<   2014年 02月 ( 12 )   > この月の画像一覧

森林公園で観梅

c0252688_14024573.jpg
 Kさんとは2月の初め頃から約束していたのだが、天候その他の理由で先延ばしになっていた。公園に問い合わせると見ごろは2月末から3月初めということだったので、これを逃してはならじと出かけてきた。
c0252688_13395890.jpg
 公園内はまだまだ雪が残っていたのだが、風もなく、穏やかな一日だった。
c0252688_13462402.jpg
 春が近づいていることを知らせるうららかな日射しである。
c0252688_13385911.jpg
 白梅が青空に映えている。
c0252688_14030282.jpg
 福寿草が群生している。

 2月中は午後4時閉園。3月からは5時になるそうだ。退園後はSさんと合流して東松山へ。例によってすっかり酩酊した後、今度は桜のシーズンに集まろうと約束して散会した。

 E-M5+12-50mm

 E-M5を新調した。E-M1が出て、その高機能ぶりにいつか欲しいと思いながら、LUMIXからの乗換の決心もつかず、手を出せないでいたが、新製品E-M10の発売に関連してかE-M5が値下がりしたのをみて、こちらを買うことにした。価格もだが、サイズ的にもマッチングがよいと判断したのだ。
 本体・レンズとも防塵・防滴仕様であること、12-50mmには簡易マクロも備わっていることから、OLの9-18mmと組み合わせて旅行に持って出るのに適していると思ったのである。今回はその試写もかねている。もう少し使いこなさないと評価は出来ない。
 ※その後、E-M5についてはカメラ店での「在庫限り」が目立つようになった。E-M5エントリーブラックが3月に発売になるから、今後はその売れ行きを見て販売を続けるかどうかを決めるつもりではないだろうか? E-M10とE-M1の中間価格帯へのニーズがどれくらいあるかだが、防塵・防滴である分、E-M5に価値ありと私なら思うのである。


by yassall | 2014-02-26 13:57 | 散歩 | Comments(0)

リコー GR1S

 リコーはカメラメーカーとしても老舗である。そして個性的な製品と独自の販売戦略で今日まで生き残って来た。
 記憶に残っている中ではRICOH AUTO HALF SEがある。どこがオートなのかというと、フィルムの巻き上げがゼンマイによるスプリング式になっていたのである。つまり、オートといっても電動化されているわけではないのだが、巻き上げレバーが省略されたスタイルは、当時としてはたいへんモダンなデザインに見えたものだった。
 ハーフというのは、まだフィルムが高価であったころ、1枚分を半分ずつにして撮影する(つまり、12枚撮りフィルムであれば、24枚撮せることになる。ただし、普通にかまえると画面はタテ位置になる)ことができるように考案された方式である。この分野でリコーはオリンパスと人気を分け合った。
 そうした大衆化路線ではリコーXR 500 も印象深い。普及価格帯の一眼レフとして発売されたその価格は39,800円、TVでは「サンキュッパ」のキャッチフレーズが大評判となった。自分にも一眼レフが持てそうだ、という気にさせた功績は大きい(それでも当時の初任給の半額程度だが)。
 ついでにいうと、リコーの一眼レフはペンタックスのKマウントを採用していた。もしかするとリコーがペンタックスを吸収合併するにいたる縁はこのときすでに始まっていたのかも知れない。

c0252688_14455209.jpg

 さて、GRには前史がある。それは1994年に発売されたR1である。17×61×245mmという大きさに145gという軽量ボディーは限りなくパトローネの大きさに近づけたのだという。大げさでなくワイシャツの胸ポケットにおさまった。
 レンズは30mmF3.5(4群4枚)で、のちにマルチコート化された。基本的なデザインは変わらなかったが、さまざまな進化形に発展し、ローライがOEMを出したり、フランスのファッションブランドとのライセンス契約によるELLEが発売されたりした。写真でみると瀟洒なデザインのものがたくさんあり、どうして買っておかなかったのかと今さらながら悔やまれてならないときがある。
 そのR1のデザインを踏襲しながらハイエンド機としてのコンセプトをもってGR1が発表されたのが1996年のことである。新素材であるマグネシウム合金のボディーに28mmF2.8(4群7枚)のレンズを搭載させた。R1と比較すると厚さが26.5mmとなり、重量が175gとなったが、それでも軽さは際立っていた。
 私がGRを使い出したのは1998年のGR1Sからである。とにかくそのレンズの評価が高かったことと、つねに持って歩けるカメラが欲しかったからである。その後も「さあ、今日は写真を撮るぞ」というときはTVSを持ち出したが、375gという重さは常時携帯をためらわせた。シャッターチャンスとめぐりあったとき、すぐに取り出せるカメラというぜいたくを満たしたかったのだ。
 使ってみて、世評にたがわぬその性能に驚嘆した。よく試し撮りに池袋西口の芸術劇場前公園を使ったのだが、プリントを見るとその緻密さはもちろん、石畳の質感、噴水の量感、木立のような自然物から芸術劇場のような人工物にいたるまで、描線の繊細さと色彩の鮮やかさはなみなみでない実力をうかがわせた。
 リコーのレンズは確かリノケンというブランド名を持っていたと記憶しているが、このレンズについてはGRを名乗り、限定販売ではあったがLマウントによるものも作製された。それだけのことはあった。

c0252688_14461105.jpg

               (117×61×26.5mm、180g)

 GRは2001年に完成形であるGR1V、1999年に21mmF3.5を搭載させたGR21、廉価版でステンレス外装のGR10(1988年)が発売された。
 リコーのすごいところは、デジタル時代になっても同様のデザイン、同様の28mm(相当)レンズによってGRをシリーズ化してしまったところである。1号機から評価は高かったが、APSサイズの撮像素子を積んだ最新版にはときおり食指を動かされないでもない。


by yassall | 2014-02-22 14:49 | カメラ談義 | Comments(0)

三文オペラ  JOKO演劇学校修了公演

 JOKO演劇学校第7回修了公演を観てきた。キナコこと広瀬和が出演しているのである。演目はブレヒト「三文オペラ」。演出は菊池准氏。パンフでのあいさつ文には「修了というより、初めてのプロとの演出家との出会い」とある。作品もビッグだが、演出家もビッグだ。
 キナコは主人公の恋人ポリー役。いい役をもらったものだが、その役に負けず、のびのび、生き生きと演技が出来ていた。ようやく治りかけた風邪を心配しながらだったが、いいものを見せてもらったと思う。キナコよ、まずは第一声で客をつかめ!
c0252688_23160380.jpg
サイスタジオコモネAスタジオ(小竹向原)~2/23(日)まで
by yassall | 2014-02-21 23:17 | 日誌 | Comments(0)

CONTAX TVS

 サブカメラとして愛されたカメラにライカとミノルタの提携によるライツミノルタCL(海外ではLeica CL)がある。ミノルタはライカとの提携を解消した後にもCLEを発表している。
 ときたま10万円台で中古が出ていたりすると「買ってしまおうか」という衝動にかられなかったこともない。その衝動を抑え切れてしまうところがマニアにはなり切れない所以なのだろう。
 さて、今回の遠回りはこれでおしまい。

c0252688_09183588.jpg
 今日のカメラ談義はCONTAX TVSである。
 T2のレンズは38mmF2.8だった。38mmはその当時発売されていたコンパクトカメラによく採用されていた焦点距離である。高級機には少々似つかわしくない取り合わせであるのだが、この選択には納得させられるものがある。
 一眼レフの標準レンズとされていたのは50mmであったが、実際に使ってみるとやや望遠系である。50mmは廉価版でもF1.8級の大口径レンズであるので、撮り方によっては美しいボケが味わえたりするが、スナップにはやや不向きである。(だから、逆に50mmを使いこなせたら一人前などと言われたりもした。)
 よく、50mmは対象を凝視したときの画角、35mmは普通にものを見ているときの画角、28mmはあたりを見渡そうとするときの画角といわれたりする。
 そこで私などは、F2.0程度の明るいレンズでも廉価で手に入ったこともあり、35mmを長く常用レンズにしていた。だが、やはり35mmは広角系であり、気をつけないと何をねらったのか分からない、漠然とした写真になってしまう。
 38mmは画角としては50mmと35mmの中間に位置する。考えようによっては、これ一本というときに、日常のスナップとして絶妙の画角なのである。引いてよし、寄ってよしというところだろうか。(ライツミノルタCLに標準レンズとして装着されたのは40mmF2.8であった。これも似たような発想から選択されたのではないか。まあ、Mマウントのレンズ交換が可能であるから、買えばレンズ一本では済まないだろうが。)
 さて、遠回りしないといいながら、また前段が長くなったが、TVSの発売は1993年である。T2との最大の違いはレンズがT*Vario-Sonnar28-56mmF3.5-6.5(6群6枚)となったことである。
 「バリオ」とは「可変」という意味で、早い話がズームレンズである。ちなみにソニーから発売されているRX100が装着しているレンズもVario-Sonnarである。
 TVSに引かれた理由はもちろんズームである。先に書いたように28mmからあれば風景写真にも十分耐え、50mm近辺まであればかなり準望遠的な領域までカバーできる。ズーム比を欲張っていないだけ画質も期待できそうであった。
 45歳を直前にしたころで、その1月に学生時代からの親友をなくしたこともあり、これから何を通してものを見ていこうか、などと思いあぐねていた心理状態も影響していたかも知れない。(まあ、カメラを買ってしまう口実なんで無理矢理こじつけていることが多いものだが。)
c0252688_09202357.jpg
 レンズ先端に付いているのは専用の保護フィルター。TVSシリーズはⅢまで出たがデザイン的には初代が一番美しいと思う。向かってレンズ右側の電源スイッチはズームレバーにもなった。(取説はレンズ回りのギザギザを使えという指示だったが。)
 使い始めてみるとT2がたちまち防湿箱入りになってしまった。最初はやはり「やわらかい」という印象だったが、F8まで絞ると見違えるように鮮明な画像になった。T2だけでなくプライベートな撮影では一眼の出番もなくなっていったのである。
 ズームレンズで気になるのはF値の暗さである。TVSが愛機となるにあたってはフィルムの進化が欠かせない。1回目で、写真を始めた当時はASA400でも使い物にならなかったと書いたが、いつの間にかIS0400が常用フィルムになった。フジが第4の感色層を400にも適応したのはもう少し後だったと思うが、ともかくこのころのフィルムの進化には目を見張るものがあった。(実はフィルムだけでなく、プリントもデジタル化へと変化していくのだが、その話はまた別の機会に。)
c0252688_09204182.jpg

   (123×67×41.5mm、375g)

c0252688_09205638.jpg

   (今回はパンフレットの他に発表時のチラシも掲載する。)

※フィルムの進化を話題にしたが、これを背景に使い捨てカメラが大流行した。ネガフィルムはラチュードが高く、多少の露出のバラツキは現像の段階でカバーできてしまうのである。高感度であるから、被写界深度が深い代償に暗いレンズでもシャッター速度がかせげて手ぶれも少ない。だが、何といってもレンズはプラスチックの安物であり、その手軽さから写真に入っていった人たちもやがて物足りなくなっていった。フィルムカメラの衰退の要因の一つはこの使い捨てカメラであると私は思っている。
※そういえばISO感度はどうやって設定したのかな、とパンフを読んでみると、このころからカメラにフィルムを装着すると自動でISO感度を読み取ってくれるようになったのだった。パトローネにDXコード(開発はコダック)が印刷されることでフィルム感度と撮影情報がカメラ側に伝えられるようになった。おかげでフィルムを入れ替えた後の設定忘れを気にしないで済むようになった。ついでにいうとフィルムの巻き上げ・巻き戻しも自動化されたので、カメラから巻き上げレバーと巻き戻しクランプが消えた。カメラの歴史からすると巻き上げレバーも大変な技術の進歩であったのだが、その技術も不要のものとなってしまった。(中・大判カメラにはまだ生きているかも知れない。)


by yassall | 2014-02-15 09:28 | カメラ談義 | Comments(0)

雪の平和公園

c0252688_14324792.jpg
 先週の雪の日に皆さんが写真を撮っていたので今度は私も撮ってみた。………うーむ。ただそれだけ。

 p330 +0.7補正


by yassall | 2014-02-14 14:35 | 散歩 | Comments(0)

2014都知事選で考えたこと

 今日は都知事選の投票日である。東京オリンピックの問題ではつい一言を書いてしまったが、このシリーズでもあまり触れないで来た。それは交遊の範囲を考えたとき、都知事選について何か発言したとしても多少とも影響を及ぼせる相手がごく少数であったことと、これからの日本の行く末を占うという意味で冷静にその動向を観察してみたかったという理由がある。(もちろん、自分は第三者でいようなどというつもりではなく、今日も雪かきの後、しっかり投票に行って来た。)
 大勢は決したようだが、各候補者の得票数や投票率も確定した数値が明らかになるのは明日になるだろうし、それから各新聞社や専門家による分析もされることだろう。自分なりの考えをまとめるのはそれからになるだろうが、二、三発言できたと思っている。
 今日のところは今回の都知事選の位置づけについて述べておきたい。猪瀬氏が副知事だったとき、株主総会で東電を責め立てるにあたって、「なぜ東電病院を売却して補償費を捻出しないのか?」と問い詰めているのをみて、その調査力と舌鋒に感心しないでもなかった。ところが徳洲会からのヤミ献金問題が起こったとき、にわかに浮上してきたのは徳州会病院による東京進出に便宜をはかろうとしていたのではないか、という疑惑であった。その真偽がはっきりする前に猪瀬氏は辞任した。これから検察庁による調査がなされるのかどうかもはっきりしないが、辞任そのものがことをウヤムヤにするための幕引きであった可能性もある。
 とすれば、今回は猪瀬氏を圧勝させた前回の都知事選の是非が問われる選挙であったはずであり、それは他ならぬ東京都民に深刻な反省を強いるものでなければならなかった。しかし、選挙期間中の経過をみても、そして今日の結果をみても、少しもその反省はみられなかった。まずもって、そのことに私たちは衝撃を受けなくてはならない。(2月9日)

 今回の都知事選で、脱原発二候補のことはさておき、私が注目していたのは田母神氏である。
 氏は2008年、「日中戦争は侵略戦争ではない」とした懸賞論文で最優秀賞を受賞したことが問題となり、航空幕僚長を更迭された人物である。
 その後も「最初から『日本は核武装を絶対しない』と宣言するのは馬鹿げたことだ」などの発言を続けていたとのことだが、その主張の特異さから考えても、都知事選に立候補すると知ったときは何やら亡霊がよみがえったように感じたものだった。
 注目しようという気になったのは、もちろん否定的な意味でだが、主要な候補者の中で原発推進を明確に打ち出したのは氏のみだからである。
 もし、安倍自民党が原発を「ベース電源」として維持し、再稼働(あわよくば新増設)をすすめようとするならば、田母神氏を支持すべきだった。他にも「集団的自衛権」の肯定や「憲法」改悪など、政策的にも最も近かったのではないだろうか。(実際、テレビの記者会見で氏は「安倍首相は本心では私を支持していると思いますよ。」と発言している。氏の応援演説に立った百田氏は安倍首相がNHK経営委員に仕立てた人物だ。)
 その主張がデタラメなことは誰が聞いても明らかだ。「福島原発事故で死んだ人はひとりもいない。」「日本の放射線基準は厳しすぎる」「福島原発事故は水素爆発であって、放射能が爆発(?)したのではない」などなど。安全神話・安心神話を復活・普及させようと躍起になっているとしか思えない。
 とりわけ最後の「水素爆発だったから」云々はひどすぎる。「核爆発」ではない、といいたいのかも知れないが、そうなったときは終局である。水素爆発だから「安全」などというのはまったくの嘘っぱちで、そのために大量の放射性物質が飛散したのだし、おそらくはそれ以前に起こったメルトダウンによって収拾もつかないまま、これ以降も放射能を出し続けていくことがどのくらい深刻なことかまるで分かっていない。
 「原発推進」対「脱原発」という意味では、田母神氏対他候補といってもいいような構図だったのではないだろうか? 3.11後、住民を「避難させる必要もなかった」と言い切る氏に、いったいどれくらいの票が集まるのか? 猪瀬氏を後継者に指名した石原慎太郎元知事が今度は田母神氏の応援に回ったわけだが、その石原信仰から醒めることが出来るのか、出来ないのか?

 結果は12%の得票であった。この低投票率の中で10人に1人以上が田母神氏に投票したこと、その総数が61万人を超えていること、これをどう評価したらよいのか?
 なぜ田母神氏を選んだのかについては、一人ひとりの気持ちは聞いてみなければわからない。まさか、「安全・安心」と言ってくれる人を待っていたんだ、などということはあるまいとは信じたい。
 とりわけ20歳代の投票者のうちの24%を占めたというのは、「景気をよくして雇用を増やす」という政策がアピールしたのかも知れないが、ネットでの支持が広がったということを考えてみるとその背景はもっときちんと分析される必要があるだろう。
 「ナチスだって最初は過激な論を主張する奇人の集まりだった」と山口二郎氏は警鐘を鳴らしている(「東京新聞」2/9)。一定の支持が集まったからといって氏が都知事に選ばれるまではまだまだ遠い先だろうと、楽観ばかりはしていられないと思うのである。(2月10日)

 都知事選の結果を受けてか、安倍首相が早速「現実を見据え責任をもって実現可能かつバランスのとれた」エネルギー基本計画を策定していくと、原発再稼働に前向きな姿勢をみせた(10日衆院予算委)。
 原発輸出についても「周辺国やアジアで原発が新設される際、福島第一原発事故の経験と教訓を共有してもらうことは安全上重要だ」などと発言したとのことだが、いったいどのような「教訓」を学んだのか聞いてみたいものだ。
 都知事選に勝利したというが、桝添氏も「原発がこのままでいいとは誰も思っていない」と発言しているとおり、原発問題が争点になることを回避した上での当選である。桝添氏の得票が44%、脱原発二候補が20%ずつの合計40%であること(一人は元総理とはいえ告示9日前の出馬)を考えれば、国民が原発再稼働にGOサインを出したと考えるのは早計である。(2月11日)
 ※自民党、百田氏らの参考人招致を拒否。そんな強気でいいのだろうか……?
 ※首相、「集団的自衛権」行使の例に北朝鮮を名指し。相手も挑発国家だが日本も挑発していないか……?

 初日に、都民は前回の都議選から何も反省しなかった、と書いたが、もしかすると言い過ぎだったかも知れない。
 2012年の選挙で当選した猪瀬氏の得票が4,338,936票(65.27%)であったのに対し、今回の桝添氏の得票は2,112,979 票(44%)である。石原元都知事の任期途中での辞任という事態の中で、猪瀬氏のケースが特別だったとはいえ、今回も事情は似たようなものだ。両方とも最初から本命とされた候補者でありながらこれだけの差がついた。
 これに対し、宇都宮氏一人をとっても前回が968,960票(14.58%)であったのに対し、今回が982,594 票(20%)と得票数・率ともに伸ばしている。投票率が46.15%と前回を16.45%下回る中でである。
 脱原発候補が二分されてしまったという人がいる。それは私も残念に思っているが、脱原発運動がどこまで浸透しているかを考えれば、細川氏の立候補は脱原発を争点とし、話題を盛り上げていく上で大きな役割を果たしたといえる。寒風ふきすさぶ中、二人の高齢者(といっては失礼だが)が「原発を次の世代に残したくない」と街頭で訴える姿に、若い世代が反応しなかったはずがないと思いたい。
 細川氏は小選挙区制を導入した首相、小泉氏は格差社会を拡大した首相という過去を忘れてはいないから、私が投票することはなかったが(宇都宮氏がいなければ投票したろう)、この二人がいなければ今回の都知事選はずいぶん緊張感を欠いたものになってしまっていただろう。
 二人に分かれてしまったから、というより、二人に分かれてしまっても、この結果を出せたととりたい。(2月12日)

 宇都宮氏はよく検討したのではないだろうか? 二度目の立候補ということで都政に対する政策も一番しっかりしていたと思うし、何といっても徳洲会問題をきちんと追及するといって選挙戦に臨んだのはこの人だけだ。全国ヤミ金融対策会議代表幹事、オウム真理教犯罪被害者支援機構理事長、反貧困ネットワーク代表、年越し派遣村名誉村長というこれまでの活動歴も、その信念と行動力に信頼を寄せるのに十分である。
 出口調査(朝日)では、20代こそ田母神氏24%に対して宇都宮氏19%という数値だったが(細川氏11%)、30代では田母神氏17%に対して宇都宮氏21%(細川氏15%)と、若者層にもよく浸透していた。選挙運動にもそれはあらわれていた。
(ちなみに、昨年の都議会選挙の得票率のデータがあったので記しておくと、自民36.03、公明14.1、計50.13%。共産13.6、社民0.28、計13.88%。桝添氏が自民・公明の票を押さえ切れていないこと、宇都宮氏が無党派層にも切り込んでいることがわかる。)
 脱原発候補の一本化を働きかけた市民派(といったらいいのか)の人々が、共産党と社民党の支持を受けているということから、政党色を嫌って細川氏についたという。細川氏が立候補しなかったらどうしたのだろうと思ったりもするが、その考え方はもはや時代遅れなのではないかと思っている。
 むしろ、それらの政党がついてこなければならないような、政党そのものも巻き込んでいくような運動を作り出していこうという気概が必要なのではないのか。
 多くの場合、無所属での立候補が政党隠しでしかないことを考えれば、一致できる政党とは連帯しながら(ヘゲモニーをとるとか、とらないではなく)運動の輪を拡げていく道すじを模索し、足腰を鍛えて行かなくてはならない。
 かつて、社会党・共産党・総評・市民グループが統一戦線を形成しながら、つぎつぎと革新自治体を実現していったことを目の当たりにしている者としては、共産党と社民党がともに同一候補を支持し、同じ一台の宣伝カーに乗り合わせたということだけでも大変なことだと思っている。(2月13日)


by yassall | 2014-02-13 14:25 | 雑感 | Comments(0)

降臨!神業絵師 伊藤彦造展

c0252688_00271132.jpg
 伊藤彦造(1984-2004)は、育ったのは大阪であるが、生まれは大分県。剣豪伊藤一刀斎の末裔にあたることなどは以前に紹介した(『昭和美少年手帖』)。
 父親から受けた剣術指南は真剣によるものだったとか、憂国の情を世に訴えた「神武天皇御東征の図」を自らの身体に切り傷をつけた鮮血で描いたとか、ファナティックな一面は確かにあったようだ。戦時中は皇道派の中心人物だった荒木貞夫に心酔し、その秘書もつとめたとか、戦後は一時期、戦犯として米軍に収容されたことなどは初めて知った。(収容所では将校から気に入られたらしく、入信はしなかったが、米軍キャンプに関係する牧師からアーサー・ガブリエルという洗礼名をもらったなどのエピソードもあるということだ。)
 だが、天才と狂気はやはり紙一重なのだろうか、とくに自分のスタイルをつかんでから後の作品には言いしれぬ凄みと妖美とがある。
 未完成ではあるが戦争画「アッツ島 山崎部隊長」も展示されていた。彦造は「血まみれの兵隊がバタバタと倒れる」という夢に毎晩うなされたというが、描かれている人物の緊迫した表情にはプロパガンダをこえた何かがあった。
 戦後の一時期は大人向けの雑誌の挿絵なども手がけたようだが、本領は少年誌の挿絵や歴史上の人物を扱った作品にあると思った。
 66歳で筆を置いてから100歳まで長命で過ごしたが、94,5歳頃という写真の表情は穏やかだ。愛妻家で子煩悩でもあったとのことで、子どもたちからも大事にされたようだ。片目は6歳のときに失明していたのだという。

「降臨!神業絵師 伊藤彦造展」弥生美術館 ~3/30まで

《新刊案内》
松本品子・三谷薫編『伊藤彦造』河出書房新社(2013) 
 

by yassall | 2014-02-12 01:01 | 日誌 | Comments(0)

見田宗介『宮沢賢治』

 定年後の目標に積ん読の解消があった。いつか読もうと思ってそのままになっている本、途中までのままになっている本を片付けるようにして読んでやろうというのは、定年を心待ちにするという意味で精神バランスをとる働きもあったのではないかと思っている。
 現在実行中であるわけだが、途中で止めてしまった本は再読してもやはりつまらなかったり、理解できなかった本は結局チンプンカンプンであったりすることも一再ならずである。別段嘆くこともないし、読まなかった(読めなかった)としても悔いる必要もないことが確認できたと思えばよいだけのことだ。
 それでは定年後は新たに積ん読になる本はないかというと、そんなことはないというのが悲しいところなのである。遠出であろうが近所への買い物であろうが、本屋があるとつい寄ってしまう。本屋によれば面白そうな本や、もしかして読んだら少しはかしこくなれそうな本に呼ばれてしまう。
 11月にひさしぶりに信山社に寄ったときもそうだった。都営三田線で神保町へ出て、水道橋から後楽園あたりをぶらぶらするだけのつもりだったのだが、「そういえば信山社にしばらく寄っていないな、健在なのかな」と思ってしまったのだ。
 あれこれの本に呼ばれながら、文庫本二冊に止まったのは我ながらあっぱれである。買ったのは瀬戸内寂聴・前田愛『対談紀行 名作の中の女たち』と本書である。正月に入ってようやく読み始め、まず『名作の中の女たち』を、つぎに本書を読んだ。

 社会学者が宮沢賢治?(コンナ本ヲイツノマニ?) というのが本を手に取ってみた動機である。見田宗介はペンネーム真木悠介による『人間解放の理論のために』(1971)の著者として記憶の中に刻印されている。現代社会の分析を通してその課題を明示してみせてくれる手腕には感嘆するしかなかった。だが、それがどう実践されていくのかが見えないまま、いつしか遠い存在になっていた。今は大澤真幸の師匠筋にあたる人という認識でいた。
 社会学というと確かに境界学問としての性格が強いし、それが魅力でもある。それにしても宮沢賢治をどう論じようというのか?

 論の構成は著者らしく明晰である。「銀河鉄道の夜」には「幻想形態と現実形態」および「存在否定と存在肯定」という交叉する二つの軸があり、それぞれ世界の外へと内へ向かう方向性がある。その二つの軸によって定義される四つの象限がⅠ〈自我の羞恥〉、Ⅱ〈焼身幻想〉、Ⅲ〈存在の祭り〉、Ⅳ〈地上の実践〉であり、それはそのまま宮沢賢治の全作品と全生涯をとおしてくりかえし現れる原主題に他ならないというのである。
 ※象限:①四分円、②平面上で直交する座標軸が平面を四つに分けたそれぞれの部分(「広辞苑」)
 自我が「実体のないひとつの現象である」という現代哲学のテーゼを賢治は明確に意識し感覚していたという。それは賢治の「自意識」を否定するものではなく、「他者のまなざし」(「目の赤い鷺」)に囲まれ、「家の業」を強い倫理観とともに自覚していくことは、しかし他者との関係性の中で「羞恥」が自我の内部に構成されていくことなのである。そして、「修羅」としての自己規定が「矛盾の存在」であり、「苦悩する存在」であることによるという。
 私が筆者の冴えのようなものを感じたのは第二章「焼身幻想」である。「よだかの星」にみられる焼身願望は「銀河鉄道の夜」の中でも「さそりの火」のエピソードとしてくり返されているという。
 そして、「焼身」が必然的であるのは「存在の罪」と対応するからであり、死というよりも「消滅」への意思を表現しているというのである。まず、ここでなるほどと思わされる。自殺の動機と方法は様々なのだろうが、自らの存在を「消滅」させてしまいたい、さらには「粉々にしてしまいたい」とうする衝動には、「死んでしまいたい」につきまとうある種の甘えや自己陶酔を一切許さない、強烈な自己否定がある。
 だが、私が「冴え」といったのはそのことではない。筆者はさらに「〈死〉というものが、再生を前提とするものであること、あたらしい存在の仕方へ向かうものであること」を示しているというのだ。フェニックス(不死鳥)をイメージさせるそれは、「存在のカタルシスとでもいうべきものの象徴」であるとする。
 ここから自己規定としての「修羅」が、「偏在する光の中をゆく闇」という自己感覚を持ちながら、「存在の祭りの中へ」と飛び込んでいくのであり、その心象がもう一度「世界」の内へと振り向けられたところに「羅須地人協会」にいたる「地上の実践」があるのだとする。とすれば、「グスコーブドリの伝記」こそは賢治が描いた自己解放への道すじの完成形なのである。

 本書が初めて上梓されたのは1984年のことだそうだ。1977年の『校本宮沢賢治全集』の完成をふまえていることをあとがきでも記している。「ふつうの高校生に読んでほしい」と思って書いたというが、著者自身が認めているようにそれにしては「なお骨ばっている」。だが、読み終わった後、この書が年若い人々に読まれることを願って書かれたことはよく理解できるような気がする。

  感ずることのあまり新鮮にすぎるとき
  それをがいねん化することは
  きちがひにならないための
  生物体の一つの自衛作用だけれども
  いつまでもまもつてばかりゐてはいけない

 という「青森挽歌」からの詩句を引用しているのだが、まだ概念にとらわれない「新鮮」な驚きをもって世界と向き合い始めた青年への期待があらわれているように思う。だが、それは同様に「自我の解体の危機」にさらされたことのある人間であるならば、誰に対してでもある方向を指し示す力を有しているように思われる。
 「羅須地人協会」の経営も生家の経済援助があってのことであり、自分で消費する分のほかは「町内に配給」したことなど、賢治が真に「農民」にはなり切れなかったことも、筆者は単純に「甘え」であったとは切り捨てない。
 「その〈生計〉を人びとの慈悲にゆだねきるというかたちでみずからを功利の外にげんみつに保つインドの〈聖者〉の生き方を、日本近代の社会の中で可能なかたちで獲得したのだともいえる」と書くとき、筆者の宮沢賢治に対する愛情がなみなみでないことが知れる。冷徹なばかりではないのだ。

見田宗介『宮沢賢治』岩波現代文庫(2001)

《もう一冊》
 ここ数年で読んだ宮沢賢治に関する本では、山折哲雄『デクノボーになりたい』小学館(2005)が面白かった。「雨ニモ負ケズ」の中の「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」は高村光太郎の解釈によるもので、手帖には「ヒドリノ」となっていることに初めて気づかされた(写真版では確かにそうなっている)。「ヒドリ」は「日取り」つまり「出稼ぎ」に出なくてはならないときと解釈できるし、山折哲雄はさらに「一人」ではないかとの仮説も立てている。昔、岩手の友人から「東北では日照りより冷夏の方を怖れるのだ」ということを聞いたことがあり、すぐさま納得してしまった。
 最初は山折哲雄・吉田司の対談集『デクノボー宮沢賢治の叫び』朝日新聞出版(2010)から入ったのだが、吉田司を上回る山折哲雄の異才・異能ぶりにすっかり惚れ込んでしまったのだった。


by yassall | 2014-02-09 18:49 | | Comments(0)

CONTAX T2

 前回とりあげたOLYMPUSもCarl Zeiss も光学機器メーカーとしては顕微鏡の製造からはじまった。NHKの「坂の上の雲」だったか、別の映画か何かだったか、日本海海戦に臨んだ東郷平八郎が「儂の双眼鏡はカールツァイスだ」と自慢するシーンがあった。OLYMPUSがカメラの製造に進出したのもCarl Zeissに範を得てのことだからZeissが世界の光学機器をリードする存在であったことは疑いない。
 ※顕微鏡とカメラを手がけたOLYMPUSはその実績を見込まれて胃カメラの開発を託された。現在のOLYMPUSの主な収益は胃カメラ(内視鏡)から得ていると何かで読んだことがある。
 CONTAXはカメラ界では新興であったライカの成功に脅威を感じたツァイス・イコンが、メーカーの威信をかけて世に問うた35mmカメラのブランドである。実際、CONTAXⅠ型は距離計の正確さ、1/1000秒の高速シャッターなどの点でライカをしのぐ性能を与えられたのである。
 こうしてライカと人気を二分したCONTAXであったが、第2次世界大戦後の東西ドイツの分断に大きく影響された。カールツァイス財団はほどなくして有数の企業として復活したが、東西に二分されたこともあって、ブランド名としてのCONTAXは使用されなくなり、カメラの製造そのものからも次第に撤退していった。
 (2005年にコシナと提携してZeiss IkonがMマウントレンズを使用するカメラとして製造されたことがあった。ツァイスのボディでライカのレンズが使えるということで、往年のファンたちはずいぶん熱狂したことだろう。「アサヒカメラ」2005/1が新ツァイスZMレンズとライカレンズの実写比較を特集していた。もちろん私は手を出さなかった。)
 日本では、最初にヤシカがカールツァイスと提携し、CONTAXブランドのカメラを世に出した。CONTAX RTSの発表は1975年である。つまりヤシカとCONTAXはマウントを共有していたことになり、ヤシカのカメラを買えばZeissのレンズが使えるというのに心が動いたことがある。
 1983年、ヤシカは京セラに吸収合併されたが、京セラは一眼レフではRTSⅢやAX、新たにGシリーズを発表するなど、独創的なアイデアと技術を投入した高級機路線で独自の地位を占めることになる。N1で測距点を対角5点に配置した説得力に、真剣にニコンからの乗り換えを考えたものだった。

c0252688_13162568.jpg
 さて、また前置きが長くなったが、CONTAX T2は京セラの高級コンパクトカメラTシリーズの2番目のカメラである。(TシリーズのTはTinyから。)
 第1号機のTが発売されたのが1984年とのことだが私の記憶にはない。どこかの中古店で実機を一度くらいは見たことがあったような気もするが、売っていてもおそらく高くて手を出すことはなかっただろう。写真で見るとポルシェのデザインというだけあってなかなか見事なスタイルである。前板折りたたみ式の沈胴式レンズ、ピント合わせはまだAFではなく二重像合致式である。
 T2が発売されたのが1990年。今度はパンフレットを持ちかえっているから興味を引かれたのは確かだろう。だが、12万円という価格は自分のものにしようという気を失わせしめるのに十分な額だったはずである(そして京セラの製品はなかなか値落ちしなかった)。それがどうして今私の手元にあるのか、たかがコンパクトカメラに大枚をはたく気になったのか全くわからない。
 長くサブカメラとしてはOLYMPUS XAを使っていたが、前回も書いたようにシャッターの感触やその描写力に不満がつのっていたせいもあるだろう。
 外装はチタン。チタンは軽量・高強度・耐衝撃性・耐腐食性にすぐれているが加工が難しい。T2の加工は精密だった。シャッターボタンに多結晶サファイア、ファインダーにもサファイアガラスを用い、絞り羽根は7枚、フィルム圧板は京セラらしくセラミック製という凝りようだった。所有することの喜びのようなものを私も求めたということだろうか。
 こうしてコレクションに加わったT2であったが、実は使い始めてしばらくはその真価がわからなかった。(一言でいえば「描写がやわらかい」だった。)真価を実感したのは初の(というか最初にして最後の)ヨーロッパ旅行に携えて行ったときである。ビデオカメラも持って行ったのでカメラの方は軽量にしたかったというのが動機だった。だが、旅行後にプリントを見て驚いた。まずは発色の良さ。決して硬調ではないのだが、気に入った何枚かを引き延ばしてみると、肉眼では気づかなかったような細かいところまでしっかり解像しているのだった。Zeiss恐るべし、だった。
 (単に解像度が高いと言うだけでなく、いうなれば空気感というところなのだろうか。カール・ツァイスはライセンスを与えているだけで、設計そのものは京セラなのだと分かっていても、やはり機器類でもその土地にあった機器が作られるのだろうと妙に納得したのを記憶している。)
 カメラの真価とはやはりレンズ性能であるのだろう。T2のレンズはT*ゾナー38mmF2.8(4群5枚)。「T*」はTスターと読み、「T」はトランスペアレンシィー(透過)でZeissが古くからコーティングレンズに付けていたマークであり、多層膜コーティングの進化とともに*を加えて「T*」と付けるようになった。

c0252688_13165208.jpg
        (119×66×33mm、295g)



 ※京セラも2005年にはカメラ事業から撤退した。デジタル化の波の中で多くのカメラメーカーが姿を消していった。京セラは1999年にはCONTAX 645を発売するなど最後まで気を吐いていたし、デジタルカメラにも乗り出していたのだが日進月歩する技術革新に追いつけなくなったのだろう。
 その代わりに電気機器メーカーがデジタルカメラの世界に参入してくるようになった。ソニーはZeissと提携しているがCONTAXブランドには手を付けていない。パナソニックはライカと提携しLUMIXを出している。ライカはミノルタとも提携していた時期があるのだが、これも栄枯盛衰のならいだろうか。なお、LUMIXは現在の私の愛用機である。
 ※IXY2000ISもチタン外装であった。私が入手した個体のつなぎ目にすき間があるのに気がついてメーカーに持ち込んだが、直らない(直せない)かも知れないと言われたことがある。チタンの加工の難しさを改めて実感した。キャノンの名誉のために書いておけば、IXY2000ISの描写はすばらく良かった。その後に使い始めたS90より良かったのではないだろうか。今は手放してしまったが、35mmではなく28mm相当始まりだったらもっと長く使っていたことだろう。4000の後継機にはずいぶん期待していたのだがついに出なかった。まあ、その代わりにS90が出たようなものだが。


by yassall | 2014-02-07 13:18 | カメラ談義 | Comments(0)

小林よしのり『大東亜論』

 書店に平積みになっているのを何度かはパスしたし、ブログで紹介するのだけは止めようと思っていたのだが書くことにした。
 まず、本を買う気になったのは頭山満を描いていることからだ。学生時代に昭和十年代文学をかじりかけた人間として、超国家主義や農本主義について多少とも文献にあたっていた。頭山は明治・大正・昭和にかけて暗躍した右翼の巨頭といわれた人物である。
 だが、アジア主義者としての頭山の器はいわゆる右翼の枠に収まりきれるものではなく、朝鮮独立運動家である金玉均を支援したり、孫文の亡命生活を助け中国革命を援助したりした。その人脈や交遊関係も幅広く、大杉栄や伊藤野枝も頭山を頼ったことがある。玄洋社の周辺には実に多彩な人物が集まり、夢野久作の父親である杉山茂丸(杉山三世代は本当に興味深い)は若き日に頭山に心服したことから歩みをともにするようになった。
 さて本書だが、筆者自身があとがきで「自称保守や右派が完全に忘れている武士の魂(エートス)を甦らせる論を描こうとしているが、それはもはや「論」を越えて「物語」の領域に入ってきている。/読めばただ面白いという物語になれば、それで成功である」と書いているとおり、「物語」として受け止めるべきものだろう。
 だから爆裂弾による大隈重信襲撃事件を引き起こした来島恒喜(決行後、直ちに自死)を英雄視したりなど、過激に走り過ぎていることは否めないし、右翼・左翼の定義も偏向しているとしかいいようがない。それでも参考文献が多数あげられているからそれなりの裏付けがあるのだろうが、様々なエピソードは面白い。
 まあ、内容の紹介はこれくらいにして、なぜブログでとりあげる気になったかというと、欄外のコメントを中心に「あれ、これまともじゃない?」という言説があちこちに散りばめられているからだ。

 
 「憲法は「国民が国家権力の暴走を防ぐ」ための法律である!それが近代憲法の常識だ。自民党の改憲案を見たら、国家権力が国民を徹底的に縛る条文ばかりになっている。こんなものはアホだ!」

 はたまた、

 「民主党が再生するためには脱原発を維持し、野田前首相が掲げたTPP参加を取り消せばいい。日本の伝統・文化とは何か?を学び直せばいい。それをやらない限り、野党の意味をなさない。」

 「櫻井よしこは11月4日付産経新聞でこう書いた。「原発事故で被災した福島・浜通りの人々約30人が9月、チェルノブイリを訪れた。そこで彼らが見たのは日本で報じられてきた放射能保線に苦しむ荒廃した町とは全く異なる、よみがえった町と子育てにいそしむ人々の姿だった。大嘘である!」
 「櫻井は驚くべきことに「スラブチッチ」という地名を隠して、「チェルノブイリ」を訪れたと書いている!「よみがえった町」というが、「スラブチッチ」は原発事故後に「移住」してきた人々の「人工都市」である。平然と嘘を書く神経はすごい!」

 とまあ、当たるところ敵なしの、全開の言いたい放題なのである。
 アジア主義の話にもどれば、最近の「週刊ポスト」では中国・韓国を非難していれば愛国者であるような顔をしている昨今の自称保守・右派を「大志がない!」と切って捨てている。
 こうして紹介はしても、決してすすめているわけではないのだが、「ゴーマニズム宣言」で過激な物言いで物議をかもしてきた小林よしのりが、なぜかまともに見えてきてしまうほど日本が危うくなっているということなのか。
 最後に、頭山、杉山、内田良平、左右の別はあるが松本冶一郎、そして小林よしのりは揃って福岡県の出身である。幕末から日本近代史にかけての福岡の位置についての研究があるなら知りたいと思った。戦中に大政翼賛会を脱退し、東条英機に反旗を翻した中野正剛についての本を読むことにした。
  ※
 この本とはまったく関係がないのだが、最近「いたつき(労き、病)」という言葉を初めて知った。薬草である「虎杖(イタドリ)」が「痛みを取る」ところから呼び名がついたことは知っていたのだが、そうしてみると「労り(イタワリ)」なんかも「痛みを分かつ」から来るのだろうか。長生きしても知らないことばかりである。

小林よしのり『大東亜論』小学館(2014)
〈参考〉
松本健一『竹内好「日本のアジア主義」精読」岩波現代文庫(2000)も面白かった。


by yassall | 2014-02-05 01:37 | | Comments(0)