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コピスみよし2018第17回高校演劇フェスティバル 勝手に名場面集

(この投稿は二回に分けて発表しましたが、前半と後半を一本にまとめました。)

 6月17日、コピスみよし2018第17回高校演劇フェスティバルが開催された。幕開けからほぼ満席というここ数年と比較し、今年は空席が散見され、明らかに観客動員数では落ち込みがあった。それでも上演した6校はどれも熱の入った舞台で、お出でいただいたお客様には十分満足していただけたのではないかと思っている。
 今年も写真撮影を担当した。もともと舞台撮影を専門に学んだことはない。刻々と変化する光線条件の中で、芝居の流れを予想し、一瞬をとらえるというのは至難のわざである。それでも少しでもよい写真を、と毎年機材を入れ替えたりしながら工夫しているのだが、これというショットはなかなか得られない。撮影者の側にしてそうであるから、クリエーター側に納得してもらえる写真になったかどうかは覚束ないのだが、写真には記録という要素もあるので、各校にはそのままお渡しするつもりである。
 さて、各校にはお許しをいただいて、毎年「勝手に名場面集」と銘打って何枚かを紹介している。藪にらみながら簡単な観劇記を添えて今年もアップする。
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 村上春樹は「人はなぜ物語を欲するのか?」という問いに対して次のように答えている。

 「僕らは何かに属していないと、うまく生きていくことができません。僕らはもちろん家族に属し、社会に属し、今という時代に属しているわけなんですが、それだけでは足りません。その「属し方」が大事なのです。その属し方を納得するために、物語が必要になってきます。」(『村上さんのところ』)

 誰にも真似することの出来ない、独創的な小説世界を作り出している村上春樹のことばとして、たいへん興味深い。人間は一人の人生を生きるにあたって物語を欲するばかりでなく、確かに物語を通して何かに「属して」いこうとしているのだろう。そして、その通路となるのは「共感」であるに違いない。
 さて、物語についてこのように言えるとすれば、それは演劇についても同じように当てはまるのではないだろうか? 最初に、これを切り口に6本の芝居を概観してみようと思うのである。
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 松山女子高校『とおのもののけやしき』新座高校『トシドンの放課後』の背景にあるのはフォークロアの世界である。『とおのもののけやしき』では幼い兄妹が古い民具が収められた蔵の中で精霊たちと出会う。それらの精霊たちとの交流を通して子どもたちは遠い先祖たちと繋がっていくのである。『トシドンの放課後』では精霊たちは直接には登場しない。しかし、トシドンという島の伝承こそがあかねの心を立ち直らせ、さらには他者と結びつかせるのである。
 坂戸高校『鬼ぃさんといっしょ』もフォークロアの世界をバックグラウンドにしている。ただし、こちらは近代化によって伝承世界が解体の危機を迎えていることに表現の方向性がある。コンビニが人々の生活を変え、金太郎は熊と相撲をとると負けてしまう。人々をひとつに結びつけていた赤い糸は今やその力を急速に失おうとしている。
 川越高校『お言葉ですが、東条英機閣下』はその意味では少々異端である。むしろ「大和魂」とか「愛国心」という壮大な(嘘っぱちの?)物語(村上春樹いうところの「悪い物語」)には安易には与しないぞ、という批判精神が働いている。そこには作者の現代という時代に対する警戒心も加味されていると思われる。今でこそ「クールジャパン」というようなソフトな装いを凝らしているが、強制された「愛国心」は静かに我々を取り囲もうとしているのである。
 農大三高『バンク・バン・レッスン』はどこまで本気で観ていい芝居なのか計りかねるところがあるが、物語の在り処というような補助線を引いてみると、その破壊力は際立ってくる。「銀行強盗対策訓練」とある通り、すべて模擬的で虚構であることを前提として芝居は進行していくのである。観客は通常、舞台の上で展開されるのは虚構であるということを承知で観劇している。否、むしろ虚構を前提としているからこそ、どこかで安心していられるのだとも言える。とすれば、この芝居にはそうした観客のあり方を揶揄しているところがあるのかも知れない、と思ってしまう。
 新座柳瀬高校『Alice!~響け、ウエディング・マーチ!編~』では同じ物語でも寓話の可能性のようなことを考えた。国民を幸せにするといいながら無理難題をふっかける女王(=権力者)、イエスマンに徹することで点数を稼ごうとする側近(=官僚)、その無理難題を丸投げされて右往左往する家臣たち(あるいは下々としての国民)というふうに役どころを振ってみると、まるでどこかの国で起こっていることさながらではないか?
 作者としては、自分はエンタメに徹しようとしたのであり、そのような寓意を読み取られることは不本意である、ということになるかも知れない。だが人というもは、それぞれの人生に何らかの意義を見いだそうとするように、物語にも何らかの意味を読み取ってしまうものなのである。言わずもがなであるが、そうでなければ「共感」もまた存在しないのである。
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松山女子高校『とおのもののけやしき』作・岩崎正裕

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 題名の「とおの」は柳田国男の『遠野物語』を意識しているのだろう。柳田国男は文化とは生活様式の総体であるという認識に立ち、民衆のあいだに伝わる民具などの生活用品、あるいは伝承や祭礼などに日本文化あるいは日本人の心を探ろうとした。それはまた明治以降にあって急速に失われていこうとする民俗を、少しでも残しおこうとする試みでもあった。
 そういうわけだから、唐箕や千歯扱きなどの農具から、代々伝わってきたらしい掛け軸や雛人形が所狭しと収められた「蔵」という存在は芝居を左右するような重要な装置であり、アイテムであった。リハーサルの時間の大半を費やして飾り込まれたそのセットは、よくぞこれだけものを集められたものだと感嘆に値するものだったし、作り手たちの執念を感じさせるものだった。
 ただ、「物の怪」を登場させるためだったとはいえ、具象で成り立っている蔵の中に舞台装置としての山台がむき出しのまま置かれてしまったのはつや消しだったし、これは脚本通りなら仕方がないが、その「物の怪」が登場するのが垂れ下がった掛け軸の裏側からというのも不自然だと思った。蔵の中に掛け軸を保管する際には共箱に入れられているのが普通であり、いくらなんでも壁掛けにはされていないはずである。
 さて柳田国男にいわせれば、日本の妖怪とは仏教の伝来とともに本来精霊であったものが「化け物」の地位におとしめられたものだという。それはともかく、絶対神たる一神教の「神」とは違い、日本の神々あるいは精霊たちは人間のすぐそばにいて、人にいたずらしたり、一緒に遊んだり、ときはだまされたりする存在であるという。ここに登場したのもみな愛嬌に充ちた精霊たちであった。
 そのような精霊たちを、けっこう意地悪そうなおひなさまや間抜けな鬼、親身な納戸婆と1年生ながらしっかり二人で演じわけていた。兄妹は2年生と1年生のコンビで、二人とも力があると思ったが、兄役の2年生がさすがの演技だった。今は不在らしい両親の存在がほの見えて来て、家族というサイドストーリーが立ち上がって来そうだったのだが、脚本がそこまで書き込まれていないのか、中途半端に終わってしまったのは残念だった。

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新座高校『トシドンの放課後』作・上田三和

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 『トシドンの放課後』については以前に論じたことがあるので同じことは繰り返さない(「2014秋の高校演劇を振り返って~『トシドンの放課後』と『ホットチョコレート』」2014.10)。
 ただ、よく出来た台本は素直に演じればそれだけで伝わって来るものがあるというのは本当だとして、やはり心の奥に触れてくるときとそうでないときがあり、今回の『トシドン』は後者であったということだけはいっておきたい。
 それは第一にはあかねの造形である。ありふれた言い方だが、あかねは本当はいい子なのである。離島からの進学であること、成績が振るわないこと、そのため将来に希望が持てないこと、最近になって父親を亡くしたことなどか相乗して、心の荒れと飢餓感に苦しんでいるのである。いい子すぎても、悪い子すぎても、あかねの人物造形としては失敗なのである。
 クライマックス近くなって、強が進級できなかったことを知ったあかねが校長室に怒鳴り込もうとし、あかねの暴発を心配した強が必死に止めるというシーンがある。ここにあかねの本質があり、あかねと強との人間関係が集約的に表現されているのである。今回、あかね役を演じた3年生はその役づくりに成功していた。
 強が女子による男役なのがどうかな、と思っていたが、眼に力があり、周囲と調子を合わせられずに不登校状態に置かれつつも、人間に対する深い洞察力を身につけた強という役を演じきった。
 『トシドン』をやるとつい先生役が弱くなりがちである。先生役も1年生とは思えない出来栄えだった。3人の中で一番年下であるはずなのに、きちんと大人の女性に見えた。パンフによると中学校でも演劇部に所属していたらしい。難をいえば、少し堂々とし過ぎていたといえるかも知れない。この先生は初めて担任を受け持ち、あかねに右往左往させられている。その感じがもっと冒頭で出ているとよかったと思ったし、それでもあかねを正面から受けとめようとし、裸の自分をぶつけようとしたから、「私だって楽して教師になったんじゃない」ということばも、押しつけとは違う説得力を持ってあかねを揺さぶるのだと思った。(このところは私にも新しい発見だった。)
 強もまた先生役の生徒も発声がしっかりしていた。まずは科白をきちんと客席に届けることが大切で、その積み重ねによって客の心は動いていくのである。

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川越高校『お言葉ですが、東条英機閣下』作・阿部哲也

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 作者である阿部さんは見せかけの権威や美辞麗句で飾られた大義に対し、「くそ喰らえ!」と言ってみせる反骨心の持ち主なのではないだろうか? 2014年の中央発表会で創作脚本賞を受賞した『いてふノ精蟲』でも植物学者平瀬作五郎から発せられたし、翌年関東大会に進出した『最貧前線』の船長もそれらしいことを口にしている。
 聞けば鴻上尚史の『不死身の特攻兵』(講談社現代新書2017)に題材を得ているとのことである。だが、同書が阿部さんにこの脚本を書かせたというより、この本に接して共感するものを阿部さんが予め持ち合わせており、これをきっかけに啓発されていったという方が正しいのではないかと思っている。
 講談社ブック倶楽部から同書の内容紹介を以下に引用する。

 「太平洋戦争の末期に実施された”特別攻撃隊”。戦死を前提とする攻撃によって、若者たちが命を落としていった。/だが、陸軍第一回の特攻から計9回の出撃をし、9回生還した特攻兵がいた。その特攻兵、佐々木友次氏は、戦後の日本を生き抜き2016年2月に亡くなった。/ 鴻上尚史氏が生前の佐々木氏本人へインタビュー。/ 飛行機がただ好きだった男が、なぜ、軍では絶対である上官の命令に背き、命の尊厳を守りぬけたのか。」


 一機の飛行機を完成させるための経費を考えれば、特攻がいかに採算に合わない(人命は計算外か!)作戦であるか、その立案中にも愚策であるとの意見があったらしい。この劇中でも、「鋼鉄製の軍艦にジュラルミン製の飛行機が体当たりしても沈没させることは出来ない」という科白がある。
 合理的にはまったく成り立たない特攻作戦に向かわせたのは「精神主義」というリクツである(思想とも論理ともいいがたいのでそう言っておく)。「死を恐れない突撃精神に直面して、敵は恐怖心からパニックにおちいるに違いない」、翻ってまた「国民はその犠牲的精神に感じ入って再び敢闘精神を奮い立たせるに違いない」、という。だが、それらは「ソウデアッタライイナ」という希望的観測の域を少しも出ない、まったくの主意主義でしかなく、今風にいえば反知性主義の産物である。
 だいたい、西洋文明=物質中心主義VS日本=精神主義という構図自体が作られたイデオロギーである。ヨーロッパやアメリカには精神文化がなく、日本にだけは物質にまさる精神の優位性があるなどというのは、冷静に考えればまったくのナンセンスである。
 特攻作戦において飛行機の故障など何らかの理由によって出撃途中で帰還した飛行士は何人もいたらしい。軍神として送り出し、戦死したはずの兵士が生きていたというでは具合が悪いと、終戦まで隔離されていた人々のルポルタージュを見たことがある。また、この劇のように再度の出撃を強制された事例もあったことだろう。(阿部さんも話題にしていたが、『総員玉砕せよ!』を描いた水木しげるも似たような経験を語っている。)特攻=軍神として奉るために死ね、というのはもはや精神主義ですらなく、国民向けの情報操作でしかない。
 以前、小野寺信について書いたことがある。1940年11月、小野寺はスウェーデン公使館附武官に任命され、諜報武官としての任についていた。大戦末期、ヤルタ会談でドイツが降伏した3ヶ月後にソ連が日本との戦闘に参戦するという密約が交わされたとの情報を得た。小野寺は直ちに本国にその情報を暗号電で送った。受け取った日本政府や大本営はどうしたか? あろうことか日ソ不可侵条約を頼みに、戦争終結のための仲介を要請しようとしていた日本政府はその情報を握りつぶしてしまったのである。
 小野寺信は筋金入りの日本帝国軍人であり、反共主義者であり、愛国者だった。だが、反知性主義者ではなかった。電報を受け取った日本の戦争指導者は「自分たちに不都合な真実」を否認してしまった。
 特攻に9回出撃したという佐々木知次氏(劇中では佐々木友介)は愛国心を持たない「非国民」ではなく、臆病者でもない。亡き戦友たちへの思いを失ったこともない。ただ、偽りの「精神主義」に同調することを拒み、自らの理性と付与された生命に誠実であろうとしただけなのである。
 芝居としては、何度も出撃しては戦果をあげながら生還を果たしたことが如何に奇跡的で、周囲に驚きをもって迎えられたかがもっと強調されてもいいとは思った。しかし、部隊長をはじめとしたややオーバーなアクションに比べ、淡泊に見える佐々木の演技が、かえって沈着冷静な人柄や判断力をにじみ出させていて、効果的であったとも考え直した。いつになく舞台装置は簡素だったが、どこで見つけたのか飛行服はよく揃えたし、三八歩兵銃は自慢するに値する出来栄えであった。衣装や小道具ひとつでリアルさが段違いなのである。

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東京農業大学第三高校『バンク・バン・レッスン』作・高橋いさを

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 全部で8人の役者が舞台に上る。部員数がいつもギリギリという部活からしたら羨ましいかぎりだが、大勢のキャストをバランスよく動かし、間延びのない芝居を作り上げるのは容易ではない。『もしイタ』や『ロボむつ』を手がけてきた農大三高ならではの演目だが、それでも10日前くらいではかなり苦心している様子だった。
 さて、どのような舞台になるかと案じながら幕開けを待ったが、まったくの杞憂だった。距離感の取り方もずいぶん良くなっていたし、いち早く客をつかんでからはどんどん芝居を追い込んでいけた。統制はとれたが逆に一人一人が集団の中に埋もれてしまうということもなく、芝居の進行とともに個々のキャストが立ち上がってくるという具合だった。
 前段で、「どこまで本気で観ていい芝居なのか」と書いたが、否定的な意味では決してない。むしろ虚構の中で繰り広げられる虚構の世界であるからこそ、虚実すれすれのところをどう追究していくかが問われるような芝居なのではないか? 実際、1回目のレッスンを終えた後の行員たちの不満は「迫真性が欠ける」というところにあったのである。ただ、その迫真性を求めようとした結果があたかもテレビドラマのようであったことから、話はまたおかしな方向に進んでしまうのである。
 虚実すれすれの最たる場面は支店長の「何を隠そう、あなたは私の娘よ!」と告知するところだろう。とってつけたような、あまりに無理筋な展開であるが、娘だといわれた行員も支店長も、そして二人のやりとりを見守る他の登場人物たちにも要求されるのは本気度である。そうであって初めて観客の笑いを誘い、さらに後に別の男(タケシ)に向けての「あなたは私の息子よ!」で観客の笑いを爆発させることが出来るのである(ついでにいうと、ここは繰り返しのおもしろさなのであるから「あなたは私の息子」で十分なのであって、これに続く説明科白は省略ないしは刈り込んでしまってかまわなかったのではないかと思っている)。
 欲を言えば、もう少していねいに作り込んでくれたらなあ、とか、場面の見せ方や伏線の張り方で計算が不足していたという箇所もあった。今回はスピード重視というところだったのかも知れないが、実はそのことでパワーが減衰してしまったこともあったのではないだろうか?
 敵味方入り乱れての後、全員が倒されてしまった中で、ただ一人生き残った男(タカシ)が死体の山を見渡しながら突然哄笑し始めるという光景はかなりシュールである。作り方によっては相当のインパクトを与えられたのではないか? もちろん、そうしたあざとさを嫌うという作り方もある。だが、どこか方向性を統一できないまま、漫然と舞台に上げてしまった感が残ったのが残念だった。
 (ホリが背景だとやはり露出がむずかしかったようで、つい補正でシャドー・ハイライトを多用してしまい、画像が荒れてしまったかも知れません。ブログ用にリサイズすると余計にその傾向が強調されてしまったようです。まあ、藤橋さんならご自分で加工できるだろうとoriginalはほぼそのまま残しました。)
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坂戸高校『鬼ぃさんといっしょ』作・豊嶋了子と丸高演劇部 潤色・坂戸高校演劇部

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 キャストは総勢19名ということになるのだろうか? 農大三高を上回る人数だが、各シーンは1対1、2対1、2対2というような組み合わせで来ているから(集団は集団として登場するから)、処理はしやすかったのではないだろうか? 
 桃太郎が象徴しているのは近代日本なのではないか? そのような仮説を立ててみると一応の解釈が成り立つような気がする。してみると桃太郎が退治しようとした鬼とは近代以前の土着の神々であり、退治=否定し乗り越えたつもりがついに否定し得ず、伏流水となってときおり地表に吹き出ようとする。赤頭巾=西洋に逃げられ、完全には同化し得ないまま、桃太郎が苦悶する様子は近代と前近代に引き裂かれた日本人の心そのものである。
 色とりどりのケープをまとっているのは島の精霊たちだろうか? 嵐を呼ぶその中心で見得を切る鬼はそれら精霊たちのパワーの中心に位置している。コンビニの店員になりすまして姿を現すのも、日常の生活世界にしぶとく生き残っている生命力の証であるように思われる。
 ただ、赤い糸に象徴されるような、人々の心の所属先となってきた求心力は急速に衰えようとしている。御神木が幻となって現れたことがまさにその神秘性が失われようとしているということではないのか?
 さて、そのような解釈を試みたところで、その当否にまったく自信が持てないのは、暗喩として読み取ることが可能であると考えられた表象と、そこで発せられた科白(=言葉)とが多くの場合一致しないことがあげられる。もっと端的にいえば、なにやら思わせぶりな科白と、意味ありげな所作が繰り返されるばかりで、すじ道を見いだそうとしても前後が呼応することもなく、肩すかしを喰らわされているとしか感じられないのだ。かといって、無限にメタモルフォーゼしていく自由さとも無縁だ。
 そうなると、描こうとしているのは神々の没落なのか、それとも地下水脈となって生き残る生命力なのか、失われていくものへの愛惜なのか、復活への願望なのか、それとも私の立てた仮説のような苦悶なのか、まるでつかみ所のない、包みを解いてみたら空っぽだった、ということになってしまうのだ。
 舞台の作り出している雰囲気は私が好きな世界だった。暗喩や象徴は想像力を刺激してくれる。白一色のコンビニのカウンターも出来がよく、セットとして節度があったし、金太郎のまさかりなどの小道具も手抜きがなかった。照明もきれいだった。ただ、役者たちの演技力の支えがあったからあやういところで免れたが、ややもすると学芸会におちいらないとも限らないとも感じた。
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新座柳瀬高校『Alice!~響け、ウエディング・マーチ!編~』原作・ルイス・キャロル 作・稲葉智己

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 また芝居の完成度が一段上がったという印象を持った。細かいことだが、以前は男役の衣装が大きめで、見るからにだぶついていたなどということもあったが、今回はあつらえたようにフィットしていたし、役者たちもきちんと着こなしていた。セットはシンメトリックで美しく、飾りすぎず、必要十分という感じだった。
 それ以上に感じたのは役者たちの進歩だった。これまで脇役に回っていた生徒たちが芝居の中心を担うようになった。表情が格段によくなり、姿勢もよく、力強さが感じられた。白ウサギや料理長に特にそれを感じたが、女王は魅力的になったし、これまでにも場数を踏んできた三月ウサギは力を増し、貫禄のようなものが感じられた。やはり、全国大会まで進出した学校としての責任感とでもいうのか、後を受け継いだ者たちにも、それ相当の覚悟が育まれているのだろうと感じた。
 顧問のtomoさんによると今年は部員獲得にかなり苦心しているらしい。natsuさんのいう通り、今回の芝居ももう数人使える役者が多ければずいぶん説得力が違って来ただろう。だが、それは嘆いても仕方がない。3年生まで引っ張れるのも柳瀬の強みである。1年生が一人きりらしいが、さっそく舞台を経験したことだし、大事に育てれば伸びていくだろう。役者たちの成長を信じて、またよい芝居を見せて欲しい。
 少しだけ注文をつけると、今回は手慣れた手法でそつなくまとめてしまった、という印象を持った。春の発表会が流れた後、新入生をまじえながら急ごしらえで完成させることを優先したという事情は察する。今後の課題でいいから、新しい柳瀬の芝居、稲葉智己の芝居を見せてもらいたい。
 あ、でももう一つだけ。山台に上らせて科白をしゃべらせる手法には異議はないのだが、出番のないときも女王が出ずっぱりというのはやはり辛いものがあったのではないか? かといって、その都度、階段を上り下りさせるのも他の役者との差別化からも望ましくない。ドンデンか何かで登退場させるなんてことは出来なかったのだろうか? まあ、いうだけなら易いものだけれど。
 《おまけ》女王の「ウエディングマーチを聞くと幸せな気持ちになる」というのは共感!メンデルスゾーンの『夏の夜の夢』からで、華やかにして壮大、人を夢心地にする。ブライダルコーラスはワーグナーの『ローエングリン』から。こちらは官能的にしてどこか悲劇的。
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星野高校『階段パフォーマンス』

 部員たちが出場に消極的だったと聞いて心配していましたが、なかなかどうしてユーモラスかつ明るい雰囲気を振りまいて楽しませてくれました。ダンスも上手でした。写真が上手く撮れなくてごめんなさい。


by yassall | 2018-07-04 16:26 | 高校演劇 | Comments(2)
Commented by とうきょう りゅう at 2018-07-06 11:25 x
劇評及び素敵な写真をありがとうございました。焼き鳥ツアーの時よりは良くなっていたようで、ホッとしました。ただ、ご指摘のとうり、ベクトルを合わせ切れなかった感は否めません。秋大に向けてもがきながらなんとかやってみます。
Commented by yassall at 2018-07-07 00:52
お疲れ様でした! 農三に伺った後、けっこう追い込んだなということはよく分かりました。自動ドアも面白かったです。ホリと明るい黄色のパネルの前なので、どうしても顔が暗くなりました。シャドーを引き上げてみましたが、舞台の雰囲気を再現できなかったのは申し訳ないと思っています。
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