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懐かしの怪奇スターたち前口上 そして『眼には眼を』のこと

(今回は前口上です。本題は次回からですので、駄弁は無用ということでしたらスルーして下さい。)

 フランケンシュタイン、ドラキュラ、狼男といえば怪奇映画の三大モンスターである。以前から「懐かしの怪奇スターたち」と題して彼らについて書きたいと思ってきた。なかなか準備が十分でないのだが、このままだと書かずじまいになりそうなので書くことにした。
 前二作にはそれぞれメアリー・シェリー(1797 1851)の『フランケンシュタイン』(1818)およびブラム・ストーカー(1847 1912)の『ドラキュラ』(1897)という原作が存在する。これらの原作については参照することもあるかも知れないが、書きたいのはあくまで映画についてである。
 『フランケンシュタイン』は早くもサイレント時代の1910年にエジソン社によって映画化されている。16分ほどの小品で、燃え落ちる人形を撮影して逆回しさせ、坩堝の中で骨格に肉がつき、動き出すまでを映し出す、というような技法を用いたらしい。内容的にも技術的にも初歩的なものであったことが伺われるが、ともかくも映画の娯楽化とともに怪奇映画というジャンルも生まれていた証だろう。
 だが、何といっても三大スターを決定づけたのはユニバーサル・スタジオが怪奇映画の制作に乗り出してからだろう。トーキーの時代に入って、今度は先に『魔人ドラキュラ』(1931)が作られ、これがヒットすると『フランケンシュタイン』(1931)、『ジギル博士とハイド氏』(1931)、『ミイラ再生』(1932)などが立て続けに公開された。『狼男』はやや遅れて1941年の公開である。そして前二者については黒マントに身を包んだドラキュラ、頭頂が真っ平らなフランケンシュタインという強烈なイメージがこの時期のユニバーサルによって決定づけられた。
 もちろん、これらの映画を私は映画館で見たわけではない。小・中学生時代にTVで見た。長らくそれ切りであった。多くはモノクロ映画であるから、やがてTVでのリバイバル放映もなくなった。だが、幼少期の記憶というのは心の奥の方にいつまでも残っているものらしく、ふとした折に断片的な映像が頭の中に甦ってくることがある。恐怖体験としてではない。むしろどこか哀愁をおびた懐かしさをともなっているのである。
 さて順番であるが、最初に『フランケンシュタイン』について書こうと思う。なぜこれらの映画が私の心の奥底に残り続けているのか、その理由を明らかにできるように思うからだ。つぎに『ドラキュラ』であるが、これについては少々戸惑いがある。また改めて書くが、私の『ドラキュラ』体験はユニバーサルではなくハマーである。ただ、DVDを入手して見返してみると、幼いときの記憶とどうも異なることが多いのである。その点にも触れながら書いてみたい。しめくくりは『狼男』とする。
 以上が前口上なのだが、もう少し駄弁を続ける。映画と私、というようなことを振り返っておこうと思うのだ。
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 浪人時代には予備校に通うはずがそのまま映画館に直行してしまうなどということがあった(もちろん年中というわけではなかったが)。大学に入学してからは池袋文芸座によく寄り道した。黒木和雄の『とべない沈黙』なんかは上映期間中に複数回見たような気がする。加賀まりこが少女役だった。後に蜷川幸雄も出演していたことを知ったが、どの役だったかは記憶にない。
 それがいつしか映画館からは足が遠のくようになった。ワイダの抵抗三部作は見ておきたかったからポーランド映画祭のような催しがあれば出かけていったが、ワイダを映画館で見たのは「大理石の男」までで、「鉄の男」はTVで放映されてからではなかったか。
 一本の映画を見るには相当のエネルギーを必要とする。つまりはそのエネルギーが乏しくなってきたということなのだろうと思っている。また映画館という場所をあまり好まなくなった、というのも理由のひとつだろう。演劇の場合は舞台と客席とが呼応しあうということが確かにあるが、映画館では他の客といっしょに映画をみるということに必然性がないような気がするのだ。(昔、高倉健の任侠映画の途中でかけ声がかかったなどという話もあることはある。ベクトルは違うかも知れないが「男はつらいよ」シリーズを愛した観客にも共感の広がりがあったようにも思う。)
 そして映画好きの人からは邪道だといわれそうだが、TVやDVDで映画をみることに何の抵抗もないというのも理由になるだろう。先のエネルギーのこととかかわるが、長編の映画などDVDなら途中までみて、続きは明日にしようなどということが出来るし、それで私はまったく平気なのだ。(すべてがDVD化されるわけではないし、それでは新作が観られないだろうと言われるかも知れない。その批判は正当で、つまりは新しいものを受け入れるという点でもエネルギーが乏しくなっているのかも知れない。)
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 さて、TVが我が家にやってきたのは1959年。たぶん多くの家庭でそうだったのではないかと思うが、父がTV購入に思い切ったのは皇太子(現天皇)・美智子夫妻の結婚パレードを見るためだった。戦後史年表を見るとそのころからTVのカラー放送が始まったということになっているが、もちろん我が家で買えたのは白黒TVだった。(その直後の60年安保のデモを私は毎日TVで見ることになる。)
 その頃、小学校から帰ると毎日午後3時から放映されていたのが「奥様映画劇場」という番組だった。まだ各局とも番組制作力が乏しく、たぶん著作権切れか格安で放映権が入手できた古い映画で番組編成を埋めたのだろう。それも週の前半と後半で1本ずつ放映するのである。つまり、最長で3回同じ映画をみることになる。そして、私はその番組をよく見たのである。
 午後3時からといっても、けっして子ども向けの映画がセレクトされているわけではない。『外人部隊』(1933)も確かこの番組でみたような気がする。映画のかもし出す頽廃の雰囲気に子どもながらも酔わされた。なぜか、そばに母も妹もいたという記憶がない。
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 『眼には眼を』はたぶんそのころに見た映画の一本である。町山智浩『トラウマ映画館』(集英社2011、文庫版2013)を読んでいたらこの映画のことが取り上げられていた。監督アンドレ・カイヤット、1957年の仏伊合作映画とある。この間、酒席で話題にしたので(そのときは「歯には歯を」といってしまったかも知れない)この映画のことを書く。

 映画の舞台はフランス領時代のシリア。クルト・ユルゲンス演じる医師ヴァルテルは大手術で疲れた晩、自宅で男の訪問を受ける。車に同乗している妻が腹痛を訴えているというのだ。ヴァルテルは自宅だから手当はできない、病院へ行きなさいと治療を断る。翌朝、病院でヴァルテルは研修医から急患を救えなかったという報告を受ける。男の車は途中で故障し、6時間も歩いて病院に着いたときは手遅れだったのだ。その日からヴァルテルのもとには無言電話がかかってきたり、行く先々で青いフォードが待ち受けていたりする。
 やがて姿を現した男の名はボルタク。ヴァルテルはボルタクを追うが捕まえられない。ある日、車で追跡していくとボルタクの妻の実家のあるラヤに到着したところでガソリンが切れる。ボルタクはヴァルテルを泊める。ヴァルテルはボルタクの妻の遺族の冷たい視線にさらされる。翌朝、ガソリンを届けに来た男が山奥に病人がいることを告げる。ヴァルテルは治療に向かうが注射を拒否され、不首尾に終わる。車に戻るとタイヤが盗まれており、バスは4日後だという。ラヤの街までが200km、ボルタクは歩いて帰るという。仕組まれたと思い込んだヴァルテルは一人で歩き始めるが、岩だらけの山道に太陽が照りつける中を進むとボルタクは先回りしており、「近道を知っているから。」という。そして畳一畳ほどの板をぶら下げただけのロープウェイを示し、これに乗って谷を越えればダマスカスだという。ためらいながらも同乗すると何時間もかかって到着した終点は砂漠だった。
 ヴァルテルは計られたと感じるがもはやボルタクに頼るしかない。「街はあの山の向こうです。」「すみません、道を間違えました。今度こそ本当です。」「二時間歩けば井戸があります。」「眠るとジャッカルに食われます。」とさんざん引き回され、憔悴の局にいたったヴァルテルは、「もういい、さっさと殺してくれ。」と懇願する。ボルタクは初めて感情を見せ、「妻が死んでから私も死にたいと思ってきた。」といい、「もういいですよ、先生。行って下さい。本当の道はあっちです。」といい、満足げに目をつぶる。
 映画はそこでは終わらず、ヴァルテルは突然メスを振るってボルタクの腕を切りつけ、「今度こそ街に行って治療しないと、お前も死ぬぞ!」と脅しつける。するとボルタクは別の方角に歩き始めるが、ほどなく力尽きて倒れる。最後の言葉は「ここを真っ直ぐ行けばすぐに街です。真っ直ぐです。」だった。ボルタクを置いてヴァルテルは一人でその方角に歩き始める。
 そこでカメラはしだいにロングショットとなり、上空から俯瞰するような画面に変わっていく。映し出されるのはどこまでも続く砂漠であった。もうヴァルテルの姿は点のようになってしまい、ボルタクの高笑いだけが響き渡っている。
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 なにぶん古い映画なので記憶が薄れてしまっている人も多いのではと、少し長くあらすじを紹介した。50年以上も前に観たきりだが、一人で歩き始めたヴァルテルがふと振り返ったとき、ボルタクが「真っ直ぐです。真っ直ぐ!」と繰り返した場面、それを聞いて歩き出すしかなかったヴァルテルの複雑な表情は今でも思い出せる。
 アンドレ・カイヤットはフランスの映画監督であるが、原作を書いたヴァエ・カッチャはシリア生まれ。町山智浩の解説によるとカッチャはアルメニア人で、アルメニアは世界で初めてキリスト教を国教にしたことで知られるが、19世紀末のオスマントルコにおいてアルメニア人の大量虐殺事件が起き、難民が世界中に広がったという歴史をもつ。カッチャの両親もそうした難民の一人だったという。
 「眼には眼を」はハムラビ法典にあり、行き過ぎた刑罰や報復を規制し、法のもとに裁きを決するという罪刑法定主義の原点であるとされる。だが、キリスト教の「汝の敵を愛せよ」「右の頬を打たれたら左の頬を出せ」と比較してみれば、報復が果たされなければ済まされない鉄の掟のようなものの存在を感じもする。
 ボルタクはすでに自分の死は覚悟してヴァルテルを砂漠に連れ出したのではないのだろうか? 手当を期待するだろうとボルタクを負傷させたヴァルテルには決定的な誤算があったのではないだろうか? 
 ボルタクの妻の治療はヴァルテルの自宅では無理だったのであり、ボルタクの復讐心は理不尽であるというのは一応いえる。だが、ボルタクの心の中には統治国として君臨するフランスに対する被差別意識もあったのではないか?
 映画のラストは復讐の連鎖がいかに不毛であるかを表現しているのかも知れない。だが、幼心にも私の感情の移入先はボルタクの方にあり、その執念に対する恐れ以上に、亡き妻に対する愛情の深さを思ったのだった。

(もう一つの解釈の可能性を考えた。イスラーム世界ではということなのか、砂漠の民はということなのか忘れてしまったが、かの地では本当に困り、助けを求めている者には救いの手を差しのべてやらねばならないというルールがあるそうなのだ。乏しい食料や水であっても必ず分かち合うという。砂漠を生き延びるための知恵なのだろう。そうすると、復讐というより、その救援の手を拒んだヴァルテルに罰を与えようとした、という映画なのかも知れない。そういえばボルタクは最後に残った水筒の水をヴァルテルにすすめ、中味を疑ったヴァルテルが断ると自分で飲み干してしまうのだった。今日の文化摩擦と同じ性質の問題意識が底流に流れているとも考えられる。)


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by yassall | 2018-04-07 11:46 | 雑感 | Comments(0)
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