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2018年埼玉県高校演劇中央発表会

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 11月17・18日、埼玉県高校演劇中央発表会が開催された。会場の彩の国さいたま芸術劇場は1994年に建設され、来年25周年を迎えるという。17日朝、数日前には雨マークの付く天気予報であったが、空は晴れ渡っていた。
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 ここ数年、写真記録を担当してきたが、今年は辞退させてもらうことにした。始まりはメインのIさんの都合がつかないときのピンチヒッターであったのだし、今でもフォローが必要なときはいつでもお手伝いするつもりではいるのだが、狭いスペースで二人して同じような写真を撮っているのも無駄であるというのが理由のひとつ(もし、コピスと同じように2階席からという限定であったとしても何カ所かにポジションを変えられるなら複数態勢にも意味があるだろうが)。
 また、カメラの高性能化によって画像ファイルのサイズが大きくなると、後処理にも膨大な時間がかかる。全部で10校分ということになればパソコンに読み込むだけでも相当の時間を要する。それが2人分になるということは、読み込み時間も、読み込んだ後に各校に分類し、DVD(もうCDでは容量が足りない)に落としていく時間も2倍になるということなのである。最後の舞監会議で各校に配布するため、それらの作業を短時間のうちにこなしているのはIさんなのである。
 三つ目の理由としては、やはり自分の撮った写真に満足できないということがある。というより、これが最大の理由である。ピントと露出は「時の運」もあるから当たり外れは仕方ないとして、もう少し絞りたい、シャッタースピードを上げたい、ISO感度を下げたい、という選択の壁はいかんともしがたいのである。機材を変えてみたり、設定を工夫したりしているが、思うような結果が得られないでいる。
 では当日、なぜお前はカメラマン席にいたのだ、ということなのだが、以前からの約束もあったり、西部Aやコピスつながりがあったり、縁のある人たちからの依頼があったら「学校付き」のカメラマンは引き受けようと決めていたからだ。係以外で、カメラ席にいられるのは当該校の上演時間中に限り1名のみという決まりになっているそうだから、他に学校としてのカメラ担当者がおらず、かつ希望があった場合に限定されるのはいうまでもない。
 (今回、時間帯以外はカメラ席のすぐ後ろに座っていたのだが、学校によって私などよりははるかに立派な機材を持ち込んでいる方も複数いらした。私ごときが席を占有し続けている理由は何もないのだと思った。)
 連絡が不徹底だったのか、私の側の意思表示が十分でなかったのか、大会パンフの役員表には名前が残ってしまっていた。出演校の中に私の分の画像ファイルがないことに不審を感じた方がいたら(多分そんな学校はお出ででないと思うが)、そういう事情であったことをご理解願いたい。
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 少々、話がくどくなった。そんなことで例年より気楽に各校の上演を楽しんだ。審査の結果は次のようだった。創作脚本奨励賞が2校になったのは審査員からのたっての要望であったという。

 最優秀賞     浦和南高校「緑の教室」
 優秀賞      新座柳瀬高校「Ernest!?」    
 優秀賞      所沢高校「プラヌラ」 (本年は上記3校が関東大会に進出)
 創作脚本賞    浦和南高校「緑の教室」渡部智尋・作(生徒創作)
 創作脚本奨励賞 三郷北高校「Merry mad dolls」杉浦舞香&MKDC・作(生徒創作)
    〃    南陵高校「部活紹介って何すればいいの?」村上健・作(顧問創作)

 浦和南高校は以前に出場したとき不条理劇風の生徒創作が評価された。劇としては変容というより破綻が見えてしまって、そのように才気を浪費してはならないと、むしろ私には惜しむ気持ちが強かったのを記憶している。今回は現代高校生のかかえる様々な問題をとりあげながら、劇としてきちんと構成されていた。最優秀賞までは予想できなかったが、演技も素直で、好感を持って見ることが出来た。審査員一同の慧眼としたい。
 新座柳瀬高校の「Ernest!?」は地区発表会でも完成形ではあったが一段とレベルアップしていた。作品について一言したい。秋の高校演劇①でも前述したように新座柳瀬は2015年のコピスみよし第14回高校演劇フェスティバルでもこの演目を上演している。ただし、キャスト数も異なるし、脚本も大幅に改訂されている。前回のバージョンでアーネストを演じたのはKさんだった。たいへん魅力的な才能の持ち主で、偶然が偶然を呼ぶことで運命の扉が開いていく、貴種流離譚の性格をもつ物語を演じ切っていた。私はそこに運命に対するおののきのようなものを感じた。
 今回アーネストを演じたIさんからは、残念ながらそうした震えは伝わって来ないな、と地区発表会の時点では思っていた。だが、中央発表会での印象はそれとはずいぶん異なるものであった。Iさんのアーネストから伝わってきたものは、己の運命を受けとめようとする力強さであった。すでに恐れは去っていた。クライマックスで、それまでたじたじだったブラックネル郷夫人に正面から立ち向かう、その声や目線の強さ、立ち姿、軍人名鑑をめくるスピードや指先にそれは表現されていた。
 そう気が付くと、前段でブラックネル郷夫人の詰問を受け、アルジャノンにすがりつくほど震え上がった恐がりのアーネストを設定したのも、後との対比によってアーネストが貴種本来の誇りや威厳を取り戻したことを強調するための仕掛けだったのだ、脚本の改訂はそのような意図をもってなされたのだ、と合点した。そこには役を割り振った生徒の特徴や能力に対する見極めもあったに違いないし、自分の役に対する理解力と稽古の積み重ねが生徒の側にあったことはもちろんである。
 所沢高校の「プラヌラ」は面白い台本だと思った。どのような経緯で所沢高校の手に渡ったのか、今度ゆっくり話を聞きたいものだと思った。昨年、一昨年と所沢・入間地区の審査員をつとめた。2回とも所高を候補にしながら選び切れなかった。その意味でも今回、中央発表会出場校となり、関東大会まで抜けたことを心からお祝いしたい。
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 秩父農工科学高校が選外となったのを意外と感じた人は多かったのではないだろうか? 私もその一人である。確かに科白がよく聞き取れなかったことはあったが、(その為もあってか、複雑な話がよけい分かりにくかったが)、舞台美術・効果にはいっそう磨きがかかっていたし、計算された演技にも破綻がなかった。
 テーマは「リアル」である、と思った。秩父農工の芝居に何度か現れるテーマである。「脳」は「肉体」と敵対する。VRは肉体を通過しない(=架空の)「リアル」で脳をだますのである。しかし、現代人は本当の意味での(=肉体を通過した)「リアル」を日々体験し得ているだろうか?
 養老孟司にいわせれば「都市」とは「脳」なのだそうである。都市文明は人間を「リアル」から遠ざける。現代人にとってVRは現実逃避なのではない。「現実」がVR化しているのである。リストカット(=傷つけられた「肉体」)によってしか「リアル」な生を感じ取れない若者たち、「リア充」を求めて苦悶する若者たちは、さながら自分の尾を追いかけて回り続ける子犬のようなのである。
 秩父農工の芝居の「でも、本物って何?」という問いには、そうした現代社会の本質を明視化していくきっかけがあるような気がしたのである。VRに象徴される世界は近未来物語なのではなく、今、現在の最中にあるのである。
 秩父農工には「リアル」とは何かの問いを極めていって欲しい。今回の芝居では、VRの世界に現実の人間関係を再現している、と見えながら、実は現実の人間関係もまたVR化(=脳化)されている、という実態を言い当てたものだと解釈した。だが、(これは現実の存在であるらしい、あるいは出産と同時に死亡したことになっているから存在していたらしい)「母」を持ち出すことで主人公の「心の痛み」の原因を説明づけてしまうと、まだどこかで回帰し得る「現実」があった、ということになってしまうのではないか? 追求していたものをどこかで見失ってしまった、あるいは徹底し切れなかったのではないか?
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 地区発表会での審査を終えた時点で、選出した学校は出場校となり、私の手からは離れた存在となる。2校を選ぶにあたっては他の18校を選外としたわけだから、ぜひともその18校の思いも受けとめながら、18校が納得できるような上演をして欲しいとは思う。だが、それも当方の勝手な願望なのである。
 とはいいながら、最後に草加南高校と三郷北高校について触れると、2校とも地区発表会とはずいぶん変えてきたなということにまず注目した。変えて良くなったところと、効果が判然としないところとがあったが、少なくともより良い芝居づくりを最後まで追求していったのだ、という点は評価したいと思っているし、その労をねぎらいたい気持ちでいっぱいだ。
 また、変わったところを見ていくと、私たちが講評やその後の質問タイムで述べたことが、大なり小なり影響していることが分かる。その意味で、改めて審査員としての責任の重大さを噛みしめざるを得ない。
 「はなまぼろし」は(古い時代を扱った作品だから仕方ないのかも知れないが)ややもすると旧来の性道徳に絡めとられてしまうという点でも(桜子が自分の恋を「淫らな血」のゆえんとしてしまうところなど)、やはり台本として評価できない。この台本によって自己表現を試みようとした生徒たちも、どこかで壁に突き当たったようなもどかしさを感じていたのではないかと私は推測している。
 しかし、以前はただ台本を忠実になぞらえようとしていた段階に止まっていたとしたら、今回は(ときに科白の入れ替えや、行動にいたる動機の変更までしながら)自分たちの表現世界を創り出そうとしていた。地区発表会では感じていた「穴」(たとえば老人の杖の突き方など)も実にていねいに潰されていた。きっと細部にいたるまで皆でチェックし合ったのだろう。
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 三郷北高校についても同様のことがいえる。冒頭のツカミのところは話を複雑にし過ぎないように、とアドバイスしたが、自分たちでも自覚していたのか、さっそく変えていたし、物語の設定にかかわる部分も芝居の進行にしたがって徐々に明らかになるように工夫されていた。
 科白が弱かったところは、私からするとずいぶん頑張っていたと思うのだが、「聞こえて来ない!」という声は多かった。たとえば剣を手にした、あるいは刃を向けられたときの緊張感の不足、というところは今回も審査員から注意されていた。
 問題はテーマにかかわる部分である。メッセージの伝え方が直接的過ぎたかも、とは確かに言ったが、今回は少し隠され過ぎたのではないか、あるいは自分たちの中でも後景に置いてしまいがちになったのではないだろうか?
 審査員の先生方からは創作脚本奨励賞を受賞した。ただ、その理由が「2.5次元芝居を追求していって欲しい」というような言い方だったのが気になった。私の認識では、漫画やアニメ(あるいはライトノベル)という2次元の世界を舞台上に立体化(=3次元化)したものであることから2.5次元芝居と命名された。厳密にいえば「原作物」であるのだ。確かにたいへんな人気だが、観客は自分たちのアイドルを求めて劇場に足を運んでくる。
 メッセージ性が弱められた分、(自分たちは弱めたつもりはないかも知れないが)、パンフの学校紹介でも強調されたエンタメ性ばかりがアピールされ、受けとめられる結果になったような気がする。
 私がどんな可能性を感じたかは地区発表会の様子を紹介した秋の高校演劇②の通りでその考えは変わらない。[自/他]の二分法による異分子の排除とその不条理性に対する怒りである。より現代的な問題に引き寄せて、「怪物たち」とは国民国家の枠を越えて大量に流入してくる難民たちであり、少数のうちは差別しながらも受け入れていた「民」たちは次第に迫害の手を強めていく、難民たちの間にも強硬派が生まれテロ事件が発生する、「民」たちは「自警団」(これも元は非定住の流浪の民であったかも知れない)をとりこみながら「怪物たち」の殲滅をはかろうとする、というような物語が見えてくるようになれば、ただのファンタジーの域を超え出る力を得ていくように私などは夢想してしまうのである。
 科白の作り方として、ロキが「死人を生き返らせる不思議な魔法を持っている」存在だ、といってしまえばあり得ないファンタジーに終わってしまうが、「私たちは一度死んでしまった人間だ。ロキはそんな私たちに新しい命を与えてくれた」というような書き方にすれば、絶望の淵に置かれた難民たちがリーダーの出現によって新しい希望を与えられた、というような暗喩を帯びるようになると思うのだがどうだろう。
 当分、私は三郷北高校演劇部の今後に注目していきたいような気もしているのだ。あくまでエンタメ性を追求するというならそれでもいい。ただし、2.5次元舞台では耳かけ式マイクを使用するが、高校演劇では使わないから発声は演劇用に鍛える必要がある。


by yassall | 2018-11-20 04:00 | 高校演劇 | Comments(2)
Commented by 稲葉智己 at 2018-11-20 19:47 x
週末は写真撮影&ご観劇ありがとうございました。

色々悩みつつですが、脚本も舞台装置も少しずつ変えてみましたが、なんとか無事公演を終えることができました。
あの時のKは3年生の春でしたから、Iにはまだまだ時間があります。来年のコピスにはもっと良くなっていると思います。

予定が合いましたら、是非、栃木にもお越しください!
Commented by yassall at 2018-11-21 01:38
お疲れ様です!
新事務局長としても様々、試行なさっているご様子です。動きを作り出していくことも大事、柔軟さを失わないことも大事、ということでしょうか? 審査員のことや記録係のことでいろいろわがままを言っていますが、足を引っ張らないように応援していく気持ちではいます。また連絡を下さい。
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