのびゆくキリンの子 月の光はかあさんのいろ

 この一首は「キリン」という言葉との出会いから始まっているのではないか? それは、「墓参り供えるものがないからとあなたが好きな黄色を着て行く」にある「黄色」が連想させたのかも知れない。そこから「キリンの子」という修飾・被修飾が導き出されることで、母の子という母子関係と自己認識が生まれる。
 さらに、キリンのイメージは「空へのびゆく」という修飾語の広がりを生み出す。変形生成文法の考え方にしたがえば、初発においては「キリンの子」が「空へのびゆく」という主語・述語の関係であったとみることも出来る。そうすると、それは「子」としての成長と自立を確認する言葉となり、距離をおいた地点からもう一度母と出会うことを可能にする。今、「キリンの子」をつつんでいる「月の光」を「かあさんのいろ」と認識したとき、母子の間に和解が成立し、交流し合う愛情を感じ取ることが出来る。

  虐げる人が居る家ならいっそ草原へ行こうキリンの背に乗り

 鳥居には別に上のような歌もある。鳥居にとって「キリン」はもともと開かれた「草原」へと自分を解放してくれるイメージとしてあったのかも知れない。地上からはるかに離脱した位置に頭をおき、「草原」にあって孤高を保てる存在として。したがって、先に述べたような「和解」もつかのまに訪れた一瞬の感情であったのかも知れない。それでも、そう歌ったとき、鳥居は一歩本来の自分に近づいたはずだと思うのである。次のような一首と出合うと本当にそう思う。

 お月さま少し食べたという母と三日月の夜の坂みちのぼる

 最初の問題にもどろう。「言葉」に捕らわれることで詩(歌)が生まれるのか、「心」がその現れ出る出口を求めて「言葉」を捕らえるのか?
 どちらが先かは別として、「言葉」との出会いによって激しく「心」が動かされるということなしに詩(歌)は生まれないと思うのである。
 先に、「言葉」はその法則にしたがう、と書いた。しかし、「キリン」の修飾語となり得る言葉、述語となり得る言葉は無数に存在する。「言葉に導かれる」といっても、無数の選択肢から選び取る力の源泉があるはずである。「言葉」が思考・感情を決定する、といっても、「心」を捕らえていない言葉は破棄されていった過程があるはずである。

 オレンジの皮に塗られた農薬のような言葉をひとつ飲みこむ

 上にあげた一首の「農薬のような言葉」とはどのような言葉であるのか? 自分に向けられた悪罵であるのか、あるいは一見は耳に心地よい偽善の言葉であるのか? いずれにしても、深く自分を傷つける予感に満ちた言葉であるに違いない。「飲み込む」とあるのは、表出されないという意味だろう。深く心に抱え込んだ言葉に苦しみながら、これを異物として拒否し、排除していく。
 最近、「自分をしっかり語る」というようなことを考えている。「自分をしっかり語る」ことは、「自分をとりもどす」「自分の居場所を発見する」ことであるに違いない。そして、矛盾するようだが、そのような「言葉」を捕らえることで、人は今ある自分を脱けだして(脱自)していくのである。

  心とはどこにあるかも知らぬまま名前をもらう「心的外傷」
  名づけられる「心的外傷」心ってどこにあるかもわからぬままで

 最後に定型という問題について考えてみる。これも「言葉」と「心」の関係に似た問題がひそんでいるように思うのである。
 寺山修司の創作活動が短歌、それより以前には俳句から始まったことを不思議に思ったことがある。希代の天才といってよい寺山が、なぜ短歌・俳句といった古典的様式を借りなければならなかったのか、という不思議である。
 私の出した回答は、言葉以前の「心」(本当にそのような「心」があると断言してよいのか、まだ自信はないのだが)があったとして、その混沌が「形」を有するものとして表出するためには、定型という通路を必要としたのではないか、というものである。
 鳥居の場合にもそれがいえると思う。定型との出会いによって、「形」あるものとして自分を見つめ直すことが出来た、そのことで「自分をとりもどす」「自分の居場所を発見する」ことが出来た、その証が「鳥居歌集」であると思うのである。
 ただ、定型は定型としての様式にしたがうという法則がある。それはときとして危ういものである、と思うのだ。
 上にあげた二首について述べる。上の一首は昨年の東京新聞に連載された「鳥居 セーラー服の歌人」でとりあげられた作品である。だが、この作品は歌集には収録されなかった。歌集に収録されたのは下の一首である。
 これは私の私見であるから間違っているかも知れないが、下の一首は上の一首を改作したもの、あるいはもともと同じ趣意の作品が何作かあって、歌集の編集にあたって選び直したものということだと思われる。
 そこで二首を比較してみる。上の一首の方が表現が直接的で、下の一首の方が技巧的であるように感じられる。もし、様式美という観点から下を選んだ(あるいは改作した)としたら、それは間違いではないかと私は思うのである。たとえ完成度で劣ることがあったとしても、固い土を破って表れ出る「言葉」の力、歌の発生に立ち会っているかのような臨場感は上の一首の方がまさり、また深い心の痛みや、「心的外傷」と呼ばれて済まされてしまうことへの鋭い拒否の姿勢、さらにはその反発が心のあり処への探究に向かう動きまでもが正しく伝わってくるように思うのである。



by yassall | 2016-05-13 16:58 | 詩・詩人 | Comments(2)

辣韮の季節

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 注文しておいたらっきょうがCOOPから届いた。鹿児島産1kgである。日数をおいてしまうと芽が出てしまうから、さっそく塩漬けの準備にとりかかる。根を取っては洗い桶に放り込み、泥を落としながら薄皮を剥いていく。
 水を張った桶に入れておくと、底に沈んでしまうらっきょうと、水面に浮いてくるらっきょうがあるのはどうしてだろう。その程度の思考が単純作業に向いている。
 写真は洗い終わったところ。どうみても泥つきなのに、商品名には砂つきとある。たぶん、らっきょうは砂地や荒れ地でもよく育つからだろう。少し水を切ってから塩をまぶしていく。今年は少し時間を置きすぎてしまったが、さて味がどうなることか? 生でも食してみようと思い、何個か別にしておいた。味噌でもつけて晩酌のつまみにするつもりである。

 

by yassall | 2016-05-11 20:03 | 日誌 | Comments(0)

コピスみよし/第15回高校演劇フェスティバルがスタートしました

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 5月6日、コピスみよし2016/第15回高校演劇フェスティバルの出演校打ち合わせ会・会場下見が開かれました。
 これから6月12日の本番に向かって、大道具や照明、音響関係の書類の提出があったり、プログラムを準備したりと、めまぐるしい日々が続きます。たくさんのお客さんに来てもらうために、チケット売りにも精を出さねばなりません。
 それもこれも、皆が舞台で輝くため。ぜひ、今日のわくわくする気持ちを大切に準備や稽古に励んでもらいたいと思います。
 今年は3年連続都大会出場を果たした東大附属中等教育学校が初参加。演劇仲間の縁があって実現した出場ですが、きっとよい刺激を与えてくれるでしょう。東京農大三高の「もしイタ」の再演も楽しみです。
 現役を退いて丸5年、15周年と聞くと感無量です。顧問との名をいただき、実行委員の末席に置いていただいている身ですが、私もわくわくした気持ちを楽しめそうです。

      6月12日(日) コピスみよし2016/第15回高校演劇フェスティバル

9:40 開場
10:00~10:05 開会式
10:10~11:10 上演①朝霞西高校
       「朝日のような夕日をつれて 21世紀版」作・鴻上尚史
11:30~12:30 上演②東大附属中等学校
       「トシドンの放課後」作・上田美和
12:30~13:30 (昼休み)
13:30~14:30 上演③星野高校
       「天使は瞳を閉じて」作・鴻上尚史
14:50~15:50 上演④坂戸高校
       「報道センター123」作・迦陵頻伽
16:10~17:10 上演⑤東京農大第三高校
       「もしイタ~もし高校野球の女子マネージャーが青森の「イタコ」を呼んだら~」作・畑澤聖悟
17:30~18:30 上演⑥新座柳瀬高校
       「Angel in Broadway!=SEQUEL"The Fist and Last Romance! "=」原作・ディモン・ラニアン 脚色・稲葉智己


※今年は少しチラシが遅れているとのこと。届いたらまたアップします!



 

by yassall | 2016-05-07 14:17 | お知らせ | Comments(0)

ポンペイ壁画展へ行ってきた

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 亀戸から有楽町へ出て日比谷線で六本木へ向かう。ポンペイの壁画展が開催されているのだ。それほど強い興味を抱き続けていたわけではないが、せっかくの機会を見逃してしまう手はないと思ったのだ。
 石材の上に漆喰を塗り、顔料で絵付けをしたり、色づけをしたりして行く。漆喰が乾いてしまわないうちに作業を進めなければならないのだそうだ。「ポンペイの赤」が名高いが、「エジプト青」と呼ばれる薄青色も美しいと思った。
 初めて知ったことだが、西暦79年のヴェスヴィオ火山の噴火によって埋もれてしまった都市はポンペイ以外にもあり、あわせて「ポンペイ、ヘルクラネウム及びトッレ・アンヌンツィアータの遺跡地域」として世界遺産となっているのだそうだ。
 同展覧会にはエルコラーノの壁画も展示されていた。チラシを飾る「赤ん坊のテレフォスを発見するへラクロス」はエルコラーノから出土したものだとのことである。
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 六本木ヒルズ。森アーツセンターギャラリーは52階にある。チラシの「天空に甦るイタリアの奇跡」というフレーズはその意味だった。





by yassall | 2016-05-05 12:45 | 日誌 | Comments(0)

亀戸天神の藤まつり

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 4日、亀戸天神の藤まつりに出かけて来た。隅田川を渡った向こうにはあまり縁がない。(荒川の先はもっと縁が薄い。)だが、丸ノ内線をお茶の水で総武線に乗り換えると、池袋からでも30分で亀戸に着いてしまう。亀戸天神まではさらに徒歩15分を要するが、これまで行ったことがないのが不思議に思えてくる。
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 天神といえば梅で、ここ亀戸天神にも300本からの梅の木が植えられているという。だが、亀戸天神ではそれ以上に藤の名所として名高い。うわさに違わず、ご覧のように心字池を覆いつくすようにして藤棚がしつらえてある。
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 ところが最初の太鼓橋を上ったあたりから、「あれ?何もない。」とか、「もう終わっちゃったのかしら?」などの声があちこちから聞こえてくる。嫌な予感を覚えながら境内を見回すと……。からっぽ、の一言しか出ない。
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 わずかに名残をとどめている花房があっても色づきも悪い。藤まつりは4月16日から5月5日、まだまだ見ごろが続いていると高をくくっていたのが間違いだった。花札でも藤の花は4月だった。
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 スカイツリーが見えても嬉しくない。
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 歌川広重「江戸百景」に描かれた太鼓橋。もちろん代替わりしているのだろうが。
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 せめて色づきのよいものを探してアップで撮ってみる。
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 キバナフジは通常の藤よりも半月ばかり遅れて咲くとのこと。そのためか、花弁はみずみずしいが数がない。
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 次回また来ることがあるかどうかは分からないが、再訪のときは時季を逃さないようにしよう。

 GM5+12-60mm


by yassall | 2016-05-05 12:09 | 散歩 | Comments(0)

5.3憲法集会に参加してきた

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 「平和といのちと人権を! 5.3憲法集会」に参加してきた。3月にも脱原発と安保法制関連でどうしても参加したかった集会があったのだが、体調不良で果たせなかった。そんなこともあり、今日の集会へは何としても参加したかったのだ。
 今年の会場は有明・東京臨海広域防災公園。ずいぶん遠く感じるが、池袋から埼京線・りんかい線乗り入れで一本で行ける。ただし、連休中ということもあって、電車は満員でずっと立ったままだった。と思っていたら、乗客の大半が国際展示場駅で下車、みな集会参加者だった。
 駅から会場へ向かう途中、右翼が騒いでいる。ただ街宣車を走らせているのでなく、ハンドマイクを持った連中が警備の機動隊ともみ合っている。機動隊側も盾こそ持っていなかったが乱闘服に身を固め、いつになくものものしい。(昔と比べ、乱闘服が洗練されているのに妙に感心した。)
 護憲か、改憲(壊憲)かのせめぎ合いはますます差し迫っている。右翼の妄動の激化もそうした緊迫感を反映しているのだろう。
 もちろん、その緊迫感は集会にも満ち満ちていた。ゲストに招かれた故菅原文太夫人である菅原文子氏、101歳のジャーナリストむのたけじ氏らのスピーチは力強く、とりわけむの氏の訴えは魂の叫びというべきものだった。
 憲法改悪に道を開くのか、これを阻止するかの、目下の焦点は今夏の参院選である。民進党、日本共産党、民社党、生活の党が政党あいさつに立ったが、いずれも党首を揃えてきた。生活の党がスピーチの最後だったが、小沢一郎氏が登壇したときには会場にどよめきが走った。
 各党の野党共同に対する本気度を示していると思うが、先般の北海道5区の補選における池田氏の奮闘にいきおいを得ているのは間違いない。
 その池田氏をあそこまで押し上げたのは、また野党共同を実現させた力は市民運動の後押しがあってのことだと言われている。
 昨年の横浜集会の参加者が3万人、今年はこれを上回る5万人の参加者があったと発表された。この力の結集が夏の参院選に向けてもっともっと広がっていけばいいと思った。


by yassall | 2016-05-04 01:20 | 日誌 | Comments(0)

高校演劇2016西部A地区春季発表会

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 4月29日・30日の日程で埼玉県高校演劇連盟西部A地区春季発表会が開催された。リタイアしてまる5年、そろそろ自分の立ち位置を見直す時期が来たかな、と考えることがないでもないのだが、行けば顔見知りの人たちにも会える、それよりも何よりも若い高校生たちの熱気のようなものに触れることができる、それが楽しみで出かけて来た。
 昨年から参加校が7校となり、久しぶりに2日間開催となった。そんなこともあってか、最初に気づいたのは観客が増えたということだ。客の側からすると役者たちの息づかいのようなものを身近に感じられることが演劇の魅力だが、舞台に立つ側にしても観客の反応が直に演技にはね返り、増幅されていくというふうになっているに違いない。「舞台と客席が同じ息をしている」というのはめざすべき目標のひとつである。今回の舞台がそこまで到達していたかどうかは別として、お客さんにたくさん来てもらうことは大切な努力目標である。

 さて、書き出しがもたもたしているのは、今回は何を書いてよいのか、あるいは何か意味があるのか、つかみ兼ねているからなのだが、これだけの芝居をみせてもらった礼儀として少しく感想など書いてみたい。
新座高校「昭和みつぱん伝 浅草・橋場二丁目物語」作・タカハシナオコ
 12月8日、開戦を知らせる臨時ニュースが流れる中、幕が開く。戦時下、立場の違いはあるものの、友人同士であった15歳の少女の会話から、幼いながらどのように戦争の時代と向き合っていったかが描かれる。
 二人芝居でできる台本を、ということで出合ったのかも知れないが、新たな戦前の始まりといわれる昨今にあって、よくぞこうした台本に取り組んだと思った。
 自分たちなりに脚本を理解し、自分のことばで表現しようとしていることはよく伝わって来た。課題としては、大きな声を出し続ければ強い感情が表現できるということではないこと、身振り手振りが多すぎるとかえって科白が説明的になってしまうことに気付き、芝居のヤマをどう作って行くかではないだろうか?
和光国際高校「JOINUS!」作・黒瀬貴之
 作者は広島の先生だそうである。広島で平和教育のリーダー的存在だった石田明さんは自らも被爆者だった。被爆体験の継承といったとき、世代交代にともなう困難さと、克服の課題があるのだろう。
 卒業公演にあたって、語られなかった祖母の体験をもとに台本を書き、部員たちを説得して採用してもらうことになった。だが、明日が本番というときに、部員間にどうしてもしっくりこない空気が流れいる。
 理由は二つ。転校生でありながらこの半年苦楽をともにし、皆からの信頼を得ていた聡子が抜けてしまったこと。理由も明かさないままだったから、トゲのように皆の心に刺さっている。やがてそれは「言っても誰にも理解されない、聞かれることが苦痛である記憶というものがあり、そっとしてあげる方がやさしさだ」という命題が隠されていることが明らかになる。
 もう一つは、被爆者の気持ちを理解できることに不安を感じ、演技に確信が持てない、というジレンマである。それは脚本を担当した部員の思い、「本当には理解できない(できるはずがない)」「だが、受けとめたい(受けとめなければならない)」という命題を導き出していく。
 後者のことばに、母の気持ち、子の気持ちをつかみ兼ねていたキャストたちも納得して、芝居にとりくんでいく意欲をとりもどす。広島の教師と生徒たちが、先に述べた被爆体験の継承という課題に向き合おうとして書かれたのだと思った。
 何日かたってみると台本の荒さというものは確かに否定しがたい。ついさっきまで通し稽古にも至ることが出来なかったという設定で助けられている(ごまかされている)ところも多々ある。
 雲上まで伸びた豆の木を上っていくと娘と再会できた、という設定はファンタジーに逃げたとも批評されていたが、何も語らずに死んでいった祖母がせめてあの世で娘と再会できるように、という孫の願望がそのラストシーンを選んだということであれば、私としては十分許せる範囲である。
 「地方からみた東京」というようなところも垣間見えて興味深くもあるのだが、聡子のドラマは不要だっただろう。中途半端だし、先にあげた二つの命題もきちんとはぶつかり合っていない。
 顧問のHさんにいわせると、どうやらこの台本を部員たちが選んだ最初の動機は、聡子のドラマの方にあったらしい。そうだとすれば、途中からずいぶん戸惑いもあっただろうが、最後までよく真面目にとりくんだと思う。
細田学園高校「第一次学校戦争」作・細田学園高校演劇部
 最初の2校を長く書きすぎてしまった。あとは一気呵成になってしまうがお許しを。
 昨年、復帰したときはどこか遠慮がちであったが、舞台に大勢を立たせ、のびのび、堂々と演じていた。申し訳ないことに、途中ストーリーをつかみ損なってしまったところがあったのだが、「自分をしっかり語ること」というようなことを考えながら見させてもらった。
朝霞高校「カナリア」作・黒岩力也
 こと朝霞高校となると、どうしても点数が辛くなってしまう。
 2003年度劇作家協会新人戯曲賞受賞作だということを後で知った。一口に不条理劇といっても、観客を一世界としてのワンダーランドへ誘おうというより、はぐらかし、無限に横滑りをしていくことで、観客の理解そのものを拒絶してしまおうとしているかのように思えた。
 チャレンジ精神を買おう!といいたいところだが、台本をつかみそこね、振り回されて終わってしまったのではないか?
 個々の場面の積み重ね(マッチ箱の中にもひとつの世界があり、実はその世界の中に自分は閉じ込められているのでないか?等)であったら、その驚きや不安やらの、個々のリアリティ(と面白さ)を伝えなければならない。そのためにはまず自分たちが驚きや恐れを感じなければならない。(面白さを伝えたいなら、その見せ方を工夫しなければならない。)大道具や衣装の選択も雰囲気を作り切れていないと思った。(二年生の男子には進歩があった。)
新座総合技術高校「恋愛計画書」作・NSC演劇部
 菖蒲可奈の正親町先輩への恋心のめざめはいつだったのだろう、紅東桃苺との恋のさや当てはどこにあったのだろう(桃苺が天然すぎでさや当てになっていない)、どんな計画書が書かれたのだろう、と突っ込みどころは満載である。
 しかし、いい加減さとまでは言わないが、その「軽さ」に妙な味わいがあってけっこう楽しめた。練習不足なのは確か。立ち姿はよかったりするだから、もったいない。そのことも含めて次作を期待したい。
朝霞西高校「朝日のような夕日をつれて」作・鴻上尚史
 かなり力のある部員たちが卒業してしまって、あとがどうなるのかと気になっていたが、素晴らしい出来栄えだった。
 鴻上の台本の力があってのことには違いがないが、その台本の重さにつぶされてしまうどころか、先ほどの言い方でいえば「自分をしっかりと語る」ように演じきったことには感嘆するばかりである。
 社長は前作から引き続いての熱演だったが、もう少し大きく口を開けるようにすると科白がはっきり聞き取れるようになるのではないか? これだけのテンポを維持できているのだ。早口になって芝居が走ってしまうよりいいと思う。
新座柳瀬高校「Angel in Broadway!」原作・Damon Runyon 作・稲葉智己
 ダンディズムということばを思い出した。舞台は禁酒法時代のアメリカというから、本当はguyたちの物語ということになるのだろが、やはり作者独特の美意識が背景にあると思った。
 日本でいえば「粋で、いなせ」で、男前を頼りに夜の世界を生き抜いて行こうという男のダンディズムは、一人の女性への恋心のめばえによって危うくも今まさに破綻しようとしている。今日の芝居は少々坦々としてしまって、その緊張感が弱かったような気がするが、続編に対する期待は高まっている。
  ※
 「自分の立ち位置」というようなことを書いた。それはどうも「いっしょに芝居を作っている(いた)仲間」という意識の薄まりということではないだろうか?
 こうした感想めいたものも、「通りすがりの」一観客として発せられるもので、よけいなお世話になってしまわないような心がけが必要になっているのかも知れない。
 それでも、「芝居づくりをともにした人たち」のための打ち上げの席に招待されると、つい甘えて参加させてもらっているのだが。
 

 

 
 

 

by yassall | 2016-05-02 20:20 | 高校演劇 | Comments(0)

つい一言 2016.5

 高速増殖炉「もんじゅ」(福井県)について、政府が存続の方針を表明するという報道があった。
  http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160515-00000050-san-soci
 記事を細かく読んでいくと「実際の存続は不透明な状況にある」ともあるが、どうしてこういう結論になるのかまことに不可解である。
 昨年11月、原子力規制委員会は「もんじゅ」について「廃炉も含めた運転主体の見直し」を勧告した。「もんじゅ」は運転トラブルで長期停止し、点検漏れを点検済みと報告するなど、保守管理に関する不祥事も相次いでいる。また、過去5年間一度も稼働していないが、プラントの維持に加えて固定資産税や人件費も含め年平均220億円以上を支出、これまでに1兆1703億円の経費がかかったとされている。勧告は遅すぎたともいうべきであり、ようやく「廃炉」に向かうのではないかと期待された。
 もちろん、そうすんなり事は運ばないだろうという予測もあった。ひとつには、これだけの巨大マネーが動くからには、複雑な利権の構造が存在するに違いないということがある。また、使い道のないプルトニウムが約48トンあり、これを抱え込み続けるには、高速増殖炉での消費という将来計画を掲げ続ける必要があるのだろう。しかしながら、政府がプルトニウムを保有したい理由は核兵器の開発・製造・保持の道を残しておきたいから、という疑念はついに払拭されないのである。
  ※
 かつて核燃料サイクルを基盤とした高速増殖炉は「夢のエネルギー」といわれた。その破綻は「人類には核を制御することは出来ない」という証明でもあったと思う。
 (そうは考えないという立場に立ったとしても、次世代の核エネルギーはすでに核融合の開発に向かっている。高速増殖炉はすでに遅れた、危険きわまりない、不必要な技術でしかない。)
 ここに及んでも「もんじゅ」にしがみつくことは、利権と政治的思惑にがんじがらめになり、理性を失ったと評するしかない。迷走は暴走を生むしかない。(5月15日)
by yassall | 2016-05-01 11:13 | つい一言 | Comments(0)