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不将不迎応而不蔵

 「応じて蔵せず」は『荘子』にある。といっても、私が知ったのは宇野哲人の色紙によってである。「降りかかる火の粉は払わねばならぬ」の例えの通り、人生で出合うさまざまな出来事にはそのつど対処していかなければならない。場合によっては対応というより、応戦しなければならないときもある。それが「応」であるが、「蔵」してはならないとは、いつまでも気に病んだり、ストレスをため込んだりしてはならない、という意味である。
 宇野哲人はもっとくだけて、「クヨクヨするな」という意味だと解説しているが、「一日の労苦は一日にして足れり」(『聖書』)とある通り、その日の気苦労を翌日まで持ち越すなどというのは愚の骨頂であろうし、「雨が降ればいつも土砂降り」(英のことわざ)は好事と災厄は問わないそうだが、確かに難題はつぎつぎ起こって来るのだから、いつまでも一事にかまけてはいられない。
 そこで、何かとめげそうになるときは「応而不蔵」とまじないのように唱えているのだが、それも適切に「応」じることが出来る能力があってのはなしだから、なかなか気分はいつも泰然自若というわけにはいかない。
 さて、その前段の「不将不迎」は「おくらず、むかえず」と読むのだが、宇野哲人はこれも「クヨクヨするな」という意味であり、とくに「不迎」は「取り越し苦労をするな」という意味だと解説している。
 漢和辞典を引くと、「将」には「送る」という意味があり、「将迎」で送り迎えという熟語になる。そこで「おくらず」と読むのだが、なんだか分かったような分からないような気分でいた。長いことそのままでいたのだが、ある人にこの言葉を紹介したのをきっかけに少し考えてみた。
 まず、「不将」と「不迎」は対句になっているのではないかということ。「迎」には待ち受ける、未来を推し量るという意味があるから、確かに宇野哲人のいう通り、「取り越し苦労」という意味になる。すると「将」はその対義語であるということが考えられ、もともと「率いる」という意味があるところから、相手を「待ち受ける」のではなく、こちらから先手を打って出るというような意味になるのではないだろうか。
 昨今の世情からつい連想がそこへ行ってしまうのだが、政府がさかんに口にすることばに「抑止力」がある。「備えあれば憂いなし」というが、どうも政府の説明による「抑止力」はこの「備え」というのと同じ意味であるかのように聞こえる。つまり、「抑止力」である戦力を高めておくことで、かえって「憂い」たる戦争を遠ざけることができる、というように。
 だが、「備え」一般を否定しないまでも、「抑止力」とはつまるところ戦争準備なのであり、それは常にエスカレートしていく傾向をかかえている。おそらく、政府が「仮想敵国」としているのは中国であるだろうが、最近その中国で「古くなった」人工衛星をミサイルで撃ち落とす実験に成功したという。これは世界を震撼させるのに値する重大事である。ハイテク化された現代にあって軍事衛星は戦略上の要であるはずだが、開戦と同時に軍事衛星が撃ち落とされてしまえば、もう手も足も出せなくなってしまうからだ。おそらく、アメリカはもう対抗策についての研究をはじめているだろうが、「抑止力」をエスカレートさせていけば、限りなく「先制攻撃」(先手必勝!)症候群に近づいていかざるを得ないのである。
 話をもとに戻す。「不将」と「不迎」は対句なのではないかと書いたが、もしかすると順接しているのかも知れない。未来の「災厄」を予想し、これに先んじて事を起こそうとすると、かえって「災厄」を迎え入れてしまうことになりかねないぞ、と。
 以上は考えたといっても、勘をたよりに漢和辞典を引いてみただけのことで、まったくの当てずっぽうである。

 
 「将」の旧字「將」のつくりにある「月」は肉月。「几」の上に肉を供え、戦勝を祈願したところから、将軍の意味になった。
 「応」の旧字「應」は人が胸に鷹をかかえた形から「鷹狩り」を意味する字。鷹狩りは神意を問う占いであったことから、最初に「応」=こたえたのは神であったことになる。
 漢字の起源が呪術にあったという白川静の学説を裏付けるような例だが、やはり「将」は能動的、「応」は受動的というような感覚がある。


by yassall | 2014-07-26 12:04 | 雑感 | Comments(0)

A.クリスティー『最後のディナー』『フェイからの電話』を観てきた

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 アガサ・クリスティー「サスペンスオムニバス」『最後のディナー』『フェイからの電話』を観てきた。
 みかわやこと葉山美侑出演の舞台は今月二度目。前回の感想では少々厳しいことを書いたが、今回は、階段を一段上った、と思った。
 推理小説家として知られるクリスティーだが、脚本も数多く手がけ、劇作家としての評価も高いのだそうだ。本作は1950年代にラジオドラマとして書き下ろされ、イギリスBBCで制作、放送されたとのことである。
 演出はジェイスン・アーカリ。イギリス生まれで、ロンドン大学卒業後、ローズ・ブルフォード大学ヨーロッパ演劇芸術コース学科長、早大演劇博物館招聘研究員を経て、現在は有明教育芸術短期大学演劇コース教授。この間、ケント大学大学院で演劇博士号を取得している。
 原作を知らないのでいいかげんなことは言えないが、第1話『最後のディナー』ではダ・ビンチの「最後の晩餐」を思わせるようなシーンが挿入されている。ラジオドラマを視覚化するにあたっての、演出家のいう「新しい演出方法」への挑戦ではないだろうか?
 俳優陣も充実していた。主演の高汐巴は元宝塚男役トップスター、元歌手の加納竜は俳優に転身後、舞台・ミュージカルで活躍し、第2話に登場する丹羽貞仁は二代目大川橋蔵の次男である。ただ、メジャーであるというだけでなく、他の俳優陣も含めて芸達者ぞろいである。
 さて、みかわやである。こうした俳優陣にまざってのことであるから、脇役端役であるのは当然として、第2話『フェイからの電話』では役名もセリフもあるという役をもらい、臆せず、のびやかに演じていた。
 演出はたいへん洗練されていると感じたが、こうした舞台の方が彼女本来の魅力が生かせるのではないかと思った。
 山梨で1公演、東京では2日間で3公演きりで終わってしまうのが惜しいと思うほどだが、つぎのステップへの第一歩になって欲しいと思う。

 会場は銀座・博品館劇場。銀座5丁目から8丁目あたりを歩いていると、「菊水」の看板が目についた。私がパイプ党だったころ、新しいパイプを物色におとずれたことがある。そのうち、その頃のことも書いてみたい。




by yassall | 2014-07-25 15:55 | 日誌 | Comments(0)

不忍池の蓮・その2

 梅雨が明けましたね。不忍池の蓮、第二弾です。多少とも涼やかさが伝わるでしょうか?

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by yassall | 2014-07-23 14:07 | 散歩 | Comments(2)

「風のバッキャロー まごころ食堂編」を観てきた

 1月に同じ小屋で上演された「海のバッキャロー まごころ食堂編」の続編である。モコこと甲斐千尋が小林亜樹役で出演している。
 セットは前回と同じ。大物の魚拓などが陳列されていたりして、なかなか作り込んでいる。夏祭り「よってきな祭」の出し物であるヒーローショーの練習場面から始まるのだが、この衣装とかぶり物がまたなかなかの作りなのである。
 周辺から入ってしまったが、芸達者な俳優が多く、若手の俳優もさわやかな演技で観客をひきつけていた。モコも芝居の渦中に入っていき、出番こそ多くはなかったが、役者連にもまれながら重要な役回りをはつらつと演じていた。
 今回は三部作の真ん中。まさに序破急の「破」という急展開の連続で、完結編が楽しみである。
 卒業生のベティも来ていて、久しぶりの再会となった。私が朝霞高校に転勤したときの二年生。大道具担当で、工夫しながらいろいろなセットを完成させていたのが印象的だった。ノコギリとトンカチさばきが堂に入っていた。

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 「風のバッキャロー まごころ食堂編」(脚本:菅野臣太朗、演出:古河聰)ASKプロデュース
 シアターグリーンBOXinBOX THEATER(池袋)
 ~21日(月)まで

 (「まごころ食堂編」第三弾!「島のバッキャロー」12/5~14 会場同じ)


by yassall | 2014-07-19 18:58 | 日誌 | Comments(0)

不忍池の蓮

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 不忍池の蓮を撮りに行ってきた。「あれ、蓮の花が…。」と気づいたのは昨年の8月、弥生美術館で村上芳正展を見たあと、上野まで足をのばした時だった。ルートからしてボート池の方から入ったのだが、中島の弁財天あたりから蓮がみごとに花開いていたのに目を奪われたのである。
 不忍池を周遊したなどというのは数知れないし、蓮が群生しているのも周知のことだった。だが、蓮が花を咲かせているのをみたのは初めてだった(ように思う)。あいにく、そのとき携行していたGX1には標準域のズームしか付けていなかったので、写真を撮るのは撮ったのだがもの足りなかった。そこで、翌年こそは望遠をつけて撮影に来ようと心に決めていたのだ。
 6月下旬から咲き始めたとの開花情報であったが、見ごろは7月中旬から8月中旬ということであったので、若咲きをねらって出かけて行った。けっこうな枚数を撮ってきたので、まだ整理が仕切れていない。第二弾のアップを予定しているので、一度ご覧いただいた方もときどきのぞいてみてくれると嬉しい。通し番号をふっておくことにする。


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G5+45-150mm



by yassall | 2014-07-18 11:00 | 散歩 | Comments(0)

デジカメ事始め・その2

IXY400
 デジカメを常用するようになったのはIXY400あたりからではないか? IXYは各社がAPSカメラを発表していたころ、「カードサイズカメラ」のキャッチフレーズで売り出したCanonのシリーズ名である。IXY DIGTALはその名を受け継いだわけだが、このIXY400も長方形の躯体につや消しのステンレス外装というデザインがオシャレだった。このころ、記録媒体はコンパクトフラッシュが主体で、厚みこそそれなりだったが、カバンの中への収まりもよく、いつも持ち歩くカメラとして重宝した。

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 写真は学生時代の旧友たちと岩手の大沢温泉や宮沢賢治の羅須地人協会跡をたずねたときのもの。旅行に出かけるときなどはメインはフイルムカメラだったが、もう一台持って行こういう気にさせるサイズと重さだった。基本的にフィルムはプリントして鑑賞するものであるのに対し、パソコンに記録させ、いつでもモニターで見たり見せたりすることができる便利さに、だんだん私もとらわれていくことになる。
 ※発売は2003年。私がいつ入手したかは記録が見つからないのだが、少なくとも2004年には使い始めている。
 (1/1.8CCD4.1メガ、87×57×27.8mm、185g)

DiMAGE A200
 DiMAGE(ディマージュ)A200は先行するA1・A2の廉価版として発売された。コンデジというより、このころネオ一眼とかネーミングされていた系統に属する。A1・A2がMINOLTAブランドで発表されたのに対してA200がKONICAMINOLTAとなっているのは、もちろんコニカと合併した後だからである。
 廉価版と書いたが、外装がマグネシウム合金からプラスチックになったものの、デザイン的にはすっきりして私はこちらの方が好みである。写りの中味は変わらなかったはずである。

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 A200は私にはフィルムカメラにとって変わりはじめた最初期のカメラである。レンズは28-200mm相当という、いわば何でも撮せるレンズ。7倍ズームということになるが、電動ではなく手動である。手動の方がそのときの撮影に必要な画角を、すばやく、正確に選択することが可能なのだ。フィルターネジもちゃんと切ってあり、いかにも写真を撮る道具というつくりになっていた。
 液晶モニターは1.8型という小型のものであったが、A200はEVF(電子ビューファインダー)が備わっていた。これまであげてきたコンデジはみな光学ファインダーがついている機種であったが、視野率が低く、どれも全く役に立たなかった。A200のEVFは性能的にはまだまだだったが、視野率100%が確保され(機構的に必然として)、ファインダーをのぞきながら構図をつくれるという意味で、フィルムカメラに近い感覚での撮影を可能にした。
 もちろん、フィルムカメラとの併用がこの先もしばらく続いていくのだが、今日はこれ一台でいいかという信頼感を与えてくれたのだった。

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 試写1号。「これは使える!」と思った1枚。2005年撮影。

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 横浜・山手西洋館(外交官の家)。F5といっしょに持って回った。2005年撮影。

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 郡上城。2005年撮影。

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 郡上八幡町中。

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 郡上八幡は水の町であった。

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 高知・竹林寺(三十一番札所)。2006年撮影。

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 姫路城。天守閣前広場のギリギリの位置から28mm側で撮影した。2007年撮影。

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 A200の限界を感じたのは広島に持っていったときだった。こうして見てみるとそれほどひどくもないか、とも思うが、ともかく原爆ドームを前にしては、対象をまったく写し撮れていないと痛感したのだった。2007年撮影。

 ※A200を購入したのは一度MINOLTAのカメラを使ってみたかったという理由もあった。KONICAと合併と聞いて、これがラストチャンスかという予感がしていたのだが、KONICAともどもカメラ産業から撤退してしまったのはそれからまもなくだった。この28-200mmレンズの性能は評判通りだと納得した。まだまだ新製品・新技術に挑戦してほしかった。
 (2/2.3CCD8.3メガ、114×80×115mm、505g)

 余談だが、リチウム充電池はCOOLPIX5400と共用できた。それぞれに予備電池を買ったのだが、1個でこと足りたので2個が未使用のまま残った。デジカメの進化は早く、充電池を消耗してしまう前に次の製品が欲しくなってしまうのである。因果である。
 そこでA200で撮った氷川丸(2005年撮影)とRX100で撮った氷川丸(2013年)とを比較してみる。はっきりいって、こうしてリサイズしてしまえば、差はない。(船尾から長く伸びた鎖あたりに差があるといえばある。)

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 (A200)
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 (RX100)


by yassall | 2014-07-17 16:51 | カメラ談義 | Comments(2)

デジカメ事始め・その1

 カメラ談義コンデジ篇である。デジカメ事始めと題名をつけてみた。デジカメについては現在進行形というところがあるので、この先どう続けられるかは不明だが、使い始めのころがどうだったのか一度振り返っておくのも悪くないと思ったのだ。

COOLPIX885
 一眼レフも各社から出はじめていたが、まだまだ早いと思っていた。そこで、初めて買ったのはNikonのコンデジタイプCOOLPIX885である。300万画素を超えたら買ってもいいかな、と考えていたのだが、前モデルの880よりかなり小型化したことから購入に踏み切った。
 買ったといっても、まだ写真を撮る道具とは考えていなかった。新宿のニコンプラザで話をしていたとき、これはバスの時刻表をメモにしておくような使い道がいいのではないか、というようないい方をNikonの社員がしていた。(もちろんこれはフィルムカメラの完成度と比較してデジカメはまだまだ開発途上だという意味での発言であろう。)
 COOLPIX885の発売は2001年10月。下のサンプル写真を撮影したのが2001年12月だから、発売とほぼ同時に購入したのだろう。

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 写真は長崎のハウステンボス。9.11の関係で沖縄修学旅行が中止になってしまい、急遽長崎へ修学旅行に行くことになった。その下見に出かけたときに携行したのである。ケーブルでつなげばTV画面で見られるところから、打ち合わせの際に情報を共有するのに便利だろうと考えた。
 記録媒体の容量しだいで、枚数を気にせず記録できるところも、そうした使い道には適していた。だが、1/1.8CCDという撮像素子はコンデジとしては大きい方だと思うが、300万画素ではまだまだ解像度はもの足りなさ過ぎた。この写真ではそうでもなさそうに見えるが、少し拡大するとたちまちジャギーがあらわれる。画質もいわゆる塗り絵だった。

  (1/1.8CCD3.2メガ、95×69×52mm、225g)

COOLPIX5400
 そんなわけで、あまり出番のなかった885を下取りにして入手したのがCOOLPIX5400である。(発売は2003年。購入もその年である。)

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 この機種についてはNikonも相当に気合いを入れて作ったのではないだろうか? まずはレンズである。885は38-114mm(35mm相当、以下同じ)3倍ズームであったが、5400は28-116mm4倍ズームで8群9枚構成のうち非球面が2枚、Nikon自慢のEDレンズが1枚使われている。たぶん28mm始まりのズームは他社に先んじていたのではないだろうか? コンタックTVSのときに書いたが、28mmと35mm前後とでは表現力がまったく異なる。

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 軍艦部もなかなかいかめしい(液晶モニターは1.5型13.4万画素と今とはとても比べものにならないほど小さいが)。もちろんMASPは選択可能、電源として専用のリチウム充電池の他に2CR5タイプの乾電池が使用可能というのも安心感があった。さらにボディ外装はマグネシウム合金ということで、買ったときは長く使おうという気持ちで買ったのである。

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 ところが、実際に使ってみると?という感じるときが多かった。期待値が高すぎたということがあるにせよ、これでEDレンズ?といぶかしく思ったことも一再ならずあった。ただ、私自身がデジカメの特性に不慣れだったせいもあるかも知れない。ホワイトバランスなどというのはまったく未知の分野であった。ともかく、さあ写真を撮ろう!というときは、まだまだフイルムカメラの方を持ち出していた時期だったのある。

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 最初の沖縄修学旅行にも携行した。転勤後だったが今度は実現できたのだ。

  (1/1.8CCD5.1メガ、108×73×69mm、320g)


by yassall | 2014-07-16 15:57 | カメラ談義 | Comments(0)

谷川雁「雲よ」

 一年前、この「詩・詩人」のカテゴリで茨木のり子の「六月」をとりあげた。茨木のり子の人気は高く、今年に入ってもアクセスが多数あるのはうれしいことである。私のようなブログにも、である。

  どこかに美しい村はないか
  一日の仕事の終わりには一杯の黒麦酒
  鍬を立てかけ 籠を置き
  男も女も大きなジョッキをかたむける

 さて、上から始まる一篇を転記しながら、実はあるもの足りなさをずっと感じていた。もっと印象的な、心の深いところに触れてくるような数行があったはずなのだが、という思いであった。
 最近出版された、松本輝夫『谷川雁』を読んで、その理由が分かった。茨木のり子の「六月」と、谷川雁の「雲よ」が記憶の中でいっしょになってしまっていたのだ。
 (思潮社版の「現代詩文庫」には収録されていないことも思い出せなかった原因の一つだろう。たぶん、国文社版の『谷川雁詩集』で読んだのだと思う。)

 
    雲よ

  雲がゆく
  おれもゆく
  アジアのうちにどこか
  さびしくてにぎやかで
  馬車も食堂も
  景色も泥くさいが
  ゆったりとしたところはないか
  どっしりした男が
  五六人
  おおきな手をひろげて
  話をする
  そんなところはないか
  雲よ
  むろんおれは貧乏だが
  いいじゃないか つれてゆけよ

 初期の作品であるということだが、山村暮鳥と詩想を同じくするような素朴さは、晦渋な暗喩で成り立つ作風が確立する以前のものなのだろう。だが、〈アジア的〉なもの、〈村的〉なもの、〈前プロレタリアート的〉なものという、谷川雁の思想的な原点は出そろっているようだ。

  (たにかわがん,1923-1995)

 松本輝夫『谷川雁 永久工作者の言霊』平凡社新書(2014)

 松本輝夫は東大在学中に谷川雁を筑豊にたずねた機縁から、テック(=ラボ)に入社。組合運動に従事し、〈経営者〉谷川雁と対立した経緯があるが、後にラボ教育センター会長をつとめ、退社後に谷川雁研究会を起こした人物である。詳しい内容にはふれないが、谷川雁=実践者(雁みずからが「工作者」と自己規定した)という位置づけから展開される谷川雁論は、詩人の全体像にせまるものである。吉本隆明との対比も興味深く、3.11後における再評価をうながしていることにも説得力がある。



by yassall | 2014-07-10 20:16 | 詩・詩人 | Comments(0)

はぴどり「ひとひら」公演

 3日、はっぴぃはっぴぃどりーみんぐプロデュース「ひとひら」公演をみてきた。今は葉山美侑、みかわや出演である。
 今回はvolナンバーがつけられていない。はぴどりはスピーディな殺陣を持ち前にしてるが、今回は派手なアクションは控えた学園ドラマである。特別企画ということなのだろうか?
 公演がはねたあと、感想はブログにアップするよ、と約束して別れてきたのだが、どう書いていいのか悩んでしまったのである。
 はぴどりに初めて出るようになったのが1年前。そのときは、確かセリフは一言だけという端役だった。今回は同じ校内で対立する演劇部と演劇研究会の一方の部長という、かなり重要な役どころを与えられている。はぴどりとの縁は本人も大切にしているようだし、今回のキャスティングにも喜んでいる様子でいるのは明らかで、いつも以上に気合いが入っているのは確かだろう。
 だが、どうも出来栄えには感心しない。もともと応援のために見に行っているのに、そのことを書くと逆に足を引っ張ることになってしまいそうなのである。しかも、それは多くは台本や演出にかかわることがらなのである。
 原作は桐原いづみのコミック。漫画だからいけない、などとはもちろん言わない。テレビアニメにもなり、続編も描かれているというから、それなりの評価もされているようだ。キャラクターの設定やストーリーの構成もしっかり作られているのだろう。
 だが、漫画の表現をそのまま演劇に持ち込んでしまうことには疑問が残った。漫画はコマで表現され、コマとコマの空間は読者の想像にゆだねていく。連載漫画であれば、ある出来事や人物についての描写は、数週間あるいは数ヶ月飛ぶこともある。だが、演劇の場合は人物は生身の身体をもって(コマの外に出てしまうことなく)現前し、またせいぜい2時間の連続した時間の中で、「全にして一」なる統一体として表現される。
 それでも、主人公・麻井麦を中心とした、ストーリー上でも核心部分となるところは、キャスティングもよくはまり、芝居は作れていた。主人公にのみ感情移入していけば、「演劇を通して違う自分になる」「やり通せば苦労したこともよい思い出になる」など、その心の変化にも一定の説得力がある。
 では、演劇としてのふくらみがそれで十分かといえば、そうではないと思うのだ。今回、みかわやが演じていた演劇部の部長榊、そしてその演劇部から飛び出して演劇研究会を立ち上げた一ノ瀬との二人の葛藤が、主人公の行動や心理にも重大な影響を与える、芝居のもうひとつの構成要素になっている。
 しかしながら、その人物設定には相当の無理があるとしかいいようがない。突発性の声帯麻痺という奇病に襲われ、スタッフに回ることを勧められた一ノ瀬が、キャストから外れることを拒んで演劇部を飛び出してしまうことから榊との対立が始まるのだが、客観的にいってただのわがままである。
 キャストへの執着という以上の演劇への熱意というようなものが描き込まれていないと、その榊に共鳴してついていった演劇研究会のメンバーが存在することにも、何より主人公の自己変革にエネルギーを与えていくことにも、説得力が生まれない。
 榊は最初は仇役として登場する。それはいいのだけれど、一方の一ノ瀬がそんなふうだから対立項としての立ち位置が見えて来ない。かなり激しく衝突する場面もあるのだが、実は一ノ瀬を演劇の世界に誘ったのは榊であり、その責任を重く感じていたり、一ノ瀬の身体をかばっていることが次第に明らかになる。そこで二人の対立の構図は、演劇部対演劇研究会のバトルから、お互いに相手を思いやる気持ちのすれ違いに変わっていく。
 だが、どうしてそのような設定になっているのか不明だが、一ノ瀬が表情を作れない(?)ということになっているので、対立の中でお互いが変化していく様子が読み取れない。みかわやは熱演しているのだが、怒ったり、嘆いたりしてみせているのが、みな空回りしてしまう態なのである。
 一ノ瀬役の工藤真由ははぴどりの常連で、頭の回転もよく、人を惹きつける魅力を持った女優である。原作の人気にもあやかった上演であるとすれば、勝手に登場人物の設定を変えたりすることは出来なかったのかも知れないが、もし人間対人間の葛藤のドラマとして描くのなら、もう少し脚色を加えても良かったのではないかと思われた。そうすれば、みかわやとのぶつかり合いにも深まりがあったのではないかと考えると残念である。
 特別企画では? と冒頭に書いたが、いつものエンタメに徹していこうというのであれば、このような書き方はしない。しかし、今回の劇はシリアスドラマである。だが、その追究のしかたはまだまだ中途半端だったような気がする。なまじのアクションなどを取り入れるより、しっかりした人物設定を組み立てていかないと、心には届いてこない。
 今回は文芸路線もあるんだ、ということろを見せてくれたのだと思う。次作を期待したい。

 感想の方は少々きつめになってしまったが、興行的には成功しているようで、その努力には賞賛を送りたい。平日の公演であったが、座席は満席、追加でパイプ椅子を何脚も出さざるを得ない様子であった。土日のチケットは完売、記念に作成されたオリジナルTシャツもあっという間に売り切れてしまったという。

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 写真は会場のウエストエンドスタジオ(中野区・新井薬師前駅10分)。卒業生が出演する芝居を見に行くようになって、このような小規模の小屋が予想以上に、いたるところにあることを知った。若い人々が夢を追って、また夢を求めて集まって来られる場所があるのは楽しい。環境的には厳しいところも多いが、照明・音響設備が整っているだけでもありがたいことなのだろう。


by yassall | 2014-07-05 16:25 | 日誌 | Comments(2)

つい一言 2014.7

 梅雨空に「九条守れ」の女性デモ
 俳句としての巧拙は知らず、もしかしたら昨今最も有名な一句となったのではないだろうか。さいたま市三橋公民館「月報」に掲載が拒否されたことで問題となった。
 のっけから巧拙のことを話題にしたが、「不易流行」が俳句の命である。その意味では「九条」を焦点とした改憲の動きの中で戦後政治が大きな転換点を迎えようとしている時代(=流行)と向き合い、恒久平和主義(=不易)を訴える本作は俳句という文芸の本質にかなっている。
 また、「女性デモ」の結句も生きている。第五福竜丸被災後の原水爆禁止運動の原動力になったのも女性パワーであった。再び、そのパワーが湧き起こるのが待たれている。
 さて、さいたま市民のみならず、全国からの批判を浴び、再考を公言していたさいたま市であるが、市教育委員会から「世論を二分する問題については今後も掲載せず」との方針が明らかにされた。
 世論を二分? まず、この一点に疑問が集中する。かつて「改憲」キャンペーンをはった読売新聞による世論調査でさえ、九条改正に60%が反対(第1項「戦争の放棄」については、改正する必要が「ある」が17%、「ない」が76%、第2項「戦力の不保持」については、改正する必要が「ある」39%、「ない」52%。)であり、「日本は戦争に参加せず」が圧倒的な世論である。(調査は3月15日実施のもの。この間の「集団的自衛権行使」の閣議決定後は、さらに国民の危機意識が高まっていることは容易に予想される。)
 そして、公民館が掲載不掲載の判断を下すことが適当なのかという問題がある。「公民館の考えであると誤解を招く」というのが最初の理由であったが、作句も選句も公民館を利用している俳句サークルによっている。これまで「月報」の俳句コーナーに発表されてきたというのは、紙面の一部をサークル活動に開放してきたということなのだろう。そのことが明確にされていれば「誤解」も何も起こりようがないのではないか?
 近年、内からの圧力なのか、外からの圧力なのか、自治体が過敏になりすぎて、本来果たすべき「集会・結社の自由」「表現の自由」を守るという役割を制限してはばからない事例が続発している。
 私に多少関わりのある会館でも、かなり敏感になっている様子なので、ざっくばらんに尋ねてみたことがある。半ば民間委託状態にあり、むずかしい問題もあるのだろうと思っていたが、「ハコものとして会場を提供するなら何も問題はない」「ただ、会館主催となると特定の政治的な主張は検討の対象とならざるを得ない」というような回答であった。
 民間でさえ、このくらいの覚悟を持ってやっているのである。いわんや、日本国憲法を遵守する立場にある自治体の弱腰ぶりは本当に情けない。こんなことでは、ファシズムはあっという間にやってくるというのもうなづける。(7月30日)

川内原発二題:
 ①18日、安倍首相は視察に訪れた福岡市内で九州電力会長ら九州の財界人と会食。出席者から川内原発の早期再稼働を要請された首相は「川内はなんとかしますよ」と応じたという。
 目線が国民の側にではなく、財界に向かっていることが明らかな一幕だ。だが、国民の命と安全、未来に対する責任はどうなってしまうのだろうか?
 ②それも規制委の「適合」との判断を受けてのことだが、知れば知るほど、その中味はずさんだ。事故が起こったときの「作業拠点」は建設中で水道もなく、「作業員が放射能を浴びた場合、シャワーで洗い流すのが通常だが、川内原発ではウェットティッシュで拭く想定」になっているのだそうだ。
 原発再稼働の名目には「雇用の確保」もあったと思うが、これが人間の働く労働環境といっていいのだろうか?(7月19日)

 原子力規制委員会田中委員長:「安全だとは私は言わない」、規制委は「基準に適合しているかどうかを審査するだけで、稼働させるかどうかには関与しない。」(再稼働については政治判断?)

 安倍首相:「規制委が基準に適合すると認めた原発は再稼働を進める」(やはり再稼働の決め手は規制委の審査?)、「一歩前進ということだ。立地自治体の理解をいただきながら、再稼働を進めていきたい。」(それとも立地自治体の合意?)

伊藤鹿児島県知事:「国が安全性を十分に保証すべきだ」が持論。TVでのインタビューを正確には記憶していないが、「国が安全と判断すれば再稼働」という構えのようだ。それでいて、避難・防災計画は自治体に丸投げされているのに、「30キロ圏内までの要援護者の避難計画は現実的ではなく不可能だ」と発言してはばからない。

 何なんだ、この責任のなすりあいは!などと、今さら驚いたり、嘆いたりはしない。かつて日本が15年戦争の泥沼にはまり込み、日米開戦に踏み切ったのも、関係者の証言によれば「反対とはいえない空気」があったという。つまりは「責任」は「空気」にあるというのがこの国のならわしなのである。
 原発推進派・再稼働派の人々は本心から原発が必要だと思っているのだろうか? ただ、「電気料金が」とか、「地元経済が」とかいう風説から、何となく流れ出した「空気」に逆らえないだけでいるのではないだろうか?
 電気料金は安全より優先するのか、地方都市がシャッター街化しているのは原発が停止しているせいであるのかどうか、冷静に考えてみようとする人はいないのだろうか?(7月17日)
※「立地自治体」をどの範囲までとるかの問題もある。まだまだハードルは高いはず!

 16日、原子力規制委員会は九州電力川内原子力発電所1、2号機の安全対策が新規制基準に「適合している」とする審査書案を了承した。再稼働の前提条件である安全審査に事実上合格したことを意味し、残る審査手続きや地元の同意などを経て秋にも再稼働する見通しとなった。
 地震と津波の最大想定を大きく引き上げたというが、避難経路の確保や避難先の不備、火山の噴火などの危険性が指摘されている中でのことである。
 原発推進派からすれば待ちに待ったというところだろうが、福島原発では瓦礫撤去にともなって新たな放射能汚染があったことが発覚したという状況にあって、どうして待ちきれなかったのだろうという思いがする。
 万全な「安全」などあり得ないことを彼ら自身が一番よく知っているので、「楽観」論の勢いのままに一点突破してしまえということではないのか? 相当の圧力がかかったことが容易に想像されるが、理性という「堰」が勢いにまかせて流されてしまうのが怖ろしい。(7月16日)

 11日、菅官房長官が外国特派員協会で講演した際、仏メディア記者から次のような質問をされた。

「自民党は2009年12月16日に民主党政権の政治主導に対して緊急提言をまとめ、国民のものである憲法を一内閣が恣意的に解釈変更することは許されないとしたが、安倍政権は憲法を解釈変更した。提言当時の考え方は今も変わらないか?」

 質問が終わるや否や、菅官房長官は強い口調で「それは、まったくあたらない」と反論したというが、この人の「まったくあたらない」は反語法である。とくに政権側に不都合な指摘があったときに連発される。

 今回の政権側に不都合な指摘とはなにか? ここでいう緊急提言とは次のようなものである。

<憲法は、主権者である国民が政府・国会の権限を制限するための法であるという性格を持ち、その解釈が政治的恣意によって安易に変更されることは、国民主権の基本原則の観点から許されない>

 現在、自民党のHPからは削除されているが、当時PT座長として提言をまとめた林芳正農相の公式サイトには、当時の記事が残っており、

<本来、「政治主導」の在り方は、政権交代が行われても健全な議会制民主主義が機能するためのものでなくてはなりません>

 と書かれているという。林氏はむろん閣僚として解釈改憲の閣議決定に署名した。「無理が通れば道理が引っ込む」「頭隠して尻隠さず」の典型である。

 上記は「日刊ゲンダイ」による(下記URL)。先日は「週刊フライデー」が「安倍官邸がNHKを土下座させた」というスクープをものした。出版社系のメディアの中で講談社は奮闘している。

http://nikkan-gendai.com/articles/view/news/151819


 ※「週刊フライデー」のスクープとは、NHK「クローズアップ現代」に、菅義偉官房長官が出演して集団的自衛権行使容認の閣議決定について宣伝しようとしたところ、国谷裕子キャスターが、「他国の戦争に巻き込まれるのではないか」、「憲法の解釈を変えていいのか」と質問した。それに対して、番組が終わった後で、「誰が中心になってこんな番組をつくったのか」、「誰が国谷にこんな質問をさせたのか」、と安倍官邸が恫喝し、犯人さがしをしたというもの。ここでも菅官房長官がからんでいる。(7月13日)

 7日、防衛省・自衛隊のHPの「憲法と集団的自衛権」の項は削除され、「現在、修正中」とされたとのことです。(7月7日)

  FBに投稿されていたのだが、防衛省・自衛隊のHPには、「集団的自衛権は違憲」であると明記されているそうです(下記)。いずれこっそり書き換えられてしまう前に拡散してしまおうと投稿者は提起しています。

 
(4)集団的自衛権
国際法上、国家は、集団的自衛権、すなわち、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利を有しているとされています。わ...
が国が、国際法上、このような集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上当然です。しかしながら、憲法第9条の下において許容されている自衛権の行使は、わが国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどまるべきものであり、他国に加えられた武力攻撃を実力をもって阻止することを内容とする集団的自衛権の行使は、これを超えるものであって、憲法上許されないと考えています。

 (防衛省と内閣が異なった見解を持っていたらどうするのだろう。この場合は防衛省を応援しちゃうが、するとシビリアンコントロールを否定することになるか?)(7月7日)

 原子力規制委員会の委員に就任することが決まった田中知東京大工学部教授が、核燃料サイクルを担う「日本原燃」と原発メーカーの「三菱FBRシステムズ」から、今年前半まで報酬を受け取っていたことが朝日新聞の調べでわかったという。
 田中氏が「日本原子力産業協会」理事を2010~12年につとめ、11年には「東電記念財団」から50万円の報酬を受け取っていたことは以前から報じられていた。しかし、過去の前歴としてではなく、今年前半までとなると、どのような言い訳も成り立たないのではないのか?
 こういうのは何と表現したらいいんだ? オオカミに羊の番をさせる?
 原発推進の立場に立つ人が規制委員会に送り込まれようとしている。それが、これほど明白になっても、政権はシラを切るのだろうか? (7月5日)

 なぜ7月1日だったのだろうか。国会会期中の閣議決定をあきらめ、先送りとしたのだから、2、3日のずれはどうでもいいはずなのに、と思っていたら、この日が自衛隊発足60周年に当たっていることを知った。
 防衛庁を防衛省に昇格させたのは第1次安倍内閣のときだった。きっとこの人物は、最終目標を自衛隊の国軍化においているに違いない。集団的自衛権の行使についての閣議決定を7月1日としたのは、記念の日に自らの手で新たな一項目を刻みたかったのと、最終目標に向かってのスタートラインとしたかったからなのではないだろうか。
 だが、国民の側にとっても7月1日は忘れてはならない日となるだろう。昨年12月の特定秘密保護法の強行採決からわずか半年。急速に国のかたちが変えられようとしていることに国民の誰もが気がついているし、深く危惧している。(7月3日)  
 


by yassall | 2014-07-01 23:38 | つい一言 | Comments(0)