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2018年 12月 31日 ( 1 )

今年の読書から

 今年の読書を振り返ることで一年のまとめをしてみたい。昨年、読書量も読書力も落ち、「到達点はもちろん現在地点でさえ見失いがちである」と書いた。状況は少しも変わらないのだが、一年という物理的な時間は過ぎたわけだし、そうした反省も含めて一里塚を立てておくことは必要だと思うのだ。

  小森陽一編著『「ポスト真実」の世界をどう生きるか』新日本出版社(2018)
  小森陽一『心脳コントロール社会』筑摩新書(2006)


 辺見庸が『瓦礫の中から言葉を』NHK出版新書(2012)で、福島第一原発で炉心溶解を起こしたと同時に日本の法制度も溶解現象を引き起こし、底が抜けてしまった、というようなことを書いていた。
 今年一年を振り返ると、フェイク、すり替え、隠蔽、改竄が平気でまかり通るようになってしまったことに危機感をいだかざるを得ない。いわゆる「森友・加計」問題のみならず、その後に審議された働き方「改革」法案や改定入管法においても審議の前提となるデータ等の隠蔽や改竄が発覚した。
 (公文書の書き換えが暴露され、批判されると、今度は公文書には詳細を記すなという指示が出されたという。こうなると、もう文明国とはいえない。)
 それにも関わらず、与党はごり押しして平然としている。よく恥ずかしげもなく、と私などは思ってしまうが、今まで違憲とされてきた「集団的自衛権」を閣議決定で覆してしまった政権であるから、ひとたび関門を突破したらあとは一瀉千里ということなのだろう。まさしく底が抜けたありさまなのである。
 上記の2冊は、そのようなフェイク=「ポスト真実」がまかり通ってしまうような社会がなぜ生まれたか、その実態、また「ポスト真実」がもたらすものを解明しようとしている。前者は小森陽一と香山リカ、比嘉喜高、浜矩子、西谷修らとの対談によって組み立てられている。後者は前者で紹介されていた本。現在は絶版中であるらしいので古書を探して取りよせた。
 非マイノリティの不本意感(※)、分断と対立、敵と被害者、島宇宙などがキーワードになるだろうか? 「真実」を探求するには考える力・問う力(疑う力)が必要だが、人類が培ってきたそうした理性にかかわる力がやすやすと破棄され、快・不快、好き・嫌いという動物的な「心脳」に働きかけ、コントロールされる社会が到来したということのようだ。しかも、それらがマーケティング、インターネット、ITを駆使して行われる時代となったのだ。
 (一例として、「改革」という言葉がプラスのイメージとしてとらえられるなら、「改革を止めるな」というワンフレーズを連呼し、反対する者たちに「抵抗勢力」「守旧派」というレッテル貼りをしてみせる。するとその中身がどうであるかに関わらず、大衆的な支持を集めるという現象が起きてしまう。)
 (「非マイノリティの不本意感」は、後のテーマともかかわるグローバリズムの進行による国際競争の激化がもたらした、いわゆる中間層の解体にかかわっているのだろう。マイノリティに対して「特権化」という攻撃を浴びせているのはまさに「敵」を見誤っているのである。)
  ※
 それらと立ち向かうのは容易なことではない。考える力、読み解く力、人びととつながる力の基礎となるのは言葉の力である。

  紅野謙介『国語教育の危機』ちくま新書(2018)
  堤未果『日本が売られる』幻冬舎新書(2018)


 新『学習指導要領』の改定に向けての中教審『答申』(2016)では、「主体的・対話的で深い学び」や「情報を多面的・多角的に精査し構造化する力」が強調されたということである。まさに分断やポスト真実の時代を乗り越えるために必要な学力といっていいだろう。しかし、具体的な各教科の改定内容や入試「改革」とも一体となったその方向性をたどっていくと、それが真に「主体性」や「対話力」、情報の真偽を見極めていくためのリテラシーを育てていくようには見えないのである。
 「国語」における記述式問題の導入においても、サンプルとして提示された問題例は「景観保護ガイドライン」や「駐車場契約書」であったりで、もちろん扱い方にもよるだろうが、思考力や洞察力を高めたり養ったりするものであるかどうかはまことに疑わしい。
 「国語」の科目編成でも、まっさきに目に付くのは「論理国語」と「文学国語」の分離である。実際の教科書が出揃ってみないと何ともいえないが、「論理的な思考力」を育てるとしながら、言語を限りなく記号としてとらえていけば単純化するしかなく、ニュアンスは度外視されてしまう。言語の単純化がいかに人間の思考力を奪っていくかはオーウェルの『1984年』に見るとおりである。
 「文学国語」という設定にも疑問を感じる。「言語の価値」を認めているように見えながら、果たして文学を「言語文化」という枠に閉じ込めてよいものなのか? その分量も含めて近代文学がどう扱われていくかはまだ不明だが、近代文学とは日本人がいかに近代という時代と格闘してきたかの証だと、少なくとも私は考えてきたのである。
   ※
 『貧困大国アメリカ』を書いた堤未果の『日本が売られる』はよく読まれているようだ。書かれている内容は私なりにつかめていると思っていたので買っておいたままになっていたが、知人の読書評を読んでこれは緊急にも読まなくてはならないと思い返した。
 第1章第1項で最初に取り上げられているのは「水が売られる」である。先の国会で水道民営化法が可決した。衆院ではわずか8時間の審議であった。いつのまにこんなことが、というのが実感だが、すでに2013年に麻生財務大臣がアメリカに出向いて「水道は…すべて民営化します」と表明しているのだそうだ(戦略国際問題研究所CSISにて)。つまりは日本がいまだにアメリカへの従属から逃れられていないこと、海外の巨大メジャーの圧力に耐えきれなくなったこと、せいぜいが日本も含めた巨大資本が国境を越えて活動できる環境づくりに反対できないというところだろう。
 何でもコンセッション方式というらしいが、水道管施設の所有権は自治体に、浄水場の運営権は水道メジャーにということになるらしい。そのことは本書でも触れられているが、その理由も分かった。地震や台風と行った自然災害の多い日本ではしばしば水道設備が大きな打撃を受ける。そのことが海外メジャーの日本進出をためらわせてきたが、水道管の修復は日本で(せいぜい折半で)というなら安心だというのである。民営化を推進する側は水道施設の老朽化などと、もっともらしい理由づけをしているが、みな嘘っぱちである。
 第2章第1節は「労働者が売られる」である。先にあげた働き方「改革」法や改定入管法による外国人労働者の受け入れは「人手不足」が問題なのではなく、労働者を慢性的に低賃金・長時間労働に押しとどめる(あるいは今以上に切り下げる」ためであり、「企業が世界で一番活躍しやすい国づくり」という現政権の政策を実現しようというものである。
 ネトウヨたちは現政権に批判的な人物や組織を「反日」と決めつける。「反日」というのは戦前でいう「売国奴」ということだろう。誰が「国を売ろう」としているのか、そうした非難を繰り返す人びとはこの本を読んでよく考えた方がいい。
  
  見田宗介『現代社会はどこへ向かうか』岩波新書(2018)
  竹田青嗣『哲学は資本主義を変えられるか』角川文庫(2016)
 
 堤未果『日本が売られる』には、働き方「改革」法案や水道民営化法案など、それでもまだ比較的に表面化した問題以外にも、種子法の廃止や漁業法改定など隠密裏にすすめられてしまった制度改変の問題点と危険性も指摘されている。そのレポート力に感嘆すると同時に、「遠くのわかりやすい敵に気を取られ、近くにいる一番危険な敵を見落とせば、気づいたときには全方位囲まれて、あっという間にやられてしまう」という警告が身に迫った。
 そしてもうひとつ私が実感していたのは「商品一元化」という資本主義の原理である。「水」という生存にかかわる最も基本的な自然物も、人間の労働力も「商品」として値をつけ、もうけの対象として止まることを知らない。それはすでに「暴走」と呼ぶしかない域にまで達しているようだ。
 見田宗介『現代社会はどこへ向かうか』はロジスティック曲線(Ⅰ大増殖期以前、Ⅱ大増殖期、Ⅲ安定平衡期)をモデルにしながら、近代社会および資本主義が向かうべき方向を示そうとした一冊である。資本主義の矛盾は「域外」からの資源の調達と「域外」への排出にある。しかし、グローバリズムは「最終的」な有限性を露呈するにいたり、その矛盾の克服は急務であるとする。修正ロジスティック曲線という用語も紹介されており、その課題に応えられなければ「安定平衡期」ならぬ滅亡が訪れるというのである。
  ※
 竹田青嗣『哲学は資本主義を変えられるか』は、以前に『人間の未来』として出版されたものを文庫化にあたって加筆訂正し、新しい題名を付した本であるとのことだ。ホップス、ルソー、ヘーゲルの系譜に近代社会を基礎つける論理と思想があり、そこで示された「社会契約」「一般意志」「自由の相互承認」を市民的ルールとして再確立しなければならない、というのが主張の中心である(と私は読んだ)。
 権力がなくなればルールが成立せず、権力がなくなれば支配がなくなるというのは錯覚である、資本主義(自由市場)システムがなければ「市民国家」自体が可能でない、とする主張は、結局は体制を容認することにつながるが、まったく説得力を欠いているわけではない。資本主義を分析・批判したマルクスも、資本主義による経済発展が社会主義の前提になるとしている。
 国家は階級支配の道具である、というのは、国家の本質が官僚機構と暴力装置としての軍隊にあるとすれば、秩序の維持の名の下にしばしば国民を弾圧し、そればかりか(『日本が売られる』で見たように)ときに国民を売り渡そうとするところから、今日でもけっして誤りとはいえないと考える。それでも、「国家」にはそれだけでは足りない要素があるというのも気が付いていたところだ。
 ヘーゲルのいう「理性国家」を認めるなら、社会主義「国家」が計画経済をコントロールしていくことが可能だったのではないか、という素朴な疑問も読んでいて感じた。マルクスもヘーゲルから出たのだから当然なのか。
 このように賛意と反発が相前後している段階なのだが、「現在の大量消費、大量廃棄型の資本主義の性格を根本的に修正し、同時に、現代国家を「自由の相互承認」にもとづく普遍ルール社会へと成熟させる道」を模索していることには深く興味をそそられたし、さらに読み込んでみようとも思った。

  仲正昌樹『今こそアーレントを読み直す』講談社現代新書(2009)
  山崎雅弘『日本会議』集英社新書(2016)
  菅野完『日本会議の研究』扶桑社新書(2016)
  安田浩一『「右翼」の戦後史』講談社現代新書(2018)


 最初の2冊は以前にも紹介した読書会のテキスト、あとの2冊はその関連で読んだ。昨年のネイションから続く、国家と民族とは何かという問題意識にもとづく。


  末近浩太『イスラーム主義』岩波新書(2018)


 これも方向性は少し異なるが同じ問題意識から読んだ。アーレントは国民国家の中に「自/他」の二分法を見たが、国民国家が直接排外主義をもたらすのではない。グローバル化した競争社会が排外主義をもたらし、その一部が全体主義化していったのである。イスラーム主義もまた西欧への対抗として生まれた。その中に「もう一つの近代」あるいは新たな普遍主義の可能性が存在するかどうかがテーマである。
  ※
 本当は、もっと探究的でなければならないと思いながら、私の読書は寄り道のしっぱなしである。つまらない本もさんざん読んだが、


   植木等『夢を食い続けた男』ちくま文庫(2018)


 は面白かった。戦前期の社会主義運動や水平社の運動にかかわった、父、徹誠の一代記として書かれている。


by yassall | 2018-12-31 02:51 | 雑感 | Trackback | Comments(0)