<   2013年 08月 ( 10 )   > この月の画像一覧

北園克衛「夜の要素」

 詩を意識して読みはじめた最初の一撃となったのは萩原朔太郎であった。こんなことが書けるのか、という表現の可能性に対する驚きであったように思う。もしかすると北園克衛はそれに続いていたかも知れない。今度は、こんな書き方ができるのか、という驚きとして。
 今、書き方といういいかたをしたが、野村喜和夫の『現代詩作マニュアル』(思潮社)を読み返していたら、詩学キーワードの章で、エクリチュールについて次のような説明がなされていた。この詩人の作品の解説にそのままなり得るように思われたので引用する。

 「文字が産む差異や空間化といったグラフィックな物質性」

 昭和初期のモダニズム詩はまさにエクリチュールの変革の運動ではあったが、大半は少しばかりオシャレなお遊戯で終わってしまったように感じられる。最初の衝撃が過ぎると、私もいつか北園克衛から離れていった。
 今回とりあげる「夜の要素」は1951年刊行の詩集『黒い火』に収められた。戦前から変わらないスタイルで書き続けられていることにある感慨を持つと共に、戦後的な色彩も感じ取れる。
 言葉によって造形された彫刻(物質)のようでもあり、行から行への飛躍(差異)の産む意外性というところであろうが、成功した例ではないだろうか。

 「夜の要素」


その絶望



把手


のある

の胸
あるひは穴
のある

の腕

偶像


にささへられ
た孤独
の口



(中略)

その
暗黒

幻影





その
幻影



陶酔

黒い砂
あるひは
その
黒い陶酔

骨の把手

(きたぞのかつえ、1902-1978)
by yassall | 2013-08-29 13:10 | 詩・詩人 | Comments(0)

日々雑感 ☆宮本慎也選手の引退

 プロ野球ヤクルトの宮本慎也選手が引退を表明した。記者会見での一問一答で、「もっとも影響を受けた人物は?」という問いに対する宮本選手の答は野村克也氏だった。若手選手を育て、弱小チームを日本一に導いたのが野村氏だったし、宮本選手もその中で見いだされ、鍛えられたという感を強く持ったのだろう。
 その野村氏の教え子に古田敦也選手がいる。その古田選手が選手会(組合)会長のときに持ち上がったのが、近鉄のオリックスへの吸収問題だった。今日の東京新聞でスポーツライターの小川勝氏が書いているのだが、古田会長以下の選手会の団結した闘いによって新球団楽天イーグルスが誕生し、一リーグ制への統合が阻止された。
 その楽天の二代目の監督に就任したのが野村克也氏であり、その野村氏によって育てられた田中将大選手が今年は連勝記録の日本新を更新する活躍で大きく花開こうとしている。
 「エースで勝負する試合には勝たなくてはならない」というのは野村監督のモットーであるが、一昨日もその遺訓よろしく楽天は連敗を脱出した。
 私は決してプロ野球ファンというのではないのだが、何かこの人と人とのつながりには魅力を感じている。人を見る目があった人と、それに応えた人と。
by yassall | 2013-08-27 00:44 | 雑感 | Comments(2)

藤圭子の死

 藤圭子が死んだ。デビューは1969年9月、「新宿の女」のいきなりのヒットは鮮烈だった。だが、藤圭子の名を不動にしたのは翌1970年に発表された「圭子の夢は夜ひらく」だろう。
 これにはエピソードがあって、デビュー前に何曲か曲は出来上がっていて「圭子の夢は夜ひらく」も出来ていたという。ただ、ディレクターの中で一目置かれていた馬渕玄三氏の考え方で、特定の曲だけが売れすぎるとそのイメージが歌手に勝ってしまう、そこでデビュー曲としては比較的地味な「新宿の女」を候補とした、というのだ。
 だが、それだけの戦略をもってしても、「圭子の夢は夜ひらく」は藤圭子のイメージを決定づけてしまったといえるだろう。彼女自身の幸福とはいえないな生い立ちもそのイメージの形成に拍車をかけたかも知れない。「圭子の」という枕ことばは園まり版と区別するために添えたのだというが、重点が変わって「藤圭子の」になってしまったのだ。
 60年安保後に西田佐知子の「アカシアの雨がやむとき」がヒットしたという。70年に「圭子の夢は夜ひらく」がヒットしたのと比較してみる。物憂く、投げやりな気分性で共通点が探せそうな気もするが、「圭子の夢は夜ひらく」の方がはるかにツッぱった感じを受ける。自分の運命にしょげかえっているのでもなく、かといって甘えているのでもなく、敢然と立ち向かっている意志性さえ感じる。藤圭子の端正な顔だちの中の鋭い視線にそれを感じたからこそ、時代は歌手を自らの象徴として受け入れたのではないだろうか。
 しかし、それは藤圭子の歌手人生にとって必ずしも幸運なことであったとは言い切れない。例えば、同じようにハスキーボイスで人々を魅了した八代亜紀と比較してみる。すると八代亜紀の持つ明るさや大衆性が藤圭子には決定的に欠けていることが明らかになる。八代亜紀なら長距離トラック運転手たちの女神となり、明日の活力となれるだろうが、少なくとも「圭子の夢は夜ひらく」の藤圭子はどこまでも夜の底を彷徨わざるを得ず、もしどこかで遭遇したとしても強い拒絶に会うだけだと思わされる。
 生まれが私と同じ年(学年はひとつ下)だが、最初はもう少し年下かと思っていた。その少女性も年齢とともに成長をとげていくことの妨げとなっていたのだろう。
 歌手人生は短かったが、どこかで同時代性を感じていた。引退時のLPも、後に発売されたCDの何枚かもまだ持っている。あまりヒットしなかったが、「みちのく小唄」や「恋の雪割草」などは今でもいい曲だと思っている。近年は奇行のあることも伝え聞いていたが、思いもかけない最期となった。
 なんだか隠れ演歌ファン(でもないのだけれど)を露呈することになったが、イチローの4000本安打達成をおいても、前橋育英の甲子園初出場初優勝をおいても、書かずにはいられなかった。魂よ安かれと祈るばかりだ。
by yassall | 2013-08-22 20:14 | 雑感 | Comments(2)

木藤恭子展「紙・水・手」

c0252688_032291.jpg

 木藤恭子さんは志木高校時代の同僚で美術の先生。個展を開くのは初めてとのことだが、数年前に新境地を開き、次々に作品が生まれ、今回の開催にいたったとのことだ。
 その新境地とは、タイの紙(製法は和紙と同じだが素材感が強い)を用い、炭や顔料、植物など自然の材料から得た染料にアクリルを加えたりした絵の具によって、滲みや、その逆に色彩や形状が立体的に浮き出す効果を表現手法としたものとの説明があった。
c0252688_050548.jpg

 写真ではその微妙なトーンは写しきれないが、パステル画ともまた違った、やさしい、気持ちの休まる絵だった。
c0252688_0513870.jpg

 展示されていた18点の中で、これは少し異質だなと私が感じ、印象的だったのはこの作品。他にもグレーやブルーを基調にした絵もあるのだが、中央の縦に描かれた線が鋭く、緊張感があった。(私のやぶにらみだったらごめんなさい。)
c0252688_0424058.jpg

 会場は代官山。名前には聞いていたが足を踏み入れるのは始めて。猛暑下のことで散策には至らなかったが、会場に向かう途中で迷い込んだ路地はなにかレトロな雰囲気があった。

 ギャラリー子の星(代官山町13-8) ~8/19まで
by yassall | 2013-08-19 00:47 | 日誌 | Comments(0)

岐阜・長野の旅

 岐阜・長野を旅してきた。旅程は、飛騨高山=郡上八幡=馬籠=妻籠、である。
c0252688_18124412.jpg

 高山は一昨年に続いて2度目。観光スポットとされる古い町並み群はほとんど土産物屋になっていて、観光客で埋め尽くされてしまうので、一本路地を外し、しもた屋風の家をねらってみる。
c0252688_11214921.jpg

 今回は天気も良く、時間にも余裕があったので、飛騨国分寺まで足をのばしてみる。三重塔(1820年再建)がなかなか美しい。
c0252688_18225722.jpg

 郡上八幡は8年ぶりくらい。前回は日中であったので八幡城に登ったり、町中の疎水を巡ったりしたのだが、今回は郡上踊りがメインとのことで到着も午後7時頃。踊りが始まるのが午後8時からということで、それまで宵闇のせまる町中を歩いてみる。
c0252688_1828964.jpg

 踊りの開始時間になると、そう広くもない道が老若男女で埋め尽くされる。13日から16日までの4日間で人出は25万人になるそうだ。どんなものかと思っていたが、郡上踊りは参加型の催し物で、屋台を中心にして踊りが始まる。朝の5時まで続くとのことだ。
c0252688_18375034.jpg

 実は今回の目当ては2日目の馬籠・妻籠である。馬籠は島崎藤村の生地。一度は行ってみなければと思いながら機会がなかったのだ。
c0252688_1839504.jpg

 馬籠は高山と同じですっかり観光地化されてしまっているばかりでなく、2年前にも5軒が焼ける大火事があったりで、どうやら今ある建築物は現代風に再建されたものらしい。
c0252688_1842198.jpg

 上からが妻籠である。そこへいくと妻籠の方が古くからの建築物がきちんと残されているとのことだ。馬籠は岐阜。県境を越え長野に入っている。
c0252688_18424868.jpg

 6番目の写真が馬籠の枡形。これが妻籠の枡形である。
c0252688_18471219.jpg

 へちまの花である。
c0252688_11222873.jpg

 ツアーの最後は寝覚ノ床。国の名勝に指定されているとのことだが、寡聞にして私は聞いたことがなかった。なんでも上流に設けられた木曽ダムなどにより水位が下がったために、水底で侵食され続けていた花崗岩が水面上にあらわれたもの、ということらしい。
c0252688_18535274.jpg

 ずっと好天だったのが、なぜかここへ到着したころから天気が崩れ始めた。そぼ降る雨の中、急坂を下っていくことになったが、まあその甲斐はあったというところか。

 さて、大変だったのはその後で、塩尻発17:07のあずさ28号で帰るはずが、岡谷・下諏訪間で冠水があり、出発が2h13遅れの19:20。その後、岡谷・下諏訪間で再び冠水のため、中央本線は全面運休。あたかも諏訪湖花火大会が雷雨のため中止となり、上諏訪駅に溢れかえった見物客やら、花火会場に向かう途中で引き返すための乗客やらをさばくために、停車時間が大幅に延びたり、予定にない駅に臨時に停車したりで、新宿到着は23:04となった。各地で起こっている大雨災害の一端を見た思いであった。

 G5+OL9-18mm  RX100
by yassall | 2013-08-16 19:08 | 風景 | Comments(2)

施餓鬼と万霊節

 柳田国男の「先祖の話」くらい読んでおかなくてはと定年後になってから読んだ。動機がそんなふうだから目を通したというのに近く、きちんと読めたというのではなかったが、その調査活動の範囲と視野の広さはなるほどと理解できた。民俗学はこうして方法として確立していったのだろう。

 さて、私の地方では盆は7月15日のうちに済ましてしまう。すると、あまり季節にちなんだ話題でもなくなってしまうのだが、ひとくさり。

 施餓鬼とは、盂蘭盆にあたって精霊(各家の祖霊)に供物を供えると同時に、施餓鬼棚を設け、餓鬼道に堕ちたもの、あるいは無縁仏となったまま成仏できずにいるものにも布施をほどこすことである。
 キリスト教では11月1日を万聖節(諸聖人の日)と定めている、その前夜祭がハロウィンであるわけだが、これは元来ケルト人の死者の祭および収穫祭を起源とする民俗行事であり、キリスト教とは関係がない。解釈の範囲を拡げればキリスト教に習合されたということだろうか。
 ここで問題とするのは翌日の11月2日である。ローマカトリック(※1)ではこの日を万霊節(死者の日。柳田は万霊祭としている)とし、すべての死者の魂のために祈りを捧げる日であるとしている。
 ※1東方カトリックでは別の日を定めているらしい。
 柳田は施餓鬼と万霊節との類似に注目している。万霊節は、死んだ後に煉獄(※2)に堕ちた人間はそこで罪の清めを受けなければならないが、生きている人間の祈りとミサによってこの清めの期間が短くなるという考え方から発しているそうだ。そうしてみると、仏教の追善回向の考え方と似ていなくもない。
 ※2煉獄の思想が生まれてきたのはダンテが「神曲」を書いた頃からだというから、本来のキリスト教にはなかったものなのかも知れない。
 たぶん柳田の関心はキリスト教(行事)と仏教(行事)との類似というより、万聖節と万霊節が対になっているように、精霊供養と施餓鬼が対になっているとすれば、日本においては祖霊=神とされてきたことを解き明かそうとしているのだろう。
 「先祖の話」では、アラタマの「アラ」は「新」魂であると同時に「荒」魂でもあり、亡くなったばかりの荒々しい魂を鎮めようとするのが元々のマツリであった、というような説も開陳されている。仏教渡来以前の日本人が、人間の死とどのように向き合おうとしてきたかを探究しようとしていることがわかる。

 我が家の宗旨は浄土真宗で、真宗では人間は死ぬと直ちに成仏してしまうわけであるし、そもそも霊魂の存在を認めていないから、本来お盆の行事は行わない。それでもお盆近くなるとお寺から案内が来る。行ってみると、そのような教義についての解説の後、真宗では仏縁と近づくための機会の日ということだ、との説明がある。
by yassall | 2013-08-11 11:01 | 雑感 | Comments(0)

村上芳正展・ルーブル美術館展

c0252688_2347447.jpg

 暑い暑いと引きこもってばかりはいられないと、意を決して外出することにした。とにかく、放置しておくと身体のなまりかたが人一倍では済まないのだ。とはいえ、これという新企画もなく、またまた美術館のはしごである。
 村上芳正は三島由紀夫最後の装幀画家と紹介されているが、故郷長崎で地元の劇団に入団したとき、どうしても三島作品を上演したいと上演許可をとりつけたことが縁の始まりらしい。
 沼正三の「家畜人ヤプー」や澁澤龍彦の「暗黒のメルヘン」を手がけたというから、異端の色濃い幻想耽美派という印象だが、挿画家としては中原淳一のひまわり社『それいゆ』が出発点で、そのころは童画も描いたりしている。他にも立原正秋や倉橋由美子、吉行淳之介から赤江瀑など、様々な作家の装幀を担当しているから、名前は知らなくとも、その絵はどこかで目にしている人も多いはずだ。
 画家の人となりについては知るよしもなかったが、中学時代に一家離散、19歳で招集され、終戦の翌年復員するも、被爆した故郷長崎の焼け野原をみて衝撃を受けるなど、苦難多い前半生だったとある。若き日に二科展に5年連続で入選するなど、画家としても一級の技量を持ちながら、生活の糧を求めて挿画の分野にすすんだ理由もなんとなく納得できる。映画ポスターや演劇の美術担当・衣装デザイン、はてはレコードジャケットにも手を染めたというから、もともと特定の器に収まらない才能の持ち主であったのかも知れないが。

 ルーブル美術館展は「地中海四千年物語」とのサブタイトル。何といってもハイライトは1808年の収蔵以来始めて館外に出るというギャビーのディアナ像だろうが、絵付けのされた古代ギリシャの壺なども見ごたえがあった。
c0252688_2020218.jpg

村上芳正展:弥生美術館(~9/29まで)
ルーブル美術館展:東京都美術館(~9/23まで)

 弥生美術館では来年1月3日から3月30日まで伊藤彦造展を開催するとのこと。これは今から楽しみなことである。
c0252688_2062952.jpg

by yassall | 2013-08-08 20:28 | 日誌 | Comments(0)

陶淵明「帰去来辞」

 帰去来兮          帰りなんいざ 
 田園将蕪胡不帰     田園将に蕪れなんとす なんぞ帰らざる

 「人に冷たく、かつ無能な国では原発を持つべきでない。」とし、原子力撤廃の姿勢を鮮明にした東海村村長の村上達也氏が任期満了とともに引退を表明したとき、その心境を問われて「帰去来辞」の冒頭を引用したという。
 岩波書店から出ていた『中国詩人選集』が廃刊になってしまい、私が陶淵明を読んでみようと思い立ったとき、手にしたのは岩波文庫版『陶淵明全集』(1990、上下巻)であった。

 
 既自以心為形役     既に自ら心を以て形の役と為す
 奚惆悵而独悲      奚ぞ惆悵として独り悲しまん
 悟已往之不諌      已往の諌められざるを悟り
 知来者之可追      来者の追ふべきを知る

(自ら求めて精神を肉体の奴隷と化してしまっているのに、ひとりくよくよと嘆き悲しんだところで、どうなるものでもない。過ぎ去ったことは、今さら悔やんでもしかたがない。これからのことは心掛けひとつでどうにでもなる。)

 世に雄飛する才を持ちながら、精神の自由に重きをなそうとする姿勢には真の知識人、あるいは芸術家の矜持を感じる。憧れはしても、なかなか思うにまかせぬ凡夫の身ながら、少しでも近づきたいものだと思う。
 

 善万物之得時      万物の時を得たるを善(よみ)し
 感吾生之行休      吾が生の行(ゆくゆく)休するを感ず
 已矣乎          已んぬるかな
 寓形宇内復幾時    形を宇内に寓すること復た幾時ぞ
 曷不委心任去留    曷ぞ心を委ねて去留に任ぜざる

(万物がよい季節にめぐりあったのを喜ぶとともに、わたしの生命がそろそろ終わりに近づくの感じ取るのである。ああ、いかんともしがたい。肉体がこの世にあるのは、あといくばくもないというのに、なぜ自らの願うところにしたがい、自分の出処進退をそれに合わせないのか。)

 陶淵明はこのようにいうが、詩人がすべての役職を捨て、以後二度と出仕しないことを決意したのが41歳、その後20数年を生きて亡くなったのは63歳である。ここで「感吾生之行休」というのは、自分の死期を悟ったというより、悠久の時間の流れに比し、人間がこの世にある期間はあまりに短く、有限なのだという人生観を語ったものだろう。

 攜幼入室 有酒盈樽   幼を攜へて室に入れば 酒有りて樽に盈てり
 引壷觴以自酌       壷觴を引きて以て自ら酌み
 眄庭柯以怡顔       庭柯を眄へりみて以て顔を怡ばしむ

(幼な児を伴って部屋に入ると、酒が樽いっぱいに用意されている。さっそく徳利と杯をひきよせて手酌をはじめ、庭の木々の枝ぶりをながめやれば、顔は自然とほころんでくる。)

 陶淵明は「隠遁詩人」「田園詩人」と呼ばれるとともに、「酒の詩人」でもある。後の唐代の詩人にも大きな影響を与えたとされているが、同じく「酒の詩人」である李白も陶淵明の詩を読んだはずである。

 聊乗化以帰尽       聊か化に乗じて以て尽くるに帰せん
 楽夫天命復奚疑      夫の天命を楽しみて復た奚(なに)をか疑はん

(自然の変化にわが身を合わせ、生命の終わりを待ち受ける。天命を素直に受け入れて楽しむ境地に入れば、もはや迷いもなくなってしまうのだ。)

 陶淵明が隠遁生活に入るにいたった理由には、東晋末の政争に巻き込まれるのを避けたためであるという説を耳にしたことがある。そのあたりは竹林の七賢とも共通し、もしかしたら後の白居易が江州に左遷されながら隠居生活を楽しむ風をみせた処世術とも一脈を通じているかも知れない。しかし、陶淵明にはそうした処世術をこえた哲学があり、人生観・人間観における深さがある。

 雲無心以出岫       雲は無心に以て岫(みね)を出で
 鳥倦飛而知還       鳥は飛ぶに倦みて還へるを知る

(雲は山の峰から自然とわきいで、鳥は飛びつかれてねぐらにもどっていく。)
 ※岫は「しう」と読み、本来は山の穴のこと。雲はこの山の穴から湧いてくるものだという説に由来しているが、ここでは岩波文庫版に従って峰とする。

 「帰去来辞」にはもうひとつ思い出がある。現役時代に、祖父だったか祖母だったかが日本人だった縁で、中学2年生のときに中国から渡ってきた生徒を教えたことがある。優秀な生徒で卒業後は推薦入学で国立大学へ進学していった。1年生から教えていたが、3年生の最後のころ、教科書にはなかった「帰去来辞」を授業でとりあげた。すると、その生徒は感想で「日本に来る前の年に学校でこの作品をならった。読んでいると故郷の風景が目に浮かんでくるようだ。」と書いたのだった。
 中国と日本とで「帰去来辞」を授業で学ぶとは何という縁であろうか、また「風景が目に浮かぶ」までにはとうてい至らない私に比し、やはり母語のもつ力の強さに私は感じ入ったのだった。
 最近、旅行をしていて、青々とした山々に白い雲や霧がかかっているのをみては、きっと彼女の目に浮かんだのもこんな景色であったのだろうと思い起こしているのである。

 臨淸流而賦詩      淸流に臨みて 詩を賦す

 「帰去来辞」は正確には詩ではなく『楚辞』の流れをくむ辞賦であるが、陶淵明自身が「詩を賦す」と書いているのだから、この詩・詩人シリーズに加えることをためらう必要はないだろう。

(とうえんめい、陶潜とうせんとも、365 - 427)

《追記》
 大事なことを書き落とした気がする。書き出しの「田園将蕪」の「田」は田畑、「園」は果樹園のこと。つまり田園とは自然そのままなのではなく、人々の営みがあり、生活がある場所なのだ。それらが「将蕪」としているという指摘は、中央の政争の中で地方が置き去りにされようとしている実態へのプロテストが込められているのではないだろうか。ここで冒頭にもどるならば、東海村村長によるこの詩句の引用もますます万感胸に迫るものがある。
by yassall | 2013-08-06 00:41 | 詩・詩人 | Comments(0)

華ヤカ哉、我ガ一族 オペラカレイド 再会

 「華ヤカ哉、我ガ一族 オペラカレイド 再会」(同制作委員会)を観てきた。原作はオトメイトから発売されたゲームだそうで、アニメにもなり、舞台化もされたものらしい。
 らしい、というのは、観に行くことになった動機が朝高演劇部OGのモコこと甲斐千尋が出演しているためで、先日のみかわやに連続することになった。
 小屋は永田町の星陵会館。チケットを買って中に入ってみると、観客はうら若い女性ばかり。どんな芝居かネットでも当たってみたのだが、始まってみると出演者たちはイケメン揃いで、なんとなく納得。オッサンとしては客席で浮いてしまうのが心配だったが、さいわい隣の席に出演者の家族らしい中年の夫婦がいてくれたので助かった。
 観客はきちんと芝居を観ているし、舞台を楽しんでいる様子なのはもちろんだが、羽目を外し過ぎることもない。セットもしっかりしており、題名のとおり歌劇仕立てで、エンタメとして楽しめた。今回は再演なのだというし、公演日程も10日とけっこう長丁場。リピーターも多そうだ。
 芝居にはいろいろあっていいと思うし、ハラハラドキドキ、泣いて、笑って、ホレボレとして、観客が「ああ、今日は楽しかった!」といって帰れるなら、それも演劇のひとつのあり方だ。
 モコはまずまずの役どころだったのではないだろうか? 階段を登るようにして大きくなっていってほしい。
c0252688_1923439.jpg

(8/12まで)
by yassall | 2013-08-04 19:03 | 日誌 | Comments(0)

ミドリガメ大繁殖期

 ミドリガメはアカミミガメ(アメリカ原産)の幼体の異称とのことだ。他にキバラガメというのもいるが、これもアカミミガメの亜種であるらしい。
 いつのころだったが、縁日などで大量のミドリガメが売られ、子どもたちが買っていった。その緑色が毒々しくて私は好かなかったが、幼体のうちは甲羅が真んまるで、見ようによってはかわいらしく、けっこう人気があったようだ。
 しかし、成長にしたがって緑色は消え、甲羅の形も変化し、なにより大きくなる。良心的な飼い主もいただろうが、お祭り気分の中、面白半分で買っていった人たちの手元に、カメたちが寿命まであったとは考えにくい。
 昨日のNHKのニュース番組によると、かつて大量に輸入され、その多くが池や河川に放たれてしまったであろうミドリガメが、日本の環境に適応し、ちょうど大繁殖期を迎えているのだそうだ。

 そういわれると、近所のそれなりに大きな池に、カメの姿が何匹も見られるようになった。「あれ?この池にカメなんかいたっけ?」といぶかりながら観察してみると、首筋に赤い模様があったり、甲羅のふちが黄色いカメばかりで、私たちが子どもの頃に見たのとはまったく別種のカメばかりである。
 カメは泳ぐことができ、潜水することができ、歩くことも出来る。昔、学校の生物部で飼っていたカメが、いつの間にか水槽を這い上がり、それこそ神出鬼没とばかりに校内のあちこちに姿を現しては連れ戻されていたのを思い出す。そのカメの歩みで日本国中に広まっていったに違いない。
 外来種による生態系の破壊や農作物への被害はミドリガメに始まったことではない。駆除に乗り出している地方もあるようだが、完全に駆逐するのは至難のわざだろう。ただ、単一種だけが増殖してしまったとき、いずれ新しい生態系に落ち着くだろうというような楽観視は禁物だ。
 その昔、ミドリガメを買った子どもたちを責める気持ちはない。ただ、人間とはそれが後になってどのような結果になって返ってくるか弁えることができない、愚かな存在であるという自覚は持っていた方がよい。

 お寺の庭の池でカメが飼われていたのは放生会の思想から発しているのだろう。もしかしたらミドリガメを池や川に放した人の心の底にも、殺生戒や回向の気持ちが働いていたのかも知れない。
 今、寺社の池で飼われているカメはどうなっているのだろう。庭石の上で甲羅干しをしているカメがアカミミだったり、キバラだったりしたら、どのような風景になるのだろう。
 いつも見慣れているはずの風景が、ある日、まったく別様の風景に取って代わられてしまう妄想に襲われる。
by yassall | 2013-08-01 15:28 | 雑感 | Comments(2)