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『方丈記』と「個我」覚え書き

  半年ほど前から『方丈記』と「個我」というようなことについて考えているのだが、いっこうに思考がすすまない。理由は「方丈記」あるいは鴨長明について何ごとかを論じられるような勉強はしてこなかったことと、「個我」というような発想自体が近代文学上の問題なのだが、その近代文学でも「個我」のあり方が揺らいでいるからなのだろう。
  身体には「自分でないもの」を厳密に排除しようとする免疫が備わっている。「他の誰でもない、たった一人の我」などというものは、身体にしか存在しないという考え方もある。いわれてみれば、「思想の自由」などといっても、私が日本語で考えている限り日本語の枠内から自由ではあり得ず、日本語という全体の一部でしかないということになってしまう。いや、身体にしたって遺伝子からは完全に自由ではあり得ない。
  どっちの側から入ろうとしても、たちまち行き詰まりに陥ることは目に見えているわけなのだが、せっかく考え始めたことなので少し書いてみる。

  「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖と、またかくのごとし。」

  『方丈記』冒頭にいう「人」とは何か、というのが最初だった。下鴨神社の禰宜の次男として生まれながら、家職を継ぐ望みを失って出家するにいたった筆者の、仏教的無常観を表明した部分と一般的にいわれる。
  すると、ここでいう「人」とは「朝に死に夕に生まるるならひ(=法則)」に生きる、いわば普遍的存在としての人間であり、せいぜい集合としての人間を指しているのであって、「個我」としての人間という発見はされていない。その証拠に、「人と栖」とあるのに、これに続く文章はもっぱら「栖」の方に関心の重点があるようで、「高き賤しき人の住まい」は「世々を経て尽きせぬもの」ではあるが、「昔ありし家は稀」で「大家ほろびて小家となる」と書き、「住む人もこれに同じ」と添えられる。それも「二三十人が中」の「ひとりふたり」としての人間なのである。
  『方丈記』が教科書に出てくれば、教師は必ず無常観を口にするから、私もそのように読み取り、また生徒に教えて疑いもしなかった。そこには『方丈記』における「個我」の目覚め、などという問題意識はまるでなかった。
  しかし、3.11後に堀田善衛の『方丈記私記』が見直されたりしているのを見ているうちに、どうもそれでは済まないような気がしてきたのだ。大火や地震といった災害を見続け、飢饉や飢餓に立ち会いながら、これを書きとめようとする精神性とは何か、というようなことを考えだすと、少なくとも「達観」というような境地とは縁遠いところに立っていたのではないか、というようなことだろうか。
  同時代におきた保元の乱や平治の乱、壮年期に目の当たりにしたはずの源平の争闘に関する記述がないと指摘されるが、関心がなかったはずがなく、むしろ影響が重大であったからこそ、あえて論評を避けたと見ることの方が正しいと思う。

  「予ものの心を知れりしより、四十あまりの春秋を送れるあひだに、世の不思議を見る事やたびたびになりぬ。」

  鴨長明はこう書く。大火が起これば、火は風に煽られて扇形に燃え広がる。扇の要の地点が火元である。火元をたずねて出火の原因を探ろうとする鴨長明に「ヤジ馬根性」をみたのは堀田善衛であったか。
  私はむしろ「予」という主語の提示に、観察主体としての「自己」の自覚をみることが出来るように思ったのである。40余年にわたろうとする歳月の中で、有為転変する世を見ることが単に諦観とともにある一方的な受容ではなかったことの証が、大火が起これば火元を確かめずにはおられない行動であったのではないかと考えたのである。
  「自分」の目で確かめなければならない、と思い立ったとき、鴨長明は一個の能動体であった。「自分」の目という定点が得られた以上、その目が「我」と我をとりまく「世界」とに注がれないはずがない。
  古代から中世へという歴史的転換期にあって、その象徴となる政変に無関心であったはずもなく、おそらくは没落するみやびへの愛惜に止まるものではなかったはずだと考える理由もそこにある。

  「そもそも一期の月影かたぶきて、余算の山の端に近し。たちまちに三途の闇に向はんとす。」
  「みづから心に問ひていはく、世を遁れて山林に交るは、心ををさめて道を行はむとなり、しかるを汝、すがたは聖人にて、心は濁りに染めり」

  『方丈記』しめくくりの段である。観察の対象はすでに世事ではなく自己の内面に向かっている。「汝」と呼びかける相手は自分であり、ここにあるのは自問自答、すなわち心の中の対話である。悟りを得ようと「聖人」の道を求めながら、「心」はいまだ混迷にあるという。
  「知らず、生れ死ぬる人いづかたより来りて、いづかたへか去る」とうそぶきながら、たった一人生まれ、世界と自己を見つづけ、たった一人人生を閉じようとする姿勢に「個我」を見ずに何を「個我」というべきだろうか。
  近代における「個我」の揺らぎがあるとすれば、逆に「個我」の意識を近代にのみ特有のものと考える必要もないように思うのである。
   ※
  「方丈記」は仏教思想のプロパガンダでも、動乱期を記録した見聞録でもなかった、というようなことが書きたかったらしい。こうして考えてみると、「平家物語」で合戦に臨む武士が名のりをあげるのも、あるいは「個我」の自覚ではなかったかと考えるようになった。確かに「○○出身の」「○○一族の」「○○の一子の」のあとにやっと己の名が告げられるのだが、そもそも人間という存在が関係性の網の「目」にあり、それでいてかけがえのない「個」であるという両面性を有しているというのは当たり前のことなのである。武士達が一族の栄誉や家名を背負いながらも、自らの死と直面するという実存的な状況下で「個我」に目覚めていった、と考えることはそう不自然なことではないと思うのである。
   ※
  そもそも「個我」とは何か。字面からすれば「単独者としての・自意識」というところだろうか。あれこれ考えているうちに、苦しまぎれに昔読んだ本のことを思い出した。書棚を探したが見つからない。何という題名だったかを思い出せないままなのだから見つかるはずもない。(図書館で借りた本だったらしいと後で思い出す。)そうこうしていうちに、ノートをとってあったことを思い出した。ノートの方は見つかった。
  さて、その本(佐田啓一『個人主義の運命』)ではジンメルによる個人主義の二類型が紹介されている。①量的個人主義(単一性)と、②質的個人主義(唯一性)である。①を支えるものは理性であり、18世紀啓蒙主義による人間の尊厳の思想を背景とし、②を支えるものは個性であり、19世紀ロマン主義による自己発展の思想を背景としている。
  「単一性」と「唯一性」というのは分かりやすい。理性は普遍性と結びつき、個性は持続性と結びつく。つまり「個我」とは、自己の一体性(統一性)と連続性(持続性)を内容とする、人格的主体のことであるということになる。
 ただし、これらは近代思想の産物であり、ときとして揺らぐ。その揺らぎとは一体性と連続性の揺らぎである。そのことはここでは触れない。

「方丈記」『日本古典文学全集27』小学館
佐田啓一『個人主義の運命』岩波新書(1981)


by yassall | 2014-05-28 12:12 | 国語・国文 | Comments(0)

「明治の精神」覚え書き


 漱石の「こゝろ」を読んで、不可解さとして後に残るのは「明治の精神に殉死する」という件である。「先生」が自死を決意する契機となったことを押さえられればそれでいい、という読み方もあり得るだろうし、そもそもの動機をあいまいにしないためにも、あまりこだわり過ぎないのが正しいとも思う。

  「「明治の精神」への殉死は口実に過ぎない。乃木将軍が殉死したのに便乗し、個人的な理由で死ぬのである。」(島田雅彦『漱石を書く』)

 島田雅彦のような読み手がそういうのだから、おとなしく従っていてもいいとも思うのだが、やはりどうも気にかかるところである。といいながら、さしたる勉強もせずに来たが、少しきっかけのようなものがつかめたような気がしたので、覚え書きとして書いてみたい。
 覚え書きとしたのは、論文とするには先行する諸研究に対する目配りが絶対的に不足しているし、自分自身でも確信を持つまでには深められていないという自覚があるからである。とはいえ、うかうかしているとこのまま何も書かずじまいになってしまわないとも限らないし、ブログ(個人の記録)という発表形態であるなら、参考資料の出処など、多少のルーズさも許されると当て込んでのことでもある。なに、フリーで身軽な立場だからこそ、書いてしまえることもあるに違いない。

 最初に、問題となる箇所を本文で確かめておこう。

  「すると夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。其時私は明治の精神が天皇に始まつて天皇に終つたやうな気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、其後に生き残つてゐるのは必竟時勢遅れだといふ感じが烈しく私の胸を打ちました。私は明白さまに妻にさう云ひました。妻は笑つて取り合ひませんでしたが、何を思つたものか、突然私に、では殉死でもしたら可からうと調戯ひました。」(下五十五)
  「私は殉死といふ言葉を殆んど忘れてゐました。平生使ふ必要のない字だから、記憶の底に沈んだ儘、腐れかけてゐたものと見えます。妻の笑談を聞いて始めてそれを思ひ出した時、私は妻に向かつてもし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死するつもりだと答へました。」(下五十六)

 ただし、この時点では「私の答も無論笑談に過ぎなかつた」とあり、ただ「何だか古い不要な言葉に新しい意義を盛り得たやうな心持ちがした」と続けている。
 「先生」が自死を決意するのは「それから約一ケ月」の後である。「御大葬」が執り行われ、翌朝の号外で乃木大将の殉死を知る。

  「私は新聞で乃木大将の死ぬ前に書き残して行つたものを読みました。西南戦争の時敵に旗を奪られて以来、申し訳に死なう死なうと思つて、つい今日迄生きてゐたといふ意味の句を見た時、私は思はず指を折つて、乃木さんが死ぬ覚悟をしながら生きながらへて来た年月を勘定して見ました。(中略)乃木さんは此三十五年の間、死なう死なうと思つて、死ぬ機会を待つてゐたらしいのです。私はさういふ人に取つて、生きてゐた三十五年が苦しいか、また刀を腹へ突き立てた一刹那が苦しいか、何方が苦しいだらうと考へました。
   それから二三日して、私はとうとう自殺する決心をしたのです。」(下五十六)

 自分の解釈に都合のよいところだけを抜き書きする誤りを避けるため、少々長めに引用した。
 明治天皇の「崩御」にあたって、殉死という言葉が「新しい意義」をもって「先生」の心にある方向づけをしたのは確かだろう。だが、自死の決意を決定的にしたのは1ヶ月後の乃木大将の殉死である。それでは「先生」はそのどこに反応したのだろうか。
 すると、まっ先に注目されるのは乃木が「死ぬ機会を待つてゐた」というところではないだろうか。なぜなら、「先生」もまた「死んだ積で生きて行かうと決心」しながらも、生きることの苦痛に堪えかね、「今日に至る迄既に二三度運命の導いて行く最も楽な方向へ進まう」、すなわち自殺の誘惑にかられてきた人間であるからである。
 それまでその誘惑を押しとどめてきたものは「奥さん」の存在であった。「妻を一所に連れて行く勇気」はなく、かといって「私だけが居なくなつた後の妻を想像」すると不憫でならなかったからである。
 そんな「先生」に決意をうながしたもの、心の堰を切らせた力は、乃木の半生に対する共感であり、「死ぬ機会」の突然の提示である。それを便乗といってしまえばそれまでだが、冒頭に述べた「明治の精神に殉死する」ことを「先生」が自死を決意する契機ととらえる、というのはそういうことである。
 だが、もちろんそれでは終わらないだろう。殉死に見いだされた「新しい意義」とは何か、「其後に生き残つてゐるのは必竟時勢遅れだ」というのはなぜか、そもそも「明治の精神」とは何か、というあたりが焦点となり、問題を解く鍵ともなるだろう。そのような見当をつけながら先にすすんでみたい。

  2
 最初の段階で漱石の天皇・皇室観を見ておきたい。「日記」からよく引用されるのは次のような箇所である。

  「(行幸能にて)皇后陛下皇太子殿下喫烟せらる。而して我等は禁烟なり。(中略)若し自身喫烟を差支なしと思はゞ臣民にも同等の自由を許さるべし。」(1912、明45.6.10)
  「皇室は神の集合にあらず。近づき易く親しみ易くして我等の同情に訴へて敬愛の念を得らるべし。」(同)
  「晩天子重患の号外を手にす。(中略)川開きの催し差留められたり。天子未だ崩ぜず。川開きを禁ずるの必要なし。細民是が為に困るもの多からん。」(同、明45.7.20)

 これらをみるに、一般的な親愛の感情までも否定する必要はないものの、その神格化を否定し、「臣民」に「同等の自由」があるべきだとする漱石を、「明治の精神に殉死する」の件をもって尊皇主義者の仲間に加えることには無理があるように思われる。
 殉死とは「主君が死んだとき、あとを追って臣下が自殺すること」(「広辞苑」)である。しかし、漱石の中にそのような忠誠心や君臣一体のエートスを見いだすことはできない。

 1889(明22)年に制定された「大日本帝国憲法」は第1条で天皇の統治権を規定し、「天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ」(3条)としたが、天皇の絶対不可侵の度合を強めていくのは1910年(明43)の大逆事件のころからではないだろうか。その大逆事件で死刑となった幸徳秋水が草稿を書いたという直訴状をもって田中正造が直訴事件を引き起こしたのは1901年であるが、田中はそのことで罰を受けることはなかったのである。
 「大日本帝国憲法」はそもそもは立憲君主制の基盤として制定され、憲法学上では「天皇機関説」が主流であった時期の方が長く、一知半解のそしりを覚悟していえば、伊藤博文も立憲主義の立場から同様の憲法構想を持っていたという説を耳にした記憶がある。「天皇制」が猛威をふるうようになるのは治安維持法が制定され、さらには「統帥権」の名の下に軍部が独走するようになってのことである。「天皇機関説」が排撃され、『国体の本義』(1937、昭12)が編纂された4年後に日本は太平洋戦争に突入する。
 話が先へ行きすぎてしまったが、明治人の中には昭和期に出現したようなファナティックな尊皇主義はなかった、少なくとも一般的ではなかったと私は考えている。

  「彼はエゴイズムと愛の不可能性という宿痾に悩む孤独な近代人として生きなければならなかったが、明治天皇と乃木大将の殉死という二大事件のあとで、彼は突然、いわゆる「明治の精神」が彼の内部で全く死に絶えてはいなかったことを悟らねばならなかった。(中略)彼の一部が、おそらくは小説の主人公のかたちで、「明治の精神」に殉じられることを知ったのである。」(江藤淳『明治の一知識人』)

 桶谷秀昭はこのような江藤の「文章の主旨」におおむね「同意」するとしながら、「江藤淳のこの漱石像はかなり鷗外的ではないかという印象を受ける」といい、漱石は「古い「明治の精神」」を「明治の時代の終焉とともに背後に押し遣ったにちがいない」としている(桶谷秀昭『夏目漱石論』)。
 ここで「鷗外的」というのは、森鷗外が乃木殉死の5日後に行われた葬儀の日に「興津彌五右衛門」を中央公論社に届けたことを指している。
 森鷗外の方が乃木殉死に対する反応が早かった。「興津彌五右衛門」を読む限り、鷗外は乃木の殉死に過去の「武士道精神」が現代に甦ったことを感じ取っているように思われる。
 これは後から述べることになるが、一方の漱石は明治という時代とともに滅んでいく自分を殉死ということばの中に見ているというのが私の考えである。
 したがって、桶谷のいうような「時代の終焉とともに背後に押し遣った」というのとは少し異なるのだが、それを割り引いてみると、私は桶谷秀昭が正しいのではないかと考えている。
 脱線するようだが、このあたりが同じ保守派の論客といわれ、桶谷を師とよぶ長谷川三千子らと決定的に異なるところなのである。まず作品に対する向き合い方が異なる。思想に対する切実さが違うのである。

  「大正の文化を支配した普遍主義が、西洋市民社会の日本社会への内面化であるという幻想を知識階級に抱かせたときから、明治近代国家が帝国主義国家に変質し、まずアジアの中で急速に孤立の度を深めていったのは、皮肉な運命といわねばならない。」(桶谷秀昭『夏目漱石論』)

 桶谷が続けてこのように書くとき、ますますその思いは強まる。幸徳秋水らの大逆事件が引き起こされた1910年は韓国併合の年であり、日本帝国主義がアジアの植民地支配を本格化していく年でもあるからである。

  3
 それにしても「明治の精神」というものがあるとすれば、それはどのようなものなのであろうか。自明のことであるようにみえて、内実はさっぱりつかめない。
 苦しまぎれに保田輿重郎の「明治の精神」(1938)を読んでみる。すると昭和13年という時点であったからか、意外(?)な書きように驚かされる。
 保田は「世界的精神」こそが明治の精神であったといい、その象徴として岡倉天心と内村鑑三の二人をあげるのである。岡倉天心は「日本の美」を世界に発信した人、内村鑑三は無教会主義のキリスト者であり、非戦論の立場に立った人物であるが、内村のキリスト教は武士道精神と結びついていたともいわれる。したがって「世界的精神」とはいってもコスモポリタンとしてのそれとはやや性格が異なるようなのではあるが、決して偏狭なナショナリズムを強調しているわけではない。
 さらに保田は、「明治の精神は云はゞ日清日露の二役を国民独立戦争と考へた精神である」と書く。ここまで来ると昭和の右派イデオローグたる面目が顔をのぞかせる。だが、日清日露戦争に勝利したことをどう評価するかは別として、日本の国民が戦争の行方に自らの命運を見定めざるを得なかったということは確かであろうし、一蓮托生という意味での国民国家の形成がこの戦争期になされたと見ることは間違いとはいえない。
 すると、国権主義によるか、民権主義によるか、二つの流れに引き裂かれていたことはあるとしても、国家としての存立と独立という、近代国家建設への情熱と傾注こそ「明治の精神」であるといえるだろうか。
 それは具体的には「富国強兵」「殖産興業」としてすすめられた。その裾野では功成り名を遂げようと、政治、産業、軍事、医療、学問、教育、芸術など多様な分野で、多様な人びとの活動があったことだろう。それらをいちがいに「立身出世主義」と切って捨てることはできない。いうなれば「上昇志向」を基調とした「志を持って生きる」ことを「明治の精神」と呼ぶことができようか。

 その意味では、漱石もまた明治人であったということは可能だろう。若き日、正岡子規に宛てた手紙には「文壇に立て赤幟を万世に翻さんと欲せば」、「洋文学の隊長とならん」、「愛国心ある小生」、「狭くいえば国の為め大きくいえば天下の為め」といった、友人相手のややおどけた口調でありながらも、気負いに満ちたことばが散見される。「何をして好いか」少しも見当がつかないながら、「私は此世に生まれた以上何かしなければならん」という悶々とした思いをかかえていたことを後年に告白もしている(「私の個人主義」1914、大3)。
 だが、こうした「事業意識」ともいうべき心情が存在したことをもって、漱石が明治という時代を肯定的に見ていたとか、ましてや礼賛しているとかみるのは早計といわざるを得ない。

 「三四郎」(1908)では、熊本の高等学校を卒業し、帝国大学に進学をきめた小川三四郎が上京の途次で広田先生と同じ列車に乗り合わせ、日露戦争後の世情について次のような会話をかわす。

  「「然し是からは日本も段々発展するでせう」と弁護した。するとかの男は、すましたもので、「亡びるね」と云った。」

 また、大逆事件の翌年に行われた講演「現代日本の開化」(1911)では、日本の「開化」(=近代化)は「外発的」であるとして、「日露戦争以降、世界の一等国の仲間入りをした」かのような世相を批判した。
 さらに遡れば、日露戦争終結の翌年に書かれた「坊っちゃん」(1906)は江戸っ子気質を残す坊っちゃんと会津出身の山嵐を主人公としているが、山嵐が辞職を迫られ、これに憤慨した坊っちゃんも辞表を叩きつけるきっかけとなった中学校同士の大げんかは日露戦争祝勝会の日の出来事なのである。いわずもがなだが、江戸は明治維新を推進した「官軍」によって開城され、会津は会津戦争によって「官軍」に攻め滅ぼされた。「坊ちゃん」で漱石はこの二人が何を怒り、何とたたかう姿を描こうとしたか、そう考えればことは単純な痛快譚では終わるはずもないのである。

  「漱石を官命によって洋行させた明治国家は、漱石が神経衰弱をつのらせ発狂の噂まで滞英邦人間に立てられたほど悪戦苦闘に貢献せんとした国家とは決定的にずれていたことである。」(桶谷秀昭『夏目漱石論』)

 桶谷もまたこのように書くのである。

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 「明治の精神に殉死する」といっても、旧世界の規範意識としての忠誠心から発するものではなく、「近代国家」建設にあけくれた明治に対する愛惜の情から発するのでもないとすれば、いよいよ八方ふさがりの態である。
 ここでもう一度、問題となっている本文にもどってみよう。

  「最も強く明治の影響を受けた私どもが、其後に生き残つてゐるのは必竟時勢遅れだといふ感じが烈しく私の胸を打ちました。」

 漱石を反近代主義者とみなすことは適当ではない。実際に現前することになった明治国家に対して肯定的でなかったとしても、漱石もまた日本的近代の探究のために「悪戦苦闘」した一人であることには間違いなく、「最も強く明治の影響を受けた」ことの真実は揺らがない。漱石の文明批評の鋭さとその未来までも見通した射程の長さをみるならば、むしろその可能性も不可能性も含めて、最も深く近代日本の進路を探っていったのが漱石であったと言って言い過ぎではない。

  「維新の革命と同時に生まれた余から見ると、明治の歴史は即ち余の歴史である。」(「マードック先生の日本歴史」1911、明44)

 修善寺の大患の翌年、漱石がこのように書いたのは明治天皇崩御の一年前のことである。

 最後の問題は、「時勢遅れ」とはどのような感情であるか、である。明治とともに生きたという自覚にある者が、その終わりにあたって自らの引き際を感じ取ったということなのか。それはなぜか。漱石が思い描いたところの日本近代と、あるいはついに思い描き切れなかった日本近代と、日露戦争後に現前した明治日本との乖離への絶望感なのか、はたまた重大な健康不安をかかえるに至った漱石自身の、己が人生のある内での達成への断念なのか。
 ここで一気に「こゝろ」全篇に視野を拡大してみよう。「中 両親と私」は短い章であるが、病気を患った父親の子の行く末に対する心配や期待、つまりは家族のつながり、世間的価値観に対する気配りと受容、勤労や質素倹約を尊ぶ伝統的価値観といった、いうなれば現実世界を構成している庶民一般の生活意識がどのようであったか、決して漱石がそれらを視界の外に置いてはいなかったことを示して重要である。
 そして、そうした生活意識からまさに離脱しようとしている青年「私」が置かれるとき、時代の継ぎ手であり、また新たな時代の創造主体である「青年」に漱石の最後の期待があったと考えるのはそう見当違いのことではないように思われる。
 私は先に、漱石は明治という時代とともに滅んでいく自分を殉死ということばの中に見ている、と書いた。その滅びへの傾斜とは同時に再生への願望である。

 
  「一つの時代の終わりは新しい時代の始まりでした。というより、新しい時代はすでに始まっていて、天皇の死とともに古い時代が完全に終わったと感じたのです。「明治の精神」に支配される自分達は時代遅れだという自覚と、新しい時代の青年に対する期待が、先生の遺書には強く感じられます。」(伊豆利彦『夏目漱石』)

 伊豆利彦は民主文学の立場に立った研究者であり、その漱石論も拠って立つところは鮮明なのであるが、次のような一節をみるならば、決して自らの見地に引き寄せ過ぎているとは言えないのである。

  「私は今自分で自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に浴びせかけようとしているのです。私の鼓動が停まった時、あなたの胸に新しい命が宿る事が出来るなら満足です。」(下二)

  「明治の精神に殉死する」こととは、ひとつの時代の終焉にあたって、燃焼し尽くそうとするものの中から次世代に受け渡すべきものを拾い出そうととすることであった。「こゝろ」の執筆と同時期になされた講演「私の個人主義」を読んでみると、それが間違ってはいないことを確信するのである。

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 それでは漱石が次世代に引き継ごうとしたものは何であったのか、もうひとつの出口を塞ぎながら考えてみよう。
 もうひとつの出口といったのは、「最も強く明治の影響を受けた私ども」とあるうちの「私ども」にかかわっている。「ども」は複数化のための接尾語であるが、ここでは「私」という個人ではなく、同時代を生きた世代一般をさすか、「私」を特化しないためのあいまい表現とみるのが正しいのかもしれない。だが、どうしても「K」の存在を意識してしまうのは、「先生」の直前の回想に次のような一節があるからである。

  「私もKの歩いた路を同じやうに辿つてゐるのだといふ予覚が、折々風のやうに私の胸を横過り始めたからです。」(下五十三)

 「K」における「理想と現実の衝突」の問題についてはここではふれない。ただ、「K」もまた新しい時代の哲学の探究者であったとだけ述べておきたい。「先生」が「Kが私のやうにたつた一人で淋しくつて仕方がなくなった」というとき、その淋しさとは次のようなものである。

  「自由と独立と己とに充ちた現代に生まれた我々は、其犠牲としてみんな此淋しみを味はわなくてはならないでせう」(下十四)

 しかし、「自由と独立と己」とは、漱石が到達したところの「自己本位」の思想の生み出すものではないだろうか。それでは「自由と独立と己」と引き換えに失われたもの、それは「天」であったり、「自然」であったりするのかも知れないが、それらを惜しみ、「淋しみ」としてこだわり続けているところに「時勢遅れ」という自己認識があったのだろうか。
 私が塞いでおきたい出口とは、ここから漱石が近代主義から転向し、旧世界的な倫理観に舞い戻ったのだ、というような見方である。

  「小説『心』は、心は心を欺くという主題を描いていた。先生は「私は私自身さへ信用してゐないのです」と〈私〉に語っていた。これは完全な「自己」否定を意味する。「自己本位」の崩壊が、これほどまでに明白に語られているのである。そして「自己本位」の否定は、とりもなおさず「私」の否定にほかならない。先生の「私」は完全に否定されている。これが「則天去私」の「去私」に当たることは、明らかであろう。」(今西順吉『「心」の秘密』)

 今西順吉は仏教者の立場からの漱石の研究者である。インド哲学に関する豊富な知見を駆使し、「識」から作品世界を解明していくさまは「こゝろ」という題名の意味を改めて考えさせられ、多くの示唆に富むものである。しかしながら、反近代主義とは異なるとはいえ、「こゝろ」執筆時、漱石はすでに「自己本位」の思想を否定するに至っていたという説には疑問がある。時期を同じくする「私の個人主義」で「自己本位」の思想を強調したのは、ロンドン留学時代の自分を語ったものであり、学習院の学生相手のものであったからだとか、新しい思想が十分に構築されていなかったからだというのにも無理があると思われる。
 確かに漱石は、「近ごろは自我とか自覚とか唱えていくら自分の勝手なまねをしてもかまわない符丁に使うようです。」(「私の個人主義」)として、私利私欲に固まった個人主義を批判している。しかし、もともとそれは漱石のいう「自己本位」の思想とは別のものである。
 自己が自己として存立しながら他者とつながることを可能にすること、個人の自由が万人の自由であることが可能であるような社会を築くこと、矛盾を矛盾として保持しながらその統一をめざすこと。「自己本位」の思想が否定されたというより、より高い次元への止揚をはかろうとしたところに漱石の思索の発展があったと思いたいのである。
 晩年の漱石が至ったという「則天去私」の境地とは、その矛盾を投げ捨てることではなく、矛盾を矛盾として支える力を得たということではないのか。
 漱石の苦悩をつかみ、その思索の深さを引き継ぐとは、そういうことでなければならないと思うのである。

 ※夏目漱石の「こゝろ」については、以前に「『こころ』断章」を書きました。上はその補論として書いたものです。言葉足らずのところを補う意味で、あわせてお読みいただければ幸いです。

《参考文献》
本文で引用した参考文献は以下の通りです。

島田雅彦『漱石を書く』岩波新書(1933)
桶谷秀昭『夏目漱石論』河出書房新社(1972)
桶谷秀昭『文学と歴史の影』北洋社(1972)
保田輿重郎「明治の精神」『戴冠詩人の御一人者』所収(「保田輿重郎文庫」新学社版は2000)
伊豆利彦『夏目漱石』新日本新書(1990)
今西順吉『「心」の秘密』トランスビュー(2010)
水川隆夫『夏目漱石「こゝろ」を読みなおす』平凡社新書(2005)

 ※今西順吉『「心」の秘密』については、引用部分については否定的な見解を述べましたが、漱石と禅宗とのかかわりはもちろん、「こゝろ」には「先生」と浄土真宗、「K」と日蓮宗など、宗教的見地からの解明が待たれている問題も残されていると思われます。明治期の仏教革新運動が「K」に影を落としているという他の研究者の指摘もあります。その意味で、決してないがしろには出来ない書物であることをくり返しておきたいと思います。

《改稿の記録》
2014.5.13 冒頭部を一部改稿。「明治の精神」にこだわりすぎるともともとの自死の動機を見失ってしまう危険性がある。



by yassall | 2014-05-12 11:43 | 国語・国文 | Comments(0)

国語・国文について

 国語・国文のカテゴリーを設け、教材論をいくつかアップしました。これらは現役を退く前、最後の3年間のうちに書きとめたものです。プリントをその年受け持った生徒たちと同僚の皆さんに配布しました。本来、そこで役目を終えたわけですが、私なりに愛着もあり、まずは自分の記録として残そうとするものです。
 多少とも新しい視点を提起したという自負もあります。もしお読みいただき、ご高評などたまわれば分に過ぎたることこの上もありません。

※「『山月記』再び」についてはコメントがあります。
※「志賀直哉の『正直さ』」で、椎名麟三のキリスト教入信について、「カソリック」と「プロテスタント」とに誤りがありましたので訂正しました。
by yassall | 2011-12-30 13:29 | 国語・国文 | Comments(0)

教材論 芥川龍之介「羅生門」

 下人の「サンチマンタリスム」
       ---『羅生門』を読み続けて
                

  一 小説教材としての『羅生門』

 芥川龍之介の『羅生門』は高校一年生の小説教材の定番となっている。
 実のところ、私は『羅生門』の作品としての完成度には疑問を持ち続けてきた。
 それは、起承転結でいえば起にあたる部分が長すぎること、ようやく作品世界に引き込まれて来たころに、突然作者が顔を出してしまうところ、などである。
 最後の一行が発表後も何度か書き直されたことや、初出では柳川隆之介というペンネームが用いられていることなどから、むしろ自己のスタイルを模索する過程での習作と呼ぶべきであるとさえ思うことがある。
 しかし、そうした瑕疵をこえて、これだけ長きにわたって高校段階での小説入門教材として定着してきたのは、それ相当の理由があってのことだろう。
 それは、時間・空間・人間という小説の三要素が明確でとらえやすく、またそれら自体が表現しているものもつかみやすいこと。
 また、新しい表現の工夫が随所に施されており、言語感覚を磨き、言語世界を広げていく力に満ちていること。
 そして、「下人」と「老婆」の対決という基本軸が明確で、作品の主題に迫りやすいこと、といった点によるものであろう。
 しかし、いざその主題に迫ろうとすると、(おそらくは「イゴイズムのない愛がないとすれば、人の一生ほど苦しいものはない」という恒藤恭宛書簡に根拠を置くものの)、人間のエゴイズムを表現しようとした、などという解釈でとどまってしまうこと、それ自体は誤りではないとしても、ややもすると道徳的解釈で終わってしまうことに不満があった。(結局、下人は「黒洞々たる夜」に閉じこめられてしまったのさ、など。)

  二 『羅生門』の謎

 『羅生門』を読み続けていると、いくつもの疑問点と出会う。
 それはまず、「生きるためには悪事をなすのもしかたがない」というのが老婆の論理であったとした場合、下人はこれに共感して老婆の着物を剥ぎ取ったのだろうか、そしてまた、もし下人に「勇気」を与えたものが老婆の「しかたがない」という言葉だとすれば、門の下にいたとき下人は何を悩んでいたのだろうか、という疑問である。
 下人は、すでに門の下に座り込んでいた時点で、「手段を選ばない」とすれば「盗人になるよりしかたがない。」(傍点、桜井)ということに思い至っている(後出にも「さっきまで、自分が、盗人になる気でいたことなぞは」とある)のであり、ただそれを「積極的に肯定するだけの、勇気が出ずにいた」のである。
 老婆の言い訳を聞くときも、下人はあくまで「冷然として」聞いているのであり、その「憎悪」と「侮蔑」の心が「引剥ぎ」という行動となって老婆に振り向けられるときも、「あざけるような声」で念を押し、「かみつくように」(まるで判決でも下すように)「おれがひ剥ぎをしようと恨むまいな」と言い放つのである。
 『羅生門』が描くところのものが、生か死かの極限状況におかれた人間の姿であり、そこでは「自分さえよければ(生き延びるためには)」という人間のエゴイズムが剥き出しにされるといった観点では、下人も老婆も「生きるためには悪事をなすのもしかたがない」という行動原理にしたがっているだけのことになってしまい、この二人の間の緊張関係の中に描かれる対立軸は浮き彫りにされてこないのである。

  三 「愉快な小説」

 芥川は『羅生門』執筆の動機を次のように述べている。
 「当時書いた小説は、「羅生門」と「鼻」との 二つだつた。自分は半年ばかり前から悪くこ だはつた恋愛問題の影響で、独りになると気 が沈んだから、その反対になる可く愉快な小 説が書きたかった。」(『あの頃の自分の事』)
 しかし、この作品の、どこが「愉快」であるというのだろうか。
 これもまた、過酷な生の実態の前で人間の良心や道徳がもろくも崩れ去っていく、といった観点では、とうてい説明がつかない問題である。
 ここで、もう一度下人の「勇気」を検証してみたい。老婆の弁明を聞きながら下人の心にわき起こってきた勇気とは、「門の下で、欠けていた勇気」=「積極的に悪を肯定する勇気」であり、「老婆を捕らえたときの勇気とは、全然、反対な方向」=「飢え死になどということは、ほとんど、考えることさえできない」とされる勇気である。
 それはすなわち、生への意志の積極的な肯定であり、老婆の「しかたがない」=消極的肯定を乗り越えるものとしての力への確信とでも呼ぶべきものである。
 それはエネルギーに満ち溢れたものとして生命を活性化させるものであり、確かに人間を「愉快」にするものに違いあるまい。『今昔物語集』に「野生の美」を見いだした芥川は、その善悪の垣を超えた野性的生命力にあこがれを抱いたのではないか。
(私はそれを教室で、積極的ニヒリズムと名づけてみた。それはときに、既成の秩序に鋭くノーを突きつけていくものであり、新しい時代を切り拓いていくものであろう。悪党と呼ばれた武士集団が、やがて中世の幕を開けていったように。)

  四 下人の行方

 
 『羅生門』が『今昔物語集』「羅城門の上層に登りて死人を見たる盗人の語」を下敷きにしているのは明白であるが、少なくとも構想の段階でもうひとつの原話が存在したのではないかという仮説にいたったのは、朝霞高校国語科の同僚であるM先生の示唆による。
 それは、『古今著聞集』「後鳥羽院強盗の張本交野八郎を召取らるる事」である。M先生所有の山梨県立文学館発行の資料集『羅生門』(注1)には、「交野の平六は羅生門の石段に腰をかけて」云々という書き出しのノートや草稿が多数散見される。
 「張本」とは「悪党の首領」ということであり、どうやら「交野の八郎」とは当時世を騒がせた大盗賊であったらしい。とすれば、構想の段階で芥川の頭の中にあったのは、名を「平六」(注2)と書き換えられているものの、やがて世に名高い大盗賊となった男の前史、その素姓にかかわる秘話、という設定ででもあったのだろうか。
 だとすれば、初出の結末部が次のようであることは必然であったといえよう。
 「下人は、既に、雨を冒して、京都の町へ強 盗を働きに急ぎつゝあつた。」
 「雨」をものともせず、強盗を働きつつ「京都の町」を疾駆する男のイメージからは、すでに「雨に降りこめられ」て「途方に暮れていた」弱々しさは払拭されている。男はまさに生への意志としての、強者の力を得たのである。
 しかし、その結末部は書き改められた。
 「下人の行方は、誰も知らない。」、と。
 改稿の理由として、作品をひとつの世界として完結させるため、というような評価のされ方をするようだ。それはそれとして頷けないこともないのだが、それと引き替えに失われたものも大きいのではないだろうか。
 ここにはもう初出のような躍動は感じ取れない。むしろ、改めて下人の行方を尋ねるならば、そこには「黒洞々たる夜」があるばかりなのである。
 注1山梨文学館が所蔵する芥川龍之介関連の資料の複写を中心とする資料集
 注2人物の名はノートや草稿によって、「八郎」「六郎」「五郎」など様々な書き換えがされている。なお、この文章を書いているうちに、「平六」の名は同じ『古今著聞集』の「強盗の棟梁大殿小殿が事」に見えることをM先生に教えられた。大殿小殿と並び称せられた強盗のうちの小殿が自ら「平六」と名乗りを上げている。大殿は「後鳥羽院の御とき、からめられけり」とあり、小殿は改心して源判官康仲に仕えたとある。

  五 芥川の青春

 芥川の挫折は原因はどこにあったのだろうか。『羅生門』に漂うひよわさはそのような疑問を投げかける。
 そういえば、『今昔物語集』との比較においても、「ここにいる死人どもは、みな、そのくらいなことを、されてもいい人間ばかり」なのだからと必死に弁明を繰り返す老婆と、「己があるじにておはしましつる人」の遺骸を羅城門に置き去りにし、さらにはその髪を「かなぐり抜き取る」嫗と、また「老婆の着物」だけをはぎ取る下人と「死人の着たる衣と嫗の着たる衣と、抜き取りてある髪とを奪い」取った盗人と、いずれがその悪のエネルギーのすさまじさにおいて勝っているのかを問えば、答えは自明であろう。
 かつての私には、それは「理知派」の限界であるとしか思えなかったし、したがってあまりにも唐突にあらわれる「平安朝の下人のサンチマンタリスム」の一節も、作者一流の気取りとしか受けとめられなかった。
 しかし、やがてこの「サンチマンタリスム」こそ、この作品の底を流れ続ける気分であり、動機であるのではないかと考えるようになった。
 それは芥川自身の、(失恋に終わった)「悪くこだはつた恋愛」がもたらした喪失感、またそこにかいま見た「人の上に落ちてくる生存苦の寂寞」(前出恒藤恭宛書簡)が、作品上に色濃く反映されたものであったのかも知れない。
 人間の「イゴイズム」に直面した芥川の、「周囲は醜い。自己も醜い。そしてそれを目のあたりに見て生きるのは苦しい。しかも人はそのまゝに生きることを強ゐられる」(同)ことへの嘆きは、「生きる」ために「盗人になるよりしかたがない」(=そのようなあり方を「強ゐられる」)、社会の最下層民として生きるしかなかった下人の苦悩あるいは反抗心に重ね合わされている。
 「強者」として自己回復をなしとげるには、芥川はあまりにも繊細で傷つきやすい心性の持ち主だったのであろう。老婆が覗き込んだところの「黒洞々たる夜」とは、ときに生きてあることへの否定にまで傾斜しようとする、底知れぬ人間存在への絶望に他ならなかったのではないか。
 すでにして「僕は亡びると云ふ予感」(同)に脅かされながら、その「サンチマンタリスム」から何とかして脱しようとする模索こそが初期芥川の作品群であると今は思う。その成否は問わぬとしても。

  六 おわりに

 生徒たちと『羅生門』を読む機会がもう一度くらいはあるのだろうか。
 国語教師になりたてのころ、教科書の小説教材=テキストとして作品に接してみると、私にはまったく『羅生門』が読めていなかったことを痛感させられた。それまでは芥川を、昭和という時代への移行の過程で乗り越えられるべき、文学史的事件くらいにしか捉えていなかったのである。
 それ以来、さまざまな切り口を求めて『羅生門』の読解にアプローチしてきた。そして、教師人生にも終止符を打つ時期が近づくにつれ、そろそろそのまとめをして置きたくなった。
 これがこのような文章を書き始めた理由であるが、やはり文字に残そうとすると当たり障りのないものになってしまう。
 教室では、「本当はキリストを描きたかったのでは?(「人はパンなしには生きていけない」ことは当然のことであるのに、「パンのみに生きる」人間の生のあり方にキリストが悩んだのだとしたら、その同じ悩みを悩みながら、その対極に立ってしまった下人。)」などとかなり乱暴な挑発をおこなったこともあったし、最近ではもしかするとドストエフスキーの『罪と罰』の影響がありはしなかったか、などと考えている。
 そのような仮説を立て、これを検証するには私はあまりに不勉強である。
 ただ、そうした不勉強を棚上げにして、ひたすら生徒たちを揺さぶるごとくに様々な解釈の可能性を投げかけたのは、優れた作品ほどそうした試みを受け入れ、新しい価値を生み出すものであると思うからである。作品に即しながらも、自ら問題発見し、思考し、読みを深めていく読解のダイナミズムを体験させたいと考えたのである。
 描写の力、比喩の力にも、文学作品を鑑賞する重要な要素として気づかせたかった。「火の光が…その男の右のほおをぬらしている。」(傍点、桜井)といった表現が、既成の言語秩序を破壊しようとする試みであるとすれば、それは第一次世界大戦後のヨーロッパに起こり、やがては日本のモダニズム文学にも影響を与えたアバンギャルドのさきがけであったかも知れない。
 『羅生門』には、やがては抗しきぬほどに重みを増していったのであろうサンチマンタリスムを早くも抱え込みながら、己の才気にしたがい、文学的野心に賭けようとする若き芥川の青春がかいま見えるのである。

《補論》
 1911年2月1日、徳冨蘆花は第一高等学校弁論部主催の特別講演会で「謀反論」の演説を行った。幸徳秋水らの大逆事件の処理にかかわっての政府弾劾の演説であったという。
 その演説が芥川が一高に入学した5ヶ月後であったこと、同時期に一高で過ごした人々の日記等から、それが大きな衝撃をもって受けとめられたことから、「謀反論」の芥川への影響を論じたのは関口安義である。(『芥川龍之介の歴史認識』新日本出版社、2004)
 最近、その関口安義が新聞に寄せた文章で知ったのだが、幸徳秋水の「帝国主義」(1901)の末文は次のように締め括られているという。

 「若し夫れ然らず、長く今日の趨勢に放任して以て省みる所なくんば、吾人の四囲は唯た百鬼夜行あるのみ、吾人の前途は唯た黒闇々たる地獄あるのみ。」

 確かに「唯た黒闇々たる地獄あるのみ」と「外には、ただ、黒洞々たる夜があるばかりである」とには偶然の一致とは思えない近似がある。
 もし、芥川が造形した「下人」に「謀反論」の影響があるとすれば、それは「悪を積極的に肯定する生へのエネルギー」を超えた「反逆の心」があることになる。私が全面的に賛成するかどうかは別の問題である。だが、小森陽一が指摘したように、下人が雨をついて飛び出していった羅生門と、朱雀大路を隔てて相対するのは朱雀門であるのは確かなのである。そこは権力の象徴である大内裏の正門なのである。(2016.3.27)


by yassall | 2011-03-05 13:03 | 国語・国文 | Comments(0)

教材論  志賀直哉「城の崎にて」

 志賀直哉の「正直さ」
      --- 「城の崎にて」私見

                
  一 太宰・志賀論争

 志賀直哉が亡くなった一九七一年、私は大学二年生であった。そのときの私の正直な感想は「ああ、志賀直哉ってまだ生きていたんだ。」であった。
 私が大学でついた鳥居邦朗先生は太宰治の研究者だった。その鳥居先生に、「太宰も志賀くらい長生きしたら円熟を見たかも知れませんね。」といったら、ふだんあまり感情的になることのない先生がやや冷笑ぎみに、「円熟?志賀くらいの円熟なら太宰はとっくに達成していたさ。」とのお答えになったのを今でも覚えている。きっと先生は太宰が『如是我聞』で志賀に噛みついた反逆のこころを引き継いでいらしたのだろう。
 あるいはまた、志賀直哉=「小説の神様」などという文壇的通説をうのみにしてはいけない、通説なんてものは、ときには頭から疑ってかかるくらいの構えが大切なのだと、暗に戒めて下さったのかも知れない。
 つまるところ志賀直哉は私には縁のない作家、近代日本文学史から落とすことは出来ないが、しかしそれ以上でも以下でもない文学者の一人であった。
 その志賀直哉と再会することになったのは、授業で『城の崎にて』を取り上げることになってからのことである。

 二 「気分」の作家

 いや、学生時代に一度だけ、志賀直哉が分かったと思えた時期があった。
 それは『十一月三日午後の事』という小品を読んだときであった。それは、あるとき軍事演習がおこなわれ、たまたま疲労困憊して道に倒れている兵隊を見た「自分」が「不快な気分」に襲われる、といった内容の身辺雑記風の作品であった。
 大正が終わり、昭和になると、時代はいっきに戦時体制へと変わっていく。しかし、戦時体制というのは一朝一夕には出来上がらない。戦争への準備は、じわじわと長い時間をかけ、気がついたときは国民をがんじがらめにしているといったようになされるのではないだろうか。
 志賀が『十一月三日午後の事』を発表したのは一九一九年(※)、桐生悠々が『関東防空大演習を嗤ふ』を書いて信濃毎日新聞の退社を余儀なくされるのは一九三三年である。言論封殺はたちまちの内にやって来た。
 戦前のことであるから、軍事演習などということはありふれたことだった、といってしまえばそれまでである。しかし、志賀の「不快な気分」はいち早く戦争の足音を感じ取ったところに発生したように私には思えたのである。
 そのような先見性を志賀は持ち合わせている。そのことは認めてもよい。今から考えれば、何とも偉そうに私はそう考えた。志賀は真偽、善悪、美醜を断じ分けていく強固な自我意識を所持している。
 ただし、それは自分の「気分」、つまりは直感に対する絶対の信頼から来ている。志賀の自我の強さとは、不快なものを不快といってのける強さ、嫌なものは嫌だと排してはばからない強さなのだ。だから第二次世界大戦中も沈黙を守り抜くことが出来た。私は戦後の作品もいくつか読んだが、自分の「気分」を書いていくという手法では少しも変化がないことに驚かされた。
 しかし、自分の「気分」への絶対の自信というのは、状況の変化、時代の風に対する鈍感さの裏返しではないのか。
 志賀より遅れてきた文学者たちは、否応もなく時代の荒波に翻弄されていった。しかし、どのような人間も己れが生きた時代から自由ではあり得ない。だとすれば、いったいどちらがより自分の生に忠実であったといえるのだろうか。私はそんなことを考えていたのである。
(※一九一九年はベルサイユ条約が締結された年。第一次世界大戦後の「平和」がいかに危ういものであったかが分かる。)

 三 『城の崎にて』の気分

 『城の崎にて』を読み返しても、私は私の志賀直哉の読み方を変更する必要を、最初は感じなかった。ここでも志賀は、ただ自分の「気分」「気持ち」を語っているだけであり、「いい気持ち」か「嫌な気持ち」かを述べることに終始しているかにみえる。
 いや、たぶん大きく間違ってはいまい。実際、いもりの好き嫌いの件(くだ)りなどに接すると、おいおいいい加減にしてくれよ、というような気分になってしまう。
 だが、子細にみていくと、少々勝手が違うような気がしてきた。自分の「気分」を唯一の手がかりにしていこうとしているのは同じなのだが、志賀特有の「自信」が感じられないのだ。というより、一度その「気分」を否定して、その深層にあるものを探究しようとしているように読めるのである。
 「実は自分もそういうふうに危うかった出来事を感じたかった。そんな気もした。」
 と志賀は書く。しかし、その「そんな気」は直ちに否定され、その「気分」に収まりきれない自分が発見されていく。
 ここで、「そういうふう」が指すものは、次の部分である。
 「自分は死ぬはずだったのを助かった、何か が自分を殺さなかった、自分にはしなければ ならぬ仕事があるのだ。」
 教室で、ここでいう「何か」とは何だろうか、という発問をすると、「神!」という答が返ってくる。
 志賀直哉は十七歳の年から七年間、内村鑑三の門下にあった。私は志賀とキリスト教との関係については不勉強であるが、おそらく生徒の答は間違ってはいまい。
 一人一人の命は「神」が与えたものであり、「神」の行為に無意味なものはひとつもなく、従ってどのような人の人生も、それぞれの使命(ミッション)を負った、意味あるものなのだ、というのが近代ヒューマニズムの根底をなしているとすれば、若き志賀直哉が心惹かれていったことは想像に難くない。
 しかし、実際に「死ぬはずだったのを助かった」体験が、そのような思想に自分を導きはしなかったことに、どうやら志賀はとまどいを感じているように私には思える。

 四 志賀直哉の「正直さ」

 志賀は死を「静寂」の中に見いだし、「親しみ」を感じている。
 「生」きていることの喜びよりも、「死」の静かさに引きつけられていく心理をどう解釈したらよいのだろうか。「死」=安らかな眠りへのあこがれだろうか、蓋棺事定の安心だろうか。
 いずれにしても、それらは「ねずみ」の最期に立ち会ってしまったことで打ち破られる。
 それを志賀は、「寂しい嫌な気持ち」と表現する。志賀には、しばしば好悪の気分が善悪の判断となる。
 ただ、このときは「嫌な気持ち」を遠ざけるのではなく、「あれが本当なのだ」としてその気分を自分に引き受けようとする。
 それは、「死の恐怖には襲われなかった」としながら、「フェータルな傷じゃないそうだ。」と告げられて「急に元気づいた。」という告白として表現されている。生ある限り、生き続けようとすることが命あるものの自然な姿であるのだ。
 私が志賀の「正直さ」を感じるのは、その後に、「フェータルなものだともし聞いたら自分はどうだったろう。」と問い、「で、またそれが今来たらどうか」と問い直しているところである。
 「死」の恐怖と立ち向かうにはそれ相当のエネルギーが必要だろう。事故に遭遇した当座は危機回避の本能によって対応できたとして、それがもう一度再現されたらどうするか、あるいはまた一度は生命には別状ないとされた診断が覆って「致命傷」と宣告されるようなことがあったら、人は一人の人間としてそれに立ち向かう精神力を保持し得るだろうか。
 それはいかにも回答が不可能な問いである。しかし、現在の自分の「気分」に安住するのではなく、あえて不可能を問いかけて見るところに志賀直哉の誠実があると私は思うようになったのである。

 五 「あるがまま」という解答

 椎名麟三がプロテスタントの洗礼を受けたとき、「ああ、これで自分は死にたくない、死にたくないといって死んでいくことが出来る」と言った、というようなことを遠藤周作が書いていた。
 志賀直哉は「死に到達する前のああいう動騒は恐ろしい」と書いた。「ああいう苦しみ」は分かるとして、「動騒」とは何を指しているのか。それは死に直面して取り乱してしまうこと、それがあの「ねずみ」のように滑稽にみえてしまうこと、自我の統一性を失うことで、人間としての尊厳を失ってしまうことへの恐れであったのだろうか。
 死の「静寂」と生の「動騒」というジレンマを志賀はどのように解決しようとしたのか。
 「またそれが今来たらどうかと思ってみて、 なおかつ、あまり変わらない自分であろうと 思うと「あるがまま」で、気分で願うところ が、そう実際すぐには影響しないものに相違 ない、しかも両方が本当で、影響した場合は、 それでよく、しない場合でも、それでいいの だと思った。それはしかたのないことだ。」
 この、難解というより難物といった方がよいと思われる一節も、志賀が自らに問うた問題の困難さを思えば許容もできよう。
 志賀が出したひとまずの解答は、「あるがまま」(平たくいうと「なるようにしかならない」)=自然を、「しかたがない」=諦観して受容することだった、と読み取ることができそうだ。
 そしてそれは、先のような意味でのキリスト教的世界観=生の必然性という思想と対置されるものであるように思われる。

 六 固有の死

 「あるがまま」の自然の受容、という姿勢をひとまずの解答といったのは、これに続く「いもり」の死をめぐる記述の中での落ち着きの悪さからである。
 以前は、そのようには感じていなかった。生死を分かつ「偶然」性に「生き物の寂しさ」を見いだし、「それは両極ではなかった」という記述は、「自然の受容」という視点の延長で読める気がしたし、授業でも生徒にはそのような説明をして終わりにして来たような気がする。
 最近になって感じ始めた落ち着きの悪さというのは、終末部の「足の踏む感覚も視覚を離れて、いかにも不確かだった。」をどう解釈するかに端を発している。
 「足の踏む感覚」が「不確か」だというのは、志賀が到達し得たと思われた「静寂」の境地に、実は根をおろすことが出来てはいない、かえって諦観と受容から遠く、「無明」の混迷のただ中にあるということではないのか。
 今回『城の崎にて』を読み直して気づいたことがある。それは、このとき志賀が「一人きり」であることだ。見知らぬ土地にただ一人であることで、志賀は他との関係性を排除した地点に立った、観察者の眼を獲得するにいたった。
 ハイデガーは、「死は必ず自分の固有の死であって誰とも交換できない。」と述べた。
 (と、分かったふうをして紹介したが、実は私は『存在と時間』を読破できてはいない。私のハイデガー理解は、かつては松浪信三郎、今は教室で配布した『哲学入門』の竹田青嗣らあたりの解題によっている。)
 死の「隠蔽」が、単純な「死」からの逃避ではなく、共同体の作り出したイメージ(例えば「宗教」)の中にそれを解消しようとすることであるとすれば、志賀がキリスト教的な世界観の中にも、東洋的な諦観の世界にも安住できなかったことは、志賀が向き合ったものが「固有の死」であることの証しではないだろうか。
 人間にとって、死はつねに「不意の死」であり、その不条理はただ「一人」が引き受けざるを得ないものなのだった。
 「知らず知らず遠い先のことにしていた」死を、「本当にいつか知れない」という自覚のもとに見つめ、掘り下げて行った。その先に見えたものは「不確か」だった。それは、作品としては破綻であったかも知れないが、文学者としての敗北ではなかった、と考えようと思う。
 それはいかにも不可能な問いだった。しかし、宗教でも思想でもその他の人文科学でもなく、文学とはそもそも「たった一人」でしかあり得ない人間の探究への要求から始まるものなのだ。
 私はそこに志賀直哉の「正直さ」と作家魂を見たい、と今は思う。


  補論

 人間はなぜ「死」を遠い先のこととして考えるか。『城の崎にて』をどう読むかを離れて、この問題を考えて見たかった。
 たぶん、
 ①死は怖いから、死について考えることから逃避したいから。
 という答は間違っていないし、そこを出発点として押さえれば、配布したプリントにあったラ・ロシュフコーの「太陽と死は直視することはできない」の引用に始まる、
 ②人間は自分の死の可能性に直面できず、それをみなで(共同で)隠蔽しようとするから。
 という件りもそれほど理解は困難でないように思う。
 ところで今回、まったく別の解答もあり得るかも知れないと考えた。それは、この作品に入る前に読んだ内山節の『時間の自由』による。それは、
 ③人間は「今」という時間を生きているから。「私たちは不思議なことに、人間には寿命があることを知っているのに、傍らでは、永遠の生を得ているとでもいうような感覚を抱いている」から。
 というものである。とすれば、人間が死を「遠い」ものとして日常を送っていることを、「頽落」などといって非難するのはまったく当たらないことになるだろう。
 「この中に自分は絶対死なないと思っている人間が一人二人はいるだろう。」と教室で何人かをからかってみたが、けっこう本気だった。
 こんなふうに脱線ばかりしているから、桜井現代文は「何が要点だか、さっぱり分からん。」という不評を受けることになるのだろう。日々、反省はしているのである。

[注]最初にプリントを配布したとき、椎名麟三のキリスト教入信について「カソリック」としてしまいましたが、その後再読してみると「プロテスタント」の誤りでした。訂正いたしました。
by yassall | 2011-03-04 13:01 | 国語・国文 | Comments(0)

教材論 中島敦「山月記」

 『山月記』小論
     李徴の青春性・その野望と挫折

  一 「狂」と「狷」

 『山月記』を作品として成立させている根底にあるものは文体の力、つきつめていけば漢字の力ではないだろうか。
 どこまでが『人虎伝』で、どこからが『山月記』かは問わぬとして、この漢文体なくしてこの格調、この悲劇性は表現され得なかったに違いない。
 李徴の人物像を読み解く鍵を「狂」と「狷」としてみよう。李徴は「性、狷介」にして、「狂疾」によって異物となり果てたという。「狂」は自らの枠を外れて広がっていく力、「狷」は自らを枠に閉じ籠め、堅守しようとする力である。
 容易に人と相容れない狷介さと、自ら恃むところ厚く、死後百年に名を残そうとする(今生を生きるに満足せず!)李徴は、まさに「狂」と「狷」という二つのベクトルによって突き動かされていく。自らの「狷」に従って人との交わりを絶ち、自らの「狂」に従ってひたすら詩作にふける。
 しかし、狂おしくも過剰なまでの情動は、李徴の制御し得るところではなく、李徴本人を溢れ出ては空転し、やがては破滅の淵へと導く。
 それでは「狂」と「狷」とは、己の人生を狂わせるまでに凶暴で、取るに足りない、人間性として否定すべき性格の偏りなのだろうか。
 孔子は「狂」と「狷」をどうみていたのだろうか。『論語』には次のようにある。

 「子曰く、中行を得て之に與せずんば、必ずや狂狷か。狂者は進みて取り、狷者は為さざる所有るなり。」(「子路」)
  (孔子言う、わしは中道を行いうる人を得て、これと事をともにしたいと思うが、中庸の徳を備え得た人物は、なかなか得られないとすれば、わしはやむなく狂者・狷者を得て、これと事をともにしたい。狂者は進んで善を行おうとする気魄があり、狷者は断固として不善をなさぬという節操があるからである。)
 /(『新釈漢文大系「論語」』明治書院)

 中庸を理想とする孔子は、しかし「狂狷」を愛しもしていた。それは孔子の深い人間理解と愛情から発しているように思われる。
 「狷」は偏屈にして不本意な生を拒否しようとする潔癖であり、「狂」は放埒にして自らの極限にまでも登りつめようとする生の衝動である。
 『山月記』は人間の性としての「狂狷」に対する愛おしみから始まっている。そう思ったとき、私は『山月記』が読めたと思ったのである。

  二 「懼れ」と「嘆き」

 「憤悶」と「慙恚」に苦しむ李徴は己の運命と出会う。「闇の中からしきりに自分を招く」声を追って走り出した李徴は虎への変身をとげる。
 人間であったとき、李徴は「怏々として」楽しまなかったという。「怏」とは頭を押さえつけられて憂鬱なさまである。
 「何か身体じゅうに力が充ち満ちたような」感覚は、しかし、抑圧された自我が何かのきっかけで解放されていく、その躍動感にどこか似てはいないだろうか。
 孤高にして誇り高く、人を近づけない強烈な自我を持て余しているかの李徴の化身として、虎はいかにもふさわしい。
 だが、むろん李徴は虎に昇華したのではなかった。李徴の「懼れ」とは、己が出会った運命が、あまねく生きとし生けるものたちに背負わされた「さだめ」であることの、痛烈な発見であったのである。

 「わからぬ。全く何事も我々にはわからぬ。 理由もわからずに押しつけられたものをおとなしく受け取って、理由もわからずにいきてゆくのが、我々生き物のさだめだ。」

 と李徴が語ったとき、人虎譚の怪異を超えて、誰しもが人間存在の真理の一面を言い当てられたような思いになりはしなかっただろうか。
 「好事魔多し」ということわざがある。順調に事が運びそうなときに、思いがけず障害物が発生する、の意であるが、例えば人生の働き盛りに不意の病に襲われたりしたとき、私たちは人生の不条理を嘆いたりする。
 だが、そもそも自分が生きている時代も土地も、自分が選んで生まれ出てきたわけではない。だとすれば、人間存在の不条理性とは、何も不当な運命に立ち至ったときばかりでなく、この世に生を受けた瞬間から始まるものなのだ。
 そして、李徴はただそのようにして、人間の真実と出会ったことに止まったのではない。
 かつて実存主義者たちは、人間はそのように世界に「投げ出された」存在である、しかし、だからこそ、人間は未来に向かって自己を「投企」していく存在なのだ、とした。
 人間はその不条理を抱えつつ、一回限りの生を生きるしかないのだという真理を通して、李徴は己の「嘆き」と出会うのである。

  三 「慟哭」と「咆哮」

 李徴の「嘆き」とはもちろん「胸を灼かれるような悔い」に他ならない。李徴は己の「臆病な自尊心」を悔い、「尊大な羞恥心」を悔いる。
 しかし、私は「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」の中に李徴の人格的な欠陥をみようとは思わない。むしろ、鼻持ちならぬ自尊心の固まりのようであったかの李徴の内心に、感じやすく、傷つきやすい、詩人の魂が潜んでいたことをみたいと思う。
 李徴は「俗悪な大官」の前に膝を屈することを潔しとしなかった。俗世の立身出世、そのための権謀うずまく官僚社会を嫌い、故山に帰臥しようとする李徴に、超俗に生きようとする志操をみることは出来ないだろうか。
 もちろん、自分の詩集が「長安風流人士の机の上に置かれているさま」を夢に見る李徴に、ある種の野心とエリート意識がなかったとはいえない。しかし、そこに名声に対する欲望をだけみようとすることは、却って解釈する側の通俗性を露呈することになるだろう。虎となり果ててまでも、「一部なりとも後代に伝えないでは、死んでも死にきれない」ほどの執着は、単なる功名心からは生まれようもない。
 だが、「人間であったとき、おれの傷つきやすい内心をだれも理解してくれなかった」と告白する李徴は、その志と野望を貫徹するにはあまりにも繊細であり過ぎた。
 李徴のいう「卑怯な危惧」や「刻苦をいとう怠惰」を誰が責めることができるというのだろうか。この卑怯者め!この怠け者め!は李徴が己を責め苛む声ではあり得ても、他からの断罪ではあり得まい。
 それは、もう取り返しようもない、失われた己の人生に対する愛惜の念から発するものには違いあるまい。しかしそれは、己一人を恃み、自らの運命に立ち向かった者のみに許された嘆きの言葉であった。
 李徴の嘆きはその存在の深部から発する「慟哭」となり、李徴の怒りはその存在を揺るがす「咆哮」となった。

  四 アイロニー

 アイロニー(irony)はシュレーゲルを中心とするドイツロマン派の用語であった(ドイツ語読みではイロニーとなる)。
 私が大学時代に選択したゼミは日本浪曼派をとりあげたものだった。今にして思えば、なぜあんな厄介なものに手を染めてしまったのかとの思いが残るが、日本浪曼派はドイツロマン派にもっとも強く影響されたとされているから、アイロニーとは何かについてもよく考えた。
 しかし、正直に告白すれば、「一方で対象に没入しつつ、他方でそれに距離をとって皮肉に見ることにより、自我をあらゆる制約から解放する態度」などとあっても、少しも理解できなかった。
 私がアイロニーという言葉を多少とも理解できたと思ったのは、つい最近のことである。それは、村上春樹の『海辺のカフカ』を読んでいたときのことである。

 「人が運命を選ぶのではなく、運命が人を選ぶ。それがギリシャ悲劇の根本にある世界観だ。そしてその悲劇性は  アリストテレスが定義していることだけど  皮肉なことに当事者の欠点によってというよりは、むしろ美点を梃子にしてもたらされる。」
 「人はその欠点によってではなく、その美質によってより大きな悲劇の中にひきずりこまれていく。」
 「オイディプス王の場合、怠惰とか愚鈍さによってではなく、その勇敢さと正直さによってまさに彼の悲劇名もたらされる。そこに不可避的にアイロニーが生まれる。」
 「しかしながらアイロニーが人を深め、大きくする。それがより高い次元の救いへの入口になる。そこに普遍的な希望を見いだすこともできる。」(村上春樹『海辺のカフカ』より)

 このアイロニーを『山月記』のキーワードとすることは可能か。
 李徴は「才の非凡」なるが故に、賤吏に甘んじ得ず、詩人を志した。孤高であったが故に、師につき、詩友と交わることが出来なかった。人一倍傷つきやすく、繊細な心の持ち主であったから、破滅への道を歩まざるを得なかった。そして果敢にも己の運命に立ち向かったからこそ、そのたたかいに挫折したとき、虎となり果てた。
 アイロニーは、しかし、『山月記』一編を読み解く鍵であるばかりではあるまい。アイロニーでしか描くことが出来ない人間の運命、その運命に翻弄される人間存在のありさま、希望と落胆、痛恨と歓喜、そしてその一瞬の生命の輝き…。文学の存在理由とはまさしくその一点に尽きるのではないだろうか。

  五 已矣乎(やんぬるかな)

 「已んぬるかな
  形を宇内に寓すること復た幾時ぞ」
        (陶淵明『帰去来辞』)

 『山月記』は青春文学である、というのが近年になって私がたどり着いた境地である。
 若い頃はもっぱら「人間存在の不条理性」がキーワードだった。人間存在の不安定さ、そこに生じる不安…。それらを指摘すれば『山月記』の読解は終わりだった。
 しかし、そんなことはむしろごく当然のことであって、何もことさらに指摘するまでもないと思うようになったとき、私はそのような読み方ではまったく不足していることを思い知った。
 人間はたった一度きりの人生を生きる、そしてその人生はいつ断ち切られるものであるかも分からない(形を宇内に寓すること復た幾時ぞ!)。だとすれば、「人間の価値は何を為したかではなく、何を為そうとしたかである」といったある作家の警句は、誰しもが座右としなくてはならない言葉ではないのか。
 李徴は己の野望に生きようとした。それが挫折に終わったとしても、どうして李徴の生が無価値であったといえよう。

 「人々はもはや、事の奇異を忘れ、粛然として、この詩人の薄幸を嘆じた。」

 古代ギリシャ悲劇の脇役達は、実は観客に代わって悲劇の英雄を讃え、その不運を悲しむものであるという。この一節はそれに通じてはいまいか。
 『山月記』は、天才にあこがれ、己の命を燃焼し尽くすものを求めて止まなかった李徴を讃え、その青春の終わりを愛惜するために描かれたのだと思うのである。

  六 李徴の家族

 李徴は自己中心主義者であったのだろうか。彼は、「妻子の衣食のためについに節を屈して」詩人の道を断念し、自らの狂気が「妻子を苦しめ」たことを痛切に後悔し、旧友との別れに当たって「我が妻子」の身の上を哀願する。

 「飢え凍えようとする妻子のことよりも、己の乏しい詩業のほうを気にかけているような 男だから、こんな獣に身を堕とすのだ。」

 
 私は、このような逆説をまともに受け取っていては、小説はとうてい読めないものと思っている。(作者自身が「自嘲的な調子」でと断っているではないか!)
 文学は倫理学ではない。倫理学が「人はかくあるべし」を述べるならば、文学は「人はかくあるしかなかった」を描くのである。
 文学を道徳的解釈から解き放ってみれば、むしろ李徴は不器用にも己が妻子を愛し、その行く末を案ずる心優しき一面を持ち合わせていたと知れるのである。
 そして、そのように読み取ったとき、初めて李徴の苦しみが人間の苦悩であり、李徴が求めて止まなかったものが人間の希望であることが理解できるのである。

 「人間は人間の働きをしてみて、初めて人間 の苦悩を知る。」(サン=テグジュペリ)

 のだから。
by yassall | 2011-03-03 12:58 | 国語・国文 | Comments(0)

教材論 中島敦「山月記」再論

『山月記』再び
     ---「語り」そして「共感」
                

 三年前、「山月記」を授業でをとりあげるのもこれで最後というとき、私は「『山月記』小論」を書きました。それは、私にとっての「山月記」読解の集大成のつもりでした。
 私はプリントをその年に担当した生徒たちと、たまたまその年に職場を共にすることになった国語科を中心とする何人かの先生方に配布しました。そして、それはそれきりでよいと思ったのです。
 それが今回、はからずも教壇に復帰する機会を得て、私は補論を試みようと思い立ちました。
  *
 前回はアイロニーをキーワードに小論を試みました。今回のキーワードは「語り」と「共感」です。ハイデガーは言語について次のように述べています。

 「言語の実存論的・存在論的基礎は語りである。」(『存在と時間』)

 ハイデガーと言えば「世界内存在」ですが、世界の「内」に住まうということは、世界の内で、他の人々と「共」にある(=存在)ということであり、人間がそのような「共存在」であることで初めて「語り」が可能になるというのです。「世界内存在」は決して単独者ではありません。現れ出た「場」の「内」にある「内存在」であると同時に、「共存在」であることで言語は成立しているのです。「うう、寒い!」と発話したとき、それはただの一人言ではなく、そばに人がいるいないにかかわらず、誰かに共感を求めているのです。
  *
 「山月記」では、袁傪との思いがけない再会から李徴の「語り」が始まります。
 授業では「袁傪の役割は何だろうか」という発問をしました。
 小説の中で袁傪は、ときに李徴に対する批評家であり、詩の伝録と残された家族の庇護を約束することで李徴の心残りを解消する役目を担うのですが、全体としてみれば、ほとんどの場面で一方的な聞き手として終始しています。(李徴に対するささやかな批評ですら、直接的な言葉として発せられることはありません。)
 それでは袁傪は、あたかもボイスレコーダーの前に据え付けられたマイクのごとき存在であるのか、といえば、決してそうではないと思うのです。

 「虎は、あわや袁傪に躍りかかるかと見えたが、たちまち身を翻して、もとの草むらに隠れた。草むらの中から人間の声で「危ないところだった。」と繰り返しつぶやくのが聞こえた。」

 袁傪に襲いかかろうとした瞬間に、李徴の心の中で「人間」が目覚めます。袁傪はまず、李徴に自らが「共存在」であることの自覚を激しく促す役割を果たしているのです。そして、それまで誰にも語られることのなかった李徴の「物語」が始まります。
  *
 対立と葛藤は物語の必須の要素です。「山月記」にも、栄光と挫折、野心と処世、才知と天運、熱狂と沈着、矜恃と慚愧、人間性と獣性といった対立が幾重にも折り重ねられ、読む者をその世界に引き込んでいきます。
 そして、それまで「狂悖」の振る舞いに隠されて来た李徴の「傷つきやすい内心」が明かされることで、これもまた物語の成立のための必須要素である、クライマックスを迎えます。

 
 「虎は、すでに白く光を失った月を仰いで、二声三声咆哮したかと思うと、また、もとの草むらに躍り入って、再びその姿を見なかった。」

 この後、李徴はどうしたのでしょうか。その後も虎となって獲物を捕らえては裂き喰らい、また旅人に襲いかかっては殺戮を繰り返したのでしょうか。私にはそうは思えません。そのような想像を巡らすことは困難です。
 物語が完結するということはどういうことか。李徴の苦悩もここに完結し、永遠の安息を迎えたのでなければならない。私はそう思うのです。
  *
 人間はなぜ「物語」を語るのでしょうか。柳田邦男はユングの所説を引きながら、次のように述べています。

 「科学者は、因果律という狭い枠組みの中で、出来事の総合関係を見るのに対し、ユングは出来事を全体論的(ホリスティック)に見ようとした。そういう遊具の発想を象徴的に示すのは、コンステレーション(星座)という見方である。天にきらめく無数の星は、ただ見ているだけでは何の意味も持たないが、古代人はいくつかの星をつないで、双子座やオリオン座や獅子座などを描いて、物語を創り、一つ一つの星に意味を持たせた。ユングは、それと同じように、人間が人生において出会う様々な出来事を、それぞれに意味あることとしてつなぎ合わせ、その人なりの物語を創るという方法で、精神的に葛藤を起こしている人の心の中を整理して治療に役立てた。」(「『死の医学』への日記」)

 ユングのややもすると神秘的・神話的な方法が、今日の精神医学にどの程度通用しているのかは知りません。
 ただ、文学とは何か、という問いに対するひとつの回答たり得ているのではないか、と思い、私はこの一節をノートに書き写しておいたのでした。
 李徴の人生は狂わされた人生、あちこちと衝突しては、躓(つまず)き、挫折し、暴走の果てに破滅していった人生、一言でいえば無意味に終わってしまった人生でした。
 李徴の「語り」はその李徴の人生にもう一度意味を見いだし、「物語」という秩序を与えたのです。もちろん、それは悲劇という「物語」においてですが…。

 「人々はもはや、事の奇異を忘れ、粛然として、この詩人の薄幸を嘆じた。」

 前のときも引用したこの一節を新たな目で見いだしたとき、私は本当に身震いするような思いにとらわれたのでした。それは、あたかも一幕の古代劇を目の当たりにしているような思いでした。
  *
 もう一度「共存在」の問題に立ち返ってみましょう。
 「語り」とは決して人から人へ「伝わる」ということのみに止まるのではない、というのがここでの趣旨です。
 「語り」が「共存在」という場面で行われるのであれば、そこには必ず「共感」が伴っているはずだ、と私は考えたのです。
 
 「嗤ってくれ。詩人になりそこなって虎になった哀れな男を。(袁傪は昔の青年李徴の自嘲癖を思い出しながら、哀しく聞いていた。)」

 李徴の身をよじるほどの哀切な訴えの奥に、袁傪は悲しい自嘲癖を感じ取ります。
 袁傪は、もしかすると李徴自身も気づかなかった、隠された心の窓を開けることの出来る存在であったのかも知れません。そしてそのとき、袁傪自身もまた奥深いところで李徴の嘆きに共振しているのです。
 なぜ袁傪との再会から李徴の「語り」が始まるのか、それは袁傪こそが李徴に共鳴し「共感」し得る存在であったからではないのか、ということなのです。そして、袁傪との永遠の別れをもって、「物語」も結末を迎えるのです。
  *
 文学とは何か、文学とはこのように魂を激しく共鳴させるもの、そして文学を読む力とはまさしく「共感」する力である…。この認識が、今回私が「山月記」の再論を試みた動機です。
 「山月記」は青春文学である、と前に書きました。青春時代のまっただ中にある諸君の心を「山月記」は揺さぶるはずだし、そうあって欲しいと私は思っています。
 人間はただ一度の人生を生きるもの、その人生の入口に初めて立った者たちに、「山月記」は人間の運命をかいま見させ、なおかつ、その運命に立ち向かう勇気を奮い起こさせる文学なのです。「よし、ならば私も生きてやるぞ。」と。
  *
(もしや将来、自分が絶望の淵に立つことがあっても、きっとこの小説が救いになってくれるぞ、と。)

 補論の補足
(1)ハイデガーの『存在と時間』という書物の存在を知ったのは、私が高校生のころでした。
 それ以来、ずっと気になっているのですが、とても私の歯の立つしろものではありませんでした。ですから私のハイデガー理解はほぼ様々な人々による解説書によっています。
 そして、それらの解説書が「内存在」の本質的契機としてあげているのが、①情状性、②了解、③語りの三つです。
 このうち、「情状性」についてほんの少し分かりかけたというのも、今回の教壇への復帰がきっかけでした。それは西研の「考える楽しみ」を再読したことによるものでした。(結局、私は途中出場でしたので、授業で「考える楽しみ」をとりあげることはなかったのですが。)
 さて、西研は「考える」ことの出発点について次のように書いています。

 「人が物事を深く考え始めるのは、多くは『不安』からだ。それまでの生き方が息苦しく感 じられてきて、しだいに何を信じてよいかわからなくなったりしたときのように。」

 竹田青嗣は「情状性」は「気分」と読み替えてよいと言っています。(『ハイデガー入門』)そうするとぐっと分かりやすくなってきます。
 つまり、私たちが何かの拍子に、ある「気分」に襲われる。それは、そわそわ感や、いらいら感だったりする。ときには空しさや嘆きのような感情と共にあるかも知れない。…
 そんなときは、私たちは自分をとりまく世界や、あるいは自分自身に対して何らかの違和感を感じます。そして、違和感とは、その対象に対して感じられる距離感でもあります。
 私は、きっとこの距離感こそが対象を対象化することを可能にする(対象が自分自身であれば、即自存在を離れて、対自存在であることを可能にする)条件をもたらすものであるように思うのです。
 ※ここは対象化という方法によるのではなく、瞬時に・全体をとらえる・直観という方法によっている、とみるべきかも知れません。しかし、直観のおとずれは瞬間であったとしても、やはりそれは「現存在」の場面で、平たくいえば「経験」を離れては成り立ち得ないものであると考えますし、また直観が得られた後も、観察され、検証されていかざるを得ないものであると考えます。
 西研はそうした「自分の中の感覚」、「自分の内側から聞こえてきた問いかけ」に耳を澄ますことからしか出発することは出来ず、それを脇に置いて答えを見つけようとしてはならないと述べています。
 西研はニーチェ研究から始まった人だそうで、ハイデガーと直接結びつくかどうかは分かりませんが、私はなぜハイデガーが「気分」の問題から哲学を始めようとしたのか、その理由が分かったような気がしました。
 また、ハイデガーは自らは「私は実存主義者ではない」としたそうですが、後年、実存主義者たちがその哲学的起源をハイデガーに求めようとした理由も分かったように思ったのです。
 最初の出発点を、人間の「理性」にではなく、「気分」に置こうというのは、「現」(今ここに・現れて・存在している)に生きている実存から問題を考えようとする態度に他ならないからです。
(2)ハイデガーには難問があります。それはハイデガーがナチスへの加担者であったという事実です。その汚点を越えた哲学的業績があるのだという立場に立つ人と、その両者は思想的に固く結びついているのだという立場に立つ人との論争は、いまだに決着がついていないようなのです。
 それゆえ、私自身がこうしてハイデガーを教室にもちこむことに、実はためらいを持っています。
 しかし、そうした問題点の存在をきちんと指摘した上で、それもまた、これからの思索を深めていくための材料としていきたいと思うのです。
 最近、ヨーロッパでは極左と極右の台頭が著しいといわれています。私からすると左の方は極左と呼ぶほどのものではないのですが、右の方は明らかにネオ・ナチズムとしての傾向をもち、また暴力的な要素も強まっているように見えます。
 時代閉塞の状況下では、こうした傾向は世界のどこででも、つまり日本においても出現する可能性があります。
 このとき誰もが、私たち自身もが、ナチズムにとらえられ、その加担者となる危険性を有していることを、私たちは学び、そして警戒しなくてはならないと思います。
(3) 最後に。人間にとって「物語」るとは何か、について考えて来ました。人間は「物語」によって自分の人生に意味を与える存在なのだ、と。だが、矛盾を覚悟するなら、少なくともそんなに簡単には、自分を「物語」にしてはならないのだ、と私は言わなくてはならないのです。
 「山月記」にもどれば、李徴にもまた、誰からも理解されない「傷つきやすい内心」を抱えて沈黙を守り続けた半生がありました。
 「自己」は語るに値するのか否か、その問いの前に立ったときの緊張感なくして、ただ冗漫に自己を語ることがあったら、(もう一度ハイデガーの言葉を借りるなら)、それもまた「頽落(たいらく)」でしかないと思うのです。私はあるときからそのように考えて来ました。

2012.6
by yassall | 2011-03-02 12:54 | 国語・国文 | Comments(2)

教材論 夏目漱石「こころ」

『こころ』断章


  一 灰とダイアモンド

 「灰も昏迷もすべて燃えるものより残されたることを、或いはまた、その灰の底にダイアモンドが横たわり、とこしえの勝利の暁に輝く星のごとく輝けるを。」
  一九五八年に公開されたA・ワイダの『灰とダイアモンド』の題名の由来となったのは、映画中でも引用されるポーランドの詩人ノルウィドの右のような断章による。
 夏目漱石の『こころ』について語ろうとするのに、このような突飛な連想から始めるのは少々気が引けるのであるが、もしかしたら作品の謎を解く鍵がここに隠されているのではないかと突然思い当たったのである。
 漱石は、なぜ「K」や「先生」を自殺させたのだろうか。人間のエゴイズムを究極にまで突き詰めていった結果だろうか。その罪に対する厳格さだろうか。では、それは何のために。
 久しぶりに『こころ』を読んでみて、またまた頭を悩ませていたとき、ふと漱石は滅びゆくものを描きたかったのではないか、否、滅びゆくというよりもっと激しく、紅蓮の炎に身を投ずることによって、灰の中に残るダイアモンドをすくい上げたかったのではないか、という考えに思い至ったのである。
 そうすると、今までどこか無理矢理なものを感じてきた次のような一節も、不思議に納得がいくように思えてくる。
 「私は今自分で自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に浴びせかけようとしているのです。私の鼓動が停まった時、あなたの胸に新しい命が宿る事が出来るなら満足です。」(下二)
 それでは滅びゆくものとしての自己認識には、いったいどのような心性が作用していたのだろうか。自己裁断だろうか、愛惜だろうか。
 漱石を襲った自死への衝動とは何だったのだろうか。自己のあり様への違和感か、それとも己が生きた時代への。あるいはその両方なのか。
 漱石が次世代に託そうとしたものは何か。それがあるとすれば、『こころ』は漱石の絶望の表白ではなく、人間への希望の言志だったのだろうか。
 だが、それらを考える前に、もう少し回り道をしてみたい。

 二 永遠なるもの

 「先生」の「お嬢さん」に対する愛は本当に愛といってよいものなのだろうか、ということがよく問題にされる。それはお互いの人格の尊重にもとづく近代的な意味での恋愛とはほど遠い、偶像崇拝とでもいうべきものだったのではないだろうか、という問題である。
 そのような観点で次のような一節を読むと、まるで「先生」自身がそのことを告白しているかのようである。
 「私はその人に対して、殆んど信仰に近い愛 をもっていたのです。私が宗教だけに用いるこの言葉を、若い女に応用するのを見て、貴方は変に思うかも知れませんが、私は今でも固く信じているのです。本当の愛は宗教心とそう違ったものではないという事を固く信じているのです。」(下十四)
 もちろん女性にしてみれば、自分が偶像として崇拝されることは耐え難い苦痛であろう。なぜなら、相手は自分をではなく、相手本人の頭の中の観念を愛しているに過ぎないのだから。もしかすると、そこに自己愛や女性蔑視の臭いすら感じ取るかも知れない。
 そうした批判が的中しているかどうかは別の問題として、確かに漱石の女性観がここに表れている、少なくとも若き日の女性への憧れ(「世の中にある美しいものの代表者として、始めて女を見ることが出来た」下七)がそのまま保たれようとしているように思われる。
 それは『夢十夜』「第一夜」の、「百年、私の墓の傍に待っていて下さい。」といって死んでいった女が「真っ白な百合」となって甦るのをじっと待ち続ける男の姿とも共通している。
 「死にますとも、といいながら、女はぱっちりと眼を開けた。大きな潤いのある眼で、長い睫に包まれた中は、ただ一面に真っ黒であった。」
 このような女性美の描き方は、まったく傾向を異にする川端康成の『眠れる美女』や『片腕』を連想させる。ただ、川端が官能的な幻想性に優れるのに対して、漱石は精神性において勝っている。そのことで危うくフェチシズムを免れている。その精神性とは「百年」を超えようとする意志であり、永遠なるものへの憧憬に他ならない。
 しかし、永遠とはついに人間が手にすることが不可能であるもの、とすれば漱石の愛とは、予め失われているものへの渇望に近かったことになる。

 三 「私」の中の他者

 『夢十夜』を読むと漱石は詩人であったと思う。『こころ』の根底のどこかにも詩人漱石が隠れていると思う。
 しかし、近代小説とは、そのような個的な夢幻世界に完結するのではなく、人間をその関係の中で捉えることに本質がある。『夢十夜』では詩人であった漱石は、『こころ』では小説家漱石である。
 「K」と「私(=先生)」は親友同士であった。だから「K」が傷つき、困窮しているとき、「私(=先生)」は同居をすすめる。それでは「K」と「私(=先生)」は一体であり得たかといえば答は否であった。むしろ一つ屋根の下にあることによって、「私(=先生)」は互いがまったくの他者であることに気づくのである。その他者性を象徴するのが二人の部屋の間を仕切る「襖」の存在である。
 「そこで時々目を上げて、襖を眺めました。 しかしその襖はいつまでたっても開きません。 そうしてKは永久に静かなのです。」(下三十 七)
 もちろん「襖」は二人を仕切るものであると同時に、二人を結びつけるものでもあろう。しかし、その最期に臨んで「襖」を開けて「私(=先生)」の部屋をのぞき込んだらしい「K」にしても、ついに再び自分の胸中を他人に開くことはなかった。
 〈個〉として自立しようとする限り、近代人はその孤独に耐えなければならない。それは漱石の文学者としての一生涯のテーマであったように思われる。
 「私は今より一層淋しい未来の私を我慢する代わりに、淋しい今の私を我慢したいのです。自由と独立と己れとに充ちた現代に生まれた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味あわなくてはならないでしょう。」(下十四)
 そして、人間は自分の外に他者を見いだしただけでなく、内なる自分の中に他者を発見してゆく。「私(=先生)」はいつ自分の中に「正直な道を歩くつもりで、つい足を滑らせたばか者」(下四十七)が潜んでいることに気づき得ただろうか。
 このように『こころ』を読み解いていくと、やはり漱石は、明治という時代にあって日本人が初めて出会った近代と格闘した、最初の人間だったのだと思ってしまう。
 しかし、それでは漱石は日本で最初の近代人であったかといえば、それは違うように思うのである。むしろ、時代への違和の中で、もっとも苦悶したのが漱石ではなかったのか。
 そうした視点に立ってみると、「K」も「私(=先生)」もまったく別様の存在として浮かび上がってくる。それらは二人ながらにして漱石の分身なのである。

 四 厭世主義者漱石

 先に「漱石を襲った自死への衝動」と書いた。私は何も漱石を無理矢理に破滅型作家の仲間入りをさせようというのではない。また、いたずらに作家自身と作中人物とを同一視しようとしているのでもない。
 しかし次のような述懐に接してみると、漱石自身もまた激しく破滅への傾斜に誘われることが、人生のある時期に確かにあったのではないかと思われるのである。(そして、多くの場合と同じように、それは病的な要因であるのでなければ、むしろ己の人生に求めるものが人一倍過剰であったことの証である。)
 「此頃は何となく浮世がいやになりどう考え 直してもいやでいやで立ち切れず去りとて自殺する程の勇気もなきは矢張り人間らしき所が幾分かあるせいならんか」(明治二十三年八月)
 「僕前年も厭世主義今年もまだ厭世主義なり」 (明治二十四年十二月)
 これらはいずれも学生時代に正岡子規に宛てた書簡である。初め二松学舎に学んだ漱石は、その素養を漢学に養った。しかし子規と出会った東大では英文科に進んだ。それは明治近代に生きて、新しい時代に生きる道を探し求めようとしたからに違いない。しかし、後年「自己本位」の立場に目覚めるまで、「ついに文学は解らずじまい」と嘆じたように、この時期の漱石は、迷い込んだ迷路からの出口が見つからない状態だった。
 養子先から夏目家に復籍したのは東大入学二年前であったが、実家に帰ってからも冷遇が続いていた。日本帝国憲法の発布はその翌年であったが、ちょうどその頃から日本は明治当初の欧化主義から国家主義・国粋主義的傾向へ急激な転換をとげていく。
 自分の確たる進路を見いだせず、家庭の中にも安住を求められず、また世と相容れない自己を抱え込んでしまった、孤立無援の中で呻吟する漱石がここにいる。
 こうしてみると、まずは青年「K」の中に若き日の漱石が投影されていると見ることは決して的はずれなことではあるまい。高い理想を掲げ、その理想を追求しながら、それは「K」自身を孤独に追いやることでしかなかった。その生き方は結局「時勢遅れ」(下五十五)であり、誰からも理解されることはなかった。そればかりか、初めて心を奪われた意中の相手から、その愛を獲得することは叶わなかった。「K」が深い絶望の淵にいたことは間違いない。

 五 「明治の精神」への疑問

 それでは「先生」はどうだったか。もしかすると、「K」以上に底深い人間不信と絶望を抱えながら明治という時代を生きざるを得なかった「先生」という人物造形にもまた、漱石の影が落とされているように思うのである。
 国家レベルでの「富国強兵」は、個人レベルでは「立身出世」という価値意識としてあらわれる。「末は博士か大臣か」的価値意識を一概に俗物として排することはできない。少なくとも、それは封建的な身分制度から脱却して初めて可能なのであるから。
 しかし、「先生」はその明治にあって社会参加をしようとはしない。自分の学問を国家に生かそうとはしない。「高等遊民」を自称する『それから』の長井代助ともども、漱石の主人公たちは明治国家に与しようとしない。(そういえば「先生」がどのような学問をし読書をしたかは明らかにされていないが、そもそも「富国強兵」「殖産興業」に役立つようなものではなかったように思われる(福沢諭吉いうところの実学に対する虚学!)。その「先生」の学問に惹かれたという「上」に登場するところの「私(=青年)」に、新しい時代の希望を託そうとしていることに注意を払いたい。)
 このようにしてみると、「先生」の自殺の動機とされた「明治の精神」への殉死なるものも、これをもって、漱石が明治日本を礼賛していたのだなどと軽々しくみることは出来ない。「先生」を最も激しく動揺させたのは乃木希典の殉死の報であるが、その乃木からして、その精神性の根は、「明治の精神」というよりは、旧時代の武士道にこそあったのではないだろうか。(加藤周一『日本人の死生観』岩波新書)
 漱石には、どこか明治という時代にそっぽを向いたところがあるのではないか、と思えてならないのである。

 六 思想家漱石と文学者漱石

 漱石には文学者としての一面と、思想家としての一面がある。それでは『こころ』を執筆していたころ、漱石の思想はどのような到達点に至っていたのだろうか。それは二つの講演、『現代日本の開化』(明治四十四)と『私の個人主義』(大正三)によって知ることができる。
 『現代日本の開化』は大逆事件(それは日韓併合の年でもある)の翌年に行われた。漱石は日本の「開化」(=近代化)は「外発的」であるとして、「日露戦争以降、世界の一等国の仲間入りをした」かのような世相を批判した。
 まさに『こころ』の執筆と同時進行的に行われた『私の個人主義』では、そうしたあり方への反省に立って、借り物でない、「自己本位」であることの重要性を説いている。
 それにしても学習院の学生に向かって、「あなた方のうちには権力を用い得る人があり、また金力を用い得る人がたくさんある」ことを指摘し、こう諭す漱石が見据えていたものは何だったのだろう。
 「もし人格がないものがむやみに個性を発展しようとすると、他を妨害する、権力を用いようとすると、濫用に流れる、金力を使おうとすれば、社会の腐敗をもたらす」
 深刻な格差が放置され、派遣労働者の大量解雇がまかり通るなか、企業の社会的責任がとりざたされたのはつい昨今のことである。漱石の射程はいかに長いものであったことか。
 そうしてみると、「そのころは覚醒とか新しい生活とかいう文字のまだない時分でした」(下四十三)という件にしても、漱石がどのような目で明治末年の日本を見つめていたかが推察されるのである。(「近ごろは自我とか自覚とか唱えていくら自分の勝手なまねをしてもかまわない符丁に使うようです。」!)
 もちろん、『私の個人主義』は前途ある青年たちに向けて、本当の自分らしさに目覚めること、その上で自分の進むべき道を見いだすことの大切さを訴えたものである。
漱石の立場は反近代ではない。真に「自由と独立と己れ」を確立すること、そしてそれにともなう責任主体を自らに引き受けること、それらは経済的自立だけでなく、内面的自我を深く掘り下げることによって達成できること。それらが個人レベルでの課題であるとすれば、国家レベルにおいては、物質的繁栄をとげるだけでなく、真に文化国家といえる内実を豊かに開花させること、旧道徳にかわる新しい倫理や社会規範を、人々の間から生まれ出、その生き方の指針となるまでに熟成させること。
 漱石が『こころ』を通して次世代に伝えたかったものとは、そのようなものではなかったのか。

 七 恋愛小説『こころ』

 少々、結論を急ぎ過ぎたかも知れない。私たちは思想家漱石をないがしろにしてはならないし、現代に生きるものこそ、真摯にその言葉に耳を傾けなくてはならない。
 しかし、文学者漱石がそのような結論にいたるためには、自分自身を切り刻み、その血しぶきを浴びざるを得なかった。明治という時代の中で失われていくもの、滅んでいくものの痛切な自覚の中で、それらが新しい生命をもって復活を遂げていくのを願わざるを得なかった。
 どうやらこのあたりが私が語りたかったことのおおよそらしい。
 人間は他者との関係の中で生きるとともに、時代(社会)との関係の中で生きる。
 言い残したことをいくつか書きたい。『こころ』は恋愛小説でいいのではないか、いつからかそのように考えるようになった。
 「恋愛は人世の秘鑰なり、恋愛ありて後人世あり、恋愛を抽き去りたらむには人生何の色味かあらむ」(『厭世詩家と女性』明治二十五)
 と書いたのは北村透谷であった。恋愛は自己の内面性の発見であり、また近代精神の所産である。「先生」は恋愛によって人生を棒に振った。それにはそれだけの価値があった。恋愛は明治近代に対置させうる。その思想は、ときに国権主義を内側から掘り崩す爆薬たりうる。
 『こころ』はまた人間の「罪」の物語である。なぜ人間は「罪」の意識にさいなまれるのであろうか。(漱石は『こころ』で人間のエゴイズムを描こうとした、というのは皮相な見方であると思う。少なくとも、そこに止まってはなるまい。そのエゴイズムがもたらした人間の「罪」をこそ、漱石は問うたではないのか。)そして、その「罪」から人間はいかにして救済されるのであろうか。
 もしかすると目下の私にとって、それは最大の関心事である。ただ、ここで始めると収拾がつかないことになってしまうだろう。日蓮宗・浄土真宗と挙げられた、宗教的な背景が問題を解いていく鍵になるかも知れない、とだけ言っておこう。
 『こころ』でいう「自然」とは何かという問題も提起のしっぱなしであった。ただ「良心」の問題にせよ、「先祖から譲られた迷信の塊」(下七)としての祖先信仰にせよ、それらは文字通りに「自然」に発生したものではないのではないか。人間の作り出した制度や文明を「第二の自然」と呼ぶことがあるように、それらもまた、長い歴史の中で培われ、まるで自然に呼吸するまでに至った、それぞれの文明や文化の生み出したものではなかったのか。そうであるからこそ、新しい文明や文化の波が押し寄せたとき、脆くも覆されてしまうことがあるのではないか。
 その意味でいうと、「故郷喪失」はやはり『こころ』を貫くテーマ、あるいは基調的なトーンであると思う。

 八 『こころ』を読む

 夏目漱石の『こころ』を読むことは、高校生にとって、一つの事件なのではないだろうか。そして私自身にとっても、いまだに事件であり続けているような気がする。
だから、今回については、私の『こころ』の授業の総決算、という訳にはいかなかった。再読するたびに新たな謎が生まれ、せいぜいその謎を提示してみせるばかりであった。題名を「『こころ』断章」とせざるを得なかった理由である。
 『こころ』を読み続けること、それは底深い魂の井戸から、新しい命の水を汲み上げることである。生徒諸君にとっても、この一冊が長く人生の相談相手となることを願っている。


※「明治の精神」覚え書きを書きました。あわせてお読みいただければ幸いです。[国語・国文]2014年5月12日

by yassall | 2011-03-01 12:51 | 国語・国文 | Comments(0)