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狼男

 ユニバーサル・スタジオが『狼男』を公開したのは1941年のことである。 狼男のメイクにあたったのはやはりジャック・ピアースなのだろう。だが、居並ぶモンスターたちの中では一番不出来だったのではないだろうか? 
 それはピアースのせいとはいえないだろう。フランケンシュタインの怪物もドラキュラも人外の存在であることは間違いない。しかし、フランケンシュタインの怪物は人間の死体を寄せ集めて作られたのだし、ドラキュラも前回の説が正しければ不死を呪われた死者であり、それぞれ人間の姿かたちをしていて不思議ではない(ドラキュラはオオカミになったり、コウモリに変身したりもするようだが)。
 この二者と比較して狼と人間とでは体型の違いが大きすぎる。少なくとも人間の身体をベースにして狼らしさを造形していくのは容易ではない。しかし、俳優としての演技が求められる限り、人間をベースにしていくしかないのである。
 実際、映画でいくら顔に毛を生えさせても、ただ毛むくじゃらの男としか見えず、鼻の頭を黒く塗ったりしてもかえって滑稽なだけである。手足にも毛を生えさせているが丸裸にするわけにはいかなかったのだろう、茶色とおぼしきシャツとズボンを着用させているのも手抜き感がいなめない。
 公開日は12月12日で、アメリカはすでに日本との戦争に突入し、11日にはドイツ・イタリアとも戦争状態に入った。12月以前から戦争は予想されていたのだろう。戦時下にもかかわらず映画はヒットしたということだが、やはり制作段階から予算不足があったのではないかと勘ぐってしまう。
 狼男を演じたロン・チェイニー・Jrも少し太りすぎではないかと最初は思った。(今はおのれの不運と立ち向かうにはこれくらい逞しくなければならなったのかも知れない、とも思う。また、着衣の狼男も半獣半人ということであれば、このような造形もあるかも知れないと思う。)
  ※
 と、のっけから否定で入ってしまったが、懐かしの怪奇スターたちといったとき、他のモンスターにもまして私の心の奥の方に狼男は生き続けているのである。それがどのくらいかというと、ローレンス・タルボットという主人公の名前は即座に思い出せるし、狼男が倒された直後に荷馬車に乗って現れるジプシーの老母の映像が、ふとしたときに脳裏によぎるといった具合なのである。
 それはこの映画の持つ物語性(※)、さらに踏み込んでいえば悲劇性だろうと思う。ヨーロッパに広く流布した人狼伝説がベースにはあるのだろうが、特定の原作はなく、ストーリーは映画のオリジナルである(脚本はカート・シオドマク)。以下はそのあらすじである。
(※物語性などと言い出すと、大げさに過ぎないかとの批判はもちろんあるだろう。70分の上映時間に合わせた程度の内容には違いないが、逆に原作物のようにあらすじをつまみ食いしたようなところはなく、それなりに完結したドラマになっていると思うのである。そうすると、この映画がそもそも恐怖映画として作られているのかどうかさえ疑わしく思われてくる。メイクについては先述したとおりだし、狼男が人を襲うシーンも樹木の向こう側に隠されて表現されるのである。)
  ※
 タルボット家はウェールズの名門である。ローレンス(愛称はラリー)はその次男であるため家を出ていたが長男の急死により父ジョンの跡継ぎのため故郷にもどってきた。ラリーは父が天体観測のために購入した望遠鏡で町を眺めていたとき、骨董屋の娘グエンに一目惚れしてしまう。後に狼男を倒すための唯一の武器となる銀の飾りのついたステッキはラリーが骨董屋をたずねたときに購入したものである。つまり、その登場の時点ではラリーは次男特有の気楽さをそなえた、明るくも軽い男だったということになる。ただ、節度はかねそなえていて、グエンに婚約者フランクがいるのを知ると無理強いはしていない。
 グエンと出会った日、ジプシーの一隊が町をおとずれ、町外れの森で縁日をひらくという。その夜、ラリーはグエンとその友人のジェニーとでジプシーの祭りに出かける。占い師ベラのテントで占いを受けている間に、ラリーはグエンを誘って散歩に出てしまう。実はベラは狼男の呪いを受けていて、占いの最中にジェニーの手のひらに次の犠牲者となる五芒星の印を発見し、ジェニーを帰してしまう。だがすでに時遅く、気味を悪がって森に迷い込んだジェニーは狼となったベラに襲われてしまう。ジェニーの悲鳴を聞いたラリーは助けに向かい、銀のステッキで狼男を倒すが、自らも狼にかまれてしまう。あとで警察が捜索に入るとジェニーと人間にもどったベラの死体があるばかりで狼のすがたはない。ラリーの傷もなくなっているという不思議が起こる。
 その後、ラリーはベラの母親であるマレーバと出会う。マレーバはラリーも狼男となることを予言し、銀の弾丸かステッキでしか殺せないことを伝え、魔除けのペンダントをわたす。ジプシー一行はその日のうちに町を去ってしまう。最初は半信半疑だったラリーはやがて狼男として殺人を犯すこととなり、それが真実だったことを知る。ラリーはペンダントをグエンに渡し、町を出ようとするが父親に止められる。
 森で狼狩りが行われた夜、悲劇の終末がやって来る。父に屋敷に閉じ込められていたラリーは狼男に変身し、やすやすと屋敷を抜け出す。彼の身を案じてやってきたグエンと森の中で遭遇し、襲いかかってしまう。そこへ父ジョンが現れ、銀のステッキで狼男を倒す。ステッキはラリーがジョンに持たせたものだった。
 荷馬車に乗ったマレーバが現れ、呪文をかけるとラリーは人間の姿にもどり、安息の表情になる。ジョンとグエンは愕然とするが、ラリーはグエンを助けようとして死んだ、という話になる。
  ※
 もとをただせばジェニー一人をおいて占い師のテントから離れてしまったことに遠因があるとはいえ、狼に襲われたジェニーを助けようとしてラリーは自らも狼男となる不運を背負ってしまう。不運とはしばしばこのようなアイロニーから始まるものなのかも知れない。
 不運は誰も肩代わり出来ず、自分一人で引き受けていくしかない。苦悩と絶望が襲いかかり、逃れるすべはない。ラリーの場合にはさらに名門としての名誉が重荷として彼を苦しめる。脱出口はおのれの破滅にしかない。
 しかし、人が悲劇に引きつけられるのは、そのような不運に襲われる可能性は誰の身の上にもあり、不運に立ち向かう姿には人間の尊厳が見いだされるからではないだろうか? 自らの運命から逃れられないと知ったラリーはグエンの身を案じ、父ジョンの身を案じ、愛する人々を守るために自分をそれらの人々から遠ざけようとするのである。
 フランケンシュタインにせよ、ドラキュラにせよ、そして狼男にせよ、そこに悲劇が見いだされない限り、単なるモンスター映画あるいはゾンビ映画になってしまう。そして残念なことに、映画がヒットして続編が作られるたびにそうした傾向が強まるように思われるのである。
 幼少期に見たこれらの映画がいつまでも心の底に残っている理由は、こうした悲劇性にあると今なら確かにいえる。悲劇には人間の真実の一断面があるのである。幼き日、私はこれらの映画を通してそのことを予感したのである。
  ※
 悲劇性と並ぶもう一つの理由は異界への誘いということではないだろうか? 『狼男』の場合に物語上でも、映像上でも、重要な要素となるのは森である。濃霧につつまれた森はまるで薄墨で描かれた墨絵のようであり、モノクロならではの映像美なのである。
 そもそもヨーロッパは森の国であった。『マクベス』をみてもイギリスでも事情は変わるまい。ヨーロッパから森が失われていったのは産業革命で大量の燃料が求められたからである。
 そして山や森はヨーロッパの人々にとっては長く恐怖の対象だった。『ヘンゼルとグレーテル』は貧しく、食べるものもなくなった親が幼い兄妹を森に捨てる話である。『赤ずきん』も森の中でオオカミに襲われる。山はまさに『魔の山』なのである。
 人間は異界を恐れ、また異界を身近に感じることによって、人知を超えた存在のあることを知るのである。それを迷妄として遠ざけるのはたやすい。しかし、異界を通して人間が謙虚さを得たり、日常を相対化する可能性を広げられるのもまた確かなのである。
  ※
 最後にもう一つ。繰り返しになるが、狼男となったラリーを滅ぼしたのは父ジョンである。そのことは長く記憶になかった。だが、次男という立場から一度は家を離れながら家名を嗣ぐためという理由から呼び戻されたという経緯を振り返ると、そこには父と子の相克といったテーマが隠されているのではないかという推理が働くのである。あるいは、ラリーは父の愛情に飢えていたのではないか、といった。

(次回、番外編があります。)

[後注]
 風間賢二『ホラー小説大全』(1997)によると人狼(WEREWOLF)と狼男(WOLFMAN)には明確な違いがあり、前者が古来からの民間伝承に由来し四足獣としてのオオカミに完全に変身してしまう存在であり、後者はユニバーサルによって作り出された二本足で歩行するオオカミのような怪物に変身する男であるという。そうすると、本文では語の使用法を取り違えたことになる。なお、同書で知ったことだが『狼男』の脚本家カート・シオドマク(1902-2000)はSF作家・脚本家として名高いそうだ。『狼男』はその出世作とのことだ。


by yassall | 2018-04-12 15:33 | 雑感 | Comments(0)
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