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カテゴリ:本( 34 )

小林よしのり『大東亜論』

 書店に平積みになっているのを何度かはパスしたし、ブログで紹介するのだけは止めようと思っていたのだが書くことにした。
 まず、本を買う気になったのは頭山満を描いていることからだ。学生時代に昭和十年代文学をかじりかけた人間として、超国家主義や農本主義について多少とも文献にあたっていた。頭山は明治・大正・昭和にかけて暗躍した右翼の巨頭といわれた人物である。
 だが、アジア主義者としての頭山の器はいわゆる右翼の枠に収まりきれるものではなく、朝鮮独立運動家である金玉均を支援したり、孫文の亡命生活を助け中国革命を援助したりした。その人脈や交遊関係も幅広く、大杉栄や伊藤野枝も頭山を頼ったことがある。玄洋社の周辺には実に多彩な人物が集まり、夢野久作の父親である杉山茂丸(杉山三世代は本当に興味深い)は若き日に頭山に心服したことから歩みをともにするようになった。
 さて本書だが、筆者自身があとがきで「自称保守や右派が完全に忘れている武士の魂(エートス)を甦らせる論を描こうとしているが、それはもはや「論」を越えて「物語」の領域に入ってきている。/読めばただ面白いという物語になれば、それで成功である」と書いているとおり、「物語」として受け止めるべきものだろう。
 だから爆裂弾による大隈重信襲撃事件を引き起こした来島恒喜(決行後、直ちに自死)を英雄視したりなど、過激に走り過ぎていることは否めないし、右翼・左翼の定義も偏向しているとしかいいようがない。それでも参考文献が多数あげられているからそれなりの裏付けがあるのだろうが、様々なエピソードは面白い。
 まあ、内容の紹介はこれくらいにして、なぜブログでとりあげる気になったかというと、欄外のコメントを中心に「あれ、これまともじゃない?」という言説があちこちに散りばめられているからだ。

 
 「憲法は「国民が国家権力の暴走を防ぐ」ための法律である!それが近代憲法の常識だ。自民党の改憲案を見たら、国家権力が国民を徹底的に縛る条文ばかりになっている。こんなものはアホだ!」

 はたまた、

 「民主党が再生するためには脱原発を維持し、野田前首相が掲げたTPP参加を取り消せばいい。日本の伝統・文化とは何か?を学び直せばいい。それをやらない限り、野党の意味をなさない。」

 「櫻井よしこは11月4日付産経新聞でこう書いた。「原発事故で被災した福島・浜通りの人々約30人が9月、チェルノブイリを訪れた。そこで彼らが見たのは日本で報じられてきた放射能保線に苦しむ荒廃した町とは全く異なる、よみがえった町と子育てにいそしむ人々の姿だった。大嘘である!」
 「櫻井は驚くべきことに「スラブチッチ」という地名を隠して、「チェルノブイリ」を訪れたと書いている!「よみがえった町」というが、「スラブチッチ」は原発事故後に「移住」してきた人々の「人工都市」である。平然と嘘を書く神経はすごい!」

 とまあ、当たるところ敵なしの、全開の言いたい放題なのである。
 アジア主義の話にもどれば、最近の「週刊ポスト」では中国・韓国を非難していれば愛国者であるような顔をしている昨今の自称保守・右派を「大志がない!」と切って捨てている。
 こうして紹介はしても、決してすすめているわけではないのだが、「ゴーマニズム宣言」で過激な物言いで物議をかもしてきた小林よしのりが、なぜかまともに見えてきてしまうほど日本が危うくなっているということなのか。
 最後に、頭山、杉山、内田良平、左右の別はあるが松本冶一郎、そして小林よしのりは揃って福岡県の出身である。幕末から日本近代史にかけての福岡の位置についての研究があるなら知りたいと思った。戦中に大政翼賛会を脱退し、東条英機に反旗を翻した中野正剛についての本を読むことにした。
  ※
 この本とはまったく関係がないのだが、最近「いたつき(労き、病)」という言葉を初めて知った。薬草である「虎杖(イタドリ)」が「痛みを取る」ところから呼び名がついたことは知っていたのだが、そうしてみると「労り(イタワリ)」なんかも「痛みを分かつ」から来るのだろうか。長生きしても知らないことばかりである。

小林よしのり『大東亜論』小学館(2014)
〈参考〉
松本健一『竹内好「日本のアジア主義」精読」岩波現代文庫(2000)も面白かった。


by yassall | 2014-02-05 01:37 | | Trackback | Comments(0)

柄谷行人『遊動論』

 柄谷行人が『畏怖する人間』(1972)で古井由吉の「杳子」を読み解いていく様に圧倒された記憶は今も鮮明である。だから最初は「内向の世代」によりそう文芸評論家として柄谷は出現した。
 連合赤軍事件がきっかけだったというが、その後『マルクスその可能性の中心』(1978)を発表した辺りから今日の思想家としての営為に重点が移っていったようだ。
 折からのニューアカデミズムブームと併走しているようにみえながら、流行思想に便乗しているのとは違って、問題意識の在処が強固で、時代に対抗し得る新しい思想を構築しようとしていることは理解できるのだが、抽象度が高く暗喩に満ちた文章は難解でなかなか近づけなかった。
 『倫理21』(2000)を読んだとき、柄谷がしようとしていることが少し理解できたような気がし、柄谷へのインタビューで構成された『政治と思想 1960-2011』(2012)でその全容に対する見通しが開けたように思えた。
 『トランスクリティーク カントとマルクス』(2001/岩波現代文庫2010)は、やはり大部で難解な書物であったが、なんとか読み通した。内容を完全に理解し得たとはいえない段階であるが、博覧強記を越えて、人類的〈知〉と向き合おうとしていることは分かるし、その足跡をたどっていけば未来が見えるというような確証には至らないまでも、決してないがしろにはできない思索なのだと直観させられるものがあった。
 さて、今回『遊動論』をとりあげようと思ったのは、先に村井紀『南島イデオロギーの発生』(1992福武書店/2004岩波現代文庫)を読んでいたからである。
 『南島イデオロギーの発生』は副題を「柳田国男と植民地主義」とし、柳田国男および日本民俗学と植民地との関わりを明らかにしようとした書物である。
 1910年の「韓国併合」にあたって、柳田国男が内閣書記官として法制作成にあったことは事実であるらしく、村井の柳田批判は「「朝鮮」問題をこの「南島」によって隠蔽した」とし、「同質的な日本という作為された「政治」的な神話(イデオロギー)を作り出す役割を担わされている」というものである。
 沖縄には「琉球国」として独自の主権を確立していた歴史があり、明治日本の廃藩置県にあたって、いわゆる「琉球処分」によって日本に編入したことは沖縄の植民地化だった、というのは間違いとは言えない。すると、柳田の「日琉同祖論」はその正当化のためのイデオロギーであったというのは説得力がある。
 ただ、柳田国男の他の言説との整合性から、その認識を持ち続けるには心のどこかで何となく違和感を感じていた。
 『遊動論』は柳田国男を再評価しながら、持論である「国家」や「資本」から独立した「アソシエーション」という理論を展開しようとした著者の最新刊である。
 柄谷は村井の著作にも触れ、「琉球処分は植民地支配」であることを認めつつも、柳田が日本の植民地支配には批判的であったこと(「日朝同祖論」には与せず「皇民化」政策には反対していた)、日本文化の基底をなすものとして「日琉道祖論」に立つものの、沖縄が不平等に扱われることには異議を唱えていたことをあげ、村井の先のような見地を退けている。
 柄谷の「アソシエーション」論は「協同組合」論として展開される。「オヤ・コ」はもともと労働組織(親方=親分・子分、ウミノオヤ)であったこと、日本には服従関係を伴うその関係以外に「ユイ」という対等・相互組織も存在したというようなことが述べられる。
 農政家としての柳田の姿勢は一貫していたといい、少年期に飢饉を体験したことから「経世済民」思想が原点にあり、農民の救済を目的とする三倉(義倉・社倉・常平倉)を再評価していたことなどが述べられる。
 柳田は「山人」研究を放棄して「常民」論へ移行したのではなく、定住=農耕文化とは異なった山人=非定住民の文化を探究する中で、新しい社会のあり方の可能性を発見しようとの試みを持ち続けていたというのである。
 これらは柳田を柄谷の思想に引きよせ過ぎているという印象は確かにある。また、柄谷自身の思想も、ややもすれば「空想的社会主義」と批判されてもやむを得ない一面を持つだろう。
 しかし、つぎのような引用は柄谷の柳田解釈が決して的外れでないことを証明してはいないだろうか。

 「此山村には、富の均分というが如き社会主義の理想が実行せられたのであります。『ユートピア』の実現で、一の奇跡であります。併し実際住民は必ずしも高き理想に促されて之を実施したのではありませぬ。全く彼等の土地に対する思想が、平地に於ける人々の思想と異なって居るため、何等の面倒もなく、斯かる分割方法が行わるるのであります。」(「九州南部地方の民風」)

 さらには幸徳秋水らが「共産党宣言」を翻訳したのが1904年、『遠野物語』が刊行されたのが大逆事件のあった1910年であることにふれ、「願はくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ」という激越な序が、「一つの妖怪がヨーロッパをさまよっている」という「共産党宣言」の書き出しを想起させるとまで書いている。
 これは柳田からの引用ではないのだが、宇沢弘文の「社会的共通資本」の概念を援用して、「コモンズとしての農村」といった問題も提起している。今日、里山の荒廃が指摘されているとき、山林や田畑が果たしてきた治水・保水のことを考えれば、私有財産制を越えた社会の可能性があったかも知れないこと、未来に向かってあり得ることは、大きな示唆を与えてくれるのである。
 『トランスクリティーク』では、つぎにようなマルクスのことばも引用していることも紹介しておこう。

 「もし連合した共同組合組織諸団体が共同のプランにもとづいて全国的生産を調整し、かくてそれを諸団体のコントロールの下におき、資本制生産の宿命である不断の無政府と周期的変動を終えさせるとすれば、諸君、それは共産主義、“可能なる”共産主義以外のなんであろう」(「フランスの内乱」)

 母系でも父系でもない双系制の社会が日本にあったとか、先の「社倉」の理論化と実行は南宋の朱子によるものであったとか、新書版でありながらともかく知的な刺激に富んだ書物である。

柄谷行人『遊動論』文春新書(2014)

《追記》
 実は『畏怖する人間』は長いこと行方不明になったままだった(誰かに貸したままになっているのだ)。講談社文芸文庫に収められたのは知っていたので、いつだったか三省堂で探したことがあったのだが、見つからなかった。著者が絶版にしてしまったという話を聞いたことがあったような気がしたので、そのまま諦めていたのだが、今回このような文章を書き、気になってネットで検索したらamazonで注文できた。
 今日届いたのだが、パラパラめくってみると、やはり記憶違いがあった。「「杳子」を読み解いた」と書いたが、「杳子」のみを取り上げて論じた文章はなく、「閉ざされたる熱狂」を中心に古井由吉を論じた文章が長短いくつかあり、それぞれで「杳子」に触れているのだった。
 中村泰行『ポストモダニズムの幻影』(1989)の柄谷の項も読みなおしてみた。柄谷が江藤淳と親和性が高いというのは事実であろうし、戦後日本社会に対する違和感を思想的な原点に持っているという共通点の指摘も正しいのだろう。批判の論点は明快であるし、私も「ポストモダニズム一般」はこれで切って捨てたように考えていた時期もあった。
 だが、明快である分、一方的な決めつけはぬぐいがたく、ややもすればイデオロギー暴露で終わってしまう嫌いもある。中村は「解体批評」を「解体=はぐらかす」ことだけを目的とした主観的な印象批評と断じているが、「内向の世代」という同時代で進行している作家たちの解読に私が驚嘆したのは、「ずらす=はぐらかす」という批評態度から生まれたものではなかったに違いない。
 「脱構築」とか「解体構築」というとさも目新しく感じられるが、ひとつの作品(テキスト)に対して、先入見を可能な限り排し、あくまでテキストに沿いつつ、新しい読み方を試みること、今日的な意義をつかみ取ろうとすることは、むしろ正統ともいうべき批評態度ではないだろうか。ましてや既存の価値観がゆるぎ、新しく引き起こされている現象を説明し得ることばが失われた時代であればなおのことである。(1月30日)


by yassall | 2014-01-28 15:09 | | Trackback | Comments(0)

「芸術新潮」つげ義春特集

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 「芸術新潮」1月号がつげ義春を特集している。なぜこの時期になのかは不明だが、原画あり、作者本人へのロングインタビューありで、なかなか力の入った企画であると思った。
 表紙にも採用された「ねじ式」は発表当時から多くの詩人や評論家たちに衝撃を与えたものだった。よく旅をした作家らしく旅行記物も多く描いた。伊豆の漆喰鏝絵(こてえ)を知ったのもつげ義春の作品からで、伊豆・松崎の長八美術館まで訪ねていったのがずいぶん昔だから、私も作品に魅せられるようになってから40年にはなろうとしている。
 長八美術館のことをもう少し書くと、今はネットで検索してみると立派な施設になっているが、私が訪ねていったときは古民家を改造した程度の建物で、展示品の多くはホコリをかぶっていた。ただ、松崎の街はいわゆるナマコ壁の建物が並び、路地を入ると相模湾が望めるようで、つげ義春が惹かれた気持ちがわかるような気がしたものだった。
 さっそくロングインタビューを読んでみる。
 「ともかくリアリズムが好きですね。自分の主観による意味付けを排して、あるがままの現実を描くのが…。」
 「この現実世界は本来あるがままで意味はないのに、そこで主観でもってさまざまに解釈し、意味付けをしてひとつの世界像を「創作」したわけでしょう。別の解釈をすればまた別の世界になる。ということは虚構の世界にすぎない。」
 「歎異抄も含めて浄土教の説いている「浄土」とは、虚構に惑わされず事実を直視した世界のことでしょう。仏教の原点はリアリズムで釈迦は凄いリアリストだと思えますね。」
 などの発言が、それほど気負ったふうでもなくつぎつぎと飛び出してくる。もう休筆して25年になるというが、この人はいったい何を考えながら日々を送っているのだろうと感じ入ってしまった。
 葛西善蔵、嘉村磯多、加納作次郎、宮地嘉六、川崎長太郎を好んで読んだという。それらの読書が世捨て人のような人々が登場する後期の作品に反映されているのかも知れない。私はまだそこまではついて行けないが…。
 ごく初期の、まだ作者のオリジナリティが発露される以前の作品に「噂の武士」がある。最近、柄谷行人の『遊動論』を読んでいて、急に思い出したので、最後にそのことを書く。
 『遊動論』は柳田国男を再評価しながら協同組合論を展開している。定住=農耕文化とは異なった非定住民の文化を探究する中で、新しい社会のあり方の可能性を発見しようという試みであるらしい。
 その本の中で、網野善彦の所論にもふれ、武士もまた武芸という芸能をもって諸国を放浪する非定住民であったという説が開陳されている。(柳田は山人の思想から武士は本来は山に住んだという。すると山賊や、平野部ではない周辺の民という意味では海賊が武士のはじまりであったのかも知れない。)
 つげ義春の「噂の武士」は偽宮本武蔵物で、そうとは名乗らないものの、それらしく振る舞うことで話題をつくり、旅館の集客に資することで報酬を得ているという設定である。ところがちょっとした失態をカバーするために、いかに自分が鍛錬によって身軽で、武芸にたけているかを見世物のようにひけらかすことによって、ひそかに憧れを懐いていた主人公を幻滅させるという結末を迎える。
 歴史的に正しいかどうかは日本史の先生に聞いてみなければわからないが、その宮本武蔵にしろ、塚原卜伝にしろ、柳生十兵衛にしろ、確かに武芸者と武者修行の旅は結びつきが強い。その旅の途中、どうやって生活の糧を得ていたかも謎といえば謎である。いわゆる大道芸と武芸の類いとの関連もなくはないように思われる。
 初めて読んだときは、時代劇ものなら売れると当て込み、おそらくは出版社からの注文もあって書いた営業用の作品なのだろうと思っていたが、もしかするとつげ義春がそうした武士の原像を直感的に探り当てた結果に生まれたのかも知れないと考えたのだ。
 松尾芭蕉から近くはフーテンの寅まで、漂泊の人生への憧れは、自分にはないものへの渇望なのか、あるいは数%は混じり込んでいるかも知れない非定住民のDNAのなせるわざなのかは知らない。だが、つげ義春がそうした血脈にあることは間違いないだろう。


by yassall | 2014-01-26 18:03 | | Trackback | Comments(2)

『きずな』と『流星ひとつ』  藤圭子ふたたび

 二冊は同じ日に書店に並ぶことになったが、出版にいたるまでにはにそれぞれに経緯がある。『きずな』は1999年に旧版がある。作詞家石坂まさをの自伝として書かれたが、「藤圭子と私」というサブタイトルをつけ復刊された。
 『流星ひとつ』はもっと古く、1979年に引退を表明した藤圭子へのインタビューをもとにした本である。ただし、翌年には原稿は完成していたが、出版はされなかった。沢木耕太郎はその理由について、藤圭子が復帰する可能性に配慮したこと、会話だけで長編ノンフィクションを書ききるという「方法」意識が先行し、藤圭子を「描き切れていない」と判断したからだとしている。
 もちろん、二冊は藤圭子の死を契機に緊急に出版されたのである。石坂まさをは今年3月に亡くなっているので本人の意志ではない。沢木耕太郎には30年間の封印をといてよいと考えた何かがあったのだろう。

 二冊はたがいに参照しあったとは考えられず、それだけに微妙な異同があるのが興味深い。たとえば、デビュー曲である「新宿の女」の歌詞はみずの稔と石坂まさをの共作ということになっているが、『きずな』では名古屋でみずのの詞を見せられた石坂が、「みずのさん、この詞の"バカだな"の部分を使わせてもらえないかな」と頼みこみ、残りの部分は帰りの新幹線の中で書き上げたことになっている。
 一方、『流星ひとつ』では、石坂が手を入れたのは「灯りをともして吹き消した あなたは気まぐれ夜の風」となっていた最初の二行を「私が男になれたなら 私は女を捨てないわ」としたところだけだという。
 ただし、このことに関していえば、沢木耕太郎は「比べてみると、沢ノ井(石坂の本名)さんの詞の方が力が感じられる」といい、藤圭子も二曲目の「女のブルース」については「初めてこの歌詞をみたときは…震えた」と言っているから、石坂の才能を疑ってはいないことが分かる。

 それよりも、私が関心を持ったのは、藤圭子は石坂のことを「よくわかんないんだけど、この人は(あたしと)似ているな、っていう感じはあった」といい、石坂もまた藤圭子を「似たもの同士」であるとし、次のように書いている点だ。

  「かつて、純子(藤圭子の本名)と私は同じ時代を闘った"戦友"だった。
  昭和四十三年の秋に出会ってから、阿部純子は歌手「藤圭子」となり、私は藤圭子を育てるために、澤ノ井龍二という名を「石坂まさを」に変えた。
  そして、私たちが闘った相手は、ともに"母親"という存在だった。」

 そして結末部では次のような予言を書きとめるのである。

  「純子の母・澄子がわが子を歌手にしようとその半生を生きてきたように、アメリカに渡った純子は、今度は自分の娘にその夢を託している。
  だが、純子が自らの母との相克を断ち切ったように、彼女の娘もまた"母"という存在に背を向ける時が必ず来るはずである。なぜなら、それが母と子の持つ宿命だからだ。」

 母と「闘った」といい、「相克」といっても、両者とも母親との対立があったというのではなく、過剰な期待を息子・娘によせる母と、それに全身全霊をもって応えようとする子どもという関係、といった方があたっている。
 むしろ確執はそれぞれの父親とにあった。その有り様は暴君というのに近いのだろう。石坂の父親は事業に成功した後、八人の愛人を持ち、死去した後も子どもをもうけた二番目の愛人に事業を継がせるという、正妻をないがしろにして顧みない人物であったらしい。石坂はその正妻であった女性を母として成長したのであるが、あろうことか、子どもがいなかった母に他の愛人が産んだ子どもを育てさせた、その子どもが自分だったという出生の秘密を知るにいたるのである。
 石坂は母が存命のあいだ、ついに面と向かっては事実を確かめ得なかったと回想しているが、その母は石坂ひとりに希望をたくし、いわば父に捨てられた石坂もまた、荒涼とした青春を過ごしながらもその母の期待を一身にになうことになったのである。
 そうしてみると、さきほどの

  私が男になれたなら
  私は女を捨てないわ

 という歌詞も、その直接性をこえた迫真性を有する理由も理解できる。それは母の悲しみであったかも知れないのである。

 
 藤圭子の場合は、父親は生活破綻者というのに近いのではないだろうか。「この人は兵隊にとられて上官に殴られてばかりいておかしくなった」というエピソードは両書に出てくる。流しの浪曲師というから、だんだん上演の機会もなくなっていったのだろうが、働かず、朝からパチンコに興じては家族に暴力をふるったらしい。
 沢木耕太郎からは「何かに怯えているようなところがある」と指摘され、自分でもいつも「オドオド」しながら生きている(いた)と藤圭子は告白している。父親から受けた理由なき暴力は心の爪痕としていつまでも残っていったことだろう。

 こうしてみると、作詞家「石坂まさを」と、歌手「藤圭子」とは、まことに希有にして必然の出会いであったのかも知れない。上記の二曲に続いて「圭子の夢は夜ひらく」「命預けます」が一年余の間に発表され、またたく間に一世を風靡するにいたった。
 沢木耕太郎は次のように書くのである。

  「藤圭子という素材を得て、持っているものが一気にバッと爆発したんだね、石坂まさを、こと澤ノ井さんも。わずかその一年のあいだにね。」

 そして藤圭子も、「藤圭子は〈夢は夜ひらく〉を歌っていなければ、もっともっと歌手としての可能性があった」という説があることを紹介され、

  「それは違うね。そういう言い方は意味がないね。…歌手として、やっぱり、歌った方がよかったんだよ。」

 と答えるのである。
 そして、それはその通りであるに違いない。あの一年があったからこそ、藤圭子は鮮烈な印象をもって人々の「胸の奥をさわり」、流星となって消えて行ってしまった後も、心のどこかを疼かせ続けているのである。

 さきほどの石坂の「彼女の娘もまた"母"という存在に背を向ける時が必ず来る」という予言についてふれる。
 娘・宇多田ヒカルと母・藤圭子との間に確執が生じたことがあったのは事実のようである。藤圭子が家族からの孤立感を深めていたという直接的なきっかけになっていたかも知れない。
 石坂の文章には、「純子が自らの母との相克を断ち切った」ともあったが、それも事実のようだ。だが、藤圭子の場合、そのことが却って彼女自身を苦しめていたということは十分に考えられる。
 両親が離婚した後、藤圭子は「阿部」姓ではなく、離婚後の母の姓である「竹山」を名のっている(『流星ひとつ』に出てくる)。両親の離婚は藤圭子の支持するところであったらしい。その上で彼女は母親の杖となって生きる決意を固めていたのである。その重さがいつしか爆発したのではないか。

 藤圭子が投身自殺をとげた後、マスコミでは本名「阿部純子」と報じられたが、それは二重の意味で誤りである。「竹山純子」から「阿部」姓に戻ったことはないこと、次の宇多田ヒカルのHPによれば、本名「宇多田純子」が正しいことから。そのことを指摘して、この問題の答としよう。

  「一連の記事で母の本名が誤って報道されていました。阿部純子ではなく、宇多田純子です。父と離婚後も、母は旧姓の阿部ではなく宇多田姓を名乗ることを希望し、籍も父の籍においたままでした。夫婦だとか夫婦ではないなんてこと以上に深い絆で結ばれた二人でした。亡くなる直前まで、母は娘である私だけでなく、父とも連絡を取り合っていました。父は、母が最後まで頼っていた数少ない人間の一人です。
  それらの事実をふまえた上で新宿警察署は、母の遺体の本人確認と引き取りを父が行うべきと判断したものと思われます。」

 HPでは、「私も藤圭子のファンでした。今も、この先もずっとファンであり続けます。」としめくくられている。このことばに偽りがないのであろうことは、2010年に発表された「嵐の女神」の歌詞を読んで、信じてよいと思うのである。

   「嵐の女神」

  嵐の女神 あなたには敵わない

  心の隙間を埋めてくれるものを 
  探して 何度も遠回りしたよ

  たくさんの愛を受けて育ったこと 
  どうしてぼくらは忘れてしまうの

  嵐の後の風はあなたの香り 

  嵐の通り道歩いて帰ろう
  忙しき世界の片隅 

  受け入れることが愛なら
  「許し」ってなに? きっと… 

  与えられるものじゃなく、与えるもの
  どうして私は待ってばかりいたんだろう 

  お母さんに会いたい

  分かり合えるのも生きていればこそ 
  今なら言えるよ ほんとのありがとう

  こんなに青い空は見たことがない 

  私を迎えに行こう お帰りなさい
  小さなベッドでおやすみ


 沢木耕太郎『流星ひとつ』新潮社(2013.10.10)
 石坂まさを『きずな 藤圭子と私』文藝春秋(2013.10.10)
by yassall | 2013-10-17 02:02 | | Trackback | Comments(0)

椎名誠『ぼくがいま、死について思うこと』

 椎名誠は『アサヒカメラ』に「シーナの写真日記」を連載している。世界各地からの旅のスケッチなのだが、主治医から「あなたは自分の死について考えたことはこれまで一度もないでしょう」といわれたのをきっかけにしたらしい本書も、世界各国で実際に立ち会うことになった様々な葬送の紹介から始まる。
 最初に驚かされたのはチベットの鳥葬の模様である。葬送のあり方はその民族のもつ死生観・宗教観の反映であるというのはその通りだと思うのだが、これまで漠然と懐いてきた鳥葬に対する認識を一変させられた。
 民族にはそれぞれの「あの世」観があり、きっと鳥葬は「あの世」を「天」にあると考えた人々が死者を送る方法として編み出したのだろう、というのが私の考えだった。空を飛ぶ鳥に魂の救済を託す、とすれば地下に埋めてしまうなどとんでもないことになるのだろう、と。
 しかし、チベットで行われている鳥葬はそんな生やさしいものではなかった。チベットの寺は高台にあり、その裏が鳥葬場になっていることが多いとのことである。ある本には鳥葬場は1057カ所あると書かれているそうだ。
 さて、寺院と自宅での一連の儀式が終わると、いよいよ遺体が鳥葬場に運ばれる。鳥葬場には通称「またいた岩」があり、うつぶせに置かれた遺体が鳥葬師によって解体される。禿鷹が食べやすいようにするためで、大きな骨も細かく砕かれ、麦の粉をこねた団子にくるんで食べやすくするという徹底ぶりである。そうして、ものの1時間ほどで完全に「遺体消失」ということになってしまうらしい。
 魂が昇天したあと、ただの物体として残った人間の体を空腹の鳥などに「ほどこし」(布施)をする、というのが基本的な理念であるとのことだが、チベットでは「消失」させてしまうのは遺体だけではなく、写真や衣類などの所持品等、その人が生きていた痕跡のいっさいを無くしてしまうというのがしきたりになっているのだそうだ。
 ゾロアスター教徒も鳥葬をおこなうが、考え方はチベットのそれとはずいぶん異なるようだ。「沈黙の塔」という塔の上に死者を置き去りにし、禿鷹が食うにまかせるというやり方で、風葬(曝葬)に近い。方法自体は私の従来のイメージに近いのだが、考え方はまるで違う。
 ゾロアスター教は日本では拝火教とよばれるが、死体はもっとも汚れたもの(悪霊におかされたもの)であり、火葬にすれば火や大気がけがれ、土葬にすれば大地がけがれ、水葬にすれば水がけがれるということから来ているとのことだ。

 
 紹介しているとキリがないが、翻って都市の中に石墓が点在している日本の風景が外国人からみると異様に映るらしい、というような指摘もある。(最近は郊外に公園墓地が造られる傾向にある。)
 以前に紹介した松尾剛次『葬式仏教の誕生』(平凡社新書)によると、日本で石の墓が作られるようになったのは弥勒信仰が盛んになってからで、56億7千万年後に下生した弥勒菩薩(そのときは如来となるのだろうが)によって発見されないことがないように、まさに標を立てておくということから来ているとのことだ。チベットと同じ仏教圏であるが、輪廻転生の考え方からすれば、今生での生を終えた後はきれいさっぱりと「消失」してしまうほうが、仏教本来の教義にかなっている気もする。

 これまで、それほど強い関心も持たずに来た作家であったが、これまでに直面してきた死の危機の数々、複雑な家族史、親しかった人々との交遊などにも触れられていて、興味はつきない。筆者自身の死生観は後半に述べられていくのだが、孤独死もまた一つの尊厳死ではないかという見地には説得力があると思った。
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椎名誠『ぼくがいま、死について思うこと』新潮社(2013)
by yassall | 2013-09-04 13:56 | | Trackback | Comments(4)

勝又進『赤い雪』

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 昨日は佐々木マキのことを書いたが、『ガロ』が輩出した異能といえば勝又進も落とせない一人だ。4コマ漫画を連載していた記憶があるが、短編作品も手がけるようになり、作品集『赤い雪』(2005)で日本漫画家協会賞大賞を受賞、英語・仏語にも翻訳されたとのことである。
 人物については知ることもなかったが、東京教育大学大学院で原子核物理を専攻したとのこと。秀才だったのだ。高文研『原発はなぜこわいか』(1980)の挿絵を描いていたのは気がついていたが、その裏付けはきちんとしていたという訳だったのだ。
 『赤い雪』からは、4コマ漫画時代とは違った、不思議な情感が伝わってくる。私が入手した普及版と同時期発行の『深海魚』(2011)には原発労働者を描いた作品も収録されている。
 2007年12月3日、悪性黒色腫で亡くなったとのことである。

(かつまた・すすむ、1943ー2007)
by yassall | 2013-05-22 14:35 | | Trackback | Comments(0)

中村圭子編『昭和美少年手帖』

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 中村圭子氏は弥生美術館学芸員。先日、初めて弥生美術館を訪れたとき、そのお名前を知った。もちろん直接面識を得たということではなく、おそらく弥生美術館の企画展をベースに、何冊も上梓なさっている編著書を通してのことだ。
 先の企画展で展示販売されていた『魔性の女挿絵集』を買い求めて読み、ネットで他の著作についても検索してみたところ、『昭和美少年手帖』のあることを知った。早速、amazonを通して注文したのは収録されている画家の中に伊藤彦造の名前を発見したからである。

c0252688_12403916.jpg 話が回りくどくなるが、私が伊藤彦造を知ったのは石子順造『俗悪の思想』(1971)を読んだときである。それは遙か昔のことになるが、そのときキッチュ(この語もこの書で知った)なるものが、私の中の五角形だか六角形だかの一角を占めるようになったのは確かだろう。(私の、と書いたが、大衆に受け入れられてこそのキッチュであり、その庶民的美意識はきっと私たちの底流を流れているに違いない。)









 伊藤彦造(1904 - 2004)は、大分県大分市出身。剣豪、伊藤一刀斉の末裔とされている。大正から昭和にかけて活動、なかでも講談社『少年倶楽部』の挿絵が評判を呼んだ。戦時中は憂国の士という一面をみせるようになり、神武天皇の立像を日本画に描くにあたって自らの鮮血を絵の具がわりに用いたというエピソードも残されている。戦後も『少年画報』や『吉川英治全集』に挿絵を描くなど活躍した。

 本書には高畠華宵、山口将吉郎、伊藤彦造、山川惣治、石原豪人の絵が収められている。表紙を飾っているのは高畠華宵の絵である。中村氏によると華宵も少女画より少年画の方が先行していたとのことであるが、私はやはり少女画の方が優れているように思われる。中村氏は、その華宵と比較しながら、伊藤彦造について次のように論じているが至言であると思う。
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「彦造には、華宵の絵にある楽天的なおおらかさはない。ぎりぎりと自らを追いつめてゆく煮詰まった自虐性が、見る者を息苦しくさせるほどである。/取りつかれたような三白眼、闘いの激しさにはだけた手足の肌。彦造の少年の官能性は、闘いに命をかける少年の、死に直面した極限状況によってもたらされたものであった。/(中略)彦造少年の、惜しげもなく美しい肉体を相手の刃にさらしていく潔さは、人間の心にあるそのような死への渇望を目覚めさせる。悪魔的な魅力であり、怖い美しさなのである。」




 ところで私がこのような書を紹介したからといって、私が特別な趣味の持ち主であるようなことはないのは、華宵の少女画を賛美したからといって私がロリータ趣味でないのと同様なのであるが、その特別な趣味性からすると石原豪人の描くところの世界が際立っているだろう。だが、その豪人画にしても「好き嫌いがなくてこそ高級な人間」をモットーに、依頼されれば何でも描くというプロ魂のなせる技だったのであり、画家その人の趣味を疑ってはならないのである。

中村圭子編『昭和美少年手帖』河出書房新社(2012)

《追記》
『伊藤彦造イラストレーション』河出書房新社も注文した。以前、古書を探したときは手を出しにくい価格だった記憶があるのだが、新装版で2940円はお買い得だと思う。580作品が収録されている。
2013.5.9
by yassall | 2013-05-07 12:48 | | Trackback | Comments(2)

岡野雄一『ペコロスの母に会いに行く』

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  著者岡野雄一は昭和25年長崎生まれ。20歳で上京。40歳で故郷にUターンし、父母と同居するようになった。
 この間のいきさつについて、著者は次のように回想している。
  「幻聴幻覚の中に生きる父を捨て、包丁を持った父から追いかけ回される母を捨て、神経に絡みついてくる触手のような段々の街を捨て、文字通り逃げた。」
 「そしていろいろあって、40歳で、子どもを連れてこの街に戻ってきた。
 (中略)僕の両親、は居た。
  父は酒をやめて、穏やかでおとなしいお爺さんになり、母もまだ元気だった。
  間に合ったんだ、と思ったのを覚えている。」
 作品はその父親が亡くなったころから認知症を発症しだした母との日々を描いたもの。最初は自ら編集長を務めていた月刊タウン誌の片隅に連載していたのが始まりで、詩人の伊藤比呂美に見いだされるなどしながら広まっていったとのことだ。
  「介護に携わる方々からの温かい共感の言葉は、実はとても意外でした。父の遺族年金を元に母を施設に預けている自分にとっては、介護という言葉は縁遠く畏れ多いと思っていたからです。「母に会いに行く」というタイトルにもその気持ちを込めています。」
 とあとがきに書く。
 私が本書を知ったのは「文藝春秋」3月号によってだが、書き下ろしの「ペコロスの春よ来い」によれば、介護福祉関連の人から、「今、老々介護が問題になっています。親も子も疲弊して、生活から笑いや余裕をなくし…そういう方こそあなたのマンガを読んでいただき…」と認めてくれる人が現れ、書き続けるにいたったとのことだ。
 まだ認知症が進行する以前なのだろうか、夫を失い、また自らの病に不安を感じ始めた母が、息子の帰りを駐車場で待ち受け、「母ちゃん、なんばしょっとか!? 危なかろうがア!」とたしなめられるという作品がある。
 「もうしえんけん、怒るなあ」と母は謝るが、駐車場で帰りを待つ日々は止まらない。息子ももう母を責めることはなく、自宅のある坂道を上りながら「もうしえんて」「わかった、わかった」「怒っとらんや?」「怒っとらんて」と会話がつづく。
 そしてコマが変わると、それらは回想シーンであったことがわかり、車椅子で俯く母の「もうしえんけん(もうしないから)」「なーんもしーきらんけん(何も出来ないから)」という呟きにつながる。
 私の亡くなった母も、よく「もう何も出来なくなった」と嘆いていた。認知症ではなくとも人は老い、無力になっていく。老親を見守り、また自らの老いをも見つめるものに切ない。
 母の少女時代や新婚当時の時間との接続と往還、さらには父なるものの狂気や孤独、原風景としての原爆被爆などが描かれて、なみなみでない画力が伝わって来る。

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岡野雄一『ペコロスの母に会いに行く』西日本新聞社(2012)
by yassall | 2013-03-18 15:57 | | Trackback | Comments(3)

平田オリザ『幕が上がる』

 平田オリザの『幕が上がる』講談社(2012)を読んだのは昨年の12月のこと。演劇部顧問の大先輩であるI氏から紹介された。
 読み終わってすぐに思いついたのは、これは伊藤弘成の『ザ・スタッフ』晩成書房(1994)と並んで、高校演劇のバイブルになるぞ、ということだった。
 I氏にはすぐに感謝のメールを送り、さっそく知り合いの何人かにも推薦した。ブログでも紹介しようと思っているうちに日数が過ぎてしまったが、新学期を迎える前にと思って書き始める。
  ※
 まずは講談社メルマガによるあらすじを紹介しよう。

 「北関東の高校に通うさおりは、演劇部最後の一年を迎えようとしていた。姫キャラのユッコ、黙ってれば可愛いガルル、天才・わび助らと共に、たった一度の大会に挑む。目指すは地区大会突破。そんな時、学校に新しい先生がやって来た。東京の大学で演劇をやっていたというすごい美人。
 「何だ、小っちゃいな、目標。行こうよ、全国」。え? 高校演劇は負けたら終わり。男子よりも、勉強よりも大切な日々が幕を開ける。…」

 というわけで、とある高校の演劇部員たちがコンクールをめざして芝居作りにとりくんでいく過程が描かれていく。
 ストーリーとしては単調といえば単調。だが、演劇部員だったり顧問だったことがあればすぐに思い当たるような、芝居作りの各段階で直面する様々な問題がポイントを押さえて指摘され、その解決へのヒントが順を追うようにちりばめられている。
 平田オリザの初めての小説、ということであるが、小説という異なった分野に新しい境地を求めたというより、小説のかたちを借りた劇作りの指南書という方があたっているのではないだろうか。
 そしてそれは、高校の演劇部に入部してこれから演劇を始めてみよう、という誘(いざな)いの書であるとともに、たまたま演劇部の顧問になってしまった教師たちへの励ましの書でもあるようだ。
  ※
 では、どんな言葉で我々を指南してくれるのか、いくつか書き出してみよう。

 「吉岡先生はよく、『リアルとフィクションの境目』と言う。…全部を本当のことだけで構成しても、それでリアルになるとは限らない。」

 「スポーツと違うから、みんなが一体になる必要なんてない。どれだけ違うか、どれだけ感性とか価値観とかが違うかを分かっていた方がいい。バラバラな人間が、バラバラなままで、少しずつわかり合うのが演劇、ってもちろんこれも吉岡先生の受け売りだけど。」

 「一日目が終わったときは、吉岡先生から、『演技が保守的になってる』ってダメ出しがあった。失敗を恐れて、少し間をとってしまったりするところがある。」

 「『自分の声と向き合って』これも吉岡先生の口癖だった。」

とまあ、索引を作り出したくなるようだ。

 「私はどうも、等身大のふりをして高校生の問題をわざと深刻に描くような芝居が嫌いなみたいだ。」

 と主人公にボソっと言わせているところは、芝居作りの上でも、高校演劇をどう評価するかの上でも、陥りがちな誤解に注意を与えてくれているのだろう。
  ※
 I氏が私のメールに返事をくれ、「Sさんが『ザ・スタッフ』と並べていたけれど、確かにあの本では抜けていた芝居作りの非常に大切な部分が、非常に良く書けていると思いました」と賛意を示してくれ、特に顧問の部員に対する距離感というのか、「生徒の個性と活動を第一に考えるスタンスの取り方」に共感する、とあった。

 
 「え、何、この二人。どうして稽古初日で、そんなに緊張感が出せるの。私は、置いて行かれそうな感じだった。この二人に、これから先、いったい、どんなダメ出しをすればいいのだろう。二人は、私が考えているお芝居の、もっと先に行ってしまうかもしれない。」

 と、演出を担当した部長に語らせているが、確かに高校生たちは自分たちで「もっと先」に進んでいく潜在的な力を秘めているのだから。顧問はそのきっかけを一緒に探してやればいいのだ。
  ※
 I氏は、「設定が相当高いレベルの進学校であることが、不満と言えば不満」と述べていたが、私もコンクール至上主義に見えてしまうところには(それこそ設定上やむを得ないことなのかも知れないが)疑問も残る。
 だが、

 「いや、やっぱり楽しいんだけど、楽しすぎて人生変えちゃうかもしれないし、そんなの責任持てないしね。」

 という件では、演劇部顧問が心しておかなければならないもう一つの〈怖さ〉もきちんと押さえられているなと思った。(この部分は平田オリザの個人的な独白であるかも知れないが。)
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平田オリザ『幕が上がる』講談社(2012)
by yassall | 2013-03-04 13:49 | | Trackback | Comments(2)

鳥居邦朗『昭和文学史試論』

 鳥居邦朗先生の本が出た。
   鳥居邦朗『昭和文学史試論』ゆまに書房(2013)

 鳥居先生は武蔵の恩師。御本を出されるのは10年ぶりくらいだろうか(不肖の弟子である私が他を見落としていただけかも知れないが)。
 これまで様々に論じられた諸論文が、第1部は総論、第2部は大正から昭和へ、第3部は戦前から戦後へ、第4部はご専門の太宰について、という4部構成にまとめられている。
 第1部の「〈私研究〉は不要か」の、論理の客観性に裏打ちされた〈私研究〉という提起から、作品論という方法が生まれる。(これは学生には見せなかった一面で、思わずズルイ!という一言が出る)。
 佐藤春夫を探究なさっていたり、安岡章太郎を熱心に論じられていたのは知っていたが、戦前から戦後にかけて縦横無尽に昭和文学が語られている。
 「戦後文学における「第三の新人」の位置」では、第三の新人=戦後の相対的安定期における日常性の文学という通説に、いち早く疑問を投げかけている。戦後文学とは何か、という問題意識の鋭さであると思う。
 小説の表現史、散文におけるフレームの問題が提起され、客観=主観の不動性のゆらぎ、自意識の解体など、重要な手がかりがいくつも提示されながら、必ずしも存分に展開しきれていないように感じられるのは、研究者としての自己抑制からだろうか。

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by yassall | 2013-02-17 16:23 | | Trackback | Comments(0)