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カテゴリ:本( 34 )

島崎隆『思想のシビルミニマム』☆ノート

 書棚を整理していたら奥の方から見つかった。「あれ?こんな本持ってたっけかな?」と目次を見てみると、なかなか興味深そうなテーマが扱われている。では、と机に向かって読み始めてビックリ! いたる所に赤線が引いてあって、けっこう精読した跡がある。(「積ん読じゃなかったんだ…。」)赤線は最後の方まで引かれていて、途中で投げ出した形跡もない。なのに中身はさっぱり思い出せないのである(ああ!)。
 現役時代の自分の読書を振り返ると、そのときどきの必要や関心にまかせて読むには読んだが、読み放しだったという反省がある。しかし、ここまでとは!
 いったい私のようなものに読書する価値があるのだろうか、と自己嫌悪に近いものを感じながら、いや、忘れてしまったようでもきっと私の中に血肉化しているものがあるはずだ、とも思い返し、今度はノートをとりながら再読してみる。
 ※
(この書の問題意識)
 出版されたのは1991年4月22日であるが、時代的な背景に1989年11月9日のベルリンの壁の崩壊に象徴される東欧革命があることは明らかである。
 それは第1章で、加藤哲郎の「(東欧改革は)フォーラムによる平和的市民革命」であった、を引用しながら、「社会主義の改革と対話の問題」を課題として掲げているところからも知ることができる。
 私がこの書を読んだのが何年であるのかは記録がないのだが、(したがって私自身がその時どのような問題意識をもって読んでいたかは不明なのであるが)、その1991年の12月25日にはソ連が崩壊してしまった。この書が「社会主義の改革」を提起しようとしていたとしたら、その大部分は戦後世界を揺るがした激動の中で立ち消えになってしまっている。
 だが、と考える。多くの人は世界がこのままで良いとは考えてはいまい。今もまだ革命あるいは改革が必要とされているのではないか?
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(市民社会・民主主義・対話)
 「市民社会・民主主義・対話」がキーワードである。それらが検証される。政治的市民社会(A)の物質的基礎は経済的市民社会(B)である。Aにおいての「個人の自由」はBにおける「営業の自由」であり、「平等」は「等価交換」であるというふうに。
 さらに大衆社会の到来によって民主主義もまた常に衆愚政治・暴民政治の危機をはらんでいることが指摘される。
 市民社会は社会構成体としては存在せず、近代社会の一側面として実在するとされ、階級、格差、環境などの問題が解決されていないことが指摘される。
 筆者が展望しようとしているのは「自発にもとづく共同性」「諸個人の自由な交通」(マルクス『ドイツ・イデオロギー』)概念を導入することによって大衆的市民社会(C)を構築することである。
 そのため「自由・公正・連帯」を理念とする対話共同体(ローレンツェン)を構築することは可能であるのか?
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 古代ギリシャから始まって、デカルト、ロック、ルソー、ヘーゲル、マルクスにいたる民主主義の思想史が振り返られる。
 現存社会主義(当時)が、ロックからは個人中心の民主主義が欠如していること、全体意志に対して一般意志を対置しようとしたルソーからは全体民主主義の未完成と堕落を指摘されるだろうと述べる。
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 「討論を沈黙させることはすべて無謬性を仮定することである」(J.S.ミル『自由論』)ということで対話の重要性が強調される。
 だがジレンマがある。真理反映説か真理合意説か? 相対主義や不可知論に陥る危険性はないのか? 〈知〉の遊戯化や〈差異〉の一面的な強調という思想状況……。
 方法論的相対主義といったことも提起されるが、このあたりはなかなか難しい問題をはらんでいる。もちろん克服されるべき課題として。
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「極端な無政府主義はつねに極端な専制主義を誘致し、また極端な専制主義は極端な無政府主義を誘致する」(ヘーゲル『小論理学』)
 ここでの無政府主義とは社会運動としてのアナーキズムというより、国民が政治に無関心であることであろう。国民の政治的無関心は独裁を許し、独裁政治が始まると個人の意見は無視され、無いのと同じになってしまう……。
 しかし、真に国民一人一人が自己の利得を一時的にでも棚上げして「一般意志」を自覚し、これに従うことが可能だろうか?
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 「①偏見を離れた思考様式、②拡張された思考様式、③整合的な思考様式……。」(カント『判断力批判』)
  ①自分の頭で考えること、②他人の立場に身をおいて考えること、でも③自分の考え方をしっかり持つこと……。自己思考の大切さはいくら強調しても強調されすぎることはない。(してみると、偏見とは風評をうのみにして自分の頭で考えないことか…。確かだ…。)
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 「自由・平等」にどうして「友愛」が加わるのか? 「自由・平等」だけでは個人がバラバラなままであるから。「友愛」が必要とされたのはフランス革命が共和国の建設をめざしたからだ、とある。
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(コミュニケーション論)
 この書はコミュニケーション論としての一面がある。
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 コミュニケーションには、〈伝達〉的意味合いのコミュニケーションと〈交わり〉的意味合いのコミュニケーションがある(尾関周二)。
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レトリックとは言語を中心媒体とした表現・共感・説得の科学である(島崎隆)。
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 国語科にもコミュニケーション論が必要だと考える。社会学との接点ということだろうか? 私自身、これらに自己確立、連帯・協同、批判・闘争、社会参加のための言語を加えて、似たようなことを考えたことがあった。
 筆者はさらに全人格的対話・交流としての「われとなんじの対話」(マルテン・ブーバー)までを射程に収めようとする。いずれにしてもコミュニケーションとは単なる伝達ではないのである。
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 それにしても民主主義の思想史を振り返りながら、それが〈知〉の巨人たちによって形成されていったのだと考えさせられる。
 A.スミス(英)は精神的な交流としての「同感」、ヘーゲル(独)は「相互承認」が重要だ、といったとのことだ。フランス革命の標語「友愛」(仏)と並べてみると、何か共通している。資本制社会という競争社会の到来を前にして、同様の危機意識と課題を感じていたということではないだろうか。
 道徳(心がけ)のみでは問題は解決されなかったのはその後の歴史が明らかにしたことではあるが、道徳(倫理)を嘲笑しては未来は閉ざされてしまうだろう。
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 いわゆる日本的コミュニケーションの問題も取り上げられていて日本文化論の学徒としては興味深いのあるが、それらは十分に展開されているとはいえない。

  島崎隆『思想のシビルミニマム』大月書店(1991)
by yassall | 2013-02-10 01:38 | | Trackback | Comments(0)

村上春樹『1Q84』

 村上春樹の『1Q84』をやっと読んだ。やっと、というのは読み終わるまでに時間がかかった、という意味ではなく、かつての同僚やさらには生徒からも「面白かったですよ。」とか「読んでみたら。」とすすめられながら、なかなか手に取る気になれなかったという意味である。
 もう発表されてからずいぶん時間がたったので、おそらくは精緻な読解がなされているのだろう。それらを参照することもなく書き始めるので、いかにも底の浅いものになってしまうだろうが、感想など記してみたい。

 まず、文庫本で6冊になる大部を一気に読ませる筆力はなかなかのものだと思う。仕掛けに手が込んでいて、さまざまに配置された暗喩も、謎が謎を生む迷宮仕立てになっている。 

 だが、謎が謎のまま放置されているケースも多く、たとえばプロローグに登場するタクシーの運転手などはかなり魅力的に造形されているが、「見かけにだまされないように」という暗示的な忠告ともどもそれきりになっている(ように見える)。全体としてなにか生煮えのままの料理を食べさせられているような不満を感じたことも確かだ。

 この作品に先立って『アンダー・グラウンド』があることから、オウム事件を背景にしていることが推察されるが、カルトがなぜ人間の心をとらえるのか、またカルトにとらえられた人間とその集団がどうなっていくのかについても深められている様子がない。(作品を読んでみると、描かれている宗教集団「さきがけ」はオウムというより、ヤマギシ会に近いような気もする。オウムとヤマギシは明らかに違うし、ヤマギシに飛び込んで行った知人もいるので、カルトとして同一視するのもためらわれるが…。)

 「世界とは、「悲惨であること」と「喜びが欠如していること」との間のどこかに位置を定め、それぞれの形状を帯びていく小世界の、限りない集積によって成り立っているのだという事実を、窓の外のその風景は示唆していた。」(2-12章)

 もしかすると、これが村上春樹の世界観の基底をなしているのでないかと考えてみる。「生きるとは雪かきをするようなもの」「ゼンマイ仕掛けの時計のように生きる」(正確でないかも知れない)といった、これまでの作品の端々に散見される呟きとも共通している。
 そうしてみると、青豆と天吾の「僕らがこうして出会うこと」が「この世界に入ってきた目的」(3-30章)というクライマックスは、壮大な恋愛劇として、作者が自らのペシミズムを克服しようとする試みであるのかとも考えた。久しぶりに「対幻想」などという言葉も連想した。
 だが、青豆や天吾の造形に問題はないだろうか。青豆は自分が手を下した殺人行為に裏切られることはないのだろうか。間テキスト理論を持ち出してしまえばそれまでだが、仕立ては池波正太郎の梅安さながらに暗殺者として設定してしまうと、人物造形に矛盾や破綻が避けがたく生じてしまうように思われる。やがて青豆は新しい生命を宿すものとなるのだから。

 最後に。
 この作品を父と子の物語として読むと、これまでとまったく様相が変わって、なにか突き刺さってくるもの、それでいて心の底で凍りついていたものが溶かされていくのを感じることができる。それは青豆と父、天吾と父の物語のそれぞれについていえるのだが、とくに天吾の物語で明らかに主題をもって描かれている。

 「でも今となってはそんなことはどうでもいい。どこに繋がっていようが、どこに繋がっていまいが、僕は僕だ。そしてあなたは僕の父親なるものだ。それでいいじゃないかと思った。それが和解と呼べるのかどうか僕にはわからない。あるいは僕は僕と和解した。そういうことかもしれない」(3-12章)

 実はこの夏、安岡章太郎の『海辺の光景』を再読したのだが、『海辺の光景』のつぎのような一節と、村上春樹の『1Q84』の上記の一節とは、人それぞれの母と父との出会いと別れを描いて、双璧をなしているかも知れないと思った。

 「息子はその母親の子供であるというだけですでに充分償っているのではないだろうか? 母はその息子を持ったことで償い、息子はその母親の子であることで償う。彼等の間で何が行われようと、どんなことを起こそうと、彼等の間だけですべてのことは片が付いてしまう。」

 『海辺の光景』は『海辺の光景』で、安岡章太郎の残酷なまでの視線にたじろがされるのだが、それだけ母との別れには膨大なエネルギーが必要とされるということだろう。
 私は父となることはなかったのだが、『1Q84』を読むと父なる存在の孤独と、村上春樹の鎮魂の思いが伝わってくるような気がする。

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 写真は横浜の夕暮れ





 
by yassall | 2012-11-16 15:01 | | Trackback | Comments(2)

笠井潔『8.15と3.11』と竹田恒泰『これが結論!日本人と原発』

 笠井潔が『8.15と3.11』の中で、「原発は差別の構造を不可避的に生み出す。稼働させ続けるには、放射能被爆の危険にさらされる現場労働者の存在が不可欠だからだ。…諸個人の自由を必然的に制限し剥奪するシステムだからこそ、原発は否定されなければならない」と述べている。
 皇室に連なる家に生まれ、「生粋の保守派」を自他共に認めている竹田恒泰は『これが結論!日本人と原発』で、「原発で働く労働者は路上生活者のなかから確保される場合も多く、弱みに付け込むように、数万円の日当をちらつかせて人数を確保するのである。生活力があれば、わざわざ原発の除染の仕事を好んで引き受ける人はいないだろう。そこには「愛」がない」から反対なのだ、と述べている。
 ときどき、原発に反対か賛成かの問題をイデオロギーの対立に矮小化しようとする論調があるが、立場をまったく異にするこの二人が同様のことを述べているのをみたとき、それが全然的外れであることがわかる。
 ましてや、原発を稼働させないと雇用を失う人がいる、だから必要悪なのでは…などという言説に惑わされてはならないだろう。作業員の人たちを宿泊させるという民宿にしたって本業は漁業や農業なのであり、ひとたび原発事故が起こればそれらの産業は壊滅に瀕することになってしまう。そして、今日の産経ニュースによれば福井・おおい町での原発再稼働は「地元経済の浮揚には直結していない」というのが実際なのだ。
 そして、引き起こされてしまった現実をみるとき、福島原発の廃炉までにいったい何人の現場労働者が動員されるのか(そもそも動員され得るのか、その人数はどう確保されるのか)、おそらくは私が生きているうちは廃炉の完了を見ることはあるまいと思うと本当に胸が痛むのである。
 ごく最近、福島原発を視察した後、「人類が生み出した技術を放棄するのは愚かなこと」と言い放った御仁がいるが、私にいわせれば現在の原発なんて、原子力を使ってお湯を沸かしているだけなのだ(それくらいしか出来ていないということ)。これに比べれば太陽光を電気に変える技術の方が特段に未来的である。これも竹田恒泰と柄谷行人が同じことを言っているのに驚かされたのだが、当面はガスによる火力発電を中心として(熱効率のよい発電機が開発されているとのこと)、再生エネルギーの開発と普及をすすめるのが未来に通じる道であると思う。(アメリカがすすめているシェールガスは水質汚染の危険性が大きいらしいが。)

笠井潔『8.15と3.11』NHK出版新書(2012.9.10)
竹田恒泰『これが結論!日本人と原発』小学館新書(2012.3.14)
by yassall | 2012-11-12 19:12 | | Trackback | Comments(0)

岡崎武志『上京する文学』

面白そうな本を見つけた。
岡崎武志『上京する文学』新日本出版社
著者は古本ライターとあるが、近代日本文学(および文学者)に対する並々ならぬ愛着がうかがえる。
類書では次の2冊が面白かった。
坪内祐三『「近代日本文学」の誕生』PHP新書(2006)
関川夏央『「一九〇五年」の彼ら』NHK出版新書(2012)
1905年5月27日は日露戦争の命運をわけた日本海海戦のあった日。関川夏央はこのとき日本の近代化=国民国家の頂点があったという。その年に文学者たちが何をしていたかと、それぞれの晩年をルポしている。東京という都市が形成される過程と、近代国民国家の形成は軌を一にしていると考えていいと思うので、そのへんも合わせみながら今回の本も読んでみたい。
少し古いが近代日本文学に対する愛着という意味では次も力作だと思う。
嵐山光三郎『追悼の達人』新潮社(1999)
本郷・菊坂を歩いたのは昨年の今頃。高校時代に田宮虎彦の「菊坂」を読んだ頃から、想像の世界では親しんでいたのだが、実際に歩いたのは初めてだった。樋口一葉ゆかりの井戸もカメラにおさめたが、あまりにも知られているので、写真は炭団坂。宮沢賢治も上京の際、このあたりに下宿したはず。

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岡崎武志『上京する文学』新日本出版社(2012)
by yassall | 2012-11-10 16:31 | | Trackback | Comments(2)