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座・高円寺で「大いなる平和」を観てきた

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 卒業生のヨージこと岡田萌から案内をもらった。座・高円寺劇場創造アカデミー5期生修了公演とあるが、脚本の力なのか、演出の力なのか、俳優の力なのか、養成コースあるいは研修生の修了公演のレベルをこえた舞台となった。
 演目の「大いなる平和」はエドワード・ボンド作『戦争戯曲集』の最終章にあたる第三部。演出はpart1、2が生田萬、part3が佐藤信である。佐藤信は座・高円寺芸術監督にして、生田萬ともども劇場創造アカデミーカリキュラム・ディレクターを務めている。
 描かれているのは核戦争後の世界である。パンフには第一部・第二部の内容の簡単な説明書きがある。第三部は「一部と二部を内包しながら、物語が進行します」とあるから、本当は全部を観なければならないのだろうが、扱おうとしているテーマの広さと深さはこの日観た部分からだけでも計り知ることができる。
 赤ん坊を殺すか、殺さないか、それは自分が生きるか死ぬかの選択以上の極限状況であるに違いない。まるめたぼろ布を赤ん坊のように抱きかかえて荒野をさまよう女がすがるのは希望であるのか、絶望であるのか。兵士たちが死者であるのか、生者であるのかの問いは、実は私たちに突きつけられている。自分たちは緩慢な死を生きているだけではないのか? 荒野に残ろうとする女の存在は新しいコミュニティを創造しようとする者たちにとって、そのリアリティを確保するためにも必然であったのだろうが、本当にそのように人間は変わることができるだろうか?
 圧倒されるのは洪水のように押し寄せる科白量である。かなり硬質な科白が銃弾のように飛び交う。描かれている世界の非日常性はもちろんのこと、かなり練れているとはいえ翻訳のことばを、すべて理解できたとはとうていいえない。それでも、そこにある語り口が生まれていると感じさせるのはやはり俳優の力量なのであろう。
 出演した研修生は7名。他に客演として黒テントから4名、過去の修了生ですでに劇団等で活動している5名が加わっているとはいえ、少しも引けをとることのない演技に感心した。どのようであるかといえば、科白を聞いているというより、その役者の身体、表情や発声によって物語を理解しているという具合だったのだ。
 座・高円寺で芝居を観るのは2回目だったのだが、今回はいわゆるコの字型に座席を配し、中央に平台を設けるというレイアウトだった。その舞台設営を生かした舞台美術、照明、音響、そして転換もみごとだった。
 午後5時ちょうどに開演し、10分ずつ2度の休憩をはさんで、終演が9時40分ごろだっただろうか? 環7を走るバスが終わってしまう時間だったので、正直にいえばもう少し短い方がよかったが、たいへん見ごたえのある4時間だったといっておこう。
 さて、岡田萌であるが、最初に飛び込んだのが劇団俳小。養成所卒業後にそのまま入団し、何作かの舞台に出演したり(ヨージが久しぶりにコピスに来たとき、内山勉さんが「あれは俳小の女優さんですよね?」と尋ねてきたことがあったから、多少は印象に残る存在であったのだろう)、演出助手を務めたりしていたが、思うところあってか退団。だが、演劇への思い断ちがたかったのか、座・高円寺劇場創造アカデミーに通うことになった。2年目のコース選択で彼女が選んだのが制作である。制作というと経営面、宣伝や交渉事などに従事することが多くなるのではないか? 演劇や劇場に対する知識はもちろんのこと、そのつどの公演の内容や意義に対する理解も求められよう。
 まあ、彼女なりの経験や生き方の模索から決断したことだろうから、生き生きとした活躍の場が与えられるよう、前途が開かれていくことを祈るばかりだ。
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by yassall | 2015-02-28 13:33 | 日誌 | Comments(0)

白鵬をたたえる・その後

  MLBで活躍した黒田博樹投手の広島復帰会見での一言が米国で話題になっているという。(http://news.yahoo.co.jp/pickup/6150279?fb_action_ids=454373454728111&fb_action_types=og.comments)
 その一言とは、「言葉も分からない中で、1シーズン162試合をずっと戦い抜く中で、体力的にも含めて、7年間は楽しいというよりも、苦しい思いの方が多かったんじゃないかと思います。」というものである。
 米テレビ局「NBCスポーツ」電子版は、「ヒロキ・クロダはドジャースとヤンキースで7年間投げて、多くのシーズンで最高のピッチングを見せてくれた。だが、彼は日本復帰に際し、これらの年月が特段素晴らしいものだったと回想していない。」と報じたという。
 だが、最後に「母国に戻って彼が少しだけでもピッチングを楽しんでくれることを望むばかりだ」と述べ、非難がましいところがないばかりでなく、米メディア間を通して黒田が米国で残した実績に対する敬意を失わず、帰国を惜しむ論調の記事が多いそうだ。

 そこで、どうしても比較してしまうのが、日本のスポーツ界における白鵬バッシングである。以前に「白鵬をたたえる」を書いたのは1月27日だった。千秋楽の翌々日、話題となった白鵬の審判部批判の翌日だったと記憶している。
その後の動きとしては、日本相撲協会は親方を呼び出して厳重注意し、親方はその日のうちに白鵬にその旨をつたえ、白鵬も「すみませんでした」と答えている。それでは不足だと感じた人もあるかも知れないが、角界としての決着はついているのである。
 しかしながら、あれから1月が経過しようとしているのに、スポーツ紙などではいまだにバッシングが続いている。中には日本相撲協会は白鵬に引退を迫るべきだ、とか、密かに引退を決意してあの発言にいたったのではないか、などと言い出す記者もいる。
 ようやくにして、「審判批判を口にしたのは大きな問題だが、横綱は叩かれ過ぎではないだろうか。」(臼北信行氏,http://bizmakoto.jp/makoto/articles/1502/19/news014_3.html?fb_action_ids=453918478106942&fb_action_types=og.comments)と反批判の声も上がりだしたが、目新しい動きもないのに「批判がおさまらない」などと蒸し返している様子をみていると、「騒ぎを長引かせ、大きくしているのはあなたたちでしょう」と言いたくなる。
 母国モンゴルで労働英雄賞を受賞した際、「父は20世紀の大横綱。私は21世紀の大横綱になった」と語ったことも、何やら嫌みったらしく報道しているし、これでは帰日の際に記者たちの問いかけに無言を通したというのももっともだと思ってしまう。
 「横綱の品格」などというが、柏戸・大鵬だって不祥事は起こしている(その当時はそれなりの報道もされ、批判もされた)。だが、あたかも「日本人」横綱にはそなわっている品格が、白鵬が「外国人」横綱だから欠けているような書き方は、書き手の了見の狭さをあらわにするばかりか、その排外主義にもとづく偏見が基底をなしていることまで暴露してしまうのだ。
 その「品格」論議にしたって、せいぜいが懸賞金を受け取る際に鷲掴みにした、という程度のものだ。手刀を忘れたというならともかく、勝者が誇らしげな態度をとったことがどうして非難されなければならないのか。その勝負が全身全霊をかけたものであることこそ、相手力士に対する敬意の表し方であり、だからこそ勝利を喜ぶ権利が勝者にはあるのだ。(指摘された後、白鵬は両手で受け取るように改めているし、高くかかげるようなこともしていない。)

 ジャーナリズムが権力や権威を恐れず、まっこうから立ち向かっていくことに私は尊敬を惜しむものではない。だが、相手が横綱であるとはいえ、その批判のあり方や姿勢はもう一度見直してみる必要があるのではないか、と言いたい。


by yassall | 2015-02-20 13:30 | 雑感 | Comments(0)

宇都宮健児『自己責任論の嘘』

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 若い人にすすめたい本だと思った。
 著者は弁護士で前回と前々回の都知事選に立候補した。私は都知事選では支持したが何か義理を感じたわけではない。新刊書コーナーに並んでいたのを最初はパスしたくらいだった。だが、変ないい方だが、読んでみると予期した以上にしっかりした内容だった。
 クレジットとサラ金をあわせて「クレサラ」というのだそうだが、全国クレサラ生活再建問題対策協議会副代表、反貧困ネットワーク代表世話人として活動を続けて来た人らしく、問題解決という観点で実践的であり、かつ理論的にも堅固なものを感じた。

 実践的というのは、まず根拠となる数字をあげて、サラ金による多重債務は「借り主責任」(どうせギャンブルや遊興費に使ったのだろう」)が成り立たたず、貧困問題が根底にあることを明らかにしている。
 (日本弁護士連合会による「自己破産原因」調査によれば、ギャンブル1.91%、浪費・遊興費3.7%であるのに対し、生活苦・低所得23.3%、病気・医療費7.83%、失業・転職7.64%が主原因であり、保証債務(第三者の肩代わり)10.18%、事業資金9.15%が上位を占めるという。)

 問題解決の観点とは、クレサラ運動の成果として2006年「貸金業法」の改正を実現させた。その後、年間3万人を越えていた自殺者が3万人を下回るようになった(まだ多いが)。サラ金業者の加害者性に加え、これを野放しにしてきた法制度の欠陥があったことが明らかになった。(そういわれてみると、最近駅前からサラ金の看板がなくなってきた気がする。)

 理論的な支柱となっているのは日本国憲法である。第25条は次のように謳っている。

 「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
  2国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」

 ところが、片山さつき衆議院議員にいたっては2012年に開催されたトークイベントでつぎのように発言したという。

 「生活保護というのは日本の文化からすれば恥です。人様の税金で生活しようとするのですからね。それがいいことなんだと、権利を謳歌しようなどと国民が思ったら、国は成り立たなくなる」

 これが東大法学部を卒業し大蔵省主計官を経て国会議員となった人物のいうことだろうか、と著者は指弾する。「社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」立場を棚に上げて、生活保護をやむなくする人を「恥」だだと切り捨てることことが「自己責任論」の正体なのである。

 こうしてみると、日本国憲法を敵視し、これを「改正」したいという真のねらいも見えてくる。その「改憲」論の論拠のひとつになっているのが、いわゆる占領下における「押しつけ憲法」論だが、帝国議会内での審議から国会が二院制になったなどGHQ側から提示された案そのままではなかったし、日本側での議論があって現憲法が公布・施行されたことなども書き込まれている。憲法改悪の動きはこれから本格化していくだろうから、これも大事な視点である。

 若い人にすすめたい、といったのは、非正規雇用が労働人口の3人に1人、年収200万円以下のワーキングプアが1000万人超、残業代0法案、生活保護の切り下げという過酷さがこれから世に出ようという世代を待ち受けているからだ。「正社員になれないのは自分にキャリアがないから」とか、「仕事を覚えるまでは残業代がなくてもしかたがない」などという「自己責任論」は何としても打ち破らなければならないし、この本はそのための強い武器になるに違いない。

 都知事選奮戦記にも1章が割かれていて興味深く読んだ。いわゆるリベラル層というと比較的中高年齢層に多い気がするが、意外と若年層にも支持が広がり、街頭で練り歩きなどをしていると「あ、ウツケンだ」と中高校生まで声をかけてきたという。聞くところによると、若い世代に影響力のあるロックバンドやDJが宇都宮さんを応援していたのだそうだ。
 これも「年越し派遣村」村長をつとめるなど、運動の先頭に立ってきたことが多くの人の目に映ってきたからなのだろうと思った。

 (途中で読むのが嫌になられたら「若い人にすすめる」も何もないので、短く書こうと思ったがやはり長くなった。でも、もっともっと紹介したい内容がたくさんある。一読二読に値すると保証する。)

宇都宮健児『自己責任論の嘘』ベスト新書(2014)  KKベストセラーズ


by yassall | 2015-02-06 19:22 | | Comments(4)

私のジッポー

 DeAGOSTINIでジッポーコレクションがはじまった。たばこを止めてずいぶんになるし、80個もコレクションする気ももちろんないので、特別価格1999円の第1号だけ買った。
 愛煙家時代はジッポーを愛用していたので、コレクションというほどでもないが、今でも持っているものがいくつかある。この際、アップしておこうかという気になった。
 2灯でライティングしてみたが、なにせ光りものなので上手に接写できなかった。まあ、自分が懐かしいだけのことだから、このまま貼り付ける。
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 初期型に近い(※)ジッポーである。風防(今度買った雑誌によればリッドというらしいが、つまりキャップ)が角張っている。隅のダイヤカットがなかなかおしゃれである。
 ※初期型に近い、と書いたのは、さらに角が鋭角なものがあったと何かで読んだからである。外箱にoriginal windproofとはあるが。
 (あとからの補足 今回買った雑誌で、ボトムコードを解説した写真に、さらに丸みのない前期型が写されていた。並べ方からして、そちらが最初期のものに違いない。)
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 ボトムの刻印(ロゴ)も細字体で「ZIPPO」とある。もちろん、復刻版である。
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 現行型は風防がやさしいカーブを描いたデザインになっている。細字体のつぎに採用された斜字体の刻印(ロゴ)が本体にデザインされている。
 以前に気に入って使っていたのを失くしてしまい、もう一度買い直したのである。包装をとかずにいるのはシルバー10ミクロンとあるからだ。空気に触れると銀メッキはたちまち変色してしまうのである。
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 風の中でライターに着火する女性、WINDYをデザイン(彫刻)したもの。鏡面仕上げになっているので周囲が映り込んでしまい、どうも上手く撮影できない。
 実はこれも愛用していたものを失くしてしまい、ずいぶん探して買い直したものだ。最初に持っていたのはもっと廉価版で、銀メッキもなく、鏡面仕上げにもなっていなかった(実はその方が好みにはあっていた、彫刻ももっと線が細かった)。値札が貼ったままになっていて8000円とある。それだけ出しても取り戻したいと思ったのだろう。
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 これが今回買った雑誌についてきたフロレンティーン。サテン仕上げでなかなか上品である。これなら指紋もつきにくい。
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 ここからは、実際に最後まで使っていたもの。ジッポーに愛用者が多いのは、まず頑丈であること、大きさの割に軽いこと(※)、廉価であることの他に、さまざまな図柄で遊べるところからではないだろうか。昔の軍艦らしき船の絵が彫刻されているのであるが、そのいわれが何かは知らないで使っていた。
 ※ガスライターは高圧ボンベを内蔵しているわけだから、どうしても重くなり、故障も多い。そう考えると日本の使い捨てライターの性能は素晴らしい。
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 すさまじい汚れ方だが、もとは銀メッキがほどこされていたのか、よくよく見ると光沢を含んでいて、風合いがあるともいえる錆び方である。
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 内部もいかにも使い込んだふうがある。ヒンジもかなりガタついている。こうなると愛着がわいて離せなくなる。
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 ハーフサイズ。ポケットを膨らませたくないとき用に買った。オイルの持ちは悪かった。左側の方がエレガントである。
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 これはおまけ。ガスライターには興味がなかったかというと、そんなことはなくて面白いかたちのもがあるとつい買ってしまった。ただし、あまり高価なものは買わなかった。
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 ジッポー型にみえるがガスライターである。風に強いようにバーナー仕様になっている。知人が持っているのをみて頼んで買ってきてもらった。まあ、山登りなどもしなかったが。
   ※
 どうもジッと考え事などをしていると気持ちが重たくなってくる。それでも、こんなことが気分転換になるのだから、やはりブツヨクから逃れられない性格なのだろう。煩悩の闇は深い。


by yassall | 2015-02-04 15:23 | 雑感 | Comments(0)

つい一言 2015.2

 自民党元副総裁の山崎拓氏が、「私が一番心配しているのは、日本の自衛隊が米国の『傭兵』になってしまうことだ」と述べたという(時事通信)。
 集団的自衛権の行使に関する「閣議決定」を具体化する安保法制が、いよいよその姿をあらわし始めた。自衛隊の海外派兵を①随時可能にする恒久法を設置するという。しかも、その素案では、②地理的制約を設けず、③支援対象国も限定しない。周辺事態法も「改正」し、④「周辺事態」という概念を廃止するという。
 個々バラバラにみていると、まるで判じ物のようであるが、付き合わせて考えると先の山崎氏の心配事が決して杞憂でないことが分かる。
 憲法9条によって「戦争放棄」を謳いながら、「自衛権」と両立できるとしてきたのは、日本から戦争を始めることはしない、ただ日本が攻め込まれた場合に応戦する(攻め込まれるのを事前に抑止する)ための最小限度の軍備を保持する、というのが、これまで漠然とではありながら国民の共通理解となってきたから、というところではないだろか?
 日米安保条約(=日米軍事同盟)にしても、日本一国で自国を守りきれるとは限らず、「極東」有事のときは日本の安全保障に重大な関わりがあることは確かだろうから、限定的な共同行動をとることはやむを得まい、というところだろう(それが日米安保条約の本質であったかどうかは別問題として)。
 しかし、「周辺事態」の制約を取り外してしまえば、そうした「専守防衛」の概念はいっきに崩れ去ってしまう。「国益」を損なう恐れがあるときは、「地理的制約」を設けず、世界中どこへでも自衛隊を派遣できるということになったら、もはや何の歯止めもないことになる。
  ※
 さて、「支援対象国」を限定せず、という箇所である。
 私には以前から気になっていたことがある。それは、石破茂氏が自民党の幹事長時代に発した次のような一言である。
 「アメリカの若者は日本のために血を流す覚悟をしている。他国の若者なら命を懸けてもいいが、日本は懸けない。本当にそれでいいのか。」
 石破氏はこうした脅迫めいた物言いをよくする人であるが、とりわけて突出しているとしか言いようがない。第一に、アメリカが自国の「国益」を度外視して「日本のために血を流す覚悟」をしているというのは、疑ってかからなければならない。そして、よくよく読んでみると「日本は懸けない」というが、何に対して日本人は命を懸けよ、といっているのかよく分からない。「集団的自衛権」の議論の中での発言だけに、よほど注意しなければならない。
 アメリカが戦争が好きで、戦争が始まると大統領に対する支持率が上がるというのは確からしいが、とくに近年は海外での戦争でアメリカの若者の命が失われることに対する批判が高まっていることもまた事実である。
 現在の対「イスラム国」への軍事攻撃でも空爆に限定しているし、地上軍については「軍事顧問」を派遣するとのみしている。最近よく耳にするのは殺人無人飛行機の使用であり、せいぜいが特殊部隊の投入である。
 アメリカは依然として世界秩序をつかさどる位置を占めようとしている。しかし、そのために「アメリカの若者」の血を極力流さず、それに代わって血を流すことを従属国(あるいは目下の同盟国)に求めようとしている、というのが本音なのではないだろうか?
 今のところ、安倍首相は自衛隊が「有志連合」の後方支援にあたることはしない、といっている。だが「支援対象国」を限定しないとする意図は、アメリカが直接参戦していなくても、そのアメリカが支援している国(有志連合国のような)と共同作戦がとれるようにするということではないのか? それでは、まさに日本の自衛隊はアメリカの「傭兵」となることになってしまう。
 これも「今のところ」だが、「非戦闘地区」とか「非軍事支援」とかいうことばがまだ隠れ蓑のように使われている。だが、最終的なねらいが憲法9条「改正」(来年、参議院選のあとに発議するといっている)にあることは公然のことだから、本心はもっと先にあることは明らかだ。
  ※
 昨日、普天間基地の移設先に隣接する名護市の米軍キャンプ・シュワブのゲート前で、辺野古移転に反対する沖縄平和運動センターの山城博治議長ら二人を米軍が拘束するという事件が起きた。身柄の引き渡しを受けた県警名護署は、「日米地位協定に伴う刑事特別法違反」の容疑で二人を逮捕したという。まるで米軍と県警の「連係プレー」である。(2月23日)

 安倍首相は施政方針演説で「農政改革」をかかげ、「農家の皆さん、そして地域農協の皆さんが主役」の改革がすすめるとした。
 わざわざ「地域農協」と限定していることに胡散臭さを感じていたが、ねらいは中央農協の解体であることがみえてきた。背景にTPPがあるのは容易に推察することができる。農作物の輸入自由化の障壁となると考えるばかりでなく、JAバンクも金融自由化をすすめる上で目の上のたんこぶであるらしい。
 農協はしばしば「悪者」として扱われることがある。日本の農業を平準化し、創意ある営農のさまたげになっている、というようなことがいわれる。しかし、農協としてとりまとめて出荷するからこそ安定供給が可能であるのであって、ある有名料理店と個々の農家との契約というようなケースでない限り、農協なくして国民の食生活を安定的に満たすような流通が可能であるかといえばそれは違うだろう。
 各種の啓発活動や営農指導、肥料や農耕機具の斡旋、福利・厚生事業など、農協の活動範囲は広く、基本的なところで日本の農業を支えてきたことは確かだ。もし農協改革が必要だとしても、それはあくまで自主・自立、民主化の方向でなされるべきであって、邪魔だから解体してしまえというのは筋が違う。
 まったく、この首相が用いる言葉は「農政改革」が「農業解体」に、「平和主義」が「戦争加担」に、「国際協力」が「武力行使」にすり替わってしまうのだから、いつも眉につばして聞く必要がある。(2月21日)

 国会が開会し、安倍首相による施政方針演説が行われた。いいたいことはたくさんあるが、3点にしぼって書いてみる。
 冒頭、「邦人殺害テロ事件」の犠牲者に対する「哀悼の誠」とご家族への「お悔やみ」が述べられた。国連では米大使が紛争を伝えることに人生をかけた後藤さんの功績を讃える演説をした(2/12)のに、日本では高村自民党副総裁が「使命感があったとしても、勇気ではなく、蛮勇と言わざるを得ない」と語る(2/4)など、政府のコントロール下にない個人の行動に対して冷淡すぎると感じていたので、やっと言ったかという感じではあるが、これは大切なことだった。
 「戦後以来の大改革」の最初に農政改革をかかげた。戦後、農業人口が1/8の200万人にまで減ったという現状をみるならば、このまま放置してよいとは思われない。巨大資本の食いものにされるのではなく、本当に「農家の皆さん、そして地域農協の皆さんが主役」の改革がすすめられるようにしっかり見届ける必要がある。
 TPPからみがあるので難しいが、「安全で、おいしい日本の農水産物を世界に展開」という方針も間違いではないと思う。工業製品の輸出のために農業が犠牲にされているという認識がある。食糧自給率の低下は深刻な問題だ。「世界には340兆円規模の食市場」が広がっているというなら、いっそ農業立国をめざすくらいの方針転換があっていい。そして、「安全で」とあるからには、最大の不安材料である原発からの撤退を実現させなければならない。
 「外交・安全保障の立て直し」では、本音の憲法9条「改正」については隠したままだったが、おもわず耳を疑う箇所があった。沖縄・普天間基地の返還について、「辺野古沖への移設」を進めるとしているが、「引き続き沖縄の方々の理解を得る努力を続けながら」と前置きしている。しかし、「普天間基地は県外へ・辺野古新基地建設反対」をかかげる翁長知事との面会を2度までも拒否している。「裏付けのない『言葉』ではなく実際の『行動』で」と安倍首相は宣わっているが、「沖縄の方々の理解を得る努力」の「裏付け」はどこにあるのだろうか?
 しめくくりに、「批判だけを繰り返していても、何も生まれません」と語気強く訴えている。「聞く耳持ちませんよ」とも受け取れるが、わざわざ演説に加えているのはやはり批判の高まりが気にかかっているのだろう。(2月14日)

 2/7「産経抄」への批判が止まらない。当然のことだ。今ここでうやむやにしてはならないことだ。(2月11日)
http://bylines.news.yahoo.co.jp/inoueshin/20150210-00042948/

 前回の続きなのだが、「産経抄」があたかも日本も「イスラム国」への武力行使に参戦せよ、と主張しているのをみて、そのように中東に世界中の憎悪を集中させてよいのだろうか、と思ったのだ。
 伝えられているような「イスラム国」の残虐行為が真実ならば、放っておいてよいとは私も思わない。だが、「対テロ」とはいうが、中東が戦火につつまれるのに加担することになるのは確かだ。
 爆弾は本当にテロリストの頭上にのみ降り注がれるのだろうか? 国境付近の難民キャンプから男子高校生5000人が「聖戦に参加する」といってシリアに引き返した、といったことも報道されている。まさに「憎悪の連鎖」が繰り返されている。
 「産経抄」の主張は、けっきょく中東を「対岸」としてみていることから発しているのではないだろうか? それは戦火の中の子ども達や弱者を黙って見ていられないとした後藤さんの視点とはほど遠いものだ。(2月10日)

 もう「産経新聞」のことは話題にもしたくないのだが、やはり黙ってはいられない。2月7日の「産経抄」のことだ。
 日本人人質殺傷事件について、「仇をとってやらねばならぬ、というのは人間として当たり前の話」であり、嘘か本当か知らないが「ヨルダンでは、「なぜ2人も殺された日本がともに戦わないのか」という声が高まっている」として、今すぐにも対「イスラム国」への武力行使=参戦をあおっているかのようなのだ。
 亡くなった後藤健二さんに対する多くの人々の共感に対しても、「憎しみの連鎖を断たねばならぬ、というご高説」と揶揄し、「処刑直前も彼はそんな心境だった、とどうしていえようか」と決めつける。
 そして最後は 「 護憲信者のみなさんは、テロリストに「憲法を読んでね」とでも言うのだろうか。命の危険にさらされた日本人を救えないような憲法なんて、もういらない」と、日本国憲法に対する敵意をむき出しにするのである。

 日本のマスコミの中でも「産経新聞」の立ち位置が特異であることは周知のことだ。戦後の労働争議以降の歴史について資料を読んだこともある。だが、5大紙最下位とはいえ167.1万部(5大紙計では2412.9万部)の読者を持つ新聞社が、主戦論に走った戦前を彷彿とさせるような有り様でいいのだろうか? 「産経ならかくありなん」では済まされない。
 同じジャーナリズムを志した者への共感のかけらもないことは「処刑」などという無神経なことば遣いでも明らかだし、「仇」をとってやりたいなどという気持ちがそれこそ「薄っぺら」でしかないことを自ら告白しているのようなものだ。(2月10日)

 ついに改憲を日程にあげてきた。国民世論をどう読みとったのかは分からないが、国民の側も本気にならなければならない。もう「経済優先」に欺されてはいられない。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2015020502000135.html
(2月5日)

 「フランケンシュタイン」は怪物を作り出してしまった学者の名前である。怪物には名前がないが、メアリー・シェリーの原作では体力・知力ともにすぐれ、雄弁である。ただ、容貌が醜悪であったために、創造主からも嫌われる。絶望した怪物はフランケンシュタインに復讐しようとし、フランケンシュタインは怪物を滅ぼそうとする。最後の舞台は北極である。
 「イスラム国」は直接的にはイラク戦争、歴史を遡れば欧米による中東支配が作り出したモンスターである。モンスターは欧米に復讐をくわだて、英米を中心とする「有志連合」はモンスターを滅ぼそうとしている。
 アメリカにとって「正義」とは「戦争」のことだということがよくわかる。孟子に「義を見てせざるは勇なきなり」とあるくらいは私だって知っている。だが、「戦争=正義」というほど、問題は単純だろうか?
 生まれてしまったモンスターを放置してよいとはいわない。だが、これだけ急速に勢力を拡大し、維持し続けているということは、人的にも資金的にもこれを支持して(あるいは利用しようとして)援助しているパイプがあるに違いない。それらの構造全体を変えていこうとしなければ真の解決はないだろう。
 安倍首相は「罪を償わせるために国際社会と連帯する」とか、「これから日本人に指一本触れさせない」とか息巻いている。(ずいぶん熱くなっているな、と思っていたら「国民の生命を守るために9条を改正する」と改憲の口実にすることだけは忘れていない。)
 せめて国民は冷静でありたい。憎悪の連鎖だけが増強されて、最後の舞台は日本だったなどということはあって欲しくない。(原発テロを防ぐためにも、直ちに原発から撤退し、廃炉を急ぐべきだと本気で考えている。)(2月4日)
  ※
 元外交官でイラク戦争に反対して退職を余儀なくされた天木さんがビシッと言ってくれています。
https://www.facebook.com/photo.php?fbid=621667404646128&set=a.125353594277514.38393.100004086215488&type=1&theater

 「イスラム国」によって命を奪われた湯川さんと田母神氏との関係がささやかれています。信憑性は不明なので記事にするかどうか迷いましたが、これらが真実だとしたら何と恐ろしいことでしょうか…。なお、田母神氏が後藤さんとその母をバッシングしているのは事実のようです。(2月2日)
http://kaleido11.blog.fc2.com/blog-entry-3349.html

 後藤さんの母、石堂順子さん(78)は1日午前6時ごろ、報道陣に対し「今は気が動転していて、言葉を選べる状態ではありません。息子の最期は同じ日本人を助けるためシリアに行ったのだから、息子の優しさと勇気を分かってほしい」と述べたという。(毎日新聞ニュース)
 一方、安倍首相は1日、「テロリストたちを絶対に許さない。その罪を償わせるため国際社会と連携していく」と記者団に語ったという。(朝日新聞デジタル)
 私は「日本がテロに屈することは決してない」という態度を保つことは間違っていないと思うし、「中東への食糧、医療などの人道支援をさらに拡充する」ことも否定はしない。
 だが、「罪を償わせる」という言い回しは、米オバマ大統領の「当然の報いが下されると思い知るだろう」とか、英キャメロン首相の「犯人を捕らえて裁きを受けさせる」と同様の全面対決の構えのようにとれる。
 実際、菅義偉官房長官は「イスラム国」を空爆する米国主導の有志連合への自衛隊の後方支援は「ありません」と否定したというが、安保法制に関わる自民党関係者は「今回ヨルダンや様々な国に協力をお願いした以上、日本は何もしないというわけにはいかない」と語り、自衛隊による支援が必要との考えを明らかにしているともいう。
 全面的に対決するということになるなら、日本および日本人がテロの標的になることを覚悟することでもある。
 後藤さんについては、何度か報道番組でレポートする姿を見ただけだが、その非業の死を「優しさと勇気」とともに記憶したいと思う。
 少なくとも、これを機会に日本をいっきに軍事国家に持って行くようなことを願ってはいなかったと思うからだ。(2月2日)
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 ネットをみると「自己責任論」から「誘拐保険金」まで飛び出して、後藤さんや母親に対するバッシングの激しさに暗い気持ちになる。「日本を守る」というなら「守るに値する国および国民」であるように努めるべきだ。


by yassall | 2015-02-01 11:04 | つい一言 | Comments(0)