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2013年 07月 30日 ( 2 )

大正浪漫探偵譚

はっぴぃはぴぃどりーみんぐ「大正浪漫探偵譚」を観てきた。小屋は八幡山のワーサルシアター。朝高演劇部OGのみかわやが今は葉山美侑を名乗って小さい役ながら出演しているのだ。
劇評はしないが、ダンスあり、けっこう激しい殺陣ありで、エネルギッシュで若々しい舞台だった。これから大きくなっていく人たちなのだろう。
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8月1日まで。
by yassall | 2013-07-30 20:24 | 日誌 | Trackback | Comments(0)

つい一言 2013.7.30~9.10

 大阪の平和博物館「大阪国際平和センター」のリニューアルにともなって、第2次世界大戦中の旧日本軍の行為に関する展示を大幅に縮小するとした基本設計案(中間報告)が明らかになったそうだ。
 現行の展示は、展示室A「大阪空襲と人々の生活」▽展示室B「15年戦争」(満州事変~日中戦争~太平洋戦争)▽展示室C「平和の希求」で構成。Bは南京大虐殺や朝鮮人強制連行を展示し、保守系の団体や議員が「自虐的」と指摘していたとのこと。
 松江市の「はだしのゲン」事件とどこか似ている。松江市では「市民」の「抗議」と請願がきっかけだったというが、どうも背後では在日韓国人・朝鮮人に対するヘイトスピーチ・デモで知られる「在特会」(在日特権を許さない市民の会)が関係していたようだ。
 「自虐的」のレッテルのもと、歴史に目をつぶり、負の遺産をなかったことにしようというのは、汚染水の漏洩を直視せず、「完全にコントロールされている」と強弁することと通じている。
 大事なことは、ことばの心地よさにだまされないこと、臭いものに蓋をしたからといって臭いのもとは断たれていないことを肝に銘ずることだろう。
 ファシズムは上から押しつけられるばかりでなく、下からも(民衆の側からも)これを呼び込んでしまう危険をはらんでいるのだから。(9月10日)

 2020年の東京オリンピックの開催が決定したようだ。安倍首相の「汚染水は港湾内で完全にブロックされている」「コントロール下にある」との強弁が功を奏し、世界がこれを認めたということになったら、現政権はますます力を得てしたい放題のことを始めるのではないか?
 最近のニュースで気になったのは、「特定秘密保護法案」について、政府はパブリックコメントを始めたが、同じ与党である公明党には事前の説明がなく、抗議されたということだ。(公明党には自民党のブレーキ役として節を通してほしい。エンジンだけでブレーキがなければ車はどこへ走っていくかわからない。)
 当分オリンピック熱にうかされることになるだろうが、原発の安全審査・再稼働、憲法改悪、TPP、庶民増税、健保・年金の引き下げなどを強引に推し進めようとするならば、国民の生活と安全との間に重大な軋轢を生み出していくことは間違いないだろう。
 あと7年後、私たちはどのような思いでオリンピック・パラリンピックを見ることが出来るだろう。真にアスリートたちが輝き、人々がこれを礼賛できるような祭典であってほしい。(9月8日)

 「事故から3カ月後の6月11日に国会議員として初めて4号機に入ったときも、吉田さんが一緒だった。このとき、地下水の流入を止めるために、原発周辺の地下の四方を遮水壁で覆うプロジェクトを実施するため、境界画定を行った。当初反対していた吉田さんも「分かった」と言って現場確認作業に立ちあってくれた。ところが、直後に私は補佐官の任を解かれ、地下遮水壁プロジェクトはひっくり返された。」
 馬淵澄夫氏が自身のブログ(「まぶちすみおの「不易塾」日記」)でこのように書いている。馬淵氏は2011年の東日本大震災を受け、3月26日付で内閣総理大臣補佐官(東北地方太平洋沖地震による災害及び原子力発電所事故対応担当)に任命されながら、6月27日には補佐官を退任し経済産業副大臣に就任するようとの要請を固辞し、首相補佐官も退任することになった。
 時の民主党政府と東電は事故の収束への芽を自ら摘んでしまったのか? 今起こっている事態の深刻さを考えると、どうにも釈然としない気持ちをおさえられない。(9月7日)

 小泉元首相が「脱原発への意志が強まった」と発言し、話題になっている。フィンランドの核廃棄物最終処分場を視察に行った後のことだそうだが、同行した推進派企業サイドからすると当てが外れたということだろうか。「10万年だよ。300年後に考えるっていうけど、みんな死んでるよ。日本の場合、そもそも捨て場所がない。」「今ゼロという方針を打ち出さないと将来ゼロにするのは難しいんだよ。」…まともな言い分ではないか。遅きに失したなどと言わないからもっと声を大きく発言して欲しい。(9月6日)

 昨日、政府は福島第一原発汚染水問題に対する「抜本的な対策」について基本方針を決定し、その内容がマスコミでも報じられた。
 だが、そこで示された対策が「抜本的」と評価できるかどうかについて、早くも疑問視する声があがっている。従来の方針を踏襲したに過ぎないばかりか、地下水の海洋放出についても「関係者の理解を得るよう最大限努力する」などと明記するに至ったからだ。
 だいたい対策の目玉とされる凍土遮水壁というのは、トンネル工事の際の地下水対策として開発されたもので、これほど大規模に、かつ長期的に使用されることを前提とした技術ではないそうだ。しかも、もし完成したとしても維持費に莫大な経費がかかるだけでなく、原発1基分ほどの電力が必要なのだという。
 他にも地下水を止水することによる地盤の変化や、そのことで却って原発本体から高濃度の汚染水が漏れ出すのではないかといったことも懸念されている。
 凍土遮水壁には、2年後を目標に、320億円をつぎ込むという。2年間でそれらの技術的な問題をクリアすることの見通しが立っているのか疑問はつきない。やってみなければ分からないという問題ではないはずだ。推進派ばかりでなく反対派の知見も集め、抜本的かつ総力をあげて対策を講じなくてはならないではないか。
 オリンピック東京招致委員会はIOCに「東京には影響ない」旨の手紙を送ったとのことだが、こんなときに何を考えているのだといいたくなる。(9月4日)

 福島第一原発の汚染水漏れの事態が深刻すぎて、つい一言も滞ったままになってしまった。日本で、世界で、その推移を固唾をのむようにして見守っている人たちが大勢いるに違いない。水冷方式の限界は誰の目にも明らかで、空冷方式や金属による冷却も提案されているらしいが、収拾への見通しが立たないのが最大の難関だ。
 (専門的なことはよく分からないが、核燃料サイクルを放棄すれば乾式(空冷)で使用済み燃料を保管することは可能らしい。それも今更の話だが、核燃料サイクル自体もいまだ見直しはされていない。)
 政府は一刻も早く収束宣言を撤回し、国も国民もいまだ原発事故が継続中であるという認識をはっきり持つべきだろう。あれは前政権での出来事、もう終わったことで、別なことに精出そうというわけにはいかない。
 誰かが書いていたが、オリンピック招致などで浮かれている場合ではないし、もしそれでもって国民の目を欺こうとしているのであれば、それはスポーツに対する冒瀆でしかない。(9月3日)

 福島第一原発事故後、ドイツでは「原発ゼロ」を目指す方針を決め、事故前に17基あった原発のうち8基をすでに閉鎖し、残る9基を2022年までに順次閉鎖していくという。ドイツでは9月の総選挙を迎えるが、この目標が争点になることはなく、与野党ともに自然エネルギーの推進を訴えているそうだ。
対岸の火事をみて「原発ゼロ」を決めたドイツと、まだ火事が収まってもいないうちから再稼働に向けて動き出した日本とは、まさに対照的というしかない。
 ドイツでも自然エネルギーの普及に伴って電気料金は値上がりが続いているのだそうだ。それでも「原発ゼロ」を国民が支持しているところが偉いと思うが、自然エネルギーは普及するにしたがってランニングコストがかからなくなるという理解がすすんでいるのだろう。
 本当は、この2年間で日本でも原発2基分に相当するだけの自然エネルギーが普及していると、最近の新聞にあった。それでも政府・電力会社は、ガス発電の燃料費の高騰を理由に、原発再稼働のスキをねらっている。せっかくある施設だかといって、ここで「モッタイナイ」精神を発揮すべきではないと思うのだが。(8月26日)

 「はだしのゲン」問題で、松江市教育委員会は26日に教育委員会会議を開き、手続きに不備があったとして、閲覧制限を撤回し、学校の自主性に任せることを決めた、というニュースが入った。閲覧制限は当時の市教委の事務局レベルの判断で決められ、教育委員会会議に報告されていなかったとのことだ。世論の勝利といってよいのではないだろうか?(8月26日)

 大事な問題なのに、他にいろいろありすぎて触れるのが今日になってしまった。福島第一原発で高濃度の放射能汚染水がタンクから漏れた問題について、原子力規制委員会は21日、国際原子力事象評価尺度(INES)で8段階の上から5番目の「レベル3」(重大な異常事象)への位置づけを検討中であることを発表した。これだけの大事件がたいして大きな話題にならなくなってしまったことが不思議だ。国民の意識が麻痺してしまっているのだろうか。1999年の東海村JCO臨界事故の「レベル4」より一段階低いものの、福島第一原発で起こっていることは継続中で、海洋への流失など、今後の拡大が予想される事態である。海水浴シーズンは終わってしまったのかも知れないが、子どもたちを海辺につれていった親たちは不安にかられたりはしなかったのだろうか。(8月23日)

 国旗掲揚と国歌斉唱について「一部の自治体で公務員への強制の動きがある」と記述した実教出版の高校日本史教科書について、東京・大阪・神奈川の教育委員会が「採用は不適切」とクレームをつけ、東京では採用0となり、神奈川では採用を希望した28校に変更を迫った。
 そもそも同記述は検定前には「政府は国民に国家掲、国歌斉唱を強制するものではないことを国会審議で明らかにした」とあったものを、文科省の指導で改めたものだという。
 以前にも書いたが、国旗国歌法が「尊重義務」をもたないことも、「強制の動きがある」ことも事実。権力の座にあるものが真実や事実をねじ曲げることが当たり前の国になっていいのだろうか。ましてや文科省の検定済み教科書ではないか。

 埼玉では、県教委は学校での選定を尊重する方向性を確認したものの、「県議会教科書を考える議員連盟」が12日に実教日本史の不採択を求める要望書を教育委員長・教育長に提出したとのこと。明日の教育委員会で採不採の議決行われるとのことだ。

 教科書によっても真実が伝えられず、図書館からは『はだしのゲン』のような本が隠されていったら、子どもたちはどうやって真実を知ることが出来るのだろうか。いや、子どもたちは我々が考える以上に時代の空気に対して敏感だ。子どもたちが真実を知ることを怖れたり、嫌ったりするようになりはしないかと心配だ。(8月21日)

(昨日の続報)
 教科書の採択をめぐり、埼玉県では本日の教育委員会で「高校、特別支援ともに、現場からの選定を尊重する採択がなされました。」とのことです。いいぞ、埼玉!(8月22日)

 戦争末期の特攻作戦に象徴されるように、極端な人命軽視があったこと。また、兵站線が脆弱で食糧の「現地調達」が常態となり、それは略奪を横行させたから、現地の民間人の怨嗟を産んだこと。今思いつく限りで、旧日本軍にはそのような負の特質があった。
 しかし、それらを差し引こうとしなくても、私は旧日本軍のみが突出して残虐で野蛮であったとは思っていない。かばってのことではない。そもそも軍隊とはそうしたものだという認識に立った方が真実に近づくことを可能にすると考えているのだ。
 私が生きてきた時代でも、アメリカがベトナムでしたこと(ソンミ村、枯れ葉剤)、イラク戦争でしたこと(劣化ウラン弾)、中国が中越戦争でしたこと、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争のサラエボで起こったことを見れば、内戦も含めて戦争がいかに人間を狂気に駆り立てるかが分かる。勇猛と野蛮は紙一重というより表裏一体なのだ。
 よく日露戦争では日本軍はロシアに対して紳士的であったなどといわれるが、捕虜となった将校に対してはともかく(当時の国際社会としての白人社会からの批判を避けるため)、一般兵や、ましてや朝鮮人・中国人に対してその人権を尊重する態度を保持していたとは思われない。
 私が「歴史問題」を考えるときの尺度はここだ。過去に日本が犯した侵略行為や戦争犯罪をなかったことと考えるのは理性を眠らせ判断を停止させることでしかない。
 一昨日問題にした、島根県松江市の小中学校で中沢啓治『はだしのゲン』の閲覧を制限したことは、過去の歴史に対する目を閉ざさせ、理性的に、また自由に、ものごとを考えたり、判断したりする力を削ごうとする行為に他ならない。
 愛国心教育をとなえる人たちがしばしばこのような歴史認識に立とうとしているから、私はその人たちの「愛国心」が信用できないのだ。(8月19日)

 島根県松江市での出来事。昨年12月、中沢啓治の『はだしのゲン』を児童生徒に貸し出さないよう、市教育委員会が市内各校に要請していたとのことだ。
 理由は「描写が過激」ということなのだが、どうも妙なことが起こるものだと詳報を求めた。毎日新聞は昨日のうちに、東京新聞も今日の朝刊により詳しく取り上げられていた。
 すでに既報だという人が多いだろうが、問題とされたのは全10巻の後半の旧日本軍による中国大陸での残虐行為を描いた場面。昨年8月に「子どもたちに間違った歴史認識を植え付ける」と主張する市民が学校図書館からの撤去を求める陳情を提出したことに端を発した。陳情は市議会で全会一致で不採択となったが、市教委が独自に判断し校長会で指示したものとのことだ。
 つまり問題は心的傷害への配慮(そうだとしても行き過ぎだろう)というより、「歴史認識」にあったということになる。
 15日の戦没者追悼式で、安倍首相は「アジア諸国の人々に多大の損害と苦痛を与え」たことに対する「反省と哀悼」という表現を用いなかった。「不戦の誓い」にも触れなかった。
 陳情を行った市民、というのがどのような個人あるいは団体なのかは不明である。だが、こうした政治の右傾化・軍国主義化の動きと歩調を合わせているのは確かであるように思われる。
 陳情自体は市民的権利として否定はしないし、慎重審議の上で不採択とした市議会の良識には拍手を送りたいが、不採択となった事案が市教委の独断で息を吹き返してしまったのが腑に落ちない。
 島根といえば学校司書の配置率が100%となるなど、学校図書館の先進県である。そこでこのような出来事が起こり、今も継続しているということが残念でならない。(8月17日)

 アベノミクスの三本の矢は果たして日本経済をどこに導いていくのか、その効果も含めて賛否両論がある。しかし、経済政策の面にばかりでなく、政治の右傾化・軍国主義化に向けても、次々に矢が放たれているようだ。
 内閣法制局長官に「集団的自衛権」推進派の小松氏を起用したのに続いて、「特定秘密保全法案」を秋の臨時国会に提出することを決めたそうだ。国民の知る権利を制限し、言論を封殺することにつながる「国家機密法」等、類似の法案がこれまで何度も上程されては多くの反対の前で廃案になって来た。与党が圧倒的多数を占めるにいたった今回はどうだろうか。
 オスプレイが配備されることとか、米軍と自衛隊が「集団的自衛権」の行使を前提にした軍事訓練をすでに行っていることとか、それらが「国家機密」とされ、いっさい報道されなくなる日が来るのだろうか。 国民が「見ざる言わざる聞かざる」を強いられるようになったら、本当に日本は戦前に逆戻りだろう。首相官邸主導で、外交・防衛政策を進める「国家安全保障会議」の年内創設をめざしているとも報道されている。(8月16日)

 昨日、詩・詩人シリーズで陶淵明「帰去来辞」をアップした。その後、大事なことを書き落とした気がしたので《追記》を加えた。「田園将蕪」には地方を置き去りにする中央政権へのプロテストが込められているのではないだろうか、というものである。

 柏崎刈羽原子力発電所の運転再開に向け、東京電力が速やかに国に安全審査の申請をしたいとしていることについて、地元の柏崎市と刈羽村は了承する方針だという。新潟県は知事が反発を強めている中、地方自治体の内部分裂を誘うことで切り崩しが行われようとしている。
 沖縄では米軍のヘリが墜落した。日本政府としては事故の原因究明と再発防止を「お願い」するしかないのだという。米軍基地内の森林ということで火災が発生しているのに消防自動車さえ入れなかった。
 年金・福祉といった社会保障制度が大きく削減されようとしている。消費税の引き上げについても根拠が失われつつあることが指摘されている。
 福島第一原発では地下水のセシウム濃度が15倍になっていることが明らかになったそうだ。まだまだ隠していることがたくさんあるのではないだろうか。今日は広島原爆の日である。(8月6日)

 一昨日は政党助成金のことを話題にしたが、議員活動に対しては報酬を支払うのは当然として、政党活動を税金で負担するというのは不当であるという考え方が正しいのだと思う。
 確か政党助成金がはじまったときは「金のかからない選挙」のためというのが名目だったと記憶しているが、今度の参院選の前に自民党が日本建設業連合会に対して4.7億円の献金を請求していたことがすっぱ抜かれていた。(相変わらずマスコミが重大視しないうちにうやむやになってしまったが。)
 税金で報酬を受けている議員は税金を払っている国民のために働いてもらいたい。政党は政治信条をともにする人々からの党費や個人的な募金で運営されるべきだ。
 企業から献金を受ければ企業のために働くのだから企業献金は廃止すべきだ。

 企業献金を制限するための政党助成金であったなら、せめて企業献金を受けた額を明らかにし、政党助成金から差し引くようにしたらどうかと思う。そうすれば、誰のために政治を行おうとしているのか、一目瞭然になる。まあ、根本的な解決にはならないか。(8月4日)

 内閣法制局長官に「集団的自衛権」容認派の小松氏が起用される。実質的な解釈「改憲」の布石と目されている。法制局勤務経験のない小松氏が起用されるのは異例の人事だそうだ。「誰も気がつかないうちに憲法が変わっていた」が始められようとしている。麻生氏は「王様の耳はロバの耳」とばかりに、つい黙っていられずに口に出してしまっただけなのかも知れない。(8月3日)

 生活保護費の減額がはじまった。3年間で700億円、最大で1割を減額するそうだ。
 国家予算を圧迫している、といわれるが、GDPに占める比率でいうとOECD加盟国平均が2.4%であるのに対し、日本は0.3%を占めているに過ぎないという数字もある。
 一方で、2013年度の政党助成金は320億円(共産党のみ受け取っていない)。3年間なら960億円になる。減額するところが間違ってやしないか、といいたくなる。
 昔は、弱きを助け、強きをくじくのが子どもたちのヒーローだったが、これでは逆だ。
 今月からは諸物価もいっせいに値上がりする。値上がりが予定されているものはどれも生活必需品だ。(8月2日)

 今朝の東京新聞によると、麻生副首相兼財務大臣は29日に都内で開かれた講演会で、憲法改正は「ナチスが気がつかないうちにワイマール憲法を変えた」「手口を学んだらどうか」と発言したとのことだ。文脈があることとはいえ、例として引き合いに出すものに配慮がなさ過ぎる。
 日本のマスコミは重大視しようとしないし、国民も鈍感だからと高をくくっているのかも知れないが、海外メディアからは早くも批判の声が上がっているらしい。日本の右傾化に対する諸外国の警戒感はいっそう高まることだろう。

 麻生氏本人も述べているように、第1次世界大戦後の敗戦国で生まれたワイマール憲法は、当時のヨーロッパでもっとも民主的な憲法と評価された。そのワイマール憲法と日本国憲法を比較しようとしている背景には、「国際環境が変わった」「護憲を唱えるだけでは平和は訪れない」との発言の端々からもうかがえる通り、憲法の「理想主義」を退け「現実主義」に立て、とでもいいたいのだろう。しかし、ワイマール憲法を破棄した後のドイツと世界がたどった道を振り返れば、その「現実主義」なるものの危うさは明らかであるといわなければならない。

 ナチスはワイマール憲法の下で選挙によって、すなわち手続き的には「民主主義」によって、政権の座についた。このことは民主主義の制度のあり方や脆さの問題としてよく引き合いに出される。
 それはともかくとして、ナチスが大衆的な支持を受けて政権の座に躍り出たこと、そのためにとった劇場型政治の手法のことは、歴史の教訓として学ばなくてはならないのだろう。
 「民族の誇りを取り戻せ」「敵を倒せ」「世界を制覇せよ」と、国家主義を振りかざし、国内外に敵を作り出し、強い政治・力の政治を訴えるやり方は、単なる失言の域をこえて、本音でナチスの「手口」に学ぼうとしているのかも知れない。これを阻止するには国民の側がよほど警戒を強めなければならないのだろう。(7月31日)

 TPPのことはよくわからない。関税が撤廃されれば日本の農業は壊滅的な打撃を受けるといわれる。それはその通りなのだろうが、後継者問題をはじめ、TPPがなかったとしても日本の農業が大きな曲がり角に来ているのは確かだろう。
 では日本の農業の将来はどうあるべきなのだろうか。単純に考えると大規模化による集約型農業に変えていくしか道はないと考えもするが、経営的に成り立つための農業=儲かるための農業=単作化は、より安価な農作物の輸入等によって、儲からなくなった=経営的に成り立たなくなったとき、破綻の危機にさらされることになる。これらは戦後の農村で実際に起こってきたことである。
 一定の食糧自給率を維持することは国家の存立に関わる重要課題である。企業の参入などがいわれることがあるが、上記のようなことが起こったとき、会社であれば倒産もありえるし、撤退もあり得る。倒産されたり、撤退されたりしたら、一国の農業政策として失政であったでは済まされない。

 こんなことを言い出したのは、信越を旅して青々とした田畑を見てきたばかりだからである。一方で記録的な豪雨があり、一方で水不足がある。旅日記に書いた通り、山間部では限界集落化がすすんでいる現実がある。それでも日本の農業はまだまだ健在である。健在であるべく日々努めている人々がいる。それらの人々の努力が報われるようでなくてはならないのだろう。儲かる農業より、必要な農業が生き残る農業、ということばも聞いた。
 これからの日本の農業のあり方として、地産地消の普及があるという。友人のブログで、ここのところ毎日のように朝市で新鮮野菜を入手したことを記事にしていた。朝の散歩がてらという気安さが、実は日本の農業を応援していることになるのかも知れない。(7月30日)
by yassall | 2013-07-30 12:13 | つい一言 | Trackback | Comments(0)