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日々雑感 ☆国民の主権者度

 一昨日の電力9社の株主総会での「原発推進」鮮明化につづき、昨日はウランにプルトニウムを混ぜたMOX燃料が高浜原発に到着した。すぐには再稼働はできないはずなのだが、どうも参院選直前に世論にたいしてダメージ(無力感)を与える作戦のように思えてならない。
 それより気になっているのは「世界最高の安全基準」というやつだ。報道ステーションのレポートによると、アメリカではそれこそ厳格な安全審査と対策がシステムとしてとられている(そのアメリカで原発の廃炉もすすんでいる)。これと比較すると、どうも日本の「安全基準」はことばが先行していて、新たな「安全神話」を振りまくだけのように思えてならない。(国民が信じてくれれば儲けもの、とでもいうように。)
 坂道を転がり出した岩は止めることができない、というところか。それでも止めなければ日本の未来はないように思う。国民の主権者度が試されているという意味でも…。

 今朝の新聞のニュースで、もうひとつ怒り心頭なのは、国旗掲揚と国歌斉唱について「一部の自治体で公務員への強制の動きがある」と記した実教出版の高校日本史教科書について、東京都教委が「使用は適切出ない」と議決したことだ。(どうなる学問の自由、表現の自由…。)
 そもそも「国旗国歌法」が成立したとき、尊重義務は課せられなかったはずだ。それが「強制」となり、従わなければ「処分」(東京、大阪が筆頭)になった。自民党の改憲草案では「尊重義務」が明記されるそうだ。今度は公務員だけではなく、国民への「強制」がはじまる。それが「愛国心」であるとはとうてい思われない。(祝日に日の丸を立てていない家は非国民とか言われる時代が来たらどうしよう?)
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by yassall | 2013-06-28 13:38 | 雑感 | Comments(1)

埼玉県高校写真展

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 S高校に転勤なさった元同僚のA先生に、「26日からやってます」との案内をいただき、埼玉県高校写真展へ行って来た。主催は埼玉県高等学校写真連盟で、県内の高校生の作品902点が展示されていた。
 子どもや街の働く人々を被写体に選んだ作品もあったが、人物写真の多くは同級生がモデルである。これは高校生にとっては最大の武器であるに違いない。自分も相手を知り、相手も自分を知る関係であると、まずリラックスの度合いが違ってくるし、表情が格段に豊かになる。さりげないスナップに見せかけながら、実はあれこれポーズに注文をつけていたに違いないと考えると楽しくなる。
 露出やピントはカメラまかせでもジャストな写真が撮れる時代であるが、そこに留まることなく、ローキーやハイキー、パンフォーカスありソフトフォーカスあり、流し撮りや多重露出への挑戦、グラデーションの演出など、さまざまな表現に挑んでいこうという若さゆえのエネルギーが伝わって来た。
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 写真は会場の埼玉県立近代美術館(北浦和)の天窓。6/30まで。

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by yassall | 2013-06-27 19:35 | 日誌 | Comments(2)

水のある風景

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 花菖蒲を撮ろうと水元公園まで行って来た。自宅から車で1時間ほどで行けるのだが、帰りに寄り道もしたかったので、西日暮里で千代田線に乗り換え、金町からバスという行程で出かけた。
 金町に着いたころにはすっかり雨模様となり、引き返そうかとも思ったが、菖蒲に雨ならうってつけとも考え直し、そのままバスに乗り込んだ。
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 残念ながら菖蒲の盛りは過ぎてしまったようだ。1週間は遅かったのだろう。遠景に配置してもなかなか絵にならない。
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 こんなときは形のいいのを探し出してアップで撮るのがいいだろう。
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 せっかくなので水面に雨を落とす池の景色もねらってみる。
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 水元公園は古利根川の一部を灌漑用の遊水池とした小合溜を中心に公園として整備されたとのこと。
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 堂々たる水の風景である。対岸は埼玉県三郷市。公園の名前もみさと公園となる。
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 広大な敷地にはまだまだ魅力的な撮影スポットが探せそうである。

G5+OL9-18mm、p330
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by yassall | 2013-06-26 13:31 | 散歩 | Comments(2)

黒田喜夫その2『人はなぜ詩に囚われるか』

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 黒田喜夫『ひとはなぜ詩に囚われるか』は1983年12月に出版された詩論集である。黒田喜夫が逝ったのは翌年7月10日であるから、著者生前最後の出版物ということになる。
 大岡信などを例外として、詩人の書いた評論は詩を読んでいるのと同じだと思っているし、とくに読みたいと思うこともなくこれまできた。
 ところが、先にブログに黒田喜夫のことを書いてから、なんだか急に手元に置いておきたくなった。古書をあたってみると1万円以上の値がついているので迷っていると、出版元の日本エディタースクール出版部に在庫があり、送料200円はかかるものの、原価で取り寄せられることが分かった。
 収録されたものは1970年代の終わりから1980年代の始めにかけて書かれたものがほとんどである。著者最後の思索の跡を記しているといってよいだろう。
 「神謡・生きられた詩的母胎」ではアイヌ神謡と宮古島神歌を比較していたりと、時代を越えて詩の本質に迫ろうと、研究と思索を深めていたことが知れる。その営みに敬意をはらう。
 「清瀬村より」では、谷川雁とは長く親交があったらしいとか、吉本隆明とはどうもそりが合わなかったのではとか、意外な交友関係も伺い知れたりする。
 さて、自作を語った「詩の生誕」では、「詩を書き続けてきて、或る詩を書かしめた意識、感情が、その時十全にみたされたような…ああ、出来たな--と思えることは、そう多くない」といい、それは「昭和の十五年戦争と日本国家の敗戦があり、そしてその内で、日本的抒情の仮装も、モダニズムの仮装も、どうすることもできず破たんし潰滅した」という認識の下に、「市民=人間という近代の範型そのものの虚偽を打ち破ろう」とするところに起因していると言っているようだ。
 そんな中で、「狂児かえる」(1959)については、「この故郷であるもの、つまり荒れた緑の中に坐っている「母」のほほ笑みが、実は狂気…それが狂気そのものだと現わし行為し得たと思ったとき、私は、ああ、出来たな、と充たされる気がした」と語る。
 さらに、「その狂気の座像を狂気と見る彷徨の男こそ狂っている」のであり、「狂気とは、帰りつくべき地であるとともに打ち破るべき地であるものの二重性の窮極」であると言い放つのである。
 イメージとしては「雨月物語」を彷彿とさせるが、それをもって「日本的抒情」からの脱出の成否を問うたりはすまい。
 主題としては「空想のゲリラ」と類似したものを見て取れるが、「ゲリラ」というよりは「狂児」(母を置いて故郷を出た蕩児にも通じるか?)と自己認識し、精神の淵により近く自らを立たせた末の詩作営為であるように思う。

    「狂児かえる」

  吹雪のときに去り
  雪解けも知らない彷徨からかえると
  濃い緑の底にふかく家は沈んでいた
  竹や蔦に屋根は裂かれ
  燃えさかる等身のあかざの園だ
  よろめき近づくと
  葉を透いて坐っている婦の横顔があり
  おれは夜を待って叢に這うが
  緑にいぶる婦の座像はながくながく
  微動もしない
  微動もしないでふと微笑んでいる横顔が見えた
  おおこの年月に
  お袋は狂ってしまっているのだ
  緑の底にふかく坐り
  なにかを超えてしまっているのか
  叢に這いうかがうと
  このまま生きることはできない
  このまま死ぬことはできない躰に
  夢はなお悶えているが
  ここでも思い知らなければならない
  今はわかる
  障子にかこまれ草の敷物に
  横顔を見せて坐っている婦とはことごとく
  気が狂っているのだ
  男も息子も夢にあり
  どんな彷徨も夢にあり
  だが叢に這うおれは
  敗れ欺かれた戦士といわず疲れた戦士といい
  生涯を賭けて夢を消してゆく彷徨はまだ終わらないといい
  疲れた戦士がかえってくると
  濃い緑のそこにふかく家は沈んでいたのだ
  家には老いて狂った婦が坐り
  おれはただ一夜を眠る
  一夜をなつかしい狂気に眠ろうとおもい
  白昼のいたちのように叢で
  夜を待った

 (くろだきお,1926-1984)
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by yassall | 2013-06-23 18:28 | 詩・詩人 | Comments(0)

さあ、幕が上がる

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(開場直後・コピス2階席から)

 今年で12回目になる高校演劇フェスティバルinコピスみよしの写真記録を担当して3年目になる。写真撮影は趣味であるし、苦痛なことはない。むしろ、何かしらの役どころをいただいていた方が実行委員会にも顔を出しやすいのでありがたいことだと思っている。
 ただ、最初に言い訳をしておくと、舞台撮影についてとくに勉強したわけでもなく、暗中模索の段階で、他の人よりいい写真が撮れるというようにはなっていない。
 写真の三要素は、①露出、②ピント、③構図であるが、今回のような場合には④シャッターチャンスをどうとらえるかがものをいう。それぞれに述べてみると、③の構図については、舞台全景の絵が欲しいときと一人ないし数人の役者のアップが欲しいときがある。しかも、シャッターチャンスとしてはそれが瞬時を置かず交代してあらわれる。昨年は一本のレンズでまかなえるようにD90に広角から望遠までをカバーする高倍率レンズ(27-300mm※35mm換算以下同様)を用いたのだが、少々画質に不満が残った。
 そこで今年は、28-84mmと90-400mmのレンズを付けた2台体制で臨むことにした。機材はLUMIXのG5とGX1である。定年以来フォーサーズを愛用するようになって、まあ信頼できるかな、という気になってきたのと、G5ではほぼ無音の電子シャッターが使えるため、試してみたかったのである(ミラーレスだからもともとミラーショックはない)。昨年までのAPSサイズの写真と比べてどうか反響が楽しみである。
 ※
 つぎに、④のシャッターチャンスであるが、これが難しい。前日のリハを見せてもらいながら、露出(照明)の傾向と、その芝居の中でどんな絵を見せたがっているのか、その意図を研究させてもらっている。そうしてシャッターチャンスに当たりをつけて撮影にのぞむのだが、全部はとてもとらえ切れていないし(リハでは通しまではいかない)、「ここだ!」と思ってシャッターボタンを押しても、わずかにでも遅れるとまるで絵にならない。
 ※
 そして、その①露出の決定が難問なのである。「露出を切り詰めろ!」は写真でも作品作りの一手なのだが、芝居作りでも地明かりを押さえて単サスで人物を浮かび上がらせたりする。これが写真撮影ではカメラマン泣かせなのである。顔に露出を合わせれば背景が暗闇に沈み、背景も見せようとすると顔が白く飛んでしまう。ではホリゾントはどうかというと、背景に色の入った光があり(露出を開ければ光は透明に近づき色はなくなってしまう)、衣装も色とりどりだったりすると、すべてを色彩鮮やかに写し撮ろうとするのは至難といわなければならない。
 (②のピントはAFまかせ。他に色かぶりの問題がある。プロだったら、まずホワイトバランスの調整から入るのだろうが、色ゼラが原因の場合などは、色かぶりは色かぶりのままの方が意図に合っているような気もする。)

 と、何だか苦心談と弁解に終始してしまったようだが、話は逆で、あれこれ工夫することが楽しいのである。撮った写真は未加工のまま、取捨選択せずにCDに落とし、各校にお配りする予定だ。
 上演校の意向をお伺いもしていないし、顔写真ということになるわけだから個人情報の観点からも、ここにアップできないのは残念だが、今年の舞台の上で輝いていた高校生たちの姿を何枚かは写し止めることができたつもりである。
 また、昨年に引き続いてやぶにらみながら観劇記を文章にしている最中である。こちらは6月28日の反省会以降にアップしたいと考えている。
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by yassall | 2013-06-20 01:52 | 高校演劇 | Comments(2)

日々雑感 ☆原発のコスト

今日、「福島第1原発で事故が起きたが、それによって死亡者が出ている状況ではない」という自身の発言を撤回したとのことだが、やはり一度口から出た言葉は容易には消せない。
昨年、ある電力会社の社員が同様の発言を公聴会でしたことがあったが、ひとたび事故が起こったときの過酷さを目の当たりにして、なぜ再稼働を口にすることが出来るのか理解に苦しむ。
今回の発言を子細にみてみると、「原発は廃炉まで考えると莫大なお金がかかるが、稼働中のコストは安い」と述べている。(失言癖があるとのことだが、きちんと分かっていて発言しているのだ。)「莫大なお金」とリスクは将来の世代にツケをまわし、今は「安い」コストで儲けようという。これが成長戦略か? 政治家は国家100年の計を立てて欲しい。(まだまだ発言します。)
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by yassall | 2013-06-19 22:16 | 雑感 | Comments(0)

ときに希望を断たれたような思いがするときに

 「世界はシニカルに眺められるようなものではなく、そのシニカルに眺める者を虫けらのように押し潰してしまうのだろう。」(金石範『火山島』)

 そうですね。シニカルになんてなっていられませんね。今でも、いつでも世界はせめぎあっているのですから。そして、この数ヶ月がこの先10数年の命運を決定づけてしまうことだってあるのですから。
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by yassall | 2013-06-19 01:34 | 雑感 | Comments(0)

学校司書の資格要件についての補論

 全国SLAの『学校図書館』3月号で「学校司書の法制化」を特集していることを知り、行きつけの書店にバックナンバーを取り寄せてもらった。
 編集部による前書きには、国会において「「学校図書館活性化会議」が、学校図書館法改正による学校司書の法制化に取り組むことを確認した」ことを、「学校司書法制化についての重要な局面ととらえ」、「全国SLAの方向性を確認するとともに、司書教諭・学校司書の連携事例を掲載」するとある。
 従前から全国SLAは学校司書の法制化の方針を掲げ続けて来た。いよいよそのとりくみを本格化しようというのであれば歓迎したい。
  ※
 特集の最初には、森田盛行氏(全国SLA理事長)の「学校司書法制化の展望と課題」が置かれている。同論文では、学校司書の法制化について、以下の3点について国会議員への要請行動を行って来たことが紹介されている。
 ①学校図書館法の一部改正による学校司書の法制化の実現
 ②学校司書の資格制度の創設
 ③現職の学校司書が不利益を被らないための必要な措置
  ※
 このうち、②についてであるが、学校司書には(学校事務一般には解消されない)独自の専門性が存在するというのが私たちの認識であるのだから、「資格制度の創設」を掲げるのは正しいと考える。
 さらには、森田氏も「その専門性を発揮して業務に専念するために他の業務との兼務ではなく、学校図書館の専任であるべき」としている通り、独立した「職」として位置付けられるために①の「学校図書館法」ばかりでなく「学校教育法」に職名が明記される必要があるだろうし、その資格制度が教育職員としての免許制の下に確立されるならば「教育職員免許法」も改正されることになるだろう。
  ※
 さて、学校司書の「資格制度」について、森田氏は続けて「司書教諭や図書館司書と同様に学校司書にも独自の資格が必要」であり、そのために「学校司書の専門性の確立のために司書等の他の資格取得単位の読み替えは、どの館種にも共通する科目を除いて行わないようにしたい」と述べられている。
 私は以前に「学校司書の法制化について考えること」で、学校司書の資格要件について次のように書いた。

 「…現行の司書資格講習および司書教諭講習をベースにしていくのが望ましく、また十分であろうと考えている。
 …司書資格には司書教諭講習のうち司書講習に読み替えできない科目を5単位程度および教育に関する科目を5単位程度、司書教諭資格を得るにはもともと教科に関する科目と教職に関する科目を習得していることが条件になるから、司書教諭資格には図書館に関する科目をもう10単位程度を加えるということでどうであろうか。」

 すると、この点で森田氏とは大きく意見を異にすることになる。そこで、前掲を補足するかたちでいくつか私見を述べたい。

 ①「学校図書館も図書館である」、「学校図書館教育の目標の一つは生涯にわたって図書館を活用する態度と能力を身につけることである」とするならば、図書館に関する科目について司書と学校司書との間に大きな違いがあるとは思われないし、またあってはならないように考える。
 ②司書一般とは異なる学校司書に独自の専門性とは何かを考えたとき、その内容は司書教諭講習の内容でカバーされるのではないだろうか。具体的には、「学校経営と学校図書館」(2単位)「学習指導と学校図書館」(2単位)、「読書と豊かな人間性」(2単位)が該当し、「学校図書館メディアの構成」「情報メディアの活用」は「情報資源組織論」「情報サービス論」「児童サービス論」で振り替えが可能であるとの私見を持っている。
 学校図書館メディア・情報メディアには学校独自の固有性があるのだ、といわれてしまえばそれまでだが、それらは日々進化発展しているものであるし、いずれにせよ職についてからの研修が欠かせないであろう。
 ③学校図書館に独自の専門性があるとすれば、もう一つは教育的職務としての側面を持つことだろう。教職に関する科目からは「教育原理」「教育心理学」の二系統(科目名は異なるかも知れない)を修得するという叩き台を提案したい。
 (補:「改正前の(司書教諭)講習過程では…5科目6単位が司書資格の単位と読み替えができた」ことが「司書教諭の専門性確立の大きな障害」となったと森田氏は述べられてる。
 司書講習は何回か改正されているが、私が司書・司書教諭講習を受けた頃は「学校図書館通論」「学校図書館の利用指導」のみが独自の科目で、「図書館通論」「図書館資料論」「資料目録法」「資料分類法」「図書館活動」は確かに読み替えが出来た(なぜか7科目12単位が開講されていた)。それをもって「専門性」が確立されていなかったといわれると、それでやってきた身としては切ないが、現行の課程に変わったとき学校図書館の管理・運営の面での実務能力(あるいは実務に対する理解)に不足が生じるのではないかと感じたことも確かだった。)

 以上が基本的な考え方だが、さらに実際上の問題として次のことがらを挙げてみたい。

 ④司書・学校司書・司書教諭をまったく別の課程をもって養成するとしたとき、学生はいずれの道に進むかの決定を早期に迫られることになる。これは、私が高校の教員であったから抱く懸念であるかも知れないが、学生の身になってみれば、勉学をすすめながら視野を広げつつ、その職に対する理解も深め、また自己の適性を見つめ直しながら、最終的な決定が可能であるようにするのが実際的であり、また真に望ましい人材を確保していくことになるのではないかと考える。
 ⑤大学・短大の卒業に必要な単位数は、4年制大学で124単位以上、短期大学2年制課程で62単位以上、3年制課程で93単位以上と定められている。その際、資格や免許等の修得に必要な単位は含まれないのが一般的であるという(図書館学や情報学の課程などでそれ自体が修得の対象であるときは例外であろうが)。
 学校司書の専門性を高めることの必要性に異議を差し挟むものではないが、図書館の専門科目以外にも豊かな教養を身につけていて欲しいことも確かなことであるし、学校現場で教員と良好なパートナーシップを発揮していくためには教員免許状を併せて取得していることも好ましい場合もあるだろう。そのように考えれば、学校司書の養成課程の単位数が過大になりすぎない配慮も必要なのではないかと考える。
 ⑥人材の確保の上からも、現職者の移行を考えても、まったく新しい資格制度を創設し、養成課程を整えるというより、現にある資格要件に何単位かを加えていくという方が望ましくはないだろうか。「現職者の経験年数や勤務実績を鑑みて…減免措置」をとることがあったとしても、自ずから限界があるし、今日とくに小中学校に配置されるようになった人たちの大部分が臨時的任用者であることを忘れてはならない。
 ⑦前掲「学校司書の法制化について考えること」では、司書と司書教諭との二つの養成コースからの道を提示した。「学校」と「図書館」といずれに軸足があるのか、という問題だろう。両方あっていいと今でも考えているし、図書館学や情報学を専門に修めた人もいたりして、互いに切磋琢磨していく可能性について検討していくことにはそれなりの意義があると考える。ただ、実際上の問題としては資格制度の確立の過程で整理されていくことになるだろう。
  ※
 以上、思うところを述べてきたが、もちろん自説が絶対とは考えていないし、自分の中でも整理しきれていない部分があるのは率直に認めなくてはならない。そして何より議論百出が原因で学校司書の法制化が遅れるようなことであってはならないと思う。
 冒頭で述べたように、①学校図書館法の一部改正による学校司書の法制化の実現、②学校司書の資格制度の創設、③現職の学校司書が不利益を被らないための必要な措置という基本方針は多くの人を納得させるものであると考える。
 そうであるからこそ、私見で述べた①②③ではカバーできない学校司書の独自の専門性と、その確保のための養成課程があるというなら、早期にその内容を示してもらいたい。
 なお、森田氏が文末で「学校司書の法制化後、この法律の条文の趣旨を実体化する必要がある」と述べられているのは正しくその通りであると付け加えておきたい。

(この稿はもっと以前に書いておいたものですが、文中に公人とはいえ個人名をあげましたので、予めお断りの手紙を差し上げるまで掲載をひかえていたものです。)
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by yassall | 2013-06-17 11:17 | 学校図書館 | Comments(0)

第12回高校演劇フェスティバルinコピスみよし

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 第12回高校演劇フェスティバルinコピスみよしが開催されました。天気予報では昨日が雨、今日は晴れだったのに、朝起きるとしとしと雨…。まあ、この時期の天気予報は読みにくいですが、少し心配な空模様…。 ところが、よい意味で予想は裏切られ、本日の時点での集計ですでに950名を越える観客動員だったとか! 実行委員会校の皆さん、お疲れ様でした。そして三芳町の皆さん、本当にありがとうございました。
 さて、実行委員の末席に名を連ねさせていただいているものの、定年退職後は顧問の役どころをいただいて会議にも出席せず、チラシも昨日目にしたばかりでした(申シ訳ナイ)。今年のデザインは百鬼夜行というところですが、本日の出演校6校はそれこそバラエティに富んで、多彩な舞台をこれでもかと展開してくれました。
 昨日のリハを見ての段階では、「今年はビジュアル系?」という印象でしたが、詳しい感想やらはまた今度ということで…。(なにしろ今夜の段階では恒例の打ち上げで酩酊状態…でも、酒が美味かったということは芝居がよかったということ、スタッフを交えての打ち上げで、皆さん芝居を愛しているなと実感できた一日でした。)
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by yassall | 2013-06-17 00:54 | 高校演劇 | Comments(2)

学校司書法制化の動き 衆議院法制局骨子案

 学校司書の法制化について動きがあった模様である。6月12日、参議院会館にて「子どもの未来を考える議員連盟」総会が開かれ、衆議院法制局から「学校図書館法の一部を改正する法律案(仮称)骨子案」が提示されたとのニュースが飛び込んで来た。

(骨子案)
一 学校司書
1 学校には、司書教諭のほか、児童又は生徒及び教員による学校図書館の利用の一層の促進を図るため、専ら学校図書館の職務に従事する職員(2において「学校司書」という。)を置くよう努めなければならないこと。
2 国及び地方公共団体は、学校司書の資質の向上を図るため、研修の実施その他の必要な措置を講ずるよう努めなければならないこと。

二 施行期日
 この法律は、〇〇〇から施行すること。

 また今後について、「学校図書館を考える全国連絡会」のHPには、「今月中ぐらいには「有識者会議」を置き、司書の役割、機能、業務内容、質の確保、司書教諭との役割分担などについて論議し、半年くらいでとりまとめたい、とのことでした。/ただ今国会中の法案成立は無理なので、今年度中を目指す、とのことです。」とある。

 まだ子細には検討していないし、諸団体・個人の意見も集約されていない段階ではあるが、第一印象としては、次のようなことが懸念される。
 ①職の位置付けが曖昧である。
 ・「専ら」とはどういうことだろうか? 専任の職員として置かれると解釈できるのか?
 ・「学校司書という」って何だ? 職名として明記できないのか? 
 ②設置は努力目標なのか?
 ・「努めなければならない」主体は何か? 国・公共団体の義務事項は2項の「研修の実施」のみなのか?
・一定の緩和措置や期間を設けるのはやむを得ないとして、「努力目標」とするだけではなし崩しにならないか? 次に何か政策が用意されているのか?
 ③職の位置付け、目標、資格制度が不明である。
 ・「一層の」で議員を納得させられるか?
 ・自治体に研修を制度化するように促しているのは評価できるとして、そもそもの資格要件の定めがなくてよいのか?

  「努めなければならない」というのが法律用語として耳慣れないが、「置くことができる」よりアクセントが強いということだとすれば、多少とも期待の声が集まるところだろう。
 文科省「平成24年度学校図書館の現状に関する調査」によれば、「学校図書館担当職員を配置している学校の割合は、小・中学校ではそれぞれ47.8%、48.2%であり前回より増加、高等学校では67.7%であり前回より減少」しているとのことだ。この現状を追認するだけの法改正でないことを望みたい。
 今回提示されたのはあくまで「骨子案」で、伝えられるように「司書の役割、機能、業務内容、質の確保、司書教諭との役割分担など」については今後とりまとめれていくのであれば、その議論を見守りたいし、「今年度中」という目標が提示されているなら当分目を離せない。

(追記)
1.学校司書の法制化というからには法律に明記された職名が欲しい。学校図書館法上の「司書教諭」は「教諭をもって充てる」とされており、「教諭」は学校教育法上に明記された職名である。それと同様に、「学校司書」も学校図書館法および学校教育法上に職名が明記されるべきである。
 (「置かなくてはならない」が望ましいことはもちろんだが、現行法上では養護教諭も「置くことができる」職であることから「置くことができる」職とした上で、「努力義務」と定数法上の措置がとられるというのが現実的か?)

2.司書の役割・機能・業務内容については過去に次のような議論がされた経緯がある。
・「学校司書は司書教諭と協力・連携して学校図書館の専門的業務にあたる」(「学校図書館のチカラを子どもたちのチカラに」2008/6)
・「学校図書館の業務の専門性を考え合わせると、専門的な知識・技能を有する担当職員である、いわゆる「学校司書」の役割が重要となる。学校図書館担当職員については、現在、その職務内容の実態等は様々となっているが、「学校司書」として、図書の貸出、返却、目録の作成等の実務のほか、資料の選択・収集や、図書の紹介、レファレンスへの対応、図書館利用のガイダンスなど、専門性を求められる業務において大きな役割を担っている例が少なくない。」(「これからの学校図書館の活用の在り方等について(報告)」2009/3)
・ 司書教諭は「学校図書館に関する校務をつかさどる」、学校司書は「学校図書館の専門的業務にあたる」(「学校図書館法改正法律案要綱」1977・80)

3.「専門・専任・正規」という観点から見ると、骨子案は「正規」という点でためらいがあるようにも見受けられる。しかしながら、採用されるすべての職員を、未来永劫にわたって「非正規」にとどめようとするのでない限り、やはり法律に明記された職名であってほしい。臨時採用者であってかまわないと誤解されては困るのだが、現状は本来正規であるべき職員ですら臨採がすすんでいるのだから、そこにこだわることで制度化を保留するのはおかしい。


(追記2)
先日届いた「パッチワーク」によると、文科省は「確かな学力の育成に係わる実践的調査研究委託②」として「学校図書館担当職員の効果的な活用方策と求められる資質・能力に関する調査研究」を公募したそうです。(公募開始 4月26日、公募締切 5月29日)

 同号には、5月17日「子どもの読書活動の推進に関する基本的な計画(第3次)」が告示され、学校司書と司書教諭の連携強化が強調されたとの記事もありました。

 学校司書の配置と法制化の動きが確かなものになっていって欲しいと思います。
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by yassall | 2013-06-13 14:55 | 学校図書館 | Comments(0)