2018年 04月 30日 ( 2 )

2018年春季西部A地区演劇発表会

 4月29日、西部A地区春季演劇発表会の2日目に出かけてきた。28日の1日目には細田、新座、和国の3校の上演があったとのことだが、卒業生の公演と重なってしまい、行けなかった。2日目は朝霞、新座総合、朝霞西が上演した。新座柳瀬は急なことから上演を取りやめたとのことだ。どうしたことかと残念よりは心配が先にたったが、6月のコピスには出演できるとのことだった。

朝霞高校『赤鬼』野田秀樹・作
 「聖」と「俗」、あるいは「貴」と「賤」といったことを考えながら芝居を見ていた。
 『赤鬼』とは私が朝霞高校へ転勤となった年の3年生が卒業公演で演じていたのが最初の出会いである。3人しかいなかったし、中庭での道具もなしの上演だったが、いずれも力のある生徒たちで、1人で何役もこなしながら印象に残る芝居をしていた。台本も読んだ。「聖性」といった問題はかなり早いうちから考えにあったが、役づくりでも舞台づくりでもどうしてよいか検討もつかず、その後部員たちに提案することもなく終わった。どのように解釈し、どのように切り込んでいくかが課題だと思って来た。
 顧問のFさんは前からやりたがっていた。部員たちに提案したのは2度目だという。1度目はずいぶん前の代らしい。よくぞ部員たちが了承したものだと思う。このところ、朝霞はかなり難度の高い芝居に取り組んでいる。部員たちにしてみれば客席に受ける(=笑いがとれる)芝居をやりたがるところだろうが、たとえ高く固い壁に跳ね返されることがあったとしても、私はこうした芝居に真正面から取り組むことも高校演劇のひとつのあり方だと思っている。ああでもない、こうでもない、と思い悩む過程が貴重なのだ思っている。
 後で話す機会があったので、どのように脚本を理解し、解釈しようとしたのかをFさんに聞いてみた。Fさんの口からは「不寛容」ということばが発せられた。とんびとその妹の兄妹は村人たちからのけ者扱いにされている。そこへ異国の民らしき赤鬼(と呼ばれる男)が漂着する。兄妹(とくに妹)は赤鬼を村人たちからかばう。差別される者がさらに下位に位置する者を差別することで自らの境遇から抜けだそうとすることは通常にあり得ることだ。赤鬼が危害を及ぼす存在でないことを知ったことが大きいが、兄妹と赤鬼がなぜ接近できたのか、通じ合えたのかを考えることは大切な観点だ。「不寛容」を入り口とし、不寛容と必要以上の結束の強調(日本を批判する者は「反日」だ)が蔓延する現代を逆照射しようとすることはひとつの切り口である。
 『赤鬼』は人肉食を扱っている。極限的な飢餓にあって人肉食は許されるかどうか、人の肉を食って生き延びた者がその後どのようにして生きられるかは、重いが切実なテーマである。戦後文学の中でも武田泰淳の『ひかりごけ』や大岡昇平の『野火』がこの問題を扱っている。そうした飢餓状態の中での人肉食とは別に、古代や中世の戦闘集団の中で、敵の「力」を自分の内に取り入れることを目的とした人肉食がある。歴史の中では隠されているが、日本でも確かにあったという説を何かの本で読んだことがある。飢餓ではなく信仰(今日では迷信ということになるだろうが)が原因となる。野獣の世界でも共食いは見られるし、チンパンジーなどの類人猿の中には狩りを行うものもある。
 直接的な人肉食でなくとも、人間は他者の命(の全部あるいは一部)を奪いながら生きているというのが真実であるともいえる。自分一人の生のためである場合もあるだろうし、自分が所属する群れ(や国家)の存続や発展のためである場合もあるだろう。意識的な場合もあるし、無意識の場合もあるだろう。知っていて知らないふりをしている場合も多いことだろう。人間の業である。
 そこまで考えて『赤鬼』を振り返ってみる。赤鬼とされた男は確かによそ者であり、具体的には異国からの漂流民であるように見える。「でっかい船が見えた」という者がおり、水銀が兄妹と赤鬼を逃して小舟を出したのはその船に乗り込んで異国を見るためだという。
 実際に日本の海岸に自分たちと容姿が異なり、違う言葉をしゃべる異邦人が漂着したことはあるのだろう。だが、子細にみていくと、赤鬼はそうした漂着民とは異質であるように思われるのである。それは赤鬼の食べ物が花であることだ。赤鬼が花を食べて生きているとすれば、食料のことで人間と競合することはない。土地も資源も相互に争うことはあり得ないのだ。
 そればかりではない。赤鬼は自分を食って生きろ、と人間たちに言い放つのである。(この日の舞台では鬼の肉を食って長生きしたいという見物人に対しての科白になっているが、記憶では小舟の中で飢えに苦しむ同乗者に向かっても発言していたように覚えている。)私はそこに赤鬼の「聖性」をみるのである。野田は人間を超越した「聖性」の表象として赤鬼(まれびと)を描こうとしたのではないか、と考えるのである。
 赤鬼を食ったことを知った妹は村の岬から身を投げて自殺する。妹の自殺を重点に芝居づくりをしていけば人間に対する「絶望」がテーマになる。ところが芝居は兄のとんびのモノローグで終わる。「知恵」の足りないとんびは妹の「絶望」を理解できないというのである。とんびを重点にして芝居を解釈していったらどうなるのか?
 ドストエフスキーの『白痴』を想起している。[知恵」足らずのとんびは赤鬼とはまた違った意味で「聖性」の表象ではないのだろうか? そう考えると、そこには人間の「希望」が見えてくるような気がするのである。
 ※ブログを読んでくれたFさんから、小舟に乗り込んでからの赤鬼には自己犠牲にかかわるような科白はなかった、というメールがあった。私の記憶違いだったのだろう。ある思いが生まれると想念が勝手に膨らんでいくことがままある。いわゆる「深読み」のし過ぎには注意しなければならないが、テキストをきちんと読み込んだという前提のもとに、新しい解釈=切り口を発見していくことはあっていいと思っている。したがって自説を撤回することは今のところ必要ないと考えているが、この間のやりとりで水銀については新しい解釈が生まれてきた。ディスカッションの醍醐味である。テキストレジについての基本的な考え方についても教えてもらった。順当だったと思う。
  ※
 脚本解釈の問題から入ってしまった。3年生3人はよく演じていたと思う。(2年生1人もよくついていったが、まだまだ演技しようという意識が先にたって、役づくりまでには至っていない。上手くなっていくのはこの夏休みに苦しんでからだ。)3人とも1年生のときに招待してもらった試演会のときから見ていた。とんび役の生徒は早くに力をつけてきたが今回も難しい役をよくこなした。妹役の生徒は科白覚えが一番早いのだそうだ。そのせいかどうかは分からないが、これまでは一人芝居になってしまうことが多かった。今回はしっかり他の役者とからんでいた。一番の難役は「普通」のことばをしゃべれない赤鬼役だっただろう。科白を科白としてしゃべれないだけで相当の欲求不満があったはずである。よく耐え、演じきった。私が妹の「絶望」に重点があるのか、とんびの「希望」に重点があるのかに思い悩んだのは、皆それぞれが自分なりに役づくりにとりくみ、一定の到達点に達していたからだろうと言っておきたい。

新座総合技術高校『演劇部、始めました。』Kira・作
 部員が一人足らず、存続の危機に直面した演劇部が、内部分裂を乗り越えて文化祭公演を成功させ、新入部員を獲得するという演劇部物・学園物である。よくあるストーリーといってしまえばそれまでだが、練習をよくしてきたのは分かったし、間の作り方や、山場をどう作っていくかを会得すれば、もっと笑いもとれ、客を引き込んでいくことが出来るだろう。部員が大勢いて、楽しくやっているらしいのも見て取れた。
 感じたことを一ついえば、役の上の名前が分からなくなってしまったのだが、発声がまったく芝居がかっておらず(声が聞こえて来ない、という意味でなく)、なんだか普通の高校生が普通に教室でしゃべっていることばをそのまま舞台に乗せたような役者がいた。それがむしろ好ましく思えてきて面白くもあったし、新しい芝居のかたちの可能性を感じた。

朝霞西高校『朝日のような夕日をつれて 21世紀版』鴻上尚史・作
 朝霞西は何年か前にも『朝日のような夕日をつれて』を上演している。今回は21世紀バージョンであるという。以前の公演がなかなかよかったので、それが超えられるかどうかと思いながら見させてもらった。結論からいえば3年生男子5人の集大成ともいえる出来栄えに仕上がっていた。
 朝霞西の5人も1年生のうちからどこかで見覚えのある部員たちである。あのときのあの芝居に出ていた生徒だな、と思い出しながら見ていて、一人一人の成長ぶりを感じていた。あの頃はふとしたときに声が裏返りがちだったのに、今日はしっかり科白が出ているなとか、動きがとても自然になったなとかである。5人の息もしっかり合っていて、メリハリのある芝居運びが出来ていた。毎日の稽古を一緒に積み重ねていかなければこうは行かないものである。
 そういうわけでパフォーマンスはほぼ完成形といってよいと思ったし、鴻上の難解な科白もしっかり伝わって来た。ただ、芝居が胸に落ちてきたかというと、まだだった。まだだった、というのは、こちらの理解力の問題もあるから、回数を重ねて見れば分かるようになるかも知れないということもある。勢いで走りきってしまったことで、客の心に何かが引っかかる前に行きすぎてしまった、というようなこともあるかも知れない。だからといって、あまり思い入れたっぷりに科白を出されてもこの芝居は死んでしまうだろう。ここではパワーのようなものは確かに伝わって来たよ、とだけ言っておきたい。
   ※
 今回から打ち上げの宴席は遠慮するつもりでいたのだが、やさしいお誘いのことばをいただいて、つい出席してしまった。今年、定年を迎えたMさんの再任用先が地区外になってしまい、Sさんから「M先生も見えるというので」ということばを聞いて、席を共にしたいという気持ちがわき起こったことも理由のひとつである。(出席の理由を述べるのにSさんを引き合いに出したのはそういう経過からであって、自分の失敗や悪事の原因をなすりつけるためではない。むしろSさんの先輩愛をたたえたつもりだったので、その点悪しからず。)
 出席すればやはり楽しかったし、顧問の先生とつっこんだ話が出来たから朝霞の項ような長広舌をふるうことにもなったのである。だが、やはり今となると反省している。昔と比べると出席者が半減している。やはり打ち上げは現役顧問の方々が互いの労苦をねぎらったり、運営上の反省をしたり、各校の劇を批評し合ったりする場でなければならない。自分がそうした中で鍛えられてきたという意識があるから、やはりそうした場として復活させてもらいたいのである。
 もし、我々がいることでよけいな気遣いをさせてしまったり、気詰まりな思いをさせてしまったりしているとすれば、(きっとそんことを面と向かっていう人はいないだろうが)、自分から察して身を引かなくてはならなかったと思うのである。もし、その上で、たまには昔語りでも聞きたい、そのために別の席を設けてくれるとでもいうなら、ありがたく出席させてもらうということでいいではないか?  
 かつて「亡霊○号」を自称したのはKMさんだった。もちろん私たちは「亡霊」を歓待したが、自分もいつしか「亡霊」なりかかっているとしたら、そろそろ「通りすがり」の位置ぐらいまでポジションを移すべきときがきたのだと思うのである。さあ、宣言したぞ!



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by yassall | 2018-04-30 20:20 | 高校演劇 | Comments(0)

東京ノ温度第7回公演『しゃーろきあん』

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 28日、卒業生のみかわやこと葉山美侑から出演情報があったので東京ノ温度第7回公演『しゃーろきあん』を見てきた。小屋は新大久保ホボホボ、作・演出は主宰者である川島広輝である。
 葉山と東京ノ温度との関わりは2017年1月の第3回公演からはじまり、今回で3回目である。小劇場での公演ながら着実に回を重ねていることは立派だと思うし、そうした中で葉山が使われ続けていることはありがたいことだと思う。
 葉山が演じる主人公・秋山珠理奈はシャーロック・ホームズに深いあこがれを持ちながら、実は浮気調査専門の私立探偵事務所につとめている。まだ見習いであるのに、求人情報をみて面接にやってきた和田(和田さん→ワトソン)とともに、所長に無断で猫のポシェット連続盗難事件にとりくみ、そこに浮気調査依頼を装った別れさせ屋とのドタバタがからむといった内容である。
 東京ノ温度の芝居は「ワンシチュエーションコメディ」というコンセプトにある通り、尖ったところのない、安心して見ていられる芝居をめざしていると理解している。第3回はAI社会の問題、第5回は現実世界とバーチャル空間の接点における死者と生者の再会といった、未来的あるいは宇宙的なテーマを扱っていた。
 それらに比して、今回は不倫やスキャンダルといった、いっそう日常的な関心をもとに芝居が組み立てられている。しかし、それだけに人間の心に生まれる猜疑心や誤解から始まった怨恨の無意味さが、軽いタッチの中にもチクリと胸に刺さってくるしかけになっている。SNSや加熱する週刊誌報道、ちょっとした時事ネタなども盛り込まれていて、確実に客をつかみ、笑いをとることに成功している。
 それよりも何よりも、題名にある通りのシャーロキアンぶりに関心させられる。よほど読み込まない限り、推理小説のかなりの愛好者でも知識にないような、さまざまな作品の断片が次から次へと引用される。そして東京ノ温度らしく、それらの断片が人生を送るにあたっての警句や人々の苦悩を解消させる癒やしになっているのである。マニアックであるがそれだけに終わらない幅の厚みが感じられる。
 川島広輝は劇団マカリスターに所属する俳優・劇作家・演出家で、東京ノ温度を旗揚げしたのは2016年だそうだ。劇団員としての活動は続けながら、やはり自分の思うような芝居づくりをしたいという欲求があるのだろう。ただ、若い俳優たちに舞台に立つチャンスを与えようとしているようにも見える。思い込みかも知れないが、実質的にそうなっているように思われる。そんな中、葉山は連続して主役級の役所を与えられている。その信頼に応えてか、葉山の演技も安定感が増し、他の若い俳優たちをリード出来ていたと思う。 




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by yassall | 2018-04-30 16:51 | 日誌 | Comments(0)