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紅葉2015②森林公園

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 森林公園で紅葉狩りも今年で3回目になった。東松山市在住のKさんの案内である。Kさんは年間パスポートを持っているとのことである。
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 天候は一日曇り。以前から計画していたので仕方がない。前日までの雨が上がったことで良しとする。
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 楓林へは西口から入ると近い。今年は紅葉が遅れているというはなしだった。確かに少し寂しい。
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 地上のぼんぼりは夜のライトアップの準備である。
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 このあたりがメインストリートになる。
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 楓林を一周した後、少し離れた四阿で持ち寄った酒や肴をひろげる。今回の第1部のメンバーはKさんの他、Nさん、私の三人である。少し肌寒かったが、少人数のしんみりした酒もいいものだ。
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 ライトアップのシーズンだけ中央口からバスが出る。16:50発の便をめざして腰をあげたころ、ライトアップが始まる。
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 下からの光を受ける紅葉も幻想的である。もっと観ていたい気持ちを抑えて第2部の会場である東松山に向かう。今回は初参加のYさん、Sさんを迎えて総勢8人で盛り上がった。

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by yassall | 2015-11-27 15:06 | 散歩 | Comments(0)

紅葉2015①神宮外苑・新宿御苑

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 春には桜をずいぶん撮った。秋になったら紅葉ということになるのだが、今年は旅行も計画しなかった。それでは東京近郊の紅葉を探訪してみようと、まず手始めに神宮外苑に出かけて来た。
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 出かけたのは昨日の土曜日。三連休の初日になるが、好天がみこまれるのがこの日だけということで、たいへんな人出だった。
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 では、紅葉はどうだったかというと、期待外れというのが正直なところ。色づきもだが、ボリューム感に乏しいのである。東京では昼夜の寒暖差が乏しいので紅葉する前に枯れてしまうとはよく言われるのだが、すでに葉が大半落ちてしまったとも考えにくい。形を整えるために剪定してしまっているのか、青空とのコントラストをねらってもスカスカ感の方が先に立ってしまう。
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 神宮外苑では折からいちょう祭りが開催中である(11/14~12/6)。会場に入ってみるとこちらも大変な混みようである。
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 キッズパークでは秩父祭りのお囃子が演奏中であった。ここで秩父祭りに遭遇するとは……。ヘルメット姿の人物は関係者らしいがどこかシュールである。
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 神宮外苑に行ったら写真に撮りたいと思っていたものが二つあった。一つは国立競技場跡地である。ご覧のようにフェンスに囲まれていて、上から俯瞰できるような撮影スポットも見つからなかった。
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 内部の撮影は無理かなと思っていたら、ところどころに透明なアクリル板がはめ込まれている箇所があった。古舘伊知郎のHSで中心部分が湿地帯のようになっていると報道されていた。分かりにくいかも知れないが、確かに真ん中あたりは広い水たまりになっている。それにしても、パリのことも考えると、本当に東京オリンピックを実施してよいものか考え込んでしまう。
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 写真に撮りたかったもうひとつとは聖徳記念絵画館である。絵画館といっても普通にある美術館とは異なる。明治天皇の称揚のため、「幕末から明治時代までの明治天皇の生涯の事績を描いた」(Wikipedia)約80枚の絵画を展示するため、1926(大正15)年に旧青山練兵場の跡地に建設された。国の重要文化財に登録されている。
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 そういう目的もあってか、ともかく作りは荘厳というしかない。
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 ただ、何となく生命感といったものに乏しく、古代遺跡か墳墓を連想しないでもない。
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 入館はしなかった。立ち去る前に全景も押さえておく。
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 この日はこれで切り上げるつもりであったが、何となく物足りなかったので新宿御苑に回ってみることにした。
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 こちらも色づきはまだまだだが、透過光ごしの葉は美しい。
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 葉脈が美しい。マクロレンズを持って行かなかったのが残念だった。
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 色づきのよいものを探してシャッターを切る。
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 新宿御苑もたいへんな人出だった。外国人観光客が多いのに驚いた。ガイドブックに載っているのか、ツアー客ばかりでもなさそうだった。午後から曇り空になって来たころ家路につくことにした。

 GM5+9-18mm、RX100


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by yassall | 2015-11-22 20:30 | 散歩 | Comments(0)

2015年埼玉県高校演劇中央発表会

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 11月14、15日の日程で埼玉県高校演劇中央発表会が開催された。今年は2年連続出場は川越高校のみということで、各校どんな芝居で地区発表会から勝ち上がってきたのか、楽しみに出かけた。
 ところで今年についてはちょっとしたオマケつきだった。数日前、いつも写真記録を担当しているIさんが14日に他の出張が入ってしまい、ピンチヒッターで1日だけ代わってくれないか、というメールが事務局から届いた。もともと2日間とも朝から出かける予定でいたので、つい、いいよ、と返事をしてしまったのである。
 まあ、連盟通信用に何枚か使えそうな写真があればいいのだろうし、上手に撮れなかったら撮れなかったで、次からは頼まれないで済むだけのことだ。それでも目つむり写真や手ブレ・動体ブレ写真ばかりでは申し訳ないので、どうしても一定の数はかせぐことになる。
 そんなわけで、普通は撮影禁止になるところ、どうどうと写真を撮るという体験ができたわけだが、出場校にも事務局にも許可を得ているわけではないから、勝手にアップするわけにもいかない。しかも、14日は一日中、15日も朝のうちは雨であったので、いつもの芸術劇場の写真も、与野本町駅前のミニバラ園の写真もない。あまり寂しいので、大ホールの緞帳だけ貼り付けておく。中には懐かしがってくれる卒業生もいるだろう。

 さて、今年の最大の楽しみは東京農大三高の芝居だった。コピスの常連というだけでなく、川越坂戸・熊谷・比企地区という、たぶん今年のブロック割りで一番の激戦区を抜けだし、しかも大道具・小道具いっさいなし、照明は地明かりのみ、音効は肉声のみ、出演者全員ジャージ姿とあっては興味の湧かないわけがない。
 演目は「もしイタ~もし高校野球の女子マネージャーが青森の「イタコ」を呼んだら~」である。寡聞にして始めて耳にするタイトルである。作者・畑澤聖悟のHP「渡辺源四郎商店」から紹介文を引用しておく。

 4月。青森市にある県立賽河高校。その野球部に女子マネージャー、シオリが入部してきます。彼女は1年生の頃、陸上部に入部しており、やり投げでインターハイに出場したほどの選手でしたが怪我のため現役を断念し、陸上部が廃部になったため、2年生のこの時期に野球部に入部したのです。自分が果たせなかった夢を野球部に仮託し、情熱を燃やすシオリでしたが、肝心の野球部は部員が8人しかおらず、やる気のかけらもありません。一念発起したシオリは部員勧誘に乗り出し、転校生カズサに目を留めます。カズサは被災地の学校からこの春転校してきたばかりでした。そして、前の学校では野球部に所属していたというのです。「野球は辞めた」と言いはるカズサをなんとか説得したシオリは「今度はちゃんとしたコーチに来て貰おう」と学校に掛け合います。しかしやってきたコーチはなんと、盲目の老婆、イタコでした。「ワの言うことを聞げば絶対甲子園さ行げる」と豪語する老婆。野球部はいったいどうなってしまうのでしょうか?

 2012年の全国高等学校演劇大会で最優秀賞を受賞、その後も避難所や体育館等を利用して、被災地を中心に全国で上演されているそうだ。
 こうした作品を上演する際、どうしても埼玉の高校生が演じることの是非が問われることになる。この点について、農大三高の生徒たちはパンフレットに次のように書いている。

 東日本大震災から4年。私たちがこの芝居を上演することができるのか……。この疑問を解決するために、この夏、被災地のいわき市へ部員全員で言って参りました。

 見終わってから、というより、見ている最中から、激しい感動の嵐が押し寄せてくる。それはもちろん台本のもつ力が大きいが、そればかりではあるまい。生徒たちが被災地の人々と語らい、演劇部内でディスカッションを繰り返し、台本と向き合い、確信をもって、真っ直ぐに芝居に取り組んだからではないだろうか?
 次々と展開するフォーメーションによる集団行動は厳しい身体訓練のたまものだろうし、ハーモニーの美しい合唱、一皮も二皮もむけた演技は練習量が並大抵でないことを伝えている。それもこれも、そこから生まれたものに違いない。
 少なくとも1日目を終えた時点では関東大会へ選抜されていくことを確信したし、そうなることで、被災地で生まれたこの芝居が全国のものになったことを証明してもらいたいと考えた。
 
 全日程を終え、発表された審査結果は次のようなものだった。

 最優秀賞   宮崎駿原作・阿部哲也脚色「最貧前線(「宮崎駿の雑想ノート」より)」  川越高校
 優秀賞1席  オオマリコ・作「解体されゆくアントニン・レーモンド建築 旧体育館の話」  芸術総合高校
 優秀賞2席  ふくすけ・作「その向こう側に。」  戸田翔陽高校

 先に書いたように、川越高校も農大三高といっしょに激戦区を勝ち抜いてきた学校である。それだけのことは確かにあった。創作脚本賞を受賞した台本は時代の今日的課題に応えようとしているとも思えたし、昨年は1年生ばかりでいかにもビギナーズ然としていた役者たちも明らかに力をつけていた。それだけに今後の課題としてはヘタウマ(という言い方を好まない人も多いが)的好感度の段階を超えて、「普通の」強豪校として他の強豪校と渡り合っていかなくてはならない、その覚悟を持たなくてはならないということだろう。
 芸術総合高校の芝居は賛否が分かれるかも知れない。建築家アントニン・レーモンドによって設計された東京女子大学をモデルにしたらしい、女子大生たちの入学から卒業までを描いた作品である。昔でいうとペギー葉山歌うところの「学生時代」とどれくらい差があるの?という気がしないでもないが、鍛えられた発声と身体表現によって、美しい叙情詩の群読を聞いているような心地よさがあった。好きか嫌いかといわれれば好きな方である。(といいながら、途中少しも退屈しなかったといえば嘘になるが。)
 戸田翔陽高校の芝居はさらに賛否が分かれるだろう。美術部に応援してもらったという舞台装置は、斜めにカットされたパネルがデザイン的に優れていたとは思う。だが、肝心のドラマが作れていたかというと疑問が残るし、演技もただ動き回っていただけという感が否めない。

 審査経過の報告の中で、他に第三位の候補にあがった学校が浦和一女と浦和北高であるというような話があった。両校とも昨年浦和地区の審査に行ったときに印象に残った学校であり、選から落とすのに忍びがたいものがあった。その意味ではよくがんばってくれた(私のためにがんばってくれたわけではもちろんないが)と思う。

 さて、ここからが本番である。さまざまな観点があるのは仕方がないし、審査結果をうんぬんしても詮ないことではあるのだが、何としても心残りなのが農大三高である。これらの学校にひけを取ったとはどうしても思えないのである。
 そうすると、審査員の講評ですら、ただの難癖でしかないように思えてくる。農大三高が言いだしたら見苦しいだけになってしまうから(あとで顧問のFさんに聞いたら、生徒たちは「先生、ああいうふうに言われたら仕方がないよ」と冷静に対応していたという)、代わって私が書くことにする。

 主として舌鋒鋭かったのは自分は元野球部員だったという審査員である。その審査員にいわせると「(バットの)素振りがなってない」(まともなコーチもいない学校だったのに)のであり、「沢村の霊を呼び出して試合を勝ち進んで何が嬉しいのか。自分たちの力で勝ち上がってこそではないか」なのだそうである。
 野球にとってピッチャーが決定的なことくらい、私だって知っている。だが、審査員は「160kmを超えるカズサの球を受けるためにキャッチャーは猛特訓をしたそうです」という科白を聞き落としたのだろうか? ピッチャーがその力を発揮できるのは頼りになるキャッチャーがいてのことである。優秀なピッチャーほど、ストライクゾーンを外す球を投げ分ける。直球にしろ、変化球にしろ、ストライクゾーンを外れてくる球を捕球してくれるキャッチャーがいなければ、投手は安心して球を投げることはできない。チーム力は明らかに向上しているのである。
 第一、他の審査員が指摘していたように、相手チームは全国から優秀な選手をスカウトして集めてきたような学校であるらしい。学校数が少ない県ほど甲子園に行ける確率が高い、などといって選手を誘って歩くのだろう。そうして集められた選手も甲子園を足がかりに、プロの世界へすすもう、やがては大リーグにも挑戦しようという者たちなのである。青森の生徒たちが青森のイタコの力を借りて何が悪いというのだ。
 だいたい、この芝居を野球の試合を勝ち上がっていくドラマだと思うのが間違いなのだ。それは仮の姿なのであって、これは東日本大震災で亡くなった厖大な死者たちの鎮魂と、故郷の再生への祈念のドラマなのである。「単なるマスゲームに堕する危険性」だとか「背景としての集団劇が前景の芝居を殺している」だとか、どこに目をつけているんだと言いたい。あの集団こそ、若くして断たれた生命の輝きを甦らせようとし、また生き残った者たちを鼓舞しようと力強くも立ち上がった無数の死者たちの表象なのである。劇中で何度も歌われる「栄冠は君に輝く」は誰に向かって歌われていると思っているのだろう。
 農大三高の生徒たちはそこのところをきちんと理解している。でなければ、あんなにもさわやかな、明るい表情でい続けられるはずがない。自分たちは「その他大勢」ではなく、ほんとうの主人公であることを知っているのだ。
 (観客の反応についてもここで書いておきたい。会場は作中のギャグに反応して湧いただけはあるまい。あの集団芝居のもつエネルギーを受けとめ、共感したからこそではないか。芝居にたずさわる者が客をなめてかかってはいけないのだ。)
 ここでもう一度、沢村栄治のことに戻りたい。「沢村は復活して高校野球で投げることを喜んでいるだろうか?」だと。3度目の徴兵で27歳で戦死した沢村を呼び出したところに、「修学旅行」を書いた作者のもう一つのメッセージを読み取れなくてどうする。死者を忘れてはならないのだ。それでよく脚本家だとか演出家だとか言っていられるものだ。
 沢村の霊が成仏をとげることでチームは決勝戦に敗れる(そう、沢村は成仏をとげたのである)。ああだ、こうだと審査員がケチをつけようとしていたことの答がここに出ている。作者は最終的な勝利を与えてはいない。このドラマの主人公たちは志半ばで斃れた者たちなのである。
 この芝居のラストシーンはイタコの修行を終えたチームメイトが、カズサの死んだ元のチームメイトの霊を憑依させ、カズサと再会させるという設定になっている。そういう結末になるのだろうということは予想された。被災地の人間ではない者たちがそこまで演じていいのか、一番迷うところだった。
 だが、今は思う。そこまで演じてこそ、このドラマは完結する。なぜなら、このドラマは挫折からの復活を誓うドラマであり、もう一度命よ輝け!と希うドラマであるのだから。

 やはり、書かなければよかったかなと思い、いや決して贔屓の引き倒しではない、とまた思い直し、アップすることにする。ああ、もう一度彼等の歌う「栄冠は君に輝く」を聞きたい。


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by yassall | 2015-11-17 01:39 | 高校演劇 | Comments(2)

東大附属演劇部「就寝刑」を観てきた

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 東大附属中等教育学校演劇部顧問のKさんから、「なんと、なんと、三年連続、都大会出場が決まりました!」という報告をいただいたのは8月下旬のことであった。
 その折、これも3年連続ということになるのだが、10月上旬の文化祭公演のお誘いをいただき、natsuさん、tomoさん、そして今年はコピスに初出場してくれたNさんも交えて観劇に出かける算段になっていた。ところが、よんどころない事情で私だけ参加できなかった。
 その後、様子だけでも知りたいと、natsuさん、tomoさんのブログを閲覧すると、今年も生徒創作で「舞台の作りや芝居の印象がかなり変わっているのが楽しかった」などと書かれている。そんなことを書かれたら、余計に惜しい気持ちがつのっているうちに、そうか!都大会に出場するというのだから、都大会を観にいけばいいのだ!ということに気がついた。
 さっそくKさんにメールをすると、ことのほか喜んでくれて、ではチケットを用意しましょうと返信してくれた。都大会の会場は池袋の芸術劇場。地下のシアターウエストとシアターイーストの二つの小ホールを借り切って2日間で12校ずつ、計24校が上演する。小ホールといってもけっこうキャパはあるのだが(何度かここを会場にした芝居を観たことがある)、この2日間は完全チケット制になるのだそうである。
 チケットは通し券(たぶん一般・高校生向け)と入れ替え席券(たぶん上演校の父母・関係者向け)とがあり、私のために確保してくれたのは入れ替え席券である。開演20分前に受付で名のるとチケットを渡してくれる。私の席は前から3列目のほぼ真ん中付近。まさしく特等席だった。

 さて、題名は「就寝刑」。沖田ネムルという眠り続けなければならない刑に処された男の「謎」をめぐって芝居が転んでいく。他に、朝野メザメ、飯尾ヤスミ、丑満シンヤ、根津テツヤ、小森ウタと名づけられた5人の囚人と女性刑務官初野ユメ、その上司にあたる昼間という主任、そして白服の黒子(?)であるマチビトたちが出演者である。
 ここまではnatsuさん、tomoさんのブログで(全員の名前まではともかくとして)知識があった。沖田ネムルはもちろん「起きた」+「眠る」だろう。ずっと眠り続けているという設定もだが、「起きた」と「眠る」という矛盾をはらんだネーミングが早くも私の感性のどこかに触ってくる。(何かが心の奥の方で目覚めたような、あるいは頭の芯の方で小さな明かりが点ったような気がしてくる、といったところか。)
 もともと、こうした不思議系の物語は好きな方だし、この時点である予感のようなものがわき起こってくる。そもそも演劇がわれわれの日常をゆさぶり、突き抜けていこうとするという意味での非日常世界を見せてくれるものであるとすれば、昨年の芝居も一昨年も芝居も十分に演劇的であった。だが、前2作が〈私〉に対する関心から出発して、その位置から〈世界〉と向き合っていこうとする道すじをとっていたとすれば、今年は〈世界〉に対する関心(あるいは〈存在〉に対する関心)にダイレクトに突きすすもうとしているような予感、といったらいいだろうか。
 すると直ちに反作用として次のような危惧が生まれてくる。いきなり〈世界〉と向き合おうとすれば、どうしても観念と観念の操作になりやすい。空回りせずに、どこかでリアルと結びつくことができるか、どうか。そして、それは単に日常に回帰していく、といった話ではなく、観客の想像力を活性化し、自分にも未知であった心象世界を開いてくれるものであるか、どうか。

 こんなことを考えながら、わくわくする思いで出かけていった。そして感想は?ということになるのだが、この際だから社交辞令的なことは書かない。せっかく観客の想像力に訴えかけようとしているのだから、こちらも玄関先のあいさつで済ませるわけにはいかない。
 率直なところをまず述べるならば、せっかくさまざまな切り口をみせておきながら、十分に切り込めていない、あるいは回収されていない、ということだ。どういうことか、いくつかの観点から書いてみたい。

 まず、「就寝」の対極として「覚醒」を置いてみる。すると、この芝居では①沖田の目覚め、②5人の囚人たちの自らの使命に対する目覚め、③女性刑務官初野の自己の置かれた立場への目覚め、の3つの「覚醒」が描かれていることに気付く。
 このなかで最もドラマチックに描かれなくてはならないのは、もちろん①の沖田の目覚めである。その沖田の目覚めを準備していくのは②の囚人たちと③の初野なのだが、①②③は相互に影響しあっている(というより影響し合っていなければならない)。
 次に芝居の中の対立構造を探っていくと、①看守(刑務官)と囚人との対立、②雑居房内部の対立、③雑居房に押し込められた囚人と、さらに鉄格子で隔てられた沖田との対立、④刑務官内部での主任と平刑務官との対立、⑤(これはあとから明らかになるのだが)主任刑務官昼間と沖田との対立、というように、何重ものしかけが施されていることが分かる。
 これらの「対立」を解消し、「覚醒」を促していくキーパーソンは朝野メザメと初野ユメである。(小森ウタのことはあとでふれる。)
 朝野メザメが最初に直面するのは雑居房内部の対立である。房の真ん中に線が引かれ、朝野メザメはどちらに属するかを問われるのだが、メザメは線上に自分の位置を定めることでどちらにもつかない。どちらにもつかない領域を設定することによって対立は吸収され、無化されていく。やがてこの5人は1つのチームとなっていくのだから、この対立の解消は大切である。また、朝野メザメが投獄されるまで、他の囚人たちは(小森ウタを除いて)沖田には無関心であった。その点でも、朝野メザメが独居房内部に起こした波紋は重要である。
 では、その首尾はどうか? 朝野メザメの登場から、一人一人が犯した犯罪についての告白が始まるのだから、確かにそれぞれの内心を明らかにしていくきっかけとして機能している。また、犯罪には何らかの背景があるのだから、それは犯罪を犯した人間の人間性や社会性を明らかにしていくことになる。だが、それぞれの罪過の重さの違いもあって、そこに共感の輪が広がっていくというようになっているかどうかにつていは疑問がある。
 (というか、これだけ記号性を持った名前が付けられているのに比し、それぞれの犯罪が妙に生々しいことには、後に述べるように芝居の方向性としてよかったのか、どうかという点で再考の余地がある。中では1歳のときに家族を捨てた父親に復讐するために詐欺を働いたという飯尾ヤスミなどは、それだけでドラマチックな存在だが、その怨恨の深さを解消するのは簡単なことではない。)

 ここで誤解がないように断っておけば、朝野メザメが演技的に芝居を引っ張っていたことは確かなことで、表情豊かに、natsuさんいうところの「自然な間合い」で観客の笑いもとっていた。天性ともいえそうなその明るさと、少々おせっかいともいえるキャラクターの設定によって、人物同士の関係性を構築したり、沖田への関心を呼び起こしていることも見落としているわけではない。だが、切り口としてのきっかけを作りながら、それが深められていかないもどかしさがある。つまり、演技的にだけではく、ストーリー上でも芝居を転がせたか、ということなのだ。そのネーミングからして、ネムルの対抗軸として設定されているはずなのに、その役割を十分に果たせていないようなのだ。
 たとえば、の話をしよう。雑居房に一人残った小森ユメがネムルに話かける場面がある。私はかなり重要な場面ではないかと考えている。それは初野の疑問に、小森ユメが「私はこの人の夢に話しかけているの。」と答えているからである。昏睡状態から回復したというような人が、その状態にあったときに話しかけられたことを、目覚めてからもきちんと覚えていた、というような臨床報告があるそうだ。
 朝野メザメはもっともっと沖田に話しかけるべきだったのではないだろうか? 数的にも、内容的にも。そうであれば沖田ネムルの突然の「覚醒」にも必然が生まれてくるし、他の囚人たちの変化にも説得力が与えられたのではないだろうか?

 もう一人のキーパーソンである初野ユメに「覚醒」のきっかけを与えているのも朝野メザメである。ここのところがもっと鮮明になっていれば、芝居はもっと骨太になっていったのでないかと惜しまれる。というのも、房の中にいる朝野メザメより、刑務官である初野ユメの方が情報面でも行動面でもはるかに沖田の「謎解き」のチャンスに恵まれているからである。朝野メザメと初野ユメとの相互関係がもっと深められていれば、ずいぶんと芝居の奥行きが深まっただろうと思われる。
 少し脱線すると、名前の記号性という点でも初野ユメには魅力がある。睡眠そのものに心身の修復という働きがあるわけだが、わけても夢には過去の記憶の整理と組み立て直しという役割があるのだそうだ。初野ユメには昨日と今日とを連続させるばかりでなく、過去の殻を破り、新しい命をもったものとして再生させる働きが付与されていなければならないのだ。

 さきほど芝居の方向性というようなことを書いた。「謎解き」の答として用意されたのは「正義」である。沖田は刑務所内での囚人に対する虐待を告発したことから受刑者となる(ここのところはもう少し込み入った過程があったかも知れない)。
 閉ざされた空間である刑務所内での人権保障の問題は重大である。だが、この芝居に持ち込んでしまったことは果たして成功だったのかどうかは疑問である。そうした社会派ドラマとして描きたかったのなら、様々な設定そのものを変えなければならなかったのではないか。なまじのことで取り扱ってはならないと思うのである。
 その結果、沖田の刑が終わるのは正義の心を消滅させたとき、などという取って付けたような設定がなされ、それがあとの展開を余計に不自然にしてしまっている。
 (沖田の存在が刑務所内の恥部であり、正義対不正義の対立というより、虚偽の上に維持されている体制とその虚妄を突き崩そうとするものたちとの闘争というような構図ならもう少し説得力が生まれそうだが、そうであるなら沖田はもっと隠蔽された存在であるか、逆に見せしめとして晒された存在である必要があるだろう。)

 では、それとは違った方向性があり得たのだろうか? 最後にそれを書いてみよう。
 「眠り続けなければならない刑を受けた男」というアイデアが出発点にあったのではないだろうか? そうした閃き自体が若さの特権であり、その出発点を手放す必要はまったくない。そこのところを確認した上で、さてどこへ向かうか?
 「眠り続ける男」という設定を聞いて、私が最初に連想したのは弥勒菩薩である。釈迦入滅後、56億7千万年の後にこの世に下生し衆生を救済するという弥勒は、しかしそれまでの長い期間を兜率天に閉じ籠もっている。それは人類の希望でもあり、また果たせぬ夢でもある。
 だが、芝居を見終わったあと、私が想起したのはむしろキリストの復活である。沖田がキリストであるなら、囚人たちは12使徒(人数が足りないが)ということになるし、その者たちの罪深さも説明がつく。(芝居を見終わったあと、何か釈然としなかったのは、マントに身を包んだ囚人たちが再登場した沖田を取り囲んだ後、いっせいに倒れ込んでしまうところだったが、そんな必要はなかったのではないだろうか? ※それとも殉教だったのだろうか?)
 初野ユメはさながら、最初はキリスト教徒の迫害者でありながら、復活のイエスに出合ったことで回心したというパウロに位置するだろう。
 さらに、主任刑務官の昼間である。私だったらドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」に登場するところの大審問官の役割を与えたい。そうすれば、実は密かに沖田を尊敬し続けて来た、などという告白をさせなくても済むし(してもおかしくなくなるのだが)、沖田対昼間の対決をドラマのクライマックスに置いて、使徒たちを間に配するなどという構図で幕を下ろすことがでそうである。

 少し突飛すぎた。あまり無責任なことをいってはいけない。ただ、最終的に自己を解放していく力になるのは想像力であり、その想像力を自分から檻に閉じ込めてはならないということをいいたかったのである。もっともっと想像力の翼を広げ、深めていって欲しい、小さくまとまらないで欲しいと思ったのである。
 もう一言だけ。昼間に、「飲まず食わずで眠り続ける沖田は死んでいるのも同然だ」というセリフがある。確かに眠りは死に近い。眠りを恐れる人の気持ちに強く共感することがある。つまり眠りからの覚醒は、実は再生なのである。そうした死と再生のドラマに近づいたことだけは確かなことだと思うのである。

※なんだかとりとめがなくなってしまいました。少々干からびかけた想像力を刺激してくれた東大附属演劇部の皆さんに感謝です。

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 公演が跳ねたあとの芸術劇場B1の風景。東大附属演劇部は右側のWestの方で上演された。よく探してもらうとKさんの姿が発見できる。

[補足]2015.11.17
 書き終わって何日か経っても、自分だったらどうするかと、あれこれ想像がふくらんでどうしようもない。
 「眠り続ける男」を入口としてどこへ向かうかだが、まず「眠る男」が何を表象しているかを考えなくてはならないだろう。弥勒か、キリストか、などと書いたが、やはり救済であり、希望であるような気がする。もちろん、そのまま弥勒菩薩やイエスを持ち出すわけにはいかないだろうが、皆がその目覚めを待ち焦がれるような存在でありたい。
 すると、朝野メザメがネムルの対抗軸と書いたが、朝野メザメがきっかけにはなって欲しいと思うが、むしろ囚人たち全員の願いであり、「なあ、起きて、俺たちに教えてくれよ」とか「道しるべになってくれよ」と呼びかけられる対象となる方がいいと今は思う。
 そんな沖田ネムルが、ある日突然、一度皆の前から姿を消してしまうという展開はそのままでいいと思う。そこから囚人たちが変革をとげていくというのも正解だろう。
 主任の昼間には沖田ネムルと対立するものとして、もっと確固とした位置づけを与えた方がいい。沖田が希望や自由や夢であったら、体制や秩序や現実といったふうに。
 入口と出口が見つかったら、今度は逆算していけばいい。罪人である囚人たちの犯した犯罪が何かなどはそこから考えればいい。具体的な犯罪というより、虚言とか、欺瞞とか、吝嗇とか、抽象的な罪状でもいいのではないのか? 仏教やキリスト教の定める戒律が参考になるだろう。
 ほんとうは具体的な科白のようなものが頭の中に浮かんでくるのだが、酒を吞んでいるときとか、寝入りばなにひらめいたりするのですぐに消えていってしまう。以上のことも、そのままにしておけばやがては消えていってしまうと思うので、今のうちに書きとめておくことにする。


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by yassall | 2015-11-08 19:20 | 高校演劇 | Comments(2)

つい一言 2015.11

 28日夜、安倍首相は自身が会長を務める超党派議員連盟「創生日本」の会合で、自民党が立党60年を迎えたことに触れた上で「憲法改正をはじめ、占領時代につくられたさまざまな仕組みを変えていくことが立党の原点だ」として改憲に意欲を示したという。
 http://www.47news.jp/CN/201511/CN2015112801001762.html
 安保法制(戦争法制)を強行採決したのち、国民的ともいえる批判をかわすためか、今後は「経済中心に政治をすすめる」などと煙幕を張っていたが、やはり虎視眈々と改憲をめざしていることに警戒を怠ってはなるまい。
  ※
 もうひとつ見過ごしに出来ないのは、14日付の産経新聞と15日付の読売新聞に掲載されたという全面意見広告に関するニュースである。
 以下、「日刊ゲンダイ」による概略である。

 「私達は、違法な報道を見逃しません」とデカデカ見出しの意見広告は、TBSの報道番組「NEWS23」のメーンキャスター・岸井成格氏を名指しで批判、問題視する中身だったからだ。
 全国紙の紙面を買い取って広告を出したのは「放送法遵守を求める視聴者の会」。呼びかけ人には作曲家のすぎやまこういち氏、上智大名誉教授の渡部昇一氏ら“安倍応援団”の面々が並んでいた。
 彼らが問題にしているのは岸井氏が安保法案成立直前の9月16日放送で「メディアとして(安保法案の)廃案に向けて声をずっと上げ続けるべきだ」と発言したこと。コメンテーターならともかく、番組メーンキャスターである岸井氏がこう言うのは「政治的に公平であることなどを定める放送法に反する」と主張しているのである。
 http://news.livedoor.com/article/detail/10876756/

 読売・産経の全面意見広告にかかる費用は約6000万円だという。「放送法遵守を求める視聴者の会」などという、いつ発足したのかも、その実体もさだかでない団体も謎であるなら、その資金の出処も謎である。
 政権批判をするメディアはしらみつぶしにしてしまえ!ということなのだろうが、背景に何やら闇の力が働いていることが窺い知れて不気味である。

(11月29日)
 こちらにも記事があります。
 http://lite-ra.com/2015/11/post-1725.html

 昨日までの日程でAPECが開催された。マニラ市内でオバマ大統領と会談した安倍首相は、辺野古新基地建設を「断固たる決意」で進めると伝えたという。さらに、中国が人工島の造成を進める南シナ海への自衛隊派遣を検討する考えも示したという。
 ※ただし、中国側の根回しが利いたのか、APECの本会議では南シナ海は問題にされなかったという。
 沖縄では翁長知事による新基地建設に伴う埋め立て承認取り消しに対し、政府がこれを違法として代執行訴訟を起こした。
 そんな折、10月30日付の人事で福岡高裁那覇支部の支部長が交代になったという(佐藤優・東京新聞「本音のコラム」より)。
 就任した多見谷氏は2013年7月、千葉地裁裁判長として成田空港に反対する農業男性が耕作する土地の明け渡しを求めた訴訟で、男性の同意なしでも賃貸借契約の解約は可能とする判断を示し、土地の明け渡しなどを命じる判決を下した人物だそうだ。
 基地建設反対の座りこみの排除のために、警視庁から第1、第4機動隊の精鋭部隊が送り込まれ、多数の怪我人が出ているともいう。
 ※第4機動隊は60年代から「鬼の4機」として勇猛?をはせた。
 日本の平和と民主主義がますます危機におちいろうとしている。(11月20日)

 菅義偉官房長官は5日午前の記者会見で、南シナ海での米軍の航行の自由作戦に関し「南シナ海での自衛隊の活動は、わが国の安全保障に与える影響を十分注視しながら今後検討していくべき課題だ」と述べ、状況次第では自衛隊を派遣する方針を示唆した。(産経ニュース)
http://www.sankei.com/world/news/151105/wor1511050027-n1.html
 こうして「集団的自衛権」は実体化していくのだろうか? まだ世論に投げかけて様子見の段階だろうが、予想よりはるかに急ピッチですすんでいく可能性もある。
 自民党内では野田聖子氏がひとり気を吐いているようだが、党内議論を呼び起こす力になっていくだろうか?(11月5日)

 野田聖子氏「南沙諸島、日本は関係ない」
http://www.huffingtonpost.jp/2015/11/04/noda-seiko_n_8475756.html


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by yassall | 2015-11-01 23:56 | つい一言 | Comments(0)