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関東高等学校演劇研究大会さいたま会場を見てきた

 1月23・24日、第51回関東高等学校演劇研究大会さいたま会場が彩の国さいたま芸術劇場で開催された。今回は観劇の予定はなかったのだが、写真記録係を頼まれ、どうせヒマはヒマなのだからと出かけて来た。「あくまでピンチヒッターですよ」と断りを入れてのことだが、ずっと係を担当してきたIさんも、午前中の公務を終えたあと、両日とも駆けつけてくれたので気が楽だったし、今後についても安心してよさそうである。
 2日間の日程で12校の上演があった。うち3校は埼玉県代表である(開催県であるので他県より1校枠が多い)。昨年11月の県中央発表会も見ているので埼玉代表については2回目の観劇となる。
 県立川越と芸術総合についていうと、県中央発表会の方がよかったと思った。11月から1月までの間に期末考査が入り、正月が入る。そのためかどうかは分からないが、県立川越の方は微妙な間の狂い、立ち位置の狂いがあったような気がする。芸術総合は逆に稽古のし過ぎ(期末考査をないがしろにしただろう、などとは決していわない)というと変なのだが、科白に感情がこもりすぎていて、ときに人を置き去りにして流れていかなければならない時間を、しばしば立ち止まらせてしまっているように感じた。それでも、その分、完成度は増したように感じた。戸田翔陽は基本的な弱点は克服されていないものの、県中央発表会のときよりもレベルアップしていた。
  ※
 とはいえ埼玉勢、とくに県立川越と芸術総合については、他県の代表校と比べてみても、一歩抜きんでていると思った。果たして、さいたま会場の審査結果は次のようであった。

最優秀賞
 埼玉県立芸術総合高校 「解体されゆくアントニン・レーモンド建築 旧体育館の話」 オノマリコ 作

優秀賞(上演順)
 東京都立町田高校 「はなさかさん」 松澤美奈子と町高演劇部 作
 長野県長野清泉女学院 「宇宙の子供たち2015」 クリアウォーター 作
 長野県茅野高校 「話半分」 郷原 玲 作
 埼玉県立川越高校 「最貧前線」(「宮崎駿の雑想ノート」より) 宮崎 駿 原作/阿部哲也 脚色

創作脚本賞
 「震える風」 田村和也 作(新潟県立長岡大手高校

 最優秀賞の芸術総合は、
来週開催される龍ケ崎会場(茨城県)での最優秀校とともに、8月に広島県で開催される全国高等学校演劇大会(全国大会)に推薦される。また、両会場の優秀校の内から、さらにもう1校が同じく全国大会に推薦される。
 つまり県立川越にも全国大会への出場のチャンスが残されていることになるが、現時点でまず芸術総合の全国大会進出が決定した。顧問のMさんは全・定の別はあるが川越工業で元同僚、私の志木高時代はMさんは大宮南の演劇部顧問で、浦和北との3校で合同自主公演会を開催させてもらった仲である。まずはおめでとう!のことばを贈りたい。
  ※
 審査結果は順当であると思った。ただ、優秀賞についていうと、何校か入れ替わりがあってもいいと感じた。具体的にいうと、次の2校は優秀賞に入ってもおかしくないと思った。

 新潟県立長岡大手高校 「震える手」 田村和也 作
 群馬県新島学園高校 「ブナの花道」 大嶋昭彦 作

 長岡大手は創作脚本賞を射止めたように、まず脚本がすぐれていると思った。都立町田と同じく、東日本大震災を背景にしているが、そこから受けとめなければならないもの、記憶に留めなくてはならないものに対する視線が鋭利で、より深いと感じた。幕が開いたときこそ、「何でブルーシートなの?」などと思ってしまった(テーマをつかんだあとは納得)が、両側に役者を待機させ、その場で衣装替えをしながらさまざまな役を演じさせるという実験的な方法も演劇的に優れていると思った。役者たちの演技も丁寧だったが、その分やや単調になってしまったところで点数を下げてしまったのだろうか?
 新島学園は何となく懐かしい香りが漂ってくる芝居だった。いわば「農民運動」を志して農村に飛び込んでいった学生(インテリゲンチャ)が、素朴ながらもたくましい農民たち、そして伝統(芸能)に裏打ちされたその感性の力強さに圧倒される、といったような内容である。ただ、その農村自体が崩壊しつつある現代日本にあって、リアリティを失い、ノスタルジックに感じてしまうのは私だけではないように思った。
  ※
 審査員の講評を聞いていて、ひとつだけ「それは違うのではないか?」と感じたことがあった。
 長野茅野の「話半分」は内容も演技も優れていて、優秀賞に選ばれるべき芝居であったということに異議はないのだが、審査員のどなたかが「ミドリが母に伝えることばは違うのではないか?」と、演技そのものというより台本に対する疑問を差し挟んだのである。
 確かに、「シゲルは最後にアメリカ兵を一人殺して死んでいった」ではひどすぎる。だが、「母さん、生きて帰って風呂に入りたかった」であれば母の心が安らいだとも思えない。
 では、もし先の科白が「息子さんは決して脱走兵などではなかった。アメリカ兵と勇敢に戦って死んで行った」だったらどうだっただろうか?
 ミドリといっしょに電話交換手として働いていたハツエは空襲で死ぬのだが、その死者のことばが「私は通信戦士として最後までお国のために戦った」だったのと合わせて考えると、私の言い換えは決して当てずっぽうでないように考えるのである。
 このようにいったからといって、私はこの芝居の作者が「大東亜戦争肯定論者」だなどといっているのではない。国防婦人会の描き方とか、政府要人の本音の描き方とかをみれば、反戦論の立場に立っていることは明白であると思う。
 おそらくは加藤典洋が『敗戦後論』で提起したのと同様の問題意識、つまり「死者の弔い方」として「命令のままに残虐にふるまった報いを受けた」もしくは「国家に翻弄された悲惨な犠牲者」だけでいいのだろうか、無意味・無価値な死=命として否定し、思い出す必要もない過去として、死者たちを戦後社会から遠ざけてしまっていいのだろうか、という提起なのだと考えたのである。
 それは戦争体験の風化と共に、「戦争放棄・平和国家建設」を訴えればそれだけで共感が広がった時代が過ぎ、「抑止力強化=国防」の必要性の名の下に、またぞろ「五族協和」「八紘一宇」などの戦争美化が復活しつつある今日であるからこそ、死者の声、それも名もなく斃れていった人々の声に耳をかたむける必要があるのだと訴えている。私はそう受けとめたのである。
 「話半分」は生者の声だけでなく、死者の声を聞け!というに止まるのではない。「話半分」に聞くというのは、決してどっちの話もうかつには信用ならんといった相対化ではなく、もっと柔らかく、素直な、しかし真実の意味でかしこくならなくてはならない、という戒めであると思ったのだ。

 というわけで、私は居眠りをしないようにだけ注意しながら、ときどきシャッターを押せばいいというお役目で済んだのだが、運営にあたった役員の方々には本当にお疲れ様でしたと言いたい。とくに寒風吹きすさぶ中、一本の芝居を見ることも出来ないまま、入場者整理に当たられた人たちには頭が下がるばかりだ。
 他県から遠路をおいでになった出演校関係者に入場制限をかけなければならなかったのが辛い、というような声も聞いた。都大会のような、人数を制限し、座席指定をした上での、1回交代による予約制を検討してもよいのでは、と考えたが、埼玉が次ぎに会場になるのは5年後のことだから、もはや私が口出しすべきことではない。


by yassall | 2016-01-25 15:19 | 高校演劇 | Comments(2)

鳥居「キリンの子」

目を伏せて空へのびゆくキリンの子 月の光はかあさんのいろ
墓参り供えるものがないからとあなたが好きな黄色を着て行く
花柄の籐籠いっぱい詰められたカラフルな薬飲みほした母
あおぞらが、妙に乾いて、紫陽花が、あざやか なんで死んだの

揃えられ主人の帰り待っている飛び降りたこと知らぬ革靴
刃は肉を切るものだった肌色の足に刺さった刺身包丁

全裸にて踊れと囃す先輩に囲まれながら遠く窓見る
先生に蹴り飛ばされて伏す床にトイレスリッパ散らばっていく
心とはどこにあるかも知らぬまま名前をもらう「心的外傷」
音もなく涙を流す我がいて授業は進む 次は25ページ

祖母のこと語らぬ母が一人ずつ雛人形を飾る昼すぎ
路線図のいつか滅びる町の名へ漂白剤のように雪降る
もう誰も知らない母の少女期をみどりの蚊帳で包めり昭和

 鳥居のことを知ったのは昨年の東京新聞で連載された「鳥居 セーラー服の歌人」によってである。連載の署名は文化部・岩岡千景となっていた。記事中で紹介された短歌に引き込まれ、あわてて切り抜きを始めた。21回まで続いたが、連載そのものも力作だと思った。
 鳥居は本名も年齢も明かしていないという。その生い立ちは壮絶である。両親は2歳のときに離婚、母は小学校5年の時に自殺、天涯孤独となる。児童養護施設に預けられたが、激しいいじめや虐待を受けたという。中学卒業後、16歳から働いて一人暮らしをしている。
 中学校では不登校となり、義務教育をきちんと受けていない。セーラー服を着るのは、自身の義務教育を受け直したいという意思表示と、同じようにいじめや貧困などから学校に行きたくても行けない子どもたちがいることを表現するため、としている。
 養護施設での楽しみは、部屋の片隅に置かれていた中日新聞を読むことだったという。辞書を引き引きだったというから、半ば独学でことばと漢字を覚えた。文学との出会いも朝刊の岡井隆の「けさのことば」からだったという。2012年、全国短歌大会で佳作に入選、13年掌編小説で路上文学賞、14年に中城ふみ子賞の候補作に入った。
 その後、注目を集めるところとなったが、もちろん理由は作品の力である。その生育歴が作歌の原エネルギーであるのは確かだろうが、生い立ちそのものの特異性に対する関心からではあるまい。
 これらの短歌を紡いでいくことで、この傷ついた魂は浄化されるのだろうか? はたまた、魂が浄化されたとき、作歌も止まってしまうのだろうか? それはまだ私には分からない。ただ言えることは、この短歌たちは歌人本人の心の傷を曝すにとどまらず、たとえば死んでしまった母、あるいは多くの不幸な子どもたちの魂にも寄り添おうとしていることである。
  ※
 何とか他に情報を得たいと思ったが、ネットで検索しても新聞の連載以上のことはなかなか知ることができない。ブログをはじめているのが分かったのでリンクをはり、ときどき閲覧していた。
 本が出たらすぐにでも買うのに、と思っていたら、つい最近のブログに出版情報(1冊は岩岡千景の著作)がアップされていた。
 そこで、詩・詩人シリーズとしてアップし、あわせて紹介する。(私はすぐにamazonで予約注文した。)

「キリンの子 鳥居歌集」
著者:鳥居
価格:1728円
「セーラー服の歌人 鳥居 拾った新聞で字を覚えたホームレス少女の物語」
著者:岩岡千景
価格:1404円
出版社:KADOKAWA(アスキー・メディアワークス)
発売予定日 : 2016年2月8日

※出版社、発売予定日は両書とも。



ブログ鳥居のURL
http://toriitorii.exblog.jp/

※最後までお読み下さった方へ
本が届いた後、「詩とは何か 「鳥居歌集」から」(2016.5.13)を書きました。あわせてお読みいただければ嬉しく思います。



by yassall | 2016-01-20 15:18 | 詩・詩人 | Comments(2)

戦争法廃止!1.19総がかり行動に参加してきた

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 私たちはあきらめない!戦争法を廃止へ!安倍内閣は退陣を1・19総がかり行動に参加して来た。(主催:戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会)
 昨年の9月19日、集団的自衛権の行使にもとづく安全保障関連法案が強行採決された。その日を忘れないために、毎月19日に何らかの行動をしようではないか、という提起がなされた。
 集会名は「あきらめない!」で、もちろんそれは大事なのだが、まずその前に「忘れない!」ことが重要なのだということに深く共感する。何でも自民党筋では「国民は餅を食えば(正月が過ぎれば)忘れる」と宣わってはばからない議員がいるそうだが、これほどの侮りを受けるのは耐え難いではないか!?
 といいつつ、月一度1時間の行動になかなか参加できないでいた。年明け早々、今日行かなければ1年行かずじまいになってしまうかも知れないと、家事の残りも早々に出かけて来た。
 開会は18:30からだったが、10分ほど遅れていくと、メインの議員会館前はもう参加者でいっぱいだった。国会図書館前の方へ誘導されたが、こちらにも1枚目の写真の通り人が押し寄せている。
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 そこで議事堂の写真は国会図書館側からということになった。参加者は議事堂側へは渡れないから閑散として見えるが、実は大勢の警察官で警備を固めている。
 主催者発表で参加者総数は5800人。旧知のH夫妻、Sさんとは帰路をともにした。Uさんと会ったのは10年ぶり以上ではないだろうか?

 先週の金曜日には脱原発国会前行動に参加してきた。もう750回(正確な数を聞いたはずなのだが忘れた)を超えているそうである。民主党政権時代から続いているから当然そうなるのだろう。毎週は無理だが、せっかく都内に在住しているのだから、こちらにも月1回は参加しようと思っている。以前より参加者が減っているのは仕方がないが、やはり「忘れていない」ことを伝え続けていくことは大切だと思っている。

(↓こちらにも記事が載っていました。)
http://www.labornetjp.org/news/2016/0119yumoto
by yassall | 2016-01-20 13:46 | 日誌 | Comments(0)

別役実「街と飛行船」を見てきた

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 キナコこと今は劇団昴の広瀬和から出演情報があり、別役実の「街と飛行船」を見に行ってきた。会場は東京芸術劇場シアターウエスト、11月に高校演劇都大会が開催されたホールである。劇団昴サードステージHPの公演案内には次のような説明がある。

  劇団昴+鵜山仁、別役作品初挑戦!!
   とある街に降り立った、セールスマンの男。
   そこは、見知らぬ閉じ込められた街。
   街に住む人々は、仮想家族を作り、そして、仮想の思い出を作っている。
   ある日、街の上空には飛行船が。
   飛行船は、街を救う象徴なのか?それとも・・・

 演出の鵜山仁は文学座の所属であるとのことだが、ネットで探りを入れてみると、どうやらこの人が仕掛け人となって別役実フェスティバルが開催されている最中であるらしい。参加は19団体におよび、すでに昨年の8月から6作品が、今年に入ってから7月までに5作品が、あるときは兵庫、あるときは北九州と、さまざまな劇場で、さまざまな劇団によって上演されるという一大イベントである。今日の「街と飛行船」は年明けの口火となる公演である。
 上演時間は途中休憩をはさんで2時間45分。内容の詳細を紹介したりはしないが、何はともあれ別役ワールドをたっぷり楽しませてもらったというのが感想だ。冒頭で「(ここは)ふるさとを失った人のふるさと、ふるさとを失った人のための遊園地」(あまり正確ではないかも知れない)という科白の繰り返しがあるが、芝居の精髄はここにあると思った。故郷喪失あるいは自己同一性もしくは帰属感の不確かさ。そんなふうに言ってしまうと却ってありきたりになってしまうが、もしかすると「愛しあっている」と思い込んでいるのも、その不安から逃れるためにその「振り」をし「欺し合っている」だけなのかも知れない、という世界が繰り広げられる。
 「遊園地」はいかにも嘘くさいが、それゆえにワンダーランドである。だから、まがいものでありながら、あくまでゴージャスでなくてはならない。最初は簡素に、しかし次第に大がかりになっていく舞台装置はそんなワンダーランドをみごとに現出していた。
 もちろん、役者たちも達者だった。男役の中西陽介は昴に入団して10年余らしいが立派に主役をこなしていたし、ベテラン陣から若手まで総勢32名(一人二役もあるから役名数はもっと多い)にスキは見えない。分けても市長役の北村総一朗の存在感は(当然といえば当然だが)群を抜いていた。今年80歳となり、久しぶりの舞台出演ということで、新聞の劇評などでも評判になっていたようだ。(劇場の入口には北村総一朗宛の盛り花が並んでいたが、贈り主はどれも映画やテレビドラマで名を知る有名どころである。)
 入団して日も浅い広瀬和は街の人という役どころだが、何とか科白はもらっていた。芸達者たちに囲まれて、たぶんその一言二言の科白だってどう出したらよいか、きっと大いに悩んだことだろう。だが、本人も自覚しているとおり、こうして場数を踏むことで、どれだけ多くのものを吸収できるかが今は大切なのだろう。
 歌手の女に抜擢された村松や、出番は少なかったが桑原、舘田たち同期生も一所懸命だった。ぜひ、切磋琢磨しあって伸びていって欲しい(と、何となく顔も覚えてしまったおじさんは激励したい気持ちでいっぱいなのだ)。
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 夜の部もあるし、今日は会えずに帰ることになると思っていたが、メールだけでもしてやろうとロビーにいたらキナコが出て来てくれた。上は次回公演のチラシだそうである。どういう経緯での「自主企画」かは詳らかでないが、卒業生の皆はぜひ応援してやろうではないか!

 


by yassall | 2016-01-13 00:54 | 日誌 | Comments(0)

三浦英之『五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後』集英社

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1 窓は夜露に濡れて
  都すでに遠のく
  北へ帰る旅人ひとり
  涙流れてやまず

 という1番からはじまる「北帰行」は小林旭の持ち歌である。昭和30年代に歌声喫茶で歌われていた曲を採譜・アレンジしたものだという。小林旭版で割愛された2、4番の歌詞は以下のようになっている。(その他、2、3番にも微妙な相異がある。)

2 建大 一高 旅高
  追われ闇を旅ゆく
  汲めど酔わぬ恨みの苦杯
  嗟嘆(ああ) 干すに由なし

4 我が身容るるに狭き
  国を去らむとすれば
  せめて名残りの花の小枝
  尽きぬ未練の色か

 中学生のころ、たしか「中二時代」(あるいは「中三時代」)の付録についてきた歌集で、私は原曲の歌詞を知った。(たぶん歌集を編集した人は歌声喫茶版によったのだろう。)
 2番の1行目に「旅高」とあるのは「旅順高校」の略だろうと察しがついた。日露戦争のことを聞いたり、父が兵隊時代に満州にいたことから、旅順という地名は知っていた。だとすれば小林旭の無国籍的な歌とは違って、「さらば祖国/わがふるさとよ」という歌詞にも真実味があると感じたことを記憶している。
 では、その前の「建大」とはどこか? なぜかは分からないが、きっとこれは「建国大学」という大学が、満州国のどこかに国策によって創設された歴史があったに違いない、との「勘」が働いたのである。その勘は正しかったわけだが、私が最初に「建大」の名を知ったのはこのときである。

(「北帰行」の作詞・作曲は宇田博であるということが判明したのは、歌が流行るようになってからずいぶん後になってのことらしい。旧制一高の受験に失敗した後、満州の親元に帰り、建国大学前期(予科)に入学するも校則違反で放校、次いで旅順高校に入学したが、ここも校則違反で退学になった。まさに歌詞そのままである。
 ※宇田はその後旧制一高を再受験、東大卒業後、戦後はTBSに入社した。
 ※「北帰行」の原曲は現在「旅順高等学校寮歌」となっているが、宇田は退学が決まった直後にこの歌を作詞し、寮の友人たちに残していったという。その後、寮生たちが歌い継いでいったということであって、最初から「寮歌」として作られたものではない。
 ※また、「寮歌」として歌い継がれたと書いたが、旅順高校は日本の敗戦と同時に5年で廃校となっている。)

 次に私が「建国大学」の名を意識するようになったのは安彦良和の『虹色のトロツキー』によってである。50歳のころ、ちょうど家の建て替えで3ヶ月ほどマンション住まいをしていた折、近所の本屋でたまたま手に取った。私が購入したのは中公文庫コミック版だが、元々は1990年から1996年にかけて他誌で連載されたものらしい。中公文庫からは刊行中だったが、すっかり夢中になってしまい、ついに8巻を揃えることになった。
 物語は日本人の父とモンゴル人の母の間に生まれたウンボルトが「建国大学」に特別研修生として入学してくるところから始まる。関東軍参謀にして建国大学創設主任であった辻政信が連れてくることになっているのだが、この部分はもちろんフィクションである。ではあるが、石原莞爾、甘粕正彦、川島芳子、李香蘭、はては大本教の出口王仁三郎、合気道の創始者である植芝盛平まで登場する、ロマンあり、活劇ありの一大歴史絵巻は、綿密な調査に裏づけられた昭和裏面史たり得ていて、ノモンハン事件までを描く。
 ここで『虹色のトロッキー』にまで深入りするととりとめもなくなってしまうので、早々に切り上げることにするが、ただなぜ「トロツキー」なのかというと、ソ連を追放されたトロツキーを「建国大学」の講師に招聘しようという構想があったのは本当らしいということだけ言い添えておこう。

 さて、ようやく本題に入る。『五色の虹』の筆者三浦英之は朝日新聞記者。2010年から翌年にかけて「建国大学」に関する取材にとりくみ、一部は夕刊紙に連載されたとのことである。
 2011年の東日本大震災の取材、その後の米国留学などの間に原稿をまとめ、建国大学同窓会の人々の協力による裏づけを得たのち、出版を決意したという。インタビューに応じてくれた人々が高齢であることからの「曖昧さ」、あるいはその人が暮らす国の政治状況に対する配慮から、一時は本にすることを断念しようとも考えたとのことだが、かえって建国大学卒業生の人々から背中を押してもらったという。開高健ノンフィクション賞に応募し、受賞したことで書籍化への道が開けたという。
 出版は昨年の12月。私は東京新聞の書評で知り、5日に外出した際にジュンク堂で購入した。上記のことから、いつかもっと詳しいことを知りたいと思っていたのだった。
 本を買って帰ると、まずパラパラと拾い読みをしてみる。そうして読む順番を決める。今すぐに必要な情報が得られそうか、少し腰を落ち着けて読んだ方がよさそうか、などのあたりを付けるのである。
 読み出したら止まらなくなる本というものがある。他に読みかけの本もあったのだが、こちらを優先させることにした。7日には読み終わった。力作だと思った。よくぞ書いたと思った。

 「建国大学」は満州国の崩壊とともに歴史の闇へと姿を消した。開校して8年弱という歴史の乏しさもあり、大学の資料はほとんど残っていないという。というより、敗戦と同時に焼却されてしまった資料も多いことだろう。
 戦後に卒業生たちがたどった運命もまちまちである。「建国大学」の卒業生・在学生であったことを伏せなければ生き延びられなかった時代を過ごした人も多いようだ。だが、卒業生同士の連帯感は強く、お互いに連絡を取り合いながら名簿などは整理されてきたらしい。「満州建国大学卒業生たちの戦後」というサブタイトルのとおり、各国に散らばった卒業生を訪ね歩いてのインタビューを骨格にしている。卒業生の人々にしてみれば、「今、話しておかなければ」という気持ちがあったのではないか? その語り口をみると「これが最後になるかも知れない」という心情がひしひしと伝わって来る。

 三浦が書く通り、建国大学は「日本の帝国主義が生み出した未熟で未完成な教育機関」であったことは間違いないだろう。当初に掲げた「五族協和」の理念も開校数年後には神道や天皇崇拝の強制がはじまり、植民地下における支配と被支配という、そもそもの矛盾を覆い隠せるものであり得るはずもなかった。
 それでも、学費・学寮生活費は免除、他に官費で月5円を支給、言論の自由は完全に保障されるというばかりでなく、むしろ学生たちのみによる宿舎ごとの討論会が奨励される、図書館ではマルクス主義の文献や孫文の著作も自由に閲覧できるという、きわめて実験的な教育方針には興味をそそられる。貧家に育ったために進学を断念せざるを得なかった秀才たちが、その建学精神に呼応して(そうでなくともそれぞれの志を抱いて)きそって受験したため、「建国大学」は超難関校となったというのはあながち嘘ではないだろう。「建国大学」一期生は全部で150人、うち日本人65人、中国人59人、朝鮮人11人、ロシア人5人、台湾人3人であるという。受験生は約1万人であったとのことだ。(ついでにここで書いておくと、入学後は宿舎内も同一の民族ばかりにならないようにし、床をとる順番も互い違いになるよう規則が定められていたという。)

 「建国大学」の発案者は石原莞爾であるとのことだが、その石原はそのあり方について①建国精神、民族協和を中心とすること、②日本の既成の大学の真似をしないこと、の他に、③各民族の学生が共に学び、食事をし、各民族語でケンカができるようにすること、④学生は満州国内だけでなく、広く中国本土、インド、東南アジアからも募集すること、⑤思想を学び、批判し、克服すべき研究素材として、各地の先覚者、民族革命家を招聘すること、といった意見を述べたという。
 これらがその通りに実現されたわけではないが、⑤にしたがって先述のトロツキー招聘も構想されたし、実際に1919年に朝鮮で起こった「三・一独立運動」で「独立宣言書」を起草した崔南善が教授として採用された。その崔南善にひかれて「建国大学」に二期生として入学した姜英勲氏は後に韓国首相となり、南北初の首相会談を実現させた人物である。
 「建国大学」に通っていた非日系の学生の多くは、戦後「日本帝国主義への協力者」とみなされ、自国の政府・民間から厳しい糾弾や弾圧を受けた。
 ただ韓国のみが母国にもどった彼らを「スーパーエリート」として国家の中枢に組み込もうとした。それは語学力や国際感覚に優れていただけでなく、当時国家が最も欲していた軍事の知識を習得していたからだ、というのには考えさせられてしまうが、韓国が置かれた歴史的地位を思えば納得せざるを得ないのかも知れない。
 姜英勲氏は陸軍中将として士官学校校長にまで昇り詰めたが、その姜氏をもってして、朴正煕のクーデターを批判したために4ヶ月の投獄ののち、アメリカへの亡命同然の生活を送らざるを得ないほど、卒業生たちの人生は順調ではなかった。姜氏が首相として招聘されるのは士官学校時代の教え子である盧泰愚が大統領に就任したときである。

 大連で取材にのぞんだ一期生の楊増志氏は、在学中に反満抗日運動のリーダーとして地下活動中に検挙されたという人物であるが、中国当局からマークされていたらしく、インタビュー中に長春包囲戦に話題が及んだとき、突然取材が中止された。長春で取材の約束をとりつけていた七期生の谷学謙氏は幾多の変転の上、中国教育界の重鎮の地位を占めるにいたった人物であり、中国での取材ビザの申請にも尽力があったということだが、どのような力が働いたのか、直前になってキャンセルされた。
 三期生のモンゴル人学生であったダシニャム氏は満州国軍司令官であったウルジン将軍の息子である。そのウルジン将軍の名誉回復がなされたのは1992年になってのことだという。今はカザフスタンのアルマトイで暮らすスミルノフ氏もロシア革命から逃れてきた白系ロシア人の末裔として、他の人々とはまた違った苦難の人生を歩んできた人物である。

 こうして内容を紹介していると、とりとめもなくなってしまう。日本人卒業生については端折ってしまったが、収録されている在学中の日誌を読むと、政府が掲げる建学の理想と現実との矛盾に直面せざるを得なかった日本人学生の心の葛藤を知ることが出来る。また、卒業生のつながりが国境を越えたものであることも知ることが出来る。
 最後に台北に住む一期生の李水清氏のことを紹介して終わりにしよう。頭脳の明晰さから「台湾の怪物」と呼ばれたとのことだ。その李氏が三浦から楊増志氏のことを伝え聞いたとき、大声で笑い出し、次のように語ったというのである。

 「いや、なに、君はまったく心配しなくていいんだよ」(彼は)「格好いいところを見せたかったんだよ」「君だけにじゃない。君の背後にいるたくさんの同期生たちににね。俺は共産党政府なんぞには屈していないぞ、楊増志、未だ反骨精神ここにありってね。」「逮捕されては釈放され、釈放されてはまた逮捕される。その連続こそが彼の人生そのものだったんだ。でも誰も--少なくとも元建国大生は--彼を絶対に軽蔑しない。彼は凄い男なんだよ。」

 「建国大学」は日本の傀儡国家であった満州国の支配のために作られた国策大学であり、「当初の崇高な理念は物理的な閉学を待たずにすでに崩壊して」いたことには、いささかの留保を加える必要もないことは明らかだろう。しかし、そこで青春を過ごした者同士に生まれた絆と信頼が、地理的な壁、時間的な壁を越えて強固に結ばれていたことも信じていいように思ったのである。

三浦英之『五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後』集英社(2015.12)

※一度アップした後も書き足りない気持ちでいっぱいだ。それは一人一人の人生についての紹介はこんなものではとうてい足りないという思いに近い。「建国大学」はいうなれば負の遺産である。そうであるから、忘れたふりをしたり、否認したりもしたくなるだろう。しかし、そこにも否認し得ない人間の営みがあり、喜び悲しみの人生があった。そして、白系ロシア人スミルノフをして「古い友人がはるばる遠くの国から私を訪ねてきてくれた。…神よ、あなたは私に最高の人生を与えてくれた」といわしめている。それもこれも、今、書きとめておかなければ、いずれは消えてしまう。若きジャーナリストである三浦英之が一冊の書物としてこれらの一人一人の人生を書き残してくれたことに心から敬意を表したい。


※小木田順子さんの書評がありました。
http://webronza.asahi.com/culture/articles/2016010800002.html
 


by yassall | 2016-01-08 21:21 | | Comments(0)

「黄金伝説」を見てきた

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 5日、「黄金伝説 古代地中海世界の秘宝」展を見に上野の国立西洋美術館まで行って来た。
 正月三が日は朝から飲んだくれているのが例年の常になっている。酒が入ってしまえばいろいろなことがおっくうになるから、元旦は朝食前に洗濯と風呂掃除を済ませてしまう。2日の日にはこれも慣例になっているので近所の熊野神社と常楽院に詣でるが、用が済んだらさっさと帰宅して、今度は晩の酒に備える。
 若いころは、これが1年中だったら、などと不届きなことを考えたりしたが、さすがに三が日で切り上げなければ身が持たないと実感するようになった。
 そんなわけで4日は正月の後片付け、5日になったら行動開始とばかりに出かけることにした。同展は10月から開催されており、昨年の暮れにでも見に行こうかと考えていたのだが、せっかくだがら年明けにしてブログの1ページ目を飾ろうと思い直したのだ。新年早々、THE GOLDEN LEGENDなんて、何だか験がよさそうではないか!?
 さて、内容はどうだったかということだが、サブタイトルに「古代地中海世界の秘宝」とある通り、古代遺跡から発掘された金細工を展示したものである。世界各地の博物館や個人のコレクションから集められた品々は王冠・首輪・腕輪といったジュエリー、食器、武具、祭器などだが、美術品というより考古学的な関心の対象だなというのが実感であった。
 そんな中、興味を引かれたものの一つは、ブルガリアの黒海沿岸で1972年に発掘されたというヴァルナの銅石器時代の遺跡である。年代としては6000年前以上にさかのぼるということで、古代エジプト文明よりも古いことになる。その墳墓から出土した副葬品が(現時点で)世界最古の金製品ということになるらしい。
 そして、その発見が、どうやらギリシャ神話にあるアルゴー号遠征隊の逸話の裏づけになるとされているのだそうだ。英雄イアソンが金毛羊皮を求めてコルキスを目指して他の豪傑たちと航海に出るという話で、1960年代の特撮映画「アルゴ探検隊の大冒険」はこれを題材にしている。
 調べてみると古代コルキスは黒海東岸に位置し、現在のブルガリアは西岸に面している。まあ、細かいことは別にして「黄金の国」伝説の古代ギリシャ版が単なる空想ではなかった(かも知れない)というのにはロマンを感じる。
 展示はさらに古代ギリシャ、トラキア、エトルリアと古代ローマと年代と地域を追っていく。粒金細工でいうと、古代エジプトでは直径1mm程度であったものが、エトルリアでは0.15mmという微細な粒金を用いた工芸品が制作されているという。展示されている作例をみても、その精緻さ、精巧さには圧倒される。
 金にちなんだ絵画も同時に展示されているということは前もっての知識にあった。クリムトの「黄金の騎士」は昔「RINPA」展でも尾形光琳の絵と並んで展示されていた。イアソンとメディアを描いたモローの「イアソン」を見ることができたのが幸だった。
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 美術館めぐりは昨年5月の「ユトリロとヴァラドン 母と子の物語展」以来である。国立西洋美術館では3月1日から「カラヴァッジョ展」が開催されるそうだ。これも楽しみである。


by yassall | 2016-01-06 15:59 | 日誌 | Comments(0)

2015私的bestショット

 年が明けてしまったが、2015年の私的bestショットをアップする。すでに一度投稿した写真ばかりだが、昨年の撮影日誌を振り返ってみる。
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 赤城南面千本桜というふれこみでツアーに乗った。午前中はあいにくの雨模様だったが、いい雰囲気で撮れた。
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 福島・三春の滝桜である。あえて大勢の観光客が犇めいているショットを選んだ。
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 目当ては兵庫の竹田城であったが、午後になって青空が広がった姫路城が印象深く撮れた。私にはめずらしく4枚中3枚が人影の入った写真になった。
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 秋の紅葉からはこの1枚。日頃、光線条件云々を口走っているくせに、4枚中2枚が雨模様あるいは曇り空の写真になった。
  ※
 昨日のうちにアップしようと思っていたのだが、何度やっても写真の読み込みに失敗した。きっと同じようなことを考えた人が大勢いて混み合っていたのだろう。
 新しい年が始まった。今年は少しでも写真の腕前が上がることを祈願しつつ、また新しい撮影計画を立てて行きたい。

※下のURLをクリックし、画像を選択してさらにクリックを繰り返すと、オリジナル画像をみることができます。一定期間、Dropboxにファイルを置いておきます。ダウンロードでjpegのファイルを保存できます。)

https://www.dropbox.com/sh/kycy4yp6o8c6fzb/AAAlSvZTf45VAQjKXFfEpayja?dl=0


by yassall | 2016-01-01 10:07 | 風景 | Comments(2)