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白鵬を讃える

 大相撲で白鵬が33回目の優勝を決めた。北の湖や千代の富士など、大鵬以後も強い横綱は何人も出て来たが、その記録が破られることはなかった。
 優勝インタビューで、冗談めかしながらも「もう目標がなくて引退なのかな」とぼそりと呟いたのを聞いて、偉業にいたるまでの重圧がどれほどのものだったか計り知れる気がした。
 さて、私は相撲はもっぱら大相撲ダイジェストでみるだけだから、そうたいしたファンではない。それでも、一言いいたくなったのは、千秋楽の翌日の審判部に対する批判が波紋を呼んでいると聞いたからだ。
 その批判とは、同体取り直しとなった13日目の稀勢の里戦について、「勝ってる相撲ですよ。帰ってビデオを見た。子供が見ても分かるような相撲。なぜ取り直しになったのか。もう少し緊張感を持ってやってもらいたい」と発言したことを指す。
 さらに、「ビデオ判定の方も、元お相撲さんでしょ。取り直しの重みも一番分かっているはずじゃないの。2度とないようにやってもらいたい。本当に肌の色は関係ないんだよね。土俵に上がって、まげ結ってることは日本の魂なんですよ。みんな同じ人間です」と訴えたというのである。

 産経ニュースは「大偉業が台無しになる、横綱の“乱心”」と手厳しいが、日刊スポーツは「祝宴の酔いか蓄積した思いか」とやや白鵬の屈折した心中にも忖度した見出しになっている。
 「蓄積した思い」というのは、白鵬自身が感じ取っている「外国人横綱を見る目」であることは、「肌の色は関係ないんだ」ということばに表れている。
 最初にことわっておけば、問題となった一番については、素人ながらビデオを見て「同体取り直し」は妥当であると思った。土俵際で稀勢の里がはなった小手投げは利いているように見えるし、白鵬の右足の甲が先に土についたという主張もあるとのことだが、いわゆる「相撲の流れ」からして「取り直し」は適切な判定であると思う。少なくとも、「子供がみても分かる」というような明らかさではない。
 つまり、審判部や相撲協会に「外国人横綱」に対する「差別」や日本人力士に対する「贔屓」の態度は(当然ながら)見られないし、公平・公正は保たれているといってよいと思う。先に、「白鵬自身が感じ取っている」という断り書きをした理由でもある。
 ただ、一般の相撲ファンの間で「日本人横綱」を待望する声は厳然として存在するし、そのもっとも有力な候補が稀勢の里であり、白鵬からすれば勝てば優勝が決まる一番であれば、いやが上にも場内が興奮につつまれていたであろうことは容易に想像がつく。
 そんな中で「取り直し」が決まったとあれば、観客はもちろん大喜びだろう。その雰囲気の中で、白鵬は何かを感じ取ったのではないか? 「盛り上げようとか、観客へのサービスとかじゃないんです」、「命がけでやっているんです」というようなことばの端々にそのようなことを推測してしまうのである。
 しかしながら、もしその通りだとしてだが、私はそのように異国の地で「孤独」な白鵬に同情してこの文章を書き始めたのではない。むしろ、多くの日本人が「日本の相撲」と「外国人横綱」との結びつきに感じているよりも深い、アイデンティティの危機のようなものを白鵬が感じ取っているのではないか、と考えたのだ。それは、「土俵に上がって、まげ結ってることは日本の魂なんですよ」という一言にあらわれいる。

 大相撲の世界に外国人力士が登場するようになってすでに久しい。だが、世界に開かれるようになったといっても、「リングに上がれば国籍は関係ない」「グランドの中ではルールの下にみな公平」というのとは明らかに違うものがある。いや、外国人力士であればそう割り切ってしまうあり方があってもいいし、もしかしたら「大相撲」が国際的になるというのはそういうことなのかも知れない。
 しかしながら、白鵬が選んだ道はそういう道ではなかった。体罰・暴力事件、八百長事件が続き、大相撲が大揺れに揺れ、春場所の中止を決定したのは2011年であった。その年の3月11日に東日本大震災が起こる。角界は東北の被災地を巡回し、白鵬は「大地を鎮める」横綱の四股を披露した。そのとき白鵬は、「横綱とは、日本の魂なのではないか。私は、日本の魂でなければならないのではないか」と自問したという。
 その後か、それ以前からかは知らないが、相撲道においても先人として双葉山を深く尊敬し、「後の先」を研究し、これを極めなければ「名人」「達人」の域に達することはできないと明言している。今場所、白鵬の相撲が「バタバタしている」との評もあったが、記録を達成した後はいよいよ「後の先」を試していくという宣言を実行しているのである。

 このように、白鵬には「日本の相撲」に対する敬愛と精進の姿勢がある。「一人横綱」としてひとりで角界を背負っていた時期もある。これをとらえて、「慢心」とか「乱心」などというのはお門違いも甚だしい。
 私は最初、そのようなことを書きたかったのだが、こう書いてみて、まだ不十分さが残ることに気がつく。
 それは、先ほど白鵬の「アイデンティティの危機」といったことと関連している。白鵬はまた自分がモンゴル人であることに強い誇りを持っている。その「青き狼」の子孫であることに対するプライドと、大相撲の土俵の上で「日本の魂」であろうとすることをどこで一致させるのか、白鵬はそのことで悩んでいるのではないかと考えたのだ。
 異国の地で、挑戦者として頂点をめざしていたときにはなかった、また地方巡業を放り出してモンゴルでサッカーに興じていたのが露見してしまった朝青龍のような割り切り方をするのでないからこそ直面してしまう自己不同一感、それがときとして「外国人横綱を見る目」となって自分の内側に突き刺さってしまうのではなだろうか?
 だが白鵬が日本の大相撲の横綱として歩んでいこうとするなら、その重荷を背負わなければならないのはこれからなのである。

 失言といわれれば確かに失言であったといわざるを得ない。誤審ともいわれた一番のあと、大鵬が「そのような相撲をとった自分が悪いのです」と言ったことと比較されるが、白鵬にしても横綱の理想像とされたその泰然自若ぶりを理解できていないはずがない。それでも、「失言」を生んだ白鵬の心の葛藤を考えれば、私はとても責める気にはなれないし、今後とも横綱として「日本の相撲」を叱咤していって欲しいと思うのである。

 (国籍問題などの悩みもあるとのこと。勝手な憶測でものを書いてしまった。まとまりが悪いが、非礼を重ねてもいけないのでこのへんで。)


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by yassall | 2015-01-27 19:29 | 雑感 | Comments(2)

竹橋から神保町へ

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 先週は水曜・木曜と冷たい雨が降り、つい家に引きこもりがちになった。これではいけないと土曜日に東京国立近代美術館へ出かけて来た。
 お目当てとするような企画展はなかったが、もともと常設展が充実しているので、以前から気安く立ち寄ってみるのも悪くないと思っていたのだ。高田馬場からではなく、大手町で丸ノ内線から東西線に乗り換えた。地下鉄の乗り換えというやつは、駅名は一つでも一駅分くらい地下道を歩かされるケースが多いのだが、もともと閑なのだからどんなかだか見てやろうという気もあった。
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 竹橋は大手町から一駅。地上に上がる。こうして青空が見えたりはするのだが、やはり冬の風景である。枝のすき間から見える円柱形の建物は毎日新聞社である。
 常設展のみだと入場料は430円。2階から4階までが常設展で、最初にエレベータで4階まで上がるように案内される。
 見たかった絵の1枚は関根正二の「三星」なのであるが、4階のハイライトコーナーに展示されていた。関根正二は福島県生まれ。独学で絵を学び、20歳で夭折してしまったという画家である。ゴッホに憧れていたともいうが、誰の真似でもない、強烈なオリジナリティがあってこそ、境遇を越え、時代を越えて生命の輝きを放ってきたのだろう。
 収蔵は1万数千点を越えているそうで、半年に1回くらいのローティションで展示替えをしているとのことである。中村正義の「源平海戦絵図」も見たかったのだが、残念ながら展示されていなかった。
 長崎の軍艦島を撮った奈良原一高の作品が展示されていて、「ああ、この写真を撮った人は奈良原というのか」と感じ入っていたら、別にコーナーが設置されていて、北海道の修道院と和歌山の女性刑務所を取材にした「王国」が展示されていた。他は、藤田嗣治の戦争画にコレクションの豊富さを感じたくらいだろうか。
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 さて、竹橋に出た時は、桜の季節なら北の丸公園から千鳥ヶ淵あたり、さもなくば北詰橋門から本丸跡に入って大手門に抜けるなどという順路もあるが、たいがいは白山通りに出て神保町まで歩くのを散歩コースにしている。
 そこで、いつものように竹橋駅前をパスしたところで、急に将門首塚が近いということに気がついた。近いといってもけっこうな遠回りになるのだが、思い立ったときでないとまた行き損なうと意を決して(少し大げさ?)お堀端を回ってきた。
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 将門を祀ったのは神田明神であるが、碑銘には「蓮阿弥陀仏」とある。鎌倉時代に時宗の遊行僧他阿真教が贈った法名であるとのことだ。時宗も浄土教であるから阿弥陀仏ということになるのだろう。ともかく、神仏二つながらの力をもってして、ようやく将門の霊も鎮まったということなのか。
 関東の英雄にして、近年はパワースポットとして人気が高いらしく、入れ替わり立ち替わり参拝客が訪れてくる。
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 神保町までのコースにもどる。途中、共立講堂が見えてくる。昔、フォークソングが全盛だったころ、ここでよくコンサートが開かれていた。沢田研二が吉田拓郎のコンサートを共立講堂まで聴きに行ったことがあると対談で話していた。
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 私の散歩コースの終点、ミロンガである。コーヒーだけでなく、世界中のめずらしいビールを取りそろえていたりするのだが、この日はおとなしくブレンドをいただいた。
 ラドリオやさぼうるよりも奥まっているので、長年隠れ家のように親しんできたのだが、近年何かで紹介されてからすっかり有名店になってしまい、けっこう混んでいる。まあ、つぶれてしまってはたいへんなので客足が途絶えないのはけっこうなことである。
 名曲喫茶系(※)では池袋のコンサートホールも、高田馬場のあらえびすも、渋谷のらんぶるも消えてしまった。(喫茶店ではないが、池袋ライオンがなくなってしまったのも残念でならない。閉店後、何年かして別な場所で店開きしたのだが、かつての面影はなくなってしまった。)
 建物の古さからして将来が気にかかるが、ミロンガだけでも残って欲しいものだ。年期の入ったドアを開けたときに、レコードをこする針の音と匂いまでただよってくるような独特の雰囲気は他にかけがえのないものだ。
 ※名曲喫茶というとクラッシック音楽ということになる。ミロンガはタンゴ専門の音楽喫茶であるから、厳密には名曲喫茶ではない。

 RX100

 

 
 

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by yassall | 2015-01-26 01:37 | 散歩 | Comments(3)

劇団「昴」研修生修了公演に出かけてきた

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 昨年、JOKO演劇学校を修了し、劇団「昴」に研修生として残ったキナコこと広瀬和が出演する修了公演に出かけてきた。会場は池袋「スタジオ空洞」(写真)である。
 演目は7本。三島由紀夫「近代能楽集 邯鄲」、別役実「死体のある風景」、モリナール・フェレンツ「リリオム」、ウィリアム・サローヤン「おーい、救けてくれ!」、ハロルド・ピンター「ヴィクトリア駅」、ニール・サイモン「弱き者、その名は…」、シェイクスピア「マクベス」である。
 7本を3時間半でいっきょに上演してしまおうというのだから、ほぼサワリのところだけをハイライトで演じるという形態ではあったが、作家・作品たちに対する興味もあり、それでもけっこう楽しめた。
 私の演劇とのつきあいは高校演劇に関わるようになってからで、学生時代はアングラ演劇の全盛期だったから佐藤信の黒テントを面白いと思ったり、社会人になってからはさる劇団に知り合いが出来て、チケットを買っては見に行ったりということはあるものの、本格的な演劇、とくに海外作品とは縁が遠かったのだ。
 肝心のキナコは3本目の「リリオム」に出演。主人公の男女二人の出会いのシーンを切り取った部分のみの上演で、しかもキナコはヒロインの友人という脇役を割り当てられており、キナコを目当てに見に行った側からすると、少々消化不良の感は否めない。(それぞれのチームに指導者がついてのことだらか、演技については今回はとやかく言わない。)
 準劇団員として研修生の段階から新たに加わったのか、昨年のJOKO演劇学校の修了公演では見覚えのない顔ぶれも混じっていた。それらの人たちも含め、全体の印象としては、1年間でずいぶん役者として力をつけたと感じた。
 今回の公演は「試演会」という位置づけなのだそうで、劇団員として残れるかどうかの査定もかねているとのことだ。それで入場無料ということになっているらしいが、演者たちにとっては緊張の3日間だろう。
 うむ。負けるな、キナコ!

 

 

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by yassall | 2015-01-18 01:52 | 日誌 | Comments(1)

学校図書館・公共図書館の充実を求めるつどいin東京

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 1月12日、今年も「子どもに豊かな育ちと読書のよろこびを学校図書館・公共図書館の充実を求めるつどい」に参加してきた。現役を退いてからも、声をかけてくれる人がいるのはありがたいことである。
 午前中は親地連事務局・学校図書館を考える全国連絡会代表の水越さんによる「学校図書館法の一部「改正」について」、全教・埼高教司書部による「学校司書の一日・高校編」、自治労連岡山による「学校司書の一日・小学校編」の3本の報告があった。議員要請活動や国会傍聴活動に裏打ちされた水越さんの報告(写真)は、昨年の学図法改正がこれまでの学校図書館運動によってもたらされたものであることを鮮明にし、今後の課題が何かを明らかにするものであった。
 午後は「今、公共図書館に求めるものとは? ~直営と指定管理者制度導入の動き~」、「「改正」学校図書館法が4月施行 ~求める学校図書館像と専任・専門・正規の学校司書配置の前進を~」、「教育の自由と図書館の自由 ~「図書館の自由に関する」宣言、教育委員会制度「改正」やそのもとでの高校特定教科書採択排除問題など~」の3つの分科会に別れて、レポート発表と討議が行われた。
 近年の「はだしのゲン」問題や高校日本史教科書採択の問題のこともあり、「図書館の自由」の分科会にも心ひかれたが、やはり昨年の学図法改正後の動向を知りたかったので「「改正」学校図書館法」の分科会に参加した。自分もずっと関わり続けて来たという思いがあるので、つい討論に参加させていただいた。なるべく現役世代を尊重する意味で控えめにしたつもりではあるが、そう思っていたのは自分だけだったら失礼した。
 会場は昨年に引き続いて全国教育文化会館。参加者数は99名と発表された。心なしか参加者が減ったように感じられたのは残念だった。
 今年で15回を数えるということで、毎回意気込みを新たにして開催していくのはそれなりの困難さもあるのだろうということは察することができる。それぞれの立場の違いもあり、なかなか議論がかみ合わなかったり、深まらない歯がゆさもあるのだろう。
 だが、だからこそ全教・自治労連といった現職者を組織した労組だけでなく、親子読書運動や学校図書館をめぐるさまざまな市民運動にたずさわっている人たちが一同に会する意義は小さくはないはずだ。
 ましてや、4月の改正学図法の施行をひかえ、内実を作っていくためにも、それぞれの団体・個人がバラバラに主張したり、運動したりしている段階から、統一をめざして一致点を広げていく努力が求められているのだから。
 
 


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by yassall | 2015-01-13 14:17 | 日誌 | Comments(2)

再生エネ固定価格買い取り制度「見直し案」に対するパブコメ

 経済産業省が昨年12月18日にまとめた再生可能エネルギーの固定買い取り制度の「見直し案」に対するパブリックコメントの提出締切が今日だというので、あわてて提出しました。
 書きなぐりで不十分な内容(間違いもあるかも知れない)ですが、参考までに掲載します。経産省のHPから意見提出フォームに入れます。締切は17:00までです。 

案件番号620114024
案件名
電気事業者による再生可能エネルギー電気の調達に関する特別措置法施行規則の一部を改正する省令案等について

 結論から述べると、今回の「見直し案」については反対です。理由は「原発からの撤退」「再生可能エネルギーへの転換」の流れに逆行するからです。
 1.「固定価格買い取り制度」にさまざまな欠陥があることは理解できます。しかしながら、それは「再生可能エネルギーへの転換」を民間の努力に丸投げしようとした結果ではないでしょうか?
 「固定価格」とすることで発電コストを引き下げる努力を怠る可能性、無計画に発電設備を作ることによる環境破壊の可能性、海外資本の流入などの問題点が指摘されていますが、それらは十分に規制が可能なはずです。
 新たに発電事業に参入しようとする事業者が乱立するという問題も起こっているようですが、持続可能かどうか、環境への対策は十分かといった審査を厳しくすれば精選は可能なはずですし、「固定価格」にしても民間活力によって再生可能エネルギーによる発電を普及させようとするなら、多少の優遇は必要だったのではないでしょうか? もちろん、結局は消費者の負担になることですから、金額に限度があることと、期間にも制限をもうけていかなければならないことは当然です。
 2.電気事業法改正案によれば、将来電力の小売り、発送電の分離がすすむことになっています。その際には、再生可能エネルギーを優先させながら,予想される不足分を火力・水力で補っていくことで、「原発に頼らない」社会を実現することが期待されます。その時点で「固定価格」は打ち切り、価格についても競争させればよいのではないでしょうか?
 地熱発電や潮力発電など、その土地その地域に適合した方法がさらに開発されていく可能性があります。そうした「地産地消型」のとりくみにも政府として援助していって欲しいと思います。
 3.今回、もっとも重大な問題は、「見直し案」が原発について「震災以前過去30年間の設備平均利用率」を前提に「接続可能量」を定めようとしていることです。
 おそらくは、原発を「ベースロード電源」と定めたところから端を発しているのでしょうが、原発ほど「ベースロード」とするのに相応しくない発電方法はありません。ひとたび事故が発生した時、東京電力管内で長期間にわたって計画停電を余儀なくされたのはつい3年前のことではありませんか?
 4.多くの国民は今回の「見直し案」を、まずは「原発ありき」なのだなと受け取っていますし、放射性廃棄物の処理の問題や廃炉のことも含めて、リスクや高負担を将来世代に先送りする気なのだな、ということを見抜いています。
 「見直し案」をただちに撤回し、場当たり的でない、しっかりと日本の将来を見通し、世界に対する責任に耐えうる、計画的・未来的なエネルギー政策の立案をお願いします。

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by yassall | 2015-01-09 14:27 | 日誌 | Comments(0)

水素社会という未来

 Newton2月号が「水素社会の到来」を特集している。普段はあまり手にすることのない雑誌なのだが、興味があったので買って帰ってくると、トヨタが燃料電池車の特許を無償で提供するとのニュースが流れた。
 私の興味とは、水素が再生可能エネルギーへの移行の鍵となるかも知れないという一点である。
 今もって原発を「ベースロード電源」などと称して推進しようとしている勢力は、再生可能エネルギーが風や日照時間という自然条件に左右されやすく、一日ないし年間を通して安定的に供給することが困難であることをあげる。
 昨年秋には各電力会社が太陽光発電の買い取りを中断し、経産省も発電を制限できるとする方針を発表したが、これは「発電しすぎ」を心配してのことで、やはり安定性を疑問視するところから始まっている。

 最初にこの問題について決着をつけておくならば、再生可能エネルギーの最優先を原則とし、不足分を予想しながら火力・水力発電で補っていけば、そうした懸念はクリアー出来るはずである。電気事業法の改正によって電力の小売り自由化、発送電分離がすすめば、そうしたシステムの確立は(その気になれば)いっそう早まるだろう。
 再生可能エネルギーには地熱発電や潮力発電も含まれるのだから、いわゆる電力の「地産地消」ももっと進むだろう。
 あれもこれも、まずは「原発ありき」の連中が権力の中枢にいるからやっかいなのであって、2020年を目途とする電事法改正案も「骨抜き」にされてしまうことが心配されるが、住宅メーカーもガス会社もその方向で走り出しているから、そう簡単に流れは変えられないだろう。

 
 さて、電気は作り出すことができても、溜めておけないことが最大のネックだった。この問題も、最近では各家庭レベルでは蓄電池に半日分程度の電気を溜めておくことが可能になりつつあるが、社会全体をカバーするにはいたっていない。
 そこで期待がよせられているのが水素なのである。水素は電気分解によって作られる。水素の状態にしておくことで、電気を蓄えることが可能になるのである(※)。経産省が再生可能エネルギーを制限しようとする口実である「発電しすぎ」などという理屈はまったく成り立たなくなる。
 (※今のところは燃料電池として、ということになるが、水素を化石燃料と混合させた火力発電はすでに行われており、水素100%の火力発電所も技術的には実現の見通しがあるという。)
 水力発電所のダムに水を蓄えておく、などというのも、広い意味で電気を溜めている状態といえなくもないが、そうした比喩的な意味ではなく、水素はいつでも電気に変わりうるという点で可能性を広げるのである。

 では、その水素をどうやって作り出すのか、という問題である。さきほど、水素は電気分解によって作られると書いたが、水素を作り出すために化石燃料を消費したり、ましてや原発を運転させようというのでは本末転倒である。
 Newtonによると、現在すでに水素は大量生産されているが、大部分は化石燃料が由来である。ただし、それは燃料電池を作るためではなく、食塩水を電気分解して塩素や水酸化ナトリウムなどを生産するソーダ工場などで副次的に「作られて」いる。ただ、これまでは利用が一部にとどまっていたり、回収されずにきたのだという。資源エネルギー庁によれば、既存の設備の稼働を増やしたり、新増設することで、2030年には年間900~1300万台分の燃料電池自動車に使用できる供給が可能という試算があるそうだ。
 もちろん、当面は現在の水素生産の延長線上でまかなえるとしても、エネルギーの代替と環境負荷の低減、リサイクル社会への転換のためには別の生産方法が確立されなければならない。
 一番先に考えられるのは、再生可能エネルギーを利用する方法である。残念ながら、(現時点での)日本の再生可能エネルギーの価格からすると、とても採算ラインには乗らないということである。
 しかしながら、水力にしろ、風力にしろ、太陽光にしろ、世界には安くて大量に存在するのに利用されていないエネルギーが存在している。それらの国々や地域を生産拠点にして、タンカーで運ぶために、水素を液化する技術も開発がすすんでいる。詳しくはNewtonを読んで欲しいのだが、太陽光と光触媒を用いて、水から直接水素を作り出す研究もはじまっている。
 最後に安全性の問題があるが、結論からいうと「ガソリンが危険であるのと同じように危険性はあるが、ガソリンと同じように適切に管理することは可能」ということだ。
 水素は、空気中で4~75%の混合率になると、激しく酸素と化合して爆発する。ただし、福島原発で水素爆発が起こったのは密閉された建屋の中であったからで、通常はタンクから漏れ出すことがあっても直ちに大気中に拡散されてしまうため、爆発は起きないということである。
 トヨタでは燃料電池タンクをライフルで撃ち抜くという実験も行ったそうだが、弾丸はタンクを抜けてしまい、シューシューと水素が漏れ出しただけだったという。

 最初に考えたことが、再生可能エネルギーの「余剰」によって燃料電池をつくり、化石燃料および原発との別離を促進させるということだったが、もちろん道のりは平坦ではないだろう。おそらくは、年齢からして、私が燃料電池車を乗り回したり、本格的な水素社会の到来をみることはなさそうであるが、新年の初夢としてはいい夢をみせてもらったのではないだろうか?

[追記]
 燃料電池車はCO2の代わりに水を排出しながら走るのだという。夏は打ち水になってヒートアイランドの解消に一役買いそうな気がするが、季節や地域によっては今度はそれが悩みのタネになったりすることがあるのだろうか?
 Newtonの先月号の特集は「核融合への夢」だった。原理上、もし事故が発生しても暴走することはなく(※)、半減期の長い高レベル放射性廃棄物は発生しないため、原発より安全性は高いという。核融合が起こるためには1億度以上のプラズマが必須ということで、そのためには相当程度の電力が必要ということだ。
 ※逆にいえば安定運転に課題があるとのことらしい。
 昔、水爆では核融合を起こすための起爆剤として原爆が利用されていると何かの本で読んだことがあるが、ビキニであれだけの放射能汚染が引き起こされたのはそのためだけだったのだろうか?
 日本原子力機構も加わって世界的な共同研究がすすみ、フランスに実験炉を建設する計画がすすんでいるという。
 科学技術者には彼らなりの夢があるのだろうが、少なくとも軍事利用が優先したり、資本のもうけ優先にならないようにしてもらいたいものだと思うし、予想以上に実用化に向けて進捗が早まっているとすれば、まったくの素人である市民としても重大な関心を払わざるを得ないだろう。

[追記2]
 東芝が太陽光発電→水素貯蔵→必要時に発電のシステムの実験に踏み切りました。
http://www.asahi.com/articles/ASH4N4TPLH4NULFA00Q.html?iref=comtop_6_02


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by yassall | 2015-01-07 19:04 | 雑感 | Comments(0)

つい一言 2015.1

「イスラム国」による日本人人質事件のようなケースが起きた場合に、作成中の新しい安保法案で自衛隊に何ができるのか、政府が検討作業をしたことが明らかになった。(23日ロイター)
詳しくはロイター通信をみて欲しいが、メディアや野党に問われた場合の想定問答集を作成、新法制で自衛隊を派遣して救出できるかどうかについて、「領域国の同意に基づく邦人救出などの警察的な行動ができるよう法整備を進める」としているのだそうである。
 今のところ、イスラム国との戦闘に自衛隊を派遣することは「2名の日本人の人命を盾にとって脅迫する許しがたいテロ行為」としつつも、昨年7月に閣議決定した武力行使の「新三要件を満たすとはいえないもののと思われる」と、否定的な見解を示しているという。
 2004年の3人の「イラク日本人人質事件」では「自己責任論」を唱道した安倍首相であるが、今回は「人命最優先」を標榜している。それは当然のすがたであるとして、今回の事件をもって自衛隊の海外派遣や武力行使に道を開こうとするような政治利用を許してはなるまい。
 「自己責任論」のときもそうだったが、何より気をつけなければならないのは世論として誘導されないようにすることだろう。
 それにしてもお2人の安否が気にかかる。(1月24日)

 ユニクロの中国工場の問題について、柳井社長がカメラの前で釈明し、「非常にビックリしているし、残念だと思っています。…今回の(指摘された)部分は例外だと思う。中国の労働環境は決して悪くない」と述べたそうだ。
 中国の労働環境の全体像を把握しての発言なのか、そうだとすればなぜ「例外」が存在したのか、疑問が残る。
 翻って国内を見てみる。昨日、福島第1・2原発で作業中だった労働者2名が事故で亡くなった。これは「例外」なのか?
 労働者派遣法の改悪や「残業代ゼロ法案」が推し進められようとしている。1%に世界中の富の48%が集められる「富の集中」が加速している。
  ※
 「イスラム国」問題では恐れていたことが現実になってしまった(12月7日のつい一言)。安倍首相は2億ドルは難民保護等の人道支援であると強調しているが、発表時の記者会見では「テロとのたたかい」を高いトーンで宣言していた。どのような覚悟があっての発言だったのかが試されることになるが、試されるのは国民自身もかも知れない。
 後藤健二さんはガイドの携帯で撮影された動画の中で、「これは私の責任ですること」というメッセージを残したという。2004年の「イラク日本人人質事件」を踏まえてのことだと思われるが、今回も「自己責任論」で切り捨てるようなことはあって欲しくない。
 ましてや、「イスラム国との戦争」を煽ったり、今こそ「集団安全保障」を発動するときなどと軍事行動への突入を容認するようであってはならないだろう。(1月21日)

 15年度政府予算案が閣議決定された。「経済成長」と「財政再建」の両立といっているのは、税収増を見込み、国債の発行を若干減らしたことによるらしい。
 その税収の内訳をみると、消費税収が1兆7730億円増であるのに対し、法人実効税率を2年間で3.29%引き下げ、大企業に1兆6000億円の減税をばらまく。
 これで社会保障は大丈夫なのかと思って予算案をみると、高齢者医療の窓口負担増、介護保険利用料引き上げ、介護報酬を2.27%引き下げ、生活保護関連は330億円減、雇用維持助成金も引き下げである。
 「国民の生命と財産を守るため」と防衛費は史上最高の4.98億円に跳ね上がったが、別なところで「国民の生命と財産」は奪われようとしているようだ。少子化にともなう自然減をのぞき、教職員数を約100人減(国立学校で?)は「未来世代からの収奪」ということばを思い出させる。
  ※
 先日、民主党代表選挙にからんで候補者と若者との対話集会が開かれたそうだ。その対話の中で、若者側から「高齢者と若年層との格差を感じる。年金を減額して若者の支援にあてるべきだ」という発言があったという。
 年金生活者としては、自身の存在が若者たちを抑圧しているのかと心に衝撃を受けたが、果たして高齢者vs若年層という対立の構図は正しいのだろうか?
 定年後も元気に働いている人も多いが、今度は高齢者が若者の就職機会を奪っているといわれる。私などは国民年金の受給者の方などから見れば恵まれている方かも知れないが、それでも月々の年金だけで生活が成り立っているわけではない。将来不安はいつもつきまとっている。その年金も「マクロ経済スライド」を発動し、実質減額していく方向だという。(1月15日)

 先日、竹中平蔵氏の「正社員をなくしましょう」発言のことを問題にしたが、同氏は業界3位の人材派遣企業、パナソグループの取締役会長を務めているのだそうだ。つまりは、派遣会社にとって正社員が少なくなるほど利益になる、という背景があっての発言だったことになる。そんなことを知っている人間はごく少数なのだから、自分がどのような背景のもとに発言しているかを明らかにしないでいるのは少なくともフェアではない。(1月12日)

 政府の宇宙開発戦略本部(本部長=安倍晋三首相)は9日、安全保障を重視する新たな宇宙基本計画を決めた。2015年度から10年間の方針で、日米同盟を強化するため、衛星の連携や宇宙の監視情報を共有することなどを掲げている。(朝日デジタル)
 何だか空恐ろしいことがどんどん決まっていくなあ。本当は、今日は安倍首相・菅官房長官が翁長沖縄県知事の面会を門前払いしたことを書こうと思っていたのに。
 昔、高石友也が歌っていたアメリカ海兵隊(だったか?)の軍事訓練をあつかったフォークを思い出す。隊長は言った、「そんな弱気でどうする!俺について来い!」。そして、ついて行った部下は事故で死んでしまう。(1月9日)

 竹中平蔵氏の「正社員をなくしましょう」発言が波紋を呼んでいる。1日放送の「朝まで生テレビ!元旦スペシャル」で、「改正派遣法の是非」について意見をかわした中で飛び出した発言だということだ。
 私はその番組を視聴してはいないのだが、一定の文脈の中で出た発言と考えても、問題点が多いことは明らかであるようだ。
 その1として、竹中氏は「正社員に変わりたい人と非正規のままでいいという人では、非正規のままでいいという人の方が多い」という調査結果を紹介したというが、それはどのような調査なのか? 「子育ての最中であるが、短時間を働いて収入の助けにしたい」というような人は確かにいるだろう。そういった人たちまで含んでのことだったとしたら、「都合のよい数字」というだけのことであって、客観的なデータであるとはいえない。(ついでにいえば、子育てが終わった女性が再び正社員として復帰できるような道がもっと充実する必要があるはずだ。)
 つぎに、この発言が「同一労働同一賃金」に関連してなされたという点である。もともと「同一労働同一賃金」は賃金格差是正を求めた労働組合側の要求であった。ところが竹中氏にいわせると、「全員を正社員にしようとしたから大変なこと」になるから、「同一労働同一賃金」の実現を目指すなら「正社員をなくしましょうって、やっぱね言わなきゃいけない」というふうにすり替わってしまうのである。つまりは、「同一労働同一賃金」の原則をつらぬこうとすれば、低い方に合わせなければ企業側の負担が増してしまう、というのが本旨なようなのである。
 結局、新自由主義とは資本の側の自由を守るということで、たぶんそのことを確信している竹中氏はなぜ自分が非難されているかも理解できないでいるのではないだろうか?
 それにしても、安倍首相の口から出る「平和主義」にせよ、元閣僚たる竹中氏の「同一労働同一賃金」にせよ、その意味するところが180度転換してしまうのに細心の警戒が必要な時代となった。(1月7日)
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by yassall | 2015-01-01 14:38 | つい一言 | Comments(0)

今年の発句

  秋色に風も染まるか草千里
  万象は空虚なるかな草千里
  星降れば森羅万象理外の理
                 (年賀状から)

 昨年もいろいろありました。毎日のことに泡を食ったり、腹を立てたり、こころ沈んだり。きっと今年もいろいろあるのでしょう。
 あいかわらず正月という季節感を無視した今年の発句ですが、昨年秋に九州を旅したときに想を得たもの。旅にあこがれながら旅人にはなり切れませんが、人間の本当の姿は旅人なのかも。ときどきそんなことを思い出したりしながら、今年もぼちぼちやっていきたいと思います。

 では、新年のごあいさつまで……。


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by yassall | 2015-01-01 00:32 | 雑感 | Comments(2)