<   2013年 03月 ( 8 )   > この月の画像一覧

前野の桜

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 厳しかった冬から一転、今年の桜は1週間は早いのではないでしょうか? これでは見頃を誤ると、散歩のついでに近所の桜を撮ってみました。
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 まあ、ただ撮った、というだけで、何の工夫もありませんが…。
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 八重椿はおまけ。撮影地は前野公園、見次公園。p310
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by yassall | 2013-03-22 11:27 | 散歩 | Comments(2)

キャパ・ゲルダ二人の写真家展

 ロバート・キャパ(1913-54)/ゲルダ・タロー(1910-37)二人の写真家展へ行って来た。会場は横浜美術館。
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 キャパの名を高らしめたのはスペイン内戦で撮られた「崩れ落ちる兵士」である。この写真については以前から真贋論争があったらしい。最近になって沢木耕太郎が、写真は訓練中のもので兵士は弾丸を受けていないのではないか、さらに撮影者も恋人でありコンビでもあったゲルダであったのではないか、という推論を発表したこと(『キャパの十字架』文藝春秋)を聞き、興味半分で出かけた。
 ゲルダの方はスペイン内戦中に事故死してしまったので作品数は少なかった。亡くなったときには反ファシズムの英雄ということで数万人が葬儀に参列したそうだ。だが、その後は急速に名前を忘れられていった。今回の写真展はゲルダの復権のためでもあるように思われた。
 ゲルダはゲルダで見ごたえがあったのだが、キャパの展示コーナーに来ると明らかに写真の印象が変わる。確かに時事をではなく、人間を撮ろうとしているのだろう。「瞬間の中に物語を紡ぐ」と評価されるのにふさわしいと思った。
 「前線に向けて出発する軍用列車」では、車窓から首を出す若き兵士たちの高揚した顔とともに、車両に書き込まれた「UHP(プロレタリア兄弟連合)我々は恐怖政治に屈するよりも死を選ぶ」のメッセージを写しとっている。キャパ本人も反ファシズムの情熱に燃えていたはずである。
 人民戦線内部の不統一や各国の思惑のの中で国際旅団は解散させられる。「国際旅団の撤退」には「我々の大地を洗った血は、やがて果実となるだろう。それは消え去ることも、不毛に終わることもない」という鉛筆による裏書きがある(キャパが書いたものかどうかは不明)。
 第2次世界大戦に従軍し、パリ解放の後の有名な「ドイツ兵との間にもうけた赤ん坊を抱いて家に帰る若い女性」では、「引いた視線」「人間への凝視」への変化が感じ取れる。勝者にも批判のまなざしが投げかけられている。
 第2次世界大戦後、請われてインドシナ戦線に従軍中、キャパは地雷を踏んで落命した。その直前の最後のショットで写真展は締めくくられている。
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横浜へは東横線乗り入れ副都心線で。写真は美術館前の木蓮。急に気温が上がったためか、早くも花が開き過ぎてしまったようだ。
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by yassall | 2013-03-19 21:01 | 日誌 | Comments(2)

岡野雄一『ペコロスの母に会いに行く』

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  著者岡野雄一は昭和25年長崎生まれ。20歳で上京。40歳で故郷にUターンし、父母と同居するようになった。
 この間のいきさつについて、著者は次のように回想している。
  「幻聴幻覚の中に生きる父を捨て、包丁を持った父から追いかけ回される母を捨て、神経に絡みついてくる触手のような段々の街を捨て、文字通り逃げた。」
 「そしていろいろあって、40歳で、子どもを連れてこの街に戻ってきた。
 (中略)僕の両親、は居た。
  父は酒をやめて、穏やかでおとなしいお爺さんになり、母もまだ元気だった。
  間に合ったんだ、と思ったのを覚えている。」
 作品はその父親が亡くなったころから認知症を発症しだした母との日々を描いたもの。最初は自ら編集長を務めていた月刊タウン誌の片隅に連載していたのが始まりで、詩人の伊藤比呂美に見いだされるなどしながら広まっていったとのことだ。
  「介護に携わる方々からの温かい共感の言葉は、実はとても意外でした。父の遺族年金を元に母を施設に預けている自分にとっては、介護という言葉は縁遠く畏れ多いと思っていたからです。「母に会いに行く」というタイトルにもその気持ちを込めています。」
 とあとがきに書く。
 私が本書を知ったのは「文藝春秋」3月号によってだが、書き下ろしの「ペコロスの春よ来い」によれば、介護福祉関連の人から、「今、老々介護が問題になっています。親も子も疲弊して、生活から笑いや余裕をなくし…そういう方こそあなたのマンガを読んでいただき…」と認めてくれる人が現れ、書き続けるにいたったとのことだ。
 まだ認知症が進行する以前なのだろうか、夫を失い、また自らの病に不安を感じ始めた母が、息子の帰りを駐車場で待ち受け、「母ちゃん、なんばしょっとか!? 危なかろうがア!」とたしなめられるという作品がある。
 「もうしえんけん、怒るなあ」と母は謝るが、駐車場で帰りを待つ日々は止まらない。息子ももう母を責めることはなく、自宅のある坂道を上りながら「もうしえんて」「わかった、わかった」「怒っとらんや?」「怒っとらんて」と会話がつづく。
 そしてコマが変わると、それらは回想シーンであったことがわかり、車椅子で俯く母の「もうしえんけん(もうしないから)」「なーんもしーきらんけん(何も出来ないから)」という呟きにつながる。
 私の亡くなった母も、よく「もう何も出来なくなった」と嘆いていた。認知症ではなくとも人は老い、無力になっていく。老親を見守り、また自らの老いをも見つめるものに切ない。
 母の少女時代や新婚当時の時間との接続と往還、さらには父なるものの狂気や孤独、原風景としての原爆被爆などが描かれて、なみなみでない画力が伝わって来る。

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岡野雄一『ペコロスの母に会いに行く』西日本新聞社(2012)
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by yassall | 2013-03-18 15:57 | | Comments(3)

夕日二題

 前回、中野鈴子「なんと美しい夕焼けだろう」を取り上げたので、夕日を描いた作品を他に二題あげてみる。
 「荒地」の詩人黒田三郎は後年「詩人会議」の委員長を務めた。「原点が存在する」「工作者宣言」によって新左翼運動に思想的な影響を与えたとされる谷川雁は、活動を停止したあと「ラボ教育センター」の重役となり、組合との対立ではその「変節」が話題を呼んだ。
 後年は長野県黒姫山へ移住し、C・W・ニコルらとの交流を深めた。サークル村運動からは石牟礼道子が出た。人の生き方はそれぞれである。


   「美しい日没」 黒田三郎

  そこにお前は立ちつくす
  森の上の美しい日没
  その異様なしずかさのなかで
  お前は思う
  もはやもとにかえることはできない
  道化たしぐさも
  愛想笑いも
  もはや何ひとつ役に立たない
  虚勢をはることも
  たれにそうせよと言われたことでもなかった
  笑うべき善意と
  卑しい空威張り
  あげくの果ては
  理由もなくひとを傷つけるのだ
  お前を信じ お前の腕によりかかるすべてのものを
  思うことのすべては言い訳めいて
  いたずらに屈辱の念を深める
  屈辱 屈辱のみ
  自転車にもひかれず
  水たまりにも落ちず
  ふたつの手をながながとたれ
  そこにお前は立りつくす
  ああ 生まれてはじめて
  日没を見るひとのように

  (くろださぶろう,1919-1980)


   「ゆうひ」 谷川雁

  ああ ゆうひ
  ひとすじの道をこえ
  ありふれた草をふみ
  おれの賭けた砂っぽい背骨
  死相(デスマスク)
  二十代の馬鹿
  すべては谷にころげおち
  おれは山の高さと谷の深さを
  いっしょに見ている
  おれの目に狂いがなければ
  たしか自由とは
  こんなことであろう
  おれを射ぬいたものを
  おれがやり返した その日から
  そんな自由が住んでいる
  古びた火薬庫のような胸に

  (たにかわがん,1923-1995)
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by yassall | 2013-03-17 01:27 | 詩・詩人 | Comments(0)

中野鈴子「なんと美しい夕焼けだろう」

 真壁仁編『詩の中にめざめる日本』(岩波新書)で出会った詩・詩人は多い。山田洋次の「男はつらいよ」シリーズの何作目だったか、定時制高校の教師が生徒に朗読して聞かせる浜口国雄の「便所掃除」も同書で読んでいた。
 中野鈴子「なんと美しい夕焼けだろう」を知ったのもこの書によってであった。その鮮烈な印象は今も薄れることがない。これ以後、このように美しい恋愛詩を読んだことがない。
 中野鈴子の略歴をたどってみる。1906年、中野重治の妹として福井県の小地主の家に生まれた。郷里で二度結婚するが離婚、1929年上京して重治と生活をともにしながら、プロレタリア文化運動に加わっていく。「戦旗」「ナップ」「働く婦人」などに詩・小説を発表。小林多喜二が特高の拷問によって虐殺された後、その母をかばい、多喜二作品を脚色した築地小劇場での公演に同伴して、「沼尻村を見てうなづく同志小林多喜二のおつ母さん」を書いたというエピソードも残されている。戦時下となり東京での活動が困難になる中、病気療養もあり帰郷、老齢となった父母を助けて家を守ることになった。戦後、新日本文学会福井支部を結成、文学誌『ゆきのした』を創刊。病苦の中、農業や共産党員としての活動のかたわら詩作を続けた。生前の詩集に『花もわたしを知らない』(1955年)、没後に『中野鈴子全著作集』(1964年)がある。
 苦難に満ちた激動の人生であった。そうした中でも、真っ直ぐに、ひたむきに、たじろぐことなく、己の信念にしたがって生きた、意志的な姿が浮かんで来る。その作品は社会主義リアリズムに貫かれ、働く者、社会の底辺に押しやられた者たちの悲しみや怒り、喜びや力強さが表現される。
 このように人間像をつかんでみると、この詩が中野鈴子によって書かれたことが意外な気がしてくる。しかし、よくよく考えてみれば、戦前から戦後という時代に、プロレタリア運動に身を投じるようなことは、激越なまでのロマンチシズムを併せ持っていなければなし得なかったに違いない。
 残された若き日の写真をみると、聡明そうな額と、涼やかな目と、やさしい口元がいつまでも心に残る。


   「なんと美しい夕焼けだろう」

  なんと美しい夕焼けだろう
  ひとりの影もない 風もない
  平野の果てに遠く国境の山がつづいている

  夕焼けは燃えている
  赤くあかね色に
  あのように美しく
  わたしは人に逢いたい

  逢っても言うことができないのに
  わたしは何も告げられないのに
  新しいこころざしのなかで
  わたしはその人を見た
  わたしはおどろいて立ちどまった
  わたしは聞いた
  ひとすじの水が
  せせらぎのようにわたしの胸に音をたてて流れるのを
  もはやしずかなねむりは来なかった

  そのことを人に告げることはできなかった
  わたしはただいそいだ
  ものにつまずき
  街角をまがることを忘れて
  わたしは立ちあがらねばならなかった
  立ちあがれ 立ちあがれ
  かなしみがわたしを追いたてた

  わたしは
  忘れることができない
  昔もいまも
  いまも昔のように

  夕焼けは燃えている
  あかね色に
  あのように美しく

(この稿を起こすにあたって舟木信夫『詩人中野鈴子の生涯』光和堂(1997)を読んだ。『ゆきのした』の活動に参加し、鈴子の身近にいた位置から、その恋愛や人生を書き留めている。戦中から戦後にかけての変転があった。鈴子の人生は決して安楽ではなかった。晩年は辛い闘病生活となった。しかし、舟木は「むしろ悲惨よりは栄光を示している」と書いている。共感する。「その人」が誰かを特定しうる記事もあったが、ここでは触れない。)

 (なかのすずこ, 1906-1958)
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by yassall | 2013-03-09 01:24 | 詩・詩人 | Comments(2)

日々雑感 ☆NHKスペシャル「終戦」「核のゴミはどこへ」

 録画はしたが見ないままになっている番組はたくさんある。しかし、なぜか今日は見てみようか、という気になった。見終わって、これは何かを書かなくてはならないと思った。この憤りを誰かと共有せずにはいられないと思ったのだ。

 日本にポツダム宣言の受諾を最終的に決断させたのは、8月6日と9日の原爆投下と、9日のソ連参戦であったとされている。
 ソ連参戦は日本との中立条約を突然破棄してのものだったが、実は2月に開かれたヤルタ会談で、ドイツ降伏後3ヶ月以内に参戦するという密約が連合国間でなされていた。そんなことは想像だにしなかった日本はソ連に戦争終結のための仲介を要請しようとしていた。…
 それがこれまでの私(だけでなく多分は多くの日本人)の歴史の知識であった。ところが番組は、少なくとも日本の陸軍海軍はその「ソ連参戦近し」の情報をつかんでいたことを明らかにした内容だった。証拠としてあげられた最も早いものは、日本の駐在武官が本国に送った電報で、日付は5月24日である。イギリス側が解読していた資料がイギリス公文書館に残されていた。それ以外にもヨーロッパ各地に駐在していた武官たちが同内容の電報を送っている。

?????……それっていったい何?

 番組でもさまざまな角度からその理由を究明しようとしていた。軍がつかんでいた情報は外務省には知らされなかったという。日本のタテ割り機構の弊害もあげられていた。
その中で、「自分たちに都合の悪い情報は見なかったことにする」という体質があった、という指摘に、根源的な気持ちの悪さとともに、妙に納得させられてしまった。
 その「気持ち悪さ」というのは、現在の日本でもその体質は少しも変わっていないと思わざるを得なかったからである。
 「一撃和平」論なり「ソ連仲介」論なり、一度自分たちが立てた作戦に都合の悪い情報は無視したり、軽視したりするというのは、旧型の原子炉の欠陥や巨大津波による電源喪失の可能性について、何年も前からアメリカから情報を提供されていたり、国会で質問されたりしていながら、「安全神話」のもとにこれを無視してきたことと全く同じことであり、この間には何の反省も進歩もなかったことの証明でしかない。

 ソ連がドイツ降伏の後、ヨーロッパ戦線から極東に兵力を移動させるのにはそれ相当の時間と労力が必要だったはずである。その動静さえつかめないほど日本軍の情報収集能力は低かったのだろうか。昨年は、アメリカの暗号電を解読していた日本の通信兵がテニアン島に特殊な秘密兵器が搬送されていることをつかんでいたが、この情報もまた戦争指導部は握りつぶしていたという内容のNHK特集もあった。その秘密兵器こそ原爆に他ならない。戦争の闇はまだまだ深そうである。

 ※番組は昨年の8月15日に放映されたものを2月10日に再放送したもの。ネットで調べたら、昨年の段階ですでに大きな話題になっている。私が鈍感だった。10日にはもう一本「核のゴミはどこへ」も放映された。使用済み核燃料のリサイクルシステムは行き詰まっている。しかし、当面の置き場もなく、最終的な処分方法もない中で、止めたくとも止められない構造になっているところに、今日の原子力行政が泥沼に陥っていることが明らかにされていた。ここにも闇がある。

  《補足》
 ずいぶん文章を切り詰めたつもりだが、やはりその後もいろいろなことを考えてしまう。
 ソ連の参戦前に日本が降伏していたらシベリア抑留もなかったのではないかと言われるが、満州に取り残され、ようやくにして内地へ引き揚げてきた方や、シベリア抑留の体験者の証言を聞いてみると、ソ連軍の侵攻の前にどこからか情報をキャッチしていた軍上層部や満鉄の幹部などはいち早く特別列車で避難してしまったとのことだ。その情報はいったい、いつ、どのように、誰によって、どの範囲に知らされたものであるのか? これまで極秘とされ、今回初めて明らかにされたことと関連はないのだろうか?

 日本社会のタテ割り(というよりタコ壺)構造も根が深い問題だ。国家国民の全体の利益よりも自分が所属している省庁などの組織の立場が優先してしまうというのは原発行政の問題でも見られた・ることだ。その組織の中での地位を失うことを恐れ、誰も全体に対する責任を果たすことが出来ない。
 自分たちの反省も含めて考えていかなくてはならない。一度始まってしまったら、その行き詰まりが明らかになっても、立場上反対したり中止したりできなくなった、などということはどこでも起こり得ることだ。
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by yassall | 2013-03-07 17:25 | 雑感 | Comments(0)

平田オリザ『幕が上がる』

 平田オリザの『幕が上がる』講談社(2012)を読んだのは昨年の12月のこと。演劇部顧問の大先輩であるI氏から紹介された。
 読み終わってすぐに思いついたのは、これは伊藤弘成の『ザ・スタッフ』晩成書房(1994)と並んで、高校演劇のバイブルになるぞ、ということだった。
 I氏にはすぐに感謝のメールを送り、さっそく知り合いの何人かにも推薦した。ブログでも紹介しようと思っているうちに日数が過ぎてしまったが、新学期を迎える前にと思って書き始める。
  ※
 まずは講談社メルマガによるあらすじを紹介しよう。

 「北関東の高校に通うさおりは、演劇部最後の一年を迎えようとしていた。姫キャラのユッコ、黙ってれば可愛いガルル、天才・わび助らと共に、たった一度の大会に挑む。目指すは地区大会突破。そんな時、学校に新しい先生がやって来た。東京の大学で演劇をやっていたというすごい美人。
 「何だ、小っちゃいな、目標。行こうよ、全国」。え? 高校演劇は負けたら終わり。男子よりも、勉強よりも大切な日々が幕を開ける。…」

 というわけで、とある高校の演劇部員たちがコンクールをめざして芝居作りにとりくんでいく過程が描かれていく。
 ストーリーとしては単調といえば単調。だが、演劇部員だったり顧問だったことがあればすぐに思い当たるような、芝居作りの各段階で直面する様々な問題がポイントを押さえて指摘され、その解決へのヒントが順を追うようにちりばめられている。
 平田オリザの初めての小説、ということであるが、小説という異なった分野に新しい境地を求めたというより、小説のかたちを借りた劇作りの指南書という方があたっているのではないだろうか。
 そしてそれは、高校の演劇部に入部してこれから演劇を始めてみよう、という誘(いざな)いの書であるとともに、たまたま演劇部の顧問になってしまった教師たちへの励ましの書でもあるようだ。
  ※
 では、どんな言葉で我々を指南してくれるのか、いくつか書き出してみよう。

 「吉岡先生はよく、『リアルとフィクションの境目』と言う。…全部を本当のことだけで構成しても、それでリアルになるとは限らない。」

 「スポーツと違うから、みんなが一体になる必要なんてない。どれだけ違うか、どれだけ感性とか価値観とかが違うかを分かっていた方がいい。バラバラな人間が、バラバラなままで、少しずつわかり合うのが演劇、ってもちろんこれも吉岡先生の受け売りだけど。」

 「一日目が終わったときは、吉岡先生から、『演技が保守的になってる』ってダメ出しがあった。失敗を恐れて、少し間をとってしまったりするところがある。」

 「『自分の声と向き合って』これも吉岡先生の口癖だった。」

とまあ、索引を作り出したくなるようだ。

 「私はどうも、等身大のふりをして高校生の問題をわざと深刻に描くような芝居が嫌いなみたいだ。」

 と主人公にボソっと言わせているところは、芝居作りの上でも、高校演劇をどう評価するかの上でも、陥りがちな誤解に注意を与えてくれているのだろう。
  ※
 I氏が私のメールに返事をくれ、「Sさんが『ザ・スタッフ』と並べていたけれど、確かにあの本では抜けていた芝居作りの非常に大切な部分が、非常に良く書けていると思いました」と賛意を示してくれ、特に顧問の部員に対する距離感というのか、「生徒の個性と活動を第一に考えるスタンスの取り方」に共感する、とあった。

 
 「え、何、この二人。どうして稽古初日で、そんなに緊張感が出せるの。私は、置いて行かれそうな感じだった。この二人に、これから先、いったい、どんなダメ出しをすればいいのだろう。二人は、私が考えているお芝居の、もっと先に行ってしまうかもしれない。」

 と、演出を担当した部長に語らせているが、確かに高校生たちは自分たちで「もっと先」に進んでいく潜在的な力を秘めているのだから。顧問はそのきっかけを一緒に探してやればいいのだ。
  ※
 I氏は、「設定が相当高いレベルの進学校であることが、不満と言えば不満」と述べていたが、私もコンクール至上主義に見えてしまうところには(それこそ設定上やむを得ないことなのかも知れないが)疑問も残る。
 だが、

 「いや、やっぱり楽しいんだけど、楽しすぎて人生変えちゃうかもしれないし、そんなの責任持てないしね。」

 という件では、演劇部顧問が心しておかなければならないもう一つの〈怖さ〉もきちんと押さえられているなと思った。(この部分は平田オリザの個人的な独白であるかも知れないが。)
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平田オリザ『幕が上がる』講談社(2012)
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by yassall | 2013-03-04 13:49 | | Comments(2)

清水昶その1「十歳の夏に」

 清水昶の『少年』を読んだか、と私に聞いてきたのは今は岩手の住人Nであった。詩集中の「流刑の刻」などは「現代詩手帖」に発表されたときに読んでいたはずなのだが、不覚にも清水昶をはっきりと意識するようになったのはNから『少年』を借りて読んでからだった。そして、私はすぐさま自分でも『少年』を買い求めた。
 その後、『朝の道』『野の舟』までは詩集が出るたびに買った。Nにいわせると清水昶は『少年』で終わったということなのだが、私は『朝の道』の到達度は高いと思うし、最近は「野の舟」があちこちで評価されているのも分かるような気がして来ている。
 しかし、やはり『少年』なくして清水昶はいなかっただろう。それは、「荒れ草だらけの口」(「男爵」)といい、「口を割らぬせむしの男」(「せむし男の肖像」)といい、「舌つまる口」(「魂のバリケード」)という、のど元まで溢れ出しそうになりながら、いまだ言葉にならない思念にもだえ苦しみ、ひとたび堰を切ったとき、それらが言葉の渦潮となって、あるいは過剰に、あるいは奇怪なまでに歪み、混沌が混沌のまま、ぐるぐると旋回して止まぬ様に、誰しもが圧倒されるからである。
 私の『少年』は1970年3月の第2刷である。確かその前年の10月に出された初版は限定特装版ではなかっただろうか。表紙の中村宏のイラストが印刷ではなく嵌め込みのレリーフ(透かし彫り)になっていた。私は一度だけ古書店で手に取ったことがある。1万円の値がついていた。あのとき買っておけばよかったと今もって後悔している。
 そんなわけで清水昶について語るのは一度では済むまいと思うのだが、『少年』から最初の一篇をというとき、私は「十歳の夏に」をあげたいと思う。『少年』中では比較的に整っていて、それでいて「子」の運命を決定づけてしまうところの「父」なる存在との対決、その呪縛から脱け出ようとするあがき、すなわち「少年」の目覚めのようなものが、初々しく表現されていると思うからである。


  「十歳の夏に」

  犬の多い港町の突堤で
  さかな臭い十歳を自覚した夏
  鳴らないハーモニカでくちびるを切り
  愛なんていらない
  針のような独語したたる刻
  棘だらけの精神を脱ぎすて
  暗い半裸の少年に生まれ変わった夜
  火を消すために
  火酒火宴火にまつわるまぶしいおいたちに水をさし
  身もだえながら消える記憶に
  シャワーのように胸うたれているわたしは
  花言葉ほどのあでやかな抽象に身をふせ
  しんしんと眠りこむ石の部屋深く
  目覚めている男がいる
  あの港町で見失った父!
  藻の匂いをつけたまま坐りつづけていた父
  陽も差し込まぬ深い眠りの中で
  水のような女になりたいと
  真剣に夢想している私を見おろし
  ついに父は坐っていた椅子を高々とふりあげ
  はっしと眠りに椅子を叩きつけ父も粉々になる
  目覚めると
  わたしは犬たちにとりかこまれて
  灼けた八月の海の方へ逃げていた

 (しみずあきら,1940- 2011)
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by yassall | 2013-03-01 00:23 | 詩・詩人 | Comments(0)