憲法9条を守ろう!原発から撤退しよう!

 憲法改悪反対!原発撤退!これだけは巻頭から外すわけにはいかない!(その理由は口上で)
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ご案内
 たいがいが趣味(夏炉冬扇?)のブログですが、ときに真面目?になって、つい一言もの申したり、語ったり(竹頭木屑?)しています。多少とも関わりのあった「学校図書館」や「高校演劇」についても応援していきたいとカテゴリを設けました。初心を忘れず、ということで「国語・国文」を起こしましたが、あまり更新できずにいます。他は、最近何してる?は「日誌」に、何か考えてる?は「雑感」に、という塩梅です。
 あ、写真をご覧になっていただけるかたは主に「風景・散歩」のカテゴリーに!

この一枚

 あしかがフラワーパークにて。(5月1日)



 

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# by yassall | 2018-12-31 23:59 | お知らせ | Comments(0)

コピスみよし2018第17回高校演劇フェスティバル始動です!

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 5月15日、三芳町文化会館コピスみよしにて、第17回高校演劇フェスティバル第1回実行委員会ならびに出演校打ち合わせ会・会場下見が行われました。今年の出演校と演目はつぎの通りです。松山女子高校と川越高校が初参加です。

 9:40       開場
 10:00~10:05 開会式
 10:10~11:10 松山女子高校『とおのもののけやしき』岩崎正裕(既成)
 11:30~12:30 新座高校『トシドンの放課後』上田美和(既成)
 12:30~13:30  昼休み
         (13:10~ 階段 星野高校)
 13:30~14:30 川越高校『お言葉ですが、東條英機閣下』阿部哲也(創作)
 14:50~15:50 東京農業大学第三高校『バンク・バン・レッスン』高橋いさを(既成)
 16:10~17:10 坂戸高校『鬼ぃさんといっしょ』
            作:豊嶋了子と丸高演劇部 潤色:坂戸高校演劇(既成)
 17:30~18:30 新座柳瀬高校『Alice! 〜パート3 響け、ウエディング・マーチ!編〜』
            原作:ルイス・キャロル 作:稲葉智己(創作)
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 実行委員会メンバー紹介、出演校紹介、大会運営協力校紹介、ホールスタッフ紹介、実施計画の説明の後、会場下見、学校別舞台上声出しタイムがありました。会場下見では会館スタッフの方から舞台、照明、音響など機構説明がありました。
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 2018年コピスみよし第17回高校演劇フェスティバルは

      6月17日(日)    です!

(チラシは来週できあがりの予定です。詳報が入ったらまたアップします!)


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# by yassall | 2018-05-16 16:04 | 高校演劇 | Comments(0)

池田龍雄展

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 5月4日、「戦後美術の現在形 池田龍雄展 楕円幻想」が開かれているというので練馬区立美術館へ出かけてきた。これまでも中村正義や牧野邦夫など、独特の鑑識眼による企画展が開催されて来たが、今回も思いがけない拾いものをしたというのが率直な感想である。
 というような感想を持ったというのは私の不明によるものであって、戦後アバンギャルドの画家として池田龍雄は確固とした地位を占めており、ここ練馬区立美術館では20年前にも「池田龍雄・中村宏展」を開催しているそうだ。
 池田龍雄は1928年、佐賀県生まれ。1943年に「忠君愛国の至誠に燃え」て15歳で海軍航空隊に入隊し、1945年には特攻隊員として霞ヶ浦航空隊に配属され、敗戦の報を聞いた。除隊後、佐賀にもどり佐賀師範学校に編入されたが「終戦時に陸海軍の現役下士官以上だった者の教職就業の禁止」というGHQの通達のため、一年で退学となった。教師への道も閉ざされた池田は幼い頃から絵が得意であったことから画家をこころざし、1948年に多摩造形芸術専門学校(多摩美大)に入学、同年秋には岡本太郎や花田清輝らの「アヴァンギャルド芸術研究会」に参加し、前衛芸術家の道を歩にはじめた。
 展覧会の第0章は「終わらない戦後」である。このような経歴の持ち主であることから初期の作品には戦争体験の影が色濃い。最初期の「無風地帯 壊された風景」(1951)あたりにこそピカソの影響が明かだが、次第にオリジナリティを獲得していく様子が見て取れる。
 鋭く硬質な線の多用によるペン画は当時刊行されていた『現代詩』や『人民文学』等の表紙や挿絵に採用されていたらしい。その線描は棘のようで痛い。だが、風刺的でシニカルであると同時に、そこはかとないユーモア精神も感じられる。ここで、『列島』の関根宏や木島始と交流があったことも知り、頭の中でさまざまなピースが繋がっていく。一昨年、府中市立美術館で新海覚雄展を見たことがある。その新海と同じく、池田もルポルタージュ運動にたずさわっていた時代があるとのことだった。総評系に近かった新海が社会主義リアリズム的な傾向を持ち、共産党に近かった池田がアバンギャルドの技法によっていたというのは面白いと思った。ルポルタージュ運動には安部公房も参加していたから、1950年代はさまざまな志向を持った運動が渾然としていたのだろう。
 展覧会第1章のネーミングは「芸術と政治の狭間で」、第2章は「挫折のあとさき」である。ここでいう「挫折」とは具体的には1960年安保闘争とその挫折(条約改定を阻止し得なかったこと)であり、池田はのちに「わたしのなかの芸術と政治の間の距離を決定的に広げてしまった」と語ったという。絵画の上でも《禽獣記》《百仮面》シリーズをへながら変容していく。それは「人間の存在や、自らの内面」への視線の深まりともいえる。私の感想からいえば「線」から「球体」への変化である。
 それは池田の芸術活動の衰退を意味するのではなく、第3章「越境、交流、応答、そして行為の彼方へ」ではさまざまなジャンルとの横断的な交流(たとえば寺山修司のと共同作業)によってその範囲を広げ、第4章「楕円と梵」では宇宙論的とも存在論的ともいえる境地を開いていく。色彩も実に神秘的で美しい。
 池田龍雄がすごいところは90歳になる現在もその芸術活動がとどまらないことだ。第5章「池田龍雄の現在形」では《箱の中へ…》シリーズに象徴されるような即物的ともいえるオブジェや立体の造形に新境地を開いている。そのありようは、「宇宙空間を漂い続けた池田の思考は、やがて引力に引き戻されるように地上に降りてきた」とも評されているようだ。
 また、60年代に「芸術と政治の距離」を実感したとのことだが、2007年には「青空の下を再び焦土にするな」、2010年には「散りそこねた桜の碑」を描くなど、決して「外側の世界」に対する視点を失ってはいないことも見誤ってはならない。さらには、これは指摘を受けて気が付いたことだが、池田はまだ画家としては自立出来なかったころ、木島始を通して絵本を手がけていた時代があり、中でも浜田廣介・文『ないたあかおに』(1965)は今もなお出版され続けている代表作となった。原画が陳列ケースの中に展示されていた。やさしい絵だと思った。
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 1階展示室前のロビーには撮影フリーで「漂着」(2001)が展示されていた。瀧口修造の「夢の漂流物」に触発されて制作されたという。日本のシュルレアリスト瀧口修造は池袋モンパルナスとのかかわりでも名前が出てくる。また一つピースとピースが繋がった。左下の床には「楕円空間」(1963-4)を図案化したものが描かれている。二つの中心点を持ち、運動体である楕円の発見にも心ひかれるものがある。






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# by yassall | 2018-05-05 16:53 | Comments(0)

9条改憲NO!平和といのちと人権を5.3憲法集会

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 5月3日、憲法集会参加のため有明・東京臨海広域防災公園へ出かけてきた。先週の天気予報ではGW後半は荒天とあった。カッパの着用を覚悟していたが、雨は朝のうちに上がり、暑くもなく、寒くもなくの天候となった。
 11時頃からイベントははじまっていたが、私は13:00の開会をめざして出かけた。有明駅に到着しても人出が多く、なかなか駅から出られない。ちょうど落合恵子氏のトークの最中にやっと会場入りが出来た。竹信三恵子、清末愛砂、山内敏弘氏らによるトークⅠのあと、立憲野党による政党あいさつ、プラカードアピール、おしどりマコ・ケンさんによるスピーチ、トークⅡ、全国統一署名報告というように進行した。
 立憲野党によるあいさつでは立憲民主党から枝野幸男代表、民進党から大塚公平代表、日本共産党から志位和夫委員長、社民党から又市征治党首があいさつし、自由党の小沢一郎代表がメッセージをよせた。希望の党にもよびかけはしたが参加はなかったという。
 プラカードアピールとは入り口で配られた3種類のカードを掲げてのコール。トークⅡでは沖縄平和運動センター議長の山城博治さんや福島原発告訴団団長の武藤類子さんら8名が登壇、さまざまな市民運動の先頭に立っている方々らしく、力強いスピーチが続いた。
 プラカードコンクールというのは参加者が持ち寄ったプラカードを、落合さんらが審査員になって優秀作品を表彰するという企画であるらしい。会場を回っていると、
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 何本もの釣り竿の先に紙に描いた魚が折からの風の中ではためいているのがみえた。
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 釣り竿の持ち主たちの足下をみると「渓流9条の会」というポスターが……。同好の仲間内の、たぶんそれほど大きくはない集まりなのだろうけれど、かえって運動のすそ野の広さとユーモア精神にも支えられたたくましさを感じさせた。
   ※
 参加者は6万人と発表された。昨年10月の衆院選で自民党は改憲4項目を公約にかかげて284議席を獲得し、政権与党の公明党をあわせて3分の2を維持した。国会でのは隠蔽や捏造、虚偽答弁を繰り返し、いまや窮地にたつ自民党ではあるが、憲法が危機に直面している状況には変わらない。
 改憲派は今年も公開憲法フォーラム(美しい日本の憲法をつくる国民の会・民間憲法臨調共催、会場は砂防会館)し、昨年に引き続き安倍首相は「この1年間で改憲の議論は大いに活性化し、具体化した」とするビデオメッセージをよせたという。
 帰宅後、TVのニュース番組をみていると、かなりの割合を改憲派の集会の報道にあてており、「改憲は多数の声」などとする参加者の声を拾い上げていた。安倍首相のビデオメッセージも改憲派の集会参加者の発言も「嘘ばっかり」であることは分かっていることだが、政権がいよいよ改憲に乗り出すときはマスコミも総動員して攻勢をかけてくるに違いない。その攻撃に負けないためにも今日のような集会を成功させ、確信を深めていくことが大切だと思った。
 

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# by yassall | 2018-05-05 13:50 | 日誌 | Comments(0)

ひたち海浜公園とあしかがフラワーパーク

 5月1日、ひたち海浜公園とあしかがフラワーパークの花めぐりのツアーに参加してきた。今年の花々の開花情報から、よほどキャンセルしようかと考えたが、せっかくなので出かけてきた。
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 ひたち海浜公園は昨年の秋に続いて2回目。前回は見頃直前というコキアはまあまあとして、雨風はげしく、ともかく天候に恵まれなかった。今回は春のネモフィラでリベンジをはかりながら、みごとに返り討ちにあったというところだろうか?
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 ネモフィラは小さな花で、近づいてよく見てみると一輪一輪はまだまだ元気に咲いている。確かにピークは過ぎてしまっているが、よくぞ持ちこたえていてくれたともいえる。それでも、この青空の下、丘全体を真っ青に染める景色を見たかったという思いは残る。
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 いっそ主役を変えてみようかというところ。まあ、このへんがあきらめどころだろう。
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 朝7:30に上野を発ち、9:30の開園と同時に入ったので、時間に余裕を持って園内を散策することが出来た。
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 あしかがフラワーパークの大藤も似たような状況だった。いつかの亀戸天神ほどではないにしてもやはり寂しい。

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 白藤も同じような状況。これは裏側だが、盛りのときは支柱高く何段にも渡されたパイプから垂らされ、大滝に見立てられている。まあ、空はきれいなので。
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 黄藤は少し開花が遅いのか、色もかたちもきれいに咲いている。亀戸天神でも黄藤は残っていた。
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 フラワーパークというだけあってその他にも様々な花が咲き誇っていた。
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 いくつかアップしてみる。
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 根津神社のつつじ苑では見頃を過ぎていたツツジもきれいに咲いていた。
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 種類も多いようだ。
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 もともと花園というのか西洋庭園風にガーデニングされた空間も好きな方なので園内めぐりは楽しかった。手入れも行き届いていた。
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 あきらめきれないので最後に藤の写真をもう一枚。


 EM10+9-18mm、TX1


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# by yassall | 2018-05-02 18:06 | 風景 | Comments(0)

2018年春季西部A地区演劇発表会

 4月29日、西部A地区春季演劇発表会の2日目に出かけてきた。28日の1日目には細田、新座、和国の3校の上演があったとのことだが、卒業生の公演と重なってしまい、行けなかった。2日目は朝霞、新座総合、朝霞西が上演した。新座柳瀬は急なことから上演を取りやめたとのことだ。どうしたことかと残念よりは心配が先にたったが、6月のコピスには出演できるとのことだった。

朝霞高校『赤鬼』野田秀樹・作
 「聖」と「俗」、あるいは「貴」と「賤」といったことを考えながら芝居を見ていた。
 『赤鬼』とは私が朝霞高校へ転勤となった年の3年生が卒業公演で演じていたのが最初の出会いである。3人しかいなかったし、中庭での道具もなしの上演だったが、いずれも力のある生徒たちで、1人で何役もこなしながら印象に残る芝居をしていた。台本も読んだ。「聖性」といった問題はかなり早いうちから考えにあったが、役づくりでも舞台づくりでもどうしてよいか検討もつかず、その後部員たちに提案することもなく終わった。どのように解釈し、どのように切り込んでいくかが課題だと思って来た。
 顧問のFさんは前からやりたがっていた。部員たちに提案したのは2度目だという。1度目はずいぶん前の代らしい。よくぞ部員たちが了承したものだと思う。このところ、朝霞はかなり難度の高い芝居に取り組んでいる。部員たちにしてみれば客席に受ける(=笑いがとれる)芝居をやりたがるところだろうが、たとえ高く固い壁に跳ね返されることがあったとしても、私はこうした芝居に真正面から取り組むことも高校演劇のひとつのあり方だと思っている。ああでもない、こうでもない、と思い悩む過程が貴重なのだ思っている。
 後で話す機会があったので、どのように脚本を理解し、解釈しようとしたのかをFさんに聞いてみた。Fさんの口からは「不寛容」ということばが発せられた。とんびとその妹の兄妹は村人たちからのけ者扱いにされている。そこへ異国の民らしき赤鬼(と呼ばれる男)が漂着する。兄妹(とくに妹)は赤鬼を村人たちからかばう。差別される者がさらに下位に位置する者を差別することで自らの境遇から抜けだそうとすることは通常にあり得ることだ。赤鬼が危害を及ぼす存在でないことを知ったことが大きいが、兄妹と赤鬼がなぜ接近できたのか、通じ合えたのかを考えることは大切な観点だ。「不寛容」を入り口とし、不寛容と必要以上の結束の強調(日本を批判する者は「反日」だ)が蔓延する現代を逆照射しようとすることはひとつの切り口である。
 『赤鬼』は人肉食を扱っている。極限的な飢餓にあって人肉食は許されるかどうか、人の肉を食って生き延びた者がその後どのようにして生きられるかは、重いが切実なテーマである。戦後文学の中でも武田泰淳の『ひかりごけ』や大岡昇平の『野火』がこの問題を扱っている。そうした飢餓状態の中での人肉食とは別に、古代や中世の戦闘集団の中で、敵の「力」を自分の内に取り入れることを目的とした人肉食がある。歴史の中では隠されているが、日本でも確かにあったという説を何かの本で読んだことがある。飢餓ではなく信仰(今日では迷信ということになるだろうが)が原因となる。野獣の世界でも共食いは見られるし、チンパンジーなどの類人猿の中には狩りを行うものもある。
 直接的な人肉食でなくとも、人間は他者の命(の全部あるいは一部)を奪いながら生きているというのが真実であるともいえる。自分一人の生のためである場合もあるだろうし、自分が所属する群れ(や国家)の存続や発展のためである場合もあるだろう。意識的な場合もあるし、無意識の場合もあるだろう。知っていて知らないふりをしている場合も多いことだろう。人間の業である。
 そこまで考えて『赤鬼』を振り返ってみる。赤鬼とされた男は確かによそ者であり、具体的には異国からの漂流民であるように見える。「でっかい船が見えた」という者がおり、水銀が兄妹と赤鬼を逃して小舟を出したのはその船に乗り込んで異国を見るためだという。
 実際に日本の海岸に自分たちと容姿が異なり、違う言葉をしゃべる異邦人が漂着したことはあるのだろう。だが、子細にみていくと、赤鬼はそうした漂着民とは異質であるように思われるのである。それは赤鬼の食べ物が花であることだ。赤鬼が花を食べて生きているとすれば、食料のことで人間と競合することはない。土地も資源も相互に争うことはあり得ないのだ。
 そればかりではない。赤鬼は自分を食って生きろ、と人間たちに言い放つのである。(この日の舞台では鬼の肉を食って長生きしたいという見物人に対しての科白になっているが、記憶では小舟の中で飢えに苦しむ同乗者に向かっても発言していたように覚えている。)私はそこに赤鬼の「聖性」をみるのである。野田は人間を超越した「聖性」の表象として赤鬼(まれびと)を描こうとしたのではないか、と考えるのである。
 赤鬼を食ったことを知った妹は村の岬から身を投げて自殺する。妹の自殺を重点に芝居づくりをしていけば人間に対する「絶望」がテーマになる。ところが芝居は兄のとんびのモノローグで終わる。「知恵」の足りないとんびは妹の「絶望」を理解できないというのである。とんびを重点にして芝居を解釈していったらどうなるのか?
 ドストエフスキーの『白痴』を想起している。[知恵」足らずのとんびは赤鬼とはまた違った意味で「聖性」の表象ではないのだろうか? そう考えると、そこには人間の「希望」が見えてくるような気がするのである。
 ※ブログを読んでくれたFさんから、小舟に乗り込んでからの赤鬼には自己犠牲にかかわるような科白はなかった、というメールがあった。私の記憶違いだったのだろう。ある思いが生まれると想念が勝手に膨らんでいくことがままある。いわゆる「深読み」のし過ぎには注意しなければならないが、テキストをきちんと読み込んだという前提のもとに、新しい解釈=切り口を発見していくことはあっていいと思っている。したがって自説を撤回することは今のところ必要ないと考えているが、この間のやりとりで水銀については新しい解釈が生まれてきた。ディスカッションの醍醐味である。テキストレジについての基本的な考え方についても教えてもらった。順当だったと思う。
  ※
 脚本解釈の問題から入ってしまった。3年生3人はよく演じていたと思う。(2年生1人もよくついていったが、まだまだ演技しようという意識が先にたって、役づくりまでには至っていない。上手くなっていくのはこの夏休みに苦しんでからだ。)3人とも1年生のときに招待してもらった試演会のときから見ていた。とんび役の生徒は早くに力をつけてきたが今回も難しい役をよくこなした。妹役の生徒は科白覚えが一番早いのだそうだ。そのせいかどうかは分からないが、これまでは一人芝居になってしまうことが多かった。今回はしっかり他の役者とからんでいた。一番の難役は「普通」のことばをしゃべれない赤鬼役だっただろう。科白を科白としてしゃべれないだけで相当の欲求不満があったはずである。よく耐え、演じきった。私が妹の「絶望」に重点があるのか、とんびの「希望」に重点があるのかに思い悩んだのは、皆それぞれが自分なりに役づくりにとりくみ、一定の到達点に達していたからだろうと言っておきたい。

新座総合技術高校『演劇部、始めました。』Kira・作
 部員が一人足らず、存続の危機に直面した演劇部が、内部分裂を乗り越えて文化祭公演を成功させ、新入部員を獲得するという演劇部物・学園物である。よくあるストーリーといってしまえばそれまでだが、練習をよくしてきたのは分かったし、間の作り方や、山場をどう作っていくかを会得すれば、もっと笑いもとれ、客を引き込んでいくことが出来るだろう。部員が大勢いて、楽しくやっているらしいのも見て取れた。
 感じたことを一ついえば、役の上の名前が分からなくなってしまったのだが、発声がまったく芝居がかっておらず(声が聞こえて来ない、という意味でなく)、なんだか普通の高校生が普通に教室でしゃべっていることばをそのまま舞台に乗せたような役者がいた。それがむしろ好ましく思えてきて面白くもあったし、新しい芝居のかたちの可能性を感じた。

朝霞西高校『朝日のような夕日をつれて 21世紀版』鴻上尚史・作
 朝霞西は何年か前にも『朝日のような夕日をつれて』を上演している。今回は21世紀バージョンであるという。以前の公演がなかなかよかったので、それが超えられるかどうかと思いながら見させてもらった。結論からいえば3年生男子5人の集大成ともいえる出来栄えに仕上がっていた。
 朝霞西の5人も1年生のうちからどこかで見覚えのある部員たちである。あのときのあの芝居に出ていた生徒だな、と思い出しながら見ていて、一人一人の成長ぶりを感じていた。あの頃はふとしたときに声が裏返りがちだったのに、今日はしっかり科白が出ているなとか、動きがとても自然になったなとかである。5人の息もしっかり合っていて、メリハリのある芝居運びが出来ていた。毎日の稽古を一緒に積み重ねていかなければこうは行かないものである。
 そういうわけでパフォーマンスはほぼ完成形といってよいと思ったし、鴻上の難解な科白もしっかり伝わって来た。ただ、芝居が胸に落ちてきたかというと、まだだった。まだだった、というのは、こちらの理解力の問題もあるから、回数を重ねて見れば分かるようになるかも知れないということもある。勢いで走りきってしまったことで、客の心に何かが引っかかる前に行きすぎてしまった、というようなこともあるかも知れない。だからといって、あまり思い入れたっぷりに科白を出されてもこの芝居は死んでしまうだろう。ここではパワーのようなものは確かに伝わって来たよ、とだけ言っておきたい。
   ※
 今回から打ち上げの宴席は遠慮するつもりでいたのだが、やさしいお誘いのことばをいただいて、つい出席してしまった。今年、定年を迎えたMさんの再任用先が地区外になってしまい、Sさんから「M先生も見えるというので」ということばを聞いて、席を共にしたいという気持ちがわき起こったことも理由のひとつである。(出席の理由を述べるのにSさんを引き合いに出したのはそういう経過からであって、自分の失敗や悪事の原因をなすりつけるためではない。むしろSさんの先輩愛をたたえたつもりだったので、その点悪しからず。)
 出席すればやはり楽しかったし、顧問の先生とつっこんだ話が出来たから朝霞の項ような長広舌をふるうことにもなったのである。だが、やはり今となると反省している。昔と比べると出席者が半減している。やはり打ち上げは現役顧問の方々が互いの労苦をねぎらったり、運営上の反省をしたり、各校の劇を批評し合ったりする場でなければならない。自分がそうした中で鍛えられてきたという意識があるから、やはりそうした場として復活させてもらいたいのである。
 もし、我々がいることでよけいな気遣いをさせてしまったり、気詰まりな思いをさせてしまったりしているとすれば、(きっとそんことを面と向かっていう人はいないだろうが)、自分から察して身を引かなくてはならなかったと思うのである。もし、その上で、たまには昔語りでも聞きたい、そのために別の席を設けてくれるとでもいうなら、ありがたく出席させてもらうということでいいではないか?  
 かつて「亡霊○号」を自称したのはKMさんだった。もちろん私たちは「亡霊」を歓待したが、自分もいつしか「亡霊」なりかかっているとしたら、そろそろ「通りすがり」の位置ぐらいまでポジションを移すべきときがきたのだと思うのである。さあ、宣言したぞ!



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# by yassall | 2018-04-30 20:20 | 高校演劇 | Comments(0)

東京ノ温度第7回公演『しゃーろきあん』

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 28日、卒業生のみかわやこと葉山美侑から出演情報があったので東京ノ温度第7回公演『しゃーろきあん』を見てきた。小屋は新大久保ホボホボ、作・演出は主宰者である川島広輝である。
 葉山と東京ノ温度との関わりは2017年1月の第3回公演からはじまり、今回で3回目である。小劇場での公演ながら着実に回を重ねていることは立派だと思うし、そうした中で葉山が使われ続けていることはありがたいことだと思う。
 葉山が演じる主人公・秋山珠理奈はシャーロック・ホームズに深いあこがれを持ちながら、実は浮気調査専門の私立探偵事務所につとめている。まだ見習いであるのに、求人情報をみて面接にやってきた和田(和田さん→ワトソン)とともに、所長に無断で猫のポシェット連続盗難事件にとりくみ、そこに浮気調査依頼を装った別れさせ屋とのドタバタがからむといった内容である。
 東京ノ温度の芝居は「ワンシチュエーションコメディ」というコンセプトにある通り、尖ったところのない、安心して見ていられる芝居をめざしていると理解している。第3回はAI社会の問題、第5回は現実世界とバーチャル空間の接点における死者と生者の再会といった、未来的あるいは宇宙的なテーマを扱っていた。
 それらに比して、今回は不倫やスキャンダルといった、いっそう日常的な関心をもとに芝居が組み立てられている。しかし、それだけに人間の心に生まれる猜疑心や誤解から始まった怨恨の無意味さが、軽いタッチの中にもチクリと胸に刺さってくるしかけになっている。SNSや加熱する週刊誌報道、ちょっとした時事ネタなども盛り込まれていて、確実に客をつかみ、笑いをとることに成功している。
 それよりも何よりも、題名にある通りのシャーロキアンぶりに関心させられる。よほど読み込まない限り、推理小説のかなりの愛好者でも知識にないような、さまざまな作品の断片が次から次へと引用される。そして東京ノ温度らしく、それらの断片が人生を送るにあたっての警句や人々の苦悩を解消させる癒やしになっているのである。マニアックであるがそれだけに終わらない幅の厚みが感じられる。
 川島広輝は劇団マカリスターに所属する俳優・劇作家・演出家で、東京ノ温度を旗揚げしたのは2016年だそうだ。劇団員としての活動は続けながら、やはり自分の思うような芝居づくりをしたいという欲求があるのだろう。ただ、若い俳優たちに舞台に立つチャンスを与えようとしているようにも見える。思い込みかも知れないが、実質的にそうなっているように思われる。そんな中、葉山は連続して主役級の役所を与えられている。その信頼に応えてか、葉山の演技も安定感が増し、他の若い俳優たちをリード出来ていたと思う。 




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# by yassall | 2018-04-30 16:51 | 日誌 | Comments(0)

根津神社からプラド美術館展へ

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 日本でベラスケスが見られるという。こんな機会を逃す手はないのだが、どうしたわけかなかなか足が向かなかった。10日も最初は西洋美術館が頭にあったのに、結局弥生美術館に行ってしまった。26日になってようやく腰を上げたのも、実は根津神社行きが先で、その後に上野に回れるとの算段からだった。
 とはいえ展覧会として充実していることに異議はまったくない。これまで図版でしか見たことがなかった「狩猟服姿のフェリペ4世」「バリェーカスの少年」などを間近に見られるなどということはもうないだろうし、こうした企画展にありがちなベラスケス以外は凡庸な作品を並べ立ててお茶を濁すなどということはなく、さすがにプラド美術館の所蔵作品だと感心させられる。ときとしてベラスケスが他の作品に埋もれてしまうほどだった。
 それは、たとえば「狩猟服姿のフェリペ4世」には明らかに描き直しの跡があり、まだ筆が定まっていないことが見て取れるといったこともある。しかし、それ以上に何か痛ましいものを感じ取ってしまうからかも知れない。
 『怖い絵』の著者中野京子によれば近親婚を繰り返した「高貴なる青い血」のスペイン・ハプスブルグ家の黄金期は2代目のフェリペ2世までで、4代目に当たるフェリペ4世は「無能王」とよばれ、その凋落のもととなった。戦争をすれば負け、領地を激減させた。ただ審美眼にはすぐれ、ベラスケスを宮廷画家として登用し、重用した。今日、フェリペ4世が歴史に名を残すのはベラスケスによってだというのは皮肉なことである。
 「王太子バルタサール・カルロス騎馬像」に描かれたバルタサールはフェリペ4世の最初の王妃であるエリザベートの間に生まれた王子である。しかし、悲運にもバルタサールは16歳で早逝してしまう。その後、フェリペ4世は姪のマリアナと再婚する。「ラス・メニーナス」に描かれた王女マルガリータはマリアナとの間の子である。同じくマリアナとの間に生まれたカルロス2世がスペイン・ハプスブルグ家の最後の王となる。親ゆずりの特徴的な面長の顔の肖像画が残されているが、相当の粉飾が施されているであろうにもかかわらず、明らかに病的なものが見て取れる。
 ベラスケスが優れているのは「神の手」ともいうべき超絶技法によるというより、一瞬でその人物の内面あるいはその後の運命までもとらえる人間観察力と、のちの印象派にもつながれるとされる技法の革新によるのだというのが、この日、理解したことである。
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 さて、冒頭に書いたとおり、この日まず最初に訪れたのは根津神社である。思い立った理由は、最近RX100をM3に買い換え、試し撮りをしてみたかったからである。
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 つつじ苑から楼門を望んだところ。宝永3年の建立。江戸の神社で楼門が残っているのはここだけだそうだ。
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 つつじ祭りは5月6日までだが、今年の天候から期待できないのは分かっていた。
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 まだ痛みのない花を探してみる。遅咲きのつつじもあるらしい。
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 乙女稲荷、駒込稲荷に続く千本鳥居を見下ろしてみる。
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 根津からどうやって上野に向かうか、いろいろ検討したあげく、徒歩で行くのが一番いいという結論に達した。約30分の道のりの途中に森鴎外居住之跡があった(現在は水月ホテル鴎外莊となっている)。ここに鴎外が住んでいたのは最初の妻である登志子との結婚時代のことだ。登志子とは1年半で離婚してしまったから、こちらにもどこか痛ましさが残る。
   ※
 RX100を買ったのは5年前だった。その後、機材が増えるにつれ、宙に浮いていた。M3は24mm始まりになったのと、小さいながらEVFがついた。発売は2014年。RX100より50g重くなったが、RX100シリーズはM4、M5となるにしたがってさらに重量が増えている。TX1との重量差は20gしかないが一回りは小さい。小さいことが善である場面もあるだろうと買い換えを決めた。RX100が20900円と私が購入したときの半額弱で手放せたことも決め手のひとつである。相変わらずのカメラバカである。





 

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# by yassall | 2018-04-27 19:23 | 散歩 | Comments(0)

セーラー服と女学生

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 4月10日、弥生美術館へ行ってきた。標題からして、趣味性あるいは人格を疑われてしまう虞れなきにしもあらずなので放っておいたのだが、いちおうアップしておく。まだ期間もあることだし。
 1階は高畠華宵、松本かづち、中原惇一といった、いわゆる抒情画が展示されていた。時代としては戦前である。明治期から始まった女子教育において制服の洋装化は何度か試みられたがなかなか成功しなかった、大正になってセーラー服が採用されると一躍全国に広まった、セーラー服はイギリス海軍の制服であり、もともと制服とするのに適していたという側面はあるが、それは採用の直接的な理由ではない、セーラー服は子供服や女性のファッションとして流行し、日本の女子教育で最初に制服として採用されたのはミッション系の学校であった、というような歴史が紹介されていた。男子学生の詰め襟と同様、もとは軍服であるというのが起原であろうと思い込んでいたので、認識を新たにさせられた気持ちになった。
 2階では現代画家による作品が展示されていた。江津匡士によると日本でセーラー服が制服として普及していったのは、そのユニセックスなファッションが日本人の体型に合っていたからであるという。すると、現代ではセーラー服の採用が少数になったというのも、日本人の体型の変化が理由であるということになる。
 その江津匡士のどこかノスタルジックな作品もよかったが、私が今回の企画展の目玉だと思ったのはチラシにある作品の作者である中村佑介である。『角川新字源』の特装版を手がけるなど、最近作品を目にすることの多くなった画家であるが、名前は知らなかった。本人によると、自分は「竹久夢二や林静一の系譜」に連なっていきたいとのことだが、夢二や林静一のウェットさは少しも感じられず、セーラー服も何かの表象であることを止め、ドライで即物的な心地よさが感じられたのだった。こうした出会いがあると出かけていった甲斐もあるというものである。

 

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# by yassall | 2018-04-27 16:33 | 日誌 | Comments(0)

済州島4.3抗争70周年記念講演とコンサートの集い 眠らざる南の島

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 4月21日、「済州島4.3抗争70周年記念講演とコンサートの集い 眠らざる南の島」が北とぴあ(王子)で開催された。誘ってくれたのは1月の映画『告白』で紹介した旧救援会のメンバーのCさんである。金石範氏の講演があるというので興味はひかれたが『火山島』を読んだわけでもなく、立山黒部アルペンルートの旅の翌日でもあり、最初は保留にしていた。ただ、Cさんは翌日も都内で用事があり、その日は池袋に泊まる予定だという。それでは夕食ぐらいつきあわねばなるまいというので行くことにした。
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 17:30からの日程で、内容は盛りだくさんだった。オープニングには千恵LeeSadayamaさんによる「常緑樹」の独唱、参加者全員による黙祷のあと、金英蘭舞踏研究所と宋栄淑による追悼の舞が上演された。金石範氏と文京洙氏による対談はそれらの開会行事のあと第1部として開かれた。対談といっても金石範(キム・ソクボム)氏が高齢のため耳がやや不自由になっているとの理由から文京洙(ムン・ギョンス、立命館大特任教授)氏と交代で発言するという形式をとった。
 金石範という名前だけは知っていたものの、どのような人物なのかはまったく未知であった。書いたものだけで想像するに峻厳というイメージがあったが、話しぶりは融通無碍とでもいうのか、ユーモアもまじえて会場からの笑いも誘うというようであった。短い時間であったのが残念だったが、済州島(チェジュド)事件を過去の歴史として埋もれさせてはならない、そのために92年の生涯を費やしてきた、文在寅大統領の登場によって名誉回復への希望がひらけた、といった思いは伝わってきた。
 また、近々に開かれる南北首脳会談とこれに続く金正恩・トランプ会談に対する期待がいかに高いかが2人の発言から伝わって来た。日本では一部に冷ややかな見方が存在するが、まだまだよそ事である証拠だろう。
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 第2部は韓国のシンガーソングライターであるアン・チファンによるライブコンサートであった。集会としては文化的な催しの方に重点を置いたらしく、約1時間半をコンサートに当てていた。会場入りして、ずいぶん若い人が多いなと感じていたが、在日の人に限らず日本人にも人気があるらしく、さくらホール収容人数1300人の座席はほぼ満員であった。アン・チファン氏も歌声で応えていた。
 トークでは「日本と韓国には共通点がある。それは両方とも島国であることだ。」と謎かけをしたのが印象的だった。38度線で分断され、自由に行き来ができない現状を「島国」に例えたのだった。「いつか自動車で北朝鮮へ、さらに中国へと旅するのが私の夢」と語るチファン氏に会場から熱い共感がよせられた。
   ※
今年4月3日、韓国では「済州島4.3事件」追悼式典が開催され、文在寅大統領が「国家暴力によるあらゆる苦痛に対し、大統領として深く謝罪する」と表明したと新聞に載っていた。金大中政権時代に「済州4.3特別法」が施行(2000)され、盧武鉉の時代に大統領として初めて謝罪を表明(2006)した。紆余曲折をへながらだが、文大統領は事件の真相解明と犠牲者の名誉回復が「中断したり後退したりすることはないだろう」と述べたという。
 「済州島4.3事件」は1948年4月3日、南北に分断された朝鮮半島の南部だけで総選挙を実施するという国連案に、分断を固定化するものだとして南朝鮮労働党の済州党組織が武装蜂起したことがきっかけだとされる。鎮圧のために軍・警察に右翼団体が加わり、多くの住民が無差別に殺害された。その数はおよそ3万人とされ、第二次世界大戦後に引き起こされた最初の大虐殺といわれる。
 しかし、事件の前段では同じ年の3月に南北統一をとなえるデモに警察が発砲し6人の死者が出るという出来事があり、これに憤激して展開された全島ゼネストに対し南朝鮮政府とアメリカが暴力で圧力をかけるという経過があった。右翼団体とあったが、その本体は北朝鮮の共産主義化に反発して南に渡ってきた西北青年団であり、これを済州島に渡らせたのはアメリカであったともいう。
 無差別殺害は49年にいったん収まったが朝鮮戦争の勃発によって再燃し、130余の村が焼かれ、「予備検束」されるままに拷問を受け、集団虐殺されるといった事態が54年まで続いた。その当時、済州島の人口は28万人程度だったとされる。殺戮を逃れ、島を去った住民も多数あり、最終的な終焉をむかえた1957年の島の人口は3万人弱であったという。
 連合軍は「西大西洋憲章」で「民族独立」をうたった。「西大西洋憲章」のアジアへの適用を訴えたのは蒋介石であったという。しかし、第2時世界大戦の戦後処理にあたって米ソは朝鮮の独立をみとめず、当分のあいだ保護国とすると定めた。解放直後から済州島には強力な人民委員会が存在し、朝鮮の独立と統一を訴えていた。おそらくは、そのような組織と運動は大戦中を通じて各地に作られていたと思われる。南北分断を固定化し、アジアに戦略的な拠点を置こうとする大国にとって、それらの組織と運動は排除されなければならないということではなかったのか、それが「4.3虐殺」の遠因ではなかったかと私は考えている。とすれば、そもそも38度線による分断の原因を作り出した日本の責任も大きい。
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 会場には「済州4.3平和財団」「済州4.3犠牲者遺族会」の人々など、大勢の方たちが韓国から来日していた。「済州島4.3事件」は1980年の「光州事件」とならぶ韓国現代史の暗部である。たとえ「不都合な事実」であっても、歴史の忘却、隠蔽、修正を許すまい、そのための痛みに耐えようという人々の勇気に見倣うべきものがあると思った。
 
 

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# by yassall | 2018-04-25 16:45 | 日誌 | Comments(0)