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谷川健一『日本の神々』岩波新書

  この本について書いておこうと思ったのは、次のような一節と出会ったからである。

  イザナキ・キザナミの二神を同母兄妹と明確に規定せず、また神罰による大洪水の記述も省略した記紀の創世神話は、人類の「原罪」の発生を説明する場所を失った。ではどうして「原罪」が必要か。それがなくては人間社会の「不条理」の解釈がつかないからである。人間が罪を犯さなかった原始の楽園、つまり高所からの失墜感が、社会の矛盾、葛藤、疎外についてのもっとも切実な解釈を提供する。そしてその「落差」はみじめな状態を克服しようとする人間の衝動の発条の役を果たすのである。
  日本神話の特色は、洪水神話の前半を欠落させたために、はるかな高みから真逆さまに地面に墜落するときの目もくらむような戦慄感のないことである。
 しかし人間社会の混乱、無秩序、破壊の「原因」をどこかに求めねばならぬ。それは次のアマテラスとスサノオの関係に先送りされた。折口信夫は、原罪観念の責任者をスサノオに帰している。
  創世神話のもたらす最大の刺戟のひとつは、楽園時代にたいする郷愁であるが、日本の神話では「大洪水」以前の社会にあるのではなく、むしろスサノオが追放された「根の国」、彼のしきりに求めた「妣の国」という「原郷」にある。

  ノアの箱船の逸話はチグリス・ユーフラテス川の氾濫に起源をもち、各地に伝播しながら『旧約聖書』にとりこまれた、というような話を聞いたことがある。いずれにしても、ローカルな世界に生まれた特殊なエピソードであると考えて来た。
  ところが谷川によると、洪水神話は東南アジア、中国、台湾、琉球などに広く分布しており、奄美や八重山では大津波に襲われ、たまたま山に登って助かった兄妹によって国づくりがされた、というような話が伝わっているというのである。谷川は「そこには人類が不合理で、条理にもとる関係から出発したという無意識の主張」の存在が認められるとしている。
  その後に引用文が続くのであるが、もしかすると神話学ではごく普通の解釈であるのかも知れないが、そのようなことは私には考えつきもしなかったことなので、驚きもしたし、まだ輪郭はあいまいながら、これまで抱いてきた観念に風穴を開けられたような気がしたのだった。

  民俗学に夢中になったことはない。独特の用語や方法論があるはずで、きっと私には読み込めていない箇所も多々あるのだろう。読み始めたきっかけは日本会議をはじめ、どうも胡散臭い「日本固有」の文化論、そしてその中心に「日本は神の国」論としての「神道」があるような気がして、これらと対抗するために日本の神々についてきちんと知っておく必要があると思ったからである。
  民俗学の方法論のひとつはフィールドワークにあると思っている。この本でも日本各地(ときによって中国・朝鮮や東南アジア)から採取した記録が列記されている。その中から日本の神についての概念を抽出していくのは容易ではないが、なるほどと思ったことがひとつある。
  各地の神社の由来をたずねてみると、どんな小さな神社にも記紀の皇統譜に連なるような神々が祭神として祭られている。さて、村々の神社というのはその土地の氏神であったり、産土の神であったり、せいぜいが鎮守の神であったはずで、国つ神の威光がそれほど津々浦々に及んでいたのだろうかと不思議に思ってきた。
   ※氏神というと祖霊ということになる。谷川は本居宣長の「可畏きもの」としての神、人格を持たない精霊を含めて広く「神」を考えている。
 どうやら天皇の支配を全国に及ぼすために神社の序列化がなされたり、神社側も社格を高め、かつ利益にあずかるため、すすんで祭神に迎えたというような歴史があったようなのである。
 祭神の改変は明治維新の際にも大規模におこなわれた。一例として、江戸庶民の信仰を集めてきた神田明神に対し、明治政府は平将門を末社に移し替え、代わりに少彦名命の分霊を迎えるという措置をとった。ところが町民たちは末社の方ばかりを参拝し、本社の祭礼には参加しなくなったという経緯があり、神官もやむなく将門神社の扁額を掲げるようにしたというのである。(少し愉快なはなしである。)
 関東に鹿島神宮、香取神宮がある。「神宮」と名乗れる神社も数限られていようが、その理由もなんとなく分かった。鹿島、香取は蝦夷征伐に功績のあった氏族なのである。そういえば鹿島神宮、香取神宮はとくに武門による信仰があつい神社であった。

  谷川健一『日本の神々』岩波新書(1999)

 〈もう一冊〉
  井上寛司『「神道」の虚像と実像』講談社現代新書(2011)

  最初に書店に求めにいったのはこちらの方だった。ジュンク堂でも在庫がなく、amazonで取り寄せた。日本の神祇信仰の中で「神社」という常設の神殿が作られたのは、古代における律令体制の確立の過程で仏教寺院に対抗するためであったという。実際、再三にわたって各地に造営を促すような命令が下されたという。国分寺の造営も並行してすすめられた。中国文化の圧倒的な影響から日本の統一国家化がすすむわけだが、そこにはすでにしてナショナリズムの萌芽もあったというわけだ。井上はそこに神仏習合の第一段階をみている。
  戦前から「国家神道」を批判した柳田国男を高く評価しながら、「日本固有」の神道にも鋭く疑問をつきつける。多分にロマン主義が感じられる谷川とも違って、歴史学者としての検証にもとづく批判精神が伝わって来る。



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by yassall | 2017-07-11 19:55 | | Comments(0)

木下通子『読みたい心に火をつけろ! 学校図書館大活用術』岩波ジュニア新書

 木下通子さんは埼玉県の高校図書館の司書である。この6月、岩波ジュニア新書から本を出された。これまでも共著では何冊か学校図書館に関する本を世に出しているが、今回は岩波の編集部から「今までの実践を、まとめてみませんか?」と声がかかり、上梓にいたったとのことである。
 木下さんとは新任司書として岩槻商業高校へ赴任したころからの知り合いである。以来、何校かを異動して現在は春日部女子高校で主任司書をつとめている。新任のころからエネルギッシュで、学校ばかりでなく、各種の研究会や地域にも飛び込んで精力的に活動してきた。私とはいっしょに高校図書館研究会の副会長をつとめたこともある。いまや高校図書館研究会でも、学校図書館問題研究会でもリーダー的な存在である。
 そんなご縁で、本書でも紹介されている埼玉県高校図書館フェスティバルの企画にさそわれ、お手伝いしたことなどは記憶に新しい。私の定年退職後はめったにお会いすることもなくなったが、facebookではつながっているので、近況についてはよく存じ上げていた。
 この本の出版にいたるヒストリーも承知していたので、書店に出たらすぐにでも駆けつけようと思っていたのだが、昨日、岩波の封筒に入った本書が送られてきた。さっそく御礼のメールを差し上げたところ、「埼玉から全国に、学校図書館の輪を広げていきたいです!」という返信が返ってきた。その返信の素早さもなのだが、いかにも木下さんらしい文面だな、と感じた。
 埼玉県の司書採用試験の再開のために高校図書館フェスティバルを企画し、各方面に働きかけ、国会議員へのロビー活動もおこない、実現にこぎつけた。この本の執筆を引き受けたのも自分の司書としての生き方をふりかえるためだけではなく、全国的にはまだまだ司書も不在の学校図書館の現状を打開したいとの願いからだろう。
 そんなわけで、私も私のためだけに贈られた本だと思わず、一人でも多くの人たちに手にとってもらいたい、読んでもらいたいとの願いをこめて紹介する。

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by yassall | 2017-06-24 18:54 | | Comments(0)

又吉直樹「劇場」

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 通常1万部のところ4万部印刷したが、たちどころに完売したらしい。近所の本屋へ行ったときには売り切れだった。その後にもう1万部増刷したと聞いた。今度は買いそびれないように急いで本屋へ行った。

 瞼を閉じても瞼の裏側の皮膚は見えない。これは嘘だと分かるから作り物感は残る。だが、作品全体を予感させるような巧みな書き出しだと思った。終いまで読み終わって、この感慨はいつの時点のものだろう、とまた考えこんだ。

 青山という「僕」とは異質な存在を挿入したことで小説として成功した、と思った。青山の書いた小説を「嫉妬で感情的に読んでもうたかも知らん」から「もう一度読んでみる」という「僕」に、青山は「永田さんが自分で思っているほど私にとって永田さんの評価って重要じゃないから」と、多分に棘を含んだ言い方ではあるものの、過去にわだかまりのないことを伝える。それでも「僕」は「いや、絶対読む」と答えさせているところで、「僕」は変わったと思った。その前のメールのやりとりでは、「お前の思考には人間が変化するという当然の節理が抜け落ちている」といっている。本当は、これは「僕」が自分に対して突きつけた言葉ではないのか? つまりは「他者」ときちんと向き合えるかどうかであり、はね返ってそれは「自己」とどう向き合うかという問題であろう。

 もう一度、書き出しにこだわってみる。「僕」が見ようとしているのは「風景」=世界なのか、「瞼」の裏側=自己の内面なのか?
 「変化」という言葉は冒頭部分にも出てくる。高校時代、心斎橋の小劇場ではじめて小劇団の芝居に触れたとき、「客席で観ている自分自身の内部にまで変化をもたらすことが面白くてしかたなかった」という。だが、この時点で「僕」に自分がつかめていたとは思えない。沙希と出会うころの「僕」の自己認識は「肉体を使いこなせていない虚弱な幽体」であり、「知らん人と話す」のが苦手で、「頭の中で言葉はぐるぐる渦巻いてんねん。捕まえられへんだけ」と告白する。自分の尾を追いかけて同一箇所を回り続ける子犬を想起させる。あるいは自分の尾を飲み込もうとする蛇のようとでもいうのか。未熟さ、またはグロテスクさを感じる。
 決して否定的に述べているのではない。言葉にならないものを言葉にしてみようとすること、見えないものに輪郭を与え可視化していくことを避けたら文学ではない。又吉は文学に挑んでいるのだと思った。ありきたりの表現を剥ぎ取って、どれだけ根源に迫ることが出来るのか、読者として見届けてやろう。グロテスクであるのは当然である。

 言葉にならないものを言葉にしよう、見えないものをみよう、というのだから、最初はつきあうのもつらかった。なかなかストンと落ちてこないから、読むスピードも上がらなかった。新しい表現は作り物と紙一重である。
 恋愛小説を書こうとした、というが、これは恋愛小説といえないという気がした。「僕」は沙希を「支配」しようとし過ぎたというが、「支配」というより「独占」であり、独占し得ていないという焦燥が「嫉妬」となって噴きだしている、という感じである。つまり、相手には常に自分の方のみを向いていて欲しいという承認願望ではないのか? しかし、恋愛とは相手を「支配」するというより、相手に「支配される」という感情に近いはずだ。これを「純粋」とはいわない。目の前にこのようなカップルがいたら、青山と同じように私もすぐさま別れることをすすめる。
 自己愛の投影、しかも相手に映し出されることによって、かろうじて自己を保持できるという構造。「僕」自身がもてあまし、振り回されている。

 NHKスペシャル「又吉直樹 第二作への苦闘」を私も見た。又吉が「人物たちが作家の手を離れて勝手に動き出すのを待っている」というような意味のことを語っていた。「動き出した」という言葉はなかったが、後半に入ると明らかに文章の速度感が変わってきた。
 「火花」を読んだとき、この作家は文章は書けるが「物語」は書けない、という印象を持った。大きな「物語」は書けていないが、今回は小さな「物語」は書けていると思ったし、さきほどの恋愛小説の問題にもどれば、もしかするといたるところで孤立化を深める現代青年をめぐる事情からすると、けっこう核心に迫っているのかも知れないと思い直した。
 それはむしろ沙希が動き出すことによってはじまった。沙希は「永くん一人で大丈夫?」と東京を去る直前に「僕」にたずねる。客観的には「従属」でありながら、その自分がいなければ相手はダメになってしまうのではないか、と考えるのは、自分の存在意義=居場所を相手の内側に見いだしているということだろう。少し健康を回復し、部屋の撤収のために上京した沙希は「私ね、東京来てすぐにこれは全然叶わないな。なにもできないなって思ってたから、永くんと会えて本当に嬉しかった」と語る。だが、沙希はそれを「何か吹っ切れたように」言ったのであり、沙希は変わったのである。
 沙希が「私の宝物」という昔の脚本を読み合わせるところからはじまったアドリブで、沙希は「あんたなんかと一緒にいられないよ」というセリフを発する。「僕」は「何かを消すためではなく、背負うところから沙希の言葉を聞きたいと思っていた」と書く。沙希と「僕」とは切り離され、ようやくにして対の関係が生まれる。「僕」も変わったのである。
 ラストまで読んでも、それが出口となったかどうかは分からない。「日常が残酷だから小説を読んでる時間くらいは読者に嫌なことを忘れてもらいたかったんだ」は青山の言葉である。「僕」は実は「ハッとした」という。だが、同調したわけではあるまい。そのギリギリのところで又吉はこれを書いたのだなと思った。

 「劇作家」という設定には苦しいものがある、と思っていた。だが、随所にあらわれる演劇論はけっこう面白かった。「自分のなかのどうしようもない感覚や摑み切れない感情に無理やり形式を与えたりせず、その奇妙は形のまま表出してみる」などという箇所と出会うと、自分で脚本を書いたことがあるかどうかはともかく、少なくともいろいろな芝居を観ているのは確かだろうと思った。かといって、そのような演劇がメジャーになっていくとは思えないが。


 又吉は大阪出身であるが、出自は沖縄であるらしい。彼の持つ疎外感や孤立感は思いの外、複雑であるのかも知れない。これは又吉の「東京物語」ではないか、という勘も働いたが、もうここでは触れない。


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by yassall | 2017-04-03 19:42 | | Comments(0)

佐藤洋一郎『食の人類史』中公新書

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 人間は生きるために食う。ところがしばしば目的と手段が逆転し、まるで食うために生きている、という実態にあることを自覚せざるを得ないことがある。人はなぜ職業に就くか? いきがいを求めて? 自己実現のため? 社会参加をめざして? それらを否定しはしない。だが、それらをはぎ取った究極のところをつきつめてみれば、生活の糧を得るため、つまりは食うためではないか?
 だとすれば、人間は何を、どのように食べ、それを得てきたかは、人間とは何かを考えるときの基本ではないだろうか? それがこの本を読んでみたい、読んでおこうと考えた動機である。
  ※
 狩猟・採集、農耕、遊牧の三つが食を得るための人類の生業であったというところから論考がはじまる。遊牧は農業と一体となった牧畜とは区別される。それは農耕から派生していったという要素もあり、また狩猟・採集の知識や技術が生かされていったという側面もある。
 「日本人は農耕民族である」というような言い方がある。だが、糖質とタンパク質をセットで確保しようとするとき、農耕だけに頼ることは出来ない。日本ではタンパク質の多くを漁労から得てきたという歴史がある。このあたりは民俗学と共通する問題関心があって面白い。
 三つの生業はそれぞれに対立しあったり、補完し合ったりしてきた。農耕民は土地を囲い込もうとすることで狩猟・採集民、遊牧民と対立する。反面、定住を強いられる農耕民は他の生産者との交易が必要となる。その仲介者となり、さまざまな物資をもたらしたのは遊牧民あるいはそこから生まれた商人だったのではないか、というのである。
 人類の起源はアフリカにあり、コウリャンなどアフリカ原産の雑穀がある。トウモロコシや北欧の食生活を激変させたジャガイモは中南米が原産である。それらを視野におさめつつも、本書ではユーラシア全体を眺めつつ、比較対照し、またその交流の歴史を探っていく。
 ユーラシアの東側つまりアジアは夏に雨が多い夏穀物ゾーンだという。イネ、キビ、アワ、ヒエはアジア原産である。アジアの自然は多様であり、針葉樹林、落葉広葉樹林、照葉樹林、熱帯雨林それぞれに独自の生態系が存在する。西ユーラシアは冬に雨が降ることから冬穀物ゾーンとなる。コムギ、エンマーコムギ、オオムギ、ライムギ、エンバクは西アジア原産である。
 コムギが黄河下流域にもたらされたのは4~4500年前だという。『礼記・月令』にはコムギの栽培を国が義務として定め、違反する者は処罰された、という記載があるそうだ。コムギの導入には相当の抵抗があったようだという。イネもまた紀元前後ころには欧州に到達した。ミルクと出会ったのがリゾットということになる。面白いのはコムギは東進しても粉食され、イネは西進しても粒食された。
 コムギとイネを例にしたが、それぞれの伝播にあたっては中央アジアの遊牧民のネットワークがあったから、というのが筆者の仮説である。西にはメソポタミアやペルシャ、下っては古代ローマ帝国があり、東には古代中国文明、パミルの山々の南にインダス文明があるのを知っていたのは彼らをおいていないというのである。
  ※
 食と宗教との関連についても独特の見方が披露される。ユーラシアの東側では多様な動植物にめぐまれ、食は「自然」によってもたらされたという意識が高く、多神教を生んだ。
 東側に比べ、降雨量も少ない西側では「文明」によって「作物・家畜」を作り出さなくてはならず、「神が人のために作りたもうた(もたらした)」ものという意識が生まれ、一神教の土台となった。食にあたっても序列化が生まれ、野生は低位におかれた。ときによって人工の及ばない「自然」は脅威であった。
  ※
 農耕と農業とはどう区別されるか? 自らが生きるために植物性の食材を生産する営みが農耕であり、他人それも不特定多数の他者のために食材および衣食住にかかわる資材を生産する産業を農業という、というのが筆者の定義である。
 農耕が農業となるためには生産力増大のための技術革新が必要となる。ここでも考えさせられる問題がある。焼畑と灌漑を比較してみる。焼畑耕作が自然を破壊したと考えられているが、それは偏見だという。むしろ不適切な灌漑は土壌に塩害をもたらしたというのである。内陸に塩を持たない日本では想像できなかったことが世界では起きているのである。
 農業はまた都市を生んだ。都市が生まれれば商業活動も盛んになる。商品経済が発達すれば資本の蓄積が自己目的化されていくのは自然だろう。
  ※
 2011年現在、世界の人口71億人に対して穀物の生産高は24億トン、一人あたり年間330kgで一日あたり3000kclになる計算だという。1年に1億人という勢いで人口は増加しているというが、現在のところ穀物は生産過剰という状態にある。それにも関わらず、約10%の人々が飢餓に苦しんでいる。生産されるトウモロコシ26%のうち16%が家畜の飼料となっている。トウモロコシはバイオ燃料の原料にもされようとしている。つまり、食の偏在が重大な危機をもたらしているのである。
  ※
 漁労は狩猟・採集の生業に含まれるとあったが、養殖の普及によって農業がもたらしたのと同様の問題、具体的には沿岸域の環境破壊が生じている。大量の播き餌によって富栄養化が進んでいること、農業において作物として無価値な植物が雑草とされたように、売り物にならない魚は雑魚として駆逐されること、1匹のマグロを養殖するためには10倍のイワシが消費されてしまうことなどである。海における養殖は農業でいえばいまだ初期段階にある。
  ※
 狩猟・採集民、遊牧民とは異なるが、白拍子、木地師などは日本のノマドである。民俗学が非定住民の文化に注目したことがもっと見直されてもいいと思った。
  ※
 筆者は農学博士で、総合地球環境研究所副所長をへて、人間文化研究機構の理事をつとめている。もちろん、本書は専門書ではないから必要最低限の理系の知識(それでも私に十分理解できたとはいえないが)は押さえているものの、人文知に対する要求にも十分応える内容になっている。というか、その分野の専門家にとっては常識に属するようなことが、一つ一つ自分の中の既成概念を打ち破っていく。
 昨年、書評を読んで興味を持ち、浦和の須原屋に立ち寄ったときに入手しておいた。そのままになっていたのをようやく読んだ。積ん読のクセが治らない。読みたい本があとからあとから現れるのに読書力が追いつかない。

佐藤洋一郎『食の人類史』中公新書(2016)


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by yassall | 2017-03-31 17:15 | | Comments(0)

今年の読書から

小熊英二『社会を変えるには』講談社現代新書(2012)
柄谷行人『世界共和国へ』岩波新書(2006)

 ここ数年、志木高校時代の知人たちと読書会を開いていることを以前にも報告した。2冊ともその読書会のテキストとして私が推薦した。とくに柄谷の『世界共和国へ』は私にレポーターの順番が回ってきたとき、「思考実験的な要素があるので、分担はせず、1回切りで」という条件でテキストにしてもらった本である。
 この2冊について語るためには、私の現在の関心事がどこにあるかを明示しておかなければならない。いずれも難問で、答えに到達することが私に出来るとは思えない。「だが、その答を得るまでは一歩たりとも先へは進めないのだ」などと大見得を切ったところで、たちまち腰砕けになることは目に見えている。
 それでも、「人生の生き直し中」という限り、私がこれらの問いを意識し続けることはその証立てであろうし、今度こそ安直な楽観も悲観も拒否しつつ、問い直し、問い続けていかなければならないと思っているのだ。
 本来なら、それらがなぜ私にとっての関心事なのかを書かなくてはならないのだが、煩雑を避け、箇条書きにしてみる。

 ①成長なき資本主義は可能か
 ②「国家の死滅」のときは来るのか
 ③私が生きてきた(生きている)時代はどんな時代か
 ④「日本的なるもの」は存在するか
 ⑤「個」と「全体」の問題は解決されるか
 ※③からはさらに「戦後民主主義」とは何か、「代表制」は民主主義であり得るか、あり続けられるかといった枝番としての問いが生まれる。枝番は他の問いからも発生する。


 上記の2冊はこれらの問いに、大いなる示唆を与えてくれたと言ってよいと思う。
 小熊英二『社会を変えるには』は、戦後日本の社会運動の歴史と現段階の状況と課題の分析、社会学的な知見に裏づけられた原理論としての「民主主義」論、「近代自由民主主義」の理論的背景について述べた書物である。書きぶりこそ平易で、アクロバット的な思考実験とは無縁ながら、新しい視点をいくつも提示してくれ、思考の変革をもたらしてくれる。
 
 柄谷行人『世界共和国へ』は、著者自身が「自分の考えの核心を、普通の読者が読んで理解できるようなものにしたい」とあとがきで述べているように、2000年以降の著者の思考の現段階でのまとめとして書かれ、しかも「普通の読者」に読まれることを強く意図して世に出された書物である。そこには著者なりの危機意識と使命感が存在する。
 柄谷はまず、現代が「理念と想像力なき時代」であると指摘する。1990年代以降の資本主義のグローバリゼーションの進行の中で、「世界市場」が形成され、国民国家の輪郭が揺らいでいる。新自由主義が世界を席巻する中で、これに対抗しながら広域国家づくりがすすんだり、「旧世界帝国」が再登場しようとしたり、途上国の両極分解が起こったりしている。しかしながら、新自由主義への対抗はしばしば排外的ナショナリズム、文化的・宗教的原理主義にとどまっている現状がある。
 そして、現代において人類が直面する課題は、ずばり戦争、環境破壊(原発問題を含む)、経済的格差であるというのである。これらの課題の解決のためには「国家と資本の統御が必要」であるとする。

 柄谷は考察の枠組みとして、マルクスに多くを依拠しながら、生産様式からではなく交換様式およびその変容と接合から歴史・社会を考察しようとする。
 そこで考察される交換様式とは、A互酬、B略取ー再分配、C商品交換、D(X)である。歴史の発展過程としては、Aは原始社会・共同体に対応し、Bはアジア的生産様式=賦役貢納制、古典古代的奴隷制、封建制に対応し、Cは資本制に対応する。
 ただし、共同体は原始社会以後も社会構成体の基礎として残る。共同体が本格的に解体を始めるのは国民国家の形成および商品交換の普遍化によってである。Bは国家の誕生とともにあらわれ、官僚制と常備軍からなる構成は近代国家においても変わらない。Cは萌芽的には各社会構成体に存在したが、絶対主義と資本制が結合していく中で商品交換の原理は国家の支配を抜け出ていく。
 Dは(X)として表現されるが、「自由の互酬制」であり、商品交換という位相において開かれた自由な個人の上に互酬的交換を回復しようとする運動として「想像的な存在」であり、歴史的には「普遍宗教が説く倫理」あるいは「社会主義運動」としてあらわれた。ただし、「想像的な存在」であるとしながら、柄谷は「社会構成体に内属」しているとも書くのである。

 つぎに、柄谷は歴史の現段階としての「資本主義的社会構成体」は、資本[商品交換]=国家[略取ー再分配]=ネーション[想像された共同体(互酬)]が接合した「ボロメオの環」であるという。
 先に述べたように資本と国家が結合して急速に商品経済が普及していく過程で共同体は破壊されていった。ネーションとはその共同体的な人間の紐帯を「想像的」に回復しようとしたのだというのである。
 私には、これは非常に説得力に富んでいるように思われた。実際には様々な階級・階層に分断されているのに、「国民」として「国家」に統合されることを可能にする原理こそ、「国民国家」(国家=ネーション)という幻想なのである。柄谷はフランス革命の標語、「自由」は商品交換に、「平等」は(略取-)再分配に、「友愛」はネーションに対応しているという。
 問題の焦点はこの3つの原理を混同、あるいは結合が必然的で堅固であると錯覚してしまうところにある。(「ボロメオの環」は想像上の環であり、三つの輪は互いにしっかりと連結しているが、二つの輪同士は互いに連結していないから、一つの輪でも欠けるとたちまちバラバラになってしまうというしろものなのである。)

 価値形態論からみる貨幣の性格として最も重要なのは「貨幣と商品の非対称性」であり、貨幣は社会的質権として、人間の意志を超えた客観性と社会的な強制力を発揮する。
 資本と国家は異なる原理によっている。国家はそれ自身のために存続しようとしている。また、国家は他の国家に対して存在している。したがって、国家を表層的な上部構造であるとし、深層にある市民社会=真実社会の自己疎外態であるから、経済的な変革によって資本制を終わらせれば国家は消滅すると考えるのは間違いである。同様に、国家の消滅の「手段」としての「プロレタリア独裁」(共産党一党独裁)も誤りである。「他の国家」からの「革命の防衛」のためには国家権力は強化されなければならず、国家社会主義(一国社会主義)に陥る。

 では、どのようにして資本と国家を「統御」していくのか? 柄谷が提起するのは「自由の互酬性」にもとづく「アソシエーション」と、カントが「永遠平和のために」で問うた「世界共和国」の実現である。
 国家と資本を揚棄していく主体は「プロレタリア」である。ただし、生産過程におけるそれは資本に従属的であるしかない。プロレタリアは生産点において搾取される存在であると同時に、流通過程においては「生産物を買い戻す消費者」であり、「売れる」ことによって「利潤」が完結する資本に対して、ボイコット(等)の手段によって対抗することが出来るのである。
 資本は自己増殖的で、資本が資本である限り、その運動を(自ら)止めることはできない。資本主義は差異化が不可能となる時点で終わるということはできるが、その運動を放置する限り、それが終わる前に人間と自然の大半が未曾有の破壊に直面する、というのが柄谷の発する警告である。

 読書会でのレポートの最後に、私が感想として配布したメモは以下のようなものである。

 ・「マルクス」と「マルクス主義」を区別。マルクスの新しい可能性を追求しているようにもみえる。
 ・生産様式からではなく交換様式から歴史・社会をみるという方法は人類学の知見に負うようにみえる。「史的唯物論」に対する疑問を投げかけているようにみえる。ヘーゲル的な「理性」の発展としての世界史に対しても同様である。
 ・ただし、「古典古代的奴隷制」と資本主義社会において出現する「奴隷・農奴」状態を区別しているところから、経済的な下部構造がその土台にふさわしい「社会構成体」を形成することは否定していない。
 ・人間性としての「互酬的交換様式」は現代人にも認められる。原始共同体とは異なる社会において「相互性」を取り戻そうという思想には魅力を感じる。
 ・「空想的社会主義」と断ずることは容易である。だが、かつての「プロレタリア独裁」もまた「空想的」であったとはいえないだろうか? もっとも、資本主義肯定論者の例えば「トリクルダウン」も幻想であることはもはや明らかだが。
 ・『世界共和国』の思想はカントに依拠している。カントに社会主義的な傾向が見られることは正しいようである。
 ・プルードンとマルクスの親和性には慎重である必要がある。ただし、マルクス主義の「三つの源泉」のひとつにフランス社会主義があることはレーニンも認めているところである。(プルードンは結社という意味でのアソシエーションには否定的だったようである。ただ、「連合」の重要性は認めていたようである。)
 ・「大衆的」かつ「前衛的」な「党」が「代表」として選ばれ、長期的な視野に立って「自由」「公平」「公正」な社会を展望していくという道を(筆者は)肯定するか?
 ・「アソシエーション」=生産・生活協同体は「地方再生」の課題として一定程度実現可能ではないだろうか? それが「国家」を造りかえていく力になるかまでは不明。ただ、ヨーロッパでは「シェア」の実践はかなりすすんでいるようである。新しい社会のシステムやルールの広がりは期待したい。
 ・現代の課題に応える新しい「理念と想像力」を、という思想態度には強い共感をおぼえる。キング牧師の演説やジョン・レノンの「イマジン」を想起する。

佐和隆光『経済学のすすめ』岩波新書(2016)
船戸与一『満州国演義一~九』新潮文庫(2007~2015、文庫版は2015~2016)

 もう2冊あげる。
 佐和隆光『経済学のすすめ』には「人文知と批判精神の復権」というサブタイトルがつけられている。ここから察せられる通り、前半は国立大学において「人文社会系学部や大学院は組織を廃止ないし再編」し、「社会的要請の高い分野への転換」を図るべきだとした昨年の「文科大臣通知」批判である。日本の大学のランキングが低い原因は、論文を英文で書かないため、他の研究者から引用される回数が極端に少ないからだ、というような現場感覚からの指摘からはじまって、欧米の学問体系および教育課程における人文科学の位置づけを論じ、真に創造的な学問探究におけるリベラルアーツの重要性を説いて、批判は精緻かつ鋭利である。
 戦後日本の経済学を論じた件では、アベノミクスは新古典派(新自由主義)でもケインズ派でもなく、あえて分類すれば「国家資本主義」にほかならないと喝破する。アマルティア・セン(インドのノーベル経済学賞受賞者)は新古典派が前提にすえる「経済人」を「合理的な愚か者」と決めつけ、「効用最大化」以外に、あるいはそれ以上にシンパシーとコミットメントを人間の選好順序の要因としてあげたという。その意味からすれば、日銀がマネタリーベースを上げさえすれば消費が上向くとするアベノミクスは、市場原理にもとづく新古典派というより、上意下達による愚民政策に他ならないと批判する。
 後半は経済学の教科書化=「制度化」に対する批判である。それはアメリカからはじまったが、とくに日本における経済学の「制度化」は政府のすすめる経済政策に「理論的」あるいは「統計的」な裏づけを付与しようとするものでしかない。「数字」のとり方によって、それはいかなる政策にも対応してしまうのである。筆者によれば、経済学は本来モラル・サイエンスであり、「人文知と批判精神という鎧」を纏ってはじめて「希有なる威力」を発揮するのだというのである。
 ノーベル医学生理学賞を受賞した大隅さんの「役に立つという言葉が、とても社会を駄目にしている」というスピーチとも通底する、もうけとしての「経済」優先の歪みを正そうとするアクションは頼もしいと思った。自分にも理解できそうなところだけ拾い読みするつもりでいたが、最後まで読み通してしまった。

 さて、船戸与一『満州国演義』こそ、私がこの1年間をかけて読み続けた書物に他ならない。張作霖謀殺にはじまる第1巻を手にしたのが3月、「満州国」の瓦解から通化事件・シベリア抑留を描いた第9巻を読み終わったのが12月。もちろん全9巻400字詰原稿用紙7500枚超の大著とはいえ、ただひたすら毎日を費やしてここに到ったのではない。続刊の発売を待つ期間もあったが、しだいに重苦しさを増していく内容が次の巻に向かうのをためらわせること度々だったのだ。著者自身が「小説の進行とともに諸資料のなかから牧歌性が次々と消滅していく」ことを痛感させられた、と書いている。
 同じあとがきで、「小説は歴史の奴隷ではないが、歴史もまた小説の玩具ではない」と書くように、ベースには「膨大な量の文献との格闘」がある。巻末に掲げられた参考文献リストをみても、それが少しも誇張でないことが理解できるし、「資料を読んでいるうちに客観的と認定された事実にも疑義を挟まざるをえないものがあちこちに出て来るようになった」ということばに、その「格闘」ぶりが証明されている。
 もともと「小説として成功したか否か」を問うような作品ではないのかも知れない。敷島4兄弟と陰の主役ともいうべき関東軍特務員の間垣徳蔵を登場させ、これらの人物を中心に小説は進行していくが、それぞれの個性をもって時代と激突し、主体的に生き抜いて行くというより、時代の目撃者あるいは伝聞預かり人として配されているというところだろう。敷島という姓も「大和」のとか「日本」のという意味でしかなく、さまざまな階層に散りばめられながら、時代に翻弄されるしかなかった日本人一般を表象しているのだと思われる。
 ただ、時代の大きなうねりは押さえながら、たとえば「満州」には日本に併合された朝鮮半島からも移植しており、それらの朝鮮人が襲撃にあったときの関東軍の対応、電力の確保のために建設されたダム工事の現場での現地工人たちの境遇など、通史では取り上げられることのないような出来事も丹念に描写されていく。明確な批判精神といったものが介在しているのでもなく、特定の歴史観による取捨選択がなされてもいない分、その愚劣さや非情さ、もはや戦争継続の能力も大義も失われていることが明らかなのに、ひたすら破滅へと突きすすむしかない歴史の大渦、その抗いがたさ、解体されていく国家と人間をこれでもかといわんばかりに描いて、読む者を突き落としていく。
 『満州国演義』は船戸与一の遺作である。執筆途中の2012年頃には胸腺癌を患っていることが公表され、最終巻の9巻の刊行から2か月後に71歳で没した。余命1年弱という宣告からなお3年余りを生ききって完結させた。
 この執念は何だろう。この稿の冒頭で、私は「私が生きてきた(生きている)時代はどんな時代か」などという問いを発しながら、私がその「答」に到達できるとは思えない、などという軟弱なことを書いた。
 1944年生まれの船戸にとって、『満州国演義』に描かれた時代は本人が生きた時代とはいえないものの、そのベースを形づくった時代である。私は船戸にもまた、「自分の起源となった時代」「自分の拠って立つ時代」を明らかにしなくては死んでも死にきれないという決意があったのではないかと思っているのである。
 司馬遼太郎が書こうとして書けなかったというノモンハンを船戸は書いている。先ほど、「明確な批判精神」は介在させずと書いたが、そのノモンハン事件やインパール作戦に参謀としてかかわった辻政信や瀬島龍三等に対しては、そのエリート意識と立身出世主義(功名主義)を容赦なく批判している。作品には船戸の遺言がこめられているのである。
 読み通すのは苦しい。だが、読むべきだ。船戸の執念に応えなくてはならないのだ、と思ったのだった。

 村上もとかの漫画『フイチン再見!』は単行本で8巻まで刊行されている。上田としこの『フイチンさん』は私たちが子どものころ、少女雑誌に連載されていた漫画である。「ああ、こんな絵の漫画があったなあ」というのが最初だったが、村上のオマージュともいうべきこの作品によって上田としこが満州からの引揚者であり、父親は帰日直前に捕らえられ処刑されていたこと、『フイチンさん』はその体験を元にしていることなどを初めて知った。
 鳥居の歌集『キリンの子』は版を重ね、歌集として成功をおさめた様子でなによりだった。有名になったせいか、彼女のブログを閲覧すると、共感や感動を伝える声に混じって、心ないコメントや匿名のコメントが多数書き込まれているようだ。まったく不届きだと憤慨するしかないが、そんなことで心折れる鳥居ではないと信じている。
 雨宮まみの急死は惜しんでもあまりある。山折哲雄は来年も読んでいくつもりである。以上


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by yassall | 2016-12-31 14:47 | | Comments(0)

『キリンの子』が届いた

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 1月20日の投稿で紹介した鳥居の初歌集『キリンの子』が届いた。新聞によると発売日は明日の10日であるらしいのだが、amazonに予約注文しておいたので1日前に配送されたのである。
 届いたばかりだから、まだパラパラ頁をめくっている段階である。
それでもブログに「クリスマスも お正月も返上で 良い本にするために頑張ってました。 今も 試行錯誤しながら めっちゃ 頑張ってます。」とあったとおり、とても大切に、愛しみを込めて作られた本だと言うことは伝わって来る。たくさんの人に読まれるといいと思う。この本を必要としていた人がたくさんいるような気がする。

  私ではない女の子がふいに来て同じ体の中に居座る

 ときに自分を切り裂いていく目、そこに見たものをことばにする力は並大抵ではない。

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 岩岡千景の『セーラー服の歌人 鳥居』もいっしょに届いた。「東京新聞」での連載を大幅に増補改訂したとあったが、連載とはずいぶん組み立てから変えたようだ。読むのはこれからだが、鳥居を人物として追うだけでなく、作歌に寄り添っていこうという姿勢に好感が持てそうな気がする。

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by yassall | 2016-02-09 20:16 | | Comments(1)

三浦英之『五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後』集英社

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1 窓は夜露に濡れて
  都すでに遠のく
  北へ帰る旅人ひとり
  涙流れてやまず

 という1番からはじまる「北帰行」は小林旭の持ち歌である。昭和30年代に歌声喫茶で歌われていた曲を採譜・アレンジしたものだという。小林旭版で割愛された2、4番の歌詞は以下のようになっている。(その他、2、3番にも微妙な相異がある。)

2 建大 一高 旅高
  追われ闇を旅ゆく
  汲めど酔わぬ恨みの苦杯
  嗟嘆(ああ) 干すに由なし

4 我が身容るるに狭き
  国を去らむとすれば
  せめて名残りの花の小枝
  尽きぬ未練の色か

 中学生のころ、たしか「中二時代」(あるいは「中三時代」)の付録についてきた歌集で、私は原曲の歌詞を知った。(たぶん歌集を編集した人は歌声喫茶版によったのだろう。)
 2番の1行目に「旅高」とあるのは「旅順高校」の略だろうと察しがついた。日露戦争のことを聞いたり、父が兵隊時代に満州にいたことから、旅順という地名は知っていた。だとすれば小林旭の無国籍的な歌とは違って、「さらば祖国/わがふるさとよ」という歌詞にも真実味があると感じたことを記憶している。
 では、その前の「建大」とはどこか? なぜかは分からないが、きっとこれは「建国大学」という大学が、満州国のどこかに国策によって創設された歴史があったに違いない、との「勘」が働いたのである。その勘は正しかったわけだが、私が最初に「建大」の名を知ったのはこのときである。

(「北帰行」の作詞・作曲は宇田博であるということが判明したのは、歌が流行るようになってからずいぶん後になってのことらしい。旧制一高の受験に失敗した後、満州の親元に帰り、建国大学前期(予科)に入学するも校則違反で放校、次いで旅順高校に入学したが、ここも校則違反で退学になった。まさに歌詞そのままである。
 ※宇田はその後旧制一高を再受験、東大卒業後、戦後はTBSに入社した。
 ※「北帰行」の原曲は現在「旅順高等学校寮歌」となっているが、宇田は退学が決まった直後にこの歌を作詞し、寮の友人たちに残していったという。その後、寮生たちが歌い継いでいったということであって、最初から「寮歌」として作られたものではない。
 ※また、「寮歌」として歌い継がれたと書いたが、旅順高校は日本の敗戦と同時に5年で廃校となっている。)

 次に私が「建国大学」の名を意識するようになったのは安彦良和の『虹色のトロツキー』によってである。50歳のころ、ちょうど家の建て替えで3ヶ月ほどマンション住まいをしていた折、近所の本屋でたまたま手に取った。私が購入したのは中公文庫コミック版だが、元々は1990年から1996年にかけて他誌で連載されたものらしい。中公文庫からは刊行中だったが、すっかり夢中になってしまい、ついに8巻を揃えることになった。
 物語は日本人の父とモンゴル人の母の間に生まれたウンボルトが「建国大学」に特別研修生として入学してくるところから始まる。関東軍参謀にして建国大学創設主任であった辻政信が連れてくることになっているのだが、この部分はもちろんフィクションである。ではあるが、石原莞爾、甘粕正彦、川島芳子、李香蘭、はては大本教の出口王仁三郎、合気道の創始者である植芝盛平まで登場する、ロマンあり、活劇ありの一大歴史絵巻は、綿密な調査に裏づけられた昭和裏面史たり得ていて、ノモンハン事件までを描く。
 ここで『虹色のトロッキー』にまで深入りするととりとめもなくなってしまうので、早々に切り上げることにするが、ただなぜ「トロツキー」なのかというと、ソ連を追放されたトロツキーを「建国大学」の講師に招聘しようという構想があったのは本当らしいということだけ言い添えておこう。

 さて、ようやく本題に入る。『五色の虹』の筆者三浦英之は朝日新聞記者。2010年から翌年にかけて「建国大学」に関する取材にとりくみ、一部は夕刊紙に連載されたとのことである。
 2011年の東日本大震災の取材、その後の米国留学などの間に原稿をまとめ、建国大学同窓会の人々の協力による裏づけを得たのち、出版を決意したという。インタビューに応じてくれた人々が高齢であることからの「曖昧さ」、あるいはその人が暮らす国の政治状況に対する配慮から、一時は本にすることを断念しようとも考えたとのことだが、かえって建国大学卒業生の人々から背中を押してもらったという。開高健ノンフィクション賞に応募し、受賞したことで書籍化への道が開けたという。
 出版は昨年の12月。私は東京新聞の書評で知り、5日に外出した際にジュンク堂で購入した。上記のことから、いつかもっと詳しいことを知りたいと思っていたのだった。
 本を買って帰ると、まずパラパラと拾い読みをしてみる。そうして読む順番を決める。今すぐに必要な情報が得られそうか、少し腰を落ち着けて読んだ方がよさそうか、などのあたりを付けるのである。
 読み出したら止まらなくなる本というものがある。他に読みかけの本もあったのだが、こちらを優先させることにした。7日には読み終わった。力作だと思った。よくぞ書いたと思った。

 「建国大学」は満州国の崩壊とともに歴史の闇へと姿を消した。開校して8年弱という歴史の乏しさもあり、大学の資料はほとんど残っていないという。というより、敗戦と同時に焼却されてしまった資料も多いことだろう。
 戦後に卒業生たちがたどった運命もまちまちである。「建国大学」の卒業生・在学生であったことを伏せなければ生き延びられなかった時代を過ごした人も多いようだ。だが、卒業生同士の連帯感は強く、お互いに連絡を取り合いながら名簿などは整理されてきたらしい。「満州建国大学卒業生たちの戦後」というサブタイトルのとおり、各国に散らばった卒業生を訪ね歩いてのインタビューを骨格にしている。卒業生の人々にしてみれば、「今、話しておかなければ」という気持ちがあったのではないか? その語り口をみると「これが最後になるかも知れない」という心情がひしひしと伝わって来る。

 三浦が書く通り、建国大学は「日本の帝国主義が生み出した未熟で未完成な教育機関」であったことは間違いないだろう。当初に掲げた「五族協和」の理念も開校数年後には神道や天皇崇拝の強制がはじまり、植民地下における支配と被支配という、そもそもの矛盾を覆い隠せるものであり得るはずもなかった。
 それでも、学費・学寮生活費は免除、他に官費で月5円を支給、言論の自由は完全に保障されるというばかりでなく、むしろ学生たちのみによる宿舎ごとの討論会が奨励される、図書館ではマルクス主義の文献や孫文の著作も自由に閲覧できるという、きわめて実験的な教育方針には興味をそそられる。貧家に育ったために進学を断念せざるを得なかった秀才たちが、その建学精神に呼応して(そうでなくともそれぞれの志を抱いて)きそって受験したため、「建国大学」は超難関校となったというのはあながち嘘ではないだろう。「建国大学」一期生は全部で150人、うち日本人65人、中国人59人、朝鮮人11人、ロシア人5人、台湾人3人であるという。受験生は約1万人であったとのことだ。(ついでにここで書いておくと、入学後は宿舎内も同一の民族ばかりにならないようにし、床をとる順番も互い違いになるよう規則が定められていたという。)

 「建国大学」の発案者は石原莞爾であるとのことだが、その石原はそのあり方について①建国精神、民族協和を中心とすること、②日本の既成の大学の真似をしないこと、の他に、③各民族の学生が共に学び、食事をし、各民族語でケンカができるようにすること、④学生は満州国内だけでなく、広く中国本土、インド、東南アジアからも募集すること、⑤思想を学び、批判し、克服すべき研究素材として、各地の先覚者、民族革命家を招聘すること、といった意見を述べたという。
 これらがその通りに実現されたわけではないが、⑤にしたがって先述のトロツキー招聘も構想されたし、実際に1919年に朝鮮で起こった「三・一独立運動」で「独立宣言書」を起草した崔南善が教授として採用された。その崔南善にひかれて「建国大学」に二期生として入学した姜英勲氏は後に韓国首相となり、南北初の首相会談を実現させた人物である。
 「建国大学」に通っていた非日系の学生の多くは、戦後「日本帝国主義への協力者」とみなされ、自国の政府・民間から厳しい糾弾や弾圧を受けた。
 ただ韓国のみが母国にもどった彼らを「スーパーエリート」として国家の中枢に組み込もうとした。それは語学力や国際感覚に優れていただけでなく、当時国家が最も欲していた軍事の知識を習得していたからだ、というのには考えさせられてしまうが、韓国が置かれた歴史的地位を思えば納得せざるを得ないのかも知れない。
 姜英勲氏は陸軍中将として士官学校校長にまで昇り詰めたが、その姜氏をもってして、朴正煕のクーデターを批判したために4ヶ月の投獄ののち、アメリカへの亡命同然の生活を送らざるを得ないほど、卒業生たちの人生は順調ではなかった。姜氏が首相として招聘されるのは士官学校時代の教え子である盧泰愚が大統領に就任したときである。

 大連で取材にのぞんだ一期生の楊増志氏は、在学中に反満抗日運動のリーダーとして地下活動中に検挙されたという人物であるが、中国当局からマークされていたらしく、インタビュー中に長春包囲戦に話題が及んだとき、突然取材が中止された。長春で取材の約束をとりつけていた七期生の谷学謙氏は幾多の変転の上、中国教育界の重鎮の地位を占めるにいたった人物であり、中国での取材ビザの申請にも尽力があったということだが、どのような力が働いたのか、直前になってキャンセルされた。
 三期生のモンゴル人学生であったダシニャム氏は満州国軍司令官であったウルジン将軍の息子である。そのウルジン将軍の名誉回復がなされたのは1992年になってのことだという。今はカザフスタンのアルマトイで暮らすスミルノフ氏もロシア革命から逃れてきた白系ロシア人の末裔として、他の人々とはまた違った苦難の人生を歩んできた人物である。

 こうして内容を紹介していると、とりとめもなくなってしまう。日本人卒業生については端折ってしまったが、収録されている在学中の日誌を読むと、政府が掲げる建学の理想と現実との矛盾に直面せざるを得なかった日本人学生の心の葛藤を知ることが出来る。また、卒業生のつながりが国境を越えたものであることも知ることが出来る。
 最後に台北に住む一期生の李水清氏のことを紹介して終わりにしよう。頭脳の明晰さから「台湾の怪物」と呼ばれたとのことだ。その李氏が三浦から楊増志氏のことを伝え聞いたとき、大声で笑い出し、次のように語ったというのである。

 「いや、なに、君はまったく心配しなくていいんだよ」(彼は)「格好いいところを見せたかったんだよ」「君だけにじゃない。君の背後にいるたくさんの同期生たちににね。俺は共産党政府なんぞには屈していないぞ、楊増志、未だ反骨精神ここにありってね。」「逮捕されては釈放され、釈放されてはまた逮捕される。その連続こそが彼の人生そのものだったんだ。でも誰も--少なくとも元建国大生は--彼を絶対に軽蔑しない。彼は凄い男なんだよ。」

 「建国大学」は日本の傀儡国家であった満州国の支配のために作られた国策大学であり、「当初の崇高な理念は物理的な閉学を待たずにすでに崩壊して」いたことには、いささかの留保を加える必要もないことは明らかだろう。しかし、そこで青春を過ごした者同士に生まれた絆と信頼が、地理的な壁、時間的な壁を越えて強固に結ばれていたことも信じていいように思ったのである。

三浦英之『五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後』集英社(2015.12)

※一度アップした後も書き足りない気持ちでいっぱいだ。それは一人一人の人生についての紹介はこんなものではとうてい足りないという思いに近い。「建国大学」はいうなれば負の遺産である。そうであるから、忘れたふりをしたり、否認したりもしたくなるだろう。しかし、そこにも否認し得ない人間の営みがあり、喜び悲しみの人生があった。そして、白系ロシア人スミルノフをして「古い友人がはるばる遠くの国から私を訪ねてきてくれた。…神よ、あなたは私に最高の人生を与えてくれた」といわしめている。それもこれも、今、書きとめておかなければ、いずれは消えてしまう。若きジャーナリストである三浦英之が一冊の書物としてこれらの一人一人の人生を書き残してくれたことに心から敬意を表したい。


※小木田順子さんの書評がありました。
http://webronza.asahi.com/culture/articles/2016010800002.html
 


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by yassall | 2016-01-08 21:21 | | Comments(0)

斎藤美奈子『ニッポン沈没』筑摩書房

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 だいぶ読むスピードは遅くなったとはいえ、本は読んでいるし、まだまだ読みたい本、読まなくてはならないと思っている本もたくさんある。ただ、読みながらいろいろなことを考えてはいるのだが、なかなかまとまらない。そこで、このブログで読書報告をしようと思っても、つい滞りがちになる。自分のテーマとしていることに近ければ近いほど、その傾向は強まる。だが、この本だけは一刻でも早く紹介したいと思ったのだ。
 読後感は、縦横無尽、痛快無比! ジャンルとしては書評・時評ということになるのだろう。筑摩書房のPR誌「ちくま」に連載された「世の中ラボ」の2010年8月号から2015年6月号までを単行本にしたものだ。毎回、一つのテーマにそった3冊の本をとりあげ、内容を紹介しながら、現代社会に生起する様々な問題の焦点を明らかにし、掘り下げようとしている。
 斎藤美奈子氏は鎌田慧、山口二郎、佐藤優氏らとともに『東京新聞』の「本音のコラム」を担当している。常々その切れ味のするどさに魅せられ、本書も出版を知るや手にしたようなものだが、今このときにこそ多くの人に読まれて欲しい思ったわけなのだ。
 2010年に「ちくま」での連載が始まったのは偶然によるのだろうが、単行本への収録にあたっての、章立ての第1章は「激震前夜」である。「はじめに」では現代日本を特徴づけるキーワードはずばり「戦争、原発、経済格差」であると述べる。以下、章立ては「原発震災」、「安倍復活」、「言論沈没」とすすむ。
 したがって一冊を貫く柱として原発、領土問題、自民党「憲法草案」、慰安婦問題、特定機密保護法、集団的自衛権といった話題への言及が大部を占める。だが、それ以外にもリニア新幹線、貧困女子、「イスラム国」といった問題にもしっかり目配りしている。
 ヘイトスピーチの問題に触れて、単にヘイト・スピーチ=「憎悪表現」としてとらえたのではその本質を見失う。スピーチ=「表現の自由」などという隠れ蓑を許すことにつながってしまう。「朝鮮人帰れ」も、沖縄で「米軍は帰れ」と叫ぶのも、違いが無くなってしまうというのだ。
 師岡康子『ヘイトスピーチとは何か』岩波新書を参照しながら、「人種、民族、性などのマイノリティに対する差別に基づく攻撃を指す」ことを明らかにし、「ヘイト・スピーチそのものがすでに暴力」であり、放置すれば「虐殺」に発展すると警告している。
 ややもすれば曇りがち(曇らされがち)になりやすい私たちの目を明らかにするためには、自らの感性をみがき、論理の力を身につけ、思想を鍛える必要があることを教えてくれる。

斎藤美奈子『ニッポン沈没』筑摩書房(2015)


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by yassall | 2015-12-06 20:09 | | Comments(0)

伊藤一雄『池袋西口 戦後の匂い』合同フォレスト

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 先日、高校時代の同期会があった。5年前にも一度開かれているのだが、高校時代に親しくしていたSの姿がなかった。おそらく転居先不明のままになっているのだろうと思い、今回は幹事を買って出てくれているKに頼んで案内状を送ってもらった。
 Sは千葉に職と家族を得て引っ越してしまった。年賀状のやりとりだけはしていたのだが、会うのは35年ぶりくらいになるのではないだろろうか? そのSからこの本のことを教えてもらったのである。
 奥付をみると、著者は1950年生まれ、池袋第五小学校卒業。新宿区職員として勤務したとあるが、退職が2006年だから定年までは勤めなかったのだろう。その後、東京都自治体問題研究所理事、都留文科大学非常勤講師を経て、現在文教大学非常勤講師などを勤めているという。
 そのような経歴がどう関連しているのかは分からないが、本書の基になったのは私家本として出された『池五の界隈』なのだという。成り立ちとしては池袋第五小学校の同窓生に向けて書かれたものらしく、書きぶりもそんな感じである。Sとは小中学校で同期だったという。
 池袋は豊島区、私が生まれ育ったのは隣の板橋区である。だが、東上線の始発駅である池袋には子どもの頃からなじんできたし、書かれていることには強い同時代意識を感じる。
 小学生のころ、東上線に乗って池袋に近づいてくると見えて来たのがマンモスプールである。ローラースケート場にもなっていて、友人に誘われ、親に内緒で出かけていったことがある。家に帰ったあと、どうしたわけかバレてしまい、こっぴどく叱られた。この本にも出て来て、「不良が多く集まる場所」なので「子どもだけで行ってはいけません」というシドウが当時あったそうだ。
 やはり完全な(?)地元民というわけではないから、どこそこの通りを抜けると○○さんの庭先に出た、というような話にはついて行けないし、西口の東武デパートの隣りに東横デパートがあったのは記憶にあるが、建設中のことまでは知らない。
 その東横も、東口の西武デパートの隣りで、今はパルコになってしまった丸物ももうない。三越も山田電気になってしまった。
 喫茶店「ネスパ」なんて名前が出てくるともう懐かしくてたまらない。山之口貘がよく通ったという沖縄酒場「おもろ」はまだ健在で、同期会の帰りにもSともう一人を誘って立ち寄った。
 本屋では芳林堂の名前が出てくるが、芳林堂もコミックセンターを残して撤退してしまった。古書店では、西口の八勝堂や夏目書店は建物も建て替えてまだまだ健在だが、東口駅前にあった古書店(※)はとっくに無くなってしまった。
 ※店名を失念していたのだが、そこで購入した本の裏表紙にシールが貼ってあったのが見つかった。盛明堂書店である。
 東口では新栄堂が老舗だったが、ジュンク堂ができた後に閉店してしまった。新栄堂の並びではキンカ堂も長くまでがんばっていて、演劇部の小物の調達に出かけたりしていたが、これも撤退してしまった。
 この本には出てこないが、吉岡実の日記を読んでいると、よく池袋のことが出てくる。窓の外から巣鴨刑務所(現在のサンシャイン)が見えた、などと書かれているから、この近くに住んでいた時期があったのかも知れない。新栄堂の地下に喫茶店があり、吉岡実が誰かと待ち合わせをしたようなことが書いてあったような記憶がある。喫茶店といえば、現在の東急ハンズの向かいにあった「コンサートホール」が無くなってしまったのは残念でならない。
 この本で、新宿と池袋を比較し、池袋は繁華街にあたる地域が狭く、すぐに住宅街と混在してしまう、と分析している。両方とも交通のターミナル(※)として発展してきた町ではあるが、確かに新宿の方が開かれたイメージがあり、池袋の方が閉ざされたイメージがある。だが、それだけに私などからするとわが町意識が高められるのである。
 ※付け足しだが、もともとこの地域のターミナル駅としての候補は板橋であったらしい。古くから知られた地名ということでは、新宿が甲州街道の宿場町なのだから、中山道側は板橋であって不思議はないのである。だが、地の利から池袋になったらしい、などということもこの本に書かれている。ああ、話が尽きない。
 ※付け足しの訂正と補足。明治、最初に鉄道敷設の拠点と考えられていたのは板橋ではなく目白だったということである。読み間違いだったわけだが、もっと面白いことが書いてあった。これは偶然であるらしいのだが、新宿も池袋も鎌倉古道に沿っているというのである。その鎌倉古道は板橋に抜けていく。すると板橋は中山道と鎌倉古道とがクロスする地点に位置していることになる。

伊藤一雄『池袋西口 戦後の匂い』合同フォレスト(2015)



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by yassall | 2015-10-30 15:47 | | Comments(6)

NHKスペシャル取材班『福島第一原発事故 7つの謎』講談社現代新書

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 四国電力の伊方原発が新しい「規制基準」を満たしているとする審査書を、原子力規制委員会が正式決定した(7月15日)。
 写真でみても、同原発は険しい半島部に設置されており、ひとたび事故が発生したときには、避難にしても救援にしても容易ではないことは以前から指摘されていた。
 そして、新聞報道に「新たに必要となった配管など1300カ所の補強工事は今秋までかかる」とあるのを見て、「ああ、配管」と考え込んでしまったのは『福島第一原発事故 7つの謎』を読んだからである。
 本のことはnatsuさんのブログで知り、これは自分も読まなければなるまいと思ったのだが、かなり細かい専門的な技術に関する記述や、精緻な実験データを読み解いていく構成になっているので、読み進めることは容易ではなかった。だが、読み終えたあと、原発問題を考えていくとき、これは貴重な一冊だということは確かにいえると思った。

 事故発生当時、よくテレビで顔をみた東電の武藤副社長は、原子力の安全研究で有名なカルフォルニア大バークレー校に派遣された、「安全への意識も、技術的な能力も兼ね備えた立派な本部長だった」のだという。現在の東電の原子力部門のトップである姉川原子力・立地本部長へのインタビューでは、「その武藤さんが本部長でも事故を防げなかった。」「”できの悪い本部長だからダメだった”という結論だったら今後の原子力安全を考えることはそれほど難しくはない」として、事故の根深さを告白している。
 これは「人」の問題だが、本書を読むと今日の「原発技術」全体に対していえることであると思った。つまり、これだけの事態を想定し、これだけの対策を立て、これだけの技術を投入しても、なお事故を回避することは出来なかったこと、そればかりか、その対策や技術がかえって裏目に出たことによって、事故の収束を困難にしていることが明らかにされている。

 大地震が発生すると、原子炉内では燃料棒の間に制御棒が挿入され、核分裂が停止する安全装置が備わっている。そこまではよく知られている。福島でもスクラムは作動している。(テレビでそのことが報道されたとき、「ああ、原発は無事だったんだな」と安心したことを記憶している。)
 だが、地震発生とともに外部電源が、続いて押し寄せた津波によって非常用電源が失われたことによって、原子炉の冷却に失敗した。そのことがこの事故の本質であると思われて来たし、基本的には正しいと今もいえるだろう。
 ところがである。原発にはIC・RCICという、原子炉から発生する蒸気を利用することで、電源がなくても作動する冷却装置が備わっていたというのである。
 1号機にはICが備えられており、一度は確かに作動をはじめている。ところが津波によって非常用電源が失われたときに停止してしまった。電源がなくても作動するはずなのになぜ?ということだが、実はこれも放射性物質が外部に漏れ出ることを防ぐために、異常の際には自動的に配管の弁を閉じるフェールクローズという安全設計によるものだった。ICにつながる弁はレバーによって制御室から開放することができるのだが、計器類のいっさいがダウンしている状況下で、開閉弁の状態がどうなっているか確かめようがなかったというのである。
 ICが作動するとIC排気口から激しく水蒸気が噴きだす。これを見誤った背景には、40年間一度も実際にICを作動させた訓練を行ってこなかったことがある。アメリカでは定期的に実施しているとのことだが、周辺住民に対する配慮などから日本では行われて来なかったという。ここにも事故の深層がある。(RCICの問題点は2号機にあらわれている。)

 ベントに関連しては、放射性物質を含む気体をサプチャンの冷却水に吹き込むことによって、放出前に99.9%の放射性物質を除去できることが実験モデルでは成功している。だが、実際には高温高圧状態になったサプチャンにはその能力はなかった。
 つまり、「机上の空論」ならぬ、机上の「理論」あるいは実験室での「データ」は、さまざまな物理的・人的要素が複雑に絡み合った事故現場では通用しなかったということなのである。ましてや、複数基の、それぞれに状況の異なった、同時進行する事故に対処することは、その原発の運転に熟知したたベテランの職員・作業員をもってしても不可能であったのである。

 当時のことを思い出してみると、消防車や自衛隊のヘリを使って、原子炉建屋に大量の水を注ぎ込んでいた光景がありありと目に浮かんでくる。
 東電の技術側では効果が疑われる注水より、電源の復旧を急ぎたかったらしい。その作業をストップしても注水が続けられたのは、東電側と政府側の相互不信や情報の錯綜、さらには国内外に向けての目に見えるパフォーマンスの必要といった要因があったと分析している。
 結果として、消防車の9気圧程度の水は高圧に達した原子炉には到達しなかったらしいこと、別ルートの配管からタービン建屋の復水器に流れ込んでしまったこと、さらには放出された放射能の75%が注水を続けていた期間に集中していることなどがリアルに暴き出されている。

 事故への対策本部となった重要免震棟も、消防車の配置も、柏崎刈羽原発事故の教訓から生まれたものであるという。消防車は当初は火災への対応のためであり、もちろん原子炉への注水を目的としたものではない。
 今日の規制委員会の「規制基準」と「審査」には福島原発事故の教訓が生かされているのだろうか? 本書では『7つの謎』に迫るとしているが、実際には「謎」が「謎」を生んでいるというのが本当のところであり、現場は今なお高濃度の放射能に汚染されていて、近づいて確かめることも出来ない。
 それどころか、福島原発事故がこの段階で「止まった」のが、単なる偶然によるものでしかなかったことが、つぎつぎに明らかになっているのだ。
 結局は、「あんなことは滅多に起きない」「誰かがどうにかする」という安全神話と無責任の体系が、再稼働に拍車をかけようとしているとしか思えない。
 「世界最高の安全基準」という呪文をとりあえず信じてみよう、という人にこそ、読んでもらいたい本だと思った。

NHKスペシャル『メルトダウン』取材班『福島第一原発事故 7つの謎』講談社現代新書(2015.2)


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by yassall | 2015-07-16 19:48 | | Comments(0)