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年越しと、年明けと

 10月末に出版された大江健三郎の『晩年様式集』を読み始めているのだがなかなか進まない。大江健三郎の本を手にするのが久しぶりなのに、どうやらこれまで発表された作品を前提として書かれているらしいことと、本人が「前口上として」で述べている通り、「いくつものスタイルの間を動いてのもの」であることが読みにくさに輪をかけているのだろう。
  私は読みかけの本を何年も放っておいたり、そのままにしておくのは平気な方なのだが、それでも大江健三郎がどのような言葉で文章を綴っていくのか気になっているのは、この本が「三・ 一一後」を意識しながら書かれているからだろう。
  3.11後、大江はそれまで書いていた長編小説に「興味を失った」といい、「これまでの仕方で本を読み続けることができなくなっている」という。
 そしてダンテの『神曲』から、「いま現在の、そこの状態について私らにはどんな物証もないし、知識もない。もし誰かが言葉によって告げてくれることがなければ。」に続く、つぎのような詩句を引用してみせる。

  「よっておぬしには了解できよう、未来の扉がとざされるやいなや、わしらの知識は、ことごとく死物となりはててしまうふことが。」(寿岳文章訳)

そのように指摘されてみれば、それは多くの人々が3.11後に直面した精神状況だったのではないだろうか。あたかも3.11の年に退職を迎え、第二の人生を歩み始めることになった私も同様だった。「今日」は「昨日」の延長ではない、「昨日」と同じように「明日」を迎えることは出来ない、と。
  もちろん、日々の暮らしはいやおうもなくやってくる。少なくとも自分の周囲では日常をとりもどしているかにみえる。だが、どこかで何かが切れたままになっている、自分と自分をとりまく世界がしっかりととらえられていない。
  誰かによって、「いま現在の、そこの状態」を言葉によって告げて欲しい、と願った。それは昨年、辺見庸の『瓦礫の中から言葉を』を読んだときにもした思いだった。3.11後を、どんな言葉で人々がそれを語るのか、また語り得るのか、私は私なりに注目せざるを得なかったのだ。
  辺見庸もまた、「言葉でなんとか語ろうとしても、いっかな語りえない感覚」について述べる。ああ、これだ、と思う。あったことをなかったことにすることは出来ない、あったことをきちんと受け止めるためには、それまでのありきたりの言葉を一回放棄しなくてはならない。そして、辺見庸はそれでも「<死者>ひとりびとりの沈黙にとどけるべき言葉」を発していかなくてはならないとし、あるいは原民喜の中に、石原吉郎の中に、それを探し求める。

  辺見庸を読んだとき、私は少し光がみえたと思えた。その光に大きな影を落としたのが昨年末に誕生した第二次安倍内閣である。
  3.11後の日本人の精神状況を分析して、多くの人々がうつ状態か躁状態のどちらかに陥っている、というのがあった。アベノミクスによる株価の上昇やオリンピック招致による高揚はまさに日本中を躁状態に持ち込もうとする策略であったような気がしてならない。福島原発の汚染水は「完全にブロックされている」という、世界中を驚かせた発言は、まさに象徴的であった。
  3.11を封じ込め(=ブロックし)、国民から切り離し、準戦時体制を作り上げることで「強い日本」を演出し、全能感で人々を麻痺させようとしている。
  それらは第一次安倍内閣でなしとげられなかった野望を急進的に総仕上げしようとしているというより、戦後社会の中で暗流となってどこかで生き続けてきた、挫折せる「大東亜共栄圏」の怨念が火を噴いているとしか思えないようですらあった。
  石原吉郎の「実戦経験のないことに強い劣等感を持つ少年兵」を引いて安倍首相を批判したのは山口二郎氏であったが、私には彼が小東条、小岸、小近衛にみえてならない。

  だが、3.11を切り離すことは、一度「何かから切れてしまった」私たちを放棄することに他ならない。どのように浮かれ、騒ぎ立てようと、どこかそらぞらしさ、「昨日」にも「明日」にもつながらない、浮遊する自分が発見されてしまうのではないだろうか。
  大江健三郎が「晩年」を痛切に意識しながら、「いま現在の、そこの状態」を言い当てる言葉を探す苦難に挑んでいるというなら、及ばずながら私もそのあとを追わなくてはならない。道ははるかにへだったっていようとも、である。
   ※
  そんなわけで、今年一年を振り返れば、年度当初に立てたようなまとまった読書も出来ず(これは私の読書力の不足が大きい)、思索の跡(たいしたものではないが)を整理することもかなわなかった。

  [国語・国文]でいうと、太宰治の「十二月八日」についてはどうしても書いておきたいと思っている。太平洋戦争の開戦に日本の作家たちがどう向きあったかを検証することは今日的な意義を失ってはいないと思う。太宰の「十二月八日」はいわれるような軍国主義への屈服、ましてや便乗ではないというのが私の読み方だ。
  教材論シリーズでは森鴎外「舞姫」が書けていない。3学年担当時の多忙さもあったが、鴎外については論じられるほど読んではいないという事情もある。だが、亀山郁夫がドストエフスキーを論じるのに、物語・自伝・象徴・歴史の四つの層を提起しているのをみて、「舞姫」もこれで論じられるのではないかというアイデアが浮かんできた。明治という時代にあって、日本と西洋を架けた恋愛物語は、もちろん鴎外自身の体験がベースになっており、自伝としての要素は抜き去ることが出来ない。ベルリン裏通りの古寺、サイゴンの港、積み重ねられた襁褓が象徴するものは大きいだろうし、太田豊太郎の挫折は近代日本成立期におかれた知識人の自我の分裂という歴史をみなければ評価はできまい。
  その昔に原民喜について書いたことがあり、これもアップしておきたいのだが、テキストになっていないのでずっとそのままになっている。

  と、多少大上段にかまえつつ宣言してしまうことで、自分への叱咤激励とする。日本をとりまく状況はますます深刻になっていくことは間違いないだろうから、相変わらずブツブツと何ごとかつぶやきながらになってしまうかも知れないが、私は私なりに「いま現在の、そこの状態」と向きあっていきたい。

  明日になれば「年明け」である。とやかくいいながらも「年越し」が出来る幸運を喜び、「年明け」によって新しい出発への期待を抱くというこの国の風習には素直にしたがいたい。だが、「年越し」があっての「年明け」であるのだから、それが過去と切れてしまうわけでもないし、置き去りにしてしまってよいわけでもないことは忘れないようにしたい。


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by yassall | 2013-12-31 13:59 | 雑感 | Comments(0)

寿三郎人形展

 暮れも押し迫った中でしたが辻村COLLECTION「寿三郎人形展」へ行って来ました。
 私は「新八犬伝」の世代ではありませんが、初めて目にしたジュサブロー人形の独特の世界には強いインパクトを感じました。
 天賦の才と磨き抜かれた技に接するのは幸福な時間です。ポスターやチラシに採用されたのは十二星座のうちのやぎ座。会場には十二星座すべてが展示されていました。自分の星座の人形を持ちかえりたく思いました。
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 1月5日まで、西武池袋店7階。
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by yassall | 2013-12-30 18:41 | 日誌 | Comments(2)

国会前で原発再稼働反対行動

 今日は「原発再稼働反対☆国会大包囲」行動(首都圏反原発連合主催)でした。参加者はのべ1万5千人と報道されました。
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 大勢の人が集まりました。
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 皆さん、意気軒昂でした。

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by yassall | 2013-12-22 23:45 | 日誌 | Comments(1)

遠州三山と小国神社の紅葉めぐり

 12月3日、これで今年の紅葉狩りも最後だろうと思いながら、遠州三山と小国神社の紅葉めぐりのツアーに参加してきた。
 実は、最初は他のツアーに申し込んでいたのだが、参加人数が足らず、催行中止となった。その代替案として提案されたのだが、こちらも参加人数が29名と少数であったため座席が独占できるなど、折からの晴天とも相まって思いがけなく快適なツアーとなった。

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 最初の訪問地は法多山尊永寺。高野山真言宗別格本山とある。本堂にたどりつくまでには長い道と階段を登らなければならない。
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  紅葉は盛りを過ぎたとの説明であったが、なかなかどうして見事なものである。
 
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 弁財天堂は本堂を下りた辺り。
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 道沿いに紅葉が続く。
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 つぎに訪れたのは可睡斎。風変わりな名であるが徳川家康にちなんだエピソードから来ているとのこと。曹洞宗の禅寺である。
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 こちらで昼食に精進料理をいただいた後、若いお坊さんに堂内を案内してもらう。写真撮影がフリーなのがうれしい。
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 三番目は油山寺。真言宗のお寺である。
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 本坊はふもとにあるのだが薬師本堂までは250段の階段を登らなければならない。

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 薬師本堂。油山寺は眼病に霊験があるとのこと。最近、目が心配なのでしっかり参拝してきた。 
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 以上が遠州三山なのであるが、ツアーの最後に小国神社を参拝する。
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 本殿を参拝した帰路は参道を外れると紅葉の見事な散策路がある。すでに日が傾きはじめ、写真を撮るには光量不足が危ぶまれるのだが、斜めからの光は光線条件として味わいがある。

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by yassall | 2013-12-17 00:05 | 風景 | Comments(2)

八重の桜

 NHK日曜大河ドラマ「八重の桜」がいよいよ最終盤を迎えつつある。肝心の八重が主人公になり切れいていないなど、地元福島でも必ずしも好評ではなかったようにも聞いているが、私としてはなかなかよく書けたドラマだと思ったし、思わず涙がこみ上げてくることも一再ならずあった。
 とはいえ、毎週欠かさず見ることが出来たわけでもなく、一昨日の日曜日の放映分もビデオで見た。
 先週の新島襄の死に続いて八重の兄・山本覚馬と松平容保の死が描かれる。そのことだけみれば、いかにもドラマとしては山場を過ぎ、エピローグに向かって坦々と進行しているようにみえる。
 だが、オープニングに明治23年発布の「教育勅語」を配し、「教育に名を借りて国民をしばるようなことがあってはならない」と山本覚馬に語らせる。本当に山本覚馬がそのように語ったのかどうかは知らないが、特定秘密保護法案では批判的立場に立ち切れなかったNHKが、ドラマの場とはいえよくぞ踏み込んだと感心させられた。
 「八重の桜」は被災地福島の応援という意義づけもされようが、主題的には日本近代の相対化であり、薩長土肥(官軍)側からのみ見たのではない歴史の再検証である。ドラマでは山本覚馬に、「薩長にも、会津にもそれぞれの義があった」と語らせている。一見するとさも優等生的で、あたりさわりのない結論の出し方のようにも思われるが、対立をどう乗り越えるかに対する問題提起でもあるように解釈した。
 会津戦争についても「戦は避けられたはずだ」と語らせる。それは歴史のエネルギーという混沌の前に置いてみると、いかにも難問であるが、人間の叡智に投げかけられた重い宿題でもあるだろう。
 そして、「だが、また戦は始まるだろう」のことば通り、時代は日清戦争に向かって風雲急を告げていく。あたかも、緊張高まる今日の世界情勢のアナロジーであるかのごとくに。
 一昨日の回のタイトルは「再び戦を学ばず」。当時の世論はむしろ主戦論に傾いていた。そんな中、会津戦争では銃をとって戦った八重は、今度は赤十字の看護婦として戦地に向かおうというのである。次回が最終回。これも見逃せない。

 「死んでいった者はどこへも行きはしない。みな、あなたの後ろであなたを支えている」(八重に語りかける新島襄のせりふ)…う~ん。こんなせりふで目の奥であふれ出そうになるものがあるようになったのは歳のせいなのだろうか…。


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by yassall | 2013-12-10 01:29 | 雑感 | Comments(2)

紅葉の森林公園

 旧知のK氏に誘われ、J氏と三人で森林公園へ紅葉狩りとしゃれこんだのは11月19日である。ようやく写真の整理ができたので何枚かアップしてみる。
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 森林公園というとこどもの遠足というイメージだが、広大な敷地に武蔵野の原生林を残しているのでなかなかに侮れないのである。
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 今年は夏の暑さで樹が弱ってしまったのではとかいわれ、どこの紅葉も色づきがもうひとつだと誰もがいうが、比べてみると森林公園の紅葉が鮮やかであったかも知れない。
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 紅葉がきれいに染まるかどうかは寒暖差であるという。やはり。日中日差しをたっぷり浴びた側の葉はきれいに紅葉している。
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 夕闇がせまる頃になるとライトアップがはじまる。客も増え始めるのだが、入れ替わりにわれわれは東松山の街へ繰り出すのである。

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by yassall | 2013-12-09 11:29 | 散歩 | Comments(1)

川越・宵の市

 川越で宵の市が開かれているといううわさを聞き、用事のついでに一番街まで足をのばしてきた。
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 シャッタースピード1/2秒。完全に手ぶれしている。だが、夜の時の鐘を撮るのは初めてなのだが、なかなかよい雰囲気である。三脚を持参し、もう少し大型のカメラで撮り直してみたいものだ。
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 駐車場を利用して屋台や出店が出ている。まだまだ小規模。地元でもそれほど広く認知されるにはいたっていないのだろう。
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 宵の市の日は7時頃まで開いている店舗も多いとのこと。写真は備長炭を使った彫刻を売る店である。

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by yassall | 2013-12-08 18:31 | 散歩 | Comments(1)

dropboxによる写真の公開について

 dropboxによる写真の公開をしています。

1.記事中のURLをクリックすると写真の一覧(サムネイル)が表示されます。
 つぎに、写真の1枚をクリックするとやや大きめに表示され、クリックするたびに次の写真が表示されます。(この段階でも画像はあまり鮮明ではありません。)

2.写真を右クリックするとオリジナル画像を表示できたり、ダウンロードできたりします。
 このままだとパソコンのモニターでは表示しきれないかも知れません。ダウンロードした後ならプレビューや各種の画像ソフトで見られるようになります。

3.ダウンロードには一定の時間がかかります。dropboxをインストールしている人で、メールアドレスを教えていただける方には、直接フォルダを[共有]のかたちでお送りすることが出来ます。(通知が送られた後に[承認]が必要です。)

4.無料サービスの容量はおよそ2Gです。写真のアップの頻度にもよりますが、4ヶ月から半年くらいはdropboxに置いておけると思います。新しい写真をアップするときは以前のフォルダを削除してしまう場合がありますので、必要な方はコピーして保存して下さい。
 ダウンロードしてプリントする等も、個人で楽しんでいただく範囲ではフリーという方針でいこうと思っています。(他に転載するときなどは許可を求めていただくことは常識として。)


 とはいえ、まだ始めたばかりですので、こちらの意図しているように機能してくれるかどうか未知数なところもあります。パソコンとタブレットでも表示等に違いがあるようです。
 うまく表示されないとか、使い勝手が悪いとか、期待した解像度が得られないとか、もしくは感想などがありましたらどうぞお聞かせ下さい。
 また、他にもっとよい公開方法があるかも知れません。今後とも研究してみたいと思います。
 

 


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by yassall | 2013-12-04 10:29 | お知らせ | Comments(0)

つい一言 2013.12

 自民党・石破幹事長が自身のブログで「お詫びと訂正」を掲載した。それは当然だろうと思いながら本文を読んでみると、何も「訂正」されていないことに二度驚かされる結果となった。 
 そのブログには、「一般の人々に畏怖の念を与え、市民の平穏を妨げるような大音量で自己の主張を述べるような手法は、本来あるべき民主主義とは相容れないものであるように思います。」とある。
 選挙のときに立候補者が駅前に宣伝カーをつけ大音量で演説をする。「平穏」を妨げられたと感じる市民はいるかも知れない。だが、それを「民主主義と相容れないもの」であると誰が考えるのだろうか。
 だいたい、「民主主義」とは何か分かっているのだろうか。1989年の東欧革命の際、多くの市民が広場へ、街頭へ、官邸前へとデモ行進をした。世界はそれを「東欧の民主化」と呼んだのではないだろうか。
 ジョン・ロックから始まる抵抗権・革命権は、人民により信託された政府が権力を不当に行使するならば、人民にはこれに抵抗する権利があるというものだ。アメリカ独立宣言だってこの抵抗権を思想的な基盤にしている。
 どうやら「公益と公の秩序」(自民党改憲草案)とはまだいえないので、「公共の福祉」(「市民の平穏」)を持ち出して言論を押さえ込みたいのだろうが、かえって隠された本音が透けて見えただけだ。
 見識もなく、思慮も足らず、恥を知ることもない人間が権力の中枢にあるというのは恐ろしいことだ。

追記:新大久保でのヘイトスピーチデモが問題になったとき、この人は「一般の人々に畏怖の念を与え、市民の平穏を妨げる」などという言い方をしただろうか? 結局、自らが掲げた政策に合致しない意見を排除したいだけなのだ。
 そう書いてみて、もしかしたら国会前での抗議行動もこの人には「他人ごと」としか思えていないのではないか、と思えてきた。そうなるとますます「民主主義」からは遠くなる。(12月2日)

 福島原発事故直後の2011年3月、経産省が「原子力の再生」や「原発輸出の再構築」をめざす内部文書をつくっていたことがわかったとのことだ。(朝日デジタル)
 朝日新聞が入手した文書「原子力エネルギー再復興へ向けて」は3月下旬の日付で、情報管理が必要な「機密」扱いとなっていたという。
 3月末といえば、収拾がつかないどころか、事故はまだ進行中という段階だった。その最中に原発推進政策の維持を図ろうとしていたということになる。
 その時点で国民に知られたら大変だということで「機密」扱いになったのだろう。「機密」や「特定秘密」が「国益」のためだ、などというのが大嘘だというのがここでも明らかなのだ。(「国益」が国民の生命と自由を守るということであれば。)

 では誰の利益のためか?
 原子力産業協会の主な会員企業と電力会社のグループ企業が、2012年に3億円以上を自民党の政治資金団体に献金していることが、総務省の政治資金収支報告書で明らかになったそうだ。電力9社の役員による「個人献金」は前年(2011)の3倍になったともある。(12月3日)

 昨日、特定秘密保護法案を審議している参院特別委員会で、今日大宮区で開かれる公聴会の開催を強行議決した。衆院では公聴会が開かれた翌日に委員会で強行採決された。いよいよ与党は"不退転"の決意を固めたようだ。
 衆院での強行採決前に開かれた福島での公聴会では全員が反対意見を述べた。昨日の参考人質疑では、与党推薦の元全国地方銀行協会会長でさえ「懸念」と「慎重審議」の意見を述べた。
 衆院での採決以後も「学者の会」や「映画人の会」が結成されるなど反対の世論は広がるばかりであり、国連人権高等弁務官が「情報アクセスと表現の自由の権利を適切に守る措置のないまま法制化を急ぐべきではない」との懸念を述べるなど、国外でも批判の声が高まっている。
 これらを押し切ってまで、この法案を成立させようという"ねらい"は何だろう? アメリカと情報を共有するため、というが、すでに米軍と自衛隊は合同演習をするまでに緊密な関係になっているし、アメリカの多くの高官が日米で情報は共有されていると証言している(※)。秘密にしたいことはこれまでも秘密にしてきたし、場合によっては密約も交わしてきた(※)。
 特定秘密保護法案は1941年5月に施行された国防保安法と中味がそっくりだという。1941年12月に日本は太平洋戦争に突入した。特定秘密保護法の目的が「戦争が出来る国づくり」というのは誇大ではない。

※中国が定めた防衛識別圏に対する日米の対応は微妙に食い違っているように思える。来日した米副大統領と「緊密に連携」することを確認したというが、米側の本音は日中が軍事衝突することを最も懸念しているというところだろう。今日の米副大統領と習近平氏との会談でどのようなことがやりとりされるのだろう。もしかして何らかの密約がなされたとして、その"情報"は日本にも伝えられるだろうか?
※アメリカの公文書館で公開となった文書が発見された後も「密約はなかった」と開き直っているのが日本政府である。様々な文書や議事録の公開を求めても「存在しない」、事実を突きつけられても「承知していない」、過ちを指摘されても「記憶にない」でごまかして来た。国民を端から侮っているのだ。(12月4日)

 特定秘密保護法案について、与党は今日の参院特別委員会で可決させる方針を固めたとのことだ。明日の会期末までに確実に成立させるため、本日中に本会議を通過させる案も浮上しているらしい。 「秘密保護法」廃案へ!実行委員会は明日、日比谷野音で12.6大集会を開くそうだ(18:30~)。今日も15:00から21:00まで国会正門前で抗議行動をおこなうとのこと。たぶん私は今日はそこにいる。午後だけになってしまうかも知れないが、今日が正念場というなら仕事を持っている人が集まれない時間帯を埋めるだけでもいいと思うので。(12月5日)

 仲井真弘多沖縄県知事が昨日の県議会で、普天間基地の「県外移設」「早期返還」を求めていくことを再表明した。
 石破幹事長の恫喝のもと、沖縄選出の自民党5議員が辺野古への移設を容認し、県連もこれを追認したのち、知事がどのように態度を決定するのか注目されてきた。
 仲井真氏は、「県外移設」は公約であり、公約は県民との約束であるから、という。力尽くでの右派攻撃がこれだけ強まっている中、日本にも人物がいたのだった。
  ※
 ひるがえって、自民党は公約にもなかった「特定秘密保護法案」の成立に血道を上げ、世界中に宣言した福島原発の汚染水問題の解決はあいかわらず東電まかせだ。
 今日の自民党に対する支持は経済対策への期待からだろう。そこで、お歳暮の価格帯が1500円ほどアップしたとか、忘年会の予算が2000円ほど上がったとか、景気回復を印象づけるようなイメージ戦略を盛んに展開している。
 だが、そんな目先のことで国民を欺そうとしても限界がある。来年の春闘では賃上げが期待できるなどといっているが消費税も上がるのだ。
 だからこそ、国民の目と耳をふさぎ、物言うことを押し殺そうという「特定秘密保護法」なのだろうが、国民がそれほど愚かであるとか、唯々諾々と追従するばかりだろうとか、そのように侮ってはいけないのだ。(12月6日)
 ※今日はBSでA.ワイダの「カティンの森」が放映されますね。

  石原莞爾に「世界最終戦争論」がある。途中は省略するが、東亜連盟(東洋王道)とアメリカ合衆国(西洋覇道)との最終決戦ののち、世界が統一されるという石原を特徴づける思想である。
 人類はときどき「最終戦争」の誘惑にとらわれるらしく、石原の思想は「人類最後の到達点は絶対平和に在り」という田中智学の国柱会・日蓮主義に影響を受け、「人類の前史終わらんとす」をめざすところから来ているが、キリスト教でも「千年王国」の後に「最終戦争」(ハルマゲドン)があり、その後「最後の審判」が下るという考え方がある。何でも、第1次世界大戦が「最終戦争」だとする考えもあったそうだ。
 私は、柳条湖事件を引き起した満州事変の首謀者である石原莞爾を認めているわけではない。だが、その思想の源流、論理、背景が何であったか、危険思想であるというならその陥穽はどこにあったのかを追究することは、決して意味のないことではないと考えている。


 さて、何でこんなことを急に思い出したかというと、もちろん昨日の「特定秘密法案」の強行採決があってのことである。
 保阪正康氏は「特定秘密保護法が成立した瞬間に、われわれの社会は別の世界になると考えた方がいい」とまで発言している(「東京新聞」12.6)。私も、第1次安倍政権時の「教育基本法」改悪に続く日本の平和主義・民主主義の危機ととらえたし、おかげで我が蟷螂の斧"つい一言"も9月ごろからほとんど毎日になってしまった。
 残念ながら法案は成立してしまったが、日に日に反対の世論は高まっていったし、一部野党の取り込みにも成功したとはいえず、その強引な国会運営の横暴ぶりには政治的に無関心だった人々にも強い懸念を与えるところとなった。
 そして、何より強調したいのはこれが「最終」決着ではないということである。まず、安倍政権側がこれが「最終」とは考えていない。以前に本丸は「憲法改悪」と書いたが、解釈改憲によるにせよ、明文改憲によるにせよ、集団的自衛権を国民的な合意とし、実際に自衛隊(そのときの名称がどうなっているのかは不明だが)を海外派兵するまでの道のりはまだまだ遠いはずだ。

 6日、経産省は「エネルギー基本計画」の原案を基本政策分科会に提出した。原発を「重要なベース電源」と位置づけ、「原発ゼロ」目標を投げ捨てる内容である。
 原発関連では、大飯原発の再稼働を容認した西川福井県知事が、国民保護実働訓練を実施している立場から「軍事やテロにかかわる情報が地方自治体に届かなくなる」ことでいいのかとの質問を受け、秘密保護法案については「十分に慎重に審議する必要がある」と県議会で表明している(4日)。

 特定秘密保護法による情報保全・言論統制、原発再稼働・輸出、強靱な国土づくりという名の乱開発、雇用形態の改変・破壊、福祉の切り下げ・切り捨てなどの政策を押し進めていけば、必ず国民の生活と安全との矛盾を増大させる。目くらましの言い訳やごまかしが通用しなくなるときがやってくる。

 石原莞爾の「最終戦争」の対概念は「持久戦争」である。これからも長い長い「持久戦」が続くのだろう。(12月7日)

(今日はお休みの予定でしたが…)
 教えてくれる人がいたのだが、産経新聞が昨年のA高校台湾修学旅行の事前学習が「自虐史観」教育だと難癖をつけているらしい。NHKの特集番組を視聴し、過去の歴史を学ぶことが問題視されるとは、この先どんな時代がやってくるのか空恐ろしい。
 それにしても、台湾を植民地支配していたというのは紛れもない歴史の事実である。事実を教えることが「自虐史観」教育だとしたら、その反対はなんだろうか? 事実を隠蔽し、美化された過去のみを教えることが歴史教育の正しいあり方なのだろうか?
 歴史から何を学び、未来に向かってどう進むのかを考えさせることが大切なのだと、私は思うのだ。(12月8日)
(続報)
 ネットで産経新聞の記事を見ることが出来た。その記事には次のようにあるが、どこが問題なのか首をかしげてしまう。

 担当教諭は「未来に過ちを繰り返さないためにも、負の側面を持つ歴史からも学ぶことはたくさんある」などと説明。参考資料として「台湾が親日なのは戦前の日本統治に好意を持っているからではなく、それを反省し、平和主義を掲げるようになった日本への信頼からきている」などとした文章を配布した。

 さらに、こんな記事を得意げに、かつ恫喝まじりに掲載している。

 一連の経緯を県議会の一部会派も把握し、問題視している。「親日の人が多い台湾への修学旅行すら自虐史観教育に利用している」などとして、開会中の今議会で教育委員会をただす構えだ。

 「一部会派」なんて秘密めかして書かないで欲しいね。学校名の方は無配慮にも明記しているくせに。(12月9日)

 特定秘密保護法案の国会審議の最中は我ながら自分がヒートアップしているのが分かった。そこで、少し頭をクールダウンさせなければいけないと思ったのだが、どうも黙っていてはいけないようなことが次々に起こる。
 先日、「エネルギー基本計画」原案が経産省の委員会に提出されたことを話題にしたが、原案には「エネルギーに関する基本的な知識を教育プログラムの一環として取り上げることは、大きな効果が得られる」とされ、どうやら学校教育の現場に「エネルギー教育」が押しつけられることになりそうなのだ。
 「原発はクリーンエネルギー」だとか、「原発は安全」だとか、「日本の安全技術は世界最高水準」だとか、学校で教えられるようになったら、と考えると暗澹とした気持ちになってくる。
 教えられる子どもたちが迎える未来も心配だが、教えさせられる教師にとっても大きなストレスだろう。…そうか、それで学校現場から抵抗の芽を摘み取ってしまえとか、「日本人としての誇りを取り戻す教育」をとか言っているのか…。
(※国会閉会の翌日の安倍首相の記者会見も気になる。「これで静かになった」とか「秘密はかえって透明性が増す」などといっている。「説明が不足していた」などと若干の反省のそぶりもみせながら、何とか世論の冷却をはかりたいという意図がみえみえだ。白を黒といいくるめるのは政治家の常として、「静かになった(静かにさせられた)」はまだまだ国民を侮っている。ただ国民の側も、もういちど冷静に問題点を整理し、特定秘密保護法が日常生活の中にどのように影響をあらわしてくるか検証できるようにしておかなくてはならないだろう。)(12月10日)

 「特定秘密保護法」の後に「共謀罪」が急浮上! 17日にも閣議決定される「国家安全保障戦略」には「武器輸出三原則」の見直しを明記! さらに社会的基盤の強化の項目に「わが国と郷土を愛する心を養う」と表記するそうだ。いよいよ「愛国心」の押しつけは教育行政にとどまらず、国民生活に網をかけようとするのか。
 それにしても「愛国心」が問題になるたびに思うのだ。原発輸出をふくめ、紛争当事国への武器の輸出を緩和しようとすることで、世界から「死の商人」と呼ばれるようになることを憂えることは日本を愛する心にもとることなのだろうか、と。(12月13日)

 今後、「武器輸出」と「愛国心」とが問題になりそうなので少し考えてみる。
 まず「愛国心」=「国益」としてみる。外国で戦争や内戦が起こったとする。一方が反日で一方が親日的な国家あるいは勢力だったとき、親日的な側に「武器輸出」を行えば、自国の軍隊を派兵することなく、つまり自国民の血を流すことなく、自国に有利なように世界地図を書きかえることが出来る。これは「国益」か?
 武器はたいへん高価な「商品」であり、つまりは利幅が大きい。世界中に売りさばいて貿易黒字を増やす。前者が政治的「国益」だとすれば、後者は経済的「国益」か?
 アフリカの内戦で使用されている武器は旧ソ連製が多いといわれるが、現在はアメリカ、フランス、中国(国連の常任理事国!)などから貸与されたり輸入されたりしている。
 だが、こんなことで日本が「大国」の仲間入りをする必要はまったくないと思うのだ。他国民の血を流すことで得られるような「№1」であるくらいなら二等国と呼ばれた方がよほどましだ。(12月14日)

 住友重機械工業が防衛省に納入している機関銃の試験データが改ざんされていたことがわかったそうだ。(朝日デジタル12.14)
 防衛装備品の調達では、防衛省が製造企業に発注する際に要求性能を定めている。機関銃の場合、必要な発射速度や一定距離の目標への命中率などの項目がある。関係者によると、同社は納入前の性能確認試験で、要求性能を満たしていないのに基準に達しているように装っていたという。
 改ざんは少なくとも10年以上に及んでいたとみられ、納入された疑いのある機関銃は1千丁を超える可能性がある。(要旨)……

 おいおい、こんなんで「武器輸出」を始めようようというんじゃないだろうな? これだから「世界最高の安全水準」なんてものが当てにならないのだ。う~ん、これなんか本当は「秘密」にしたいんだろうなあ…。
 えっ、「秘密を報道することによって多くの生命が失われる」(石破幹事長)だって? それは話が逆だろう! こんな欠陥「武器」(商品)を持たされて戦場にやられる兵士の身にもなってみろ、といいたい。(12月15日)

 特定秘密保護法では「安倍政権に肩入れしているのではないか?」とされるほど、他局と比べても弱腰だったNHKだが、経営委員が安倍首相の息のかかったメンバーにすげ替えられた効果が早くも現れているとの指摘がある。
 どうやらそれでも物足りないらしく、「NHKは左翼偏向」「反日的」などの批判が続いている。日本維新の会は12月の衆院総務委員会で「NHKは偏向放送を繰り返してきた」と質問したそうだ。こういうのを「嵩にかかる」というのである。(埼玉県議会でも同じようなことが起こっている。こういうのは「尻馬に乗る」というのである。)

 戦前、治安維持法の制定にあたって、政府は「共産主義者(だけ)をとりしまるため」として議会を説得したという。しかし、その治安維持法の猛威はやがて自由主義者はおろか、戦争末期には戦時イデオローグとして翼賛的であった京都学派のメンバーにまで及んだのである。「反共は戦争への一里塚」といわれる所以である。

 いわば戦後民主教育の「イチジクの葉」であった任命制教育委員会ですら首長の権限下におこうとし、ときに政府批判はしても肝心なときは「中立」を装ってきたNHKですら政府の広報局化しようとしている昨今の動向は、いよいよ極限に近づいて来た感がある。一国の進路を破滅に追いやる道に踏み込もうとすることでしかないと思われてならないのである。(12月16日)

 自民党の圧勝に終わった衆院選挙は昨年の12月16日であった。それから1年後の12月17日、政府は「国家安全保障戦略」という耳慣れない防衛指針を閣議決定した。
 「国際協調主義」にもとづく「積極的平和主義」だとか、中国を「懸念事項」(仮想敵国として島嶼奪還能力の確立etc)としながら「戦略的互恵関係」を築くだとか、あいかわらず「くっきりと透明」からほど遠い文言ながら、もうここまで踏み込んできたかの感が強い。
 「積極的平和主義」による「国際社会の平和と安定」への「寄与」というのは「専守防衛」の歯止めを棚上げするということだろうし、「武器輸出見直し」は世界の紛争地域へ介入していくことの宣言だろう。そのために「必要最小限」ではなく「必要にして十分な」戦力を保持するという。
 それにしても、この人はどうして国民の心の中にまで入り込もうとするのだろう。「わが国と郷土を愛する心を養う」ことがその社会的基盤の整備というところまでくれば「国家総動員法」まであと一歩だ。
 戦前のように隣組でも組織して、祝日に日の丸を掲げない家は「非国民だ」とでも呼ばせるつもりなのだろうか?(12月17日)

 経団連、日本商工会議所、経済同友会の三団体が「国家安全保障戦略」を評価するコメントを出している。
 経団連米倉会長は「5年間の防衛予算が約25兆円になったことを歓迎したい」とし、防衛関連産業への波及効果に期待を示したという。
 政財官軍の複合体によって一国の命運が決定されてしまう時代が到来しつつある。だが、それは本来の民主主義とは遠く隔たっていくのではないだろうか? 安倍首相は「国民の安全を守るため」と説明したが、果たしてそれは本当だろうか?

 さて、経団連の米倉会長といえば、東京オリンピックの招致が決まったとき、「開会までにリニア新幹線が開通するとうれしい」と発言した人だが、安倍首相はその東京オリンピックでの治安を理由に「共謀罪」を持ち出そうとしている。
 オリンピックを政治や金儲けの道具に利用しようというのは、東京オリンピックの招致を心から喜んだ人々に対する冒瀆ではないだろうか?(12月18日)

『別冊正論』(産経新聞社)が「亡国の巨大メディアを撃つ!」と題してNHK批判を総特集している。
 NHKが「左翼偏向」しているというのだが、執筆陣をみると右派の論客ばかりで、どうみてもこちらの方が「偏向」しているようにしか思えない。
 埼玉県議会で問題視された台湾修学旅行の事前指導で使われたというNHKの特集番組「JAPANデビュー」裁判についてもけっこうなページを割いて取り上げている。
 「ああ、これのことか!」と、私などは初めてそのような裁判があったのを知ったのだが、youtubeで問題とされた箇所などを視聴したりするにつけ、鬼の首でも取ったかのようなのも品性に欠けると感じた。確かに台湾の先住民族に対する配慮が欠けていたと思うし、恣意的な編集に問題があったことは事実だろう。しかし、日本が台湾を植民地支配していたのは事実であるし、それを慈善事業でもしていたかのように描き出すのもまた歴史の捏造なのである。
 (埼玉県議会での話にもどれば、学校名を名指しし、あまつさえ生徒の書いた感想文の提出まで強要した議員質問のあり方のほうがよほど常軌を逸している。)
 論調はかなり過激で執拗である。なぜこのようにNHK批判がされるのかを考えてみる。以前にも書いたが、マスコミとりわけNHKのような巨大メディアは世論形成に大きな力を持っている。そのNHKの報道を牽制したい、あわよくば政府の広報局として支配下におきたい、という企みによるものではないか?
 アベノミクスに先がけて日銀総裁の首をすげかえ、集団的自衛権を容認するような解釈改憲の地ならしのために内閣法制局長官を交代させ、NHKには肝いりの経営委員を送り込んだ。それだけでは不十分とみたか、NHK会長も年内には新しい会長に代わるらしい。(※と書いたところで籾井という人が新しい会長に指名されたというニュースが入ってきた。籾井という人がどんな人物かは知らない。)これらが何のための布石なのかを考えると空恐ろしさを禁じ得ない。(12月19日)

 「見直し」とはもちろん「これまでの見方を改める」という意味には違いないが、少なくとも「もう一度見る」という限りは「再検討」という意味合いがあるものと考えてきた。
 政府が「国家安全保障戦略」を閣議決定し、「武器輸出見直し」を発表したのが12月17日のことであった。それが、今朝の朝刊によれば、国連スーダン派遣団に参加している韓国軍に対して小銃弾1万発を提供することを閣議決定したとのことだ。武器輸出三原則は生きているはずなのだが、「緊急の必要性・人道性が極めて高い」(何のことか?)として例外扱いなのだそうだ。
 「見直す(=検討する)」といったそばから「なし崩し」が始まっている。「特定秘密保護法」における「国民の知る権利」や、解釈改憲による「集団的自衛権」の行使にいたる行く末も推して知るべしというところだろうか。
 日本が提供した小銃弾で何人の人々が傷ついたり死んでいったりするのだろうか。日本が銃弾を提供したことを韓国の人々は本心から喜ぶのだろうか。安倍首相を支持する層に多いという〈嫌韓〉を標榜してはばからない人々は、日本製の銃弾を持たされた韓国軍が戦闘に巻き込まれるかも知れない事態をどう感じているのだろうか。(12月24日)

 韓国軍への小銃弾1万発の提供のニュースをみているうちに、あることが想像されてならなくなった。
 日本の自衛隊から銃弾を提供されたことは韓国内でも物議を醸しているらしい。考えてみればこれだけ反日ムードが高まる中、その日本から銃弾を借用しなければならないような装備不備のままPKO活動に参加したとあれば、韓国の国民としては国際的に赤恥をかいたことにもなってしまう。韓国民としては許しがたいことであろう。
 そこでスポークスマンが述べていたのは、借用は国連の要請であり、あくまで予備としてであるということだった。
 「国連の要請?」……そこで突然頭の中をよぎったのはアメリカの影である。日米韓の軍事同盟はアメリカの極東戦略の要である。もしかして小銃弾の提供は、昨今の日韓関係の悪化を憂慮したアメリカによる「同盟強化」アピールの演出だったのではないか?
 韓国のスポークスマンはアメリカから「領土問題と安全保障問題を切り離すように」と釘を刺されていることを告白していた。
 いくら何でも「武器輸出三原則の見直し」を言明してからが急すぎる。「原発再稼働」や「原発輸出」もアメリカのメーカーが持っている特許がらみで推進に走っているという見方もある。アメリカの要請があれば、国内的な手続きも議論も省略し、世論を踏みにじってでもYesといわざるを得ない弱点を日本の政府はかかえている。戦後史の闇は深い。
 新聞の広告を見ていたら、ある雑誌で「このままでは日本は中国の従属国になる」という扇動的な見出しがみえた。おそらくは政府の「国家安全保障戦略」の支持に回ろうという記事なのだろう。中国が困った国なのは確かなのだが、日本が従属国にされるというのは飛躍が過ぎる。そんな心配をする前にアメリカへの従属の根を断ち切ることの方が先ではないか。真に対等平等な日米関係を築かない限り、米軍基地の問題だって解決できるはずがない。
(補足)
 小銃弾提供の決定は創設したての国家安全保障会議(NSC)でなされたとのことだ。なんだかNSC創設を急いだ理由まで明らかになったようだ。「緊急性」の名の下に、手続きも議論もすっ飛ばし、過去の政府見解さえ無視する強権体制づくりの予行演習だったのではないのか?
 「決められる政治」の正体見たりだし、これでは密かに戒厳令を敷くためのマニュアルさえ作成されているのではないかと勘ぐってしまう。
 ※昨夜のニュースでは聞き逃していたのだが、「韓国のスポークスマン」と伝えたのは韓国国防省の報道官であったことが今朝の朝刊でわかりました。(12月25日)

 安倍首相の靖国参拝でどこかへ霧消してしまいそうな小銃弾1万発供与問題だが、ますます謎めいてきたの感がある。
 一人の兵士が携行する弾丸は通常180から200発で、これは国際的にも標準であるそうだ。それ以上になると重すぎて戦闘能力が低下し、それ以下だと現代の自動化された小銃ではたちまち撃ちつくしてしまうというところなのだろう。
 としてみると、1万発という量は兵士50人が一度に携行する数ということになる。韓国はそれすらも不足するような装備不備のまま自国の兵士を遠くアフリカまで派遣したのだろうか。
 日本の陸上自衛隊と合致したという5.56mm弾は米・NATO軍と同じ規格のもので、実は韓国は日本よりも早くから採用している。日本がPKOに参加するようになる以前から韓国は海外派兵の経験がある。その韓国が派兵先で「緊急」に弾丸不足になるというのがどうしても腑に落ちない。

 さて、靖国問題である。ここで問題の所在がどこにあるのかを復習することはしない。だが、靖国神社は国の施設ではなく、一宗教法人であるということだけをとっても、「首相として参拝」することがいかに不適切であるか自明である。憲法が定めた政教分離の原則に反するだけでなく、そもそも首相がどのように理由づけをしようと、国家として戦死者を追悼したことにはならない。


 それにしても、このように矢継ぎ早に放たれる「安倍色」(アベカラー)の矢はおごりから来るものなのだろうか、それとも焦りなのだろうか。
 私の「小銃弾1万発供与アメリカ演出説」は、その後どうも確証となるような証言などは出てこない。だが、米オバマ政権は、安倍首相が靖国神社に参拝したことについて、「日本は大切な同盟国であり友好国だが、日本の指導者が近隣諸国との関係を悪化させるような行動を取ったことに、米国政府は失望している」との声明を発表したとのことだ。(12月27日)
 (補足:逆説的な表現をしたが、戦後一宗教法人となった靖国神社に一国の「首相」として参拝するということは、国民を戦死させたことを「英霊」とすることで責任回避しようした戦前社会に復帰しようということである。だから批判を浴びているのだ。だいたい、日本の神道の歴史からみても靖国神社の位置は特異だ。そのことは別の機会に論じる。)

 12月5日の県議会では普天間基地の「県外移設」「早期返還」を求めていくことを再表明した仲井真弘多知事であったが、昨日辺野古の埋め立て申請を承認した。
 外堀を埋められた感はあっただろうし、引き替えになるものを国から最大限に引き出す努力をしようとしたということは出来るかも知れない。
 ただ、埋め立て申請は承認しても「県外移設」の方針は変えない、だから公約違反ではないというのはいかにも苦しいし、国際情勢が緊迫する中で「沖縄は一定の役割を果たさなければならない」という抑止論に立った時点で同じ土俵に乗ってしまったという感はぬぐえない。
 年内には答を出したいとして来たことも、名護市長選の前にという政府・自民党(沖縄公明党は承認に反対した)の要望に添ったものになってしまった。
 だが、私は仲井真氏を責めようとは思わない。もともと容認派であった仲井真氏が前回の選挙で「県外移設」派に転じたのは世論の力であった。その仲井真氏に再転向を迫ったのも、(内閣支持率が依然として高止まりしているのも世論と考えれば)、世論の力であり、その世論形成に私もまた国民の一人として責任がないとはいえないのだから。期待はしていたものの、人物としての力にのみ頼ろうとするのは間違いであろうから。
 それよりも許しがたいのは、「沖縄の負担軽減のために、出来ることはすべてやる」といいのけた安倍首相である。自分に「出来ること」が何かも明言し得ず、実際は「自分がやりたいことは、すべてやる」ではないか。(12月28日)







 


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by yassall | 2013-12-01 11:20 | つい一言 | Comments(1)