<   2012年 11月 ( 11 )   > この月の画像一覧

11.23いま、学校図書館を考える~なぜ、学校司書が必要か~

c0252688_143004.jpg

 11月23日、 「いま、学校図書館を考える~なぜ、学校司書が必要か~」(主催:学校図書館問題研究会・学校図書館を考える全国連絡会)に参加してきました。あいにくの雨模様の中でしたが、120名収容の会場に112名の参加がありました。(会場は日本学校図書館協会、写真)
 本年7月の読売新聞に「学校司書の法制化推進確認」という記事が掲載されて以来、学校司書の法制化の実現に対する期待と先行きへの不安が一気に高まりました。
 主催者によれば、本集会はこうした動向の中、学校司書が実際にどのような役割を果たしているか、全国各地での実践を中心に明らかにしていこう、アピールしていこう、との趣旨のもとに開催されました。
 集会はその目的にふさわしい内容で成功しました。そして、参加者の声にもあったように、この集会が学校図書館関係者の長年の悲願である学校司書の法制化への第一歩であって欲しいと願わずにはいられませんでした。
 そこで、「学校司書の法制化問題について考えること」と題して、現役時代から考えてきたことや発言してきたことを文章にまとめてみました。長文になってしまいましたが、関心のおありの方にはぜひともお読みいただき、ご意見ご批判をいただければ嬉しいです。(文章、資料はカテゴリ図書館へ)

関連URL:学校図書館問題研究会 http://gakutoken.net/
by yassall | 2012-11-26 14:27 | 日誌 | Comments(0)

学校司書の法制化問題について考えること

  1
 学校司書の法制化を現実的な課題として考えたとき、ネックとなるものの一つに学校図書館法(以下、学図法)があるように思われるのは皮肉なことである。
 というのも、学図法によれば「学校図書館の専門的な職務」を掌るものとして定められているのは司書教諭であり、それは「教諭をもって充てる」とされているからである(第5条)。
 学図法が制定されたのは1953年であるが、その司書教諭は附則2項によって「当分の間」「置かないことができる」とされ、事実上棚上げされてしまった。そこで、各自治体の独自採用によって学校図書館の実務にあたる人として「学校司書」が配置されるようになった。(※1)
 したがって、1997年の学図法改正までは、「司書教諭」には実態がなく、実際に「学校図書館の専門的職務」にあたっていたのは法律に定めのない「学校司書」であったことになる。
 もしこの時点で学校教育法に明記される職(名)を新設し、職務内容と一定の資格要件を定めつつも、現職者の完全移行を果たせたら、もっとも実態に即した道であったかも知れない。(※2)
 しかし、1997年の学図法改正によって附則2項が制限付きで撤廃され、2003年から「充て」司書教諭の発令が始まった。「充て職」であることの限界は多くの人が指摘した通りであり、この10年間をみても有名無実化の実態は明らかであるとはいえ、学校図書館に「専門的職務」を掌る人を!という運動をすすめようとするとき、現行法ではそれは「司書教諭」ということになってしまうのであり、その事実性は法改正以前より重くなってしまったのである。

(※1なぜ法律に定めのない職を置くことが出来たか。学校に配属される教職員については学校教育法に規定があり、たとえば高等学校では、「前項のほか、養護教諭、養護助教諭…その他必要な職員を置くことができる」となっている(第50条)。埼玉県の高等学校管理規則に「司書」の職名が位置付いているのは、この「その他必要な職員」条項によっていると考えられる。しかし、それならばそれでよいではないか、というわけにはいかない。法律に職名がないのはその地位の安定や存続には大変なマイナス要因なのであって、定数法に乗せようにもその根拠を欠くことになってしまう。何といっても各自治体によってまちまちであることは教育の機会均等の精神に反している。
 ことのついでだが、2005年に文字・活字文化振興法が制定されたとき、「司書教諭及び学校図書館に関する業務を担当するその他の職員の充実」(第8条)の「その他の職員」とは何だと物議をかもしたことがあるが、職名にない「学校司書」を明記することが出来なかったからだろう。この問題は後でも触れる。)
(※2学図法の「充て職」としての規定を破棄し、教育職員免許法に免許取得のための資格要件(単位数)を定めるとする、いわゆる「専任司書教諭」案は、決して理想に走りすぎた主意主義の産物であったとは思われない。そこで行われた議論は将来の制度要求に生かされなければならない。)

 2
 それでは学校司書の法制化は実現の道が閉ざされてしまったのだろうか。私にはそうは思われない。そのように考える根拠を挙げてみたい。
 ①まず、現行学図法下の「司書教諭」が職といえるかどうかの問題がある。先にも触れた学校教育法には「司書教諭」という職名は明記されていない。また、その資格要件は「講習」によるのであるが、それは教育職員免許法に定められたものではない。よく誤解されることだが、司書教諭という免許状はないのである。文科省も、「司書教諭は…校務分掌の一つ」(「学校図書館の現状に対する調査(通知)」1993)であると繰り返し強調している。つまり、学校司書を法制化しても一つの「職務」に二つの「職」をつけることにはならないのである。(※3)

(※3それは屁理屈だと言われるかも知れない。「充て職」も職であることには変わりがない、現行法で「充て職」で足りるとした職務であるならばその範囲でやっていくしかないし、不十分であるとするならば担当授業時数の軽減なり、職に充てられている期間の専任化等の措置がとれるように改善していけばよいのである、と。しかし、やはり「充て職」は兼業であって本業ではない。「学校図書館の専門的職務」を遂行するためには、仕事量の上からも、専門性の上からも、求められる資質の上からも、独立した「職」が求められなければならない。)

 ②学図法改正と前後して、図書指導員など名称は様々ながら、各地方自治体による小中学校への「人」の配置がすすんでいる。それは2003年の司書教諭の発令以後も、というより近年になるほど配置に踏み切る自治体が増えているように見受けられる。残念ながらそのほとんんどは非正規雇用であるという厳しい実態があるが、採用にあたっては一定の専門性が求められているケースも多い。
 司書教諭が配置されながら、一方でこのような「人」の配置がすすんでいるという事実には、単に仕事量の問題だけではない、質的に異なる専門性の存在が明らかになりつつあり、求められるようになったということに他ならないと考えられる。(※4)

(※4仕事量の問題だけでなく、というのは、そのような「人」が配置されたとき、その学校や地域に学校図書館に対する理解と熱意をもった教職員がいるとき、それらの「人」も生き生きと活動でき、有効に機能できるのであって、少なくともその逆ではあり得ないと考えるからだ。)

 ③そして、意外に思われるかも知れないが、文科省もまた学校図書館には司書教諭とは異なる職が必要だと考えていると思われるのである。
 古くは旧文部省の諮問機関である学校図書館協議会による「学校図書館基準」に「学校図書館に司書教諭および事務職員を置く」(1953)がある。
 国会議員は選挙のたびに変わるが、官僚による行政はなかなか変化しない。良く言えば一貫性があり、悪く言えば旧弊にとらわている。このときの「事務職員」という記述がその後の様々な通知や報告における「学校図書館を担当する事務職員」という言い方になったと思われるし、先に触れた「文字・活字振興法」で「その他の職員」という言い方に変化したとき、むしろ私は学校事務一般に解消できない専門性を文科省も認めざるを得なくなったと感じ取った。そして近年では文科省も「学校司書」という呼称を用いるようになったことは周知の通りである。
 本年7月6日付の読売新聞による「学校司書の法制化推進確認」という記事以来、学校司書の法制化が急浮上してきたといわれるが、私にはそうは思われない。きっと水面下では綱引きのように様々な動きが起こっては消え、消えては起こっているという状態が続いているに違いないと、私は密かに確信しているのである。(※5)

(※5もしそうであるならば、文科省の無理解が壁なのではなく、文科省にとっても壁である財源の確保が最大のネックということになるだろう。しかし、これも絶対に超えられない壁であるとは思われない。財源が限られているのは事実としても、二人教頭や養護教諭の複数配置の進行状況をみれば、要は使い道の問題なのだとしか言えないし、国民要求と世論がどれくらい後押しするかにかかっている。あきらめてしまった方が負けなのである。)

(補1:これはまだ十分に調べていないのだが、1972(昭和47)年に附則2項撤廃・学校司書制度化を内容とする「学校図書館法」改正案が衆議院を通過した後に廃案となったことがあるとのことだ。よく「司書教諭」条項がある限り、「職務内容」を同じくする別職種は置けないと内閣法制局が突っぱねたということの真偽が問題となるが、学校司書の必要性に対する認識と運動の高まりがあればこれらの障害も突破は可能だと考えている。)

 3
 次の問題として、司書教諭と学校司書との「職務分担」の問題がある。(※6)
 1999年に日本図書館協会・学校図書館プロジェクトチームが「学校図書館専門職員の整備・充実に向けて~司書教諭と学校司書の関係・協同を考える~」で、司書教諭は「経営的・指導助言的職務」、学校司書は「奉仕的・指導助言的職務」をという職務分担論を展開したことがある。法改正後の短期間のうちによく議論をまとめ上げたものだと感心したことだったし、「奉仕的」=図書館サービスに図書館員としての専門性を認めようとしているのは正しいのだろうと考えた。
 しかし、今はどうかというと、いわゆる「四者合意」時代の「学校図書館法改正法律案要綱」(1977・80年)の、司書教諭は「学校図書館に関する校務をつかさどる」、学校司書は「学校図書館の専門的業務にあたる」が文言としてはよいのではないかと考えている。(※7)
 司書教諭が「校務」として学校図書館の仕事にかかわるというのは、文科省のいう「校務分掌の一つ」と整合性があるだろう。また図書館がその学校の校務分掌に位置づけられ、その分掌の中でリーダーシップを発揮するような存在は必要だろうし、そのような力量を所持するためには一定の講習の修了が必要とされるというのは納得性が高いだろう。
 しかし、校務分掌である限り、つまり「充て職」である限り、恒常的に図書館にかかわり続けられるとは限らないし、それでなくとも本業は授業なのである。(※8)
 とすれば、学校図書館が持続的・継続的に学校教育にかかわり、位置付くためには、どうしても「専門的職務」にあたる「職(員)」が必要であるということになる。それには「専任」であるだけでなく、「専門」性を有した職員であることが求められ、その職にふさわしい地位と待遇が与えられなければならないことは当然である。

(※6現行法下の「充て」司書教諭を破棄しての全面的な法改正がなされるなら、あるいはその問題は発生しないかも知れない。だが、そのためには膨大なエネルギーが必要とされるだろうし、またこれまでの経過にはそれなりの必然があったはずであり、それらをまったくご破算にして「革新」をめざすことが本当に正しいかどうかは慎重に判断されなければならない。)
(※7きっと問題となるのは「職務」と「業務」、「つかさどる」と「あたる」の違いだろう。「業務」は「職務」と変えた方が望ましいと考えるが、あまりこだわり過ぎる必要もないとも考えている。むしろ実態をどう作っていくかの方が重要なのだ。)
(※8もし司書教諭に存在価値があるとすれば、授業を本務とする教諭が「充て」られているところにあるのかも知れない、と考えたことがある。そのことはいつか別に論じる。)

(補2:先に触れたように、学図法に定めた司書教諭の職名は学校教育法にはない。その逆に、学図法の改正なしに学校司書を学校教育法に位置づけられないものか、と考えたことがある。たとえば「充て職」の一つに保健主事(学校教育法施行規則)があるが、学校教育法に位置づけられた養護教諭は長く保健主事になれなかった。それが何年か前から可能になったように、学校司書が司書教諭に「充て」られる道が可能性としても残されていれば、その場面でも職務職階論が克服されていくだろうと考えたのである。しかし、ここでも学図法の法律としての重みがある。司書教諭が「充て職」である限り学校教育法に職名が明記される必要はないが、学校司書が法制化されるときは学校教育法のみならず、学図法の改正も必要であるだろう。)

 4
 残された問題として、学校司書の資格要件をどのように定めるかがある。
 かつて「専任司書教諭」制度案のもとでも単位数や科目名が研究されたりしたが、現行の司書資格講習および司書教諭講習をベースにしていくのが望ましく、また十分であろうと考えている。
 司書資格を得るために必要な単位数は24単位(※9)、司書教諭講習は10単位である。そのどちらかを習得していることでよいのではとも考えるが、少々乱暴だというなら、司書資格には司書教諭講習のうち司書講習に読み替えできない科目を5単位程度および教育に関する科目を5単位程度、司書教諭資格を得るにはもともと教科に関する科目と教職に関する科目を習得していることが条件になるから、司書教諭資格には図書館に関する科目をもう10単位程度を加えるということでどうであろうか。
 司書資格に関する講座を有している大学であるならば、多くは司書教諭に関する講座も併設していることであろうし、実際には両方の資格を所持している人も多いのではないだろうか。いずれにしても新たな講座を開設したり、養成機関を設置したりする必要なしに資格の取得が可能であるようにすることが重要である。
 現職者をどうするかという問題があるが、学図法の改正が行われたときと同じように経過措置がとられることになるだろうし、先の案の通りとした場合において不足する10単位程度の内、実際には2単位程度を大学その他の養成機関の講習を受けることで資格を満たしたとすることは可能なはずである。学校司書を制度として確立するためには、資格要件のなし崩しは避けなければならないが、実務経験が正当に評価され、尊重されていかなければならないことも確かなのである。
 司書と司書教諭との二つの養成コースからの道を可能にすると、図書館に軸足を置いてきた人と、学校教育に軸足を置いてきた人とが混在することになるが、現場の中でお互いに切磋琢磨できたりすれば、様々な可能性を広げていける気がする。
 学校司書を教育職と行政職のどちらに位置づけるかがよく問題となるが、私は当然教育職であるべきだと考えている。それは何も教科を担当する教諭と同じように授業をしたり、試験をしたり、評価をつけたりすることを意味しはしない。しかし、生徒に対して利用指導や読書指導・案内をするような場面を想定すれば、それらの営みを自立的に可能にするためにも学校現場の中では教育職に位置付いていること必要なのだ。
 ただし、学校司書の法制化が実現しようとする段階で、示された法案が行政職であったとき、ノーというべきかどうかは議論の分かれるところだろう。それは先に述べた文科省内のこれまでの経緯があるからだ。私はそうなった場面でも、学校司書の職務内容がきわめて教育的な側面の高いものであり、そこにこそその専門性があるのだという認知が求められると思う。

(※9以前、司書資格を得るために必要な単位数を20単位と書いたが、「図書館法施行規則の一部を改正する省令及び博物館法施行規則の一部を改正する省令」により、2012年4月1日から13科目24単位に改められていた。訂正したい。)

(補3:現職者の中には先に示したような資格要件をどうしても満たせない人たちもあるかも知れない。賛否両論があるとは思われるが、その人たちが蓄積してきた技術や見識を生かすために、学校司書補の職も併記することを検討できないだろうか。)

 5
 現役時代から考えたり、発言したりしてきたことを整理してみようと思って書き始めたが、まだまだ不十分であることを認めざるを得ない。とくに、こうした問題に初めて触れるような人にも分かりやすくするには、さらに根本的な問題から説き起こしていかなくてはならないだろうが、そうしてみて果たしてそれらの人々が付いて来てくれるかどうかもわからない。
 いずれにしてもこの問題については、私自身今後もかかわり続けていきたいと考えているし、こうした論述も書き加え、書き換えていかなければなるまいと考えている。そのためにも、誤りの指摘やご批判はいつでも受けたいとも考えている。
 ※
 また、現役時代に書いたものや発表したものを資料として添付していきたいと考えている。自分の記録のためというのが第一の理由なのだが、竹頭木屑のたとえのように、何かの役に立つことがあれば幸いと思っている。
 最初に添付するのは埼玉県高等学校図書館研究会(以下、埼玉高図研)の夏期講習会で担当した分科会「学校図書館政策の変遷」の発表資料である。私にとっては最後の分科会発表となった。
 箇条書き形式で、内容が読み取りづらいと思われるが、5の「新しい時代の到来と学校図書館」に見られるように、1980年代の後半から文科省は文科省なりに教育の危機と改革の必要性を感じており、その改革の試みの中で学校図書館の見直しをすすめようとしていることは確実に見て取ることができる。
 それらの潮流を読み誤らず、学校司書の制度化を実現していこうとするならば、学校司書制度のあり方、その資格要件や養成のあり方、現行法下の司書教諭との関係、現職者移行の手立てなどについて、早急に議論をすすめ、大多数の人々が結集しうるような一致点を見いだしていくための努力を惜しんではならない。学校司書の法制化が急浮上したとき、その用意がなく、一番慌てふためいたのが要求をかかげて頑張って来た人だった、というようなことがあってはならないのである。

【補足】
 文中4で、学校司書の資格要件について、「司書資格には司書教諭講習のうち司書講習に読み替えできない科目を5単位程度および教育に関する科目を5単位程度」、計10単位を加えたらどうか、という提案をした。
 1998年に改正された「学校図書館司書教諭講習規程」では、司書教諭の講習科目は5科目10単位となっている。1科目あたりの単位数が2単位であるから、当然5単位という選択の仕方はあり得ない。教育に関する科目についても、各大学等で開講されている単位数が奇数であることはあまりないと思われる。
 そこで、上記の提案については、司書資格24単位に加えること10単位程度、そのうち学校図書館に関する科目と教育に関する科目とを半々程度とする、という基本方向を示したものだと理解していただきたい。
 また、1997年に学図法が改正されたとき、司書講習と司書教諭講習とを分離した経緯があるとのことであるが、開講されている科目を選択的に修得することに支障があるとは思われないし、それをもって新たな資格要件とすることに問題があるとは思われない。
 単位数を増やすことによって専門性を確保するという考え方はもっともであるが、学校図書館に勤務する専門職員は幅広い教養の持ち主であって欲しいと思うし、様々な教養科目や専門科目の履修を可能にするためにもハードルを上げすぎることが望ましいとは限らないと考える。学校図書館専門職員には勤務についた後も日常不断の研修が求められよう。そのためにも幅広い視野や様々な分野に対する興味・関心の高さが望まれるだろう。そのベースとなるものは教養である。
 学校図書館に独自の専門性を認めるなら、公共図書館での勤務を想定した司書講習とは異なった、独自のカリキュラムがあるべきだ、という考え方もあるかも知れない。だが、学校図書館教育の目的の一つに、問題解決のために生涯にわたって図書館を活用する態度を養う、ということがあるとすれば、学校図書館と公共図書館に関連性がないとはいえないだろう。また、養成の過程にあっては、早期に公共図書館に進むか学校図書館に進むかを分離させるより、両方の可能性を残しておいた方が豊かな人材を育てることにつながるように思われる。(2013.1.25)

学校教育法おける職員の規定については小中学校と高等学校では細目がことなっています。以下は学校教育法の抜粋ですが、第37条が小学校(中学校はこれに準ずる)、第60条が高等学校です。(2013.1.28)

第三十七条  小学校には、校長、教頭、教諭、養護教諭及び事務職員を置かなければならない。
○2  小学校には、前項に規定するもののほか、副校長、主幹教諭、指導教諭、栄養教諭その他必要な職員を置くことができる。
○3  第一項の規定にかかわらず、副校長を置くときその他特別の事情のあるときは教頭を、養護をつかさどる主幹教諭を置くときは養護教諭を、特別の事情のあるときは事務職員を、それぞれ置かないことができる。
○4  校長は、校務をつかさどり、所属職員を監督する。
○5  副校長は、校長を助け、命を受けて校務をつかさどる。
○6  副校長は、校長に事故があるときはその職務を代理し、校長が欠けたときはその職務を行う。この場合において、副校長が二人以上あるときは、あらかじめ校長が定めた順序で、その職務を代理し、又は行う。
○7  教頭は、校長(副校長を置く小学校にあつては、校長及び副校長)を助け、校務を整理し、及び必要に応じ児童の教育をつかさどる。
○8  教頭は、校長(副校長を置く小学校にあつては、校長及び副校長)に事故があるときは校長の職務を代理し、校長(副校長を置く小学校にあつては、校長及び副校長)が欠けたときは校長の職務を行う。この場合において、教頭が二人以上あるときは、あらかじめ校長が定めた順序で、校長の職務を代理し、又は行う。
○9  主幹教諭は、校長(副校長を置く小学校にあつては、校長及び副校長)及び教頭を助け、命を受けて校務の一部を整理し、並びに児童の教育をつかさどる。
○10  指導教諭は、児童の教育をつかさどり、並びに教諭その他の職員に対して、教育指導の改善及び充実のために必要な指導及び助言を行う。
○11  教諭は、児童の教育をつかさどる。
○12  養護教諭は、児童の養護をつかさどる。
○13  栄養教諭は、児童の栄養の指導及び管理をつかさどる。
○14  事務職員は、事務に従事する。
○15  助教諭は、教諭の職務を助ける。
○16  講師は、教諭又は助教諭に準ずる職務に従事する。
○17  養護助教諭は、養護教諭の職務を助ける。
○18  特別の事情のあるときは、第一項の規定にかかわらず、教諭に代えて助教諭又は講師を、養護教諭に代えて養護助教諭を置くことができる。
○19  学校の実情に照らし必要があると認めるときは、第九項の規定にかかわらず、校長(副校長を置く小学校にあつては、校長及び副校長)及び教頭を助け、命を受けて校務の一部を整理し、並びに児童の養護又は栄養の指導及び管理をつかさどる主幹教諭を置くことができる。

第六十条  高等学校には、校長、教頭、教諭及び事務職員を置かなければならない。
○2  高等学校には、前項に規定するもののほか、副校長、主幹教諭、指導教諭、養護教諭、栄養教諭、養護助教諭、実習助手、技術職員その他必要な職員を置くことができる。
○3  第一項の規定にかかわらず、副校長を置くときは、教頭を置かないことができる。
○4  実習助手は、実験又は実習について、教諭の職務を助ける。
○5  特別の事情のあるときは、第一項の規定にかかわらず、教諭に代えて助教諭又は講師を置くことができる。
○6  技術職員は、技術に従事する。
by yassall | 2012-11-26 13:52 | 学校図書館 | Comments(0)

資料「学校図書館政策の変遷」

 学校図書館政策の変遷 2010/8
                                        
0.戦前における学校図書館政策
 1873(明治6)年 文部省『小学校建設図』書籍室(図書室)あるもほとんど作られず。
 1924(大正13)年 文部次官通牒『文部時報』「近来小学校ニ於テ教科書ノ解説書若クハ教科書類似ノ図書ヲ副教科書又ハ参考書ト称シテ使用セシムル向有之ヤノ趣右ハ教育上尠カラザル弊害ヲ来スルモノト存ゼラルルニ付厳重ニ御取締相成依命此段通牒ス」
※大正自由主義教育に対する対応か?
 1928(昭和3)年 「御大禮記念事業勧奨ニ関スル件」児童文庫・図書室の設置
 1938(昭和13)年 内務省「児童読物改善ニ関スル指示要綱」
 1939(昭和14)年 文部省「児童図書推薦事業」良書・善導教育

1.戦後初期の学校図書館政策
 1946(昭和21)年 文部省『新教育指針』「図書室・実験室・工作室・保険設備、その他の教室などは、もっと内容が充実せられた上に、もっと自由に使用しうるように、児童に開放されることが重要である」
 1947(昭和22)年 「教育基本法」
 1947(昭和22)年 「学校教育法施行規則」「学校には、別に定める設置基準に従い、その学校の目的を実現するために必要な校地、校舎、校具、運動場、図書館又は図書室、保健室その他の設備を設けなければならない」
 1948(昭和23)年 文部省『学校図書館の手引き』「学校図書館は、新しい教育においては、きわめて重要な意義と役割を持っている」
 1949(昭和24)年 学校図書館協議会『学校図書館基準』(~1959年)
※学校図書館協議会は文部省の諮問機関として1948年に設置。
※1949年文部省『学校図書館の手引き』をテキストに講習会(学校図書館協議会)を開催。
※上記講習会参加者を中心に各地で学校図書館協議会を設立。1950年全国学校図書館協議会(全国SLA)設立。

2.「学校図書館法」の成立と展開
 1953(昭和28)年 「学校図書館法」成立
※国民運動:全国SLAによる請願署名92500名余。
※議員立法:
※『基準』の法制化から「学校図書館法」へ:
※第15国会「幻の学校図書館法」:免許制の司書教諭
 1954(昭和29)年 文部省「学校図書館司書教諭講習規程」告示
 1958(昭和33)年 「学校図書館法」一部改正:13条国庫負担金は高校のみに。
 1966(昭和41)年 「学校図書館法」一部改正:学校図書館審議会を規定した2章8~12条を削除
 1972(昭和47)年 「学校図書館法」改正案衆院通過後廃案:附則2項撤廃、学校司書制度化

3.50・60年代の学校図書館政策
 1958(昭和33)年 文部省『学習指導要領』改訂:「学校図書館の資料や視聴覚教材等については、これを精選して活用すること」
 1959(昭和34)年 文部省『学校図書館運営の手引き』:教材センター
 1960(昭和35)年 文部省『学校図書館における図書以外の資料の整理と利用』:資料センター
 1967(昭和42)年 文部省「公立高等学校の設置、適正配置及び教職員定数の標準等に関する法律」一部改正:学校図書館事務の充実を図るため、生徒数810名(その後の改正で18学級、さらに1992年12学級以上に)以上の全日制の課程または定時制の課程について事務員1名を加算」※義務制の学校については翌年「学校図書館の重要性とその事務量を考慮して」

4.「学校図書館法」の改正
 1997(平成9)年 「学校図書館法」一部改正:附則2項「当分の間」を「平成15年3月31日までの間(政令で定める規模以下の学校にあっては当分の間)」に
 1997(平成9)年 文部省「学校図書館の充実等に関する調査研究協力者会議」設置
 1998(平成10)年 文部省「学校図書館司書教諭講習規程の一部を改正する省令」
   ※学校図書館通論(1)、学校図書館の管理と運用(1)、図書の選択(1)、図書の整理(2)、図書以外の資料の利用(1)、児童生徒の読書活動(1)、学校図書館の利用指導(1)の7科目8単位から、学校経営と学校図書館(2)、読書と豊かな人間性(2)、学校図書館メディアの構成(2)、情報メディアの活用(2)、学習指導と学校図書館(2)の5科目10単位へ
   ※1975年『覚書』=「四者合意」
    1977年『学校図書館法改正法律案要綱』(「四者合意案」)
    1978年 衆議院法制局『学校教育法及び学校図書館法の一部を改正する法律案』(試案)
    1980年『学校教育法及び学校図書館法の一部を改正する法律案要綱』提出
    1981年四者話し合いで、日教組は「『四者合意』をふまえながらも当面、最重要課題として『学校司書』の制度化の運動を先行させたい」。日高教は賛意。
    1987年 日教組臨時大会『新しい司書教諭制度=専任司書教諭制度』機関決定
   ※1993年「子どもと本の議員連盟」設立

5.新しい時代の到来と学校図書館
 (1)「教育改革」「新しい学力観」との関連
 1989(平成1)年 文部省『高等学校学習指導要領』改訂:「視聴覚教材や教育機器などの教材・教具の適切な活用を図るとともに、学校図書館を計画的に利用しその機能の活用に努めること。」 
 1998(平成10)年 文部省「情報教育の推進等に関する調査研究協力者会議」『最終報告』「学校図書館が学校の情報化の中枢的機能を担っていく必要が有ることから、今後、司書教諭には、読書指導の充実とあわせ学校における情報教育推進の一翼を担うメディア専門職としての役 割を果たしていくことが求められる」
 (2)子どもの変化と新しい課題
 2001(平成13)年 文科省「子どもの読書活動の推進に関する法律」
 2002(平成14)年 文科省「子どもの読書活動の推進に関する基本的な計画」:「学校図書館は、児童生徒の自由な読書活動や読書指導の場として、さらには想像力を培い学習に対する興味・関心等を呼び起こし豊かな心を育む読書センターとしての機能と、児童生徒の自発的、主体的な学習活動を支援し、教育課程の展開に寄与する学習情報センターとしての機能を果たし、学校教育の中核的な役割を担うことが期待されている。特に、学校教育においては、児童生徒が自ら考え、主体的に判断し、行動できる資質や能力などの「生きる力」を育むことが求められており、学校図書館には、様々な学習活動を支援する機能を果たしていくことが求められる。」
 2002(平成14)年 「学校図書館図書整備5か年計画」
 2002(平成14)年  中教審「新しい時代における教養教育の在り方について」答申:「美術館や博物館,図書館等が子どもの教育に取り組むことは,子どもの教養の涵養にとっても,これら施設の活性化にとっても意義が大きい。」
 2005(平成17)年 文字・活字文化振興法:「国及び地方公共団体は、学校教育における言語力の涵養に資する環境の整備充実を図るため、司書教諭及び学校図書館に関する業務を担当するその他の職員の充実等の人的体制の整備、学校図書館の図書館資料の充実及び情報化の推進等の物的条件の整備等に関し必要な施策を講ずるものとする。」
 2008(平成20)年 文科省「子どもの読書活動の推進に関する基本的な計画(第二次計画)」
 2009(平成21)年 文科省「これからの学校図書館の活用の在り方等について(報告)」子どもの読書サポーターズ会議:(発足は2007年)
※2003・2006年OECD(経済開発機構)生徒の学力到達度調査(PISA):読解力

6.「新学習指導要領」と学校図書館
 (1)『総則』
「学校図書館を計画的に利用しその機能の活用を図り、生徒の主体的、意欲的な学習活動や読書活動を充実すること。」(「5教育課程の実施等に当たって配慮すべき事項」(11))
 (2)『国語』
「自分の読書生活を振り返り、読書の幅を広げ、読書の習慣を養うこと。」(「国語総合」 「3内容の取り扱い」)
 (3)『総合的な学習の時間』
「横断的・総合的な学習や探究的な学習を通して、自らの課題を見付け、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する資質や能力を育成するとともに、学び方やものの考え方を身に付け、問題の解決や探究活動に主体的、創造的、協同的に取り組む態度を育て、自己の在り方生き方を考えることができるようにする。」
 (「目標」)
「学校図書館の活用、他の学校との連携、公民館、図書館、博物館等の社会教育施設や社会教育関係団体等の各種団体との連携、地域の教材や学習環境の積極的な活用などの工夫を行うこと。」(「指導計画の作成と内容の取扱い」)

 「学校図書館はまた指導機関である。問題解決のために図書館を有効に利用する方法を会得させ、読書指導によって読書の習慣づけ・生活化を教え、図書館利用を通して社会的民主的生活態度を経験させる。」(『学校図書館基準』1959)


補.「学校司書」の法制化の展望

○「学校図書館基準」(1959)
「学校図書館に司書教諭および事務職員を置く。」
○「学校図書館法の一部を改正する法律等の施行について(通知)」(1997/6/11)
「学校図書館担当の事務職員は、図書館サービスの提供及び学校図書館の庶務・会計の職務に従事
しているもの」
○「子どもの読書活動の推進に関する基本的な計画」(2002/8)
「学校図書館を担当する事務職員は、司書教諭と連携・協力して、学校図書館に関する諸事務の処 理に当たっている。今後、学校図書館の活用を更に充実するため、各地方公共団体における事務職員の配置の取組を紹介して、学校図書館の諸事務に当たる職員の配置を促していく。」
(旧案『学校図書館を担当する事務職員は、司書教諭を補佐し、学校図書館に関する諸事務の処理に当たっている。』)
○「文字・活字文化振興法」(2005)
 2 国及び地方公共団体は、学校教育における言語力の涵養に資する環境の整備充実を図るため、司書教諭及び学校図書館に関する業務を担当するその他の職員の充実等の人的体制の整備、学校図書館の図書館資料の充実及び情報化の推進等の物的条件の整備等に関し必要な施策を講ずるものとする。(8条)
○「学校図書館のチカラを子どもたちのチカラに」(2008/6)
 「学校図書館活動の充実を図る上では、例えば高校だけでなく、小中学校にも「学校司書」を配置して、司書教諭等と連携しながら、多様な読書活動を企画・実施したり、図書サービスの改善を図ったりしていくことなども有効です。」(学校図書館の諸事務に当たるいわゆる「学校司書」は、各地方公共団体・学校の実情に応じて、その配置が勧められてきています。)
○「これからの学校図書館の活用の在り方等について(報告)」(2009/3)
 「学校図書館の業務の専門性を考え合わせると、専門的な知識・技能を有する担当職員である、いわゆる「学校司書」の役割が重要となる。学校図書館担当職員については、現在、その職務内容の実態等は様々となっているが、「学校司書」として、図書の貸出、返却、目録の作成等の実務のほか、資料の選択・収集や、図書の紹介、レファレンスへの対応、図書館利用のガイダンスなど、専門性を求められる業務において大きな役割を担っている例が少なくない。」
○中教審「今後の学級編制及び教職員定数の改善について」答申(2010/7)
 「学校教育の中で学校図書館が十分に活用され読書活動が推進されるよう、学校図書館業務の充実に向けた教職員定数の改善が必要」


《参考文献》
「学校図書館法改正」 全国学校図書館協議会(1983)
「学校図書館論」塩見昇 教育史料出版会(1989)
「学校教育と図書館」 第一法規(2007)
「学校図書館の光と影」 八千代出版(2007) 
by yassall | 2012-11-26 13:37 | 学校図書館 | Comments(0)

紅葉の長瀞

 11月22日、紅葉を撮りに長瀞へ行って来ました。長瀞はかれこれ15年ぶり。もちろんその当時はフィルムカメラでした。
c0252688_1974958.jpg

 三連休の前日ということで観光客はそこそそ。それでもライン下りの舟がつぎつぎ下って来ました。
c0252688_1816271.jpg


 ここ一週間かなとは思っていましたが、午後から晴れという天気予報が当たりそう!というのを確認してからの出発でした。空模様を見てからでも間に合うのが東上線沿線族の利点ですね。
c0252688_18211739.jpg

c0252688_18295364.jpg

 紅葉は町のHP情報ほどではありませんでしたが、もう少しもう少しと思っているうちに盛りが過ぎてしまうのも紅葉。青空の下、日光に輝く赤や黄に色づいた葉を見られれば満足です。
c0252688_18533132.jpg

 今回はこれまでパスしていた宝登山神社も参拝して来ました。
c0252688_18375512.jpg

 機材はG3。主としてオリンパスの9-18mmをつけて使っています。望遠側をカバーするため、Nikonのs8200をサブカメラとして持って行きました。帰りがけの夕空にかかっていた月をパチリ。
c0252688_1844354.jpg

by yassall | 2012-11-22 18:08 | 風景 | Comments(0)

2012年埼玉県高等学校演劇中央発表会

c0252688_18341421.jpg

 11月17、18日と高校演劇中央発表会に行って来ました。会場は今年も彩の国さいたま芸術劇場(写真)。
 昨年度は西部A地区から新座柳瀬高校、元西部A地区のS先生が顧問でおいでの県立坂戸高校が出場したこともあり、なんで定年退職後にと思いながら出かけて行きましたが、なんと今年は二日間とも朝一から、昨日は6校、今日は4校のお芝居を見させてもらうことになりました(現役時代以上の熱心さ)。
 舞台の上の主役はあくまで生徒! 若い人たちが短い期間の間に才能を開花させ、舞台の上で輝いている姿は本当にまばゆいばかりです。
 『存在と時間』の著者ハイデガーは、存在が〈現〉われるためには光が必要である、光に照らし出されることによって初めて存在が〈現〉われるのだ、というようなことをいっているそうです。
 スポットライトに照らし出された舞台の上の役者そのものではないでしょうか? あたかもそこで初めてその人本来の姿が実現されているようにさえ思われてなりません。
 今年、関東大会へ選ばれた学校は筑波大付属坂戸高校、入間向陽高校、秩父農工科学高校の3校でした。ひるがえって、他の7校はこの県中央大会が最後の舞台になったわけですが、君たちは輝いていたよ、そのことを私は忘れないよ、といってあげたい気持ちです。

c0252688_046950.jpg

 会場の最寄り駅、与野本町駅前のプロムナードに小バラ園があります。卒業生の中には懐かしいと感じる人もいるのでは。今年もきれいに咲いていました。




 
 
 
 
by yassall | 2012-11-19 00:53 | 高校演劇 | Comments(1)

村上春樹『1Q84』

 村上春樹の『1Q84』をやっと読んだ。やっと、というのは読み終わるまでに時間がかかった、という意味ではなく、かつての同僚やさらには生徒からも「面白かったですよ。」とか「読んでみたら。」とすすめられながら、なかなか手に取る気になれなかったという意味である。
 もう発表されてからずいぶん時間がたったので、おそらくは精緻な読解がなされているのだろう。それらを参照することもなく書き始めるので、いかにも底の浅いものになってしまうだろうが、感想など記してみたい。

 まず、文庫本で6冊になる大部を一気に読ませる筆力はなかなかのものだと思う。仕掛けに手が込んでいて、さまざまに配置された暗喩も、謎が謎を生む迷宮仕立てになっている。 

 だが、謎が謎のまま放置されているケースも多く、たとえばプロローグに登場するタクシーの運転手などはかなり魅力的に造形されているが、「見かけにだまされないように」という暗示的な忠告ともどもそれきりになっている(ように見える)。全体としてなにか生煮えのままの料理を食べさせられているような不満を感じたことも確かだ。

 この作品に先立って『アンダー・グラウンド』があることから、オウム事件を背景にしていることが推察されるが、カルトがなぜ人間の心をとらえるのか、またカルトにとらえられた人間とその集団がどうなっていくのかについても深められている様子がない。(作品を読んでみると、描かれている宗教集団「さきがけ」はオウムというより、ヤマギシ会に近いような気もする。オウムとヤマギシは明らかに違うし、ヤマギシに飛び込んで行った知人もいるので、カルトとして同一視するのもためらわれるが…。)

 「世界とは、「悲惨であること」と「喜びが欠如していること」との間のどこかに位置を定め、それぞれの形状を帯びていく小世界の、限りない集積によって成り立っているのだという事実を、窓の外のその風景は示唆していた。」(2-12章)

 もしかすると、これが村上春樹の世界観の基底をなしているのでないかと考えてみる。「生きるとは雪かきをするようなもの」「ゼンマイ仕掛けの時計のように生きる」(正確でないかも知れない)といった、これまでの作品の端々に散見される呟きとも共通している。
 そうしてみると、青豆と天吾の「僕らがこうして出会うこと」が「この世界に入ってきた目的」(3-30章)というクライマックスは、壮大な恋愛劇として、作者が自らのペシミズムを克服しようとする試みであるのかとも考えた。久しぶりに「対幻想」などという言葉も連想した。
 だが、青豆や天吾の造形に問題はないだろうか。青豆は自分が手を下した殺人行為に裏切られることはないのだろうか。間テキスト理論を持ち出してしまえばそれまでだが、仕立ては池波正太郎の梅安さながらに暗殺者として設定してしまうと、人物造形に矛盾や破綻が避けがたく生じてしまうように思われる。やがて青豆は新しい生命を宿すものとなるのだから。

 最後に。
 この作品を父と子の物語として読むと、これまでとまったく様相が変わって、なにか突き刺さってくるもの、それでいて心の底で凍りついていたものが溶かされていくのを感じることができる。それは青豆と父、天吾と父の物語のそれぞれについていえるのだが、とくに天吾の物語で明らかに主題をもって描かれている。

 「でも今となってはそんなことはどうでもいい。どこに繋がっていようが、どこに繋がっていまいが、僕は僕だ。そしてあなたは僕の父親なるものだ。それでいいじゃないかと思った。それが和解と呼べるのかどうか僕にはわからない。あるいは僕は僕と和解した。そういうことかもしれない」(3-12章)

 実はこの夏、安岡章太郎の『海辺の光景』を再読したのだが、『海辺の光景』のつぎのような一節と、村上春樹の『1Q84』の上記の一節とは、人それぞれの母と父との出会いと別れを描いて、双璧をなしているかも知れないと思った。

 「息子はその母親の子供であるというだけですでに充分償っているのではないだろうか? 母はその息子を持ったことで償い、息子はその母親の子であることで償う。彼等の間で何が行われようと、どんなことを起こそうと、彼等の間だけですべてのことは片が付いてしまう。」

 『海辺の光景』は『海辺の光景』で、安岡章太郎の残酷なまでの視線にたじろがされるのだが、それだけ母との別れには膨大なエネルギーが必要とされるということだろう。
 私は父となることはなかったのだが、『1Q84』を読むと父なる存在の孤独と、村上春樹の鎮魂の思いが伝わってくるような気がする。

c0252688_1505448.jpg

 写真は横浜の夕暮れ





 
by yassall | 2012-11-16 15:01 | | Comments(2)

笠井潔『8.15と3.11』と竹田恒泰『これが結論!日本人と原発』

 笠井潔が『8.15と3.11』の中で、「原発は差別の構造を不可避的に生み出す。稼働させ続けるには、放射能被爆の危険にさらされる現場労働者の存在が不可欠だからだ。…諸個人の自由を必然的に制限し剥奪するシステムだからこそ、原発は否定されなければならない」と述べている。
 皇室に連なる家に生まれ、「生粋の保守派」を自他共に認めている竹田恒泰は『これが結論!日本人と原発』で、「原発で働く労働者は路上生活者のなかから確保される場合も多く、弱みに付け込むように、数万円の日当をちらつかせて人数を確保するのである。生活力があれば、わざわざ原発の除染の仕事を好んで引き受ける人はいないだろう。そこには「愛」がない」から反対なのだ、と述べている。
 ときどき、原発に反対か賛成かの問題をイデオロギーの対立に矮小化しようとする論調があるが、立場をまったく異にするこの二人が同様のことを述べているのをみたとき、それが全然的外れであることがわかる。
 ましてや、原発を稼働させないと雇用を失う人がいる、だから必要悪なのでは…などという言説に惑わされてはならないだろう。作業員の人たちを宿泊させるという民宿にしたって本業は漁業や農業なのであり、ひとたび原発事故が起こればそれらの産業は壊滅に瀕することになってしまう。そして、今日の産経ニュースによれば福井・おおい町での原発再稼働は「地元経済の浮揚には直結していない」というのが実際なのだ。
 そして、引き起こされてしまった現実をみるとき、福島原発の廃炉までにいったい何人の現場労働者が動員されるのか(そもそも動員され得るのか、その人数はどう確保されるのか)、おそらくは私が生きているうちは廃炉の完了を見ることはあるまいと思うと本当に胸が痛むのである。
 ごく最近、福島原発を視察した後、「人類が生み出した技術を放棄するのは愚かなこと」と言い放った御仁がいるが、私にいわせれば現在の原発なんて、原子力を使ってお湯を沸かしているだけなのだ(それくらいしか出来ていないということ)。これに比べれば太陽光を電気に変える技術の方が特段に未来的である。これも竹田恒泰と柄谷行人が同じことを言っているのに驚かされたのだが、当面はガスによる火力発電を中心として(熱効率のよい発電機が開発されているとのこと)、再生エネルギーの開発と普及をすすめるのが未来に通じる道であると思う。(アメリカがすすめているシェールガスは水質汚染の危険性が大きいらしいが。)

笠井潔『8.15と3.11』NHK出版新書(2012.9.10)
竹田恒泰『これが結論!日本人と原発』小学館新書(2012.3.14)
by yassall | 2012-11-12 19:12 | | Comments(0)

教育のつどい2012埼玉県教育研究集会

 昨日、教育のつどい2012教育研究集会に参加のため、伊奈町まで出かけて来た。国語教育の分科会に初めてレポートを提出した。
 今になって何のレポート?といわれそうだが、この7月まで2ヶ月半、非常勤講師として元の職場に復帰していたとき、いつかやってみたいと思っていたグループ学習を「山月記」でこころみた。そのとき作成したプリントやらをまとめてレポートにした。グリコではないけれど、一粒で二度おいしい思いをしようというわけだ。
 国語教育の分科会に一度レポートを出してみたかった、というより出さないといけないような気がしていた。これで心残りがひとつ減った。
 閉会後は大宮から湘南ラインを乗り継いで池袋回りで永田町へ。首都圏反原発連合が主催する「反原発100万人大占拠」行動に駆け込み参加。あいにくの雨模様だったが、その場に居合わせることが出来ただけでもよかったと思っている。

c0252688_19333860.jpg

 今年の会場は伊奈学園総合高校 紅葉がきれいでした

 
by yassall | 2012-11-12 19:11 | 日誌 | Comments(1)

岡崎武志『上京する文学』

面白そうな本を見つけた。
岡崎武志『上京する文学』新日本出版社
著者は古本ライターとあるが、近代日本文学(および文学者)に対する並々ならぬ愛着がうかがえる。
類書では次の2冊が面白かった。
坪内祐三『「近代日本文学」の誕生』PHP新書(2006)
関川夏央『「一九〇五年」の彼ら』NHK出版新書(2012)
1905年5月27日は日露戦争の命運をわけた日本海海戦のあった日。関川夏央はこのとき日本の近代化=国民国家の頂点があったという。その年に文学者たちが何をしていたかと、それぞれの晩年をルポしている。東京という都市が形成される過程と、近代国民国家の形成は軌を一にしていると考えていいと思うので、そのへんも合わせみながら今回の本も読んでみたい。
少し古いが近代日本文学に対する愛着という意味では次も力作だと思う。
嵐山光三郎『追悼の達人』新潮社(1999)
本郷・菊坂を歩いたのは昨年の今頃。高校時代に田宮虎彦の「菊坂」を読んだ頃から、想像の世界では親しんでいたのだが、実際に歩いたのは初めてだった。樋口一葉ゆかりの井戸もカメラにおさめたが、あまりにも知られているので、写真は炭団坂。宮沢賢治も上京の際、このあたりに下宿したはず。

c0252688_16435425.jpg

岡崎武志『上京する文学』新日本出版社(2012)
by yassall | 2012-11-10 16:31 | | Comments(2)

アンソール展

c0252688_19514977.jpg

 アンソール展へ行ってきた。開催は11月11日までなのですべり込みセーフというところ。アンソールは以前にも見たことがあったような気がしていたので、どうしようかとぐずぐずしているうちに(いつものことだけれど)ギリギリになってしまった。
 骸骨と仮面という禍々しい世界を描きながら、なぜか心を引き寄せられてしまうのは、どこか祝祭的な雰囲気があるからだろうか? それとも祝祭そのものが本来禍々しさを本質としているからだろうか?
 今日の展覧会によると、アンソール自身はブルジョワ的な世界観に精神的基盤を持っていたようで、必ずしも中世的・神話的世界に親和を感じていたような人物ではないらしい。まあ、ちゃんと研究したわけではないからそれは分からない。また、時代を考えればそれらは否定すべきものでもない。
 ところで西洋絵画にはよく骸骨がモチーフに用いられるが、これは「メメント・モリ(死を忘れるな)」という表象として描かれるのだとのこと。これに関連して「死の勝利」という題材があって、これは愛は純潔に勝てず、その純潔も死には勝てない、という14世紀イタリアのペトラルカという人の「凱旋」という詩から来ているとのことだ。では、死が最終的な勝利者であるかというとそうではなく、死に勝るものは名声、さらに時と続き、最後に勝利するのは永遠である、ということになるのだとか。
 どこで読んだのだったか…。まあ、こんな雑談を知ったかぶりについ付け加えたくなるのも、長い教員生活の性というところでしょうかね。 

c0252688_206458.jpg

 損保ビル(新宿)42階からのながめ。こちらもけっこうシュール。もう少し夕暮れの雰囲気があると良かったのだけれど。

c0252688_14271033.jpg

 損保ジャパンビル。入館前の空模様はこんな感じ。
by yassall | 2012-11-08 20:08 | 日誌 | Comments(1)