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懐かしの怪奇スターたち番外編 『The Son of Kong』

 ユニバーサルが『魔人ドラキュラ』や『フランケンシュタイン』を公開した1931年はエンパイア・ステート・ビルが竣工した年である。そのエンパイア・ステート・ビルによじ登ったのがキング・コングだ。映画『キング・コング』が公開されたのは1933年である。
 このように書き始めると、ああまた「文明対自然」とでもいう図式と結びつけたいのだろうと思われるかも知れない。
 今回はそうではない。『キング・コング』も子どものときに見て忘れられない映画であるが、ニューヨークに連れてこられてからのコングはかわいそうなだけであまり好きではない。アメリカ人にとってはニューヨークというこちら側の世界にコングが出現し、通勤列車を脱線させ、乗客たちをパニックに陥れるといったシーンに迫真を感じたのだろう。だが、そのニューヨークでさえあちら側の世界である立場からすると、飛行機から機銃掃射を受け、ふと自分の身体から流れている血を指ですくい取り、不思議そうに眺めるコングには哀れを感じたものだった。
 私はむしろ絶海の孤島の、さらに高い城壁(島の原住民は未開の民であるようだったので、その石壁や大扉はどのように作られたのか子ども心に不思議だった)で仕切られた向こう側に、絶滅したはずの恐竜たちが生息する異界が存在しているという設定に引きつけられたのだった。
 映画監督のデナムは女優として使おうと港でアンをを拾い上げ、エングルホーン船長の船に乗ってニューヨークを出航する。最初、行き先が明かされないまま航海が続くが、ある地点まで来るとデナムはやっと一枚の地図をひろげる。それは髑髏島の位置をしめす海図であった。
 あの海図が欲しい! と何度思ったことか。それは私を異界へと誘ってくれる魔法の地図であると思われたのだ。アンを演じたフェイ・レイも子ども心に魅力的だと思った。コングならずとも、またアンを救うべくエンパイア・ステート・ビルの屋上にまで追っていく元船員のジャックならずとも、アンに惚れてしまうのも不思議でないように思えた。
 髑髏島の地図にしてもフェイ・レイにしても、子どもを日常から離脱させるには十分だったのである。『キング・コング』は、古くはジュール・ベヌルの『地底旅行』(1864)やコナン・ドイルの『失われた世界』(1912)から、近年の『ジェラッシク・パーク』にいたる系譜にある。子どもたちが恐竜好きなのは、それがこの世界とは違う、まだ見ぬ世界に旅出させてくれるからである。
 あとのストーリーは周知のことであろうから省略するが、のちにDVDになってから視聴したところ、とくに大扉を打ち破って出現してからのコングが記憶以上に残虐だったことだけ書いておきたい。確かコングが進んでいく先に座り込んで泣き叫んでいる子どもがいて、脇から飛び出してきた大人に助け出されるシーンがあり、原住民たちの生命は奪われなかったと思い込んでいたのだが、そうではなかった。TVで放映されたときは小さい子どもが見ていることを想定して、そうした残虐シーンはカットされていたのだろう。子どもの時に見ていたら、あるいはトラウマとして残ったかも知れないと思った。(コングはきっと子どもには悲劇の英雄だったのだ。)
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 さて、今回書こうと思っているのは『キング・コング』のことではなく、その続編として制作された『The Son of Kong』(1933)のことなのである。後述するように作品自体がB級・C級であるから、見たことのない人、あるいは記憶にない人もいるだろうということで、簡単なあらすじを紹介する。
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 前作から1カ月後、損害賠償を求められ窮地に陥っていたデンハムは逃げ隠れする生活を送っていた。そんな中、同じように船を差し押さえられ困窮していたエングルホーン船長はデンハムを誘い、東南アジアへ交易の旅に出る。なかなか成果を挙げられずにいた二人はとある港町で、かつて髑髏島の地図を譲ってもらったヘルストロームに出会う。ヘルストロームから「髑髏島には原住民の宝が隠されている」と聞いた二人は再び髑髏島に向かうことを決意する。
 新しいヒロインであるヒルダは自らの境遇から逃れようと船の中に潜んでいた娘である。
 髑髏島に上陸したデンハムはヘルストロームの裏切りに会い、ヒルダと行動を共にするうちに、沼に落ちていたキングコングの息子と出会う。デンハムたちは倒木を渡してコングを助ける。するとコングの息子はすっかり二人に懐いてしまい、陰に日向に二人を助けようとする。
 翌日、デンハムはコングの助けを借りて原住民の宝を発見する。そこに恐竜が現れ、デンハムとヒルダに襲いかかるが、コングによって撃退される。デンハムはエングルホーンたちと合流するが、その直後に大地震が発生し、髑髏島が海に沈み始める。宝を取るために残ったデンハムは脱出し損ない、島の頂上に逃げる。コングが現れ、デンハムを手の平に乗せて高く差し上げ、島が完全に海中に没するまで腕を上げ続ける。あわやのところでエングルホーンが漕ぎ寄せたボートに乗り込み、数日後に救助されるが、取り残されたコングは髑髏島とともに海に沈んだ。
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 本作の公開は前作と同じ年で、それだけでも急ごしらえであったことが知れる。前作『キングコング』の大ヒットを受けて急遽、制作が決まったという。もともと二番煎じをねらった作品である上に、低予算で撮影スケジュールも短期間であげなければならなかったそうだ。そこで、引き続いて脚本を担当したラス・ローズは本作にはまったく乗り気でなかったらしい。(最後に髑髏島が海中に沈んでしまうのも、そうすることで三番煎じはなしという先手を打ったのではないかとさえ思った。)
 そのような事情であるから、いたるところで手抜きがはなはだしく、登場する恐竜の数も少なく、しかも恐竜ではなく大熊でお茶を濁してしまうというありさまで、「ロスト・ワールド」としての世界観もぶちこわしなのである。
 それでも懐かしさを感じてしまうのは、グレーがかった毛並みのコング息子のかわいらしさと、アンに執着するあまりに命を落とすことになったコング父の凶暴さが弱まり、無償の愛とでもいうべき自己犠牲の精神に感じ入るところが大きいからであろう。
 原題は『The Son of Kong』で、「キング・コング・Jr」と題名がつけられたこともあったような記憶があるのだが、日本での公開名は『コングの復讐』である。あまりにも内容とかけ離れているので、何かの機会があるときには変更されることを期待したい。
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 以上で懐かしの怪奇スターたちのシリーズを終える。
 クローンやips細胞の時代ならずとも、ホルマリン漬けの脳みそを嵌め込み、電気を通せば(映画の中では紫外線というようなことばもあるが)生命がよみがえるなどというのは子どもにも通用する話ではない。『ドラキュラ』では急速に血液を失ったルーシーに輸血をほどこすシーンがあるが、血液型はどうなっているんだという疑問は小学生だって抱くところだ。
 だが、それではリアルさを求めれば優れた映画になるかといえば、それは違うと思うのである。単なるモンスター映画、単なるゾンビ映画とは違う、というようなことを書いた。刺激の強さだけを求め、子どもが見たら心の傷を残してしまうような映画ではなく、長く記憶の中にとどまり、心の一部として共存しうるような映画、懐かしの怪奇映画とは私にとってそのような存在であったのだ。


by yassall | 2018-04-14 00:30 | 雑感 | Comments(0)
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