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2018秋の高校演劇③ 大宮区地区発表会

 大宮地区は2年連続となった。組み合わせが変わったとはいえ、あまり望ましいことではないだろう。審査員の配置でやむにやまれぬ事情があったのだろうと察してもらうしかないが、私としては昨年からどんなふうに成長したかという楽しみがあったし、どちらかというと昨年は演劇部を楽しむというところに重点をおいた学校が多かった気がしたが、今年は渡された台本を読んだ段階から芝居づくりへの意気込みが違うぞ、という期待感が高まっていたのである。会場は西部文化センターである。

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 上尾高校『OUT OF CONTROL』大倉マヤ・作
 核戦争の危機に警鐘を鳴らすブラックコメディ。昔の映画だがキューブリックの『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』(1963)を思い出した。
 女子高校生に見立てられた核兵器たちを、明るく、パワフルに造形することで題名の持つ真の怖さが伝わってくる、と漠然と考えていた。ト書きにはセーラー服とあったが、そんなものは無視して、デザインだけ揃え、それぞれ色とりどりのスカートとスカーフにでもすればいいのに、と考えていたら、白のTシャツ状の上衣に自作のセーラーカラーをつけて制服に仕立てていた。ただし、襟と袖口のラインとリボンにはそれぞれの名前につながる色を選び、なかなか鮮やかに仕上がっていた。パフォーマンスもオーバーアクションを心がけているのが見て取れ、つい「いいぞいいぞ、それで合っているぞ」と心の中でつぶやいていた。
 「爆発するけどしない。核が平和を維持している。」という先生の論理は核抑止論である。それに対し、女子高校生たち(=実は核兵器)は「(私たちは)自分で生きていくってことを知ってしまった。」「私たちは爆発するために生まれてきた。」「爆発したい!」として、しだいに制御不能になっていく。
 北朝鮮で核弾頭の製造やミサイル実験に成功したりすると、唯一の被爆国である日本の政治家の中ですら核抑止論を唱える者が現れる。だが、本当に核兵器は抑止として機能するだけで使用されることはないのか、使用を前提としない兵器は兵器といえるのか?(だったら、何も北朝鮮の核だけを恐れる必然性はない。)
 現実には、核兵器は小型化や中性子爆弾の開発など、「使える」核兵器としての開発がすすめられてきた。この台本が書かれたレーガン米大統領の時代には迎撃態勢の体系化を前提に、核先制攻撃論まで吹聴された。過去の話ではない。今なおプーチンもトランプもことある毎に核の使用をほのめかしている。核抑止論・核均衡論は核戦争のしきいを限りなく下げているのである。
 台本が書かれたのは1990年。チェルノブイリの直後でもあるから、女子高校生たちの紹介の後、第二場は原発から漏れてくる放射能から逃れようとするゆりと和也が駆け込んでくるところからはじまる。ただし、核兵器との関連は必ずしも明確ではない。
 台本は生徒が選んで来たそうだ。内容をよく理解し、先に述べたように作戦も練りながら芝居づくりをしてきたことは伝わってくる。ただ、まだ行儀がよすぎたかも知れない。緊迫感にもうひとつ弱さがあったことや、核兵器としてではなく、女子高校生というところに感情移入してしまったらしきところがあり、その分、暴発にいたるまでのパワーが不足してしまった。
 そのあたりがもう一歩というところだったが、生徒が生き生きと、それでいてナイーブさを失わずにやっていたのが何よりではないのか? 顧問は(昨年も紹介したが)西部Aでご一緒したKさん。Kさんは生徒が自ら本来の力を伸ばしていくのを大切にする人なのである。
 演劇に時代性や政治性を持ち込むことを極端に避けようとする人々がいる。だが、時代に敏感に反応し、先んじてその本質を解き明かしていくのも演劇の大事な使命であると考えている。18歳選挙権の現代、高校生たちが社会問題にめざめ、考えを深めていこうとしているなら応援してやるのが大人の役目ではないか。台本の今日性は失われていない。何より掘り起こしを評価したい。

 上尾南高校『回転、または直進』福田成樹・作
 舞台はねじ商社「六甲鋲螺」の事務室。近所のネジ工場主を父に持つ女子高生チカにとって、そこは居心地のよい場所だった。中年の女性事務員オノはヌシ的存在。最近、営業部員として入社して来たサクラはまだ若いが転職組、新たに倉庫管理に採用されたサイトウも自衛隊にも在籍したことのある転職組である。2人とも新たな職場で生き甲斐を求めているようである。(以上、あらすじ)
 8月に台本を渡されたときから、よい台本だと思った。初見だったので調べてみると、初演は兵庫県立御影高校、2015年度近畿大会で創作脚本賞を受賞している。福田氏は兵庫高校時代にも創作脚本賞しているとのことだ。
 ドラマらしいことは何も起こらない。電話で注文を受け、営業から帰って在庫を確認する、苦情を受ければ延々と不良品を選別する。人々が生きる、働く、つながる世界なのである。チカは「ここ、うるさい親や兄弟がいっぱいおるみたいや。」という。「うっとうしい?」と聞かれ、チカは「ううん。わりと好き。」と答える。
 私の住んでいる地域は中小零細企業が立ち並ぶ工場地帯だった。町工場が何軒か残っていて、今もプレス機の音が聞こえてくる。私がよい台本だなあ、と感じたのは、どこか似たような環境が頭に思い描かれたせいかも知れない。しかし、それらの大小あった工場はほとんど撤退してしまった。大企業は生産拠点を海外に移してしまったし、国内に取り残された中小企業は外国製品の進出の煽りを受けて虫の息である。私が次に感じたのは、ユートピアのようだ、ということだった。関西弁とあいまって(兵庫の人にとっては日常語なのだろうが)日本のどこかに、今もこんな場所があるかも知れないと夢見させてくれているような気がした。バイト生活に明け暮れた若い人々に、安心して働ける場所を提供してくれるような。
 昨年も感じたが、きちんとした芝居づくりをする学校だと思った。様々な装置や効果、役づくりも正確で、作品世界を舞台化する力があった。内容やストーリー展開が地味なので、出だしからテンションを上げようとしたのか、ツカミのところで走ってしまい、科白が聞き取れなかったのが残念だった。
 チカ役の1年生は動きにキレがあった。オノ役の2年生には見覚えがあった。昨年の女子大生役から打って変わってベテラン事務員役についたが、雰囲気は作れていた。それだけに残念だという話なのだが、舞台上にそれぞれの立ち位置は見つけられたのではないだろうか?

 桶川高校『埼玉会館のはしの方』今井唯太・作(顧問創作)
 演劇部物。総会に出席して、改めて高校演劇に対する愛と意欲を再確認する。(以上、あらすじ)
 高演連総会をまるごと素材にしてしまえ、という人を食った台本。けっこう好きである。空間の移動、時間の経過とともに会話のあり方も変わって来るはず。そこをもっと丁寧に描いていけば各人の個性も生きて来ただろうし、心の変化にも説得力が生まれた。日常の一コマを切り取っただけのように見えて、再びは訪れないかけがえのない一日を描いた。

 岩槻高校『伝説の勇者の作りかた』八城悠・作
 コンピュータ・ゲームのキャラクターを登場させ、ストーリーとキャラクターを自ら作っていく。元の設定では迫力が足りなかったからだが、自分たちはヒーローを迎え撃つ〈悪〉の立場だから、完結することは自分たちが滅びることになるというアイロニーに脱力する。だが、ゲームが面白ければ繰り返して遊んでもらえることに気づき、またがんばろうと決意する。(以上、あらすじ)
 一幕ものにはなっているが、どうにも動きが作れない台本。あえて舞台化しようとするなら、世界観をどう構築するかだろうか。メイク、コスチューム、小道具・大道具、照明・音響を総動員する必要がある。努力は認めるが限界だった。各人なりの役づくりも認められるが、相互にかみ合うまでに至らなかった。最後に剣をふるって一人殺陣を繰り広げるところくらいはビシッと決めないとダメでしょう。

 大宮商業高校『水屑となる』春野片泰・作
 「もうこれからずっと一緒に帰れない。」「望ちゃん、私ね、考えるのやめたの!」と言い残して友達だった香澄は去って行った。(引っ越しだと理由を説明していたが、どうやらどこかへ収容されたらしいことが後から暗示される。)その香澄から渡された本を読むうちに、望の心にも変化が起こってくる。望が「何か、おかしくないですか?」の一言を発したとき、周囲の人間たちはみな驚愕する。(以上、あらすじ)
 「思想教育」が個を圧殺する、オーウェル『1984年』を彷彿させるような近未来物語。きちんと問題意識をもって取り組んでいることは理解出来る。ただ、台本に混乱や矛盾がある。一例として理生が殺人を犯すシーン。強烈な違和感があった。自らの意志を持つということと自らの欲望のままに生きるということとは違うはず。時間としては5分くらいだろうか、私だったらカットしてしまうだろう。オリジナリティの尊重はもっともだが、それだけの価値がある台本かどうか()、片言隻句も疎かにしないことが常に正しいかどうかの見極めも必要だと思うのである。まともにやってしまわない方が良かったのではないか。
 (潤色の場合には作者の許可がいる。上演許可を申請する際にお断りをして認めてもらったことが私にもある。部分のカットについては一切認めないという作家もいるが、そうでない場合にはテキストレジが行われるのは普通のことである。)
 (最初にアップしてから1日経ってしまったが、このままででは誤解を招きそうな表現だったので補足する。来年度から「道徳」が教科化されるという。人間が生きていく上で道徳が必要かどうかを問題にしているのではない。国家が人の心の中を支配しようとすることの是非を問うのである。そんな中で作者の「普通とは?常識とは?教育と洗脳の違いとは?をテーマに作りました」(ネットから)とする執筆意図、この台本を選んだ生徒たちの問題意識は大いに評価されるべきだと思っている。ただ、指摘した部分はそうした台本の意図そのものを壊してしまうのではないか、と(私は)考えたということだ。小森陽一他著『「ポスト真実」の世界をどう生きるか』を読んでいたら、歴史学的には史料的裏付けのない「江戸しぐさ」(傘をさして歩くときに、すれ違う人に当たらないように傾けた、等)がそのまま小学校高学年向けの「道徳」の教科書『私達の道徳』に載ってしまい、指摘を受けた文科省の担当官が「道徳の教科書は江戸しぐさの真偽を教えるものではない。…礼儀について考えてもらうのが趣旨だ」と回答したという記載があった。危機感を感じる。時代は動く。今、何が起ころうとしているのかに敏感であれ、と思う。)

 大宮高校『赤鬼』野田秀樹・作
 あらすじは紹介するまでもない。いろいろな劇団や演劇部が様々な工夫をしている。照明効果でスペースを切り取ったり、波を表現したり。舞台中央に2m四方ほどの山台(生だったが)をおき、小屋や洞窟、そして舟に見立てたのは成功していたのではないか。道具の出し入れで場面転換しようとするとスピード感は削がれてしまうし、煩雑な割に効果も上がらない。
 テキストレジは脚本解釈でもある。わりとすっきりとまとまっていたし、役者も熱演していたが、まだまだ絶望や祈り、狡猾さや愚劣さといった人間の根源に迫るには至らなかった。トンビは少しも「足りない」男のようには見えなかったし、「あの女」も村人から迫害され、世界に対する怒りや絶望を抱えているようには見えなかった。だが、壁に挑んでいった勇気は失って欲しくない。それだけの価値ある作品なのだから。

(私なりの「赤鬼」観は「2018年春季西部A地区演劇発表会」(2018.4)で述べた(赤鬼=まれびと説、あるいはアンパンマン説)。今回、その読み方についても紹介したが、絶対だとも思っていないし、押しつけることもしない。赤鬼の科白にI have a dreamというのがある。暗殺されたキング牧師が意識されているのは間違いないと思うのである。だからこそ、「あの女」は赤鬼の言葉が理解出来るようになったのである。つまり、「あの女」の絶望は赤鬼(人肉)を食ってしまったこと(のみ)にあるのではなく、人間が失ってはならないものを圧殺してしまったところにあるのだと思うのである。だが、そうしたものが一度でも存在したということは人間にとっての希望でもあると思うのだ。①で審査員も卒業と書いた。その気持ちには変化はないのだが、その分、今年は特に全霊をもって審査にあたったつもりである。このブログもそうした気持ちで書いた。この部分、後から。)


by yassall | 2018-10-11 15:32 | 高校演劇 | Comments(0)
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