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『マルクス・エンゲルス』ラウル・ペック監督作品2018

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 原題は『THE YOUNG KARL MARX』である。マルクス生誕200年を記念して制作された。1842年の『ライン新聞』時代から1848年の『共産党宣言』執筆までを描いている。この時期にマルクスはエンゲルスと出会い、思想的に影響しあい、行動を共にするようになる。映画の中でもエンゲルスがリカードやA.スミスの経済学の勉強をすすめるシーンがあり、酔って二人で夜の街をうろつき回っているうちに、突然マルクスが有名な『フォイエルバッハに関するテーゼ』の第11「哲学者たちは、世界を様々に解釈してきただけである。肝心なのは、それを変革することである。」を思いつくシーンがある。マルクスが共産主義者としての立脚点を得る上で、エンゲルスとの出会いと共同は不可欠だった。青年マルクスに焦点を絞ったのもそこにねらいがあったのだろうから、邦題が不適切とは言えない。
 『ライン新聞』の主筆となったマルクスは「木材窃盗取締法に関する討論」を発表する。映画は森の中で枯れ枝を拾い、薪とすることで貧しい糧を得ようとする人々の群れに騎馬警官が襲いかかり、激しく殴打するという場面ではじまる。
 この印象的なプロローグを見ながら、マルクスの出発点となったとされる「木材窃盗取締法に関する討論」の意義について考えていた。
 ミレーの『落穂拾い』は収穫の際にこぼれ落ちた穂は貧しい人たちのものとしてよいという慣習から生まれたという。それと同様の慣習が森の民の間にも存在していたのだろう。さらに遡れば森が村落共同体の共有地であった時代もあったはずである。「木材窃盗取締法」は中世的世界が崩壊し、時代が近代へと移行しつつあったことを象徴しているのではないか? ライン州議会が枯れ枝を拾うことを窃盗であるとした背景には、私有財産制の浸透があったと考えたのだ。1840年代にはプロシアでも資本主義が興ってくる。貧困と格差が拡大する時代がやって来たのだった。
 マルクスはヘーゲル左派の哲学者として始まった。ヘーゲルにとって自由は社会の構成員全員のものでなければならず、自由の相互承認による「市民社会」の価値を認める。しかし、その「市民社会」は自由な欲望の追求(経済の自由競争)と「人倫」(共同的な道徳や秩序)との間に新たな矛盾を生み出す。ヘーゲルはその矛盾を止揚(アウフヘーベン)するものは「国家」であると考えたのである。
 ヘーゲルもまたドイツの近代化を真摯に模索したのであり、単純に国権を人権に優先させてしまおうとする国家主義(「国体」論!)と同一視してはならない。だが、ヘーゲルが「理性」の具現化とした国家が実際にどのように働いたか、といえば、その「秩序」維持のための実力組織=警官の騎馬や棍棒やサーベルは森の中で枯れ枝を拾う貧民の頭上に振るわれ、有産者階級の利益を肩代わりする暴力装置でしかなかった。マルクスは「木材窃盗取締法」と向き合うことでヘーゲルから抜け出たのだと思ったのだ。
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 映画はフランス・ドイツ・ベルギー合作作品だという。『ライン新聞』が休刊に追い込まれた後、マルクスは活動拠点をパリに移す。そのパリも追放され、ブリュッセルに移住する(『共産党宣言』執筆の後、ベルギーも追放される)。その間、『神聖家族』や『ドイツ・イデオロギー』を共同執筆し、それぞれエンゲルスは『イギリスにおける労働者階級の状態』、マルクスは『哲学の貧困』を書いた。
 行動面でも「共産主義通信委員会」を創設し、二人で「正義者同盟」(義人同盟)に加入する。「正義者同盟」は第1回大会で「共産主義者同盟」と改称する。映画ではエンゲルスが激論をたたかわせながら、「万人は兄弟である」というスローガンを破棄し、「万国の労働者よ、団結せよ!」に変更させる場面が活写されている。そして「共産主義者同盟」から二人に依頼されたのが「理論的であると同時に実践的な党綱領」=『共産党宣言』であった。
 マルクスとエンゲルスは理論の追究にこだわり、同時代において実績や影響力のある社会運動家との論争も辞さなかった。それは、「われわれは空理空論をふりかざして世界に立ち向かうのではない。…現に世界を動かしている諸原理のなかから、新しい諸原理を発展」(『独仏年誌』)させるためであり、「理論もそれを大衆が掴むやいなや物質的な力となる」(『ヘーゲル法哲学批判』)ことを確信していたからだ。どうしても伝記を追っていくことになり、マルクスにおける理論的発展がどのようになされたか、その内面までもが描き切れているとはいえない。しかし、空想的あるいは主意的な運動の段階からの離脱をめざしていたことは、映画中での論争の端々からも十分に伝わってくる。
 ボブ・ディランの「Like A Rolling Stone」が流されて映画がラストを迎えることも評判になった。これは映画に描かれた後の時代のことになるが、1848年のフランス二月革命、ドイツ三月革命の挫折をへて、マルクス・エンゲルスは『共産党宣言』の革命理論を見直し、さらに深めていく。しかし、「ブルジョワジーは、世界市場の開発をつうじて、あらゆる国々の生産と消費を全世界的なものにした」というような今日のグローバル化世界の到来を予見したかのような一節と出会うと、その生命力は今もなお失われてはいないと思ってしまうのだ。
  ※
 つい固い感想になってしまった。原題のとおり、映画は若きマルクスとエンゲルスの青春物語として観ることも可能である。マルクスとイェニーの夫婦生活が描かれるが、エンゲルスの恋人メアリー・バーンズも登場する。もともとアイルランド系の女工で、ともに革命運動にたずさわるという描かれ方をする。また、後にエンゲルスと結婚することになるその妹のリィデアも最初から登場している。そのあたりのことは知識になかったので興味深かった。
 岩波ホールまで出かけたのは22日。三田線神保町を降りてすぐだから造作もない。もう何十年も映画館で映画を観ていない、とつい先日書いたばかりなのだが、別段宗旨替えしたというわけでもない。


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by yassall | 2018-05-24 01:27 | 日誌 | Comments(0)
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