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コピスみよし第14回高校演劇フェステバル 勝手に名場面集!

 6月14日、コピスみよし2015/第14回高校演劇フェスティバルが開催された。今年は入間向陽高校、所沢西高校が初参加、朝霞西高校も6年ぶりの出場ということで、どんなフェスティバルになるのか、始まる前からわくわくさせられた。既報であるが、入場者数は過去最高となったということで、まずは成功を喜びたい。会館スタッフの皆さん、そして実行委員の皆さん、お疲れ様でした。
 さて、今年も写真班を担当した。(写真班といったのは、今年はMさんが加わってくれたからだ。やはり複数人いるというのは心強い。サイドからのアングルをねらいにいったとき、正面からの写真を押さえてくれる人がいるというだけでも安心感が違う。)
 ただ、1年経つと自分の写真の好みや納得レベルが変わってしまうのか、機材は昨年とほぼ同様のものを持ち込んだのだが、フォトスタイルを変えたり、ホワイトバランスをいじったりすることになった。自分でもしっくり来ないことが少なからずあったから、各校に満足してもらえるかどうか、まことに心許ない。
 そんな心配もあり、与えられたお役目をつとめられたかどうかが第一で、このような文章を書く立場にはないのだが、誰からともなく「今年も劇評、待ってますよ」的なことをいわれると、書かないわけにもいかない。まあ、最初に書いてしまったのが失敗だったのである。
 「勝手に名場面集」と断り書きをした理由は昨年書いた通りである。上演する側にとっての「ここを見せたかった」というのとは違ってしまう場合があるだろうし、また「多分、ここ」とは理解できても、肝心のシャッターチャンスが間に合わなかったり、手ぶれや動体ぶれ、露出過多ないし不足で写真にならないこともままあるからである。
 ブログ「Koyo劇」に参加報告と写真が何枚かアップされている。私もシャッターチャンスのあたりをつけようと、前日のリハから参加させてもらっているのだが、やはり芝居の見どころ(見せどころ)と役者の性格をつかんでいる当該校の人たちにはかなわないな、と実感する。

朝霞西高等学校『KAN-KAN男』作:佃典彦

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 踏切事故によってバラバラになった遺体の処理を専門にするという架空の商売人たち(何かを売るわけではないが)を主人公にした作品。
 確か漱石の小説にも鉄道事故で死者が出たことが話題になる場面があった。明治時代であれば、近代のもたらした新しい死のかたちであったのかも知れない。この作品も深読みすれば「近代と個人」というようなテーマが浮かびあがってくるのかも知れない。
 (近代においては個人は独立かつ持続的に安定した人格をもつと考えられているが、もしかしたら自己とは他者の視線に決定づけられているに過ぎないのかも知れず、また他者との境界は普通に考えられているよりも曖昧であるかも知れないのだ。)
 もちろん、それは考えすぎというものだろうが、一つ一つ名前のついた人体の各部が集まっていく様子をみながら、人間はどこまで揃ったらその人本人であるといえるのか(あるいはついに言えないのか)、どこまで失われたら自分が自分でなくなるのか、というようなことを考えていた。KAN1は最後まで失われた左腕にこだわっていたが、KAN1が欲しがってしたのは部品としての左腕だったのか、最後のパーツが揃うことによる成仏だったのか、はたまたそばにいてくれて、自分のために奔走してくれる仲間だったのか。
 いったい誰の死体だったのか、という謎解きがメインとなるから、地区発表会に続いて二度目の観劇となると、その意外性に対する驚きは薄まってしまう。その代わり、役者たちが一段とグレードアップしたなと感じた。KAN1は1年生のときから力のある役者だな、と思っていたが、KAN2がよかったし、絶妙のコンビネーションだと思った。写真は一番大勢の役者が舞台上にいるシーン(2人足りないが)だが、顔を白塗りした箱売り&処理屋の二人もよかった。こうした小さな役どころがきちんと造形されていると、その芝居づくりの姿勢に賛嘆のことばを投げかけたくなるのだ。
 というわけで、この1枚は箱売りが最初に登場した場面。子どもを亡くしたあと自らも踏切に飛び込み、幽霊として彷徨っているらしい母親の不気味さもよかった。


入間向陽高等学校『うわさのタカシ』作:原くくる 潤色:成井稔+Koyo劇

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 今年、6校の上演を通して観ていて面白く感じたのは、ちょうど2校ずつが対になっているかのようなことだった。朝霞西高校の芝居が「自己とは何か」を扱ったとしたら、入間向陽高校の芝居は「他者とは何か」がテーマになっているのではないか、と考えたのだ。Koyo劇の「アンケートにお答えして」を読むと、テーマは『他者の不確実性』であると書いてあるので、まったく外れているというわけではなさそうである。
 作品では誇張されているが、一人の人間の人物像が受けとめる側によって少しずつズレを生じてしまうことは当然あり得るし、本人自身が相手によって違う顔をみせる場合もあり得ることである。たとえ家族のような存在であったとしても「私は○○の何を知っていたのだろう」と呆然とさせられてしまうことだってあるのだ。普段は身近に感じていた人物が、ある日、まったく見知らぬ他者として現前する。
 ところで、帰路につきながら各校の劇の感想を述べあっていたら、Hさんが「マサトはどうしてドアを開けちゃいけない、って言ったんでしょうね?」という。その場では「それは自己同一性というのか、自我の統一性が崩壊してしまうからじゃないですか?」ってなことを述べたような気がするが、こうして振り返ってみるとまるで答えになっていないことに気がついた。問題はそれぞれのタカシ像がそれぞれの虚像に過ぎなかったとしたら、なぜマサトだけがそれに気付くことが出来たのか、ということなのである。マサトこそ、ゲームという仮想空間を通してしか他者と結びつきあえない存在なのである。
 そのように考えてみると、タカシだけでなく、3人の女性たちが語る自己の中にも多くのウソが忍び込んでいることがわかる。長ネギで殴り合う、といったドタバタを進行させながら、観客をいつの間にか不安に陥れていく。そうしてみると一転、芝居はサイコドラマという様相を帯びてくる。床にフローリングを敷き詰めることで閉ざされた空間を作り出し、地明かりに青を混ぜ合わせる(混ざってましたよね?)ことによって、そうした不安感をつのらせていくことは最初からのねらいであったのはないだろうか?
 入間向陽高校の芝居は一昨年にいちど観させてもらっている。ついこの間のような気でいたので、そのときの1年生がもう3年生だということに、すぐには思いいたらなかった。女性役3人がそうなのだが、さすがは3年生だけのことはあると思った。成人女性を演じて十分(1人は中学生役だが)だった。
 というわけで、この1枚は3人が一列に揃ったところ。単サスで切り分けられ、それぞれのタカシと向き合っている(同時にタカシと話ができるところがまず変なのだが、後ろにいるマサト以外、誰もそれに気付いていない)場面だが、すでに自分たちの中にあった虚像としての自己が崩れ去っていることは自覚しているのだ。
(これはあとからの書き足しなのだが、もう一つ疑問点があった。それは、最後にドアが開いて女性3人がタカシの名を呼ぶのだったか、「お帰り」と声をかけるのだったかで幕が下りるのだが、その声にそれぞれのタカシを確認し得た安堵と親しみがこもっていたようなのは何故なのだろう、ということだ。今のところの結論としては、結局目に見えたものは仮象でしかなく、目にしたことで3人は仮象の世界に舞い戻ってしまった、ということである(合ってますか?)。だとしたら、ドアを開けてはいけない、というマサトの制止はますます意味深長に思えてくる。昔、何かの本で読んでメモしておいた「病狂は酔わざるを笑い、酷睡は覚者を嘲る」という章句を思い出した。)

星野高等学校『カラフルメリイでオハヨ ~いつもの軽い致命傷の朝~』作:ケラリーノ・サンドロヴィッチ 潤色:星野高校演劇部

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 星野高校は毎回のように意欲作(あるいは問題作)にとりくんでいる。まずはその無難を排するアクティブな姿勢に賞賛を送りたい。今年はケラリーノを持ってくるというので期待は大いに高まった。
 といっても、私自身はケラリーノについて詳しいわけでも何でもない。ただ朝霞高校時代に一度だけ部員が選んで来たことがあったことと、つい最近、自分の家族について書いたエッセイを目にする機会があっただけだ。
 一言でいうと、テーマは「父なるもの」であると思った。ただし、舞台が精神病院だったり、認知症の祖父をかかえた家庭だったりすることからも、その父は「病としての父」であり、「幻としての父」だと思ってしまったのだ。
 実をいうと台本を読んだことがあるわけでもないし、物語も複雑に錯綜しているので全容をつかめているわけではない。そこで、自分でもかなり飛躍してしまっているかも知れないと考えつつ書くのだが、家庭の場面で孫であった少年は、実は祖父の中にあった「父なるもの」の代替であり、しかもそれは自分の父を探し求めていた少年であったころの自分を投影したものである、と思ったことからはじまる。
 かなり頭の中の配線がこんがらがっているんじゃないの、と言われそうだが、おそらくは作品世界自体が複雑な配線で出来上がっているのだから仕方がない。
 さて、芝居の方はどうだったかというと、それぞれに熱演していたと思うし、特にみのすけを演じた役者は昨年の秋に見た時から力があるなと感じていた。しかしながら、どうしても若さや健全さが先に見えてしまい、「病」という劇的世界を作り出すのには無理があったような気がする。
 「ここには縄ばしごもない、窓もない」という閉ざされた空間を表現できたかと言えば出来なかっただろうし、脱出に成功したあと、眼前に広々とした海が見えてきたかといえば見えなかっただろうし、仲間の一人が溶けてしまったときに、それが幻であったからだということが伝わったかといえばどうだっただろうか?
 と書くと、感想としては厳しくなってしまうが、最初に書いた通り、意欲作・問題作に挑もうとする姿勢こそ貴重なのであって、たとえ作品世界に跳ね返されることがあったとしても、そこから得られたものは大きかったに違いないと思うのである。
 というわけで、この1枚は脱出の場面で追っ手の襲撃を受けているところ。追っ手は手を変え、品を変え、執拗に追撃してくるのだが、それは悪夢から逃れようとしながら、なかなか抜け出せない眠りを眠っている様に似ている。大勢の追っ手がいっせいに、何度も何度も襲いかかってくるのだが、脱走者に手が掛かる寸前に潮が引くように去っていく。大人数を動かしながら、息がぴったり合っている。かなりの練習量がこの場面を支えているとみたし、そこに星野らしさを感じた。

所沢西高等学校『幽霊の諸事情』作:宮腰秋弦

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 連続した2作品が対になっているのではないか、という話にもどす。星野高校が「父なるもの」をテーマにしているとしたら、所沢西高校は「母なるもの」がテーマだったのではないか? というより、「母なるもの」に焦点をしぼり、作品世界を深めていった方が成功したのではないか、と思ったのである。
 朋哉と拓海の二人の同級生が登場してくるところから劇がはじまる。拓海は朋哉に友人として接しようとするが、朋哉は自分には友人は不要と突っぱねる(服装からすると同じ部活に所属しているらしいのだが)。ラストシーンも下手から登場した朋哉を拓海が追いかけてくるところから始まる。しかし、今度は少し様子が違う。朋哉が拓海を置いて帰って来てしまったらしいのは同じなのだが、今度は数時間を待ったあとのことらしい。ラーメンを食いに行こう、という誘いにも乗っていくそぶりである。
 朋哉の変化は母の死を受容できたからではないのか? 亡くなった母と再会できたのは幽霊たちとの出会いがきっかけになっているが、それは朋哉と妹の真美が母を思うあまりに死の世界に近づいていたからではないのか?
 ただ、芝居の展開の方は、母の死の原因が少しずつ明らかにされていくとか、残された子どもたちの気持ちが伝わって来るという方向ではなく、「幽霊の諸事情」という題名のとおり、幽霊たちがこの世に残してきた執着や、成仏への願いというところに重点が置かれてしまったようだ。
 美味いものが食べたいとか、好きな人といっしょにいたいとか、たとえささいなことがらであっても、何らかの執着があるからこそ、人間が生きていられるのは事実だろう。だが、それぞれの執着の描き方がありきたりになってしまったり、無理があったりして、それらを描くことを通して人間の喜びや悲しみが伝わって来るような深まりが感じられなかったのは残念だった。(そうであれば、また別のかたちで朋哉の変化に説得力が生まれただろう。)
 とはいえ、部員総出でともかく芝居を楽しもう、という姿勢は伝わって来たし、好感が持てた。それも各校のカラーといえばいえるのだろう。というわけで、この1枚はともかく大勢で楽しそうに笑っているところ。

坂戸高等学校『O~ここがわったーぬ愛島~(ラブ~ここがわったーぬアイランド~)』作:宮古千穂

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 このところ坂戸高校もすっかりコピスになくてはならない存在になってきた。今年はオープニングアクトにも参加している。このあたりは川越・坂戸地区の連帯感の強さも感じさせる。
 昨年秋の「ゴジラ」はゴジラ生誕60周年を意識して演目に選んだのかと推測した。ゴジラが冷戦時代の水爆実験を背景に生まれて来たとしたら、その復活は世界のあちこちで緊張が高まる現代に相応しかったとも思った。
 今回の演目は2013年度に八重山高校によって上演された創作であるということだ。こうした地方色の色濃い作品への挑戦によくぞ踏み切ったという思いがあるが、尖閣列島や米軍基地、さらには地方格差の問題など、本当は日本人一人ひとりに突きつけられている問題が扱われているという点で、この作品も鋭くも現代性を有しているのである。
 とはいえ、もちろん作品はプロパガンダ風には仕上げられていない。文化祭のクラス出し物を放課後の教室で話し合うという設定で、自衛隊の駐留問題についても賛否両論が語られる。しかし、その問題が島の世論を二分してしまっているという現実に、高校生も向き合わざるを得ないことは確かに伝わってくるのである。島の産業、伝統文化、信仰といった問題も、さまざまなエピソードを交えながらきちんと提起されている。
 クラスメートが集まってくるのもバラバラだったが、出てくる意見も個々バラバラである。それら一つ一つの意見を切り捨てることなく、ヒーローショーにまとめ上げていくさまは、沖縄の現在である「オール沖縄」を予言しているようでもあった。
 それぞれに個性的であることが必要なのはもちろんだが、それぞれの提案が順番に紹介されるというだけでなく、そこから生じる対立や葛藤がさらに鮮明になれば、最後に到達する地点ももっと標高の高いものになっただろう。台本通りだからなのかどうかは分からないが、皆仲良く、もの分かりがよすぎて、優等生的になってしまった気もする。
 もう一つ坂戸高校の芝居で残念なのは大道具である。教室机と教壇とがハの字になってしまうのは仕方がなかったのかも知れないが、配置にもう少し工夫が出来なかったか、クラス討論を始めるということで片隅に寄せてでいいから教卓もあった方がよかったのではないか、などと感じたし、何より上手の黒パネルが興ざめになってしまった。通り抜けでいいからパネルで出入り口を作り、目隠しが必要なら側板に黒パネルを配する等するだけで、ずいぶん雰囲気が変わったのではないか。(まあ、こちらは現役を引退した身だから気安く言うのだけれど。)
 さて、他にも気に入っている写真はあるのだが、やはりこの1枚といったら9人のヒーローが勢揃いしたラストシーンだろうか。舞台端のコロガシはこの一瞬のためだけに仕込んであったわけだが、これもまた贅沢な使い方だ。鮮やかな色に染められたヒーローたちは沖縄の心を確かに受けとめ、いままさに立ち上がろうとしているのだろう。

新座柳瀬高等学校『Ernest! =SEQUEL “Can't Stop Fallin' in Love!”=』原作:オスカー・ワイルド 潤色:稲葉智己

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 中根千枝の『タテ社会の人間関係』によれば、日本は「タテ社会」であり、西欧は「ヨコ社会」であるそうだ。そう聞くと、いかにも日本は封建的な身分社会であり、西欧は民主主義的な平等社会であるように受けとめてしまう。しかし、封建遺制は西欧にも日本と同じように残っており、西欧が「ヨコ社会」であるというのは同一の階級・階層に所属している者同士の結束が強固で、他の階級・階層からの侵入を容易に許さないということであるのだ。そこへいくと、日本の方が「上」の者が「下」の者を引っ張り上げてやるというかたちで、まだ階級・階層間の交流の可能性があることになる。
 なぜこんな突飛な話題から始めたかというと、オスカーワイルド原作というこの作品を観て、そうした階級・階層社会の存在を抜きにしては成り立たない芝居であると思ったからだ。新座柳瀬高校が関東へ抜けたときの作品はアメリカ南部が舞台だったと記憶している。その自由な、だからこそならず者も登場するが、それに対抗するようにして職業や出自をこえた連帯が生まれる世界と比較してみるとよく分かる。それでもやがてはアメリカにも階層は発生してくるのだろうが、自らの才覚次第でトップに躍り出るというアメリカンドリームの神話はまだ信じられているようだ。もちろん、良い悪いとは別の話である。
 作者もそのへんは弁えていて、一時代前の遠い異国のお話ということで、そうした階級性を生々しく描くことはしない。むしろ、少年少女時代に胸ときめかせて読んだおとぎ話さながらに、皆が皆、王子様であり王女様であり得るような世界に誘おうとしているのである。
 The Questによれば、作者自身が「コピスの演目を考える時にはとにかく「楽しんでもらえる演目」を最優先」で考えると言っているし、そのことに異を唱える気などまったくない。たまのお休みの日にお芝居でも見ようという人々の要求は多様であるし、今日は幸せな気持ち(=王子様・王女様)になりたいのという人がいれば、それに応えるのも演劇の使命なのである。
 そういう観点でみれば、取り違え、すれ違い、繰り返しという喜劇の要素がふんだんに盛り込まれ、舞台装置から照明、衣装にいたるまで神経のいきとどいた舞台は、そうした要求に応えるに十分である。サキソフォンとピアノの合奏で幕が開くというゴージャスさで客の心を引きつけるという作戦も功を奏している。そして何より役者たちが鍛えられている。すれ違いというのは、ちょっとした時間のズレから生じるのだとすれば、ちょっとしたタイミングのズレがそれらを台無しにしてしまうこともあり得る。アップテンポの中で、寸分の狂いもなく、しかも軽快にそのすれ違いを演じてみせていた。
 そして、役者たちが生き生きと、楽しそうに演じていたことが、この舞台の魅力を決定づけた。一所懸命なのはともかくとして、役者たちが目血走らせ、苦しそうにしていたら、客が楽しめるはずがないのである。
 ところで、村上春樹の『海辺のカフカ』にあったのだが、ギリシャ悲劇の根本にある世界観は「人が運命を選ぶのではなく、運命が人を選ぶ」ところにあり、しかもアリストテレスの定義によれば、その悲劇性は「当事者の欠点によってというよりは、むしろ美点を梃子にしてもたらされる」のだという。
 この芝居のクライマックスでは、あたかも20数年前にしかけられたタイマーが突然作動し始めたかのように、偶然の重なりの中でアーネストの出生の秘密が明らかにされ、運命の扉が開くことになる。その意味では、貴種流離譚という古典的な物語の構造を兼ね備えていることになる。
 だが、この作品こそハッピーエンドで終わるのだが、運命はどのように手のひらを返すのかはわからない。喜劇と悲劇は紙一重なのかも知れないのである。
 この1枚はラストシーンのアーネストによる独唱である。どんな歌詞だったか覚えていないが、そのリズムやメロディに私が感じ取ったのは、そうした運命に翻弄されるしかない人間の切なさだった。
 また2作品間の対の話を持ち出すなら、坂戸高校の芝居が、高校生たちが時代や現実とどう向き合い、それらに立ち向かう主体をどう確立していくか、というテーマを根底に据えていたとすれば、新座柳瀬高校の芝居は、時代や社会性をこえた、普遍的な人間性の探究にあったように思えたのである。

 G5+45-200mm
 GM1+pz14-42mm


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by yassall | 2015-06-20 01:43 | 高校演劇 | Comments(4)

コピスみよし第14回高校演劇フェスティバルが開催された

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 6日、コピスみよし2015/第14回高校演劇フェスティバルが開催されました。写真は初めての試みとなった川越西高校・県立坂戸高校・筑波大附属坂戸高校によるオープニングアクト。何の前触れもなく、チャイムの音と共に始まった寸劇とダンスに朝早くから来場して下さったお客様は大喜び。音楽と手拍子が伝えられないのが残念です。
 朝方こそ小雨まじりだった天候も、開場間近にはすっかりあがり、すべり出しも上々。事務局からの報告では、来場者数は過去最高だった昨年を大きく上回り、874名を数えたそうです。
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 昼休みの階段パフォーマンスは東京農大三高によるヒーローショー。「野菜戦隊ダイコンジャー」なるネーミングは農大名物「大根おどり」と「大根役者」をかけたものだそうです。
 今年も写真班を担当。各校の許可を得ましたので、昨年同様一部をアップ出来るように準備中です。 

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by yassall | 2015-06-15 17:14 | 高校演劇 | Comments(2)

水元公園の花菖蒲

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 11日、水元公園へ行って来た。2年前に訪れたときは花菖蒲の盛りに遅れてしまった。昨年も機会を逸し、今年こそ見ごろを逃すまいとねらっていたのだ。
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 2年前のことは「水の風景」(2013.6)に書いた。そのときは電車とバスを乗り継いで出かけたのだが、今回は自家用車。天候も前回は金町についたころから雨に降られたのだが、今回はこの天気。
 ただ、菖蒲を撮るには土も空もびしょ濡れだった前回の方が雰囲気が出ていたかも知れない。菖蒲園も前回はほぼ独り占め状態だったが、今回は人出もご覧のとおりである。
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 花は今が盛りで、写真にしてしまうとスカスカのようだが、まさに色彩の競演さながらで、琳派かくありなむといったところである。
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 さらに花影を水面に落とす景色があでやかさを倍加させる。
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 群落を絵にするのは難しい。一輪、一輪を撮し止めてみる。
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 今回は自家用車で出かけたこともあって、D3300とE-M5の2台態勢で臨んだ。上の4枚がD3300、下の1枚がE-M5である。
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 APSと4/3、NikonとOLYMPUS、単焦点とズームレンズ、MFとAFの違いがよく分かる。
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 傘をかぶって作業をしている黒い服の人たちは、しぼんでしまった花をつぎつぎと摘み取っているところ。菖蒲の花の命はたいへん短いのだそうだ。
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 水の公園というイメージは変わらない。隣りの池では睡蓮も花を咲かせていた。
(蓮と睡蓮の区別がよく分からないのだが、立ち葉ではなく、水面に咲いているのを睡蓮と呼んでおく。もっとよく案内板を見ておけばよかった。)

 D3300+TAMRON90mmMACRO、18-55mm
 E-M5+12-50mm


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by yassall | 2015-06-12 13:58 | 散歩 | Comments(2)

今年も塩らっきょうpartⅡ

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 前回の鹿児島産に続いて鳥取産らっきょうが出荷になった。今年は砂付きも発売されたのだが、100円違いということもあり、洗いにした。
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 昨日届いたので、さっそくボールに移し、甘皮をむいてザルで水をきる。前回と同じような写真になってしまったが、鹿児島産とかたちの違いがあるようなないような…。
 今年気がついたことは、小さめのを生で食したところ、辛みもあるにはあるが、ほのかに甘みを含んでいるということだ。産地ではさまざまな食べ方をするとのことだが、生が一番という声も多いという。
 らっきょうは生命力が強く、放置しておくと芯の方が伸びてきてしまう。1kgを買って、全部を生のまま保存しておくのは無理だろうが、買ったその日のうちくらいは少量を味噌で食べたりするのもありかも知れない。
 高血圧症になると、医者は塩分を控えろという。高血圧と塩分とはどのような関係にあるかというと、血液中の塩分濃度が高くなると、これを薄めようと水分量を増やす。すると血液量が過多となり、血管への負担が増大する、ということらしい。えっ?そんな単純な仕組みなの?と思ってしまうが、それでは喉が渇いても水を飲まないようにすればいいのか、というとそんな単純な話ではないらしい。
 そんなことを意識してではなかったが、前回は少々塩が多すぎたので、今回は200gにつき大さじ1杯弱の割合で塩をまぶし、タッパに詰め込んだ。さて、味の方はどうなることだろうか?


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by yassall | 2015-06-04 11:05 | 日誌 | Comments(0)

つい一言 2015.6

 「安全保障法制をみても、安保環境の変化というのは、中国が怖いから対米追随を強めるんだ、と。つまり、安倍政権は、中国へのおびえから、立憲主義が崩壊するほど切迫した事態があるのだと言っているわけで、そんなのは強迫神経症だ。」(小林よしのり氏)
 25日、安倍首相に近い自民党の若手議員37人が、憲法改正を推進する勉強会「文化芸術懇話会」の初会合を党本部で開いた。集会には百田尚樹氏が招かれ、「沖縄二紙をつぶせ」などと発言し、相変わらずのことながら物議をかもしている。
 同日、自民党内ではリベラル派の「過去を学び『分厚い保守政治』を目指す若手議員の会」も小林よしのり氏を招いて勉強会を開くはずであったが、中止となった。おそらくは何らかの圧力があったのだろう。上の発言は、後者の勉強会の中止を受けて、小林氏が朝日新聞の取材に応えた際の発言だそうだ。
 開かれた方の前者の集会では、「安保法案を批判する報道に関し「マスコミをこらしめるには広告料収入をなくせばいい。文化人が経団連に働き掛けてほしい」」との声も上がったという。この、どこに「自由・民主」があるというのだろう。
 先の衆院選・参院選で、国民は右翼政権を選択してしまったと思った方がいい。だが、国民までもが「強迫神経症」に感染してしまったら、日本はもう一度地獄をみることになる。(6月26日)

 何が何でも「安保法制」を成立させようと、国会では会期の大幅延長がはかられようとしている。だが、法案の審議がすすめばすすむほど、破綻を増すばかりのようである。
 「自己保存型の武器使用」などというのは国際的には存在しない概念であり、戦場での戦闘行為はひとしく「武力行使」となるのは子どもにだって分かることだ。
 「後方支援」というのも相当にあやしい。安倍首相の「安全な場所での武器弾薬等の引き渡し」という答弁を聞いていて思い出したことがある。
 2001年の9.11のあと、少なくない学校で沖縄修学旅行が取りやめになった。とくにアメリカがアフガニスタンでの軍事行動を始めてからが顕著になった。その理由は、「アメリカ軍の出撃基地がある沖縄が攻撃されるかも知れない」という、漠然とした不安だった。それはまったく根拠のない風評で終わってしまったのだが、本格的な戦争になればあり得ない話ではない。
 「後方支援」は軍事的には「兵站」を担うことだが、第2次世界大戦からはじまった「戦略爆撃」は兵站線どころか、敵国の軍需工場を潰滅させ、さらには国民の戦闘意欲を奪うことを目的として、各地を焦土と化した。
 ひとたび戦争に参加すれば前線も後方も一体なのだ。「国際平和のため」などといいながら、自ら戦争を引き寄せようとしている。何としても成立を阻止しなくてはならない。(6月22日)

 労働者派遣法「改悪」案が衆院可決した。終身雇用制に問題がなかったとはいわない。しかし、それに代わる労働慣行が確立しているわけでもなく、ましてや産業別労働組合も育っていない日本社会では、「多様な働き方」などというのは単なる美名でしかない。
 キャリアアップどころか、転職のたびに悪条件を押しつけられたり、一生派遣かも知れないというストレスをかかえながらでは、日本社会に歪みが生じないはずがない。
 つまりは「世界一企業が活動しやすい国」づくりのもと、労働者を使い捨てしたいという企業の欲求に従っただけなのだ。「決められる政治」というのは、企業の欲求と国民要求の間に政治が立とうというのではなく、一方通行にしただけの話なのである。
 2020東京オリンピックの国立競技場問題も変! 誰も未来に責任を持とうとしないまま、目先の利益だけを求めて重大なことがらが見切り発車されている。(6月19日)

 東京新聞・本音のコラムの担当者の一人に芥川賞作家の楊逸氏がいる。中国籍であることを意識してか、鎌田慧氏や斎藤美奈子氏と比較すると論調はおとなしく、毒気は少ない。
 だが、6日の「狼が来た」は面白かった。紹介すると、祖父が跡継ぎである孫に家畜を譲られたらどうするか尋ねる。孫は「残飯のみだった豚の飼料を改善し、犬小屋の水漏れを直し、ロバのために暗い製粉場に窓を作る」と答える。すると、祖父はがっかりした顔で嘆く。孫が慌てて、どうすべきかを尋ねると、祖父はこう答える。「狼が来るんだ、と告げるだけでよい。」
 文化大革命の体験者らしく、この先は毛沢東に話が及ぶのだが、もちろん昔話をしたかっただけではないだろう。
  ※
 衆院憲法調査会で憲法学者3人が「安保法制は違憲」との意見表明をしたことに対し、さっそく振り子を逆に戻そうとする動きが起こっている。私が傑作だと感じたのは読売新聞の「人選を誤った」と、高村自民党副総裁の「学者はどうしても字面に拘泥する」だ。この人々にいわせれば、学者はすべからく御用学者に甘んじていればいいのだし、憲法の条文など無視して差し支えないのだといっているようなものだ。これはデカダンスだ。いや、デカダンスなどと高級なものではない。劣化そのものだ。(6月7日)

 国会で審議が始まった「安保法制」(戦争法案)でいう「六つの事態」について、斎藤美奈子氏が「本音のコラム」(東京新聞)で整理してくれている。
 ①武力攻撃発生事態(「おいおい、ほんとに攻撃されちゃったぜ」状態)
 ②武力攻撃切迫事態(「どう考えても攻撃されるにちがいないぞ」状態)
 ③武力攻撃予測事態(「場合によっては攻撃されるかも知れないな」状態)
 従来の政府見解では武力行使(反撃)が許されるのは①の場合だけで、それが「専守防衛」の意味だったが、以上までが個別的自衛権(自分ちの安全)にかかわる「事態」。以下は集団的自衛権(よそんちの安全)に関係する「事態」になる。
 ④重要影響事態(「もしかしたら、わが家もヤバイことになるんじゃないか」状態)
 ⑤存立危機事態(「このままだとわが家は絶対やられてしまうぞ」状態)
 ⑥国際平和共同対処事態(「うちは安全だけど、まあ付き合いもあるし」状態)
 このうち、④⑥なら戦闘の手伝い(他国軍の後方支援)ができ、⑤なら武器をもって戦闘に参加できる(集団的自衛権の行使)ことになるという。
 ④と⑤の違いは答弁に立った大臣も分からなかったそうだが、「どう考えても」と「もしかしたら」と「場合によって」の区別は正しくつけられるのだろうか?
 はっきりしていることは、①以外は攻撃されていない状態なのであり、それ以外は「自分の側」から戦闘行為を始める、あるいは戦闘に参加する口実になり得るということなのである。(6月3日)


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by yassall | 2015-06-01 00:21 | つい一言 | Comments(0)