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済州島4.3抗争70周年記念講演とコンサートの集い 眠らざる南の島

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 4月21日、「済州島4.3抗争70周年記念講演とコンサートの集い 眠らざる南の島」が北とぴあ(王子)で開催された。誘ってくれたのは1月の映画『告白』で紹介した旧救援会のメンバーのCさんである。金石範氏の講演があるというので興味はひかれたが『火山島』を読んだわけでもなく、立山黒部アルペンルートの旅の翌日でもあり、最初は保留にしていた。ただ、Cさんは翌日も都内で用事があり、その日は池袋に泊まる予定だという。それでは夕食ぐらいつきあわねばなるまいというので行くことにした。
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 17:30からの日程で、内容は盛りだくさんだった。オープニングには千恵LeeSadayamaさんによる「常緑樹」の独唱、参加者全員による黙祷のあと、金英蘭舞踏研究所と宋栄淑による追悼の舞が上演された。金石範氏と文京洙氏による対談はそれらの開会行事のあと第1部として開かれた。対談といっても金石範(キム・ソクボム)氏が高齢のため耳がやや不自由になっているとの理由から文京洙(ムン・ギョンス、立命館大特任教授)氏と交代で発言するという形式をとった。
 金石範という名前だけは知っていたものの、どのような人物なのかはまったく未知であった。書いたものだけで想像するに峻厳というイメージがあったが、話しぶりは融通無碍とでもいうのか、ユーモアもまじえて会場からの笑いも誘うというようであった。短い時間であったのが残念だったが、済州島(チェジュド)事件を過去の歴史として埋もれさせてはならない、そのために92年の生涯を費やしてきた、文在寅大統領の登場によって名誉回復への希望がひらけた、といった思いは伝わってきた。
 また、近々に開かれる南北首脳会談とこれに続く金正恩・トランプ会談に対する期待がいかに高いかが2人の発言から伝わって来た。日本では一部に冷ややかな見方が存在するが、まだまだよそ事である証拠だろう。
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 第2部は韓国のシンガーソングライターであるアン・チファンによるライブコンサートであった。集会としては文化的な催しの方に重点を置いたらしく、約1時間半をコンサートに当てていた。会場入りして、ずいぶん若い人が多いなと感じていたが、在日の人に限らず日本人にも人気があるらしく、さくらホール収容人数1300人の座席はほぼ満員であった。アン・チファン氏も歌声で応えていた。
 トークでは「日本と韓国には共通点がある。それは両方とも島国であることだ。」と謎かけをしたのが印象的だった。38度線で分断され、自由に行き来ができない現状を「島国」に例えたのだった。「いつか自動車で北朝鮮へ、さらに中国へと旅するのが私の夢」と語るチファン氏に会場から熱い共感がよせられた。
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今年4月3日、韓国では「済州島4.3事件」追悼式典が開催され、文在寅大統領が「国家暴力によるあらゆる苦痛に対し、大統領として深く謝罪する」と表明したと新聞に載っていた。金大中政権時代に「済州4.3特別法」が施行(2000)され、盧武鉉の時代に大統領として初めて謝罪を表明(2006)した。紆余曲折をへながらだが、文大統領は事件の真相解明と犠牲者の名誉回復が「中断したり後退したりすることはないだろう」と述べたという。
 「済州島4.3事件」は1948年4月3日、南北に分断された朝鮮半島の南部だけで総選挙を実施するという国連案に、分断を固定化するものだとして南朝鮮労働党の済州党組織が武装蜂起したことがきっかけだとされる。鎮圧のために軍・警察に右翼団体が加わり、多くの住民が無差別に殺害された。その数はおよそ3万人とされ、第二次世界大戦後に引き起こされた最初の大虐殺といわれる。
 しかし、事件の前段では同じ年の3月に南北統一をとなえるデモに警察が発砲し6人の死者が出るという出来事があり、これに憤激して展開された全島ゼネストに対し南朝鮮政府とアメリカが暴力で圧力をかけるという経過があった。右翼団体とあったが、その本体は北朝鮮の共産主義化に反発して南に渡ってきた西北青年団であり、これを済州島に渡らせたのはアメリカであったともいう。
 無差別殺害は49年にいったん収まったが朝鮮戦争の勃発によって再燃し、130余の村が焼かれ、「予備検束」されるままに拷問を受け、集団虐殺されるといった事態が54年まで続いた。その当時、済州島の人口は28万人程度だったとされる。殺戮を逃れ、島を去った住民も多数あり、最終的な終焉をむかえた1957年の島の人口は3万人弱であったという。
 連合軍は「西大西洋憲章」で「民族独立」をうたった。「西大西洋憲章」のアジアへの適用を訴えたのは蒋介石であったという。しかし、第2時世界大戦の戦後処理にあたって米ソは朝鮮の独立をみとめず、当分のあいだ保護国とすると定めた。解放直後から済州島には強力な人民委員会が存在し、朝鮮の独立と統一を訴えていた。おそらくは、そのような組織と運動は大戦中を通じて各地に作られていたと思われる。南北分断を固定化し、アジアに戦略的な拠点を置こうとする大国にとって、それらの組織と運動は排除されなければならないということではなかったのか、それが「4.3虐殺」の遠因ではなかったかと私は考えている。とすれば、そもそも38度線による分断の原因を作り出した日本の責任も大きい。
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 会場には「済州4.3平和財団」「済州4.3犠牲者遺族会」の人々など、大勢の方たちが韓国から来日していた。「済州島4.3事件」は1980年の「光州事件」とならぶ韓国現代史の暗部である。たとえ「不都合な事実」であっても、歴史の忘却、隠蔽、修正を許すまい、そのための痛みに耐えようという人々の勇気に見倣うべきものがあると思った。
 
 

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by yassall | 2018-04-25 16:45 | 日誌 | Comments(0)
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