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カテゴリ:高校演劇( 61 )

2019年埼玉県高校演劇中央発表会

 11月16、17日に開催された2019年埼玉県高校演劇中央発表会に行ってきた。出かける前に済ませておきたいことがあり、初日の1本目だけ失礼したが、1日目5本、2日目4本のお芝居を見せてもらった。せっかくなので表彰式も結果発表まで居させてもらい、講評も聞かせていただいた。

 最優秀賞 新座柳瀬高校 [hénri]! G.B.ショー・原作 稲葉智己・翻案
 優秀賞  川越高校「いてふノ精蟲」阿部哲也・作
 (上記2校が関東大会出場)
 優秀賞  秩父農工科学高校「群青フェイク」コイケユタカ・作

 創作脚本賞   「群青フェイク」コイケユタカ・作
 創作脚本奨励賞 「夢、酔ひ 華、香る」青木友菜・作

 審査経過報告によると優秀賞の候補には芸術綜合高校「さらば夏の思い出」も残っていたとのことだ。いずれも力作だったと思う。
 [hénri]!は地区発表会からだいぶ手を加えてきた。レッスン料の交渉の場面など惜しまれる箇所もあるにはあるのだが、遊びの部分をカットしたため、テンポはよくなっていた。反面、ミセス・ヒギンズに自分のところに通うように言われたその後はどうなったのだろう、というような箇所については新しい科白が追加され、きちんと回収されていた。それよりも何よりも、ラストシーンにヘンリーがイライザをエスコートして夜会に出かけるという新しい場面が付け加えられた。

 一緒に劇を見ていた人の意見では、先行きに様々な可能性を残しているという意味で、前回より今回のエンディングの方が優れているという。確かにイライザがヘンリーと抱擁し合うという前回のエンディングは、それが二人の恋愛の成就を意味しているとすれば唐突感は否めないし、芝居のラストシーンとしてももう一つ盛り上がりに欠けるような気がする。また、二人の住む世界の違いから考えれば、たとえ将来的にイライザとヘンリーが結ばれるとしても、まだまだ越えなければならない障壁があるはずである。そして、二人してその障壁に立ち向かおうという決意が生まれているか、と問えば、その障壁が意識されているとも、決意が固まっているとも現段階では言えないだろう。
 それでも前回のエンディングを「正しい選択なのではないだろうか」と書いた身からすると、今回は少々肩すかしを喰らったような気がするのも確かなのである。
 それというのも、9月頃の稲葉氏のFacebookにG.B.ショーは「『Pygmalion』でイライザとヒギンズが結ばれること」に反対していたが、「翻案していくと、どうしたってイライザ×ヒギンズだろうということになる」ので、「今回、何とかヒギンズとフレディーが対等に渡り合えるように書き始めてみた」が「ラストシーンの手前でギブアップ」、結論としてG.B.ショーに「弓を引」くことを決意したとあったからだ。
 それは初めて劇を見る人には知りえない話としても、もともと劇の組み立てとしてもそうなっていたのではないのか、ヘンリーがイライザのために買い求めてきたプレゼントを渡せずに苦悩している様子とか、自分の名前をファーストネームで呼べるようになって欲しいとか、ヘンリーとイライザが互いに心惹かれるようになるのでなければ、客は何を見せられてきたのだという話になる。
 二人が抱擁する場面は今回も残されている。「h」の発音を克服したイライザがヘンリーに抱き付いたのは、自分を見守り、支えてくれる存在として、ヘンリーに対する感謝と信頼がイライザに生まれたということで、この時点では十分だと思う。それに対してヘンリーの側も自分のレッスンの成功と、それに耐えたイライザのこころざしと努力に対する賞賛として、固い抱擁で答えるということがあっていいと思うのである。互いの心が通じ合った一瞬として。もちろん、ピカリングやピアスの目が間近にあるのだから、すぐに我に返るということでいいのだが。
 ところが今回のヘンリーの側の抱擁は曖昧で戸惑いが見えた。イライザにしっかりと答えられていないのは、自分の心の在処もつかみ損ねているように見えてしまったのである。私は地区発表会の審査員のヘンリー=コミュニケーション障害説はなかなか鋭いと考えており、イライザに惹かれていく過程はヘンリーが自らのコミ障を克服していく過程として描かれたらいいのにと思っているのである。
 とはいえ、ラストシーン自体は美しく仕上がっていたし、劇のしめくくりとしての水準を引き上げた。芝居としての完成度が何段階も高まったのは疑いようもない。ただパーティのためにドレスアップしてみせたというだけでなく、上流階級のドレス云々と持ち前の口調でケチをつけるところは、イライザがまだまだ恋愛には淡泊で真っ直ぐであり、そのことには好感を持てるし、そのイライザに腕をとらせるヘンリーにはイライザに対する理解と慈しみがみえてダンディだった。
  ※
 「いてふノ精蟲」は一回目(2014年)の上演で関東大会へ進出しておかしくなかった作品である。今回、リベンジを果たしたということになるのだろう。二度目の観劇となると、この役については配役はこちらの方がよかった、というようなことになりがちなのだろうが、新鮮味が失われることもなく、十分に観客を惹きつけたし、感動させた。
 衣装でいうとフロックコートを着たり、ステッキを持たせたりで時代を表現しやすい教授連と比較し、主人公の平瀬が学生が穿くようなグレーのズボンとワイシャツではなあ、と前回は感じたものだったが、きちんと背広を着こなし、ズボン吊りと蝶ネクタイを結んで登場させるなど、細かい改善がなされていた。審査員に言わせるとそれでも不十分だということだが。芝居という大きな嘘をつくためには小さな嘘をついてはいけないというが、プロの目は厳しいものだ。
  ※
 「群青フェイク」についても一言する。ここ三年くらいにコイケユタカさんが書いたものを私はけっこう買っている。妙な言い方になるが、以前は「劇的であるための劇づくり」という印象だったのだが、時代と正面から向き合ったり、現代高校生の苦悩に真摯に寄り添ったりという姿勢を感じ取った。
 三木清は『人生論ノート』の中で憎悪と怒りの違いについて述べている。今回の劇の前半でSNSによる陰口やら互いの暴露合戦を支配している感情は妬みの入り交じった憎悪であろう。それを生み出しているのは互いの距離感をつねに計らずにいられない生きづらさがあるかも知れない。その意味ではラスト間近になってのクラスメイトたちの和解も自分の本心を偽った「フェイク」の域を抜け出せないということであったのかも知れない。だが、最後の最後になってのアサヒの叫びは憎悪によるものではなく、怒りの発露であったと思ったのだ。そして、その怒りは変革のエネルギーに転化していく可能性を持つと考えたのだ。
 手元に来て急に「消える魔球」になる変化球ではなく、直球勝負に来ていると感じた。その直球をどう受け止めるか、審査員の間でも意見が分かれた模様である。私はたぶん工藤審査員の意見に近い。今求められているのは変化球ではなく、直球であると思う。コイケユタカさんは直球を投げてきたし、それが否定されてはならないと思うのだ。
 どうしても順位を付けなくてはならないのだろうし、次段階への進出の枠は限られている。しかし、もう一枠増やせるものならもっと多くの人に見てもらいたい劇だった。
  ※
 川越西高校「ゆーめいどりーむ」についても一言したい。成井さんはこういう劇も書くんだ、というのが率直な感想である。最初に放射能マークが映写され、最後に黒服ながら防護服を着用した人物が登場する。そうしてみると凄まじく散らかった室内も、片付けが嫌いなお嬢様のわがままが原因なのではなく、荷物の整理のいとまもなく避難を余儀なくされた原発被災地のありさまを表しているのだと理解できる。登場人物の二人は1年間800万円の契約で何ものかによってこの建物で暮らすことを強制されているらしい。ときおり遠くから聞こえる異音が不気味である。外部では何かが進行しているらしい。
 キャスト二人は熱演していたと思う。正直いうと、同じように強い口調で同じような会話が進行していくと、途中で疲れてしまって芝居が見えなくなるときがあった。したがって感想としては審査員とは反対になる。閉ざされた世界で虚と実が入り交じり、というより、虚が虚を生み出し、「もう一回最初からやろうか」という通り、おそらくは延々と同じことが繰り返されていくしかない出口のなさは戦慄すべきものだった。
 成井さんに言わせると、あんたが知らないだけで俺はいろんなものが書けるんだよ、というところかも知れないが、また多様な成井ワールドを見せてもらいたいものだと思った。
  ※
 皆さん、勝手なことばかり書いてごめんね。苦情、反論はどうぞコメントで…。


by yassall | 2019-11-20 16:06 | 高校演劇 | Trackback | Comments(4)

2019年西部A地区秋季演劇発表会

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 10月5、6日の日程で2019年西部A地区秋季演劇発表会が朝霞コミュニティセンターで開催された。現役時代からの知り合いはめっきり減ってしまい、古巣に戻ったというよりも、一人の観客として足を運んだというスタンスが強まっている。忙しさは分かっているから、あいさつを交わしてくれても、二言三言で済ますようにする。それでいいと思っている。
 1日目は和光国際高校、新座高校、朝霞西高校の3本を、2日目は午前中の細田学園高校、新座総合技術高校を失礼して、午後の新座柳瀬高校の1本を観劇した。朝霞高校は不参加だったが、1年生にやる気のあるのがいるので、来春には出場したいとのことだった。
   ※
和光国際高校『大正ガアルズ時々ボオイ』萩原康節・作
 「風の又三郎」を意識していることはすぐに分かった。主人公の名前も風野佐那である。ある夏の初め、両親を亡くした佐那は慶園塾に引き取られる。慶園塾の塾長は大妻コタカで、どこか現在の大妻女子大を連想させる。女子教育が目的らしいが男子生徒も在学し、男女平等教育に重点があるのかも知れない。武道も盛んである。慶園塾で一夏を過ごした佐那は夏の終わりに九州の親戚に引き取られていく。ますます「風の又三郎」である。
 殺陣を組み立てながら見せ場を作っていく手法は萩原さんが得意とするところだ。部員たちも相当稽古を積んだのだろう。危なっかしいところは少しもなく、なかなか見事な木刀さばきだった。殺陣にからんだ5人が5人ともだから、それだけでもたいへんなことである。
 これまでの作品には過去の何かの出来事から骨肉の間に強い葛藤があり、それが年下の者の方の忍耐とか努力、ときによって捨身によって克服されていくといったストーリーが多かった。今回も慶園塾の塾生の中に佐那の父親の道場を破門された父親を持つ諫早がおり、無念を晴らすことを胸に秘めていたというような設定があるのだが、同年代ということもあり、稽古で木刀を交えるうちに早いうちから気心が知れるようになるという具合で、殺伐としたところは少しもない。
 それは佐那のキャラクター設定に理由がある。剣術の技量は飛び抜けている。だが、艱難に耐えてとか、克己によってというような悲壮なところは少しもない。勝敗にもこだわらない。強い相手と木刀を交えているうちに、親友の仇を討つことも、塾の名誉を守ることもどうでも良くなり、魂と魂のぶつかり合いを感じ取り、楽しくなったというのである。
 作品としての完成度はどうだったのだろうか。いつもさまざまな要素を詰め込みすぎだな、と感じていたが、今回は引き算が利いたのか、窮屈な感じはなかった。ただ、その分、話が飛び飛びでストーリー展開に説得力が乏しかった。何か、大切な要素を置き去りにしながら、無理に進行させてしまっているような気がした。
 審査員の方の講評を伺っていたら初稿では平塚雷鳥を登場させていたらしい。それなら題名の「大正ガアルズ」も腑に落ちるし、塾長の女子教育に対する熱意にもつながってくる。塾生には他に旧藩の家老の娘として生まれ、親が家督を嗣がせるために養子をとったことから家に居づらくなった八重も登場させている。元々は理不尽な封建遺制との抗いというテーマも持っていたのだろう。それはそれで、2時間ものくらいに拡大して、見てみたい気はする。だが、このままではそうした物語の厚みまで想像しろというのは無理である。
 エネルギーを客席に届けたいということなのだと思うが、怒鳴り声になってしまって会話に聞こえて来ないし、人間関係の変化も読み取れない。新田五郎のような魅力的なキャラクターが提示されながら生かしきれていないのが残念だった。審査員も指摘していたが、人物たちがつねに木刀を携行しているのは不自然だった。皆、「剣では守れないものがある」ことに気づいたのだから。

新座高校『夢遊少女』別役慎司・作 顧問・潤色
 春の発表会は不参加のようだったので心配していた。顧問のGさんと立ち話をしたら、「今回は作りきれませんでした」とはいうものの、モチベーションは持続しているようなので安心した。部員も揃っているようだ。
 面白い台本をつかんだと思った。一見、ファンタジー物のように見えるが、もう少し深くサイコドラマとしての可能性を持っている気がした。「頑張り屋さんなのよ。緊張とプレッシャーの中、毎日過酷な仕事に従事して、寝不足からつい居眠りをしたのね。そのとき、違う何かが目覚めてしまった」というような科白があるように、現代社会あるいは現代の労働環境による人間性の抑圧を描いているように思われる。「違う何か」に目覚めたと言っても、それは自己の解放なのではなく、自我の分裂なのである。物語が佳境にさしかかると、三人で夢遊状態に入って、シンクロし、口から未来の予言を発するという超常的な出来事も起こる。日常の奥に潜むものを垣間見せようということだろう。
 セットはもう少し整理した方がいいと思った。翔子が座っているのは彩色されたBOXではなく、小さめの椅子でいいと思ったし、人形を出し入れしたり、ひっくり返したりするのも玩具箱一つでいいと思った。淡々とした科白回しはそのままでいいと思ったが、そうした中でも単調になりすぎない工夫が必要だろう。審査員は不安を感じさせる照明と評価していたが、医師の錦戸などはけっこう魅力的に出来ていたのだから、肝心なときに顔に照明が当たっていないのはやはり失敗だ。
 芝居のちょっとした見せ方のテクニックを磨いていったら、もっともっと面白い舞台が作れると思う。Gさんも「次はがんばります」と言ってくれたし、新座や朝霞西が安定した力を発揮してくれないと、地区が地区として成り立たなくなってしまう。

朝霞西高校『ラストチャンスは二度やってくる』中村達哉、久米伸明・作
 鴻上尚史のような小難しい台本ではなかったが、なかなか面白いところをねらったと思った。キャストの8人中5人が1年生という配役の中ではやりやすかったのではないか。といっても、中学生を高校生に変更したことが功奏して、高校演劇として物足りないことはなかった。タイムマシンものだが、(一人の男子生徒を二人の女子生徒が奪い合う)恋の鞘当てあり、女の友情ありで、同世代の観客の心に届くものがあったのではないか。
 演技は1年生が大半を占めるチームとは思えない達者ぶりだった。ドクターが登場するまでに完全に客をつかんでいたのではないか。見せ場は見せ場で作りながら軽妙なテンポで進行できた。後半はやや失速した。シリアスな場面の方がかえって難しかったようだ。どの加減で感情移入したらよいか迷っているようでもあったし、特に自分の科白がないときの演技がまだまだだった。それでも次が楽しみだと思った。

新座柳瀬高校『 [Henri』G・バーナード・ショウ・作 稲葉智己・翻案
 (新座柳瀬はこの発表会で県中央発表会への出場を決めた。おそらく柳瀬は11月に向けて台本・芝居を練り直していくと思う。そのことを踏まえながらも、これから書くことはネタバレになることを承知で読んで欲しい。)
 新座柳瀬がG・バーナード・ショウの『ピグマリオン』を原作として芝居を打つのは2度目である。2014年版は題名を『Eliza! 』とした通り、イライザが自らの意志で出自の階層の限界から脱して行こうとする生き方を描こうとしたものだった。そこのところでは、「花屋で働くために正しい発音を学ぶなんて信じられない!」との問いかけに、イライザが「それはあんたたちには分からないことだろう」ときっぱり断言する場面は残されている。
 今回は題名がヘンリーに変えられている。表記を発音記号としたのは「h」の発音に苦心したイライザが反復練習を延々と続けていく予告であるよりも、イライザに「私の名前を正しく呼んで欲しいのだよ」と告白するまでに心が動いていったヘンリーの存在を濃くしたかったからだろう。natsuさんはずばり「今回の台本はラブストーリー」であるとしている。
 これは審査員の指摘に助けられての解釈なのだが、過去におけるパーティでの態度をミセス・ビギンズによってたしなめられたように、ヘンリーにはコミュニケーション障害という一面がある。イライザへの恋に陥っていく過程は、ヘンリーが自らのコミュ障を克服していく過程でもある。
 「h」の発音を克服したイライザがヘンリーと固く抱擁し合うというエンディングは、イライザはイライザのままで、その生き方に強く惹かれたヘンリーと、ただ優しいだけでなく、自分を見守り、支えてくれる存在として、ヘンリーに対する信頼がイライザに生まれたということであれば、正しい選択なのではないだろうか。2014年版のときにも書いたが、イライザが「貴婦人」となって出自としての庶民階級から離脱し(というより捨て去って)、「上昇」をとげていく物語には、少しも心を惹かれないからだ。
 さて、そうなると登場人物たちの心の変化は十分に描き切れたかというのが気になるところだ。natsuさんも指摘していたように「ストーリーを展開させるピース」は確かに配置されている。だが、それらが正しく機能し、客席に伝わっていったかというと、まだ不十分さがあったように思う。たぶん、智さんとしては芝居があざとくなるのを嫌っているのだろうが、もう少し鮮明に描かれた方が親切である。キーを握るのはフレディかも知れない。ヘンリーがフレディに対する嫉妬心あるいはライバル心に気づくところ、反対にフレディが恋の勝者になるのは自分ではないことを悟るところ、今でも「ピース」としては用意されているのではあるが、それらが漸進的に積み重ねられて、線として結びつけられていったらエンディングはさらに感動的になるのではないか。
 イライザを気に入ったと言い、正しい発音が出来るようになっただけでは上流階級の仲間入りは出来ない、明日から私のところに通いなさいと言いつけたミセス・ヒギンズとは、その後どうなったのか。気になるところだが、イライザにはいわゆる「貴婦人」になって欲しくないし、言葉が変われば人間も変わってくるものだと思っているから、あまり心配していない。
 演技のことが後回しになってしまった。最初のころのイライザの蓮っ葉なもの言いには感心した。今まであまり発したことのない科白だと思われるが、生き生きと威勢よく、それでいて純情さを失わずに演じられたと思う。ヘンリーも1年生とは思えない存在感だ。少し弱々しく感じるところもあるが、フレディを演じた3年生に負けていなかった。これからが役者として楽しみだ。
 本筋ではないかも知れないが、「h」の発音の訓練のための例文はよく出来ていたし(どこかの教本にあるのか?)、わざと「h」を抜かした発音も面白く出来た。ヘンリーが「少しずつ出来るようになるのではなく、あるとき突然に、どうして今まで出来なかったのだろうと不思議に思うように出来るようになるのだ」と励ますところは、「量から質への転換」「反対物への転換」という弁証法の法則を思い出して、妙に納得させられた。


by yassall | 2019-10-10 01:36 | 高校演劇 | Trackback | Comments(0)

銀杏祭公演「震える風」

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 東大附属中等教育学校演劇部顧問のKさんから銀杏祭公演のお誘いがあった。Iさんには少し前に案内があったとのことでIさんからも「一緒に行こうよ」と誘われていた。日程が西部A地区発表会と重なってしまっていたため、少し考えてからと生返事をしていたら、「開催2日前に校内向けに公開リハがあるので、そちらにどうぞ」というメールが届いた。
 Kさんからの最初のメールには「東日本大震災を扱ったもので、簡単に言うと1ミリも笑うところがない深刻な芝居です。ですがエンディングは美しいかも知れません。」とあった。実はこの時点で心はだいぶ傾いていた。それでもその直後に話が来たので、私は公開リハの方を見せてもらうことにした。西部Aも春は朝霞高校しか見られず、他の学校がどうしているか気になっていたのである。まあ、私が行ってどうなるものでもないのは分かっているが、激励したい気持ちがあったのである。
   ※
 東大附属の銀杏祭公演は2016年の「宇宙のみなしご」以来である。同作品は森絵都の小説を戯曲化したものだが、秋にはずっと創作劇で臨んできた。そこでてっきり今回も創作なのだろうという先入見で見てしまった。既成台本であると知ったのは部員たちとの交流も終わり、片付けが始まったころだった。それでもまだ気づかず、「以前にもブルーシートを広く敷き詰めた真ん中にエリアを作り、両脇で役者が控えていたり、衣装替えをしたりする設定の芝居があったなあ。」という話をしたら、「きっと同じ芝居ですよ。新潟の学校です。」と言われ、やっと思い出したのだ。2016年に関東大会が彩の国芸術劇場で開かれたとき、新潟県立長岡大手高校が上演し、創作脚本賞を受賞した作品だった。「同じ芝居に見えませんでしたか?」と聞かれ、すっかり面目を失った。
 作品は1つの始まりと終わりを持つストーリーではなく、いくつものエピソードを積み重ねていく手法によっている。それが震災や、津波や、あるいは原発事故によってバラバラにされた人々の思いや記憶を拾い集めていく作業と重なっているようで、そこで成り立っていく芝居なのだと思う。ただ、役柄を変えながら、たとえば一冊のノートが人から人へと手渡されているうちに、いったい今、誰と誰が語り合っていて、どのような思いを交換し合っているのか、つい追いかけ損ねてしまうことがしばしばあった。そんなこんなで、終演後の部員たちとの交流会はずいぶんトンチンカンなものになってしまった。(音楽座からも2人来訪していて、そちらからのアドバイスは的確なものだったから、交流会自体は部員たちにとって有意義だっただろう。)
   ※
 というわけなので、とくに今回はこうして「感想」めいたものをアップしようというのは申し訳ない限りなのだが、約束なので少し書くことにする。
 まず秋のコンクールに向けてこの作品を選んだことを(私の観劇態度を棚に上げて)褒めておきたい。自分たちが演劇という表現手段を通じて、何を演じ、何を伝えたいのかというときに、本作に向かっていったことに頼もしさを感じたのである。
 パンフには千葉を襲った台風被害も一通りの報道が終わった後、話題はラグビーW杯に移ってしまう、震災の3年後東京オリンピックが決定し、来年の開催に夢中になっている、果たしてそれでいいのか、という疑問をぶつけている。いつまでも記憶していなければならないこと、むしろ新たにしていかなければならないことがあるのではないか、彼・彼女らが(キャストは女子だけだったが部員には男子もいるようなのでこう言っておく)自分たちの日常を振り返り、そのような疑問、そのような気づきがあったとしたら、それだけで素晴らしいことだと私は思うのだ。
 8.15後の文学が戦後文学であるように、3.11後の文学を震災後文学と呼ぶことを提起したのは木村朗子である(『震災後文学論』青土社、2013)。木村は、いとうせいこうの『想像ラジオ』が2012年上半期の芥川賞の最終候補作となったとき、「安易なヒューマニズム」というような心ない非難を浴びながら、いとうせいこうが語った次のような言葉を紹介している。

 「この小説の第二章に「当事者でないものは語るべきではないのか」っていう論争があるんだけど、まさにあの論争の通り、この小説自体に対して当事者のことを考えて書けよと言われたら僕はもう何も言えないんです。」

 当事者でなければ語るなとか、自身の作品に利用するな、とか、厳格さを装ったかの言説は流行しやすい。しかし、当事者であればよけいに声にし難いことを棚上げしたこれらの妄言は、つまるところ言論の封殺につながり、人と人とが結びつくことを断ち切っていく。
 「震える手」を書いた田村和也氏も、その意味では当事者ではあるまい。「誰でもない誰か、誰でもある誰か」という科白のキャスト全員による繰り返し、さまざまな役柄がカードを引くことによって決められ、しかし一度カードを引いた限り交代は出来ないという冒頭の場面は、震災体験を個人という特殊に押し込めようとする圧力の乗り越えを暗喩するものだろう。「誰でもある誰か」の声を、「誰でもない誰か」が引き取り、また引き継いでいこうという営みがなければ、いかなる体験も普遍化されることなく、結局は風化していく運命をたどり、いつかまた同じことが繰り返されるのを待つばかりになってしまう。
 小森陽一もまた、「文学で問う原発の日本」と副題をつけた『死者の声、生者の言葉』(新日本出版社、2014)で、いとうせいこう『想像ラジオ』の最終章「死者との対話を持続するために」から以下のような文章を引用している。

 「死者と共にこの国を作り直していくしかないのに、まるで何もなかったように事態にフタをしていく僕らはなんなんだ。この国はどうなっちゃったんだ」
  ……
 「亡くなった人はこの世にいない。すぐに忘れて自分の人生を生きるべきだ。まったくそうだ。いつまでもとらわれていたら生き残った人の時間も奪われてしまう。でも本当にそれだけが正しい道だろうか。亡くなった人の声に時間を傾けて悲しんで悼んで、同時に少しずつ前に歩くんじゃないのか。死者と共に。」


 芝居の出来栄えを(またまた、私の観劇態度を棚に上げて)言うと、そうした死者たちの声が聞こえて来たかといえば、残念ながらそうはならなかった。テクニック的なことを言えば、声が甲高いのは地声だから仕方ないとしても、いつも同じように強い科白が続くと客は疲れてしまうものだ。どのような人間関係があり、どのような感情を交換し合っているのか、何をどう伝えるのかについて、もっと掘り下げる必要があったのではないかと思う。鎮魂の思いも込められているとしたらなおさらである。 
 それでも生者ばかりでなく、死者の声にも寄り添って行こう、一冊のノートを残した人の思い、収集した人の思い、受け取った人の思いをくみ取って行こうと懸命に努力をしてきたことは伝わった。
 3.11をもう過ぎ去ったこと、遠い昔のことにしたい者たちはたくさんいる。私は高校演劇という世界で、3.11を語る作品、3.11があったことを踏まえた作品が、これからの若い世代、もしかしたら幼年期にでも重なることのない世代によって選ばれ、演じられ、引き継がれていったらいいと思っている。そして、それに耐え得るような作品がもっと多く書かれればいいと思っている。

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 というわけで、出かけたのは10月3日。正門は文化祭の飾り付けの最中でした。


by yassall | 2019-10-08 19:51 | 高校演劇 | Trackback | Comments(0)

コピスみよし2019第18回高校演劇フェスティバル『勝手に名場面集』

  6月16日、コピスみよし2019第18回高校演劇フェスティバルが開催された。6月28日のまとめの実行委員会の報告によれば観客動員も昨年からV字回復を果たしたとのことだ。まずはフェスティバルの成功を喜びたい。
 今年も写真記録係を担当した。各校の許可を得て、今年も「勝手に名場面集」をアップしたい。ただ、諸事情があって時機を大きく外してしまったこともあり、いつもの「やぶにらみ観劇記」の方は簡素になってしまいそうである。
 私が現役としてこのフェスティバルに関わったのが第9回まで。今回が第18回と聞けば本来は感慨もひとしおなのであるが、それらの思いも省くことになる。
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 とはいえ、いつものようにまずはひとくさり。斎藤美奈子が『日本の同時代小説』(岩波新書、2018)で、「小説は「何を(WHAT)いかに(HOW)書くか」が問われるジャンルです。その伝でいくと[HOW(形式)」に力点があるのが純文学、「WHAT(内容)」に力点があるのがエンターテイメント。」と書いている。
 1960年代論から稿を起こした斎藤美奈子としては、「知識人/大衆という階層の解体」の中で「純文学」が通用しなくなった、という文脈の中で語られる箇所なのであるが、ふと演劇でも同じようなことが言えないかと連想が広がったのである。
 もちろん表現者の側からすれば「何を」と「いかに」はどちらに力点を置くかという選択の問題ではなく、二つをどう結合させるかという問題設定になるだろう。それは脚本の段階でもいえるし、演技者・演出家のそれぞれに葛藤やひらめきや創意として表れることになるだろう。
 一方、鑑賞者の側からすると「感動した」や「面白かった」というとき、「何を」に力点を置いていたか、「いかに」に力点を置いていたかの違いは出てくるような気がする。私などはどちらかといえば「何を」の方に重点を置くタイプのように思えるし、おそらくは一般的な観客もそうではないかと考えている。その意味では「いかに」に重点を置いている鑑賞者は、本当の意味での見巧者ということになるのかも知れない。
 ただ、ここが演劇の不思議なところで、あまりにもパターン化された(陳腐な)感情表現や、肉声とならない観念語の羅列や、ちぐはくな身体と科白といったものからはその「何を」は少しも客席に伝わって来ないのである。「何を」に感動しているようにみえて、実は「いかに」に心震わされているというのが観劇の醍醐味かも知れない。 
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 坂戸高校『修学旅行~鬼ヶ島編~』畑澤聖悟・作 県坂演劇部・潤色
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 一昨年に坂戸高校は『修学旅行』正篇を上演している。正篇は高校演劇の傑作であると思う。沖縄修学旅行を題材に、教師側のいわゆる平和教育がどのくらい生徒に届いているか、という問題設定から始まって、一班に割り当てられた部屋の中で高校生たちが繰り広げるドタバを描きながら、実は隣国からの脅威や国境侵犯、エスカレートする対立など、世界で起こっている紛争の有り様がカリカチュアライズされていて、高校生たちもその現実から無関係ではいられないという事実に直面していくという構成になっている。
 しかしながら、この『鬼ヶ島編』には少なからず疑問を感じざるを得なかった。鬼ヶ島といえば桃太郎が出てくる。実際、劇中でも桃太郎が過去に鬼たちを襲撃し、打ち負かしていった回想シーンとして登場する。さらに、青鬼と赤鬼を分断させ、島を支配していったというような歴史が語られる。とすれば桃太郎はここではかつての大日本帝国の象徴、あるいは戦後沖縄を統治したアメリカ帝国主義を象徴しているようにも解釈できる。
 しかし、そのようにして蒔かれた種はちっとも育っていく気配がなく、最後まで回収されずに終わってしまっているようだった。後に残るのは鬼が登場して高校生たちと会話をしたりという虚と実の境界を失ってしまった無秩序感であり、赤鬼と今は亡霊となった青鬼の百年だか千年だかの恋の成就を見せられても伝わって来るものがなかった。
 写真1はその桃太郎の闘争シーンである。桃太郎は台本上でも武器を手にしていないのだろうか? 日本刀なり、あるいは衣装に似つかわしくない近代兵器を持たせた方がその暴力性が表現できたのではないだろうかと思った。写真2はラストシーン。このところ坂戸高校は部員確保に成功し続けており、ともかくも大人数によるパワーは伝わって来る。
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 星野高校『僕らの青春ドキュメント』ユウと愉快な仲間達・作 星野高校演劇部・潤色

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 富山第一高校放送演劇部による2018年度全国大会出演作品。パンフレットによるあらすじ紹介には、「春山高校2年4組の放送部は番組制作に苦戦していた。そんなある日、文化祭のクラス別出し物で演劇をすることが決まった。そこで、その様子を撮り番組を作ることにした。お互いを傷つけながらも成長していく「青春」物語。」とある。
 ストーリーが進行していくといわゆる「スクールカースト」の問題が提示される。総勢25名を舞台にあげたところはいかにも星野高校らしいところだが、そのスクールカーストの存在を表象しているかの縦長の階段上の舞台装置が効果的で生徒達が大人数に埋もれてしまうことなく、それぞれのグループや個人が浮き彫りにされていく。スクールカーストといってもクラス内が分断されているというばかりでなく、実は皆がラインで結ばれているといったところがあり、特定の個人が徹底的に除外されていくといった悲惨からは免れ、現代的であると同時にまたかすかな希望のようなものも提示されている。
 そうしたクラスの実態を番組制作と称してカメラに収めていく突き放した視線の存在が芝居にどう絡んでくるのか、もう一つ理解できなかったが、人物もなかなか魅力的に造形されており、好演だったと思う。
 写真1は期末考査が終わったばかりのところに特別授業の開始を告げられるクラスの全景である。写真2はクラスの出し物の稽古風景。蜘蛛の女王の登場シーンである。
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 東大附属中等教育学校『Alice!~白うさぎのお見合い!?編~』稲葉智己・作 ルイス・キャロル・原作

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 新座柳瀬高校は昨年のコピスで『Alice!~響け、ウエディング・マーチ!編~』を上演した。後述するように、今年は同題名でこのシリーズの総集編というべき作品を持って来た。
 シリーズと書いたが、今回東大附属が上演した『白うさぎのお見合い!?編』は昨年と今年との間をつなぐ作品らしい。私は初見なのだが、どこかで上演したのを顧問のKさんあたりが見ていたのだろう。コピスの観客たちにとっては親切な上演となった。
 幕が開いてみるとKさんがなぜこの台本を選んだのか理解できたような気がした。中高一貫校らしく、高二は一人きりで、他は中二から高一までの混成チームなのである。まだどこかしらあどけなさの残るキャスティングで(こう書くと本人たちは怒るかも知れないが)、きっと子ども達が見たら親近感が湧くだろうという舞台になった。
 とはいえ、演技はしっかりしており、舞台運びのテンポもよかった。衣装などもかわいらしく雰囲気をよく出していたと思う。些末なことのようだが、メイクでうさぎたちに髭を描き込んだのは不要だったのではないだろうか? 顔をしっかり見せた方が伝わる力が強まったと思う。写真1,2とも舞台風景である。
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 東京農大第三高校『ルート67』鹿目由紀・作

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 題名はもちろんアメリカ大陸を横断するかつての国道「ルート66」をもじっているのだろう。「ルート66」は廃線になってしまったが、この「ルート67」も廃線の危機に直面している。何とか廃線を回避できるようにとランナー(ライダー?)たちが国道を疾駆する。
 パンフレットには、「いつからだろう。この世界はこんな風になってしまった。地球温暖化を防ぐため、人間は科学技術を推進させ、人間と車が融合することを発明した。車人間たちが繰り広げる過激なデットヒート。リアルとバーチャルが錯綜するスピーディーなSFファンタジックドラマ。」との作品紹介がある。
 とにかく役者たちがよく動いた。たちどころに後景に飛び去っていくドライブインの看板やら、工事中の看板の付近にいた工事人たちが飛び上がっては消え去っていくありさま、そして様々なパフォーマンスをまじえながらルート67を疾走していくランナーたち。昨年の『バンクバンレッスン』で見知った役者たちも多数認められたが、誰も彼も見違えるように動きもよく表情も生き生きとしていた。
 写真1はルート67を疾駆するランナーたち。それぞれに表情がある。写真2は工事の進行を遅らせようと毎日のようにやってきては徒歩で道路を行きつ戻りつする少女とその少女を見守ろうと、あるいは説得のために集まってきた人々。少女の行為は入院中の妹を激励するためであり、実はルート67の物語はパソコンを使って少女が書き続けている創作であることが判明する。この少女が醸し出す雰囲気には惹かれるものがあった。
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 農大三高だけもう一枚。写真はルート67上でのパフォーマンスの一場面。シャッターは1/80秒でしか切れていないのに全員がよく止まっている。次の動作に移る前に一瞬の静止があるものだが、よほど息が合っているのだろう。プリントした方がきれいな写真になった。今回の私的ベストショットである。
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 川越高校『パンツァー☆ぼぉいず』阿部哲也・作

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 TVアニメ『ガールズ&パンツァー』を下敷きにしているのだという。戦車同士の模擬戦が伝統的な女性向けの武道として競技化され、華道や茶道と並ぶ大和撫子の嗜みとして認知されており、女子高校生たちが全国大会で優勝を目指して奮闘するといったような内容らしい。その戦車道に男子高校生の部があり、全国大会に出場することで落第を免れようとする高校生とその仲間たちを描く。
 その奇抜さとたぶんわざとチープに(しかしある意味で実に精巧に)作られた2台の戦車が見どころの舞台だろう。以前、同じ川越市内の高校に勤めていた身として、これは川越高校ならではの芝居だなと感じていた。
 旧制川越中学校を前身とし、陸軍特別大演習では大本営がおかれ、大正天皇を迎えたというような歴史がある。戦前、天皇から下賜された戦車が倉庫に眠っていた、などという設定は他の新制高校では想像上でもあり得ない。もちろん川越高校でもあり得ないのだが、何となく説得力が生まれてしまう。
 そして何より川越高校水泳部の存在が大きい。それまで女子の競技とされてきたシンクロナイズドスイミング(今はアーティスティックスイミングというらしい)を引退した3年生の水泳部員が文化祭での出し物として披露し大人気となったのである。私は見に行ったことはないが、ともかく年を追うごとに観客が殺到するようになったという噂を聞いていた。その後、映画『ウォーターボーイズ』(2001)のもとにもなった。「ガールズ&パンツァー」で女子の競技とされた戦車道を男子が競うというのとどこか構図が似ているような気がする。
 写真1は川添高校の選手が乗り込む九七式中戦車チハとその運転席。迷彩色が効いている。写真2は中戦車の元乗組員らしい旧日本軍人の霊と対話する男子。軍国主義の復活ではないスポーツとしての戦車道を認知するために登場させたらしい。ポツダム宣言受諾後のソ連軍との戦闘により、オホーツクで戦死したとある。日本の戦車は東南アジアを走り回るのには適していたのかも知れないが、ノモンハンではソ連に、太平洋諸島では米軍に徹底的にやられている。
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 新座柳瀬高校『Alice!~響け、ウエディング・マーチ!編~』稲葉智己・作 ルイス・キャロル・原作

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 東大附属のところで触れたようにシリーズの集大成的な作品であると思われた。白うさぎとアリス、帽子屋とチエシャといったカップルが、それまでのわだかまりを乗り越えて心を通わせていくという大団円を迎える。これまで暴君さながらであった女王は今回は縁結びの役割を果たしている。
 シリーズの集大成というだけなく、これまでの総決算を意識しているようにも思われた。オープニングで紗幕に映し出された回想的シーンなどの作り方にも感じたし、繰り返し使われてきたテディベアによるプレゼント攻勢などにも感じた。
 今年は新入部員が多かったらしく、キャスティングには余裕があったようである。1年生も多数出演させているようなのに、東大附属の「Alice」と比べると大人びた舞台となった。ただ、急ごしらえであったのか、脚本にももう少しひねりが欲しかったような気がするし、演技・演出にも詰めが不足していたように感じた。まあ、最近の多忙ぶりを知っていて書いているのだが。
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 ※今年も使用機材はD750+TAMRON28-300mm


by yassall | 2019-07-17 17:37 | 高校演劇 | Trackback | Comments(0)

2019年春季西部A地区演劇発表会

 4月20、21日の日程で2019年春季西部A地区演劇発表会が朝霞コミュニティセンターで開催された。今回は諸事情があって出演校が5校にとどまるということは知らされていた。どのようなプログラムになるのか予想がつかず、高演連のHPなどをのぞいても情報が得られなかった。20日は夜に予定が出来てしまい、時間調整が難しそうだななどと逡巡しているうちに出遅れてしまった。(翌日に知ったところでは1日目は午前中のみの公演であったそうだ。)
 古巣の朝霞高校は2日目の2本目と聞いていたので開演に合わせて出かけていった。この日の1本目は朝霞西高校だったそうだ。Mさんが去った後、Sさんが頑張っているのは知っていたので観たいと思っていた。もう少し早めに到着できるようにすればよかったのだが、区長選と区議選の投票を済ませてから出かけていったので、見ることが出来たのは朝霞だけになってしまった。なお、午後の1本は細田学園高校で予定上演時間は15分ということであった。前任の顧問のEさんが急に退職することになり、新任の方と顧問交代があったためだという。

 朝霞高校『熱海殺人事件』つかこうへい・作
 さて、言い訳がましいことから始めてしまったが、朝霞も観劇というより応援気分で出かけていった。というのも、3月31日の試演会直前にキャストの一人が退部してしまい、かなり顧問が参ってしまっているのを聞かされていたからだ。Fさんは現役時代の同僚でもともとブラスバンドの指導で実績のある人だった。音楽に専門家が来たのがきっかけで演劇に代わってから熱心に部を見てくれていた。鴻上尚史や竹内銃一郎、野田秀樹といった手強くも硬質な脚本に挑戦し続けて来たし、音響関係は元から詳しかったにせよ、照明のことも熱心に勉強されていた。ブラスバンドとのコンテストのあり方に悩んでいたり、部員たちとの葛藤も少なからずあった様子で、相談を持ちかけられることも多かったが、演劇に真正面からとりくんでくれたことには感謝している。
 応援気分というのはそんな意味からだったのだが、劇そのものは予想に反して(失礼!)なかなかの出来栄えだった。もちろん台本の力はある(だからこそ骨のある台本に挑戦して欲しいと思っている)。それを措いても、とくに3年生の2人は力演だったと思う。部長役の男子はよくぞここまで成長したなあと感心させられること頻りだった。思い込みが強かったり、ときに暴力的だったりする役回りだが、感情がよく乗っていたし、根底にある怒りや悲しみのようなものも表現されていたと思う。
 直前にキャストが降りてしまったというのは片桐ハナ子役の生徒であったという。急遽、代役を務めたのはTさんだ。昨年秋頃からしばらく休部状態で、復活してからもスタッフは手伝うがキャストは引き受けない、と宣言していたらしい。1年生のときから素材的にいいものを持っており、残念に思っていたが、あわや出場辞退という局面になってキャスト引き受けたという。試演会で会ったときに激励がてら声をかけたら、スタッフで稽古に参加している最中に科白はだいたい入っている、という頼もしい返事だった。そして本番、単に科白がつながっているなどというレベルにとどまることなく、ドラマにメリハリを作っていく役割をよく果たしていた。この春で引退してしまうのが本当に惜しく思われた。
 大山役と熊田役は2年生であったようだ。生徒会やら他の部活動とかけもちしているようなことを聞いていたので(どうも演劇以外にやりたいことのある生徒が多いらしい)、稽古不足が心配だったが科白はしっかり入っていた。責任感はあるのだろう。ただ、やはり自分の科白が回ってくる順番を待ってしまっている感はぬぐえなかった。
 相手のも含めて科白回しに不安がなくなり、それぞれの人物造形がつかみ始めてからが本当の稽古だし、演出もつぎつぎにアイデアが生まれてくる。たぶんもう2週間、全員がそろって稽古する期間があったら、方向性も共有され、表現の核とでもいうのか、月並みにいえば主題も見えてきたことだろう。なかなか部員が増えず、当分苦心する日々が続くだろうが、ぜひ心をひとつにして次に向かっていって欲しいものだと真に思う。

  ※

 さて、前日の予定とは東京労働学校から「日朝近現代史講座」の案内があり、20日は「韓国の民主化運動とキャンドル革命」が開講されたのである。講師は崔仁鐵(チェ・インチョル)氏。大学は日本で学んだらしいが、その後韓国へ戻り、現在論文にとりくんでいるという若き研究者である。来週の「朝鮮民主主義人民共和国の現在」も参加するつもりでいる。そして21日の午後は新座の9条の会で学習会があるというのでその足で出かけていった。こちらは近々内容を紹介する予定でいる。


by yassall | 2019-04-24 19:42 | 高校演劇 | Trackback | Comments(0)

第54回関東高等学校演劇研究大会栃木会場

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  12月23、24日の日程で高校演劇関東大会(北会場)が栃木文化会館大ホールで開催された。今年は特別枠で埼玉から所沢、新座柳瀬、浦和南の3校が出場。所沢高校顧問のAさん、新座柳瀬高校顧問のMさんはかつて西部A地区でご縁のあった人たちであり、栃木ならいつもより少し早起きすれば通いで行けてしまうので、応援かたがた出かけて来た。事前に関東高校演劇協議会のHPで上演日程を確認してみると所沢が1日目の朝一、新座柳瀬が2日目の朝一、両日とも4時起きはつらいなと思いつつ、客足が少ない時間帯こそ応援の価値がある!などと気持ちを入れ直したのである。
 両日とも午前中で失礼してしまったので12校全部を観劇したわけではないが、それでも埼玉3校は一頭地を抜いているように思った。熱演しているとか、高校生らしく元気にあふれているとかいう観点からだったら、他の学校もそれぞれの県を代表して選抜されてきただけのことは認められる。だが、演劇としてのクオリティとか、伝える力・届ける力とかになると、今年の埼玉はどこも勝っていたと感じた。(浦和南は2日目の午後の上演であったので見ずに帰ってきてしまったが、埼玉県の中央発表会のままだとしても判定は変わるまいと思った。)
 もちろん身びいきということはあり得るから「曇りない目」という保証はない。また、当然のことながら審査員にそれぞれの評価の観点があることは認めなければならない。果たして夜になって分かった審査結果は以下のようであった。

 第54回関東高等学校演劇研究大会 ―栃木会場―


最優秀賞

 埼玉県立新座柳瀬高校「Ernest!?」オスカー・ワイルド/原作、稲葉智己/翻案(創作)


優秀賞(4校・上演順)

 埼玉県立所沢高校「プラヌラ」高石紗和子/作、とこえん/潤色(既成)

 新潟県立新潟工業高校「室長」畑澤聖悟/作、引場道太と新工放送演劇部/潤色(既成)

 栃木県立小山城南高等学校「無空の望」黒瀬香乃/作(創作)

 さいたま市立浦和南高校「緑の教室」渡部智尋/作(創作)


優良賞(7校・上演順)

 塩尻志学館高校「イッテきま~す」たかのけんじ/作(創作)

 東京農業大学第二高校「エレベーターの鍵」アゴタ・クリストフ/作(既成)

 新島学園高校「カイギはDancin'」大嶋昭彦/作(創作)

 長野県松川高校「カノン」山崎公博/作、松川高校演劇部/潤色(既成)

 新潟県立新潟中央高校「Damn!舞姫!!」関勝一/作、演劇部/潤色(既成)

 栃木県立栃木高等学校「ミサンガ」栃木高男/作(創作)

 作新学院高等学校「そこの人たち、ちゃんと歌って」川上朋花・五十嵐美波・阿久津奈愛/作(創作)


創作脚本賞

 栃木県立小山城南高等学校「無空の望」黒瀬香乃/作(創作)


 出場校の皆さん、お疲れ様でした。また、入賞校の皆さん、おめでとうございます!

  *

 最優秀賞の新座柳瀬高等学校さんは、第43回全国高等学校総合文化祭(佐賀会場)演劇部門に推薦されました。おめでとうございます!

また、今回の栃木会場の優秀賞と、来年1月19日・20日の関東高等学校演劇研究大会(横浜会場)の優秀賞の計8校のうち1校も、同じく佐賀総文に推薦されます。

 ※ 今回の関東大会には、各県毎の2校に特別枠の1校を加えて埼玉県代表として3校が出場しましたが、その3校全てが見事上位入賞(うち1校は最優秀賞)という、埼玉県としては大変喜ばしい結果となりました。(「埼玉県高校演劇連盟」HPより)

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 会場の栃木文化会館。現地運営委員の皆さん、たいへんお疲れさまでした。
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 栃木駅前には山本有三の碑が建っていました。





 


by yassall | 2018-12-25 17:18 | 高校演劇 | Trackback | Comments(2)

2018年埼玉県高校演劇中央発表会

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 11月17・18日、埼玉県高校演劇中央発表会が開催された。会場の彩の国さいたま芸術劇場は1994年に建設され、来年25周年を迎えるという。17日朝、数日前には雨マークの付く天気予報であったが、空は晴れ渡っていた。
  ※
 ここ数年、写真記録を担当してきたが、今年は辞退させてもらうことにした。始まりはメインのIさんの都合がつかないときのピンチヒッターであったのだし、今でもフォローが必要なときはいつでもお手伝いするつもりではいるのだが、狭いスペースで二人して同じような写真を撮っているのも無駄であるというのが理由のひとつ(もし、コピスと同じように2階席からという限定であったとしても何カ所かにポジションを変えられるなら複数態勢にも意味があるだろうが)。
 また、カメラの高性能化によって画像ファイルのサイズが大きくなると、後処理にも膨大な時間がかかる。全部で10校分ということになればパソコンに読み込むだけでも相当の時間を要する。それが2人分になるということは、読み込み時間も、読み込んだ後に各校に分類し、DVD(もうCDでは容量が足りない)に落としていく時間も2倍になるということなのである。最後の舞監会議で各校に配布するため、それらの作業を短時間のうちにこなしているのはIさんなのである。
 三つ目の理由としては、やはり自分の撮った写真に満足できないということがある。というより、これが最大の理由である。ピントと露出は「時の運」もあるから当たり外れは仕方ないとして、もう少し絞りたい、シャッタースピードを上げたい、ISO感度を下げたい、という選択の壁はいかんともしがたいのである。機材を変えてみたり、設定を工夫したりしているが、思うような結果が得られないでいる。
 では当日、なぜお前はカメラマン席にいたのだ、ということなのだが、以前からの約束もあったり、西部Aやコピスつながりがあったり、縁のある人たちからの依頼があったら「学校付き」のカメラマンは引き受けようと決めていたからだ。係以外で、カメラ席にいられるのは当該校の上演時間中に限り1名のみという決まりになっているそうだから、他に学校としてのカメラ担当者がおらず、かつ希望があった場合に限定されるのはいうまでもない。
 (今回、時間帯以外はカメラ席のすぐ後ろに座っていたのだが、学校によって私などよりははるかに立派な機材を持ち込んでいる方も複数いらした。私ごときが席を占有し続けている理由は何もないのだと思った。)
 連絡が不徹底だったのか、私の側の意思表示が十分でなかったのか、大会パンフの役員表には名前が残ってしまっていた。出演校の中に私の分の画像ファイルがないことに不審を感じた方がいたら(多分そんな学校はお出ででないと思うが)、そういう事情であったことをご理解願いたい。
  ※
 少々、話がくどくなった。そんなことで例年より気楽に各校の上演を楽しんだ。審査の結果は次のようだった。創作脚本奨励賞が2校になったのは審査員からのたっての要望であったという。

 最優秀賞     浦和南高校「緑の教室」
 優秀賞      新座柳瀬高校「Ernest!?」    
 優秀賞      所沢高校「プラヌラ」 (本年は上記3校が関東大会に進出)
 創作脚本賞    浦和南高校「緑の教室」渡部智尋・作(生徒創作)
 創作脚本奨励賞 三郷北高校「Merry mad dolls」杉浦舞香&MKDC・作(生徒創作)
    〃    南陵高校「部活紹介って何すればいいの?」村上健・作(顧問創作)

 浦和南高校は以前に出場したとき不条理劇風の生徒創作が評価された。劇としては変容というより破綻が見えてしまって、そのように才気を浪費してはならないと、むしろ私には惜しむ気持ちが強かったのを記憶している。今回は現代高校生のかかえる様々な問題をとりあげながら、劇としてきちんと構成されていた。最優秀賞までは予想できなかったが、演技も素直で、好感を持って見ることが出来た。審査員一同の慧眼としたい。
 新座柳瀬高校の「Ernest!?」は地区発表会でも完成形ではあったが一段とレベルアップしていた。作品について一言したい。秋の高校演劇①でも前述したように新座柳瀬は2015年のコピスみよし第14回高校演劇フェスティバルでもこの演目を上演している。ただし、キャスト数も異なるし、脚本も大幅に改訂されている。前回のバージョンでアーネストを演じたのはKさんだった。たいへん魅力的な才能の持ち主で、偶然が偶然を呼ぶことで運命の扉が開いていく、貴種流離譚の性格をもつ物語を演じ切っていた。私はそこに運命に対するおののきのようなものを感じた。
 今回アーネストを演じたIさんからは、残念ながらそうした震えは伝わって来ないな、と地区発表会の時点では思っていた。だが、中央発表会での印象はそれとはずいぶん異なるものであった。Iさんのアーネストから伝わってきたものは、己の運命を受けとめようとする力強さであった。すでに恐れは去っていた。クライマックスで、それまでたじたじだったブラックネル郷夫人に正面から立ち向かう、その声や目線の強さ、立ち姿、軍人名鑑をめくるスピードや指先にそれは表現されていた。
 そう気が付くと、前段でブラックネル郷夫人の詰問を受け、アルジャノンにすがりつくほど震え上がった恐がりのアーネストを設定したのも、後との対比によってアーネストが貴種本来の誇りや威厳を取り戻したことを強調するための仕掛けだったのだ、脚本の改訂はそのような意図をもってなされたのだ、と合点した。そこには役を割り振った生徒の特徴や能力に対する見極めもあったに違いないし、自分の役に対する理解力と稽古の積み重ねが生徒の側にあったことはもちろんである。
 所沢高校の「プラヌラ」は面白い台本だと思った。どのような経緯で所沢高校の手に渡ったのか、今度ゆっくり話を聞きたいものだと思った。昨年、一昨年と所沢・入間地区の審査員をつとめた。2回とも所高を候補にしながら選び切れなかった。その意味でも今回、中央発表会出場校となり、関東大会まで抜けたことを心からお祝いしたい。
  ※
 秩父農工科学高校が選外となったのを意外と感じた人は多かったのではないだろうか? 私もその一人である。確かに科白がよく聞き取れなかったことはあったが、(その為もあってか、複雑な話がよけい分かりにくかったが)、舞台美術・効果にはいっそう磨きがかかっていたし、計算された演技にも破綻がなかった。
 テーマは「リアル」である、と思った。秩父農工の芝居に何度か現れるテーマである。「脳」は「肉体」と敵対する。VRは肉体を通過しない(=架空の)「リアル」で脳をだますのである。しかし、現代人は本当の意味での(=肉体を通過した)「リアル」を日々体験し得ているだろうか?
 養老孟司にいわせれば「都市」とは「脳」なのだそうである。都市文明は人間を「リアル」から遠ざける。現代人にとってVRは現実逃避なのではない。「現実」がVR化しているのである。リストカット(=傷つけられた「肉体」)によってしか「リアル」な生を感じ取れない若者たち、「リア充」を求めて苦悶する若者たちは、さながら自分の尾を追いかけて回り続ける子犬のようなのである。
 秩父農工の芝居の「でも、本物って何?」という問いには、そうした現代社会の本質を明視化していくきっかけがあるような気がしたのである。VRに象徴される世界は近未来物語なのではなく、今、現在の最中にあるのである。
 秩父農工には「リアル」とは何かの問いを極めていって欲しい。今回の芝居では、VRの世界に現実の人間関係を再現している、と見えながら、実は現実の人間関係もまたVR化(=脳化)されている、という実態を言い当てたものだと解釈した。だが、(これは現実の存在であるらしい、あるいは出産と同時に死亡したことになっているから存在していたらしい)「母」を持ち出すことで主人公の「心の痛み」の原因を説明づけてしまうと、まだどこかで回帰し得る「現実」があった、ということになってしまうのではないか? 追求していたものをどこかで見失ってしまった、あるいは徹底し切れなかったのではないか?
  ※
 地区発表会での審査を終えた時点で、選出した学校は出場校となり、私の手からは離れた存在となる。2校を選ぶにあたっては他の18校を選外としたわけだから、ぜひともその18校の思いも受けとめながら、18校が納得できるような上演をして欲しいとは思う。だが、それも当方の勝手な願望なのである。
 とはいいながら、最後に草加南高校と三郷北高校について触れると、2校とも地区発表会とはずいぶん変えてきたなということにまず注目した。変えて良くなったところと、効果が判然としないところとがあったが、少なくともより良い芝居づくりを最後まで追求していったのだ、という点は評価したいと思っているし、その労をねぎらいたい気持ちでいっぱいだ。
 また、変わったところを見ていくと、私たちが講評やその後の質問タイムで述べたことが、大なり小なり影響していることが分かる。その意味で、改めて審査員としての責任の重大さを噛みしめざるを得ない。
 「はなまぼろし」は(古い時代を扱った作品だから仕方ないのかも知れないが)ややもすると旧来の性道徳に絡めとられてしまうという点でも(桜子が自分の恋を「淫らな血」のゆえんとしてしまうところなど)、やはり台本として評価できない。この台本によって自己表現を試みようとした生徒たちも、どこかで壁に突き当たったようなもどかしさを感じていたのではないかと私は推測している。
 しかし、以前はただ台本を忠実になぞらえようとしていた段階に止まっていたとしたら、今回は(ときに科白の入れ替えや、行動にいたる動機の変更までしながら)自分たちの表現世界を創り出そうとしていた。地区発表会では感じていた「穴」(たとえば老人の杖の突き方など)も実にていねいに潰されていた。きっと細部にいたるまで皆でチェックし合ったのだろう。
  ※
 三郷北高校についても同様のことがいえる。冒頭のツカミのところは話を複雑にし過ぎないように、とアドバイスしたが、自分たちでも自覚していたのか、さっそく変えていたし、物語の設定にかかわる部分も芝居の進行にしたがって徐々に明らかになるように工夫されていた。
 科白が弱かったところは、私からするとずいぶん頑張っていたと思うのだが、「聞こえて来ない!」という声は多かった。たとえば剣を手にした、あるいは刃を向けられたときの緊張感の不足、というところは今回も審査員から注意されていた。
 問題はテーマにかかわる部分である。メッセージの伝え方が直接的過ぎたかも、とは確かに言ったが、今回は少し隠され過ぎたのではないか、あるいは自分たちの中でも後景に置いてしまいがちになったのではないだろうか?
 審査員の先生方からは創作脚本奨励賞を受賞した。ただ、その理由が「2.5次元芝居を追求していって欲しい」というような言い方だったのが気になった。私の認識では、漫画やアニメ(あるいはライトノベル)という2次元の世界を舞台上に立体化(=3次元化)したものであることから2.5次元芝居と命名された。厳密にいえば「原作物」であるのだ。確かにたいへんな人気だが、観客は自分たちのアイドルを求めて劇場に足を運んでくる。
 メッセージ性が弱められた分、(自分たちは弱めたつもりはないかも知れないが)、パンフの学校紹介でも強調されたエンタメ性ばかりがアピールされ、受けとめられる結果になったような気がする。
 私がどんな可能性を感じたかは地区発表会の様子を紹介した秋の高校演劇②の通りでその考えは変わらない。[自/他]の二分法による異分子の排除とその不条理性に対する怒りである。より現代的な問題に引き寄せて、「怪物たち」とは国民国家の枠を越えて大量に流入してくる難民たちであり、少数のうちは差別しながらも受け入れていた「民」たちは次第に迫害の手を強めていく、難民たちの間にも強硬派が生まれテロ事件が発生する、「民」たちは「自警団」(これも元は非定住の流浪の民であったかも知れない)をとりこみながら「怪物たち」の殲滅をはかろうとする、というような物語が見えてくるようになれば、ただのファンタジーの域を超え出る力を得ていくように私などは夢想してしまうのである。
 科白の作り方として、ロキが「死人を生き返らせる不思議な魔法を持っている」存在だ、といってしまえばあり得ないファンタジーに終わってしまうが、「私たちは一度死んでしまった人間だ。ロキはそんな私たちに新しい命を与えてくれた」というような書き方にすれば、絶望の淵に置かれた難民たちがリーダーの出現によって新しい希望を与えられた、というような暗喩を帯びるようになると思うのだがどうだろう。
 当分、私は三郷北高校演劇部の今後に注目していきたいような気もしているのだ。あくまでエンタメ性を追求するというならそれでもいい。ただし、2.5次元舞台では耳かけ式マイクを使用するが、高校演劇では使わないから発声は演劇用に鍛える必要がある。


by yassall | 2018-11-20 04:00 | 高校演劇 | Trackback | Comments(2)

2018秋の高校演劇③ 大宮区地区発表会

 大宮地区は2年連続となった。組み合わせが変わったとはいえ、あまり望ましいことではないだろう。審査員の配置でやむにやまれぬ事情があったのだろうと察してもらうしかないが、私としては昨年からどんなふうに成長したかという楽しみがあったし、どちらかというと昨年は演劇部を楽しむというところに重点をおいた学校が多かった気がしたが、今年は渡された台本を読んだ段階から芝居づくりへの意気込みが違うぞ、という期待感が高まっていたのである。会場は西部文化センターである。

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 上尾高校『OUT OF CONTROL』大倉マヤ・作
 核戦争の危機に警鐘を鳴らすブラックコメディ。昔の映画だがキューブリックの『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』(1963)を思い出した。
 女子高校生に見立てられた核兵器たちを、明るく、パワフルに造形することで題名の持つ真の怖さが伝わってくる、と漠然と考えていた。ト書きにはセーラー服とあったが、そんなものは無視して、デザインだけ揃え、それぞれ色とりどりのスカートとスカーフにでもすればいいのに、と考えていたら、白のTシャツ状の上衣に自作のセーラーカラーをつけて制服に仕立てていた。ただし、襟と袖口のラインとリボンにはそれぞれの名前につながる色を選び、なかなか鮮やかに仕上がっていた。パフォーマンスもオーバーアクションを心がけているのが見て取れ、つい「いいぞいいぞ、それで合っているぞ」と心の中でつぶやいていた。
 「爆発するけどしない。核が平和を維持している。」という先生の論理は核抑止論である。それに対し、女子高校生たち(=実は核兵器)は「(私たちは)自分で生きていくってことを知ってしまった。」「私たちは爆発するために生まれてきた。」「爆発したい!」として、しだいに制御不能になっていく。
 北朝鮮で核弾頭の製造やミサイル実験に成功したりすると、唯一の被爆国である日本の政治家の中ですら核抑止論を唱える者が現れる。だが、本当に核兵器は抑止として機能するだけで使用されることはないのか、使用を前提としない兵器は兵器といえるのか?(だったら、何も北朝鮮の核だけを恐れる必然性はない。)
 現実には、核兵器は小型化や中性子爆弾の開発など、「使える」核兵器としての開発がすすめられてきた。この台本が書かれたレーガン米大統領の時代には迎撃態勢の体系化を前提に、核先制攻撃論まで吹聴された。過去の話ではない。今なおプーチンもトランプもことある毎に核の使用をほのめかしている。核抑止論・核均衡論は核戦争のしきいを限りなく下げているのである。
 台本が書かれたのは1990年。チェルノブイリの直後でもあるから、女子高校生たちの紹介の後、第二場は原発から漏れてくる放射能から逃れようとするゆりと和也が駆け込んでくるところからはじまる。ただし、核兵器との関連は必ずしも明確ではない。
 台本は生徒が選んで来たそうだ。内容をよく理解し、先に述べたように作戦も練りながら芝居づくりをしてきたことは伝わってくる。ただ、まだ行儀がよすぎたかも知れない。緊迫感にもうひとつ弱さがあったことや、核兵器としてではなく、女子高校生というところに感情移入してしまったらしきところがあり、その分、暴発にいたるまでのパワーが不足してしまった。
 そのあたりがもう一歩というところだったが、生徒が生き生きと、それでいてナイーブさを失わずにやっていたのが何よりではないのか? 顧問は(昨年も紹介したが)西部Aでご一緒したKさん。Kさんは生徒が自ら本来の力を伸ばしていくのを大切にする人なのである。
 演劇に時代性や政治性を持ち込むことを極端に避けようとする人々がいる。だが、時代に敏感に反応し、先んじてその本質を解き明かしていくのも演劇の大事な使命であると考えている。18歳選挙権の現代、高校生たちが社会問題にめざめ、考えを深めていこうとしているなら応援してやるのが大人の役目ではないか。台本の今日性は失われていない。何より掘り起こしを評価したい。

 上尾南高校『回転、または直進』福田成樹・作
 舞台はねじ商社「六甲鋲螺」の事務室。近所のネジ工場主を父に持つ女子高生チカにとって、そこは居心地のよい場所だった。中年の女性事務員オノはヌシ的存在。最近、営業部員として入社して来たサクラはまだ若いが転職組、新たに倉庫管理に採用されたサイトウも自衛隊にも在籍したことのある転職組である。2人とも新たな職場で生き甲斐を求めているようである。(以上、あらすじ)
 8月に台本を渡されたときから、よい台本だと思った。初見だったので調べてみると、初演は兵庫県立御影高校、2015年度近畿大会で創作脚本賞を受賞している。福田氏は兵庫高校時代にも創作脚本賞しているとのことだ。
 ドラマらしいことは何も起こらない。電話で注文を受け、営業から帰って在庫を確認する、苦情を受ければ延々と不良品を選別する。人々が生きる、働く、つながる世界なのである。チカは「ここ、うるさい親や兄弟がいっぱいおるみたいや。」という。「うっとうしい?」と聞かれ、チカは「ううん。わりと好き。」と答える。
 私の住んでいる地域は中小零細企業が立ち並ぶ工場地帯だった。町工場が何軒か残っていて、今もプレス機の音が聞こえてくる。私がよい台本だなあ、と感じたのは、どこか似たような環境が頭に思い描かれたせいかも知れない。しかし、それらの大小あった工場はほとんど撤退してしまった。大企業は生産拠点を海外に移してしまったし、国内に取り残された中小企業は外国製品の進出の煽りを受けて虫の息である。私が次に感じたのは、ユートピアのようだ、ということだった。関西弁とあいまって(兵庫の人にとっては日常語なのだろうが)日本のどこかに、今もこんな場所があるかも知れないと夢見させてくれているような気がした。バイト生活に明け暮れた若い人々に、安心して働ける場所を提供してくれるような。
 昨年も感じたが、きちんとした芝居づくりをする学校だと思った。様々な装置や効果、役づくりも正確で、作品世界を舞台化する力があった。内容やストーリー展開が地味なので、出だしからテンションを上げようとしたのか、ツカミのところで走ってしまい、科白が聞き取れなかったのが残念だった。
 チカ役の1年生は動きにキレがあった。オノ役の2年生には見覚えがあった。昨年の女子大生役から打って変わってベテラン事務員役についたが、雰囲気は作れていた。それだけに残念だという話なのだが、舞台上にそれぞれの立ち位置は見つけられたのではないだろうか?

 桶川高校『埼玉会館のはしの方』今井唯太・作(顧問創作)
 演劇部物。総会に出席して、改めて高校演劇に対する愛と意欲を再確認する。(以上、あらすじ)
 高演連総会をまるごと素材にしてしまえ、という人を食った台本。けっこう好きである。空間の移動、時間の経過とともに会話のあり方も変わって来るはず。そこをもっと丁寧に描いていけば各人の個性も生きて来ただろうし、心の変化にも説得力が生まれた。日常の一コマを切り取っただけのように見えて、再びは訪れないかけがえのない一日を描いた。

 岩槻高校『伝説の勇者の作りかた』八城悠・作
 コンピュータ・ゲームのキャラクターを登場させ、ストーリーとキャラクターを自ら作っていく。元の設定では迫力が足りなかったからだが、自分たちはヒーローを迎え撃つ〈悪〉の立場だから、完結することは自分たちが滅びることになるというアイロニーに脱力する。だが、ゲームが面白ければ繰り返して遊んでもらえることに気づき、またがんばろうと決意する。(以上、あらすじ)
 一幕ものにはなっているが、どうにも動きが作れない台本。あえて舞台化しようとするなら、世界観をどう構築するかだろうか。メイク、コスチューム、小道具・大道具、照明・音響を総動員する必要がある。努力は認めるが限界だった。各人なりの役づくりも認められるが、相互にかみ合うまでに至らなかった。最後に剣をふるって一人殺陣を繰り広げるところくらいはビシッと決めないとダメでしょう。

 大宮商業高校『水屑となる』春野片泰・作
 「もうこれからずっと一緒に帰れない。」「望ちゃん、私ね、考えるのやめたの!」と言い残して友達だった香澄は去って行った。(引っ越しだと理由を説明していたが、どうやらどこかへ収容されたらしいことが後から暗示される。)その香澄から渡された本を読むうちに、望の心にも変化が起こってくる。望が「何か、おかしくないですか?」の一言を発したとき、周囲の人間たちはみな驚愕する。(以上、あらすじ)
 「思想教育」が個を圧殺する、オーウェル『1984年』を彷彿させるような近未来物語。きちんと問題意識をもって取り組んでいることは理解出来る。ただ、台本に混乱や矛盾がある。一例として理生が殺人を犯すシーン。強烈な違和感があった。自らの意志を持つということと自らの欲望のままに生きるということとは違うはず。時間としては5分くらいだろうか、私だったらカットしてしまうだろう。オリジナリティの尊重はもっともだが、それだけの価値がある台本かどうか()、片言隻句も疎かにしないことが常に正しいかどうかの見極めも必要だと思うのである。まともにやってしまわない方が良かったのではないか。
 (潤色の場合には作者の許可がいる。上演許可を申請する際にお断りをして認めてもらったことが私にもある。部分のカットについては一切認めないという作家もいるが、そうでない場合にはテキストレジが行われるのは普通のことである。)
 (最初にアップしてから1日経ってしまったが、このままででは誤解を招きそうな表現だったので補足する。来年度から「道徳」が教科化されるという。人間が生きていく上で道徳が必要かどうかを問題にしているのではない。国家が人の心の中を支配しようとすることの是非を問うのである。そんな中で作者の「普通とは?常識とは?教育と洗脳の違いとは?をテーマに作りました」(ネットから)とする執筆意図、この台本を選んだ生徒たちの問題意識は大いに評価されるべきだと思っている。ただ、指摘した部分はそうした台本の意図そのものを壊してしまうのではないか、と(私は)考えたということだ。小森陽一他著『「ポスト真実」の世界をどう生きるか』を読んでいたら、歴史学的には史料的裏付けのない「江戸しぐさ」(傘をさして歩くときに、すれ違う人に当たらないように傾けた、等)がそのまま小学校高学年向けの「道徳」の教科書『私達の道徳』に載ってしまい、指摘を受けた文科省の担当官が「道徳の教科書は江戸しぐさの真偽を教えるものではない。…礼儀について考えてもらうのが趣旨だ」と回答したという記載があった。危機感を感じる。時代は動く。今、何が起ころうとしているのかに敏感であれ、と思う。)

 大宮高校『赤鬼』野田秀樹・作
 あらすじは紹介するまでもない。いろいろな劇団や演劇部が様々な工夫をしている。照明効果でスペースを切り取ったり、波を表現したり。舞台中央に2m四方ほどの山台(生だったが)をおき、小屋や洞窟、そして舟に見立てたのは成功していたのではないか。道具の出し入れで場面転換しようとするとスピード感は削がれてしまうし、煩雑な割に効果も上がらない。
 テキストレジは脚本解釈でもある。わりとすっきりとまとまっていたし、役者も熱演していたが、まだまだ絶望や祈り、狡猾さや愚劣さといった人間の根源に迫るには至らなかった。トンビは少しも「足りない」男のようには見えなかったし、「あの女」も村人から迫害され、世界に対する怒りや絶望を抱えているようには見えなかった。だが、壁に挑んでいった勇気は失って欲しくない。それだけの価値ある作品なのだから。

(私なりの「赤鬼」観は「2018年春季西部A地区演劇発表会」(2018.4)で述べた(赤鬼=まれびと説、あるいはアンパンマン説)。今回、その読み方についても紹介したが、絶対だとも思っていないし、押しつけることもしない。赤鬼の科白にI have a dreamというのがある。暗殺されたキング牧師が意識されているのは間違いないと思うのである。だからこそ、「あの女」は赤鬼の言葉が理解出来るようになったのである。つまり、「あの女」の絶望は赤鬼(人肉)を食ってしまったこと(のみ)にあるのではなく、人間が失ってはならないものを圧殺してしまったところにあるのだと思うのである。だが、そうしたものが一度でも存在したということは人間にとっての希望でもあると思うのだ。①で審査員も卒業と書いた。その気持ちには変化はないのだが、その分、今年は特に全霊をもって審査にあたったつもりである。このブログもそうした気持ちで書いた。この部分、後から。)


by yassall | 2018-10-11 15:32 | 高校演劇 | Trackback | Comments(0)

2018秋の高校演劇② 東部南地区発表会

 10月6・7日に大宮地区発表会が開催され、今年のBブロックとしてのコンクールも終了した。2018秋の高校演劇①で予告したので、二つの地区発表会で上演された各校について感想をアップする。
 どういう順番にしたらよいか考えたが、それぞれの地区ごとに候補に上がった学校について最初に書き、その後、残りの各校について出演順に書くことにする。どうしても後者の方が簡単になってしまうかも知れないが、講評では均等を心がけたつもりでいるし、私が必要と考えた範囲での助言もしたつもりである。
 候補となったのは東部南地区では草加南、三郷北、獨協埼玉、草加、大宮地区では上尾、上尾南の各高校である。全部で6校になるが、6校中から2校を選ぶのではなく、東部南地区が終わった段階で暫定2校を選ばなくてはならない。
 今回は東部南地区でも、大宮地区に移ってからも、4校から2校に絞るのにかなり苦しんだ。それぞれに捨てがたいところがあり、それぞれに弱点があった。それらにも丁寧に触れなければならないと思い、このような順序になった。
  ※
 東部南地区発表会は9月15・16・17日の日程で開催された。会場は鷹野文化センターである。今年から春日部地区が分離し、3日間で14校の上演となった。

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 草加南高校『はなまぼろし』大谷駿雄・作
 1983年度の宇部大会に出場した山形・天童高校の出演作品。作者の後書きでは山形に伝わる昔話「六部の茶碗」に材を採ったとある。奇しくも顧問のお一人Oさんの出身県であるが、顧問から提示したのではなく、まったく無関係に生徒たちが選んだのだそうだ。
 脚本を舞台化しようとする熱意と力量には並々ならぬものを感じた。部として蓄積されたものがあるのだろう、衣装や舞台装置、照明・音響効果など、持てる力を総動員した。足し算だけでなく、引き算もよく心得ている。
 ただ、私に限ってのことかも知れないが、台本にはどうしても合点のいかないものが残った。あらすじは以下のようである。
   ※
 捨て子でありながら老夫婦に実の娘のように育てられた桜子は、桜の季節になると放浪癖が起こり、水子の霊と戯れる。死に場所を求めて山里にやってきた学生にも水子たちが見えたことに桜子は驚く。「暗くて底のない沼」をのぞきこんだ学生に桜子は強く引きつけられ、学生の残した茶を飲むと子を孕む。父親の知れない子を産んだことで老爺は桜子を責める。桜子と夫婦になると心に決めていた村の若者・作蔵は父親は自分だと名乗り出る。作蔵は桜子の心の闇を理解出来ないままに夫婦として一緒に子育てをする。季節がめぐり、再び村を訪れた学生と再会するが、死の誘惑を乗り越えた学生は明るい人格に変わってしまっていた。老爺は学生を見て再び桜子を責める。桜子は絶望し、あろうことか赤子は桜の花びらとなって散ってしまう。水子の霊たちが現れ、老爺と学生は逃げ出してしまう。作蔵は風たちを味方につけ、水子の霊たちとたたかう。
  ※
 孤児として生まれ、精霊たちの世界と親しむ桜子と、人生に絶望し死に場所を求めて山里に踏み迷った学生との悲恋の物語というような柱を立て、私なりに整理すると上記のようになる。
 だが、そこには収まりきれないものが残るのである。例えば桜子が自分の中の「淫らな女の血」について言及するのは、自らの運命に対する自覚の言葉なのか、自分のことを諦めさせるために言い放った言葉なのか。前者だとしても、それは否定的に述べられたのか、身を滅ぼすまでの熱情に生きるしかないという意志を示したのか。
 作者の後書きに「情念」という言葉が出てくるところからすれば後者のようにも思われるが(学生に心惹かれ、子を孕むという言い伝えを知りながら、学生の残した茶を飲んだことを「淫ら」というなら)、「私は幸せになってはならない」とする桜子の言葉からすると前者であるとしか考えられない。では、桜子はなぜそんなにも自己に否定的でなくてはならなかったのか。また、そうだとすれば桜子にはいつかの時点で救済の手が差しのべられなければならない。そうでなければ物語として完結しないと思うのである。
 「水子の呪い」というような言葉も出てくる。いっそ桜子は人外の存在、桜子が産み落とした赤子と同じように、桜の花の精霊であったとでも解釈するのが正解であったのかとさえ思えてくる。
 「捨て子」「父なし子」「水子」が故意に混同されているようにも思われる。ラストシーンでの水子の霊たちと風たちの戦いは何だったのか。「風」は何を象徴していたのだろうか。作蔵は「狂ったように殺戮」を続けたとあるが、「殺戮」というような言い方になったのはなぜか、作蔵に子供達が見えたということは作蔵もまた狂気に近づいてしまったのか。
 以上はただただ私の読解力の不足を露呈しただけなのかも知れない。先には舞台づくりについて述べたが、人物造形がおろそかであったというようなことは少しもない。庄屋級としても老婆の着物はもっと農婦らしい方がいいのではないか、というようなことも述べたが、桜子に無私の愛情を注ぐ姿など、人物理解は正しかったし、力も感じられた。他の登場人物についても工夫は認めるが、まだまだ曖昧さや漠然としたところが残っている。さらに掘り下げていって欲しい。「台本」の言葉ではなく、「役」(=そこに生きている人間)の言葉として発せられたら、私の抱いた疑問も氷解してしまうかも知れない。
 のっけから私の混乱につきあわせてしまった。この学校だけ長くなってしまうが、もう二つ補足的に述べたい。一つはこの脚本は人間の「罪と罰」の物語として書かれたのかも知れないということである。誰でもが罪人であった、その罪を白日の下に晒していく物語なのだ、と考えればよかったのかも知れない。もう一つは、一人の人間が生きている背景には無数の死者が存在する、ということである。普段は忘れていたその事実を思い起こさせる物語というならすべては落ち着く。

 三郷北高校『Merry mad dolls』杉浦舞香&MKDC・作(生徒創作)
 大きな括りにしてみると登場人物は「怪物たち」「自警団」「街の民たち」の3グループに分けられる。「怪物たち」と「自警団」に対立軸があり、実際に両者の間で戦闘が繰り広げられるのだが、本当の対立軸は「怪物たち」と「街の民たち」にあるようである。というのも、「自警団」はプログラムの配役表には「街の自警団側」とあるが実は住民たちからは余所者のように見られており、(であるから自警団というより用心棒あるいは傭兵というのに近い)、定住民の間で組織されたのではないようだ。配役表では「その他」となっているグループを「街の民たち」と括り直したが、OPでロキを追い詰め、メリーを死に至らしめ、「異形の者」の存在を許さず、「自警団」を「怪物たち」の掃討に向かわせたのは「民たち」なのである。
 荒削りで、多分に暴力的であるが、根底に流れている「怒り」には若者の可能性を感じた。近代「国民国家」は「自/他」を二分することで、すなわち異分子を排除することによって同質性と均質性を高めようとした。物語の世界は中世的だが、すでに「自/他」の峻別による統合に向かっているように見える。(実は「民たち」の背後にはすでに軍=国家の存在が垣間見えるのである。)
 「異分子の排除」は、子ども間のイジメにはじまって、今日の社会に横行するヘイトや排外主義、ネット社会での不謹慎狩り、LGBT、難民問題にまで及ぶ病理である。しかし、マイノリティの迫害や、異分子の排除によって自己のアイデンティティを確認しようとするのは、そのアイデンティティに重大な揺らぎが生じている証左ではないだろうか。
 ダンスあり、殺陣ありで、渾然としてはいるが、若さとエネルギーが伝わって来た。物語が複雑な分、場転も多い。整理が必要だが、エネルギーを削いでいくことになりはしないか、悩ましいところだろう。ビジュアル志向が先行していると思われる点も認められる。それらを否定したりはしない。ぜひ、自分たちのエネルギーを信じ、自分たちがつかみかけたものを掘り下げ、大化けして欲しい。

 獨協埼玉高校『あの日の不思議』吉田辰也・作(顧問創作)
 親友同士のゆきことみさき、天使と悪魔を交えたファンタジー。ゆきこは父権的で世間体を優先しがちな家庭に育った。成績優秀な妹といつも比較されている。自己肯定感を持てないゆきこは万引きに手を染めてしまうが、そのことを後悔し、自分の力で解決したいと望んでいる。悪魔と魂を引き替えにする取引を交わし、みさき、天使、悪魔に協力してもらいながら店の宣伝のためのボランティアをする。ボランティアは成功するが、思いがけない事故で傷を負った悪魔は魔界に戻され、ゆきことの契約の破棄を伝える。(以上、あらすじ)
 軽快なJazzからはじまる舞台は火入れのされた街灯も美しく視覚的にも成功していた。天使と悪魔も個性的かつビジュアルに造形されていた。ダンスも見事な出来栄え。伝えよう、表現しようが気持ちよく、脚本が整理されていけば、さらに完成度があがる。具体的には、ゆきこの抱えている問題は実は深刻であり、「お父さんお母さんも見に来ていたね。」というような科白も挿入されているが、ゆきこの表情がぱっと明るくなるなど、もっと明確に解決の方向が示されるとよかった気がする。

 草加高校『マリア』宮本浩司・作
 18歳を迎え、大学合格を機に一人住まいを始めたマリア。引っ越しの荷解きの最中に見知らぬ7人の人物たちの訪問を受ける。実は18年前に起きた飛行機事故で生後半年のマリアは一命をとりとめた。7人はそのときの乗客たちで、自分たちの命をマリアに託し、マリアに生きて欲しいと願った人々だった。彼女たちはマリアの18歳の誕生日に、マリアの命を見届けようと集まって来たのだった。(以上、あらすじ)
 これもよい台本を掘り起こした。前半の不条理劇風の幕開けには成功した。10人中7人が1年生という編成だったが、人物造形も的確になされていた。きちんと大人の女性たちに見えていた。丁寧な芝居づくりをした分、墜落を目前とした旅客機内の緊迫感、クライマックスに向けて畳みかけていくパワーが弱かった。これはアパートの一室から旅客機内への場面転換に手間取ったことも原因した。白ずくめの舞台装置はマリアの無垢なる心象風景、あるいはまだ何も書き込まれていない未来の象徴だったのか。工夫は認めるが、引っ越しの荷解きをするのに白のワンピースはどうだっただろうか。
   ※
(ここまでが候補とした作品である。先に述べてしまえば東部南地区を抜け出したのは最初の草加南と三郷北の2校、大宮地区に移ってからもそのままこの2校が残ることになった。)
  
 越谷東高校『レンタルおじいちゃん』今野浩明・作
 8歳で交通事故にあった少女が22年ぶりに意識を取り戻す。医師団は精神障害を避けるため、父親を祖父にしたてて訓練を促す。だが、父も入院中で余命3ヶ月を宣告されていた。(以上、あらすじ)
 レンタル家族ものも、もう設定としては目新しさはなくなった。22年ぶりに意識を取り戻した少女の前に現れたのは亡くなった祖父とそっくりなアンドロイドだった。説明書と首っ引きでアンドロイドに対応する少女、しかし実は年老いて祖父に似てきた父親だった、というのが新しいところだっただろうか。
 何にしても設定に無理がありすぎるのだから、脚本選択の段階で退けるべきだったが、つかんでしまったら仕方がない。その台本のどこに自分たちは惹かれたのか、どの科白をしゃべって見たかったのか、どんな世界を築きたかったのかを思い起こし、やりきるしかない。
 (実は父)と孫、医師と看護師という二組の人間関係を交叉的に描けるかが鍵だったように思う。力演していたが、芝居の構造や心の動きをどうつかむかの詰めが不足していた。

 三郷高校『I Wish …』楽静・作
 忍び込んできた高校生たちとふれあうことで自由意志を持つようになったアンドロイドのマリィは女主人の妹の代替として完璧になろうとするのを止める。そのマリィが出した結論は妹ではなく、娘になることだった。(以上、あらすじ)
 根本に台本の問題があるとして、舞台上にひとつの時間を作りきれなかったのは、それぞれがまだ台本に納得せず、役づくりに悩んでいたからではないか。洋館内の閉ざされた人間関係に風穴をあけた高校生たち。人物たちの輪郭が明確になっていくか、変化は描けるか、あたりが見どころかと思っていたが、人物同士にコミュニケーションが成り立っていなかった。まず腕組みを止めよう、からはじまる(私も部員たちにそう言って来た)。

 松伏高校『ひまわり』五島ケンノ介・作(顧問創作)
 刑事の島は補佐官の玉置と平野を取り調べている。前半は平野がテロリスト役を演じたりしているが、これはお芝居らしい。まるで遊んでいるようだ。高木が蕎麦の出前持って来たりする。後半はシリアスになる。平野は自分の学生時代の思いを語る。ホストに貢ぐために5000万円を横領したが、それらは自分の意志であったと語る。(以上、あらすじ)
 『熱海殺人事件』と宮沢りえの『紙の月』のオマージュと看破したのは今回ご一緒したUさんだった。
 台本には不思議な魅力があり、幕が上がったときの取調室の雰囲気や刑事のラフさは作れていた。前半はナンセンスかつ軽妙、後半はシリアスでありながら愁嘆場にしない。前半と後半のコントラストをどう作るかが見どころかと思っていたが、芝居が沈んでしまい転がっていかなかった。前半のアクションシーンをもっと派手にやってしまった方が後が生きるのにと感じたが、身体にも心にも固さが残った。

 草加東高校『幻想列車』九国光・作
 現実の世界では事故や自殺によって死の瀬戸際にある者たちが乗り合わせる幻想列車。深い絶望にとらわれた美代子、社会への憎悪に満ちた竜太、大手術の最中の瑞穂、ただ一人心安らかで幻想列車の正体を知る老婆。乗客たちとの会話の中で、孤独や絶望から立ち直っていく翔太は一命を取り留め、瑞穂と再会する。(以上、あらすじ)
 科白にきちんと感情が乗っており芝居は作れていた。「止まらない列車」の不気味さ、閉塞感、非日常性を現出させられるか、が見どころだと思っていたが、少し演技エリアを広げすぎた。電車の疾走感も欲しかった。身体表現を磨こう。照明・音響プランは再考が必要である。具体的にいうと前灯りを落としすぎて、顔が見えなかった。観客は役者の顔が見たいもの、声が聞きたいものなのである。途中でパネルが1枚ずつ外されて行った。何かの意図があったらしいが伝わらなかった。何枚か残し、場面転換の後、病室の壁になったら面白いのにと思った。私だったらそんなことを考えただろう。

 越谷西高校『真夜中の紅茶』松岡美幸・作
 真夜中の雨に降り込められて、一人の男がある屋敷に雨宿りのために立ち寄る。そこで彼を出迎えたのは、一人の少女。彼女と話をするうち、男は夢とも現実ともつかない悲劇へと迷い込む。少女は先天的な障害で片足を引きずっていた。医者である少女の兄は、彼女の身体を満足なものにするため、移植手術の研究を続けていた。足の提供を断られた兄は、自らの母親を殺害して足を手に入れることをもくろむ。そのもくろみが少女にばれ、殺害は失敗に終わるかと思われるが、少女自身が母親を殺害して満足な身体を手に入れることに成功する。しかし、そのあとに残るのは紅茶と雨と虚無感だけだった。(以上、あらすじ)
 脚を移植することで走れるようになる? それも生体移植ではなく「死んでいる」ことが条件? 台本上のつじつまを合わせるための典型的なご都合主義である。もしあり得るとすれば、すべては屋敷に迷い込んできた男の悪夢だった、ということにするかだ。
 かなり無理のある台本だが思いの外、芝居になっていた。フロントライトだけで前灯りを作った照明や舞台美術が適切で、ゴシックロマン風の雰囲気を出せていた。科白も生きていたし、時間も流れていた。それでも世界を作り出すまでに至ったかは疑問。

 草加西高校『天使の声が聞こえたら』加藤のりや・作
 自分の声を人間に届けようと奮闘する天使をひねくれ者の悪魔がサポートする。手始めにCDショップで万引きしようとしていたマユを更正させようとするのだが。(以上、あらすじ)
 まだまだ脚本に振り回されている。脚本も舞台化しやすいようには出来ていない。もう少し作戦が必要だ。なかなか声も前に出ず、客席に届けようという意志と工夫が不足していると感じるのは、キャスト自身もまだ迷っているからではないか。台本選びは納得できるまで。

 越谷南高校『everywhere』鱶ヒレ夫・作(生徒創作)
 サーカス団を率いるレイガンは級友のスタンリーと協力して常小屋をめざしている。そんなときザイラーたちの乗っ取り計画にあう。ザイラーらはレイガン・スタンリーの隠された過去を暴く。スタンリーにあこがれているベンは、父を殺した犯人こそ軍人時代のスタンリーであったことを知る。(以上、あらすじ)
 サーカスを舞台に様々な人間模様を描こうとし、ドラマの中の対立軸も設定されようとしていた。だが、物語を広げすぎたのか、人物像に深みを欠いた。スタンリーの自裁も唐突だった。ジャグリングの稽古をしていたり、檻に入れられたライガーがいたり、側転するピエロがいたり、サーカス団の雰囲気を作ろうとしていた努力は認める。部活の持っているパワーのようなものは伝わって来た。
(一言。サーカス団の魅力って放浪にあるのではないだろうか? 一晩たったら跡形もなく消えていた、というような。題名だってeverywhereではないか?)

 八潮南高校『広くてすてきな宇宙じゃないか』成井豊・作
 アンドロイドによるファミリー・レンタル・サービス。アンドロイドを受け入れらず葛藤するクリコは同級生のカツラ、FRS職員のヒジカタとともに東京中を停電させるという大事件を引き起こす。(以上、あらすじ)
 真面目なとりくみには好感が持てる。その分、テンポが落ちてしまい、スピード感に欠けた。まず、不要な暗転をカットしていくことから始めたらどうか。正面の白パネルも本当に必要だったかどうか再考してみよう。

 越谷北高校『全校ワックス』中村勉・作
 転校生を含めた5人でワックスかけの作業がはじまる。やりとりの中で誤解もとけ、相互理解も進む。ワックスが乾くまでの間、段ボールの島に身を寄せ合って告白ごっこに興じたりする。「偶然、集まっただけ」と認識しつつ、心の通い合いを感じる。ワックスを塗ったばっかりの廊下を歩き出す様子は自らの殻からの解放のようにも見える。(以上、あらすじ)
 いまさらあらすじを紹介するまでもない台本。共同作業を通じて「親密圏」から脱していくというストーリーなのだから、冒頭こそ作りすぎたところがあったが、関係が深まるのに並行して各人の個性が立ち上がっていく様をよく描いた。この芝居に取り組むことで、きっと生徒たちの個性も立ち上がっていっただろうと思わせる。好演だった。
 ところで、劇中で上田にはない「悪気」が自分にはあるんだと大宅はいうが、もしかすると人間は誰しも少しずつ「悪気」を持っているものではないのだろうか? 「悪気」があると自覚していた方が、むしろ無意識のうちに毒をまき散らしたり、関係を破壊するに至るのを防止できるのではないのか? 今回、この劇を見ていて、そんなことを考えた。

 越ケ谷高校『部員ロボ2045』よしはらいさお・作(顧問創作)
 演劇部では部員が足らず、ロボットで補おうとしている。飯田は批判するが、とりあえず部長をロボット役にしてシーン練をしてみることになる。飯田はなお抵抗するが、実は部長はロボットであり、計画はすでに進行しているのであった。背景に2045年問題があり、ときは2055年、AIが人間を支配する時代を迎えているのであった。(以上、あらすじ)
 シンギュラリティを扱った創作。劇中劇をさらにコミカルに仕上げていけばラストにやってくる戦慄のシーンをより強く表現できただろう。Uさんも言っていたが、部長は段ボールロボのコスチュームを纏って劇中劇に臨めばよかったのにと思った。種明かしが説明的になってしまったところが残念。部員数が足りなかったのか、台本にはあった、ラストで続々とロボットが現れるシーンがカットされてしまったのも残念だった。


by yassall | 2018-10-10 15:19 | 高校演劇 | Trackback | Comments(0)

2018秋の高校演劇① 西部A地区発表会

 9月22・23日、西部A地区秋季発表会が朝霞コミュニティセンターで開催された。今年になって、全出演校の芝居を見るという観劇スタイルにこだわらず、「通りすがりに一寸気になって」でもいいかな、と少しラフにかまえることにした。
 そんなわけで1日目は午後の朝霞高校と和光国際高校から見はじめ、2日目は朝から新座高校、新座総合技術高校、新座柳瀬高校の3校を見た。そうすると1日目の午前中の細田学園高校と朝霞西高校の芝居がどうだったのか、かえって気になってしまった。まあ、「ラフにかまえたい」とか「通りすがり」の視点とかいうのも、新しい距離感を持ってという程度の意味だから、あまり頑なになる必要もないのだろう。

 朝霞高校『蜉蝣の記』結城翼・作
 このところ朝霞は一定程度の部員数を確保できたという年と、少人数(それも1人か2人)に落ち込んでしまう年を繰り返している。音響や照明、衣装やメイクなど、各学年毎に担当者がいてノウハウを代々引き継いでいく、といった伝統が途絶えてしまうのはけっこう厳しい。やはり蓄積されたものの厚みというものがあるのだ。
 もちろん、生徒まかせにしておくと、誤りや不合理がそのまま伝統になってしまうことがあり、ただ効率が悪いだけでなく、危険をともなってしまうこともある。小さいことだが、照明担当の部員がナットの取り外しにペンチを使っていて、ナットを傷だらけにしているので、近隣のドイトでサイズに合うボックスレンチを探してやったことがある。後になって、照明担当の道具入れを開けてみたら、ちゃんと同サイズの古いレンチが入っていた。いつかの時点でナットの開け閉めにはレンチを使う、というノウハウが伝達されなかったのだろう。
 つまり、部員と顧問がうまくかみ合って、はじめて部活は円滑に回っていくということだと思う。顧問の側では、現在の部員たちの意欲や力量、ノウハウの蓄積をみきわめ、どの程度の緊急性で手を出したり、口を出したりしたらよいかに気を配っておかなくてはならない。
 さて、今年は2年生が2人きり。1年生1人を加えた3人芝居である。顧問のFさんから脚本選択の悩みについては聞いていたし、BOXの制作にあたってはサイズについての相談を受けていた。だが、私の方から口だしすることはなかったし、文化祭公演にもいかなかった。地区発表会がまったくの初見である。
 科白はしっかり出せていたのではないだろうか? ケンイチは声を作りすぎていたという印象を受けたが、フロアーで一言二言ことばを交わしてみると、どうも普段通りのしゃべり方らしい。natsuさんは「この役ではこれでいい」という評価だったが、飛行機を完成させようと決意するところ、飛び立った飛行機を目で追うところ、墜落してしまったとき、墜落現場を探しても葉月の影も形もみつからなかったとき、といった要所要所でもう少し心の動きが表現できてもよかったのではないかと思った(まあ、やり過ぎてあざとくなってしまって、自己満足で終わってもかえって重傷だが)。
 子にとって母は生まれたときから母である。だが、ふとした折に、母にも娘時代があり、若やいだ夢や輝きがあったことを思う。葉月は立ち姿がよく、もしかすると文学好きであったり、断崖から飛び降りるような向こう見ずなところがあったかも知れない、しかし子には知ることができない、若き母の幻といった雰囲気を出せていた。ただ、吉野弘の詩の朗読を始めるときの咳払いはいらなかったと思うし、これも要所要所での自分の見せ方を(わざとらしくなく)つかんでいったらもっと良かったのに、と思わないではなかった。カヲルは1年生とは思えない出来栄えだった。ただ、こちらも一本調子になりがちだったかも知れない。

 和光国際高校『ギフト』萩原康節・作
 親による虐待を題材にした作品。親に虐待され、あるいはネグレクトされた子が生育を歪められ、心身を傷つけられ、人生さえも奪われていく。家庭が子どもを守る場所ではなくなってしまえば子どもに居場所はなくなってしまう。
 近年、これほど心を痛める事件はない。演劇にとっても避けてはならない世界だろうし、いつか誰かによって書かれなくてはならない世界だっただろう。だが、扱いが適切だった、成功したとはいえないと思った。
 力が入っていたことは十分伝わってくる。螺旋状の階段を付した山台が上下に置かれ、対になっているなどの舞台美術も美しく、丁寧に作り込まれていたし、書き込みすぎとも思われる脚本も作者の熱い気持ちの表れととらえられなくもない。役者たちは皆、発声が確かで、練習量が並々でなかったことはすぐにそうと知れる。
 だが、なのである。劇は幼少期のマサムネとユキコが宮沢賢治『銀河鉄道の夜』のジョバンニとカンパネルラの科白を語るところからはじまる。ユキコにとってマサムネは唯一無二の存在であり、その死に重大な負い目と喪失感をいだいている。ユイコに二重の心の傷を設定したことでさらに劇を重層的にしたとはいえるだろう。問題は広中のサポートや庄野によるカウンセリングは複雑に絡み合ったユイコの心を解きほぐし、新しい命の鼓動を吹き込むだけの説得力があったといえるか、どうかである。
 ユイコがギフテッドとして超高度な知的能力の持ち主である、というような設定は、虐待死してしまった子らに無限の可能性があったかも知れない、ということであれば理解できなくはない。シリアルキラー云々については偏見に結び付かなければよいがという心配もさりながら、ユイコの示す暴力性とは異質なのではないかと思った。あれもある、これもある、とばかりに、次々に多様な知識が繰り出されるのであるが、設定が極端すぎるとリアリティが失われてしまう。
 それはともかく、きわめて複雑な心性の持ち主であるユイコが、同じヤクルトファンであることから庄野に心を許すようになった、などというところにまず嘘っぽさを読み取ってしまう。変化はユイコの側にも、庄野の側にも必要だったはずで、庄野の「人生にはすばらしい出会いが待っている」などということばも、自身の過去を讃えているだけだったら、そのことばがユキコの心を動かしたとは信じられない。
 結局、ユキコの夢に現れる子ども時代のマサムネとユキコが変化していくことでユキコが自身の底なし沼から脱していくのだが、その変化がどうして起こったのか、どうしても合点のいかないものが残るのである。
 科白量は膨大で、疾風のように1時間を駆け抜けたという気がする。心の変化が読み取れなかったというのは、そのせいであったのかも知れない。中には心に留めておきたいような、素敵な科白もあったような気がするのだが、噛みしめる間もなく通り過ぎてしまった。

 新座高校『お兄ちゃんとオネエさん』上田美和・作
 これもトランスジェンダーという今日的な題材を扱った作品。野球選手として嘱望されながら肩を壊し、進学した大学を続けられなくなった兄。学校に適応できず不登校となっている高校生の妹。妹にとっても、また両親にとっても、兄は希望の星であったが、その兄が水商売の女性を「友人」だと連れだって帰省する。しかし、あろうことかその「友人」は性同一障害者で実はオネエだった、ということからドラマは始まる。
 つまり、トランスジェンダーをかかえながら、自分のありのままに生きることを決意し、タイの孤児院を支援するなど、社会参加にも積極的であろうとするマリーからすれば、兄や妹のささいな挫折などは取るに足りないことだった、というのが結論だろうか。
 両親役の2人は3年生だけあってしっかり作り込まれていた。他はすべて1年生という配役だった。それにしてはけっこう熱演していたので先が楽しみだと思ったが、マリーはマリーの葛藤をかかえていたはず。その葛藤を表現したり、共感したりはまだ無理だったかも知れない。まあ、仕方のないことだが。

 新座総合技術高校『EMMA』NSG演劇部・作
 このところ新座総合の芝居は年によって大きな変化を見せている。かつてはファンタジー物が多かった気がするが、今回は刑事ドラマである。それをいったら昨年もそうだったではないか、ということだが、昨年は刑事物をビジュアルに描いてみせたというのに対し、今年はある意味で本格的、犯罪心理の深層に分け入っていくようなドラマであったように思う。ただ、そのところを科白で語り尽くそうとするから、ややもすると読み取れなくなってしまう。表現の意欲はあったのだろうが、観客にはどれだけ届いたことが。
 (一度アップしてから新座総合については書き足りないことがあるような気がしてきた。生徒創作こそ高校演劇のあるべき姿!という人がいる。だとすれば、新座総合こそ高校演劇の正道ということになる。数年前、新座総合が曾我部マコトを演ったとき、とても評価が高かったし、私も上出来だと思った。あのとき、『海がはじまる』をやりたいと言い出し、他の部員たちを説得したのは1人の生徒だったという。どこかでこの脚本のことを知り、高校生である自分を表現できると思ったのだろう。これから新座総合は変わるかも知れない、と考えたが、その後は生徒創作にもどっていった。しかし、創作か既成台本かの区別なく、高校生が自らの感性や日々の思いを表現したい、自分たちがドラマだと思ったことを舞台にしてみたい、というなら否定してはならないのだろう。演劇としては未熟で、コンクールを勝ち抜くというような結果が得られないとしても、このような部活の芝居と接することができるのも地区発表会ならではなのである。それに、何かのときに、いつ大化けするとも限らないのだから。)

 新座柳瀬高校『Ernest!』オスカー・ワイルド原作 稲葉智己・翻案
 新座柳瀬は3年前にもこの演目にとりくんでいる。そのときは春季地区発表会で前編を、コピスで開かれた高校演劇フェスタで後編(本編)をというように、2時間ドラマで仕立て上げている。今回は1時間に圧縮しようということだから、もちろんダイジェスト版にしようなどという愚を犯すことなく、全く別の作品として作り直している。であるので、全体にスピーディな運びになっているが、窮屈にしてしまうことなく、取り違え、すれ違い、繰り返しといった技も、ここぞというときは十分な間を持って、贅沢に投入されている。
 役者陣も達者だった。全国大会メンバーが卒業した後のことについては前にも書いたが、そこでも触れたとおり、セシリーを演じた今年の1年生もすでにして堂々たるものだった。
 さて、この作品については次の上演の機会の有無が不確定なので、これ以上は踏み込まないことにする。ただ、関心のある人は『コピスみよし第14回高校演劇フェステバル 勝手に名場面集!』(2015.6)を読んでみて欲しい。
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 さて、さてがもうひとつ。今年こそは卒業の予定でしたが、またまた地区の審査員をつとめることになってしまいました。事務局長Mさんから電話があったとき、「今年は9月の土曜日は3日ふさがっているから無理だと思うよ」と(半分以上、これで今年は逃れられるとほくそ笑みながら)応対したのですが、何とたった1日空いていた15日はじまりの東部南地区を担当して欲しいという依頼だったのです。しかも、担当のもう1カ所は大宮地区で、開催期間は10月5・6日だというではありませんか! 
 まるで狙い澄ましたかのごとく、あまりに見事に隙間に当てはまったこと、東部南地区の会場は鷹野文化センターという会館で、公演を打つにあたっては申し分ないのですが、何といっても橋ひとつ東に越えたら千葉、南に越えたら東京という地の利の悪さ、ところが我が家からは環七を使うと1時間足らずで通えてしまう、つまりは他の人よりは私の方が交通に関しては適任で(らしく)ある、というようなことが脳裏をめぐり、ついウンといってしまったのです。
 東部南地区は3回目になります。大宮地区は2年連続。またあいつが来たのか、と思う人がいないわけではないと思います。引き受けたからには、過去にとらわれず、フレッシュな観点で、宝探しをするような気持ちで務めたいと思っています。
 東部南地区は先週終わりましたが、大宮地区が再来週になります。このブログへの報告は少し待って下さい。県中央発表会のパンフの原稿は私が書くことになっています。全部で21校分になりますが、字数制限のあるパンフよりは多少とも詳しく、各校毎の観劇記をアップする予定でいます。実は10月も少し立て込んでいて後半になってしまうかも知れませんが。


by yassall | 2018-09-25 19:29 | 高校演劇 | Trackback | Comments(2)