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2017年 06月 23日 ( 1 )

コピスみよし2017/第16回高校演劇フェスティバル 勝手に名場面集!

  6月18日、コピスみよし2017/第16回高校演劇フェスティバルが開催された。正確な来場者数は第4回実行委員会での発表を待たなければならないが、朝の一本目からほぼ満席という状況からして、例年を上回る盛況であったことは確実である。成功を喜びたいし、会館スタッフ、実行委員会の皆さんの労を多としたい。
  今年も写真記録班を担当。今年はKさんがFUJIのXシリーズ2台を引っさげて撮影に加わってくれた。どんな絵が出来上がってくるか楽しみである。私の方は今まであまり使ったことのないAFCを試してみたりしたが、結果としてはいつもとあまり変わらない仕上がりだった。各校に納得してもらえるショットが撮れたかどうかはおぼつかないが、各校の許可を得て、「勝手に名場面集」として何枚かをアップする。
  さて、ここ数年「勝手に名場面集」に「やぶにらみ観劇記」を添えている。今年も6校が出場したが、演目をみるとザ高校演劇あり、不条理劇あり、コメディあり、ファンタジーありと、各校の個性を存分に生かしたプログラムになっている。何とも多彩で、バラエティに富んでいて、楽しみが倍加することだなあ、と思っていたし、実際その通りだった。
  しかし、数日が経過し、さて「観劇記」を書こうという段になって、今年の6校の芝居が何やら不思議な因子で関連づけられ、系統立てられているような気がしてならなくなったのである。もちろん、それこそ私の勝手な思い込みで、いわば妄想のようなものであるのだが、いちど捕らわれるとなかなか抜け出し難いのである。何だか判じ物めいて恐縮なのだが、まずは各論に入る前にそのことを書いてみたい。
  ※
  最初に朝霞西高校による『ある日、ぼくらは夢の中で出会う』を置いてみる。新任刑事のカトウはTVの刑事ドラマにあこがれてこの世界に飛び込んで来た。しかし、その「夢」は現実の固い壁の前に粉みじんに砕かれる。そこまでは一般社会でも起こり得る当たり前の成り行きなのだが、その現実との格闘は少しもカトウを大人へと成長させはしない。むしろベテラン(?)刑事たち=現実の胡散臭さばかりがあからさまになっていく。カトウの心の中に生まれるのは失望と反感のみである。本来なら自分の目標となるべき先輩刑事たちを射殺することでカトウは自らの未来を閉ざしてしまう。否、それはすでに閉ざされている未来にケリをつけただけかも知れない。若者の「夢」の不可能性というマークをつけてみる。
  坂戸高校の『修学旅行』と東京農大三高の『翔べ!原子力ロボむつ』には若者たちの未来をふさぐものの正体というマークがつく。
  坂戸高校『修学旅行』の主人公である高校生たちは、まだ自らの「夢」=目標に対してすら無自覚な者たちだろう。ソフトボールに、新体操に、漫画に、それが自分たちの将来に繋がるかどうかなどということは考えもせずに、ただ毎日の高校生活に打ち込み、青春を謳歌している。修学旅行中の平和教育も生徒たちにとっては余所事でしかない。だが、その高校生たちも過去の歴史から自由であることはできず、現代という時代との関連の中で生きるしかないという事実からは逃れようもない。その影はいたるところで顔を出すのだが、正座を命じられた高校生たちが始める古今東西ゲーム中にいよいよ本体をあらわす。順番に国の名前をあげていく途中で、生徒の一人が「私たち、明日どうなるんだろう?」と突然つぶやく。それは他の全員を不安にさせる。「明日があるさ!」と他の一人が声をあげるとようやく元気づくが、どこか空元気で何の保証も根拠もないことを皆知っている。ゲームが再開されるが、列挙される国名は内戦や紛争をかかえた国ばかりである。沖縄は世界の紛争でしばしば米軍の出撃基地となっている。平和はみせかけで、いつか壊滅的な危機が襲来するのではないか、という不安は拭いがたい。
  東京農大三高『翔べ!原子力ロボむつ』では二つの「夢」が描かれる。カズキは町長となって「町を再興させたい」という夢をみる。その夢の実現のため、高レベル放射性廃棄物を無害化させるというプロジェクト「むつ」を誘致するが、町長としてその完成を見とどけるため自ら冷凍睡眠に入る。だが、何度目覚めても「むつ」は完成せず、何度かの氷河期を経て、5万年後には人類はとうに滅亡し、「原子力ロボむつ」も放射能の封じ込めもできないまでに破損してしまっている。その「むつ」もまた夢をみる。「人類の役に立ちたい」「アトムのように太陽に飛び込んで消滅してしまいたい」という夢である。だが、その夢は果たされない。人類はすでに大量の放射性廃棄物を抱えこんでしまっている。それなのに世界では大量の核兵器と多数の原子力発電所が保有されている。3.11後の世界の中で、「原子力ロボむつ」は警告の域を出て、人類の未来をふさぐ壁として立ちはだかるものの正体を指し示している。
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  柄谷行人は現代社会が直面する課題は、①戦争、②環境破壊、③経済的格差だという。同様のことは他の多くの人も指摘しているが、なかなか脱出口が見いだせない。朝霞高校の『酔・待・草』もそうした閉塞状況を表現しようとした劇ではなかっただろうか? 『酔・待・草』については朝霞高校が私の古巣であること、地区発表会の上演後、オリジナル性の問題が話題となったことから、私なりに原作にあたったり、いろいろ調べごとをして考えたことがある。『酔・待・草』の初演は1986年、旧ソ連でチェルノブイリ原発事故が起こった年である。これは偶然ではなく、原作ではブッチとサンダンスの会話の中に「チェルノブイリはどうなった?」というセリフがあるように、原作がどこかでチェルノブイリを意識して書かれたことは間違いないと思う。このセリフは朝霞版ではカットされていたのだが(それはそれでいいのだが)、2011年後の現在、芝居はブッチのセリフ「デ・ジャ・ビュ。…デ・ビュ・ジャの反対。きっと夢を見たんですよ。正夢ってヤツを。」さながらに不思議な既視感をもって眼前に立ち現れてくる。規制線で立ち入りを制限され、肉親の遺体とも対面できないこと、事件の解明のために派遣されてきた刑事たちも全く手をつけようとしない(出来ない)でいること、子ども達が大人を見つけては石を投げつけるという逆襲に出ていること、などを考え合わせると、この一本の木の立つ田舎の一本道という場が私にはフクシマのように思えて来たのである。最後にブッチとサンダンスはボリビアへと旅立って行く。そのボリビアで何が待っているか、1969年公開の映画「明日に向かって撃て」を見ている我々は知っているのである。
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  そうした閉塞状況からの出口を模索したのが星野高校の『リトルセブンの冒険』と新座柳瀬高校の『Love&Chance!』であったように思う。
  星野高校『リトルセブンの冒険』は「白雪姫」後日譚というファンタジー仕立てになっている。「白雪姫」で母親の王妃が倒された後、かえって鏡の魔力が高まり、制御不可能になってしまった、というのである。(どこか日本の現状と似ている気がしないでもない。)死んだ王妃の娘レッドローズはその鏡の雫を持ち出して新しい女王クリスタニアのもとから森へ逃れてきた。小人たちはレッドローズを助けようと立ち上がるのだが、なかなか気持ちが一つにならない。中でもフレイムとリキッドの二人は女王側について、かつての仲間と敵対する。魔法の鏡の魔力を制御するのに、女王側のミラード侯爵の魔力の方に期待してのことだった。しかし、その二人も仲間の危難をみて一族意識をとりもどし、再び仲間と結束する。たわいもないといえばたわいもなく、ただハラハラドキドキを楽しめばいいというお芝居ではあるのだろうが、より強まった危機に対する認識の共有、分断を乗り越える力、何より強大な敵に立ち向かっていく勇気といったものが提示されている。
  ハラハラドキドキを楽しむということなら新座柳瀬高校の『Love&Chance!』も同様である。夢物語は夢物語として楽しむべきだが、なぜ人間は「夢」を必要とするのかについても考えてみたい。
  この作品については、原題が「愛と偶然の戯れ」であったことを知って、次のような解釈が成り立つのではないか、と書いたことがある。

 「偶然の戯れ」とは「運命のいたずら」ということではないのか? 人間がいかに「知恵」をめぐらせたところで、かえってその「知恵」のために窮地に追い込まれ、思いもよらなかった運命に翻弄されてしまう。喜劇の背景に潜んでいるのはそのようなアイロニーである、と思ったのだ。そう考えると、オルゴン伯爵の占めるポジションは興味深い。オルゴンだけは最初からすべてを知っている。いってみれば人々の「運命」をつかさどる神の位置にいるのである。だが、その神でさえもその力でドラントとシルヴィアを結びつけることは出来ない。二人が結ばれるのはあくまで自らの「愛」に忠実であろうとした人間の営みなのである。稲葉智己の芝居にはヒューマニズムが底流に流れている、と考える所以である。

  マリヴォーが原作を書いたのは18世紀のこと。フランス革命にはまだ50年を待たなければならないが、ヨーロッパはすでにルネサンスの大きなうねりを経過している。「文芸復興」というより「人間復興」、人間復興こそが現代の閉塞状況を打ち破るための道標となり、人類の未来を切り開いていく原動力となるのではないか?
  ※
  少しばかり大仰な物言いになってしまったが、私としては今回も大いに想像力と思考回路を刺激され、錆び付きかけている感性と思考脳を多少なりとも活性化させてもらった。これらは私個人の内部に起こったことがらだが、それも演劇の有する力だと考えたい。
  ここから各論に入るのだが、今度はいいことばかりは書けないかも知れない。だからといって、1本の芝居を舞台に乗せるまでの労苦と情熱に対するリスペクトを欠いているつもりは少しもないことを予め断っておく。

県立坂戸高校『修学旅行』作・畑澤聖悟

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  何度見てもよく書かれた台本であると感じいってしまう。教師の視点と、生徒の視点とが共にあり、少しばかり危うい校内恋愛まで飛び出してくる。ああ、こんな日常があるなあ、という実感と、展開の思いがけなさが併存している。戦争と平和がテーマであるのは間違いないが、思うようには生徒に伝わっていない(きちんと受けとめている生徒もいるが)のは、教師側の平和教育に対するとりくみのどこかが間違っているのだろう。それでいて、宿の一室はいつしか戦場さながらの態になっていく様子が実に面白おかしく描かれている。
  いつも感心するのだが、坂戸高校の演劇部員はそうした背景としてのテーマ、芝居のしかけ、発せられるセリフの意味をきちんと理解してキャラクターづくりをしている。何度目かの観劇になる私の方が、かえって新しい発見をさせられたりするのだ。
  あえてコメントするならば、教師の前ではよい子を演じきり、クラスメイトの前ではわがままぶりを発揮する生徒会長役の生徒の二面性がもっと強調されてもいいのではないか、と思った。この生徒が台風の目となり、班の中に対立が生まれていく。他の生徒と同列になってしまわないことが大事だと思った。地だから仕方がないが、まだいい子過ぎた。
  台本は現代性を失っていないと思っているが、部屋は和風で(そうでないと枕投げは始まらない)、男子生徒は大広間で雑魚寝ということになっている。一昔前の修学旅行スタイルである。照明だけ現代的なリモコンだったり、壁際に並べられた旅行カバンが今風のスーツケースだったりが少しそぐわない気もした。カイトを呼んでくるように頼むときの「大広間云々」のセリフはカットしてもいいのではと思ったが、一部だけを変更すると全体のバランスが狂ってくるだろうか? 古今東西ゲームであげられる紛争地の国名も、現代であればもっと緊急な事態にある国が他にあるから、何に気づかせようとしているのか直感的には落ちてこない。時代をとらえた作品を時代が移っても演じ続けていく難しさを感じるところである。
  写真は班長が修学旅行最後の夜に楽しい思い出を作ろうと皆を説得しているところ。だが、どうも心がひとつにならず、皆が皆、てんでんばらばらである。もう1枚は正座させられるハメにはなったが、さまざまな誤解が解け、古今東西ゲームを続ける班員。皆いい表情をしている。
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朝霞高校『酔・待・草』作・竹内銃一郎

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  クライマックスに差しかかるところでカスミに単サスを当てたのはいいが、他の役者たちの前明かりを欠いてしまったのはかなりの打撃だった。前日のリハで照明Cue確認のとき、舞台上に役者を立たせなかったのがミスの原因である。(5月16日の出演校打ち合わせ会で配布されたプリントには「キャストに衣装を着せて、実際に立たせてみないと明かりは作れませんので準備をしておきましょう」と書かれている。)Cue確認とは明かりづくりであり、提出したCueシートの通りになっているかどうかだけでは不十分なのである。6年ぶりのコピス出場で、過去の経験が失われてしまったことによる初歩的なミスであったが、6年ぶりであったからよけいに残念だった。
  本番でも開演前からガチガチで、なかなか芝居が温まらなかった。そういうわけで決して成功とはいえなかったが、もと居た学校だけにこれまで辛口にならざるを得なかった朝霞高校の出場を、今回ばかりは応援したい気持ちでいたし、それは変わらないのである。
  2年前の地区発表会で高泉淳子の『ライフレッスン』を上演したとき、久しぶりに真っ直ぐに演劇にとり組んでいる姿をみたと思った。今回はその方向性にあると感じたし、舞台美術等の作り込みもはるかに向上している。照明の失敗も地区発表会から演出を再考し、役者の動きを変えたことが遠因になっている。お客に見てもらったときが最終形であるから、そんなことは何の言い訳にもならないが、最後まで芝居をよくしようとした結果だったと考えたい。3年生が中心だった『ライフレッスン』のときと比べると、ともかくも人数ギリギリを出演させた今回の方が見劣りすることは確かだ。だが、その分、皆で励まし合ったり、フォローし合ったりしながら稽古してきた様子は伝わって来た。
  今回のコピス出場をぜひとも今後の部活動に生かして欲しい。受けねらいだけの、お手軽で安直な芝居づくりには流れて欲しくない。3年間しかない演劇部生活で、もっと深いところで演劇を掘り下げていって欲しい。そしていつかリベンジを果たして欲しい。
(原作に改変を加えること是非、あるいはオリジナルの尊重の問題については私なりに考えたこともある。一般論としてもあるし、この作品についてはどうだったのか、ということもあるだろう。ただ、1953年発表の『ゴドーを待ちながら』を下敷きに、ヴラジーミルとエストラゴンを1969年公開の『明日に向かって撃て』のブッチとサンダンスに置き換え、1986年に初演された本作を2017年に上演しようというとき、ギリギリのところではあったが、このような演じ方があってもいいのではないかと思った。牧歌性は失われ、個々人はいっそう分断されている。私は田舎の一本道というこの場が不法投棄された廃棄物で覆われていてもいいとさえ思った。まあ、実際に演出を任されたら、やはり広漠たる空間であるべきだ、と思い直しただろうが。)
  写真は木の下で眠るように横たわるカスミと第一発見者のカオル先生。芝居の始まりである。もう1枚はボリビアに出発しようとする直前のブッチとサンダンス。ボリビアで何が待ち受けているかは前述した通りである。
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新座柳瀬高校『Love&Chance!』原作・ピエール・ド・マリヴォー 翻案・稲葉智己

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  シルヴィアとリゼット、そしてルイーズが新キャストである。シルヴィアのじゃじゃ馬ぶりが少しやさしい伯爵令嬢になってしまったり、替え玉にさせられたリゼットのアクの強さが薄まってしまったり、というのが最初の印象だったが、なかなかどうして立派な出来栄えで少しも不自然さがなかった。とくにリゼットやルイーズは1年生のはずである。驚異的な仕上がりの早さだ。セリフの駆け引きや芝居のテンポも狂いなく、このままでも上演可能という感想を持ったが、全国大会までの1ヶ月半、まだまだ作り込んで行くことだろう。
  そういうわけだから、柳瀬については何もいうことはないのだが、ますます磨きをかけて、仙台でも大いに観客をつかみ、楽しませ、黄色い歓声を上げさせて欲しい。
  写真はお互いに正体を明らかにし、晴れて結ばれようとするドラントとシルヴィア。やはり絵になっている。もう1枚はアルルキャンとオルゴンの掛け合い。この二人も大いに客を湧かせた。
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朝霞西高校『ある日、ぼくらは夢の中で出会う』作・高橋いさを

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  地区発表会のときと比較すると数段良くなったと思った。芝居づくりは丁寧で、一人一人の役者も自分の見せ場のようなものを心得ながら演技していると思った。だが、この台本は丁寧に作ろうとすればするほど、訳が分からず、客を置いていく結果になりはしないだろうか?
  とはいえ、どうしたらいいのかは私にも分からない。演劇部顧問に成り立てのころ、部員が「これをやりたいです」と初めて持って来た台本がこれだったという話を以前にも書いた。それ以来、折にふれて考えてみることがあるが分からない。
  転換勝負の芝居だ、ということが一つあるだろう。(そこで舞台装置も簡素で単純にせざるを得ないから、それらの助けを得ることもかなわない。)スピード命にしたとしても、刑事と誘拐犯との入れ替わりにはきちんとアクセントをつけていかないと、後半でめまぐるしく交替する場面で客を引っ張っていけない。
  それは誰でもいうことだろうが、私はもう一つ、一対三という構図をどう作っていくかが決め手になるのではないかと考えている。この芝居の対立軸は刑事対誘拐犯ではない。ベテラン(?)刑事・犯罪者たちと新米刑事・犯罪者なのである。新米からみたベテラン達の胡散臭さ、嘘っぽさ、いいかげんさ、それでいて頑強(犯人からの電話を聞きわけるのだから)な経験という壁に守られていること、それらに対するカトウの驚き、怒り、失望といったものが、それぞれに本当(「本当」の「嘘っぽさ」というのも変な言い方だが)でないと、客の笑いも共感も得ることが出来なかっただろう。
  写真は刑事たちが作戦を開始するシーン。もう1枚はカトウのモノローグ。ただ一人の三年女子が演じた。彼女のための演目だったのだろう。
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星野高校『リトルセブンの冒険』作・中島かずき

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  ともかく大勢が出演する、ビジュアルである、ファンタジーもの(そうでない年もあるが)である、という、いかにも星野高校の本領発揮という芝居だった。
  原作はもっと上演時間が長いに違いない。それを1時間に合うようにカットしていくから、どうしても前半はストーリーを追うだけになってしまう。それでも、つまみ食いをしているうちに何が何だか分からなくなってしまう失敗も多々ある中、物語の骨格というのか、設定がつかめてからはけっこう芝居に入っていけた。
  ビジュアル的にはクリスタニア女王と道化師コンパクトが優れていると思った。衣装も一番手間をかけたのではないだろうか? コンパクトは原作ではもっと出番があったのではないかと思った。少しもの足りない。
  演技的には悪役側ではミラード侯爵が声もよく出ていて達者だと思った。リトルセブン側ではリーダー的な存在であるひねくれ者のサンがはしこいキャラクターをよく出していた。続くのはフレイムだろうか? 最初は女王側についていたのだが、その理由を語る口調にも説得力があり、再び仲間のもとに帰ったあとも振る舞いが凛々しかった。自分たちも楽しみ、客も楽しませた。
  写真はリトルセブンが勢揃いしたところ。先ほど、女王と道化師がビジュアル的に優れていたと書いたので、星野だけ特別にもう1枚。
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  最後の1枚はレッドローズが最後の難敵ミラード侯爵を倒さんとするところ。こうした照明効果も演劇の見どころのひとつではある。けっこう好きだ。
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東京農大第三高校『翔べ!原子力ロボむつ』作・畑澤聖悟

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  農大三高の『ロボむつ』も今回で4回目の観劇となる。その4回の中で一番良かったと思った。それだけ農大三高演劇部の諸君がこの台本を大切にし、またコピス公演を大事なものと考えていたということではないだろうか? 
  自分たちにとってはすでに完成され、手慣れた芝居であったと思うのだが、いっそうの進化があった。初めて見た芝居であるかのように、セリフや演技が新鮮に感じられ、心に届いてきた。キャストの一人一人の輪郭が鮮明になって、キャラクターが立ち上がってきた。
  そういうわけで農大三高についても、もう何も書くことがない。そこで、前文の続きのようなことを書いてみたい。
   ※
  前文では、人類はもう引き返しようもないところに差しかかってしまったのではないか、というような悲観的なことを書いた。だが、本当は絶望感や虚無感にひたっている暇すらないのだ、と思うのだ。
  コピスみよし高校演劇フェスティバルの翌日、6月19日の朝刊で「韓国 原発新設を白紙化 文大統領宣言 寿命も延長せず」との見出しで、隣国である韓国が脱原発に向けて大きく舵を切ったということが報道されていた。実際には韓国では24基の原発が稼働中だそうで、現在の日本よりはるかに多い。しかし、一度は「40年」と定めた寿命をなし崩し的に延長し、世論を無視して次々に再稼働を決め、海外輸出まですすめようとしている国とどちらに未来があるか考えてしまう。
  私が高校から大学のころは韓国は軍事独裁政権の国だった。朴前大統領の父親である朴正煕は親日政策をとり、60年代に韓国の工業化を進めた。ずいぶん日本の資本がいったはずである。(現在の韓国における反日世論の一部にはその影響もあるのではないかと思っている。)
  また、歴史的に朝鮮半島は三つの国に分かれ、必ずしも国民はひとつに統合されていない。軍事独裁政権を打ち倒すには巨大なエネルギーが必要だったはずで、右に左に、その揺れ幅もまだまだ大きい。
  そんなこともあり、まだまだ予断を許さない状況ではあると思うが、未来に対する希望の光を点そうとする人々がすぐ隣にいることを私たちは心強く思わなくてはならないと思った。
  ※
  写真はオープニング。これも農大三高ならではだ。もう1枚はカズキとノゾミの出会いのシーン。ノゾミはカズキの初恋の相手と瓜二つなのだ。この二人の出会いと別れも切ない。
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 来年の第17回高校演劇フェスティバルは6月17日(日)と聞いた。皆で楽しみにしたい。では、本年はこれまで!


by yassall | 2017-06-23 17:23 | 高校演劇 | Trackback | Comments(3)