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2014年 12月 30日 ( 2 )

江古田市場 その2

 今年いっぱいで江古田市場が閉鎖になってしまうことを以前にお知らせした。その折に、もう一度写真を撮りにいきたい旨を書いたが、結局どうしたかというと、もちろん行ったのである。
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 ここが江古田市場の真ん中あたりということになるだろうか? 10年前の写真と比べてみてほしい。
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 道路に面したお店だけでなく、中通路に入ってみる。
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 入船屋さんは東京新聞の記事でもとりあげられていた。
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 こうした量り売りをするようなお味噌やさんはもう他では見られないだろう。
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 1度目に出かけたのが20日。入院中の旧友を見舞いに出かける前に立ち寄ったのだが、あいにくの雨模様だった。そこで翌週の27日にもう一度出かけて来た。
 この日はよく晴れて、人出も多かった。写真は市場の閉鎖を聞いて久しぶりに訪ねてきた客と楽しそうに話をはずませている大津屋さんの店主である。
 市場が閉鎖になっても、すべてのお店が閉店してしまうわけではなく、大津屋さんは道の向かいに店開きすべく新店舗を建築中であった。
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 品揃えも心なしか1週間前より豊富だった。その日の天候も見ながら客足を予想しているのかも知れない。
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 この鯛焼き屋さんは10年前の写真を紹介した際にもアップしておいた。子ども用の乗り物にブルーシートがかぶされている。向かい側にあった店はすでに更地になっている。
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 市場以外にも江古田の町をあちこち撮り歩いてきた。写真は見る人が見るとわかる。そう、喫茶店らんぷである。10年前にはすでに閉店していたが、窓枠などにまだ面影が残っている。

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by yassall | 2014-12-30 14:35 | 散歩 | Trackback | Comments(0)

今年考えたこと

 1
 今年も暮れていこうとしている。なし得なかったことを悔いる前に、そもそも何かをなそうとしていたかを自問してはぞっとし、それでも何を考えようとして来たのかを振り返ってみる。

 水野和夫『資本主義の終焉と歴史の危機』集英社新書(2014.3)
 香山リカ『リベラルじゃダメですか?』祥伝社新書(2014.8)
 古賀茂明『国家の暴走』角川ONEテーマ21(2014.9)
 矢部宏治『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』集英社(2014.10)
 池上彰・佐藤勝『新・戦争論』文春新書(2014.11)

 今年後半にかけて読んだ本を並べてみた。何の脈絡もなく、偶然手にした本を、休み休み読んだのである。それでも、私の中ではある問題意識が一貫しているのがわかる。
 その問題意識とは、広義には資本主義はこれからどうなっていくのだろうか、ということであり、狭義にはこれから日本はどうなっていくのだろうか、ということである。

 水野和夫は、

 ①資本主義は「中心」と「周辺」から構成され、「周辺」つまりフロンティアを広げることによって「中心」が利潤率を高め、資本の自己増殖を推進するシステムである。
 ②しかし今日、新たなフロンティアはほとんど残されておらず、「地理的・物的空間(実物投資空間)」からも「電子・金融空間」からも利潤をあげることができなくなっている。
 ③それでもなお利潤をあげようとして生まれたのがグローバリゼーションである。グローバリゼーションとは、「中心」と「周辺」の組み替え作業であり、それは国際関係の中でも一国内でも起こる。
 ④それは具体的には格差の拡大であり、中間層の解体である。
 ⑤中国が一時的に経済成長のトップに躍り出たとしても、資本主義を延命させる「空間」はほとんど残されておらず、そう遠くない将来、現在の先進国と同じように「利潤率の低下」という課題に直面する。
 ⑥過剰な投資が無人のマンションを多数建設しているのに象徴されるように、無理矢理にでも利潤を追求しようとすることはバブルを作り出すことであり、それはいつか破裂する。

 と述べる。
 実際には、アメリカ、新興国、日本、西欧のそれぞれの現状と経済政策をさまざまなデータを駆使して検証していくのであるが、ここ20年くらいの間に世界で起こった出来事を説明して説得力がある。
 そして、何より重要な指摘は、

 ⑦本来、民主主義と国民国家は資本主義との親和性が高かった。だが、「公平」な分配の能力を失い、「自由」競争が弱肉強食に取って代わり、グローバリゼーションによって国家への帰属感が希薄になるのしたがって、それらと資本主義とは矛盾をきたすようになった。

 というものである。それは、

 ⑧中間層が資本主義を支持する理由が失われた。

 はずなのだが、国民国家の解体に直面した危機意識から、かえってそれを補完するかのように排外主義をともなった新たなナショナリズムが起ころうとしている。
 だが、実体は、

 ⑨かつては、A.スミス、マルクス、ケインズがブレーキ役となり、それが資本主義を延命させてきたのであるが、21世紀グローバル資本主義はブレーキなき資本主義となった。

 のであり、

 ⑩このまま「成長の病」にとりつかれ、国境の内側や未来世代からの収奪を続けていけば、経済危機のみならず、国民国家の危機、民主主義の危機、地球持続可能性の危機を顕在化させる。

 そこで水野和夫が提起するのは、このような「歴史の危機」を直視し、資本主義からのソフト・ランディングをめざすべきであり、いちはやく資本主義の臨界点に達した日本こそ、その可能性を秘めているというのである。

 2
 そこでハタと考える。かつての「資本主義の全般的危機」論とはどこが違うのだろうか、と?
 「資本主義の全般的危機」論とは、最初プハーリンによって提唱された、第1次世界大戦およびロシア革命後の資本主義についての規定である。
 第1次世界大戦が植民地の「再分割」のための帝国主義間の戦争であったとすれば、先の水野和夫の「中心」と「周辺」の「組み替え作業」というのと類似している。つまり「資本主義の全般的危機」論とは資本主義「行き詰まり」論であり、いまや没落に向かいつつあるという情勢論である。
 第1次、第2次世界大戦をへて、イギリスに代わって世界の覇権を握ったのはアメリカであった。2度の世界大戦をへても資本主義は「終焉」しなかった。それでも、そのアメリカがベトナム戦争に敗北し、ドルが暴落し、オイルショックを迎えた1970年代には「資本主義の全般的危機」論にはなにかしらの説得力があった。

 日本共産党が「資本主義の全般的危機」規定を綱領から削除したのは1985年である。詳しいことは忘れたし、資料も残っていないが、資本主義にはまだ生命力があり、革命勢力との力関係からして、そのような「自動崩壊」論のような見解はとらない、というようなことであったと思う。
 日本共産党は1996年に「自由と民主主義の宣言」を発表し、2004年に「綱領」を改定した。それによれば、

 ①社会主義的変革は、短期間に一挙におこなわれるものではなく、国民の合意のもと、一歩一歩の段階的な前進を必要とする長期の過程である。
 その出発点となるのは、社会主義・共産主義への前進を支持する国民多数の合意の形成であり、国会の安定した過半数を基礎として、社会主義をめざす権力がつくられることである。そのすべての段階で、国民の合意が前提となる。

 として、議会を重視する平和革命(議会で多数派を握るだけでは社会変革は完成しないが出発点にはなる)、多数者革命(過去の革命が「少数者による多数者のための革命」であったとすれば、めざすべきは「多数者による多数者のための革命」)路線を確定したとする。

 社会主義社会の指標は、①労働者階級の権力、②生産手段の社会化、③計画経済であるとされる(※)。
 これらを強力革命によって達成しようとするなら、強大な国家権力を必要とする。社会主義・共産主義は本来「国家の死滅」をめざすものであるのに、最大の矛盾をかかえることになる。そして、そこに誕生した強権国家は人民の弾圧、社会の停滞、さらには腐敗を生み出す。
 (※日本共産党の2004年「綱領」では、これらのうち「社会主義的変革の中心は、主要な生産手段の所有・管理・運営を社会の手に移す生産手段の社会化である。社会化の対象となるのは生産手段だけで、生活手段については、この社会の発展のあらゆる段階を通じて、私有財産が保障される」としている。「労働者階級の執権」は強調されていない。)
 ソ連の失敗に学ぼうとすれば、「多数者革命」を革命理論として採択することは当然である。そこで、日本共産党は、

 ②現在、日本社会が必要としている変革は、社会主義革命ではなく、異常な対米従属と大企業・財界の横暴な支配の打破――日本の真の独立の確保と政治・経済・社会の民主主義的な改革の実現を内容とする民主主義革命である。

 とするのである。

 ここからは私の当て推量なのだが、少なくとも近い将来に「社会主義をめざす権力」が「国民の合意」によってつくられるというのは想像しがたく、しかしそのような「国民の合意」がなければ社会主義に移行しようとはしないというのは、事実上「革命」を棚上げしたということではないのか?
 「革命」の時代を生きた人間たちには一抹の淋しさをぬぐいきれないだろうが、今日までの歴史を振り返ってみれば、それは冷静な判断であろうし、マルクス主義を真に現代に生かすにはあるいはその道しかないのではないだろうか?

 3
 少しばかり脱線をした。水野和夫の所論を「資本主義の全般的危機」論と区別するとしても、資本主義が行き詰まりに陥っているのは確かなことだろう。
 問題は次の段階に何が待っているのかということである。いくつかの可能性を考えてみる。

 ①過去に繰り返されたように、恐慌あるいは戦争が勃発することによってリセットされ、新たな資本主義の段階がはじまる。
 ②資本主義に代わる新しいシステムが生まれる。
  ②-ⅰ 社会主義社会(あるいは社会主義的な計画経済)が生まれる。
  ②-ⅱ 国家社会主義(ファシズム)が生まれる。
  ②-ⅲ 「ゼロ成長」を基調とする第三のシステムが生まれる。

 当面のことでいえば①は現状そのものである。資本主義の延命をはかろうと、いっそうの「強欲」さを発揮しようとしている。しかし、1の⑩の指摘を待つまでもなく、それは永遠ではあり得ない。
 ②-ⅰについては2でふれたソ連の失敗のみならず、当初に掲げられた理想に比し、あまりにもモデルとなるものがなさ過ぎる。急激な「成長」の陰で、国内外で矛盾を深めている中国のみならず、ベトナムまでもが市場経済化を志向しようとしている。「低成長」社会でありながら、教育や医療においてトップ水準にあるというキューバが、現存する社会主義国の中ではあるいは最優等生であるかも知れないが、アメリカとの関係改善で今後どうなっていくであろうか?
 さて、第2次世界大戦で枢軸国側であったイタリア・ファシズム、ナチス・ドイツ、大日本帝国が無残な敗北に終わった通り、②-ⅱもまた歴史において検証済みである。
 しかしながら、資本主義あるいは近代社会が危機におちいろうとするとき、必ず頭をもたげてくるのがこの国家社会主義なのである。しかもそれは「上」からの全体主義としてだけでなく、「下」からの(いわば「国民運動」あるいは「国民運動」を装ったそれとしての)ファシズムとして顕れるところに始末の悪さがある。

 この問題に警鐘を鳴らそうとしているのが、 香山リカ『リベラルじゃダメですか?』である。香山は自らをリベラルという立ち位置におくことで、憎悪の標的となっていること、いつの間にか「少数者」の側に追い込まれていることをひしひしと実感するという。
 香山はリベラル批判にも耳をかたむける。すると、リベラルであることが今日では「保守」の側に回ってしまっていること(自民党・安倍首相が「改革者」にみえる)、リベラル=既得権者として自分たちは安全圏に身をおいていると受け取られていること(生活保護でさえも「公平」の観点から否定されたりする)、「正しさ」が「上から目線」として押しつけがましく感じられていることなどが分析されている。
 リベラル側の自己批判として、そもそもの目標が正しければ「正しい」と受け取られるはずだという純潔主義、さらにはそのことから発するデリカシーの欠如があったことも指摘される。
 それらを踏まえた上で、リベラル批判に対する反批判として、

 ①根拠なき批判:リベラル派は北朝鮮から金をもらっているのごとき妄想や陰謀論
 ②誤った批判:ⅰ)新自由主義こそがグローバル世界のスタンダードであり、競争や格差拡大は当然である、ⅱ)歴史修正主義・国粋主義・排外主義を「正義」と考えている

 をあげ、さらに佐藤勝の所論だという、

 ③反知性主義:実証性や客観性を軽んじ、自分が理解したいように世界を理解する態度

 がまかり通っていると指摘している。
 このように分析されると、ここ数年で起こっている理解不能だった出来事が氷解していくのを感じる。「米軍基地をなくせ」とか「原発再稼働反対」などというと、それらは「国益を損なう主張だから非国民だ」などという勢力が本当に出現しているのだ。

 4
 こうした国家社会主義(=ファシズム)が横行しやすいのは、資本主義の延命をはかろうとする権力側から利用されやすいという背景がある。
 新自由主義(野放しの「自由競争」によって利潤を拡大しようとする)・新保守主義(国家権力の全体主義的な強化によって危機を克服しようとする)が、それぞれの頭に「新」をいただくのは、これまでの資本主義が「行き詰まり」に突き当たっているという自覚によっている。
 新自由主義と新保守主義は価値観において相反するはずなのであるが、どちらも「強力」に対する信奉という点で一致し、リベラル批判勢力の心をとらえているのもおそらくはその一点なのである。

 古賀茂明『国家の暴走』は、国家権力の側がすすめようとしている「軍事立国」の危険性を指摘し、批判する。詳しくは解説しないが、①日本版NSC(国家安全保障会議)法、②特定秘密保護法、③武器輸出三原則の廃止、④集団的自衛権の行使容認、⑤「埋めよ増やせよ」政策、⑥集団安全保障での武力行使の容認、⑦日本版CIAの創設、⑧ODAの軍事利用、⑨国防軍の保持、⑩軍法会議の設置、⑪基本的人権の制限、⑫徴兵制の導入、⑬核武装が、日本が「戦争をするための13本の矢」だという。経産省の官僚として、一時は権力の中枢近くにいた人物のいうことだけあって、独特の説得力がある。
 また、経産省の出身らしく、経済政策としてのアベノミクスにも批判は及んでいる。しかしながら、安易な「成長至上主義」批判の立場はとらず、「仮に日本が成長を目指さないとしたら、成長が止まるだけではすまない、今の国民の生活水準を維持していくことはできなくなる」という。資本主義の「次のシステム」を探究するうえでの難問である。
 しかし、

 ①サステナビリティがキーワードであり、限りある資源やエネルギーや環境、そして文化や人と人との繋がりを次世代以降にきちんと残せるような生き方が求められている。

 というところで一致点を見いだしいくことは可能だろう。「最終的に100%自給できる自然エネルギー大国へ」や「日本らしさでスイスのような観光立国を目指す」などの「日本再興への提言」には勇気づけられる。

 5
 すっかり長くなってしまったので、後の2冊については簡単にふれる。

 矢部宏治『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』は、戦後日本がいかに日米安保体制の中でがんじがらめになっているかを明らかにしようとしている。
 それは幕末の開国当時、西洋列強からさまざまな不平等条約を押しつけられた様に似ている。だが、なんとかそれらの不平等条約を解消しようとした往時の明治政府の気概すら感じられないのは、アジア太平洋戦争の敗戦後、アメリカの後押しで政権の座についた者たちが、いまだにそのコントロールから抜けだせないからだろう。
 同じ敗戦国であるドイツや旧植民地であったフィリピンが、さまざまな交渉を通じて米軍基地を追い出した実例が詳細な資料とともに紹介されている。
 いかに「軍事大国化」をめざしたとしても、日米安保体制がある限り日本は独立国ではあり得ず、目下の同盟国として利用されるだけである。そこにも安倍自民党がすすめる「国の安全を守るため」という政策のまやかしがある。
 なお、日米安保条約によれば「基地」の撤去は「日米合意」によってしか実現できないが、安保条約そのものはどちらか一方の国が破棄を宣言すれば1年で効力を失うのである(ものすごい反動攻勢があるだろうが)。

 池上彰・佐藤勝『新・戦争論』は、ジャーナリストと元外交官がロシア・中国・朝鮮半島・中東・欧米諸国といった地球規模での世界情勢を、「戦争」という観点から分析した本。
 安倍自民党は「積極的平和主義」をかかげるが、うかつに武力をもって世界に出て行ったらどんな目に遭うか考えさせられる。

 6
 「何を考えようとして来たのかを振り返ってみる」といいながら、本の紹介で終わってしまったようだ。
 「ゼロ成長社会」は存立しうるか、といった問題だけでも、私の力量をもってしてはその答に到達できそうもない。
 だが、何も知らずに、あるいは何も知ろうとせずに、今の世を生きることは出来ない。あとから、「私は欺されていた」などとトンチンカンなことをいわずに済むようにしたい。
 ときに知ることによって自分の無力さを突きつけられ、ニヒリズムに陥らないようにすることで精一杯のときだってある。
 それでも「知ろう」とし、「考えよう」とし、「伝えよう」としなければならないのだろう。願わくば、その営みが人々と共同のものであったらよいと思う。
  ※
 「内憂外患」というときの「外患」にあたることを主に書いた。「内憂」はどうなっているかというと、こちらもまた、憂い止むことを知らず、年はとりたくないものだ、状態なのである。
 まあ、人間はいつどうなってしまうか、誰しも一寸先は闇なのだから、動けるうちに行きたいところに行き、目が見えるうちに見たいものを見、会いたい人に会っておきたいものだ。その意味で、今年一年お付き合いいただいた皆さんには、心から感謝するばかりである。


by yassall | 2014-12-30 01:18 | 雑感 | Trackback | Comments(0)