憲法9条を守ろう!原発から撤退しよう!

 憲法改悪反対!原発撤退!これだけは巻頭から外すわけにはいかない!(その理由は口上で)
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ご案内
 たいがいが趣味(夏炉冬扇?)のブログですが、ときに真面目?になって、つい一言もの申したり、語ったり(竹頭木屑?)しています。多少とも関わりのあった「学校図書館」や「高校演劇」についても応援していきたいとカテゴリを設けました。初心を忘れず、ということで「国語・国文」を起こしましたが、あまり更新できずにいます。他は、最近何してる?は「日誌」に、何か考えてる?は「雑感」に、という塩梅です。
 あ、写真をご覧になっていただけるかたは主に「風景・散歩」のカテゴリーに!

この一枚

 桔梗。旧芝離宮公園にて。(7月12日) E-M10Ⅱ+12-50mm




 

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# by yassall | 2018-12-31 23:59 | お知らせ | Comments(0)

つい一言 2018.7

 参院内閣委員会で、実質的なカジノ実施法である「統合型リゾート施設整備法案」が与党の賛成多数で可決したというニュースが入ってきた。明日の参院本会議で成立することが確実であるという。
 安倍内閣はこれまでも「暴走」内閣と呼ばれてきた。最近では「隠蔽」「改竄」「捏造」が加わり、ウソが発覚するや「責任転嫁」「しっぽ切り」、さらには「開き直り」と、その悪質度を増してきた。
 そして今度は「火事場泥棒」内閣とでも呼ぶしかない悪のりぶりだ。西日本のかつてない豪雨災害の中、昨日は参院の「6増」法案を強行採決し、今日は国民の67%が反対しているカジノ法案を強行した。まさにどさくさ紛れというしかない。(担当大臣は石井国交相。災害からの復旧にもっとも先頭に立たなければならない部署の責任者ではなかったのか? それに公明党はもともとカジノ法案には反対だったはずだ。)
 さて、久しぶりについ一言を書かなくてはならないという気になったのは、どうやらここにもアメリカの影がさしているらしいことを知ったからだ。カジノ実施法案の前提となる「カジノ解禁推進法」が成立したのは2016年の12月、衆参あわせてわずか20時間の委員会審議で強行採決された。その折、法案提出者として委員会で説明にあたった細田博之、岩屋毅、西村康稔(自民)、小沢鋭仁、松浪健太(維新)の5人の議員全員が、米国の大手カジノ運営企業「シーザーズ・エンターテインメイト」の日本進出のアドバーザーからパーティ券購入のかたちで「脱法献金」を受けていたというのである。
 私が知ったのは「赤旗」でだが、「週刊文春」でも報じられたらしい。しかし、大手新聞でも、TVでもおっかけをしている様子がない。詳しくは分からないが、「アドバイザー」からとあるから外国あるいは外国籍にある人物からの献金禁止の条項などを微妙なところでかいくぐっているのかも知れない。しかし、実態としてアメリカのカジノ企業による政界工作によって国会が動かされているとすれば、かつてのロッキード事件にも匹敵する大スキャンダルではないだろうか?
 (ロッキード事件のときより動いた金額は少額かも知れないが、飛行機を買う買わないではなく、法律を作る作らないのことなのだから、ある意味ではもっと重大だ。)
 今までにもギャンブル依存症の問題や暴力団の資金源化の問題が指摘されてきた。だが、やれ東京オリンピックで海外から観光客がやってくるからとか、観光立国だとかいいながら、国内のお金がアメリカに吸い取られていくのを手助けしてやるだけに終わることになりそうだ。
 私がカジノに行くことはないだろう。だからといって無縁の話だということではいけないような気がしたのだ。(19日)


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# by yassall | 2018-07-19 19:01 | つい一言 | Comments(0)

旧芝離宮庭園

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 7月12日、三田線沿線散策ということで芝離宮庭園に出かけてきた。浜離宮には何度か行ったことがあるのだが、芝離宮の方はなかなか足が向かなかったのだ。芝公園駅からの方が近そうだったので、そちらから歩いた。15分ほどで着いたのだが正門は反対側だった。入り口はひとつだけで、JR浜松町駅改札口のすぐ隣である。なあんだ。
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 もともとは老中・大久保忠朝の邸地。典型的な池泉を中心とした回遊式庭園である。今は都立庭園となり、65歳以上になると70円で入園できる。東京都の日本庭園は多くは大名庭園であり、借景は高層ビルである。以前はそれが京都との差だと残念に思ってきたが、最近では慣れてしまった。
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 こちらは反対側の一番奥まったあたりからの全景図である。
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 西湖の堤を模した石組みはいたるところの日本庭園に見られる。古来、いかに中国文明へのあこがれが強かったかが知れる。
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 ただ、大概はミニチュア版とでもいうべきものが多いが、芝離宮の堤は実際に人が渡れる、しっかりした造りになっていた。
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 少々不思議だったのがこの4本の石柱である。北条氏に使えた武将の旧邸にあったものを小田原から運び、小田原藩(大久保家)の上屋敷であった当時に茶室の門柱として使用された、とある。何だか佗茶の世界観とは遠い気もするが本当だろうか?
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 離れたところからみるとこんな風に見える。何となくシュールである。日本にも石の文化があったということか?
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 以下、点描をいくつか。
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 枯滝の石組み。
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 最近は造園の妙を凝らしたつくりより、このような開放的な景色の方が好きになった。
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 この方が都会のオアシス感があるではないか!
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 海水取入口跡。浜離宮もだったが、もとは汐入の池だったらしい。

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 東京モノレールが見えた。ということは羽田に向かうときにはモノレール内から芝離宮が見えるはずだということだろうか? いつか確かめてみよう。
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 梅林があったり、入り口付近には藤棚がしつらえてあったり、紫陽花が咲き残っていたりしたが、どうやら花のシーズンは過ぎてしまっていた。桔梗だけまだ見ごろのようだった。帰路は浜松町駅前を通り過ぎて増上寺に出て御成門駅まで歩いた。距離的には芝公園駅からとほぼ同じくらい。

 E-M10Ⅱ+12-50m

 ※今日は12-50mmを持ち出した。OLYMPUSのレンズの方が5軸手ぶれ補正の実力が分かると思ったのだ。レンズ側に手ぶれ補正があるとボディ側は自動的にキャンセルになってしまうらしい。OLYMPUSはこのレンズの製造と販売を中止してしまった。後発で、もっと描写力のあるレンズが発売されたからということだろう。細長いスタイルが特徴だが、確かにあまり格好良くはない。35mm換算で24mmからはじまり、防塵防滴仕様、いちおうMACROにも対応しているので使い勝手は良いのだが。


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# by yassall | 2018-07-14 11:01 | 散歩 | Comments(0)

板倉雷電神社

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 写真を撮りに出かけながら、そのままになっていることが多くなった。板倉雷電神社に出かけたのは6月14日。6月はめずらしく用事が立て込んで写真の整理に当てる時間がなかなか取れなかったのだ。

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 誘ってくれたのはいつも森林公園散策でご一緒するKさんである。Kさんは群馬・太田の出身。埼玉で教職に就き、結婚もしたことから埼玉住まいになったが、故郷いまだ忘れがたいものがあるものと推察する。太田からはかなり離れているのだが、ずいぶん前から板倉近辺のドライブに誘われていたのだ。
 板倉雷電神社は、主に関東地方に点在する「雷電神社」「雷電社」の事実上の総本社格にあたるとのこと。渡良瀬川と利根川との間に位置し、古くは伊奈良(いなら) の沼と呼ばれる湿地に浮かぶ小島であったこの地は、また雷の被害が多い土地で、古来から度々火災や水害に見舞われたという。(埼玉では本庄が雷被害が多いと聞いたことがある。大気が不安定になりがちだったり、雷雲が発生しやすい地形があるのだろう。)それらを鎮め、人々の暮らしを守護することを目的として建立されたのだろう。創設は推古天皇6年(598年)とある。延宝2年(1674年)、当地を治めていた館林藩の藩主であった徳川綱吉が本社社殿を再建し、後に綱吉が第5代将軍となるに及んで次第に繁栄するようになり、社殿に徳川家の三ツ葉葵の紋章を使うことを許された。(これらは話を聞いたり、後から調べて知ったことだが、翌週、母方の田舎で法事があって茨城に出かけたところ、車中から雷電神社の末社が見えた。関東一円の信仰を集めているというのは確かなのだろう。)
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 Kさんの運転はかなりアバウトである。ナビがついているのだから使えばいいのにと思うのだが、だいたいの見当はついている、俺の勘の方が頼りになるとのこと、1kmくらい先に進んでから、もう一度引き返してみよう、という具合でやっとたどりついた。ただ、関東平野の広大な田んぼと、ところどころに工業団地や民家が集中している中に、幹線道路からはかなり離れたところにあるので、見つけにくいことは確かだった。そういうわけで、社殿を間近にしたときはその構えが予想以上に立派であることに驚かされた。
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 彫刻の作者は左甚五郎から10代目の石原常八とのことだ。どれほどの人物かは知らないが、かなりの力量が見て取れる。

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 これは本殿の裏側の彫刻。描かれている逸話についての知識があればもっと理解が深まるのだろうが素養に乏しいのが残念だ。
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 さて、発端は雷電神社の本殿前に小林という川魚の料理店がある、そこでナマズの天ぷらを食おう、ということだった。ところが駐車場に車を止めてから参道を探してみたのだがなかなか見つからない。
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 これが参道。最近になって整備されたらしい。本殿前から逆に歩いていった。こちら側から見ると堂々たるものだが、反対側を見ると左側は狭い路地に抜けるようになっており、右側は斜めはるか遠くに幹線道路につながるようになっている。これでは見つからないはずだ。
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 そういうわけで、実際に昼食をとったのは小林の向かいにある林屋という店だった。駐車場からアプローチしようとすると、路地がこの店に通じていたのだ。老夫婦が経営する店で、話しかけるといろいろなことを教えてくれた。
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 次に向かったのは西丘神社である。変哲もない、どちらかといえば忘れ去られたような神社であるが、境内は赤城塚古墳である。古墳からは三角縁仏獣鏡他が出土しており、県の重要文化財に指定されているとのことである。三角縁仏獣鏡は3世紀に魏で制作され日本に伝わったとされ、仏教あるいは道教の影響を考察する上で貴重な資料であるという。Kさんは数学が専門であるのに、考古学にも関心が高く、今も講座に通うなど勉強を怠らないのである。
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 次に向かう。田中正造が最期を迎えた庭田清四郎家が近くにあるはずだという。後から渡良瀬川の支流である才川沿いにあることが分かったが、探している途中で道を大きく外れてしまい、見つけることが出来なかった。ただ、幹線道路の交差点にこのような碑が見つかった。
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 そろそろ夕暮れ時がせまってきたところで館林市内に入る。館林城趾が市役所や文化会館・総合体育館等が集中するエリアになっている。域沼が豊かな水をたたえている。
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 館林城の本丸跡。在りし日の規模が知れる。
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 館林市第二資料館が隣接している。旧上毛モスリン事務所とある。群馬らしく製糸業に関連した旧跡が残されている。
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 田山花袋(1871-1930)が7歳から14歳までを過ごしたという家も残されていた。全景も撮ったのだがなぜかピンぼけだった。ここで群馬紀行を終え、一路埼玉にもどる。森林公園は新盛で二人反省会を開いたのはいうまでもない。

 E-M10Ⅱ+LX12-60mm


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# by yassall | 2018-07-13 18:32 | 散歩 | Comments(2)

木村草太氏講演会 憲法という希望

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 7月1日に開かれた埼玉県高校・障害児学校教職員九条の会の総会で地域でのとりくみを報告してくれたHさんから、「今度、川越でこんな集会を開くんだけど」と整理券をいただいた。TVでもおなじみの木村草太氏の講演会、主催は「九条の会」かわごえ連絡会とある。
 以前、川越では九条の会の運動はどうなっているの?と川越法律事務所のWさんに尋ねたところ、あちこちに一杯できているが連絡が十分でなく統一がとれていない、という話を聞いたことがある。かわごえ連絡会は、川越「九条の会」、高階「九条の会」、盲学校「九条の会」、川越西「九条の会」によって構成され、2010年から合同のとりくみがはじまった。今回は9回目になるということだ。
 会場はウェスタ川越、西口再開発の一環としてつくられた。私が川越を離れてからずいぶんの時をへて建造されたから、外観には接しているものの内部には入ったことがなかった。そんなこともあり、あれこれ期待しながら出かけることにした。
 集会は2部構成で、第1部は藤枝貴子さんによるアルパの演奏。アルパはスペイン語でハープのことで、別名ではラテンハープと呼ばれたりするとのこと。藤枝さんは第2回全日本アルパコンクールで3位入賞したのを機にパラグアイに留学し、帰国後はCDを制作したり、全国各地で公演活動を行っている。20分という短い時間だったが、ときに軽快に、ときに情感にあふれた演奏が披露された。
 続いて木村草太氏の講演会である。冒頭、「護憲派、改憲派ということでなく、一人の憲法学者としてお話しをしたい」という断りがあった。考えようによってはたいへん重要な観点であると思った。憲法を守ろうとすれば、護憲か、改憲か、立場を鮮明にしている人々ではない人たち、あるいはその間で揺れている人たちとも話をしていかなければならない。そのとき、そもそも憲法とは何か、人権とは何か、国際法との関係は何か、というような原則をきちんと踏まえておくことは大切だ。
 話されたことはそのようなことだったと思う。近代国家は権力の一極集中(主権国家)によって統治システムを完成させたが、そのことで①戦争、②人権侵害、③独裁の危険を生んだ。憲法はそのような危険を回避するための○○してはなりませんという「張り紙」なのである。「大日本帝国憲法」(1898)も本来は立憲主義のもとに制定されたはずであるが、「法の制限」を認めたために「法律」を作り出す政府の権限が強くなりすぎた。現在の「日本国憲法」(1947)はその弊害を克服するものとして作り替えられた。
 憲法上の権利のうちで「表現の自由」が優越的地位をしめること、その理由と意義、差別されない権利は平等権とイコールではない、それは19世紀末アメリカの「人種分離法」の問題点を解明することから明らかになる、というような話題はどれも興味深いものであった。
 講演の後半は「教育無償化と憲法」と「自衛隊と憲法9条」に焦点がしぼられた。教育の無償化問題についても懇切な説明があったが、日本政府は「無償教育の漸進的な導入」をうたった「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約(社会権規約)第13条2(b)及び(c)の規定に係わる留保の撤回」を国連に通告(H24.9、外務省)しており、野田政権時に国際社会に公約したことを5年間放置してきたというのが安倍政権の現状だ、という指摘があったことだけ記しておきたい。
 憲法9条に関連しては、「国連憲章」2条4項に定められているのは「武力不行使」の原則であり日本国憲法9条と共通していること、ただし国連憲章では侵略を行った国があった場合にそなえて42条「集団安全保障」、第51条「個別的自衛権、集団的自衛権」が定められているが、日本国憲法には規定がない。そこで、「9条の禁止範囲はどこまでか」が第一論点となるが、「あらゆる武力行使の禁止」が政府見解であり、通説である。
 つぎに、「9条の例外を認める根拠はあるか」が第二論点となる。これには例外規定は存在しないとする個別的自衛権・自衛隊違憲説と、憲法13条を根拠とする個別的自衛権・自衛隊合憲説がある。憲法13条は「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」を定めており、その趣旨からして「自国の安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛の措置」を禁じているとは「到底解されない」とするのである(「国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について」2014.7.1)。つまり、国内防衛作用については「行政」の範囲に含まれるとするわけだが、他国防衛について例外を許容した条文は存在せず、集団的自衛権・国連軍参加は憲法違反となるのである。
 こうしてみると、9条への自衛隊明記改憲については、個別的自衛権+集団的自衛権限定容認を内容とした2015年安保法制を国民投票にかけることになること、従来型の専守防衛にとどめた場合には安保法制の違憲が明確になるなど、重大な矛盾をかかえたものとなる。
    ※
 と、内容の紹介が長くなった。TVのニュース番組に出演しているときなどは見解を求められても短時間の中であり、鋭くも無駄のないコメントが出来る人だな、という印象だったが、この日の語り口はユーモアにあふれ、終始聴衆の笑いを誘いながらの講演会となった。
 最後のところで次の予定があり、参加者数を聞き損なったが、あとから尋ねたところ550部用意したレジメが足りなくなってしまったとのことだった。会場にいても盛況は実感していたが、開催にたずさわった人々の労を多としたい。
 《一言》チラシには「木村草太氏講演会を応援します。」に各団体の他、個人名が多数記載されていた。ずいぶん懐かしい名前も多かった。


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# by yassall | 2018-07-10 18:09 | 日誌 | Comments(0)

0707反原発☆国会前行動

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 毎週金曜日に開かれている反原発国会前行動。月に一度は参加しようと心に決めながら、つい滞ってしまいがちだ。今回は7月7日の七夕にちなみ(か、どうかは知らないが)金曜日行動を変更して土曜日に開くという。
 このところ、原子力規制委員会が東海第二原発の新基準「適合」を発表したり、名古屋高裁金沢支部が大飯原発の差し止めを取り消したりと、いよいよ「底」が抜けたとしか思えないような加速ぶりで再稼働がすすめらようとしている。背景にあるのは新エネルギー基本計画である。あいかわらず原発をベースロード電源と位置づけており、そのためには40年を経過した老朽原発を稼働させたり、新増設をすすめなければならないのである。
 やはり黙っていてはいけない、自分一人が国会前に立とうが立つまいが、そのことで状況が変化するわけではないのは分かりきったこと、それでもじっとしていてはいけない気がしたのである。金曜日より土曜日の方が私には参加しやすい。そのことにも背中を押された。
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 野党共闘の面々である。その他、「脱原発をめざす首長会議」の三上元さん、香山リカさん、古賀重明さん、中沢啓さんらがスピーチに立った。参加者は主催者発表で1200名と決して多くはなかったが、登壇者のスピーチはどなたも力強かった。
 原発は温排水で海水を温めているのであり、原発は「地球温暖化に有効」は、原発は安全」「原発は安い」とならぶ三つ目の大嘘である、脱原発を決めたドイツはフランスから電力を輸入しているというのも嘘で実はドイツは輸出国、少し学べば政府の宣伝がまったくのまやかしであることが分かる(三上)、プルトニウムの蓄積は47トンに及び、米朝会談の障害となることからアメリカからさえ減らすように要請されており、新エネルギー基本計画にも明記せざるを得なくなった、世界的には再生可能エネルギーの時代を迎え、価格も下がっている、日本が政府の保証をつけてでも原発を輸出しようとしてもなかなか進まないのは、安全性もさることながら電気料金が高額になってしまうからだ(古賀)等々のお話しがあった。やはり、足を運べば力がわいてくると思った。
 東海第二原発が新基準に「適合」したといっても、再稼働までにはまだまだいくつものハードルがある。半径30km以内には96万人が暮らしているが、その人たちの避難計画など立てられるはずもなく(古賀)、6市町村の同意が得られる見通しは立たない。国民が「嫌なものは嫌!」と言い続ければ、元のように原発を推進することはそうたやすいことではない。

《つい一言》
 オウム死刑囚執行(6日)の前夜、自民党の国会議員ら30人近くが衆院赤坂議員宿舎内の会議室でパーティを開き、安倍首相、上川法相らが飲食に興じていたことに批判が集まっている。片山さつきはTwitterに「安倍総理初のご参加で大変な盛り上がり!」などと投稿し、ネットの世界でも「人としてどうなの?」と非難のコメントが寄せられているとのことである。
 あたかも豪雨到来の真っ最中で重大な被害が予想される中でもあった。集合写真には岸田の顔もみえるから、安倍三選に向けての下地作りのつもりだったのだろうが、優先順位を間違っていませんかという批判が高まるのは当然だ(政府が災害対策本部を立ち上げたのは8日午前)。それにつけても、死者69人、行方不明65人というニュースを聞くにつけ、第2次安倍内閣発足当時の「国土強靱化計画」という公約は何だったのか、多少なりとも期待した国民に対してどう説明するのかと問いたい。


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# by yassall | 2018-07-08 17:44 | 日誌 | Comments(0)

コピスみよし2018第17回高校演劇フェスティバル 勝手に名場面集

(この投稿は二回に分けて発表しましたが、前半と後半を一本にまとめました。)

 6月17日、コピスみよし2018第17回高校演劇フェスティバルが開催された。幕開けからほぼ満席というここ数年と比較し、今年は空席が散見され、明らかに観客動員数では落ち込みがあった。それでも上演した6校はどれも熱の入った舞台で、お出でいただいたお客様には十分満足していただけたのではないかと思っている。
 今年も写真撮影を担当した。もともと舞台撮影を専門に学んだことはない。刻々と変化する光線条件の中で、芝居の流れを予想し、一瞬をとらえるというのは至難のわざである。それでも少しでもよい写真を、と毎年機材を入れ替えたりしながら工夫しているのだが、これというショットはなかなか得られない。撮影者の側にしてそうであるから、クリエーター側に納得してもらえる写真になったかどうかは覚束ないのだが、写真には記録という要素もあるので、各校にはそのままお渡しするつもりである。
 さて、各校にはお許しをいただいて、毎年「勝手に名場面集」と銘打って何枚かを紹介している。藪にらみながら簡単な観劇記を添えて今年もアップする。
  ※
 村上春樹は「人はなぜ物語を欲するのか?」という問いに対して次のように答えている。

 「僕らは何かに属していないと、うまく生きていくことができません。僕らはもちろん家族に属し、社会に属し、今という時代に属しているわけなんですが、それだけでは足りません。その「属し方」が大事なのです。その属し方を納得するために、物語が必要になってきます。」(『村上さんのところ』)

 誰にも真似することの出来ない、独創的な小説世界を作り出している村上春樹のことばとして、たいへん興味深い。人間は一人の人生を生きるにあたって物語を欲するばかりでなく、確かに物語を通して何かに「属して」いこうとしているのだろう。そして、その通路となるのは「共感」であるに違いない。
 さて、物語についてこのように言えるとすれば、それは演劇についても同じように当てはまるのではないだろうか? 最初に、これを切り口に6本の芝居を概観してみようと思うのである。
  ※
 松山女子高校『とおのもののけやしき』新座高校『トシドンの放課後』の背景にあるのはフォークロアの世界である。『とおのもののけやしき』では幼い兄妹が古い民具が収められた蔵の中で精霊たちと出会う。それらの精霊たちとの交流を通して子どもたちは遠い先祖たちと繋がっていくのである。『トシドンの放課後』では精霊たちは直接には登場しない。しかし、トシドンという島の伝承こそがあかねの心を立ち直らせ、さらには他者と結びつかせるのである。
 坂戸高校『鬼ぃさんといっしょ』もフォークロアの世界をバックグラウンドにしている。ただし、こちらは近代化によって伝承世界が解体の危機を迎えていることに表現の方向性がある。コンビニが人々の生活を変え、金太郎は熊と相撲をとると負けてしまう。人々をひとつに結びつけていた赤い糸は今やその力を急速に失おうとしている。
 川越高校『お言葉ですが、東条英機閣下』はその意味では少々異端である。むしろ「大和魂」とか「愛国心」という壮大な(嘘っぱちの?)物語(村上春樹いうところの「悪い物語」)には安易には与しないぞ、という批判精神が働いている。そこには作者の現代という時代に対する警戒心も加味されていると思われる。今でこそ「クールジャパン」というようなソフトな装いを凝らしているが、強制された「愛国心」は静かに我々を取り囲もうとしているのである。
 農大三高『バンク・バン・レッスン』はどこまで本気で観ていい芝居なのか計りかねるところがあるが、物語の在り処というような補助線を引いてみると、その破壊力は際立ってくる。「銀行強盗対策訓練」とある通り、すべて模擬的で虚構であることを前提として芝居は進行していくのである。観客は通常、舞台の上で展開されるのは虚構であるということを承知で観劇している。否、むしろ虚構を前提としているからこそ、どこかで安心していられるのだとも言える。とすれば、この芝居にはそうした観客のあり方を揶揄しているところがあるのかも知れない、と思ってしまう。
 新座柳瀬高校『Alice!~響け、ウエディング・マーチ!編~』では同じ物語でも寓話の可能性のようなことを考えた。国民を幸せにするといいながら無理難題をふっかける女王(=権力者)、イエスマンに徹することで点数を稼ごうとする側近(=官僚)、その無理難題を丸投げされて右往左往する家臣たち(あるいは下々としての国民)というふうに役どころを振ってみると、まるでどこかの国で起こっていることさながらではないか?
 作者としては、自分はエンタメに徹しようとしたのであり、そのような寓意を読み取られることは不本意である、ということになるかも知れない。だが人というもは、それぞれの人生に何らかの意義を見いだそうとするように、物語にも何らかの意味を読み取ってしまうものなのである。言わずもがなであるが、そうでなければ「共感」もまた存在しないのである。
  ※
松山女子高校『とおのもののけやしき』作・岩崎正裕

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 題名の「とおの」は柳田国男の『遠野物語』を意識しているのだろう。柳田国男は文化とは生活様式の総体であるという認識に立ち、民衆のあいだに伝わる民具などの生活用品、あるいは伝承や祭礼などに日本文化あるいは日本人の心を探ろうとした。それはまた明治以降にあって急速に失われていこうとする民俗を、少しでも残しおこうとする試みでもあった。
 そういうわけだから、唐箕や千歯扱きなどの農具から、代々伝わってきたらしい掛け軸や雛人形が所狭しと収められた「蔵」という存在は芝居を左右するような重要な装置であり、アイテムであった。リハーサルの時間の大半を費やして飾り込まれたそのセットは、よくぞこれだけものを集められたものだと感嘆に値するものだったし、作り手たちの執念を感じさせるものだった。
 ただ、「物の怪」を登場させるためだったとはいえ、具象で成り立っている蔵の中に舞台装置としての山台がむき出しのまま置かれてしまったのはつや消しだったし、これは脚本通りなら仕方がないが、その「物の怪」が登場するのが垂れ下がった掛け軸の裏側からというのも不自然だと思った。蔵の中に掛け軸を保管する際には共箱に入れられているのが普通であり、いくらなんでも壁掛けにはされていないはずである。
 さて柳田国男にいわせれば、日本の妖怪とは仏教の伝来とともに本来精霊であったものが「化け物」の地位におとしめられたものだという。それはともかく、絶対神たる一神教の「神」とは違い、日本の神々あるいは精霊たちは人間のすぐそばにいて、人にいたずらしたり、一緒に遊んだり、ときはだまされたりする存在であるという。ここに登場したのもみな愛嬌に充ちた精霊たちであった。
 そのような精霊たちを、けっこう意地悪そうなおひなさまや間抜けな鬼、親身な納戸婆と1年生ながらしっかり二人で演じわけていた。兄妹は2年生と1年生のコンビで、二人とも力があると思ったが、兄役の2年生がさすがの演技だった。今は不在らしい両親の存在がほの見えて来て、家族というサイドストーリーが立ち上がって来そうだったのだが、脚本がそこまで書き込まれていないのか、中途半端に終わってしまったのは残念だった。

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新座高校『トシドンの放課後』作・上田三和

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 『トシドンの放課後』については以前に論じたことがあるので同じことは繰り返さない(「2014秋の高校演劇を振り返って~『トシドンの放課後』と『ホットチョコレート』」2014.10)。
 ただ、よく出来た台本は素直に演じればそれだけで伝わって来るものがあるというのは本当だとして、やはり心の奥に触れてくるときとそうでないときがあり、今回の『トシドン』は後者であったということだけはいっておきたい。
 それは第一にはあかねの造形である。ありふれた言い方だが、あかねは本当はいい子なのである。離島からの進学であること、成績が振るわないこと、そのため将来に希望が持てないこと、最近になって父親を亡くしたことなどか相乗して、心の荒れと飢餓感に苦しんでいるのである。いい子すぎても、悪い子すぎても、あかねの人物造形としては失敗なのである。
 クライマックス近くなって、強が進級できなかったことを知ったあかねが校長室に怒鳴り込もうとし、あかねの暴発を心配した強が必死に止めるというシーンがある。ここにあかねの本質があり、あかねと強との人間関係が集約的に表現されているのである。今回、あかね役を演じた3年生はその役づくりに成功していた。
 強が女子による男役なのがどうかな、と思っていたが、眼に力があり、周囲と調子を合わせられずに不登校状態に置かれつつも、人間に対する深い洞察力を身につけた強という役を演じきった。
 『トシドン』をやるとつい先生役が弱くなりがちである。先生役も1年生とは思えない出来栄えだった。3人の中で一番年下であるはずなのに、きちんと大人の女性に見えた。パンフによると中学校でも演劇部に所属していたらしい。難をいえば、少し堂々とし過ぎていたといえるかも知れない。この先生は初めて担任を受け持ち、あかねに右往左往させられている。その感じがもっと冒頭で出ているとよかったと思ったし、それでもあかねを正面から受けとめようとし、裸の自分をぶつけようとしたから、「私だって楽して教師になったんじゃない」ということばも、押しつけとは違う説得力を持ってあかねを揺さぶるのだと思った。(このところは私にも新しい発見だった。)
 強もまた先生役の生徒も発声がしっかりしていた。まずは科白をきちんと客席に届けることが大切で、その積み重ねによって客の心は動いていくのである。

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川越高校『お言葉ですが、東条英機閣下』作・阿部哲也

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 作者である阿部さんは見せかけの権威や美辞麗句で飾られた大義に対し、「くそ喰らえ!」と言ってみせる反骨心の持ち主なのではないだろうか? 2014年の中央発表会で創作脚本賞を受賞した『いてふノ精蟲』でも植物学者平瀬作五郎から発せられたし、翌年関東大会に進出した『最貧前線』の船長もそれらしいことを口にしている。
 聞けば鴻上尚史の『不死身の特攻兵』(講談社現代新書2017)に題材を得ているとのことである。だが、同書が阿部さんにこの脚本を書かせたというより、この本に接して共感するものを阿部さんが予め持ち合わせており、これをきっかけに啓発されていったという方が正しいのではないかと思っている。
 講談社ブック倶楽部から同書の内容紹介を以下に引用する。

 「太平洋戦争の末期に実施された”特別攻撃隊”。戦死を前提とする攻撃によって、若者たちが命を落としていった。/だが、陸軍第一回の特攻から計9回の出撃をし、9回生還した特攻兵がいた。その特攻兵、佐々木友次氏は、戦後の日本を生き抜き2016年2月に亡くなった。/ 鴻上尚史氏が生前の佐々木氏本人へインタビュー。/ 飛行機がただ好きだった男が、なぜ、軍では絶対である上官の命令に背き、命の尊厳を守りぬけたのか。」


 一機の飛行機を完成させるための経費を考えれば、特攻がいかに採算に合わない(人命は計算外か!)作戦であるか、その立案中にも愚策であるとの意見があったらしい。この劇中でも、「鋼鉄製の軍艦にジュラルミン製の飛行機が体当たりしても沈没させることは出来ない」という科白がある。
 合理的にはまったく成り立たない特攻作戦に向かわせたのは「精神主義」というリクツである(思想とも論理ともいいがたいのでそう言っておく)。「死を恐れない突撃精神に直面して、敵は恐怖心からパニックにおちいるに違いない」、翻ってまた「国民はその犠牲的精神に感じ入って再び敢闘精神を奮い立たせるに違いない」、という。だが、それらは「ソウデアッタライイナ」という希望的観測の域を少しも出ない、まったくの主意主義でしかなく、今風にいえば反知性主義の産物である。
 だいたい、西洋文明=物質中心主義VS日本=精神主義という構図自体が作られたイデオロギーである。ヨーロッパやアメリカには精神文化がなく、日本にだけは物質にまさる精神の優位性があるなどというのは、冷静に考えればまったくのナンセンスである。
 特攻作戦において飛行機の故障など何らかの理由によって出撃途中で帰還した飛行士は何人もいたらしい。軍神として送り出し、戦死したはずの兵士が生きていたというでは具合が悪いと、終戦まで隔離されていた人々のルポルタージュを見たことがある。また、この劇のように再度の出撃を強制された事例もあったことだろう。(阿部さんも話題にしていたが、『総員玉砕せよ!』を描いた水木しげるも似たような経験を語っている。)特攻=軍神として奉るために死ね、というのはもはや精神主義ですらなく、国民向けの情報操作でしかない。
 以前、小野寺信について書いたことがある。1940年11月、小野寺はスウェーデン公使館附武官に任命され、諜報武官としての任についていた。大戦末期、ヤルタ会談でドイツが降伏した3ヶ月後にソ連が日本との戦闘に参戦するという密約が交わされたとの情報を得た。小野寺は直ちに本国にその情報を暗号電で送った。受け取った日本政府や大本営はどうしたか? あろうことか日ソ不可侵条約を頼みに、戦争終結のための仲介を要請しようとしていた日本政府はその情報を握りつぶしてしまったのである。
 小野寺信は筋金入りの日本帝国軍人であり、反共主義者であり、愛国者だった。だが、反知性主義者ではなかった。電報を受け取った日本の戦争指導者は「自分たちに不都合な真実」を否認してしまった。
 特攻に9回出撃したという佐々木知次氏(劇中では佐々木友介)は愛国心を持たない「非国民」ではなく、臆病者でもない。亡き戦友たちへの思いを失ったこともない。ただ、偽りの「精神主義」に同調することを拒み、自らの理性と付与された生命に誠実であろうとしただけなのである。
 芝居としては、何度も出撃しては戦果をあげながら生還を果たしたことが如何に奇跡的で、周囲に驚きをもって迎えられたかがもっと強調されてもいいとは思った。しかし、部隊長をはじめとしたややオーバーなアクションに比べ、淡泊に見える佐々木の演技が、かえって沈着冷静な人柄や判断力をにじみ出させていて、効果的であったとも考え直した。いつになく舞台装置は簡素だったが、どこで見つけたのか飛行服はよく揃えたし、三八歩兵銃は自慢するに値する出来栄えであった。衣装や小道具ひとつでリアルさが段違いなのである。

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東京農業大学第三高校『バンク・バン・レッスン』作・高橋いさを

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 全部で8人の役者が舞台に上る。部員数がいつもギリギリという部活からしたら羨ましいかぎりだが、大勢のキャストをバランスよく動かし、間延びのない芝居を作り上げるのは容易ではない。『もしイタ』や『ロボむつ』を手がけてきた農大三高ならではの演目だが、それでも10日前くらいではかなり苦心している様子だった。
 さて、どのような舞台になるかと案じながら幕開けを待ったが、まったくの杞憂だった。距離感の取り方もずいぶん良くなっていたし、いち早く客をつかんでからはどんどん芝居を追い込んでいけた。統制はとれたが逆に一人一人が集団の中に埋もれてしまうということもなく、芝居の進行とともに個々のキャストが立ち上がってくるという具合だった。
 前段で、「どこまで本気で観ていい芝居なのか」と書いたが、否定的な意味では決してない。むしろ虚構の中で繰り広げられる虚構の世界であるからこそ、虚実すれすれのところをどう追究していくかが問われるような芝居なのではないか? 実際、1回目のレッスンを終えた後の行員たちの不満は「迫真性が欠ける」というところにあったのである。ただ、その迫真性を求めようとした結果があたかもテレビドラマのようであったことから、話はまたおかしな方向に進んでしまうのである。
 虚実すれすれの最たる場面は支店長の「何を隠そう、あなたは私の娘よ!」と告知するところだろう。とってつけたような、あまりに無理筋な展開であるが、娘だといわれた行員も支店長も、そして二人のやりとりを見守る他の登場人物たちにも要求されるのは本気度である。そうであって初めて観客の笑いを誘い、さらに後に別の男(タケシ)に向けての「あなたは私の息子よ!」で観客の笑いを爆発させることが出来るのである(ついでにいうと、ここは繰り返しのおもしろさなのであるから「あなたは私の息子」で十分なのであって、これに続く説明科白は省略ないしは刈り込んでしまってかまわなかったのではないかと思っている)。
 欲を言えば、もう少していねいに作り込んでくれたらなあ、とか、場面の見せ方や伏線の張り方で計算が不足していたという箇所もあった。今回はスピード重視というところだったのかも知れないが、実はそのことでパワーが減衰してしまったこともあったのではないだろうか?
 敵味方入り乱れての後、全員が倒されてしまった中で、ただ一人生き残った男(タカシ)が死体の山を見渡しながら突然哄笑し始めるという光景はかなりシュールである。作り方によっては相当のインパクトを与えられたのではないか? もちろん、そうしたあざとさを嫌うという作り方もある。だが、どこか方向性を統一できないまま、漫然と舞台に上げてしまった感が残ったのが残念だった。
 (ホリが背景だとやはり露出がむずかしかったようで、つい補正でシャドー・ハイライトを多用してしまい、画像が荒れてしまったかも知れません。ブログ用にリサイズすると余計にその傾向が強調されてしまったようです。まあ、藤橋さんならご自分で加工できるだろうとoriginalはほぼそのまま残しました。)
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坂戸高校『鬼ぃさんといっしょ』作・豊嶋了子と丸高演劇部 潤色・坂戸高校演劇部

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 キャストは総勢19名ということになるのだろうか? 農大三高を上回る人数だが、各シーンは1対1、2対1、2対2というような組み合わせで来ているから(集団は集団として登場するから)、処理はしやすかったのではないだろうか? 
 桃太郎が象徴しているのは近代日本なのではないか? そのような仮説を立ててみると一応の解釈が成り立つような気がする。してみると桃太郎が退治しようとした鬼とは近代以前の土着の神々であり、退治=否定し乗り越えたつもりがついに否定し得ず、伏流水となってときおり地表に吹き出ようとする。赤頭巾=西洋に逃げられ、完全には同化し得ないまま、桃太郎が苦悶する様子は近代と前近代に引き裂かれた日本人の心そのものである。
 色とりどりのケープをまとっているのは島の精霊たちだろうか? 嵐を呼ぶその中心で見得を切る鬼はそれら精霊たちのパワーの中心に位置している。コンビニの店員になりすまして姿を現すのも、日常の生活世界にしぶとく生き残っている生命力の証であるように思われる。
 ただ、赤い糸に象徴されるような、人々の心の所属先となってきた求心力は急速に衰えようとしている。御神木が幻となって現れたことがまさにその神秘性が失われようとしているということではないのか?
 さて、そのような解釈を試みたところで、その当否にまったく自信が持てないのは、暗喩として読み取ることが可能であると考えられた表象と、そこで発せられた科白(=言葉)とが多くの場合一致しないことがあげられる。もっと端的にいえば、なにやら思わせぶりな科白と、意味ありげな所作が繰り返されるばかりで、すじ道を見いだそうとしても前後が呼応することもなく、肩すかしを喰らわされているとしか感じられないのだ。かといって、無限にメタモルフォーゼしていく自由さとも無縁だ。
 そうなると、描こうとしているのは神々の没落なのか、それとも地下水脈となって生き残る生命力なのか、失われていくものへの愛惜なのか、復活への願望なのか、それとも私の立てた仮説のような苦悶なのか、まるでつかみ所のない、包みを解いてみたら空っぽだった、ということになってしまうのだ。
 舞台の作り出している雰囲気は私が好きな世界だった。暗喩や象徴は想像力を刺激してくれる。白一色のコンビニのカウンターも出来がよく、セットとして節度があったし、金太郎のまさかりなどの小道具も手抜きがなかった。照明もきれいだった。ただ、役者たちの演技力の支えがあったからあやういところで免れたが、ややもすると学芸会におちいらないとも限らないとも感じた。
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新座柳瀬高校『Alice!~響け、ウエディング・マーチ!編~』原作・ルイス・キャロル 作・稲葉智己

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 また芝居の完成度が一段上がったという印象を持った。細かいことだが、以前は男役の衣装が大きめで、見るからにだぶついていたなどということもあったが、今回はあつらえたようにフィットしていたし、役者たちもきちんと着こなしていた。セットはシンメトリックで美しく、飾りすぎず、必要十分という感じだった。
 それ以上に感じたのは役者たちの進歩だった。これまで脇役に回っていた生徒たちが芝居の中心を担うようになった。表情が格段によくなり、姿勢もよく、力強さが感じられた。白ウサギや料理長に特にそれを感じたが、女王は魅力的になったし、これまでにも場数を踏んできた三月ウサギは力を増し、貫禄のようなものが感じられた。やはり、全国大会まで進出した学校としての責任感とでもいうのか、後を受け継いだ者たちにも、それ相当の覚悟が育まれているのだろうと感じた。
 顧問のtomoさんによると今年は部員獲得にかなり苦心しているらしい。natsuさんのいう通り、今回の芝居ももう数人使える役者が多ければずいぶん説得力が違って来ただろう。だが、それは嘆いても仕方がない。3年生まで引っ張れるのも柳瀬の強みである。1年生が一人きりらしいが、さっそく舞台を経験したことだし、大事に育てれば伸びていくだろう。役者たちの成長を信じて、またよい芝居を見せて欲しい。
 少しだけ注文をつけると、今回は手慣れた手法でそつなくまとめてしまった、という印象を持った。春の発表会が流れた後、新入生をまじえながら急ごしらえで完成させることを優先したという事情は察する。今後の課題でいいから、新しい柳瀬の芝居、稲葉智己の芝居を見せてもらいたい。
 あ、でももう一つだけ。山台に上らせて科白をしゃべらせる手法には異議はないのだが、出番のないときも女王が出ずっぱりというのはやはり辛いものがあったのではないか? かといって、その都度、階段を上り下りさせるのも他の役者との差別化からも望ましくない。ドンデンか何かで登退場させるなんてことは出来なかったのだろうか? まあ、いうだけなら易いものだけれど。
 《おまけ》女王の「ウエディングマーチを聞くと幸せな気持ちになる」というのは共感!メンデルスゾーンの『夏の夜の夢』からで、華やかにして壮大、人を夢心地にする。ブライダルコーラスはワーグナーの『ローエングリン』から。こちらは官能的にしてどこか悲劇的。
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星野高校『階段パフォーマンス』

 部員たちが出場に消極的だったと聞いて心配していましたが、なかなかどうしてユーモラスかつ明るい雰囲気を振りまいて楽しませてくれました。ダンスも上手でした。写真が上手く撮れなくてごめんなさい。


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# by yassall | 2018-07-04 16:26 | 高校演劇 | Comments(2)

埼玉県高校・障害児学校教職員「九条の会」総会・学習会が開催されました!

 7月1日、埼玉県高校・障害児学校教職員「九条の会」総会・学習会がさいたま市民会館うらわで開催されました。詳細は「九条の会」ブログで!
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https://blog.goo.ne.jp/9jousks?fm=rss

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# by yassall | 2018-07-03 00:47 | 日誌 | Comments(0)

6.3オール埼玉総行動

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 立憲主義を取り戻す!戦争させない!9条こわすな!6.3オール埼玉総行動が今年も北浦和公園を会場に開催された。市民団体、生協や埼商連、連合系・全労連系の労組などの諸団体のほか、1区から15区までの小選挙区ごとに結成された連絡会が集った。ゲストスピーチは元外務省国際情報局長の孫崎亨氏だった。
 どの発言者も安倍内閣の打倒を訴え、そのためには市民と立憲野党の連帯が最重要であることが強調された。政党あいさつは立憲民主党・菅直人氏、共産党・田村智子氏、社民党・又市征治氏、国民民主党・小宮山泰子氏、自由党・松崎哲久氏がスピーチに立った。これだけの野党がそろい踏み出来るのも埼玉ならではかも知れない。それにしても、昨年からを振り返って、いまだに安倍内閣が存続しているのは不思議だとしかいいようがない。
 (埼玉の集会に出るといろいろな昔なじみと会えるのが楽しい。今年はどうしているのか気になっていた人と15年ぶりくらいに再会できた。よい一日だった。)


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# by yassall | 2018-06-03 17:02 | 日誌 | Comments(0)

えのもとぐりむ傑作選『陳弁ピクトグラム』

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 26日、みかわやこと今は葉山美侑から出演情報があったので、えのもとぐりむ傑作選『陳弁ピクトグラム』を観に浅草九劇まで出かけてきた。
 「ピクトグラム」とはひとことで言えば絵文字のことであり、上の舞台写真(終演後、許可を得て撮影した)下手の非常口や上手の禁煙マークのような、何らかの情報や注意を示すために表示される視覚記号のことである。「人間はピクトグラムのように薄っぺらな存在ではない」というのが芝居のテーマを言い表している。
 会場に入ると、「青白く照らされたトイレ。ひとりの女が殺されたところから物語は誘導されていく。」というリードの通り、舞台中央に設えた便器が青いサスライトで照らされている。単なる飾りではなく、様々な役者によって入れ替わり立ち替わり使用される。これを悪趣味といってはいけない。この芝居の基本的な構造を象徴しているのだから。
 人間が遮蔽物に囲まれたトイレの中で用を足すようになってから、それは個的な出来事となり、他者の目に触れることがないもの、触れてはならないものとなった。芝居はそうした人間の表面からは見えないもの、隠されたものの存在を明示し、あからさまにしようとしているのだろう。
 (もし、悪趣味というなら、むしろ演劇の仕組みそのものにかかわっているといえるだろう。通常、本当は目の前に観客が存在しているのに、役者は誰からも見られていないことを前提に演技し、観客は演者に知られずにそっと覗き見ていることを前提に観劇している。それならば誰にも見られることのないトイレの中の場面でも同様のはずだが、役者の方も観客の方も、見る・見られるの関係のある一線、日常に起こりえる一線を越える。もしかすると、それは観客の側に多くの緊張を強いるかも知れない。)
 えのものぐりむのTwitterを検索してみると、「人間世界は汚くて醜いバケモノが隠れていて、繊細な人間ほどそれをくらう。だけど純なものを信じて生きよう。」というような投稿と出会う。芝居には近親相姦やらストーカーやら、性関係による利害の交換やらが出てくる。殺人事件が起こり、しかも遺体は行方不明のままになる。被害者とされた女性の兄である刑事が同僚の女性刑事と捜査を続け、謎解きがはじまる。だが、表現の中心はそれらにはないのだと思う。「人間はピクトグラムではない」の科白によって示された人間存在の有り様そのものを描こうとしたのだと思った。さらにことばを重ねれば人間の自由を。
 以上が劇を見ての感想である。卒業生の追っかけしかしていないから詳しくないのだけれど、えのもとぐりむは「演劇界で今とても人気が出てきている演出家」なのだという。今回の公演については、「若手発掘企画と銘打ち、えのもとぐりむのワークショップなどから若き才能をプロデュース」とあった。終演後、みかわやにいきさつを聞いてみると、やはりオーディションを受けて抜擢されたそうだ。千葉ユリとして、「イントロ」で殺人事件の被害者となり、3話目の「禁煙」で美大生を演じ、そして謎解きがされる「三つ編み」に出演するという、全編を貫く重要な役どころを与えられた。一見、清楚で真面目そうでありながら、過酷な過去と複雑な内面とをかかえた人物造形にとりくんだ。濃淡をつけすぎず、清楚さも、不気味さも、リアルに表現できていたのではないか? やりがいのある役にとりくんだ、という充実感が、終演後のあいさつに駆け寄ってきた表情に見えた。

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# by yassall | 2018-05-28 14:31 | 日誌 | Comments(0)