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2017年 03月 27日 ( 1 )

新座柳瀬高校「Love&Chance!」関東キャスト最終公演

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 25日、新座柳瀬高校「Love&Chance!」関東キャスト最終公演がコピスみよしで開催された。1月の年明け早々から準備がはじまり、ただでさえ慌ただしい学年末を乗り切り、終業式も終えたであろうこの日、滞りなく幕を開け、成功裡に上演を果たしたことに祝意を述べたい。
 また、今公演の主催は県立新座柳瀬高校と同全国大会記念公演実行委員会となっているが、高演連西部A地区でもコピスみよし高校演劇フェスティバルでも苦楽を共にしてきた一人として、実行委員の端くれに加えていただいたことに感謝している。
 当日配布されたパンフレットで、顧問のMさんが今回のコピス公演にかけた思いを綴っている。(いつものように智さんと呼ばないのは、顧問Mとしてのあいさつとは別に稲葉智己として作品解説の稿を起こしているからだ。)簡単にいえば自分たちを育ててくれたコピスみよしへの凱旋ないしは御礼公演ということになるが、同時に全国大会への出場を決めながらこの3月で卒業していかなくてはならない3年生のための最終公演ということになるのだろう。さらには下級生たちへの引き継ぎ式という意味合いもあるかも知れない。
 男役チームのドラント役とアルルキャン役の2年生は、そうした3年生にとっての晴れの舞台をミスなくつとめようとする緊張感からか、少し固さがあったかも知れない。といって、決して演技に精彩を欠いたなどということはなく、計算された間のとり方にも狂いはなかった。
 シルヴィア役とリゼット役の3年生は、生き生きのびのびとした演技で自らの役を演じきり、3年間の集大成とすると共に、後輩たちに確かなものを伝達し得た。
 オルゴン役のもう一人の2年生、3人の1年生も進境いちじるしく、8月の全国大会に向かって確かな手応えをつかんだことだろう。計算された舞台はこびの様式美と、その中でもどれだけ生き生きと役作りが出来るか、その両立が演劇としての成否を分けるのではないか、というようなことを漠然と考えているが、きっと彼・彼女たちはやり遂げることだろうと確信した。
 原作者のピエール・ド・マリヴォーなる劇作家については何も知るところがない。18世紀のフランスの演劇事情、たとえば観客はどのような階層の人々であったか、というようなことについても全く無知である。したがって、作品については語るところがない。ただ、喜劇である限り、どこかしらに体制を笑い飛ばしてしまえというような破壊力を秘めているはずだ、というような先入観があって、最初のような読み間違いをした。
 また、原作を読んでいないのだから翻案がどのようになされたかも不明である。ただ、比較してみれば、「運命の人との出会い」において従者や小間使いといった身分の低い者たちの方が自らの感情に率直であり、自由であるように描かれる。これに対して貴族の令息令嬢たちは不自由であり、自らの中に生まれた愛情もどこかで押し殺さなくてはならない。それは自分たちがしかけた「入れ替わり」という罠にはまってしまったというだけでなく、「身分違いの恋」の前で立ち往生を強いられてしまった結果なのだ。否、そもそも身分を偽ってみなければ「相手の真実の姿を知ることは出来ない」という発想そのものに身分制度への根源的な疑いと、それによってもたらされる非人間性に対する重大な告発が潜んでいる。半世紀後にはフランス革命の時代となる。その前夜とまではいえないかも知れないが、まだまだ人々が厳しい身分制度に苦しめられている時代であったとすれば、その矛盾もまた顕わになりつつあった、その矛盾を喜劇のかたちを借りて表現して見せた、と考えるのはあながち間違いではないように思うのである。
 私だとついそのように読みとってしまうから、たぶん同じ台本を渡されても、ドラントとシルヴィアの内面におけるとまどいや葛藤を強調するような芝居づくりをしてしまうことだろう。つまり、このあたりが方向性の「違い」ということなのだろう。
 ただ、先の作品紹介で、原題が「愛と偶然の戯れ」であったことを知って、また違った解釈が成り立つのに気がついた。「偶然の戯れ」とは「運命のいたずら」ということではないのか? 人間がいかに「知恵」をめぐらせたところで、かえってその「知恵」のために窮地に追い込まれ、思いもよらなかった運命に翻弄されてしまう。喜劇の背景に潜んでいるのはそのようなアイロニーである、と思ったのだ。そう考えると、オルゴン伯爵の占めるポジションは興味深い。オルゴンだけは最初からすべてを知っている。いってみれば人々の「運命」をつかさどる神の位置にいるのである。だが、その神でさえもその力でドラントとシルヴィアを結びつけることは出来ない。二人が結ばれるのはあくまで自らの「愛」に忠実であろうとした人間の営みなのである。稲葉智己の芝居にはヒューマニズムが底流に流れている、と考える所以である。
 パンフレットから読みとったことをもう二つ。キャストによるキャラクター解説のページが面白かった。その役を演じるにあたって、生徒が自らの頭で人物像を思い描いてみる。当たり前のようだが、役者たちが統一した世界観を共有するためにも、そのイメージを相互に出し合ってみることは必要な作業である。そればかりでなく、その作業を通じて生徒たちの人間理解が深まるはずである。場合によっては演出家の意図とは外れてしまったり、浅いところで止まったりしてしまうこともあるかも知れないが、得るものはそれより大きいはずである。
 もう一つは過去にさかのぼって、Mさんが顧問として実にていねいに部員たちの一人一人の個性や心情、そして世代間の影響を含めた人間関係をつかんでいることだ。生徒たちは時によって教師よりも生徒同士、とくに先輩たちの影響を多く受けるものである。その相乗作用がうまく働いたとき、部活動もうまく回転し、強靱になるものだ。部活づくりは一朝一夕にはいかない。今回の全国大会出場というのも、その積み重ねがあってのことだろうと改めて実感した。終演後、ロビーに出ると、私にも見覚えのある新座柳瀬の卒業生たちが、大勢で現役生を囲んでは我がことのように喜んでいる様子が目に飛び込んできた。

 



by yassall | 2017-03-27 02:24 | 高校演劇 | Trackback | Comments(2)