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扉絵

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by yassall | 2014-12-31 22:41 | 日誌

江古田市場 その2

 今年いっぱいで江古田市場が閉鎖になってしまうことを以前にお知らせした。その折に、もう一度写真を撮りにいきたい旨を書いたが、結局どうしたかというと、もちろん行ったのである。
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 ここが江古田市場の真ん中あたりということになるだろうか? 10年前の写真と比べてみてほしい。
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 道路に面したお店だけでなく、中通路に入ってみる。
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 入船屋さんは東京新聞の記事でもとりあげられていた。
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 こうした量り売りをするようなお味噌やさんはもう他では見られないだろう。
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 1度目に出かけたのが20日。入院中の旧友を見舞いに出かける前に立ち寄ったのだが、あいにくの雨模様だった。そこで翌週の27日にもう一度出かけて来た。
 この日はよく晴れて、人出も多かった。写真は市場の閉鎖を聞いて久しぶりに訪ねてきた客と楽しそうに話をはずませている大津屋さんの店主である。
 市場が閉鎖になっても、すべてのお店が閉店してしまうわけではなく、大津屋さんは道の向かいに店開きすべく新店舗を建築中であった。
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 品揃えも心なしか1週間前より豊富だった。その日の天候も見ながら客足を予想しているのかも知れない。
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 この鯛焼き屋さんは10年前の写真を紹介した際にもアップしておいた。子ども用の乗り物にブルーシートがかぶされている。向かい側にあった店はすでに更地になっている。
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 市場以外にも江古田の町をあちこち撮り歩いてきた。写真は見る人が見るとわかる。そう、喫茶店らんぷである。10年前にはすでに閉店していたが、窓枠などにまだ面影が残っている。

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by yassall | 2014-12-30 14:35 | 散歩 | Comments(0)

今年考えたこと

 1
 今年も暮れていこうとしている。なし得なかったことを悔いる前に、そもそも何かをなそうとしていたかを自問してはぞっとし、それでも何を考えようとして来たのかを振り返ってみる。

 水野和夫『資本主義の終焉と歴史の危機』集英社新書(2014.3)
 香山リカ『リベラルじゃダメですか?』祥伝社新書(2014.8)
 古賀茂明『国家の暴走』角川ONEテーマ21(2014.9)
 矢部宏治『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』集英社(2014.10)
 池上彰・佐藤勝『新・戦争論』文春新書(2014.11)

 今年後半にかけて読んだ本を並べてみた。何の脈絡もなく、偶然手にした本を、休み休み読んだのである。それでも、私の中ではある問題意識が一貫しているのがわかる。
 その問題意識とは、広義には資本主義はこれからどうなっていくのだろうか、ということであり、狭義にはこれから日本はどうなっていくのだろうか、ということである。

 水野和夫は、

 ①資本主義は「中心」と「周辺」から構成され、「周辺」つまりフロンティアを広げることによって「中心」が利潤率を高め、資本の自己増殖を推進するシステムである。
 ②しかし今日、新たなフロンティアはほとんど残されておらず、「地理的・物的空間(実物投資空間)」からも「電子・金融空間」からも利潤をあげることができなくなっている。
 ③それでもなお利潤をあげようとして生まれたのがグローバリゼーションである。グローバリゼーションとは、「中心」と「周辺」の組み替え作業であり、それは国際関係の中でも一国内でも起こる。
 ④それは具体的には格差の拡大であり、中間層の解体である。
 ⑤中国が一時的に経済成長のトップに躍り出たとしても、資本主義を延命させる「空間」はほとんど残されておらず、そう遠くない将来、現在の先進国と同じように「利潤率の低下」という課題に直面する。
 ⑥過剰な投資が無人のマンションを多数建設しているのに象徴されるように、無理矢理にでも利潤を追求しようとすることはバブルを作り出すことであり、それはいつか破裂する。

 と述べる。
 実際には、アメリカ、新興国、日本、西欧のそれぞれの現状と経済政策をさまざまなデータを駆使して検証していくのであるが、ここ20年くらいの間に世界で起こった出来事を説明して説得力がある。
 そして、何より重要な指摘は、

 ⑦本来、民主主義と国民国家は資本主義との親和性が高かった。だが、「公平」な分配の能力を失い、「自由」競争が弱肉強食に取って代わり、グローバリゼーションによって国家への帰属感が希薄になるのしたがって、それらと資本主義とは矛盾をきたすようになった。

 というものである。それは、

 ⑧中間層が資本主義を支持する理由が失われた。

 はずなのだが、国民国家の解体に直面した危機意識から、かえってそれを補完するかのように排外主義をともなった新たなナショナリズムが起ころうとしている。
 だが、実体は、

 ⑨かつては、A.スミス、マルクス、ケインズがブレーキ役となり、それが資本主義を延命させてきたのであるが、21世紀グローバル資本主義はブレーキなき資本主義となった。

 のであり、

 ⑩このまま「成長の病」にとりつかれ、国境の内側や未来世代からの収奪を続けていけば、経済危機のみならず、国民国家の危機、民主主義の危機、地球持続可能性の危機を顕在化させる。

 そこで水野和夫が提起するのは、このような「歴史の危機」を直視し、資本主義からのソフト・ランディングをめざすべきであり、いちはやく資本主義の臨界点に達した日本こそ、その可能性を秘めているというのである。

 2
 そこでハタと考える。かつての「資本主義の全般的危機」論とはどこが違うのだろうか、と?
 「資本主義の全般的危機」論とは、最初プハーリンによって提唱された、第1次世界大戦およびロシア革命後の資本主義についての規定である。
 第1次世界大戦が植民地の「再分割」のための帝国主義間の戦争であったとすれば、先の水野和夫の「中心」と「周辺」の「組み替え作業」というのと類似している。つまり「資本主義の全般的危機」論とは資本主義「行き詰まり」論であり、いまや没落に向かいつつあるという情勢論である。
 第1次、第2次世界大戦をへて、イギリスに代わって世界の覇権を握ったのはアメリカであった。2度の世界大戦をへても資本主義は「終焉」しなかった。それでも、そのアメリカがベトナム戦争に敗北し、ドルが暴落し、オイルショックを迎えた1970年代には「資本主義の全般的危機」論にはなにかしらの説得力があった。

 日本共産党が「資本主義の全般的危機」規定を綱領から削除したのは1985年である。詳しいことは忘れたし、資料も残っていないが、資本主義にはまだ生命力があり、革命勢力との力関係からして、そのような「自動崩壊」論のような見解はとらない、というようなことであったと思う。
 日本共産党は1996年に「自由と民主主義の宣言」を発表し、2004年に「綱領」を改定した。それによれば、

 ①社会主義的変革は、短期間に一挙におこなわれるものではなく、国民の合意のもと、一歩一歩の段階的な前進を必要とする長期の過程である。
 その出発点となるのは、社会主義・共産主義への前進を支持する国民多数の合意の形成であり、国会の安定した過半数を基礎として、社会主義をめざす権力がつくられることである。そのすべての段階で、国民の合意が前提となる。

 として、議会を重視する平和革命(議会で多数派を握るだけでは社会変革は完成しないが出発点にはなる)、多数者革命(過去の革命が「少数者による多数者のための革命」であったとすれば、めざすべきは「多数者による多数者のための革命」)路線を確定したとする。

 社会主義社会の指標は、①労働者階級の権力、②生産手段の社会化、③計画経済であるとされる(※)。
 これらを強力革命によって達成しようとするなら、強大な国家権力を必要とする。社会主義・共産主義は本来「国家の死滅」をめざすものであるのに、最大の矛盾をかかえることになる。そして、そこに誕生した強権国家は人民の弾圧、社会の停滞、さらには腐敗を生み出す。
 (※日本共産党の2004年「綱領」では、これらのうち「社会主義的変革の中心は、主要な生産手段の所有・管理・運営を社会の手に移す生産手段の社会化である。社会化の対象となるのは生産手段だけで、生活手段については、この社会の発展のあらゆる段階を通じて、私有財産が保障される」としている。「労働者階級の執権」は強調されていない。)
 ソ連の失敗に学ぼうとすれば、「多数者革命」を革命理論として採択することは当然である。そこで、日本共産党は、

 ②現在、日本社会が必要としている変革は、社会主義革命ではなく、異常な対米従属と大企業・財界の横暴な支配の打破――日本の真の独立の確保と政治・経済・社会の民主主義的な改革の実現を内容とする民主主義革命である。

 とするのである。

 ここからは私の当て推量なのだが、少なくとも近い将来に「社会主義をめざす権力」が「国民の合意」によってつくられるというのは想像しがたく、しかしそのような「国民の合意」がなければ社会主義に移行しようとはしないというのは、事実上「革命」を棚上げしたということではないのか?
 「革命」の時代を生きた人間たちには一抹の淋しさをぬぐいきれないだろうが、今日までの歴史を振り返ってみれば、それは冷静な判断であろうし、マルクス主義を真に現代に生かすにはあるいはその道しかないのではないだろうか?

 3
 少しばかり脱線をした。水野和夫の所論を「資本主義の全般的危機」論と区別するとしても、資本主義が行き詰まりに陥っているのは確かなことだろう。
 問題は次の段階に何が待っているのかということである。いくつかの可能性を考えてみる。

 ①過去に繰り返されたように、恐慌あるいは戦争が勃発することによってリセットされ、新たな資本主義の段階がはじまる。
 ②資本主義に代わる新しいシステムが生まれる。
  ②-ⅰ 社会主義社会(あるいは社会主義的な計画経済)が生まれる。
  ②-ⅱ 国家社会主義(ファシズム)が生まれる。
  ②-ⅲ 「ゼロ成長」を基調とする第三のシステムが生まれる。

 当面のことでいえば①は現状そのものである。資本主義の延命をはかろうと、いっそうの「強欲」さを発揮しようとしている。しかし、1の⑩の指摘を待つまでもなく、それは永遠ではあり得ない。
 ②-ⅰについては2でふれたソ連の失敗のみならず、当初に掲げられた理想に比し、あまりにもモデルとなるものがなさ過ぎる。急激な「成長」の陰で、国内外で矛盾を深めている中国のみならず、ベトナムまでもが市場経済化を志向しようとしている。「低成長」社会でありながら、教育や医療においてトップ水準にあるというキューバが、現存する社会主義国の中ではあるいは最優等生であるかも知れないが、アメリカとの関係改善で今後どうなっていくであろうか?
 さて、第2次世界大戦で枢軸国側であったイタリア・ファシズム、ナチス・ドイツ、大日本帝国が無残な敗北に終わった通り、②-ⅱもまた歴史において検証済みである。
 しかしながら、資本主義あるいは近代社会が危機におちいろうとするとき、必ず頭をもたげてくるのがこの国家社会主義なのである。しかもそれは「上」からの全体主義としてだけでなく、「下」からの(いわば「国民運動」あるいは「国民運動」を装ったそれとしての)ファシズムとして顕れるところに始末の悪さがある。

 この問題に警鐘を鳴らそうとしているのが、 香山リカ『リベラルじゃダメですか?』である。香山は自らをリベラルという立ち位置におくことで、憎悪の標的となっていること、いつの間にか「少数者」の側に追い込まれていることをひしひしと実感するという。
 香山はリベラル批判にも耳をかたむける。すると、リベラルであることが今日では「保守」の側に回ってしまっていること(自民党・安倍首相が「改革者」にみえる)、リベラル=既得権者として自分たちは安全圏に身をおいていると受け取られていること(生活保護でさえも「公平」の観点から否定されたりする)、「正しさ」が「上から目線」として押しつけがましく感じられていることなどが分析されている。
 リベラル側の自己批判として、そもそもの目標が正しければ「正しい」と受け取られるはずだという純潔主義、さらにはそのことから発するデリカシーの欠如があったことも指摘される。
 それらを踏まえた上で、リベラル批判に対する反批判として、

 ①根拠なき批判:リベラル派は北朝鮮から金をもらっているのごとき妄想や陰謀論
 ②誤った批判:ⅰ)新自由主義こそがグローバル世界のスタンダードであり、競争や格差拡大は当然である、ⅱ)歴史修正主義・国粋主義・排外主義を「正義」と考えている

 をあげ、さらに佐藤勝の所論だという、

 ③反知性主義:実証性や客観性を軽んじ、自分が理解したいように世界を理解する態度

 がまかり通っていると指摘している。
 このように分析されると、ここ数年で起こっている理解不能だった出来事が氷解していくのを感じる。「米軍基地をなくせ」とか「原発再稼働反対」などというと、それらは「国益を損なう主張だから非国民だ」などという勢力が本当に出現しているのだ。

 4
 こうした国家社会主義(=ファシズム)が横行しやすいのは、資本主義の延命をはかろうとする権力側から利用されやすいという背景がある。
 新自由主義(野放しの「自由競争」によって利潤を拡大しようとする)・新保守主義(国家権力の全体主義的な強化によって危機を克服しようとする)が、それぞれの頭に「新」をいただくのは、これまでの資本主義が「行き詰まり」に突き当たっているという自覚によっている。
 新自由主義と新保守主義は価値観において相反するはずなのであるが、どちらも「強力」に対する信奉という点で一致し、リベラル批判勢力の心をとらえているのもおそらくはその一点なのである。

 古賀茂明『国家の暴走』は、国家権力の側がすすめようとしている「軍事立国」の危険性を指摘し、批判する。詳しくは解説しないが、①日本版NSC(国家安全保障会議)法、②特定秘密保護法、③武器輸出三原則の廃止、④集団的自衛権の行使容認、⑤「埋めよ増やせよ」政策、⑥集団安全保障での武力行使の容認、⑦日本版CIAの創設、⑧ODAの軍事利用、⑨国防軍の保持、⑩軍法会議の設置、⑪基本的人権の制限、⑫徴兵制の導入、⑬核武装が、日本が「戦争をするための13本の矢」だという。経産省の官僚として、一時は権力の中枢近くにいた人物のいうことだけあって、独特の説得力がある。
 また、経産省の出身らしく、経済政策としてのアベノミクスにも批判は及んでいる。しかしながら、安易な「成長至上主義」批判の立場はとらず、「仮に日本が成長を目指さないとしたら、成長が止まるだけではすまない、今の国民の生活水準を維持していくことはできなくなる」という。資本主義の「次のシステム」を探究するうえでの難問である。
 しかし、

 ①サステナビリティがキーワードであり、限りある資源やエネルギーや環境、そして文化や人と人との繋がりを次世代以降にきちんと残せるような生き方が求められている。

 というところで一致点を見いだしいくことは可能だろう。「最終的に100%自給できる自然エネルギー大国へ」や「日本らしさでスイスのような観光立国を目指す」などの「日本再興への提言」には勇気づけられる。

 5
 すっかり長くなってしまったので、後の2冊については簡単にふれる。

 矢部宏治『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』は、戦後日本がいかに日米安保体制の中でがんじがらめになっているかを明らかにしようとしている。
 それは幕末の開国当時、西洋列強からさまざまな不平等条約を押しつけられた様に似ている。だが、なんとかそれらの不平等条約を解消しようとした往時の明治政府の気概すら感じられないのは、アジア太平洋戦争の敗戦後、アメリカの後押しで政権の座についた者たちが、いまだにそのコントロールから抜けだせないからだろう。
 同じ敗戦国であるドイツや旧植民地であったフィリピンが、さまざまな交渉を通じて米軍基地を追い出した実例が詳細な資料とともに紹介されている。
 いかに「軍事大国化」をめざしたとしても、日米安保体制がある限り日本は独立国ではあり得ず、目下の同盟国として利用されるだけである。そこにも安倍自民党がすすめる「国の安全を守るため」という政策のまやかしがある。
 なお、日米安保条約によれば「基地」の撤去は「日米合意」によってしか実現できないが、安保条約そのものはどちらか一方の国が破棄を宣言すれば1年で効力を失うのである(ものすごい反動攻勢があるだろうが)。

 池上彰・佐藤勝『新・戦争論』は、ジャーナリストと元外交官がロシア・中国・朝鮮半島・中東・欧米諸国といった地球規模での世界情勢を、「戦争」という観点から分析した本。
 安倍自民党は「積極的平和主義」をかかげるが、うかつに武力をもって世界に出て行ったらどんな目に遭うか考えさせられる。

 6
 「何を考えようとして来たのかを振り返ってみる」といいながら、本の紹介で終わってしまったようだ。
 「ゼロ成長社会」は存立しうるか、といった問題だけでも、私の力量をもってしてはその答に到達できそうもない。
 だが、何も知らずに、あるいは何も知ろうとせずに、今の世を生きることは出来ない。あとから、「私は欺されていた」などとトンチンカンなことをいわずに済むようにしたい。
 ときに知ることによって自分の無力さを突きつけられ、ニヒリズムに陥らないようにすることで精一杯のときだってある。
 それでも「知ろう」とし、「考えよう」とし、「伝えよう」としなければならないのだろう。願わくば、その営みが人々と共同のものであったらよいと思う。
  ※
 「内憂外患」というときの「外患」にあたることを主に書いた。「内憂」はどうなっているかというと、こちらもまた、憂い止むことを知らず、年はとりたくないものだ、状態なのである。
 まあ、人間はいつどうなってしまうか、誰しも一寸先は闇なのだから、動けるうちに行きたいところに行き、目が見えるうちに見たいものを見、会いたい人に会っておきたいものだ。その意味で、今年一年お付き合いいただいた皆さんには、心から感謝するばかりである。


by yassall | 2014-12-30 01:18 | 雑感 | Comments(0)

村上昭夫「雁の声」

 『動物哀歌』は村上昭夫の第一詩集にして世に出された唯一の詩集である。1967年に出版され、その年に第8回土井晩翠賞を、翌1968年に第18回H氏賞を受賞している。
 私の『動物哀歌』は1968年の新装改版で、奥付をみると1972年9月24日四刷とある。池袋の芳林堂でたまたま手に取った時、私は土井晩翠賞をとったこともH氏賞を受賞したことも知らなかったが、たちまち強い力で引き寄せられてしまったのである。
 村上昭夫について知ることはほとんどない。後記を書いた大坪孝二氏によれば1927(昭和2)年1月岩手県陸前高田市生まれとある(※)が、東磐井郡大原町(現一関市大東町)生まれというデータもある。隣接地であるので区画変更があったためかどうかも分からない。
 岩手中学校(現岩手高等学校)卒業後、満州国哈爾濱省官吏となる。終戦後、2年間のシベリア抑留生活を経て帰国(※)。1950年に結核を発病し、41歳で亡くなるまで闘病生活が続いた。
 創作活動がはじまったのは闘病生活に入ってからで、「首輪」「La」等の詩誌に参加し、「岩手日報」などにも詩を発表したとある。詩集の「序」を村野四郎が書いており、後記には村野の指導を受けたとある(※)。

 詩人には二通りのタイプがあるのではないかと、ときどき考える。「言葉にとらえられる詩人」と「言葉をとらえる詩人」である。
 詩の女神に魅入られたか、何ものかが天から降りてきたとしか思えないような、天才肌の詩人たちがいる。きっと頭の中に言葉が溢れかえるようにわき出しているのだろう、と思ってしまう。詩人はその言葉たちが現れ出るための通路に過ぎないかのようである。
 村上昭夫は、そうした「言葉にとらえられた詩人」ではなく、「言葉をとらえた詩人」なのではないだろうか。それは、いやおうもなく直面せざるを得なかった死とつりあう重さを探して、またはあらん限りに己の生を燃焼させようとして。もちろん、そこに研ぎ澄まされた言語感覚が必然であったことは言を俟たない。
 初めて『動物哀歌』を手にしたとき、詩人はすでにこの世の人ではなかった。そして、村上昭夫の詩は今なお私をとらえ続けているのである。


  「雁の声」

 雁の声を聞いた
 雁の渡ってゆく声は
 あの涯のない宇宙の涯の深さと
 おんなじだ

 私は治らない病気を持っているから
 それで
 雁の声が聞こえるのだ

 治らない人の病いは
 あの涯のない宇宙の涯の深さと
 おんなじだ

 雁の渡ってゆく姿を
 私なら見れると思う
 雁のゆきつく先のところを
 私なら知れると思う
 雁をそこまで行って抱けるのは
 私よりほかないのだと思う

 雁の声を聞いたのだ
 雁の一心に渡ってゆくあの声を
 私は聞いたのだ


 (むらかみあきお,1927 - 1968)


《追記》
※末弟の村上成夫氏の手記によると、村上昭夫は岩手県気仙郡矢作村諏訪41(現陸前高田市矢作町諏訪41)とある。まだ、同手記によると、終戦後に満州から帰国するまでの経過についてはあいまいな部分が多く、不明とのこと。シベリアに送られる途中で脱走したとか、敗戦国難民であったとか、本人も明確には語らなかったようである。
※大坪孝二氏は岩手詩人クラブ会長(当時)であったとのことである。
※村野四郎は岩手日報の文芸欄の選者であったとのことである。      2014.12.25


by yassall | 2014-12-22 17:21 | 詩・詩人 | Comments(0)

江古田北口市場が閉鎖!

 西武池袋線江古田は武蔵大学・武蔵野音楽大学・日大芸術学部の最寄り駅である。中野区では「えごた」と読むが、こちらでは駅名は「えこだ」なのである。
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 その江古田駅北口に小商店が軒を並べる江古田市場がある。武蔵大とは反対側なのだが、本屋があったり、昼飯を食べるための食堂があったりしたので、この市場あたりもよくふらふらと散歩した。その江古田市場が今年いっぱいで閉鎖されるという。
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 江古田駅の開業は1922(大11)年。そのころから商店が集まりだしたが、現在の市場スタイルの原型は1946年に22店舗から始まったという。
 どこか戦後の雰囲気を残す庶民的な商店街であったし、夕暮れ時から宵の口にかけては、なぜか梶井基次郎の「檸檬」を連想させるような、不思議な懐かしさがあった。
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 現在は8店舗まで減ってしまい、今年が20年ごとの借地契約の更新にあたるのを機に閉店を話し合ったとのことだ。
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 写真は2004年に撮ったもの。10年前にしてすでに昔の賑わいがないと感じたものだったが、年内に閉鎖とあってはもう一度写真を撮りに行きたいものだと思っている。 

by yassall | 2014-12-18 10:47 | 雑感 | Comments(2)

2014衆議院選挙が終わって

 衆議院選挙が終わった。私のようなものが何事かを言っても始まらないのは分かっているのだが、集計が発表された時点での感想を書いてみたい。多分に希望的な観測も含まれてしまうかも知れないが、これから先のことを一緒に考えていくためのきっかけになればと思う。

 投票率の低さは予想されたこととはいえ残念である。52.36%という数字は二人に一人は棄権したことになる。政権交代の起こった2009年衆院選が69.28%であったことを考えれば、政治決戦という機運には今回はいたらなかったということになる。
 棄権した人々の多くが積極的にせよ、消極的にせよ、現状肯定・追認であったとすれば、自民の「ほぼ横ばい」という結果は妥当なものであると、ひとまずは言えよう。
 ひとまず、といったのは、やはり小選挙区制の問題である。各党に対する国民の支持率は比例区での得票率に表れている。
 ※小選挙区では、選挙協力をしている自民・公明、住み分けを試みた民主・維新は立候補者を出さない選挙区があるので、得票率=支持率とはならない。
 その結果は次のようである。
 [自民(33.05%)、民主(18.4%)、維新(15.74%)、公明(13.66%)、共産(11.37%)、次世代(2.64%)、社(2.46%)、生活(1.93%)]
 各党の議席占有率もほぼこの数字と対応しており、自民党であれば37.77%となる。
 一方、小選挙区ではどうかというと、自民党は48.09%の得票率で75.25%の議席占有率である。第一党に安定政権を与える仕組みという理論であるが、国会議員とは国民の代表であると言うとき、この隔たりはあまりに大きいといわざるを得ない。
 小選挙区制にはもう一つ、二大政党制への移行という将来像もあるようだが、これも国民の多様な意識を真に反映しているとは思えない。
 国民が現状肯定・追認しているといっても、これがベストと思っている人々が大多数を占めているわけではないということである。

 その表れのひとつが共産党の躍進である。「自共対決」を訴えて真正面から安倍政権のすすめる強権政治を批判した。そのことへの支持なくして8議席から21議席への躍進はあり得ない。支持基盤の堅さだけが理由ではないし、そうだとしてもそうした基盤を作り出した日常活動への信頼がバックボーンにあるはずだ。本当はもう10議席程度多くを安定的に確保してもらいたいと思うくらいである。
 ※たった8人の時代でも、笠原氏や赤嶺氏はたった一人で安倍政権をたじたじさせていた。新人たちにも一刻も早くそのような力をつけていって欲しいものだ。

 次に私が注目したいのは次世代の党の大幅な後退である。「自主憲法」制定を訴え、自民党を「右」から支えることを公言して選挙に臨んだが、17議席を減らして2議席にとどまった。顧問だったか、石原慎太郎氏もここで政界を引退することが確実だろう。
 東京12区で、公明党の太田氏下ろしをねらって立候補した田母神氏が話題を集めたが、半分にも届かなかった。自らは「太陽の党」とかを結党していながら、自公分断をねらった次世代の党から落下傘のごとく投入されたが、もうこのへんで退場を願いたいものである。

 次世代の党の不発は、自公連立政権の中での公明党の比重を大きくしたのではないか、と私は考えている。「自民党よりもむしろ右」のような政党が一定数を占めていると、いざというときの「連立離脱」という決め技が効果を発揮しない。公明党には本気で「自民党のブレーキ役」を果たしてもらいたいものだと考えている。
 ※自民党の中でのハト派が息の根を止められている現状にあっては、公明党はその役割を果たせるポジションにいるといえるかも知れない。きっと国民はそれを期待している。

 次世代の党の後退は「改憲」勢力にとっても大きな障壁となったのではないだろうか? 次世代の党は日本維新の会から分裂したのだが、残った維新の党の方をみると、橋下氏は石原氏と共同代表を組む前には安倍氏にもラブコールを送ったという人物だから、相変わらず危険人物には違いがないが、もう一人の共同代表である江田氏は自主憲法の制定には明確に反対しているし、書いたものを読んでも少なくとも軍拡派ではない。

 その江田氏が民主党との野党再編を模索しているという。本当の政界再編は自民党の分裂しかあり得ないと私は考えているし、何人か自民党を飛び出しては、みんなの党を結成した渡辺氏のようにろくな役割も果たさず、空中分解してしまっている現状を考えると、たぶんそれはあり得ないだろうと予測している。
 だとすれば小選挙区で自民党と対決するためには野党再編、および野党協力はどうしても必要だろう。民主党と維新の会が本気で野党再編を考えているなら、よくよくその重大性を自覚してすすめて欲しいと思う。
 ※まずは党内で政策を一致させる必要があるし、それが自民党とたいして違わないものであったなら、何の意味もない。
 一方、野党協力であれば、今回の沖縄が大きな教訓になるだろう。沖縄一県のことと過小評価してはならないし、ここから日本の未来をみるくらいの気宇壮大さを持ちたいものである。


by yassall | 2014-12-15 15:26 | 雑感 | Comments(0)

D3300でニコン再入門?

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 D3300はNikonデジタル一眼レフのエントリー機(入門機)である。今年2月に発売されたときから注目していたのだが、買うとしても1年後だろうと考えていた。それが、つい我慢できずに、先月末に買ってしまった。
 どこに注目したかというと、まず①ボディに新素材として炭素繊維を採用したことにより、剛性と軽量化を両立させたことがある。
 フイルム時代から一眼レフはNikonを使ってきたが、定年を期にm4/3への乗り換えをはかった。大きくて重いカメラは結局持ち出さないから、というのが理由だった。
 D60を手放し、デジタルではD90のみ残した。D90が620gであるのに対し、D3300は410g(SDカードと電池込みでも460g)である。D90を残したのはモーター内蔵でないレンズでもAFが可能であるからだ。話が前後するがD7000が出たときのこと、視野率が100%となり、マニュアルレンズでも露出計が連動するとあって、発表されるや「やられた!」と思ったし、思わず買い替えを考えた。そのD7000が690g、D90とはわずか70gの差であるが、手に取ってみてたちまち熱がさめた(後継機のD7100は675gとやや軽量化)。現有のOM-D EM5が373gであるから、410gという重量はm4/3に匹敵する。
 その他に、②ローパスフィルターレスであること、②2416万画素であること(画素数だけが必ずしも決め手ではないとはいえ、やはり引き延ばしていったときの解像感の保持は期待できる)、③画像処理エンジンが最新のEXPEED4であること、がある。つまりは新しもの好きが治癒しないのである。
 18-55mmVRⅡとのレンズキッドで買ったが、このレンズの小型・軽量なのにも惹かれた。前モデルが265gであるのに対し195gしかない。単焦点レンズやマクロを中心に使うとしても、押さえにもう1本持ち歩くのに苦にはなるまい。

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 デザインは気に入っている。チープな感じはないし、ハンドリングもなかなかよい。このレンズとのマッチングも悪くないと思う。高級機のごつさは見ただけで敬遠してしまう。NikonDfの人気が高いらしいが、往年のFシリーズよりはPENTAXの67あたりを連想してしまう。

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 さっそく試し撮りをしてみたので、何枚かアップする。

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 発色や解像感もそう悪くないのではないか?
 既存の方式とローパスフィルタレスとを比較すると、実は解像感そのものにそれほどの差はなく、ソフトによる処理でない分、自然な感じになるという。

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 いつものオリエンタルイーストの工場である。。金属の質感はどうだろうか?
 3日ほど使ってみて、PポジションだとISO感度を低くおさえようと絞り開放に近づけようとする傾向があるようだ。絞り優先で使ってみたり、輪郭強調を調整したりしてみたい。

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 このレンズは近接撮影でもけっこう寄れる。カタログにはAFで0.28m、MFで0.25mとある。それもズーム全域でである。この写真では日陰なこともあって、発色もピントももう一つという感じだが。

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 購入に踏み切ったのはもちろん値ごろになったという判断があってのことだが、何と(!)今月に入ったとたんにまた2000円(ショップによっては5000円)ほど値下がりした(・ ・)。
 EVF付のm4/3を使ってみると、一眼レフと比較してみても、一長一短であると感じる。EVFが鮮明さで劣るには違いないが、露出補正の効果がダイレクトに確かめられたりする利点はある。これからもD3300と他のカメラとを使い分けていくことになるだろう。
 防湿庫に眠っているレンズを復活させたいというのが主要な動機だが、お見せできるような写真が撮れたらまたアップする。

 (つぶやき
 新しいカメラを買うと新しいレンズが欲しくなるものだが、今のところそれはない。今回でNikonとのつきあいも落ち着くのではないかと思っている。デジタルカメラは次々と新しい技術が投入されてくるが、モデルチェンジのたびに劇的に絵がよくなるわけでもない。(他のメーカーでもそれほど新機種に物欲が動くということもなくなった。ただ、LUMIXはGM5が値ごろになったらきっと買ってしまうだろう。)
 と、いいながら、回折現象を補正するソフトが搭載されたらとか、必要によってボディ内手ぶれ補正が選択できるように搭載されたら、とかつい考えないでもない。まあ、回折現象の補正ソフトは十分な効果が確認できるような域には達していないらしいし、f8くらいまで絞れれば現状で不満はない。ボディ内手ぶれ補正を搭載すると本体に熱を持つというので、現在レンズ内補正を採用しているメーカーは当分併用はしないだろうし、そうすぐに手を出したくなることもないだろう……ないだろう……な。


by yassall | 2014-12-04 12:25 | カメラ談義 | Comments(2)

菅原文太の死

 菅原文太が死んだ。かねて体調不良とは聞いていたが、TVのコマーシャルに出演していたり、最近では沖縄知事選で翁長候補を応援したりといったニュースが報じられていたので、急逝との感を禁じ得ない。
 先に高倉健が亡くなった。高倉健について何か書こうと思っていた矢先だった。同じヤクザ映画でも高倉健には任侠ということばが似合い、菅原文太には極道ということばが似合うように感じる。深作欣二の「仁義なき戦い」シリーズには戦後裏面史という一側面があった。
 高倉健と菅原文太が人気を二分した時代があった。私の周りにいた女子学生の間では文太の人気が高かった。ヤクザ映画路線が下火になった後、二人の進んだ道はずいぶん違った。高倉健もTVのコマーシャルに出たことがないわけではないが、職業は映画俳優ですと自称したというだけあって、仕事ぶりはストイックだった。そこに高倉健の魅力もあるのだろう。
 一方の菅原文太であるが、TVドラマにも活動を広げていった。一時期、確か野村秋介の「風の会」に名をつらねていたような記憶があり、私生活上の先行きを危ぶんでいた。その後、耕作放棄地を活用して若者達と農業を手がけるなど、独創的で時代を先がけた活動で存在感を顕した。最近では秘密保護法反対や、集団的自衛権の行使反対の運動に、積極的に関わるなどの活動が報じられていた。
 仙台生まれということもあってか、福島原発事故にはいち早く反応し、脱原発運動にも熱心だったようである。重大な病をかかえながら、最後の生きざまを探究していたような気がする。
 高倉健と比較すると、紆余曲折も多く、多弁すぎることもあったのかも知れないが、それはそれで一人の人間の生き方であったと思う。うむ、もうこの世にいないのか。

by yassall | 2014-12-01 21:20 | 雑感 | Comments(0)

つい一言 2014.12

  安倍政権は、2015年度予算の概算要求で3794億円を計上していた沖縄振興予算を減額する検討を始めた。(朝日デジタル)
 普天間基地の県内移設阻止を掲げる翁長知事を牽制する狙いがあることは明らかだろう。まあ、その程度の政権でしかないということだ。「札束」で人の心を買おうとし、シッポを振らないとみるや、今度は予算をしめあげて屈服させようとする。……でも、それくらいの覚悟が出来ていなくて戦いを挑んだと思ったら大間違いだろう。(12月27日)

東京新聞でコラムを担当している一人に竹田茂夫法政大教授がいる。地味だが、その分学者らしい、的確な時事評をする。その竹田氏が、今回の衆院選の低投票率は国民の様子見だったと分析しながら、次のような警告を発している。
 「現政権は経済で行き詰まれば下からのファシズムに呼応して国家主義の冒険に乗り出すはずだ。」
  ※
 あながち杞憂だと断じえないのは、解散前の安倍内閣の目玉だった高市氏や稲田氏が「ネオナチ」思想を掲げる活動家(「国家社会主義日本労働者党」と名乗る)とツーショットにおさまっていたことが問題になったりと、その前兆が感じられるからだ。
 海外メディアでは、「安倍政権の右傾化ますます進むとの批判強まる」(英ガーディアン紙)などと取り上げられたが、日本ではそれほど強く追及されなかった。根本的には、アジア太平洋戦争に対する反省が本格的にはなされなかったからだろうが、あまりにも感度が低すぎる気がする。
 そんななか、従軍慰安婦の誤報問題で脅迫を受けていた北星学園大学が、元朝日新聞の記者である講師の任用継続を発表した。陰謀やテロをも辞さないのがナチスの手法だった。最初は小さな炎でも、容認したり、どこかで喝采を送るような愚挙を許さないことが大切なのだろう。北星学園大学の決断とこれを支えた人々の勇気を讃えたい。(12月18日)

《原発関連4題》
①大間原発の審査請求:
 16日、電源開発は建設中の大間原発の適合性審査を請求。プルトニウムを混ぜて使うMOX燃料は制御棒の効きが悪くなるなどの危険性が指摘されている。対岸にある函館市は建設差し止めの訴訟を起こしている。
②高浜原発の適合審査合格:
 17日、原子力規制委員会は関西電力高浜原発(福井県)3、4号機が新しい規制基準に適合しているとの審査書案を了承した。事故時の対策拠点(重要免震棟)は建設中、資材運搬の道路にも不安、近隣は原発密集地帯、京都・滋賀にも隣接。
③建て替えで将来の原発維持:
 16日、経産省の有識者会合「中間整理」最終案で、既存原発の敷地内で古い炉を廃炉にし、新しい炉を設置する建て替えを今後の課題として新たに盛り込み、将来の原発維持に向けた姿勢を打ち出した。
④再生可能エネルギーの受け入れはすでに上限と試算:
 16日、経産省と電力7社は太陽光発電の受け入れ可能量を試算、中国電力をのぞき、すでに上限を上回っていると発表した。試算は保有する原発がすべて震災前の30年間の平均稼働率で発電する非現実的な前提によるもの。
  ※
 今日は短くしようと思ったが、書ききれないほど動きが起こった。震災からそろそろ4年、「原発に依存しないエネルギー計画」「再生可能エネルギーへの移行」を本気ですすめていれば、こんな事態にはならないはずだ。(12月17日)

 次世代の党はネット世界ではたいへんな人気だったらしい。その世界では、田母神氏などは「閣下」と呼ばれているとのことだ。ところが衆院選の結果、次世代の党は惨敗した。ネット人気が得票に反映されなかった結果を見て、幹部たちがさかんに首をひねっていたようだ。
 そのことをもって、ポジナショナリズムに逆バネが利いてきたと考えるのは早計で、本気で「自主憲法制定」などと考えている勢力は、大半が安倍自民党に流れたとみる方が正しいのだろう。
 衆院選の最終日、安倍氏は(麻生氏もいたとのこと)秋葉原で最後の街頭演説を行った。その際に、日の丸の小旗(大旗もあったらしい)を持った一団があらわれ、あろうことか「大日本帝国憲法万歳!」などと連呼したらしい。
 ネトウヨの世界ではマスコミのことを「マスゴミ」と呼ぶのだそうだが、終了後には「ゴミ帰れ!」のコールが起こったという。彼らにいわせると、マスコミは「偏向」していて、「ネットの世界だけで真実を知ることができる」のだそうだ。
 「あべしんぞう」コールに迎えられた安倍氏の方も、「新しい日本の力、国民の本当の声がここにある」と、「ハナからすっかりご満悦の様子だった」(マガジン9)という。
 だが、と考える。安倍氏が本気で「国民の本当の声」がここにある、と考えているとしたら、それは次世代の党の幹部たちと同じような見誤りではないのか?
 確かに自民党は291議席を獲得した。しかし、自民党に投票したすべての人がその極右化を支持しているわけではないだろうし、ましてや大多数の国民の支持をとりつけたわけでもない。
  ※
 上記で紹介した演説会の光景はいかにも異様であったらしく、(だからこそ、彼らはマスコミの取材を嫌ったのだろうが)、ネットの世界でも冷ややかな反応や批判の声は高い。
 いずれにしても、「憲法改正」の動きはやってくる。彼らのいう「国民へのていねいな説明」の正体はこの2年間で実証済みだ。
 上から、下から、あれやこれやの攻撃に対して警戒は怠らず、また必要以上に悲観的になったり、恐れたりしないためにも、まずは言いたいことはいう、言うべきことは言うべきときに言う、ということを習慣にしたい。
 だいたい、ネットの世界をネトウヨの諸君にだけ牛耳られていたら面白くも何ともないではないか? そんなつもりで「つい一言」を書き続けている。(12月16日)

 [安倍晋三首相は14日、与党圧勝を受けて憲法改正を進めるかを問われ、「そういうことですね」と応じ、意欲を示した。テレビ東京の番組で述べた。](朝日デジタル)
 選挙前から多くの人々に指摘されていたことが懸念で終わらないことが早くも露呈された。だが、国民の願いと合致するのかどうかはいずれ明らかになる。隠れ蓑にしたアベノミクスを含めて、国民の生活と安全との矛盾は深まって行くだろう。(12月15日)

 小選挙区制という壁がたちはだかり、ましてや自民圧勝との中間予測まで出てしまうと、なんだか最初から気力も失せてしまいそうになる。
 だが、この2年間を振り返っても、このまま安倍自民党に白紙委任状を渡してはなるまいとの思いは強まるばかりだし、その意志だけは伝えなければならないと思うのである。
 今年1年、大雨や台風、竜巻や火山の噴火、南国にまで大雪を降らした寒波の到来、日本の山や川が怒っているとの感を深くした。東日本大震災以来、日本の火山活動が活発化していることは明らかだという。こんな中、本当に川内原発を再稼働しようというのだろうか!?
 株高やオリンピック招致で国民に夢をふりまいているつもりかも知れないが、根本的な問題は何一つ解決していないし、大企業優先、アメリカいいなり、弱者切り捨て、地方切り捨ては加速するばかりだ。
  たとえ選挙制度に欠陥が多いにせよ、国民が平等に選挙権を行使できるというのは実に貴重なことだ。世界各国をみれば、選挙権そのものが与えられていない国も多数あるし、命がけでなければ投票にも行けない国もある。
 明日は小選挙区と比例区の2度のチャンスを逃さないようにしたいと思う。(12月13日)

各電力会社が再生可能エネルギーの買い取りを中断したことは既報の通りである。それでも、これまではメガソーラー(大規模太陽光発電所)に限られてきたのが、ここへ来て家庭用も中断するとの新聞報道があった。
(※正確には電力会社が出力の抑制を要請できるようにすることを経産省が検討しているとのこと。)
 福島原発事故も収束しないうちに、このまま原発容認、さらには推進に舵を切っていくのだろうか? 日本が変わっていくチャンスをみすみす見逃してしまうのだろうか?
 電力会社といえば、一企業というより日本を動かすような力をもつ大資本である。その電力会社から莫大な献金を受け取っているのが自民党である。
 おのれの利益のために社会的責任を放棄する大企業や、経世済民を忘れた政治家に、日本の未来を託す切符を渡していいのだろうか?(12月12日)
  ※
 補助金制度があるとはいえ、自宅の屋根にソーラーパネルを設置するにはまだまだ大金がかかる。これから太陽光発電をと考えている人たちは、電気代の心配よりは地球環境に対する配慮からに違いない。そうした人々の良心を無にしてしまうようなやりかたには本当に怒りを感じる。

 満州事変が関東軍の謀略から始まったことを国民が知らされたのは、戦後の極東裁判においてであったという。今は日本史の教科書にも書かれていることだが、戦前は国民の目には隠されてきた。
 だが、と考える。国民の中でうすうすででも真相を感じ取っていた人はいなかったのだろうか? 「見て見ぬふり」を決め込んだり、自ら考えることを止めて「お国」のいうがままを信じようとした人たちは、きっと猛省を迫られたはずだ。戦争体験がそうした苦さをともなっていたからこそ、戦後の平和主義も今日まで守られてきた。
 今日、特定秘密保護法が施行された。1年間の準備期間をへて、いよいよ新たな「戦前」が始まろうとするのであろうか?
 恐ろしいのは、政府が「隠す」ことだけでなく、「秘密」にふれることを恐れるがあまり、私たち国民が「見て見ぬふり」を再び習慣化してしまうことである。
 昨今、「従軍慰安婦」は存在しなかったとか、「日本の戦争は侵略戦争ではなかった」とかいう、歴史修正主義がまかり通ろうとしている。そのうち、過去も「秘密」とされ、満州事変などなかったということになりはしないか? 何しろ、第2次世界大戦で日本がアメリカと戦ったことを知らない若者までいるこのごろなのだから。(12月10日)

※昨日、「特定秘密保護法に反対する学生有志の会」が官邸前で抗議行動を行っている。問題意識にめざめた青年たちの行動力に対する賞賛を忘れているわけではない。ちょっと補足。

 内閣府は8日、7~9月期の国内総生産(GDP)の改定値を発表した。
 物価の変動の影響を除いた実質GDP(季節調整値)は前期比0・5%減で、このペースが1年間続くと仮定した場合の年率換算は1.9%減だった。11月に発表した速報値(年率1.6%減)から0.3ポイントの下方修正となった。民間調査機関の大半が上方修正を見込む中での予想外の結果となり、消費税率引き上げ後の景気低迷が改めて鮮明になった。(読売デジタル) ※ちなみにこのニュース、NHKはスルーした。

 今日は原発のことを書こうと思ったが、これまでアベノミクスを批判的に検討してきたことを裏付けるような数字が出て来たので紹介する。これでも「この道しかない」と言い張るのだろうか?
 先日の麻生財務相の「利益出していない企業は運が悪いか能力がない」発言のとおり、一部の大企業だけが莫大なもうけをあげる仕組みでしかないのである。

 次のような数字もあるので参考まで。
 民主党政権の3年3ヶ月で日本のGDPは5%強も成長したのに対して、安倍政権の2年間で成長したGDPの値は僅かに1.5%だけとなっています。また、実質賃金に関しても民主党政権はリーマンショック時のマイナス5%から1年でプラス3%に回復させました。(12月9日)


 公営掲示板以外にはポスターを貼れないはずなのだが、顔写真つきのポスターがあちこちで目につく。公示直前にかけこみで張り出したのだろう。
 「この道しかない、景気回復」とか、「景気回復まっすぐ」などと、明らかに選挙向けのフレーズが書き込まれている。
 では、本当に経済政策に特化して選挙をおこない、政権についてからも他の余計なことはすまいとしてるのだろうか? 公約には原発の再稼働、自衛隊の海外派兵、さらに憲法改悪は書かれていないのかといえば、きちんと書いてあるのである。
 それらを見逃すようでは、私たちは民主主義国家の主権者とは言えない。ここ数日、アベノミクスの虚妄を批判してきたが、最大の争点はその暴走を許すかどうかなのである。
 今日は真珠湾奇襲の日である。(12月8日)

 アベノミクスで新しい経済政策といったら「武器輸出」があるだろう。これまでは三原則によって武器輸出は禁じられてきたわけだから、新しいフロンティアを開拓して利潤を上げようということなのかも知れない。だが、日本が「死の商人」となることで富を拡大するというのでいいのだろうか?
  ※
 さて、「武器輸出」の問題は「安全保障問題」とも結びついているわけだが、池上彰・佐藤勝『新・戦争論』(文春新書)を読んでいて、えっ!と思うことがあった。
 外務省のHPでも確認したのだが、今年の5月12日に阿部首相はネタニヤフ・イスラエル首相と首脳会談を行い「共同声明」を発表、「特に安全保障・防衛分野では,国家安全保障局間の意見交換開始,防衛当局間の交流促進,サイバー・セキュリティ分野の協力を確認」したというのだ。
 中東においてイスラエルと「防衛協力」をすすめるとどういうことになるのか? ましてや「集団的自衛権」の行使によって武力衝突にかかわるような事態が起こった時、他のイスラム諸国と敵対することになりはしないのだろうか? テロ組織はどのように反応するのだろうか?
 阿部内閣が進もうとする「道」がいかに日本の安全と平和を脅かそうとするものなのか、今は目に見えるようにはあらわれていなくとも、この先に潜んでいるものの一端をうかがい知ったような気がしたのだった。(12月7日)

 アベノミクスなどといっても、新しいのは名前だけで、その経済政策は手垢のついたものばかりである。だから「この道の先」に待っているのが何かを知りたければ、この2年間で何が起こったかをみればよいのである。
 仕事についていながら年収200万円以下の労働者はワーキングプアとよばれる。ワーキングプア=働く貧困層は2013年統計で1100万人を越え、安倍内閣発足1年で30万人増えた(国税庁調査)。
 「新自由主義」の下で、「資本配分を市場に任せれば労働分配率を下げ、資本側のリターンを増やす」(水野和夫)ばかりなのだ。「賃金を上げよ」「正社員を増やせ」は政府としても経営者側に要請している、などといっているが、ポーズだけだというのは、一方で労働者派遣法の改悪をすすめようとしているのでも分かる。
 それでも国民は忍耐強く勤勉に働いているが、ひとたび倒産や病気で失業したときのセーフティネットがまたなし崩しにされようとしている。口では「安心できる社会保障」などといっているが、生活保護の日常生活費を15年度までに670億円削減しようとしているのである。
 利潤率が頭打ちになっているなかで、無理矢理にでも利潤を拡大させようとすれば、いわゆる中間層を解体させ、格差を押し広げていくしかない。資本主義のもつ貪欲さがむき出しになっている。
  ※
 有権者の4割強が投票先未定という状況をどう考えるか? 問題は「投票には行かない」のか、「投票はしようと思っているが、投票先がない」のかだと思う。
 「どうでもいいから」「どうせ変わらないから」投票には行かないというのは、現状を追認することでしかないだろうし、現状を変えたいけれど「投票先がない」と考える人はもう1週間大いに悩むべきだと思う。4割の半分、2割の人が動くだけでも流れは大きく変わる。(12月6日)

 「この道しかないんです!」「この道には先がない!」……さて、この応酬の結末は!?
  ※
 突然の解散騒ぎでうやむやになってしまった法案のひとつに「カジノ法案」がある。このまま廃案になってしまえばよいのに、と私などは考えるものだが、ふと「アベノミクス」というやつはギャンブルと同じようなものではないかと思い当たったりする。
 やっていることがマネーゲームそのものなのではないか? 政府が「年金の積立金を株式に投資する」という方針を出したあたりから誰の目にも明らかになってきたが、「株価」の上下が最大の経済指標となりだしたころから気がつくべきだった。
 (お金は株式=資産を有する者のところに集まるだけで、つまりは投資家を潤すだけの政策なのであり、結果はトリプルダウンどころか格差の増大でしかない。)(12月3日)
(昨日の続き)
 デフレ脱却のためといって、日銀が貨幣を増刷した。貨幣数量を増せば物価が上昇するという経済理論によるらしいが、本当に正しいのだろうか? 素人考えかも知れないが、需要に供給が間に合わないからインフレが起こるのであって、実体経済が拡大していなければ、需要も供給も伸びるはずがないのではないだろうか? どうも原因と結果が逆なような気がしてならない。
(日銀の黒田総裁も「金融緩和は経済成長の矢の成功が前提」と発言していた。経済学者の水野和夫氏は、上記のような貨幣数量説は国民国家のような閉じた経済の枠内でしか成立せず、グローバル社会では「インフレは貨幣現象である」というテーゼは成り立たないとしている。)
  ※
 それでも物価は上がっているではないか、といわれるかも知れない。だが、今日の物価上昇の要因は円安によるものであり、そこへ消費税8%が追い打ちをかけ消費=需要は冷え込むばかりだから、供給=生産・流通の側だって伸びるはずがない。(水野和夫氏も、貨幣が増加しても金融・資本市場に吸収されるばかりで、バブルを加速させるだけだと述べている。)
  ※
 近所のスーパーが2月いっぱいで閉店することになった。食料品・生活雑貨ばかりでなく、衣料から電気製品までを扱い、本屋・時計屋・薬屋・写真屋などの専門店が入り、郵便局や銀行のATMまである、本当に便利な毎日の買い物の拠点だった。近所にホームセンターが出来たりなどの影響もあるのだろうが、消費税の8%へのアップも大きいのではないかと踏んでいる。(12月3日)
  ※
 アベノミクス=ギャンブル説が発端だった。
 ギャンブルには中毒性がある。一度はまり込むとなかなか抜け出せない。なまじ「ビギナーズラック」をつかんだりすると、どんなに負けが込んできても(いや負けが込めば込むほど)つぎの「ラック」に賭けようとする。それこそ丸裸になるまで。
 「失われた20年」などといういわれ方をするが、20年前に起こったことはバブルであった。「高度経済成長」を再び、などという夢を本気で見ようとしているのか、それとも夢をふりまくことで国民を欺こうとしているのかは知らないが、無理矢理「成長」をおしすすめようとすれば、またまたバブルを呼びおこすしかない。まず、国民が夢から覚めるべきだ、と私は思う。
 「経済」とは「経国済民」の謂いであるとすれば、もっと堅実で、国民一人ひとりが幸せになれる道を探究すべきなのだ。(12月4日)

 ※今朝、新聞各社の中間予想が発表された。それによると自民圧勝ということだ。もしかして、またあの顔と声を4年間見たり聞いたりしなくてはならないかと思うとうんざりだが、統計学の進歩から考えるとかなり固い数字とみることができる。
 無党派層でも自民が支持を伸ばしているのは昨今の政治状況、経済状況、国際情勢を鑑みると理解できないことではない。保守層の多くが求めているのは安心であるのだろう。だが、その安心を自民が満たしてくれるとは私は思っていない。
 民主は伸び悩みで、野党で議席を増やしそうなのは共産党ということだ。政府批判のしっかりした受け皿になる政党がどこかを、みな一所懸命になって考えているのだろう。

 衆議院選挙が公示される。すでに各党の公約も出そろい、投票日まで激しい選挙戦がたたかわれることになる。
 どのような公約をかかげているかも大切だが、どのような政権を選択するかにあたっては、何より「本当は何をしてきたか」を尺度としなければならない。
 悪かったら4年後に選び直せばいいというが、私は現政権がこのまま存続するようなことがあったら、4年後にはもうリセット不能の事態になるのではないかと危惧している。
 特定秘密保護法で国民の知る権利を奪い、国家安全保障会議による独走を許し、集団的自衛権の行使によって日本を武力行使の道に進ませる……そのための種がまかれたのがこの2年間であったとすれば、いよいよその実を結ばせる土壌を与えることになってしまうのだ。
 第1次安倍内閣が憲法改正のための国民投票法を制定したことを思い返してみれば、今度は憲法改悪までいっきに突きすすんで行くこともあり得ないことではない。
 選挙によって国会議員を選び直し、国民の意志を反映させることは、民主主義にとって大切な制度である。小選挙区制になって、それが正常に機能しているかどうか大問題だが、そのことで無力感が先に立つようであってはならない(完全比例代表制であれば、一票の格差も解消するし、もっと投票率も上がるのではないかとだけおっておく)。
 選挙権という権利を後になって悔いることなく行使できるように、緊張感をもってこれからの時期を迎えたい。(12月2日)


by yassall | 2014-12-01 01:29 | つい一言 | Comments(0)