カテゴリ:詩・詩人( 29 )

山下雅美詩集

 7月、鎌倉から帰って後、山下さんの詩作品をまとめてみた。とはいえ、学窓を共にした時期は1年間しかなかったから、入学時に手渡された部誌『白雉』に掲載されていた山下さん3年生以降の作からということになる。ただ、やはり『斜々路』創刊からの作品が完成度が高いから、(それ以前の作も揺籃期の混沌があって興味深いが)、山下さんも納得してくれるのではないだろうか?
 この投稿はご遺族たる奥様の同意を得て掲載している。元文芸部諸氏にあってはダウンロード(コピー&ペイスト)をするのは差し支えないと思うが、転載にあたっては著作権はご遺族にあることを踏まえていただきたい。また、ご遺族から不快であるとの意思表示があればただちに削除することになる。なお、漢字・送り仮名等は初出のままとした。(2017年8月15日)


  筺(こばこ)と形而上学


卒塔婆の間を
《存在》を考えながら歩いていると
墓地の中央に位置する
真新しい一本を軸にして
すべての卒塔婆が渦巻き状にうねり始め
鈍色の光を放つ
直方体の筺にと結晶しはじめたのである
私はその時
白く光る孟宗竹に掴まるのが
やっとであった。

未明の冷たさにまんじりともせず
《存在》を考えていた時
ふと脳裏を掠めた青い影を書き止めようと
鉛筆箱に手を伸ばすと
わなわなと音をたてながら
結晶する 結晶する
鉛色に重たい筺

その日以来
思考から抜け出た《存在》
イコール筺は
私を極度に苛立て
ついに筺の蓋をあけることに
私自身の《存在》意義を押しつけ始めたのである
そして私は
筺の中の原質イコール《存在》と
私の概念内の《存在》とが同じ
濃度になればその外形の一部をなす
筺の蓋は
ひとりでに開き
私の《存在》は明確になるとの
結論を出した赤い夏の一日が終わると
筺は
不気味に萎えて楕円形にかわり
その周囲には蠅が群がっていた
殺虫剤に汚れた手を蓋にかけると
いつの間にか直方体にかわっていた筺

霜が窓に磔にされた夜
喫茶店の扉を押し
まああるいテーブルの
そこにも出現した筺に対し
憑かれたように《存在》に関する
一方通行のダイアローグを繰り返すと
筺の鍵穴から冷ややかな囁きが
波紋のように
自己運動を始めたのである
『モウスコシダ
モウスコシシタラ
ボクミズカラ
フタヲアケル』
そこで突差に手を掛けると
いよいよ固く口を閉じた筺

その夜私は
ヒステリックな哄笑を繰り返した後
黄色いチョークで
筺にバッテンをつけ
ふくよかな恋人の胸に《存在》の
ノスタルジアを求めたのだ
嗚呼
アマリリス的まどろみの深淵
私の《造られた被支配者意識》は
一種の情念へと移行したのか
黄昏的意識の渦中
白昼夢的リアリティーの宇宙の縁で
爬虫類の腹部を引き裂く音をたてながら
蓋を開いた筺
しかしその悪魔的内部には
一回り小さな筺が
鋭く輝きながら鎮座し
《存在》の問いを待ちながら
ひっそりと微笑みかけていたのである。



  種子

紡錘形の雨
死んでいく呟き
瞳を突いて
尾骶骨の底からうねり出る疼きに
そっと触れる人差指
オキシフルの臭気がバスを停め
埼玉県大宮市の住宅街
一枚の風景画が燃え始める
早速
魚鱗やら恥毛やら乾パンの乾杯
飲み干す日々の響き
食道に差し込まれた火箸より
ぐっと冷えた濁酒
宴の後
バス停に注ぐ小便は
萎えた腎臓からはたはたと
日の丸のように落ちてくる
バラの棘の煎じ薬を
お袋の襦袢にくるんで
迎えにくることはないんだ親父
燃えながら続く螺旋階段までは
鱗を衡え泳いでいく
身を反らせた夜の陰部で
まどろみながら溶けていく
胃液の海へ
太陽虫の囁く死水の故郷へ
そして
苔むす恋人の乳房に埋まり
血まみれの空から降りてくる
銀針の光を殺しながら
吹き荒る風の中で
飛散した明日の種子を呼ぶ



  二月のめざめ

朝の光が
眠むる貝の横腹をえぐって
北国の時計台によじ登ると
化石化した木の葉のように固く
寝棺に押し込められていた僕の羞恥は
おずおずと咲き始める

屈折する夢と光の闇で
鋭角の風が
真赤な薔薇の首を切り
寓話的な死の床は
榛の実の砕ける眩惑と共に
墓碑ばかり輝く野へ
螺旋状に堕ちていく

振り向けば
両手を上げた僕の鳶色の脳髄目掛け
突き進んでくる最終列車
死んでいくのは
あどけない僕の過去と
小さくなるテールランプ

火口の淵に住む
石のむなしさで身をゆすり
くろぐろとあやうい夢の海辺で
青い空に絶叫を浴びせ
二月の銀針の冷気に刺されてめざめると
ビルディングの屋上から
血まみれの空から
ググッと近付いてくる



   〈家〉

徐々に大きくなる足音は
あなたに贈った赤い靴の響き
重い扉の前に立ち止まるあなたは
素早く団欒の匂いを扉の内に嗅ぎつけてしまったのだろうか
だがあなたよ
風の吹きまくる黄昏
時折り聞こえる物音は
あなたを決して待ってはいないのだ
それは
〈家〉から出ることのできぬ
傷ついた獣の叫び
すこしずつ毀れてゆく方解石の
冷たい響
且(ママ)つてわたしは
幾つもの空屋の
空疎な探索に疲れ
碧空を求めて出口を探したが
あなたが前にする扉は二度と開かなかった
それ故あなたよ
鈍色に輝く把手から手を離せ

「アナタニ アタシノ 意志ヲ マゲサセル
コトハ デキナイ アタシノ〈家〉 アナタ
ノ〈家〉

遠く雷の響
激しい獣の叫び

石膏の裸体を抱いて
わたしは今
一体どこを歩いているのだろう



  「斜々路」巻頭詩

  ーーーそれが又もや鈍色に輝く手錠であるとしても、僕にとっては
  極上の手錠でなければならないーーー   


まどろみの時を蹴って
ほのかにぬくもる湖の底を砕き
すでに朽ちかけた風車を回し
夜に封鎖された碧空を奪回するために
夕暮れの空を引き裂いて
どこまでも続く階段を建造する

ハンマーを打ちおろしながら
僕は
いつまでも笑い続け泣き続け
何もかも一人じめしていく

例えば
階段を構成する大理石の裂け目に
風媒花が真紅な花をつければ
切りきざみ
飲み下し
決して排泄せず
腹の狂い咲く刻を待つ
  ーーーかつて実感できぬ五番目の季節にまで積み上がる階段に、
  僕は〈斜々路〉の名を贈るーーー   



  化石化

開け放たれている窓辺に
塵埃が人知れずそそぐとき
幸福が写ってしまうから
落とすな 涙を フィルムに

誰にも知られず
風紋とともに
海辺に化石する意志は
朝食のサラダより鮮やかだが
すべての悲しみが
反り返った板のように傲慢なので
アタシは黙って家を出る

乳母車の破片を拾い集めたからといって
そそり立つ病葉に
身をすり寄せてはいけない
やさしさが心を占拠したら
海辺はずっと遠くなる
だからアタシはバスに乗る
炸裂する予感を
幾何学的に縁どるために

そして透明な溺死体アタシは
水平な時を抉って
あらゆる色彩のまっただなかへ
もんどりうって堕ちてゆく
海辺に化石する意志を
波頭のポーズで実現するために



  工作者達


工作者達の共有する
幻影の性が
拡大する空地で黒旗を振る

頭蓋形のステーションを結節点に
楕円状に連なる刻のレールを破壊し
震える肉と肉のあわいを
細長い塹壕として
白夜実現を謀り
夜と朝をつなぐ
三日月形の蒙渠を爆発する
 工作者達

〈工作者達のアジトを囲むのは
 今や影を失った獣達の叫びばかりだ〉


アジトでは
小さな円陣を組み
中央でわななき燃える孤独の焔に
鉄のザイルをかける工作者達
そして今
虚空への突撃を決意した工作者達は
のたうつ蛇の仕草で
彼らの掟を
バラ色の大地にきざみつける



  森と湖のメトード

少年の日
輝く蝶を追って
踏み迷った森が
おれの胸に住みついて久しい

そんなおれとの出合に
オフィス街の喫茶店で
君が初めて流れた潮の匂いに
おのれの領域を知ったその日

君の一番愛した北国の湖へ
身を投げた思い出を
そっと語ってくれた日から
おれの所有する森が
君の胸の湖を求めてざわめく

朝陽が
おれの胸にどっとおちてくる日など
おれはうずくまる以外の行為におもむけぬ

だからおれは
日没を待って
おれの血管を
君の湖に向けて切りひらく

血が川となり
君の湖にそそぎこむ光景を夢見ながら

だが君は
君の湖に沈んだまま助けられたに相違ない
青く澄んだ乳房が
さざ波を残して消え去るとき
おれの求める湖は
君の胸の奥深くにあったから

〈おれは君ではなく
     君の湖を求めている〉

だから今日おれは
するどく光るナイフを
君の涙にあてよう
切りひらく水滴のなかに
森と湖を結ぶメトードを探すために



  最後の揚棄のための雪礫

凍結せよ
切り倒された樹木に
弁証法などありはしないから
凍結せよ情念の城

す裸で震える星々を
雪の原に縛りつけて
ひたすら粧う論理の
あの絶対の暗闇を
ま昼間のように輝かせたからには
おれに否定すべき何ものがあるのか


だからおれは
固く握った雪礫を
すすりなく情念の城に向けて
数限りなく投げつける



  所有

獣達の手の中で
果実が身を震わせ
天空を駆ける白馬の首筋の
野イバラの花の形をした傷口に
そっと風が降りてゆく夜
そして
炸裂する花芯を
死者達がまさぐるとき
街をのみこむ風の
暗紫色の翼を
風見鶏の瞳がつらぬくように
すべての確かさの位置に瞳を置き
さらに
筺へと結晶せしめ
焔の驟雨を浴びせかけるのだ

おれにとって
筺の宇宙を
おれの宇宙へ完璧に導入する手段は
筺に
紅く燃える煉獄の砂岩を
踏みしだかせることだ

筺のすべてを獲得するために


筺の円環を
おれの円環にくみ尽くすために


そして そしておれは
おれの胸に降りつむ
死灰の底でとぐろ巻く
青き蛇の
充血した網膜上に
次第にせり上がってくる紅蓮の筺に
おれの筺に
筺のおれに

筺の筺に

狂おしくのたうちまわる



  謀叛の朝

肉の封鎖を破る欠落の河
皮膚からふきこぼれる千の稲穂
破礫を噛み
影を噛み
尾を噛む
青き蛇の完結なき完結へ
私の裸身が空を切るとき
連綿とdeathを投げつける歳月の意志に
しっと屹立するわたしは
攻めのぼる生涯に
銃殺されつづける目の氷結と
凹んだ胸部に燃える
蔓薔薇の痛点を私有し
朝焼けの家路から遠く
運河の亀裂にそって歩いている




  非望の庭園

  序 章

垂直におりてくるミサ曲は

十字架の傷を刻んで

そりかえった喜悦の中心に

燃える向日葵

烈日は彼岸花の茎を流れ

無明の風が叢を分けると

海峡の近くで

皀角子(さいかち)の実がかちかちと鳴っている



  非望の庭園


非望の庭園に
あなたと井戸を掘ろう
かかえきれぬ言葉の骸を捨てても
水音しない
あくまで深い井戸を掘り下げれば
僕達の握る
氷の手は燃えあがり
皮膚のあわいに
にがい果実がみのるのだ
その時僕達は
二つの独楽となって林をぬけ
まどろむ湖の縁を旋回し
水晶の針先で
鎮魂歌を食い破り
凍結した昼と夜の中空へはねあがる
あなたよ
僕達の非望の庭園に
初冬の銃口が狙いを定めるとき
僕達の底なし井戸を
魂のかたちに掘り下げよう



  欠落の河

時空をこえた傷口からか


あなたの瞳からか


砂礫の原を


幼年の性のままに


焔の中心に向い


焔の中心から離れて


さらさら


さらさらと流れる


欠落の河



  巻頭詩 序章


向日葵もえる悦楽の聖地に
青白いdeathの気圏から
ふいにおりてくるミサ曲は
肉身(にくしみ)の波頭に十字の傷をきざみ
烈日は彼岸花の茎をながれ
無明の風が叢をわけたところ
非在の血を浴びた詩行は
はげしく蒼空に屹立する



  とおい記憶のふかみから

飢餓線上のアリア
日々の楽譜を
愛欲に濡れた指がたどり
合掌の姿勢でめぐる祈りの丘に
せりあがる比喩抱く少年の裸身から
果実の香ただよい
我執に割れた傷口には
とおい記憶のふかみから
悲風にあおられこみあげてくる
まっ青な夕映えが
ひそかにのぞいている




  後記にかえて
   ザインへのセレナーデ
   「ながれへの試論」


ながれ ながれ ながれゆく季節に ながれぬ俺をながすながれ ながれぬ俺の体内をながれる紫陽花 ながれる玩具 ながれる乳房 ながれに浮かぶながれずに死んだ俺 ながれに聞こえるながれなかった俺のながれたいという叫び ながれのなかでながれをつかもうとするながれる俺の叫び ながれの叫び 叫びのながれ ながれに飛び込む俺 もぐる俺 祈る俺 血のながれ 言葉のながれ ながれ ながれ ながれて ながれずにながされながれて 海から 河から 母から 臍の緒喰いちぎりながれて ながされて喰いちぎる 過去からながれる ながれなかった ながれの記憶ながれて ながれまいとする俺をながそうとするながれぬ俺のながれぬ思惟 ながれぬ俺をながそうとする俺のながれ ながれる俺のながれをながすまいとする憤怒 ながれる俺をながすまいとするテーゼ 傾きつづけるテーゼ




  (賛美)


賛美

季節を終えた地平に
生きものの
温もりを残した
白いビルディング

隠されたままの意思にあれば
パズルのように投げ出された形象の
出逢いの繋ぎを追って
われらの歌声は
十字架に吊したはずの時を巡り
殺戮となにごともない日々との間を
絶え間なく舞い戻る

始まりの季節に向けて
既にその蔽いとて無い意思にあれば
我等の歌声は
繋ぎの鎖を解き
射る的を外させ続ける
投げ出したものへの凝視の願い

賛美



〈初出〉


筺と形而上学       『パプアの巣』5 1968?
種子           『白雉』31 1969年
二月のめざめ  
〈家〉          『白雉』32 1970年
「斜々路」巻頭詩     『斜々路』創刊号 1970年
化石化
工作者達
森と湖のメトード
最後の揚棄のための雪礫
所有 
謀叛の朝   『白雉』33 1971年
非望の庭園 序章  
非望の庭園  
欠落の河  
巻頭詩 序章 『斜々路』第三号 1972年
とおい記憶のふかみから
後記にかえて
 ザインへのセレナーデ
 「ながれへの試論」
(賛美)         未発表 2015年


by yassall | 2017-08-15 00:03 | 詩・詩人 | Comments(0)

山下雅美「斜々路」巻頭詩

  山下雅美は武蔵大学文芸部の先輩である。皆からは雅美ちゃんと親しみを込めて呼ばれていたが、私はその当時と同じく山下さんと呼ばせてもらう。
  入学と同時に入部したとき、山下さんは4年生。したがって学生時代のつきあいは1年しかないが、その後も親しく交遊させていただいた。このシリーズでは伊東静雄、西脇順三郎、森川義信の項でYさんとしてしばしば登場している。
  その山下さんが6月6日に急逝された。奥様から知らせをいただいたのが10日後の16日、葬儀一切は済ませたが納骨までに期間があるので、よかったらお別れに来てくれとのことだった。7月4日、ご自宅のある鎌倉まで出かけて来た。形見にということで蔵書から何冊かをいただいてきた。連絡を下さった奥様には感謝するばかりである。
  下は山下さんとSさんとの二人誌『斜々路』創刊号の巻頭におかれた作品である。なぜ『斜々路』が創刊されることになったかはSさんの巻頭言の方が詳しい。60年代の「全共闘運動」への向かい方をめぐって、大学を去ると同時に文芸部にも決別を告げたSさんを、山下さんが半ば引き留めるかたちで二人誌を始めたのではないだろうか?
  『斜々路』は当時刊行されていた『詩学』(詩学社)の「詩誌月評」で取り上げられた。評者・花田英三氏から「『斜々路』の船出に期待する」として高い評価を受けている。1970年3月号。私の入学は4月であったが、まだバックナンバーが入手できた。いまも手元にある。

      ---それが又もや鈍色に輝く手錠であるとしても、僕にとっては
     極上の手錠でなければならない---

   まどろみの時を蹴って
   ほのかにぬくもる湖の底を砕き
   すでに朽ちかけた風車を回し
   夜に封鎖された碧空を奪回するために
   夕暮れの空を引き裂いて
   どこまでも続く階段を建造する

   ハンマーを打ちおろしながら
   僕は
   いつまでも笑い続け泣き続け
   何もかも一人じめしていく

   例えば
   階段を構成する大理石の裂け目に
   風媒花が真紅な花をつければ
   切りきざみ
   飲み下し
   決して排泄せず
   腹の狂い咲く刻を待つ
      ---かつて実感できぬ五番目の季節にまで積み上がる階段に、
    僕は〈斜々路〉の名を贈る---

  内容とするところは創刊の辞である。山下さんの在学中は、Sさんは大学を去ったのちもときどき部室に顔を出されていた。北海道のご出身であることなども伺った。そのSさんの巻頭言は先述したように多分に政治的なメッセージを含んだ宣言文である。これに対し、その創刊の意思表示ですら詩として表現するしかなかったところで、やはり山下さんは詩人であったと思うのだ。

  山下さんは24歳でご結婚。若きころ、しきりに「詩を書いて暮らしたい」と漏らしていらしたとのことだ。もちろん、奥様への甘えの気持ちからの言葉だったのだろう。
  再びお会いするようになったのが3年ほど前のことだった。その後、私の方は父の具合が悪くなったり、見送った後の虚脱感があったり、山下さんの方もお仕事を再開させたりで、また1年ほど会わないでいる期間があった。そろそろ、またいっしょに一献傾けたいなと思っていた矢先だった。
  あるとき、また書き始めるかな、とおっしゃったことがあった。下は「詩と云えるか否か それもいいかと」との添え書きとともに送られて来たメールにあった一篇である。このようなかたちで公表されることが本意とは違っているかも知れないが、追悼の意をこめて紹介する。山下さんは洗礼を受けていらしたのである。

   賛美

   季節を終えた地平に
   生きものの
   温もりを残した
   白いビルディング


   隠されたままの意思にあれば
   パズルのように投げ出された形象の
   出逢いの繋ぎを追って
   われらの歌声は
   十字架に吊したはずの時を巡り
   殺戮となにごともない日々との間を
   絶え間なく舞い戻る


   始まりの季節に向けて
   既にその蔽いとて無い意思にあれば
   我等の歌声は
   繋ぎの鎖を解き
   射る的を外させ続ける
   投げ出したものへの凝視の願い

   賛美

  山下雅美、享年68歳。あまりに突然の死を惜しんであまりある。


by yassall | 2017-07-10 20:24 | 詩・詩人 | Comments(0)

大岡信「青春」

 あてどない夢の過剰が、ひとつの愛から夢をうばった。おごる心の片隅に、少女の額の傷のような裂目がある。突堤の下に投げ捨てられたまぐろの首から吹いている血煙のように、気遠くそしてなまなましく、悲しみがそこから吹きでる。

  ゆすれて見える街景に、いくたりか幼いころの顔が通った。まばたきもせず、いずれは壁に入っていく、かれらはすでに足音を持たぬ。耳ばかりが大きく育って、風の中でそれだけが揺れているのだ。

  街のしめりが、人の心に向日葵でなく、苔を育てた。苔の上にガラスが散る。血が流れる。静寂な夜、フラスコから水が溢れて苔を濡らす。苔を育てる。それは血の上澄みなのだ。

  ふくれていく空。ふくれていく水。ふくれていく樹。ふくれる腹。ふくれる眼蓋。ふくれる唇。やせる手。やせる牛。やせる空。やせる水。やせる土地。ふとる壁。ふとる鎖。だれがふとる。だれが。だれがやせる。血がやせる。空が救い。空は罰。それは血の上澄み。空は血の上澄み。

  あてどない夢の過剰に、ぼくは愛から夢をなくした。 (「青春」

 「青春」は大岡信の第一詩集『記憶と現在』(1956)の巻頭におかれた作品である。1969年、高田馬場の古書店でばら売りしていた思潮社の『現代詩体系』で私は出会った。全7巻のうち2冊しか手に入らなかったが、この詩集によって飯島耕一、長谷川龍生、吉岡実といった現代詩人たちの世界が私の前に開かれたのである。
 そうした中でも、大岡信の「青春」はひときわ私の心をとらえた。思潮社が現代詩文庫の刊行を始めたころで、『大岡信詩集』は24冊目、1969年が初版である。本棚から探し出してみたら出版されてすぐ買っていたことが分かった。
 大岡信は飯島耕一と「シュルレアリスム研究会」を開いていたことがある。オートマチズムによったともみえる散文体の詩に新しい才能による新しい表現の可能性を感じたのだった。

 「地名論」はその少し前に『現代詩手帖』で発表されたと記憶している。現代詩文庫版『大岡信詩集』の最後に収録されている。たいへん高く評価されていたのをおぼえているが、次のように書かれてもこちらの方はどうもピンと来なかった。

 水道管はうたえよ
 お茶の水は流れて
 鵠沼に溜り
 荻窪に落ち
 奥入瀬で輝け  (「地
名論」冒頭)

 思うに『記憶と現在』はモダンな装いをまとってはいるが、その詩精神の向くところは抒情である。きっと自らの内からわき起こってくる感情の正体をつかめず、ただもてあましていた10代の私は、「夢の過剰」という言葉に反応し、過剰ゆえに血しぶきをあげて傷つくすがたに共感したのだろう。抒情といえば最初期の「木馬」という作品にも私は鉛筆で小さな丸印をつけている。
 
 日の落ちかかる空の彼方
 私はさびしい木馬を見た
 幻のように浮かびながら
 木馬は空を渡っていった

 やさしい人よ 窓をしめて
 私の髪を撫でておくれ
 木馬のような私の心を
 その金の輪のてのひらに
 つないでおくれ
 手錠のように   (「木馬」)


 大岡信は評論家としても高い評価を受けている。『超現実と抒情 昭和十年代の詩精神』(1965)は卒論で昭和10年代文学と格闘していた学生時代の私に大きな示唆を与えてくれた。どうも昭和10年代を論じると、誰もが一方的な断罪を下そうとするか、やたらねじくれた情念の表白者になってしまいがちな中で、明晰な分析と批評によって際立っていた。
 近年では「マスコミ九条の会」の呼びかけ人になるなどの活動にもかかわっていたという。茨木のり子、吉野弘のときにも書いたが、「櫂」の世代の詩人たちは政治性とは無縁のようにみえて、決してそうではない。戦中世代として社会の中で果たさなければならない役割に自覚的だったということだろう。
 しばらく大岡信の詩からは遠ざかっていたが、訃報に接して思い出のようなことを書いた。

(おおおかまこと,1931-2017)


by yassall | 2017-04-08 00:22 | 詩・詩人 | Comments(0)

詩とは何か  「鳥居歌集」から

 「鳥居歌集 キリンの子」を読みながら、詩とは何かについて考えた。それは、詩において「言葉」が先か、「心」が先か、という問題である。まだまだ雑感の段階であるが、少しく文章にしてみたい。
 よく引き合いに出されるのは、「太初に言あり」(「ヨハネ伝」)と「やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」(『古今和歌集』仮名序)の対比である。しかし、キリスト教文化圏であれ、日本語文化圏であれ、「言葉」が人間の思考、あるいは感情までも決定していくことは確かである。
 「言葉」は言葉の法則にしたがうから、主語は述語を求め、修飾語と被修飾語は相互に探究しあう。鳥居の次の歌をみてみよう。

  目を伏せて空へのびゆくキリンの子 月の光はかあさんのいろ

 この一首は「キリン」という言葉との出会いから始まっているのではないか? それは、「墓参り供えるものがないからとあなたが好きな黄色を着て行く」にある「黄色」が連想させたのかも知れない。そこから「キリンの子」という修飾・被修飾が導き出されることで、母の子という母子関係と自己認識が生まれる。
 さらに、キリンのイメージは「空へのびゆく」という修飾語の広がりを生み出す。変形生成文法の考え方にしたがえば、初発においては「キリンの子」が「空へのびゆく」という主語・述語の関係であったとみることも出来る。そうすると、それは「子」としての成長と自立を確認する言葉となり、距離をおいた地点からもう一度母と出会うことを可能にする。今、「キリンの子」をつつんでいる「月の光」を「かあさんのいろ」と認識したとき、母子の間に和解が成立し、交流し合う愛情を感じ取ることが出来る。

  虐げる人が居る家ならいっそ草原へ行こうキリンの背に乗り

 鳥居には別に上のような歌もある。鳥居にとって「キリン」はもともと開かれた「草原」へと自分を解放してくれるイメージとしてあったのかも知れない。地上からはるかに離脱した位置に頭をおき、「草原」にあって孤高を保てる存在として。したがって、先に述べたような「和解」もつかのまに訪れた一瞬の感情であったのかも知れない。それでも、そう歌ったとき、鳥居は一歩本来の自分に近づいたはずだと思うのである。次のような一首と出合うと本当にそう思う。

 お月さま少し食べたという母と三日月の夜の坂みちのぼる

 最初の問題にもどろう。「言葉」に捕らわれることで詩(歌)が生まれるのか、「心」がその現れ出る出口を求めて「言葉」を捕らえるのか?
 どちらが先かは別として、「言葉」との出会いによって激しく「心」が動かされるということなしに詩(歌)は生まれないと思うのである。
 先に、「言葉」はその法則にしたがう、と書いた。しかし、「キリン」の修飾語となり得る言葉、述語となり得る言葉は無数に存在する。「言葉に導かれる」といっても、無数の選択肢から選び取る力の源泉があるはずである。「言葉」が思考・感情を決定する、といっても、「心」を捕らえていない言葉は破棄されていった過程があるはずである。

 オレンジの皮に塗られた農薬のような言葉をひとつ飲みこむ

 上にあげた一首の「農薬のような言葉」とはどのような言葉であるのか? 自分に向けられた悪罵であるのか、あるいは一見は耳に心地よい偽善の言葉であるのか? いずれにしても、深く自分を傷つける予感に満ちた言葉であるに違いない。「飲み込む」とあるのは、表出されないという意味だろう。深く心に抱え込んだ言葉に苦しみながら、これを異物として拒否し、排除していく。
 最近、「自分をしっかり語る」というようなことを考えている。「自分をしっかり語る」ことは、「自分をとりもどす」「自分の居場所を発見する」ことであるに違いない。そして、矛盾するようだが、そのような「言葉」を捕らえることで、人は今ある自分を脱けだして(脱自)していくのである。

  心とはどこにあるかも知らぬまま名前をもらう「心的外傷」
  名づけられる「心的外傷」心ってどこにあるかもわからぬままで

 最後に定型という問題について考えてみる。これも「言葉」と「心」の関係に似た問題がひそんでいるように思うのである。
 寺山修司の創作活動が短歌、それより以前には俳句から始まったことを不思議に思ったことがある。希代の天才といってよい寺山が、なぜ短歌・俳句といった古典的様式を借りなければならなかったのか、という不思議である。
 私の出した回答は、言葉以前の「心」(本当にそのような「心」があると断言してよいのか、まだ自信はないのだが)があったとして、その混沌が「形」を有するものとして表出するためには、定型という通路を必要としたのではないか、というものである。
 鳥居の場合にもそれがいえると思う。定型との出会いによって、「形」あるものとして自分を見つめ直すことが出来た、そのことで「自分をとりもどす」「自分の居場所を発見する」ことが出来た、その証が「鳥居歌集」であると思うのである。
 ただ、定型は定型としての様式にしたがうという法則がある。それはときとして危ういものである、と思うのだ。
 上にあげた二首について述べる。上の一首は昨年の東京新聞に連載された「鳥居 セーラー服の歌人」でとりあげられた作品である。だが、この作品は歌集には収録されなかった。歌集に収録されたのは下の一首である。
 これは私の私見であるから間違っているかも知れないが、下の一首は上の一首を改作したもの、あるいはもともと同じ趣意の作品が何作かあって、歌集の編集にあたって選び直したものということだと思われる。
 そこで二首を比較してみる。上の一首の方が表現が直接的で、下の一首の方が技巧的であるように感じられる。もし、様式美という観点から下を選んだ(あるいは改作した)としたら、それは間違いではないかと私は思うのである。たとえ完成度で劣ることがあったとしても、固い土を破って表れ出る「言葉」の力、歌の発生に立ち会っているかのような臨場感は上の一首の方がまさり、また深い心の痛みや、「心的外傷」と呼ばれて済まされてしまうことへの鋭い拒否の姿勢、さらにはその反発が心のあり処への探究に向かう動きまでもが正しく伝わってくるように思うのである。



by yassall | 2016-05-13 16:58 | 詩・詩人 | Comments(2)

鳥居「キリンの子」

目を伏せて空へのびゆくキリンの子 月の光はかあさんのいろ
墓参り供えるものがないからとあなたが好きな黄色を着て行く
花柄の籐籠いっぱい詰められたカラフルな薬飲みほした母
あおぞらが、妙に乾いて、紫陽花が、あざやか なんで死んだの

揃えられ主人の帰り待っている飛び降りたこと知らぬ革靴
刃は肉を切るものだった肌色の足に刺さった刺身包丁

全裸にて踊れと囃す先輩に囲まれながら遠く窓見る
先生に蹴り飛ばされて伏す床にトイレスリッパ散らばっていく
心とはどこにあるかも知らぬまま名前をもらう「心的外傷」
音もなく涙を流す我がいて授業は進む 次は25ページ

祖母のこと語らぬ母が一人ずつ雛人形を飾る昼すぎ
路線図のいつか滅びる町の名へ漂白剤のように雪降る
もう誰も知らない母の少女期をみどりの蚊帳で包めり昭和

 鳥居のことを知ったのは昨年の東京新聞で連載された「鳥居 セーラー服の歌人」によってである。連載の署名は文化部・岩岡千景となっていた。記事中で紹介された短歌に引き込まれ、あわてて切り抜きを始めた。21回まで続いたが、連載そのものも力作だと思った。
 鳥居は本名も年齢も明かしていないという。その生い立ちは壮絶である。両親は2歳のときに離婚、母は小学校5年の時に自殺、天涯孤独となる。児童養護施設に預けられたが、激しいいじめや虐待を受けたという。中学卒業後、16歳から働いて一人暮らしをしている。
 中学校では不登校となり、義務教育をきちんと受けていない。セーラー服を着るのは、自身の義務教育を受け直したいという意思表示と、同じようにいじめや貧困などから学校に行きたくても行けない子どもたちがいることを表現するため、としている。
 養護施設での楽しみは、部屋の片隅に置かれていた中日新聞を読むことだったという。辞書を引き引きだったというから、半ば独学でことばと漢字を覚えた。文学との出会いも朝刊の岡井隆の「けさのことば」からだったという。2012年、全国短歌大会で佳作に入選、13年掌編小説で路上文学賞、14年に中城ふみ子賞の候補作に入った。
 その後、注目を集めるところとなったが、もちろん理由は作品の力である。その生育歴が作歌の原エネルギーであるのは確かだろうが、生い立ちそのものの特異性に対する関心からではあるまい。
 これらの短歌を紡いでいくことで、この傷ついた魂は浄化されるのだろうか? はたまた、魂が浄化されたとき、作歌も止まってしまうのだろうか? それはまだ私には分からない。ただ言えることは、この短歌たちは歌人本人の心の傷を曝すにとどまらず、たとえば死んでしまった母、あるいは多くの不幸な子どもたちの魂にも寄り添おうとしていることである。
  ※
 何とか他に情報を得たいと思ったが、ネットで検索しても新聞の連載以上のことはなかなか知ることができない。ブログをはじめているのが分かったのでリンクをはり、ときどき閲覧していた。
 本が出たらすぐにでも買うのに、と思っていたら、つい最近のブログに出版情報(1冊は岩岡千景の著作)がアップされていた。
 そこで、詩・詩人シリーズとしてアップし、あわせて紹介する。(私はすぐにamazonで予約注文した。)

「キリンの子 鳥居歌集」
著者:鳥居
価格:1728円
「セーラー服の歌人 鳥居 拾った新聞で字を覚えたホームレス少女の物語」
著者:岩岡千景
価格:1404円
出版社:KADOKAWA(アスキー・メディアワークス)
発売予定日 : 2016年2月8日

※出版社、発売予定日は両書とも。



ブログ鳥居のURL
http://toriitorii.exblog.jp/

※最後までお読み下さった方へ
本が届いた後、「詩とは何か 「鳥居歌集」から」(2016.5.13)を書きました。あわせてお読みいただければ嬉しく思います。



by yassall | 2016-01-20 15:18 | 詩・詩人 | Comments(2)

村上昭夫「雁の声」

 『動物哀歌』は村上昭夫の第一詩集にして世に出された唯一の詩集である。1967年に出版され、その年に第8回土井晩翠賞を、翌1968年に第18回H氏賞を受賞している。
 私の『動物哀歌』は1968年の新装改版で、奥付をみると1972年9月24日四刷とある。池袋の芳林堂でたまたま手に取った時、私は土井晩翠賞をとったこともH氏賞を受賞したことも知らなかったが、たちまち強い力で引き寄せられてしまったのである。
 村上昭夫について知ることはほとんどない。後記を書いた大坪孝二氏によれば1927(昭和2)年1月岩手県陸前高田市生まれとある(※)が、東磐井郡大原町(現一関市大東町)生まれというデータもある。隣接地であるので区画変更があったためかどうかも分からない。
 岩手中学校(現岩手高等学校)卒業後、満州国哈爾濱省官吏となる。終戦後、2年間のシベリア抑留生活を経て帰国(※)。1950年に結核を発病し、41歳で亡くなるまで闘病生活が続いた。
 創作活動がはじまったのは闘病生活に入ってからで、「首輪」「La」等の詩誌に参加し、「岩手日報」などにも詩を発表したとある。詩集の「序」を村野四郎が書いており、後記には村野の指導を受けたとある(※)。

 詩人には二通りのタイプがあるのではないかと、ときどき考える。「言葉にとらえられる詩人」と「言葉をとらえる詩人」である。
 詩の女神に魅入られたか、何ものかが天から降りてきたとしか思えないような、天才肌の詩人たちがいる。きっと頭の中に言葉が溢れかえるようにわき出しているのだろう、と思ってしまう。詩人はその言葉たちが現れ出るための通路に過ぎないかのようである。
 村上昭夫は、そうした「言葉にとらえられた詩人」ではなく、「言葉をとらえた詩人」なのではないだろうか。それは、いやおうもなく直面せざるを得なかった死とつりあう重さを探して、またはあらん限りに己の生を燃焼させようとして。もちろん、そこに研ぎ澄まされた言語感覚が必然であったことは言を俟たない。
 初めて『動物哀歌』を手にしたとき、詩人はすでにこの世の人ではなかった。そして、村上昭夫の詩は今なお私をとらえ続けているのである。


  「雁の声」

 雁の声を聞いた
 雁の渡ってゆく声は
 あの涯のない宇宙の涯の深さと
 おんなじだ

 私は治らない病気を持っているから
 それで
 雁の声が聞こえるのだ

 治らない人の病いは
 あの涯のない宇宙の涯の深さと
 おんなじだ

 雁の渡ってゆく姿を
 私なら見れると思う
 雁のゆきつく先のところを
 私なら知れると思う
 雁をそこまで行って抱けるのは
 私よりほかないのだと思う

 雁の声を聞いたのだ
 雁の一心に渡ってゆくあの声を
 私は聞いたのだ


 (むらかみあきお,1927 - 1968)


《追記》
※末弟の村上成夫氏の手記によると、村上昭夫は岩手県気仙郡矢作村諏訪41(現陸前高田市矢作町諏訪41)とある。まだ、同手記によると、終戦後に満州から帰国するまでの経過についてはあいまいな部分が多く、不明とのこと。シベリアに送られる途中で脱走したとか、敗戦国難民であったとか、本人も明確には語らなかったようである。
※大坪孝二氏は岩手詩人クラブ会長(当時)であったとのことである。
※村野四郎は岩手日報の文芸欄の選者であったとのことである。      2014.12.25


by yassall | 2014-12-22 17:21 | 詩・詩人 | Comments(0)

森川義信「勾配」

 武蔵大文芸部のY先輩に会った。鎌倉に転居されてから20数年になるというお話だったから、もう四半世紀ぶりの再会となる。
 Yさんは経済学部の出身だから、長く実業界で活躍なされた方なのだが、会話がはじまるとまたたく間に文学青年Y先輩が現れ出て、本当に楽しいひとときを過ごすことが出来た。
 さて、そのYさんが一冊の詩集を持って来てくれた。母岩社版『森川義信詩集』である。Yさんの卒業にあたって、親しくさせていただいていた数人でプレゼントしたものを、大切に持っていて下さったのである。おそらくはMさんの発案だったと思うのだが、手にさせてもらうと扉裏に認められた寄せ書きの中に、確かに私が書いた1行もあった。
 奥付を見ると1971年12月20日発行とある。Yさんの卒業はその年の3月だったはずだから、卒業して1年ほどしてからのことだったのかも知れない。Yさんの手に渡ってから40年以上の時をへだてて詩集とも再会することになったわけだが、そのこと以上に森川の詩作品、とりわけ「勾配」に胸を突かれるものがあった。

 森川義信については鮎川信夫のところでもふれた。早稲田大学時代に鮎川らと第一次「荒地」を創刊、その後出兵し、ビルマで戦病死した。
 先日、鶴岡善久の『日本超現実主義詩論』(思潮社)を再読していたら、森川義信についてふれている箇所があったので書き写してみる。

 「森川義信は昭和17年8月13日ビルマで戦病死した。数え年25歳であった。彼の最期は妹尾隆彦が「カチン族の首かご」という著書のなかで描いている。妹尾の記述によると、半ば発狂しかけた森川は「原始林。澄んだ月。乳のような霧。文明を寄せつけぬ静寂。……いいなあ、この高原は……キミここに残り給え。日本軍のいなくなった後もキミが残るならボクも残る。そして二人とも原始人に戻ろう。……」と妹尾に話しかけながらその日のうちに気がふれて虚ろな眼をした廃人になってしまいまもなく死んだらしい。また黒田三郎の「荒地論」によれば、鮎川信夫の「死んだ男」という詩のなかの「M」とは森川義信がモデルであり、また彼は戦地へたつ時、鮎川にトーマス・マンの「魔の山」の最後の部分を最後の手紙だと思ってよみかえしてくれと走り書きをしていったという。マンの「魔の山」の最後の部分には、「生きているにしても倒れているにしても、お前の行手は暗い」ということばがある。」

 さらに鶴岡は、

 「森川義信にいたってはとくにシュルレアリスムとは直接のかかわりはほとんどない。しかしわが国のシュルレアリスムの詩の運動の流れが、北園、春山、山中ラインでうけつがれずに、滝口修造、富士原清一、楠田、森川といった詩人たちの手で進められてきたならば、わが国のシュルレアリスムやモダニズムの詩の運動がもっと本来的な姿で存在したのではないかとしきりに思われてならない。」

 と書き、その才能を惜しんでいる。

 「非望」とは辞書的には「分を越えた大きな望み」であるが、ここでは一切の「希望」の否定でありながら、それを「絶望」とは呼ぶまいという強い意志によって選択されたことばと解釈したい。
 「階段」を降りていった先にあるものはもちろん「死」であることだろう。自らの「死」は太陽と同じように何人も直視できないものだという(ラ・ロシュフコー)。だが、この詩において森川は、「はげしく一つのものに向か」うようにして、己れの「死」と対峙しているのである。そのようにして、現在の「生」を確認することによって、実は人間は「いくつもの道」を見いだせることを知っているかのように。
 してみると、「非望」とは避けがたい「死」=「絶望」を直視することによって、かえって「はげしく」も「たかだか」と「生」に向かおうとするという意味で、やはり大いなる希望ととるのが正しいのかも知れない。



    「勾配」

 非望のきはみ
 非望のいのち
 はげしく一つのものに向つて
 誰がこの階段をおりていつたか
 時空をこえて屹立する地平をのぞんで
 そこに立てば
 かきむしるやうに悲風はつんざき  
 季節はすでに終りであつた
 たかだかと欲望の精神に
 はたして時は  
 噴水や花を象眼し
 光彩の地平をもちあげたか
 清純なものばかりを打ちくだいて
 なにゆえにここまで来たのか
 だがみよ
 きびしく勾配に根をささへ
 ふとした流れの凹みから雑草のかげから
 いくつもの道ははじまつてゐるのだ


 森川の出身地、香川県観音寺市の生家前には、この「勾配」の詩句を刻んだ石碑が建てられているとのことである。また、『森川義信詩集』は国文社から出ている増補版が入手可能なようである。

 (もりかわよしのぶ、1918-1942)


by yassall | 2014-11-06 00:17 | 詩・詩人 | Comments(0)

谷川雁「雲よ」

 一年前、この「詩・詩人」のカテゴリで茨木のり子の「六月」をとりあげた。茨木のり子の人気は高く、今年に入ってもアクセスが多数あるのはうれしいことである。私のようなブログにも、である。

  どこかに美しい村はないか
  一日の仕事の終わりには一杯の黒麦酒
  鍬を立てかけ 籠を置き
  男も女も大きなジョッキをかたむける

 さて、上から始まる一篇を転記しながら、実はあるもの足りなさをずっと感じていた。もっと印象的な、心の深いところに触れてくるような数行があったはずなのだが、という思いであった。
 最近出版された、松本輝夫『谷川雁』を読んで、その理由が分かった。茨木のり子の「六月」と、谷川雁の「雲よ」が記憶の中でいっしょになってしまっていたのだ。
 (思潮社版の「現代詩文庫」には収録されていないことも思い出せなかった原因の一つだろう。たぶん、国文社版の『谷川雁詩集』で読んだのだと思う。)

 
    雲よ

  雲がゆく
  おれもゆく
  アジアのうちにどこか
  さびしくてにぎやかで
  馬車も食堂も
  景色も泥くさいが
  ゆったりとしたところはないか
  どっしりした男が
  五六人
  おおきな手をひろげて
  話をする
  そんなところはないか
  雲よ
  むろんおれは貧乏だが
  いいじゃないか つれてゆけよ

 初期の作品であるということだが、山村暮鳥と詩想を同じくするような素朴さは、晦渋な暗喩で成り立つ作風が確立する以前のものなのだろう。だが、〈アジア的〉なもの、〈村的〉なもの、〈前プロレタリアート的〉なものという、谷川雁の思想的な原点は出そろっているようだ。

  (たにかわがん,1923-1995)

 松本輝夫『谷川雁 永久工作者の言霊』平凡社新書(2014)

 松本輝夫は東大在学中に谷川雁を筑豊にたずねた機縁から、テック(=ラボ)に入社。組合運動に従事し、〈経営者〉谷川雁と対立した経緯があるが、後にラボ教育センター会長をつとめ、退社後に谷川雁研究会を起こした人物である。詳しい内容にはふれないが、谷川雁=実践者(雁みずからが「工作者」と自己規定した)という位置づけから展開される谷川雁論は、詩人の全体像にせまるものである。吉本隆明との対比も興味深く、3.11後における再評価をうながしていることにも説得力がある。



by yassall | 2014-07-10 20:16 | 詩・詩人 | Comments(0)

谷川雁「母」

 永田町から有楽町線に乗って家路につこうとすると、乗り合わせた車両の正面の座席で何か一人言をいいながらしきりに涙をぬぐっている老婦人がいた。ときに泣き笑いのようにみえながら、ふっと真顔になったりもするのだが、しばらくするとまた表情がくしゃくしゃとなり、池袋に到着するまでそのままだった。
 あまり視線を注ぎ続けても申し訳ないと思いながら、泣き声がするたびに見るともなく見ているうちに、谷川雁の「母」を思い出したのだった。
 家に帰って詩集を引っ張り出してみると、記憶とは少々異なっていた。だいたい題名からして違っていたのである。

 この詩でいうと、「くすんだ赤旗をひろげて行った/息子」というのが詩人本人(あるいはその同志)であるならば、「老婆」はたった一つの希望であった息子を労働運動だか革命運動に奪われたその「母」ということになる。
 だが、その「母」なるものは炭鉱での労働にあけくれ、労働苦・生活苦を額に刻んできた労働者階級の象徴的存在なのであり、実は「息子」もその嘆きを革命エネルギーとして汲み取っているのである。
 (詩人本人と書いたが、もちろん谷川雁はオルグとして炭鉱労働者の間で活動したことがあるということであって、自身が炭鉱労働者の息子であったというような事実はない。)

 そんな解釈が成り立つかどうかは別として、この詩を書いた頃の谷川雁自身は決して「老い」の側にいたのではなかったし、この詩を読んだ頃の私もまた年若い青年時代を生きていたのだった。
 しかし、突然記憶の中によみがえり、そして今、目の前にある詩は、まったく異なった相貌をもって立ち現れた。
 人間にとって「老い」は誰にとっても抗いなく、しかも思いがけない急ぎ足でやってくる。衰え、すでに多くのものが失われ、思いがけない不運や不幸に見舞われても、これを乗り越える力がもう備わっていないことを思い知らされたとき、人間にはただ嘆き悲しむことしか残されていないのだろう。
 そのように残酷で、真裸な世界が現前している、と思ったのだ。そしてそこには、避けがたい運命に直面したとき、身を投げ出すようにして嘆くしかない人間の真実がある。


    母

  老婆よ 老婆よ
  おまえはあまりに深く泣いたので

  老婆よ 老婆よ
  おまえのなみだは見えないのに

  さびれた鉱山の岩間の奥
  こよいあんなに火の粉がおちるのだ

  くらい煙突のあなからさみだれは
  飢えたかまどの石をぬらし

  どぶの蒸気が
  古い地獄のうつし絵をはう

  くすんだ赤旗をひろげて行った
  息子はもうおまえを抱かないのだから

  老婆よ 老婆よ
  おまえが暗い夜をほしがるのは

  老婆よ 老婆よ
  おまえのさみだれがふるからだ

   (たにかわがん,1923-1995)


by yassall | 2014-03-10 15:47 | 詩・詩人 | Comments(0)

吉野弘「刃」

  諸君!
  魂のはなしをしましょう
  魂のはなしを!
  なんという長い間
  ぼくらは 魂のはなしをしなかったんだろう
                            (「burst 花ひらく」)

 また一人『櫂』の詩人が世を去った。私が吉野弘を読むようになったのは就職してしばらく経ったころのことだったと思う。吉野弘の第一詩集『消息』はサラリーマンが日々の労働の中でしだいに人間疎外に陥っていく悲哀を描いている。吉野弘には過労で倒れるまで労働組合運動に専念した時期があるのだという。徴兵5日前に終戦を迎えた詩人らしく、戦後という時代の中で人間性をとりもどすための抗いがあったのだろう。そんな詩作品に共感し引きよせられていったのだと思う。
 平易なことばで人間のやさしさや温かさを描いたと評される。平易なことばで、というのは確かだろう。現実社会と太刀打ちするためには観念のことばを振り回しているだけではだめだ、という苦い意識が私にも起こり、心に直接触れていくことばとは何かを探していたことが吉野弘に近づいていった理由にあったかも知れない。
 だが、人間のやさしさや温かさを全面的な人間礼賛と勘違いすると、とんだ読み違いをしてしまうことになる。有名な「I was born」にしても、母の死と引き替えに自分が生まれて来たことの自覚の唐突さと痛切さを読み取れなくては、詩を受け止められたとはいえない。私は教科書に採用されていることがあっても怖くて授業では扱えなかった。
 そんな中で、つぎの「刃」は私が当時もっとも愛唱した作品のひとつである。今となってはずいぶん遠い昔だが。


    「刃」

  なめらかに圭角のとれた
  かしこい小石を
  思うさま 砕いてやりたい。
  砕かれて飛散する忍従を見たい。
  収拾できない破片の上に
  呆然と立つ恥辱を見たい。
  むきだしにとんがった刃からすべてを
  はじめるようにしてやりたい。
  するどく他を傷つけ、自らも傷つく刃から
  すべてをはじめるようにしてやりたい。
  刃を自他に容赦しない 無数の石の
  かけらの間から
  新しい思索と生甲斐とが
  苦痛と共に語りはじめられるのを
  聞きたい。


(よしのひろし、1926- 2014)


by yassall | 2014-01-21 10:57 | 詩・詩人 | Comments(0)